カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


ホームページへ
御言葉と出来事
  

2018.4.15更新
    

  あさひ教会の
  目指すところ!

     礼拝は

   今後の予定は

  御言葉と出来事

    デイサービス
 フレ
ンドシップあさひ

  教会への行き方
  (アクセス)

     牧師より

      リンク

    ご支援

      Photo

 2008年
 2009年
 2010年
 2011年
 2012年

 2013年
 2014年

 2015年
 2016年
 2017年
「行け、ガリラヤへ」          No.526
        (マルコによる福音書16章1〜8節)


                  
荒瀬正彦牧師

 

 
週の初めの日の朝早く、夜の闇を破って日が昇るとすぐ、女たちはイエスが葬られた墓に向かった。女たちは墓の入り口を塞ぐ大きな石を心配していた。それは死と生の世界を分ける動かし難い壁です。イエス様の言葉と業を押し潰し、人間が神を封印しようとした罪の石です。この石をどかせることは誰にも出来ない。生と死の場所を変えることは出来ない。

 ところが墓に来てみると「既に」石は転がされ退かされていた。そこにイエスの亡骸は無かった。空っぽの墓。誰かが先回りし石を退かしていた。しかし空っぽの墓の中に「言葉」が残されていた。言葉が響き渡っていた。「あの方は復活されてここにはおられない」。更に言葉は告げた。「弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお目に掛かれる」。イエスを裏切り否認したペトロや弟子たちを甦りの主は真っ先に招いて下さる。甦りの主の眼差しは最も遠くにいる者へと注がれます。

 ペトロがイエス様を3度も否認したことの切っ掛けは、ペトロがガリラヤ訛りで喋って、女中から「あんたガリラヤ訛りだね。あの人の仲間だね」と言われたことからであった。お国訛りは単に方言を喋るということでなく、その訛りが語られている所こそ本拠だということです。その生かされて生きる場所を彼は否定した。それは主に召され主と共に生きることを否定することであった。が、甦りのイエスはそこで待っておられると言うのです。

 主は、私たちが生きているこの場所、私たちの言葉が語られているこの場所、罪と汚れに満ちているこの生活の場所で、もう一度生き直すことを望んでおられるのです。

 私たちのガリラヤは、私たちの教会です。信仰はキリスト教の知識に始まるのではなく、生ける神・主イエスとの出会いから始まるものです。その出会いは教会の礼拝で与えられます。私たちの信仰生活は教会から始まり、教会で深められていくのです。出会いはガリラヤなる教会で起こり、礼拝の中で繰り返される信仰体験です。

 イースターの朝、天使は女たちに言いました。「行って、ペトロに告げよ」。ペトロとは私たちであり、この町の人々、私たちの隣人です。代々の教会は忠実にこの言葉に従った。今度は私たちの教会が伝える務めを担うのです。御言葉を聞いたなら人々に「既にイエス様はガリラヤであなたを待っておられます」とお伝えしなければならない。



「見ずに信じるものは幸いなり」     No.525
       (ヨハネによる福音書20章1〜10節)
      


 
「復活祭おめでとうございます。イエス様が私たちの為に死者から甦りました!」とキリスト教会は2000年語り続けてきたことは凄いことだと思います。それは、本日の聖書箇所も含めて、キリストの復活に直接出会った弟子たちの誰もが、その事実を信じられず疑いの思いを持ったことが記されているからです。彼らが信じることになったのは、復活のイエス様に出会って初めてといいますか、その事実を確認しやっとと言うことなのです。それ程この出来事は、信じがたいことであり、それを伝え続けてきたキリスト教会は凄いというか、何なのか?とさえ思ってしまいます。さてその何なのかとは、マリヤや弟子たちが、本当に復活のキリストとの出会うことなくして、今日の教会の信仰はなかったと言うことなのです。 ですから、現代の人がキリストの復活と言われても、そう容易には信じられません。

 では何故、キリスト信仰の道が開けたのか。それは突然死者が生き帰ったという話ではなく、旧約聖書の時代から面々と語り継がれてきた預言の成就だからなのです。マリヤも弟子たちも、イエス様に出会い信じただけでなく、その出来事が旧約聖書に記されていたことを知ったからなのです。神の救済の約束の成就。ここに復活を力づける根拠があるのです。それ故に、神を信じキリストに従うことは、今も昔も変わらないのです。



「子ロバに乗った王様」          No.524
      (ヨハネによる福音書12章12〜19節)
      

 
イエス様は、エルサレムに民衆の熱狂を受けて迎えられます。その民衆の姿を見て、イエス様を失脚させようとするファリサイ派の人たちは諦めたと記されます。その熱狂の理由は、前章にも記されるようにラザロの復活や様々な奇跡を伴うイエス様の力でした。しかしでは、何故そんな凄いイエス様が人々から最終的には見放されてしまうのでしょうか。それは、キリストの力のもう一つの面を見ていなかったからなのでしょう。それは、イザヤ書53章に記される苦難の僕としてのキリストの力です。神の力に満ちた主は、同時に僕として私たちの身代わりとなって十字架にかかる苦難の僕なのです。旧約の時代から預言され続けて来たキリストの受難を民衆は理解できず、不信という負の力に支配された人の罪が、キリストを十字架に付けることになったとも言えます。そのような意味では、この私たちの無理解、無知を認めて、悔い改めることが信仰と言ってもいかもしれません。

 私たちは自分では「全てはわからないがだいたいのことは分かっている」と思っているのではないでしょうか。しかし。寧(むし)ろわかっている事は僅かで、殆(ほとん)どのことが分からずにいるのかもしれません。罪の分からない者が、罪の赦しを得る出来事。それがキリストの受難の象徴であり、キリストの復活の喜びなのです。イースターおめでとうございます。毎年、復活祭が来るように明けない人生の夜はありません。明るい方向に、神の国の方向を信じてみんなで進みたいと思います。



「何を願っているのか分からない」     No.523
      (マルコによる福音書10章35〜45節)
      

 
イエス様が「わたしの受ける杯を飲めるか」と尋ねると、ヤコブとヨハネは「出来ます!」と即答するのです。でも、彼らはその杯の意味を理解していませんでした。わからなかったのです。38節でそのことをイエス様は先取りして「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と叱責されるのです。 このように、イエス様がいよいよ十字架にかかる直前でも弟子たちは分かっていなかったのですが、この無理解な弟子たちを私たち聖書の読者は批判することが出来るのでしょうか。
 最近よく思うことは、人間とは本当に他者のことがわからない存在なんだということです。分かる部分は本当に小さなところだけ。しかし私たちは、自分は全てではないが、だいたいのことは分かっていると思ってしまいます。意見が合わない時は、自分が間違っているとは思えず、相手の無理解のせいでこんな混乱を招いていると思ってしまう者なのです。それは、傲慢であるとか、悪い人間であるとかといった話ではなく、相対するものを理解する能力の人間的な限界の問題なのだと思います。そして、その人間的な限界は、極めて低いレベルにあり、自分の正しさはその低いレベルの内側にしかないことを知らなくてはならないのだと思わされています。

 さてでは、私たちは何をどうすればいいのでしょうか?。それは、いつもイエス様にそのことを聞くことだと思います。イエス様の答えは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われました。何かを分かった者となるのではなく、私たちは仕える者になるようにとキリストは語られます。信仰とは、この同じ問いの答えを何度も聞き続けることなのかもしれません。 


「人生やり直せる」           No.522
     (エフェソの信徒への手紙2章11〜22節)


               
   荒瀬正彦牧師


 多くの人が現状が思わしくないと「あの時、〜であれば」「〜であったら」とボヤクことが多い。けれども人生はやり直しがきかない。過ぎ去った日は戻ってこない。ところが聖書は「やり直しが出来る」と言う。第2コリントでは 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とある。間違いと失敗を繰り返してきた人生でも、今から新しい存在としてやり直せる、と言うのである。

 11〜13節にかけて「遠い者と近い者」と言われる。「遠い、近い」は律法からの距離である。律法が壁となって分けている。この壁はさらに人間と神様を隔てる壁となってしまった。この壁を打ち破るものは、ただキリストの十字架のみである。分かたれた二つのものを一つにするのはキリストのみである。キリストによって全く新しい人間が創り出されるのである。

 15節では「新しい者と古い者が」対比される。人は新しいものに憧れる。が、人が作る新しいものは人間の欲望、自己中心がこびり付いているから、そうした「罪が」全てを古くしてしまう。罪からの解放がなければ新しくなれない。神様との関係が変わらなければ新しくなれない。新しくされるとは、キリストの十字架で罪が打ち破られ、神様との和解を頂き、全く新しい者とされて恵みによって生きること。

 大事なことに気付きたい。私たちはキリストに愛されて、既に新しくされているということ。そこに立てば神様とも人々とも新しい関係を持つことが出来る。人を赦すことも、傷つくことに耐えることも、無関心だった社会や世界のことを祈れるようになる。「近い者と遠い者」が一つにされる。「古いものが新しいもの」とされる。そこには神様の目的とご計画がある。

 18節「キリストによって両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るようになるため」である。キリストに愛され、キリストを愛し、キリストと共に生きることで、人生やり直そうではないか。



「振り向きつつも前進」          No.521
       (ルカによる福音書 9章57〜62節)
      

 
イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」と言われました。一旦従うと言ったが、いざその時になると、色々な用事を付けてなかなか従おうとしない。自分で決断したのに、何とも身勝手な話しでイエス様が厳しく批判されるのも最もなことです。しかしでは、私たちは大丈夫なのでしょうか。私たちも自分の決断と努力で、その使命を遂行しようとするのなら、同じ結果になるかしもれません。

 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙において、自分が神にお仕えしているのは、自分の努力で何かを捕えているからではなく、自分がキリストに捕えられているからなのだと言われます。自分で捕えているのではなく、他の者に捕えられているという感覚に目を向けることが大切なのです。

 巷では、凄い能力のある人がいます。勢いよく組織を立ち上げ、沢山の人を集め、尊敬と信頼を集める人です。しかしそのような人は、気が付くと全てを投げ出て辞めてしまう人が、けっこう多くいるのは何故なのでしょうか。それは、自分でやり抜き突破する力には限界があるからなのだと思います。人間が基本的に持っている能力は、それ程の違いはなく、一気に大きな力を注ぎ出す人は、自分でやっている限り、疲れはてて放棄してしまうのです。気持ちはわからないではないですが、それでは元も子もありません。

 また、社会の組織ならそれでもいいかもしれませんが、私たちの信仰共同体においては、そんな廃教は許されないのです。自分自身だけでなく、多くの人を躓(つまず)かせるからです。しかし、そうは言っても、私も自分でやっていると思っている限りは、力尽きて明日職務を投げ出してしまうかもしれないのです。そうならない方法はただ一つ、パウロの言うように「捕えているのではなく捕えられている感覚」を持った信仰です。神が捕えてくださったから、このこともあのこともしようと。その時に私たちは、大変な働きの中でも大きな平安を得るのではないでしょうか。 


「捨てられる価値」            No.520
      (マルコによる福音書12章 1〜12節)
      

 
この箇所で、徹底的にイエス様に責め上げられる律法学者などの権力者たち。彼らは自分達の地位が脅かされることに非常な恐れを抱いたのでしょう。その失う事への恐れです。

 ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン博士は、「私たち人間の脳は、利益よりも損失を敏感に、そして損失を「過大」に感じ取ってしまう。」といいます。得ることよりも損失をすることへの恐れの方が二倍も三倍も重く感じるというのです。

 持っていたものを手放す不安。それは新しく得ることよりも心を支配されるのです。そしてそれは、ユダヤの指導者に限らす私たちもまったく同様なのです。私たちは社会でより多くのものを集めたものが成功者であると定義され、走り続けさせられているからです。

 でも、キリストの価値観は逆のベクトルなのです。「家造りたちが不要として捨てた石が、隅の親石となる」と聖書は語ります。社会では無価値として捨てられたものが、神の前では尊いものとして拾い上げられる。私たちは、自分達で集めたものではなく、この神の拾い上げる力によって救われているのです。損失したものが、実は得たものとなるという逆説です。

 この理解のしかたは世俗社会では認められないものかもしれませんが、しかし、それを価値あるものとして受け止められる力が信仰の力です。 社会の荒波の中で、この捨てられた価値ある石をみんなで拾い上げて行きたいと思います。 


「苦難から希望へ」           No.519
      (ローマの信徒への手紙5章 1〜11節)

                 
荒瀬正彦牧師


 私たちは神様を信じているのに、何か事が起こる度に動揺してしまう。祈っても聖書を読んでも、信仰を持っているのに心が平安にならない。1節の終わりに「神との間に平和を得ており」とあるが、どこに神様との平和があるのだろう、どうすれば平安が得られるのだろう、と思わずにいられない時がある。

 聖書が言う「平和・平安」という言葉は「恵みが満ち足りた様」という意味がある。コップに口きり一杯水を入れる。更に入れると水は溢れ出す。その状態をシャロームという。私たちはイエス様の十字架によって既にシャロームを得ている。もうその恵みの内に入れられていると聖書は言うのである。ルターは5章1節をこう言っている。「ここで語られている『平和』という言葉は、『信じる』ということである。不安でならないところで、揺れ動いている所で、神様との間に立てられた平和を確信することなのだ」。

 神様との平和には「自分との平和」も含んでいる。私たちは自分で考える以上に自分を受け入れていないことが多い。「なぜ私が・・?」。私を取り囲む状況が問題なのではなく、この状況の中で苦しむ自分が受け入れられないのだ。そんな自分でも受け入れられない自分を神様が受け入れて下さっている。神様との平和とは、実はこんな自分を神様が受け入れて下さっているということ。

 私たちは困難や悩みの中に立っている。悲しみや苦難の中で激しく揺れ動いている。でもそこは神様の恵みの中なのだ。自分の力で立っているのではなく、神様に立たせて頂いているのだ。神様の愛が支えて下さっている。だから耐えることが出来る。立ち続けられる。そのことによって一層強くされる。

 恵みの中に立ち続けるには確りした足腰の強さが必要であるが、自分の強さと努力で得られるのではない。神様が罪人の私をこよなく愛しておられる。神様が平和を下さっている。この神の愛を知ることが足腰の強さなのだ。

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。この力強い福音の言葉で足腰を強めて頂き、しなやかに、したたかに、恵みの中に立ち続けたい。



「我が十字架を知ること」         No.518
       (マルコによる福音書8章31〜38節)
      

 
若い頃は「サタンよ引き下がれ!」というイエス様の言葉をカッコいいな〜と思ったものです。イエス様の真似をして「サタンよ〜」と言っていましたが、その頃は自分の罪がわからず、自分がサタンそのものになってしまっていることに気付きませんでした。実際、この言葉はイエス様だけが言える言葉なのです。真の神であり真の人であるイエス様のみに許される言葉。また別の視点から考えると、イエス様はその力によってユダヤの王になる選択も十分あったはず。それでも十字架を選び取っていった。つまり、もしかすると、イエス様は自分に向かってこの言葉を言ったのかもしれない。そしてこの苦しみこそが、キリストの十字架なのだと思います。そして更に、その方を信じて生きることこそが、私たちの担うべき十字架と言ってもいいと思うのです。

 先日、介護の仕事で「はっきりいいますけど、ケアマネージャーってそんなことしか出来ないんですか」と叱責されました。とても複雑な介護状態と、お役所仕事の決定により、現状のギリギリ在宅生活が崩れていくところでした。ですから、ご家族の叱責は、もっともだと思いました。制度の中で出来る限りの対応をしたつもりでしたが及びませんでした。しかし如何に大変だったとしても、これを「私の十字架」などと言ったら酷い思い違いかもしれません。キリストの十字架は、もっと高貴でもっと美しい。マタイによる福音書では、イエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。キリストの十字架は、私たちが喘(あえ)いで背負うものではなく、もっと軽い、もっと負いやすいもの。担いたくなるような素晴らしいもの。つまり信じて生きることの素晴らしさこそが、十字架の重みかもしれません。今週もキリストの十字架が軽く感じられるいい日々でありますように。



「良い地とは何か」           No.517
        (ルカによる福音書8章 4〜8節)
      

 
良い土地の例えです。タネが様々な理由で育たないダメな土地と100倍の種が育つ良い土地。この現実にある出来事をイエス様は、信仰という世界に例えるのです。しかし世俗の価値観における沢山の収穫を得られる「良い」という表現と、私たちの信仰の世界における「良い」と視点が違うようです。信仰における実を結ぶとは、ヨハネ15章のぶどうの木の例えのように、キリストに繋がっている者が実を結ぶということなのです。つまり、良い地であるとはキリストに結ばれている事、信じて行こうとしていることによるのです。いや更に言えば、信じた者はそれだけで、既に実を結ぶ良い地となっていると言っても良と思います。

 私たちの日常は、日々ガッカリに満ちているような気がします。何でこんなことになっちゃうの?と言ったようなガッカリ。あさひ教会をスタートしてからも、本当に沢山のマイナスな出来事がありました。しかし今振り返ると、本当に困った!と思ったことでも、何となく切り抜けてきているのです。それはまた、自分の努力で乗り越えたというよりも、神を信じる信仰がそのことを乗り越えさせて来たように思います。正に、私たちは信じることによって、良い土地とされ、様々な嵐に出会っても実を結び続けるのです。これって本当に素晴らしく、ありがたいことだと改めて思わされます。自分の能力に縛られず、自分の愚かさに失望せず、神のもっとも良いご配剤を信じて心安らかに今週も生きたいと思います。



「気前のよさが神様の特徴」       No.516
      (マタイによる福音書20章 1〜16節)
      

 
朝から真面目に働いてきた労働者と、夕方から雇われて藁の一本を締めた程度の労働者が同じ賃金であるとの話。仮に、この夕方から雇われた労働者が逆に朝から働いていたら、同じようにその不公平に怒ったことでしょう。しかしこれが、聖書の説く真理のカギなのだと思います。また逆にこの出来事に全く納得できない方はキリストには向いていないかもしれません。この逆説的例話の中に、神の真理を感じる方はキリストの弟子に近いと思います。

 この真理が語る一つの重要な視点は、自分は朝からまじめに必死に働いた成果として天国に入ったと思った私たちが、実は、自分も夕方から来てやっと雇ってもらった者であったことを知ることなのです。自分も、夕方にやっと見つけてもらい、ギリギリセーフで天国に迎えられた。この自己認識こそが、イエス・キリストを信じる信仰なのだと思います。

 介護保険の仕事をしていると、本当に意味があるのかという事務処理が山のように存在します。そして役所の方々も、隣の市で行ったまったく同じ書類審査を一からやり直すようにと命じられ、無意味な時間に人生を費やされているのが行政の業務のようにさえ感じます。しかし、私たちがキリストの信仰によって行う様々な業は、神の目には決して無駄のないものなのです。神様に役に立つ働きを日々積み上げているのです。ですがそれもまた、私たちが天国への切符を買うための仕事ではありません。私たちの救いは、私たちの努力によって勝ち取るものではなく、神様の「気前の良さ」によってのみ与えられるギフトだからです。  


「恐れることのない恐るべき方」     No.515
      (マタイによる福音書17章 1〜13節)
      

 
新この山の上でのイエス様の山上の変容は、同行したペテロ・ヤコブ・ヨハネの心に決して忘れられない出来事となったことでしょう。そしてこの出来事は、彼らが宣教に赴く中で次々と出会う試練や迫害の中でも、彼らを信仰の道に留まらせ弟子としての使命を生涯全うさせるのです。

 私たちもまた、そのような体験・経験を積んでいくことが大切だと思います。私たちにとっての、自分自身にとっての、キリストとの出会い、人生の高い山の山頂で神を感じる神々(こうごう)しい思い出。キリストを体験した出来事。それを忘れてはいけないのです。ペテロ達に語り掛けられた恐るべき神の御子は、また私たちが恐れる必要のない愛のキリストだからです。

 日本の登山歴の中で有名な人物に、播隆上人という方がおられます。彼は、北アルプス槍ヶ岳に魅せられて、何度も登頂をしてその地で修業を続けました。そして、その山頂での神々しい体験を多くの人達にもして欲しいと願い、槍ヶ岳山頂の槍の穂に鎖をかける計画をします。当時の松本藩は飢饉で貴重な鉄を放出する余裕はありませんでした。しかし、播隆の必死の懇願により、多くの人が心打たれ出資をして鎖をかけることに成功するのです。

 この出来事における鎖をかける行為とは、私たちとっては正に伝道と言ってもいいと思うのです。神に、キリストに出会う出来事へ向かう道を備えること。困難な道のりでも鎖をかけ、願うものは誰もが神を体験できるように導く。

 私たちの生活は、楽しいことばかりではなく、本当に辛い鎖にしがみ付いているような出来事も多々起こってきます。しかしその体験を超えた時に、山頂で私たちは神と出会うのです。良いことも辛いことも全てが、私たちを神へと導かれるのです。是非、信じてこの道をみんなで歩んでいきたいと願っています。    


「良いものは後から来る」        No.514
      (ヨハネによる福音書 2章 1〜11節)
      


 
新年より、カナの婚礼におけるイエス様の最初の奇跡が取り上げられました。この箇所が私たちに示すことは沢山ありますが、本日はイエス様によって良い葡萄酒が後から婚礼の席に出されたことに注目したいと思います。会食の席では初めに良いお酒を出して来場者に喜んでもらうものですが、後半は酔いが回ってしまって味覚が不明瞭になっていることから安価な物が提供されるというのが社会の通例のようなのです。しかしイエス様はその奇跡によって、社会の慣例に反して後から良いものを出されました。

 そしてその奇跡は、葡萄酒が要求されているのに、水がめに水を汲むという無駄な行為の応答によってなされます。これはペテロが一晩漁をしても何も取れなかったのに、もう一度網を打ちなさいとイエス様に言われて、無駄と思っても従った行為に似ています。その結果は、大漁であり、良い葡萄酒の軌跡が起こるのです。一見無駄と思えても「イエス様がおっしゃるならばやりましょう」という精神。その結果は、後から良いものがやってくるのです。

 先週、ボーイスカウトのスキーキャンプに出掛けてきました。そこでスキーが早く上手くなる子とそうでもない子がいることに気付きました。早く上手くなる子の特徴は、指導者の指示通りに動ける子なのです。逆に、言うとおりに出来ない子、また言われたことをやりたくない子は中々上達しないのです。またもう一つの上達する方法は、続けて毎年スキーキャンプに来る子です。続ける子は、当初は用量が悪くても必ず滑れるようになるのです。つまり、指示に従って訓練することと、諦めずに続けることの二点です。

 信仰も同様だと思います。イエス様の教えどおりに生きようとすること。そして投げ出さず生涯その道を歩むことです。その結果は、後から良いものがどっさりやってくるのです。何かそう思うと、凄く楽しみですね。今年もみんなで、イエス様の道を歩みたいと思います。


「神の御手にある未来」         No.513
      (イザヤ書42章 1〜 9節)
      (マタイによる福音書3章13〜17節)

                  荒瀬正彦牧師


 私たちは自分たちの明日や将来を自分で築いて行かねばならないと思うから、明日 を心配したり挫折を味わったり悩んだりする。今まで努力して築いてきた健康だとか 仕事や老後や人間関係などが破れ崩れてしまう時、目の前真っ暗な思いがする。しか し私たちの信仰は、自分の手の中にある幸せな未来を確保することではなく主の御手の中にある未来を信じることではないか。

 洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた時、そこへイエス様がやって来られた。ヨハネはイエスの洗礼を思い止まらせようとした。がイエス様は彼の言葉を退け「今は黙って洗礼を授けてもらいたい」と言われた。  

 私たちには神様の御心・ご計画を全部知りたいという願望がある。しかし「知りたい」というのは「欲望」と同じで何処まで行っても満たされることはない。「知りたい願い」に限界はない。だが人間は神を知り尽くして神を自分の手の中に入れようと言うのか。「知りたい」欲望の中には信仰は無い。知り尽くし得ない神の御心という謎にじっと耐えることが信仰ではないか。ヨハネは「知る」ことではなく「信じる」ことに於いてイエス様の決意と言葉を受け入れたのであった。

 15節「正しいことすべてを行う」と言われたイエスの言葉には二つの意味がある。●イエスの洗礼は神の御心のうちにあること。イエスはご自分の先例に神の意思を見られた。そこで自ら進んで罪人の群に身を投じた。●ヨハネの宣教の業は神の道に叶っていると言うこと。しかしヨハネの宣教の業には限界があった。私たちがどんなに悔い改めても神の義にふさわしい正しさを持つことは出来ないということである。

 私たちの悔い改め・洗礼は、神の許に行くことは出来ない行き止まりの道でしかない。この絶望的な限界の前にイエスは立たれた。イエス自らが洗礼を受けることによって塞がれている神に至る道を切り開かれ突破して下さった。「私が洗礼を受けるのは全ての者が希望の未来へと通れる道を開くためなのだ」、そう語って下さっているのだ。

 神の愛のご計画は必ず成る・・そこにイエスの洗礼は土台を置いている。神は水から上がったイエスに言われた。「これはわたしの愛する子、心に適うものである」。すると聖霊が鳩のように降った。今や私たちの未来はイエス様の御手に移された。私たちの世界は根底から変えられた。もはや私たちの歩む道は塞がれている道ではない。神のご計画にすべてを委ねて、力強く2018年を歩んで行きたいと思う。



「備えよ常に」             No.512
      (ルカによる福音書12章35〜40節)
      


 
この聖書箇所では、いつ神様が来られても困らないように常に備えていなさいということを僕と主人の例えをもってイエス様が語ります。しかしここで今一度注意すべきことは、この突然帰ってくる主人の在り方です。この主人は備えていた僕に対して、ただ褒めるというのではなく、逆に自分が腰に帯を締めて僕の食卓の給仕を始めるというのです。これが聖書の示す最終的な主人の在り方なのです。そしてこの主人を私は凄いなあと思うのです。でもある人は、そんな主人は嫌だ、もっとえばって偉くいたいと思うかもしれません。実際、この後者の理解の方は、キリスト教には向いていないと思います。イエス・キリストの私たちに示された姿は「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」からなのです。

 今年も一年がいつものように始まりました。同じことを忠実に繰り返し、神と人にお仕えしていくのが私たちの使命です。しかしそれはただの繰り返しではありません。いつ、イエス様がこられても、いつ世界の終わりが来ても、慌てないような備えの上に日々があるのです。そしてその備えとは、まさに信仰です。正直、罪ある私たちは行いでは中々備えきれない者ですが、この神から頂いた信仰によって備えることができるのです。

 今年の主題聖句「「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」(第二コリント13章11a節)が与えられました。一生懸命みんなでこの聖句のもと思いを一つにして進みたいと思います。しかしその進む先は、何か完璧な聖人になるというのではなく、励ましあって備え得るべきものは信仰によってのみ勝ち得る天国の門です。この道こそが、今日明日の私たちの地上の生活を整えてくださるのです。天国楽しみですね。

    Copyright (C) 2008.4.1 カンバーランド長老キリスト教会日本中会 あさひ教会(伝道教会) Rights Reserved.
         〒241-0021横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-19-21ミヤビビル一階 電話045-489-3720

カウンター


ふれんどしっぷあさひ フレンドシップアサヒ フレンド デイケアー 老健 加藤文太郎 神々の頂 孤高の人 羽生譲二 ビカーサン 神学 現場 ボンヘッファー<BR>
CPCJ カンバーランド長老キリスト教会 日本中会あさひ伝道所 あさひ教会 デイサービス 鶴ヶ峰 旭区 瀬谷区 希望が丘 二俣川 今宿 横浜市介護保険 <BR>
介護予防通所介護 徳之島伝道所 寿地区センター 介護保険 カウンセリング