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「すべてを元通りに」 No.829
(マルコによる福音書9章9〜13節)
人間の願い。それは年を重ねる程に「全てを元どおりにして欲しい」と言っても良いのではないでしょうか。沢山の失敗や恥の連続の人生。それをもう一度やり直して人生を生きたいという気持ち。多かれ少なかれ、その気持ちは人類共通の願いに感じます。キリストの死と復活は、その全てを元どおりにして欲しいという願いが、神に聞き届けられるという希望を象徴する出来事なのです。洗礼者ヨハネは、洗礼を受けて悔い改めることによって、人間の罪の体を元どおりしようとしました。そして、イエス・キリストは聖霊による洗礼によって、人間存在の罪と苦悩を全て元どおりされるのです。だから、キリストを信じる者は全てが新しくなると言われる所以です。
人間は常に過去の失敗だけではなく成功も引きずって生きています。この成功は良いことのようですが、逆に人間を苦しめていくのです。その成功が大きければ大きいほど、年劣りその栄光を失う事の喪失感は大きくなります。老人性うつ病と言われる病気がありますが、これはまさに年と共に迎える「喪失体験」によるところが大きいと言われています。しかし、主イエス・キリストは、その失われて行く私たちの魂を今一度闇の中から引き出して下さる方なのです。神を信仰することによって、人生全てを元どおりにしてくださるのです。そのような意味で、信仰とは人間が人間に戻る行為であり、死と復活は私たちの人生の復活を意味しているのです。この神に、心を向けて歩みたいと願っています。
「恐れることなく出ていきましょう」 No.828
(ヨナ書1章1〜3節)
古畑和彦牧師
主なる神は、預言者ヨナに「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」と語られた。ニネベは、当時のイスラエルの敵国アッシリアの首都でした。これは神に敵対する世界、愛よりも力が支配する社会である「この世」を象徴している。しかし、そこはまた、神が愛される場所でもあった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。ヨナは、主の言葉が臨むとすぐに神から逃げ出す。ニネベではなく、タルシシュに逃れようとする。ニネベが、従順、奉仕、犠牲を象徴する場所であるのに対して、「タルシシュ」は、自由、安楽、重荷のない場所を象徴している。ヨナは、人々に紛れ込み、この世の流れに身をまかせ、この世の人々と同じ価値観に生きることになった。私たちはどこを目指しているのか。「ニネベ」か、「タルシシュ」か。神が行けと言われる地に行くのは、私一人ではない。主なる神が共にいてくださる。神は私たちのニネベにおいて、先頭を進んでくださり、しんがりを守ってくださいます(イザヤ52・12)。ですから、私たちは、この年、恐れることなく私たちのニネベへと出て行きましょう。
「正しいことを全て行う」 No.827
(マタイによる福音書3章13〜17節)
イエス様が言われた「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」との言葉。ではこの「正しいこと」とは何でしょうか。現代は、この正しいことが、ぼやけてしまっているように思います。インターネットのSNSや記事を見ていると、人を騙す詐欺への誘導の記事が沢山あります。そして、そのサイトを運営する会社も積極的にその記事を削除しないのです。人の興味を引くための嘘偽りに満ちた世界が、どんどんとインターネットを通して私たちの世界に広がっているように感じます。
そのような中で、正しさを選択することは容易ではありません。つまり正しいことを行いたくても、容易に正しさを選択できない世界だからです。だからこそ、私たちは普遍的価値を持つ、聖書に帰って行かねばなりません。そこにイエス様の言われた正しさがあるからです。私たち人間の正しさは人を裁く正しさかもしれませんが、聖書の正しさは、厳しく人の罪を裁くものであると共に人を赦し救う正しさです。この裁きと救いが一つになって初めて「全て正しいこと」なのです。そして、この一つとなった正しさによって、私たちは救われ洗礼に預ったのです。この感謝を忘れず歩みたいと思います。
「人事も尽くして天命を待つ」 No.826
(コヘレトの言葉11章6〜7節)
今年のあさひ教会の主題聖句は、コへレトの言葉11章6-7節「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのかわからないのだから。光は快く、太陽を見るのは楽しい。」という御言が選ばれました。このコヘレトの言葉は、伝統的にはユダヤの王ソロモンが晩年に記したと言われています。あの栄華を極めたソロモンでさえ、晩年は人生の虚しさに覆い潰されそうになるのです。このコヘレトの手紙は口語訳では「伝道の書」という題が付いています。伝道者ソロモンは、自らの成功と失敗、喜びと嘆きの人生を伴走される神を見上げ、その命の意味は問い直すのです。そして、人生を「空の空」と記すと共に、その狭間で、自らの勤めを再確認していきます。この人生の意味や結果は、今は知り得ないが、だからといって手を止めていいのか。朝も夕も種を播き、日々の太陽のまぶしさに感謝をもって生きなさい。神を畏れ、その戒めを守ることが、神が供えられた人の道であると語ります。私は今回の説教題を「人事も尽くして天命を待つ」としました。これは良く言われる「人知を尽くして天命を待つ」という言葉を少し捩ったものです。出来る限りの働きをして天に結果は委ねるという意味は、極めて尊いですが、更に「人事も」という言葉によって再解釈を試みたのです。つまり「人事」とは多数の働きであり、「も」とは個人の人知にとどまらず、そこに沢山の人の働きが重なり、更に神が人生と同伴されているという受け止め方です。人は、空なる虚しい人生を誰もが歩んでしまいます。それは、ソロモンのような壮大な成功者から、小さなベッドに伏す病者もです。しかし、だからと言って虚しさに没して手を止めてはならない。誰にも降り注がれる太陽を見上げ、小さな出来事に感謝し、自分と共に力を合わせてくれる人たちに感謝し、人生の同伴者なるキリストを見上げていく。キリスト者の喜びは、この神の言葉に出会えることだと思います。キリストを十字架の死から甦えらされた神は、今年も、私達の人生を必ず甦らして下さるに違いありません。
「良いものも悪いものも一緒に育つ」 No.825
(マタイによる福音書3章10〜13節)
内田弥生神学生
イエス様が種を蒔いた畑の良いもの悪いものの基準は神の基準であり、神の目から見た審判と言うことなのです。イエス様は、この地上に良い種しか蒔いていない、しかし、寝ている間に毒麦の種を悪魔が蒔いていった。実ってみると毒麦も顔を出した。しかし、イエス様は、そのままにしておきなさいと言う。この世には良いものも悪いものも一緒に育つのです。そのように神は忍耐強い方でもあるのです。神は悪いものをさっさと片付けてしまうようなことはされないのです。悪いものはそのままにして、良いものと一緒に育てるのが、イエス様のやり方です。そして、最後の審判は、神の裁きに任せておきなさい。神が救い出してくださるその時を待ちなさい。と語るのです。私たちもその時を待つものであるのです。毒麦は良い麦の根に絡んでいる。毒麦を引き抜くときに良い麦まで抜いてしまうかもしれない。誠に人は弱いものです、この悪いものに絡み取られてしまう現実があります。自分の力ではどうしようもない悪の力が働く現実があります。しかし、この毒麦は、私たち自身でもあることを忘れては行けません。常にこの毒は私たちの中に巣食っています。この毒麦という誘惑に絡め取られそうになっているのです。現実の日常や生活には、様々な形で毒麦は顔を出しているのです。だからこそ、私たちは教会へ、神を讃美し、礼拝するために神に集められているのではないでしょうか。自分を清い者だと思ってはなりません。主のその日、審判の下されるその日まで、私たちは油断なく油の切れない灯火を捧げ持っていなければならないのです。神の国は必ず来る。その日には、悪いものと良いものを選別され、良いものは神の倉に納められるのです。 |
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