カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
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2019.3.17更新
   

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「死に克つ命」              No.574
          (ルカによる福音書7章11〜17節)


                 荒瀬正彦牧師

 ルターはこの箇所を愛して「我々が既に死んでいるとしても、このお方が死からの救い手なのだということがここには書かれている。我々はすべて死に向かう道を歩いている。その我々自身の前に、周りに、後ろに、このお方の姿を見る。我々すべてと共に、死への道を歩まれるお方を見るのである」と言っている。

 イエスの一行がナインの町に近付いてきた丁度その時、町の門からお葬式の行列が出てきた。若い息子を亡くして悲しみにくれる母親を先頭とした行列であった。イエス様は母親に「もう泣かなくてもよい」と声を掛けられた。母親の涙を止めるだけではなく、死の棘の暴虐に対して中止を命じるものであった。愛する者が引き裂かれていくとき、死は私たちに生々しい爪痕を残す。主は母親の痛み悲しみの傷痕に近付いて行かれた。母親の信仰など問題にされていない。そしてお棺に手を触れた。主は死そのものに手を掛けて「この命は私のものだ」と主張されるのだ。「若者よ、さあ、起きなさい」。主イエスの業は慰めを与えるだけではなく、死に奪い取られた息子を母親に返すことであった。この業に於いて、私たちは先に天に召された愛する者と再び相見える慰めと希望が与えられている。先立った者がキリストの命に生かされて、新しい命の衣をまとって目の前に立ってくれる望みが与えられている。そのことが甦りのイエスによって約束されているのだ。ナインの町の人々は「神はその民を心にかけてくださった」と叫び、「大預言者が我々の間に現れた」と言ったのみで、命の主、新しい光の主を仰ぎ見ることはなかった。奇跡の出来事を見たのみで、そのしるしの指し示す向こうを見なかった。私たちはこの出来事から、周囲で起こる生と死の出来事を通して、そこに立つ命の主イエス・キリストを信仰をもって見上げたい。死について思うとき、共に居給う甦りと希望の主イエスを信仰をもって仰ぎ見たいと思うのである。


「ペテロの熱意として」          No.573
        (マルコによる福音書8章31〜38節)

    

 イエス様は、心配して十字架の道を引き留めるペテロ対して「サタン引き下がれ!」と叱責されます。確かに、ペテロが保身の気持ちから言ったところもあるとは思いますが、せめて、「ペテロくん、心配してくれるのはありがたいんだけどあのね」ともう少し優しく言って頂ければいいようにも感じます。しかし、ここがやはりイエス様の凄いところです。配慮なし更に畳みかけるように、自分の命を救いたいと思っているやつは一番先に命を失うことになる!と言い放つのです。もう、口を挟む余地がない厳しさ。

 でもその厳しさは、ペテロの中の二心の信仰への警告なのです。それは、イエス様に全てを捨てて従いたい自分と、イエス様に王様となってもらい自分の地位も上げてもらいたいという願い。それを見抜き、警告と道を示すのです。

 神は、人の弱さを顧みられないような方ではありません。神の偉大さは、正しいものを評価するだけではありません。それなら人間でも出来ること。神の偉大さは、裏切った者を再び立てるからこそ偉大なのです。二心のペテロを教会の柱として立てられるからこそ神は偉大なのです。ですからそれと同じように、私達も神は立ててくださるに違いないのです。従いたいけど従いきれない私たちを、裏切りの私たちを立てて、神の業に今一度つけてくださる。

 ヘブライ人4章では、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とあります。 神の厳しさと、恵みは偉大です。その愛が必ずペテロと共に私たちをも救ってくださることでしょう。  


「聞く耳のある人とは」          No.572
          (ルカによる福音書8章4〜8節)
    

 以前、「きみは聞く耳がない!」と注意されたことがあります。その時は、そんなことはない自分はちゃんと周りの意見を聞いていると反発しました。しかし今思い返せば、確かに聞く耳がなかったように思います。 人は誰でも、自分は聞く耳がないなど思ってはいないはずです。しかし実際は、こぼれた種が人に踏みつけられるがごとく、大切な神の言葉も聞けないのが私たち自身なのかもしれません。そのような私たちに、神はキリストを通して宣教されるのです。私たちが聞く耳のない時も、私たちが神の言葉を踏みつけてしまう時も、神は時が良くても悪くても救いと愛の言葉を人類に語られるのです。

 昨日、NPO総会で佐々木炎先生のお話で、大変反省させられました。最近の私は、介護事業の職場での職員関係のトラブルに振り回されて、すっかり事なかれ主義の穏便路線を自分が選択していたことに気づかされたからです。神は、御言を踏みつけてしまうような私たちでも、聞く耳を持つまで根強くその愛を実行されるのに、待ってもらった私自身は、それが出来ていなかったと感じさせられました。聞く耳のない者が、新たに御言を聞く者として救われ、神の宣教を与えられました。この感謝を神に少しでもお返しできればと願わされます。 


「自分の分を受けとる」          No.571
        (マタイによる福音書20章1〜16節)

      

 この箇所の大きな問いかけは、仕事量によって対価としての救いを得るのか、量に関係なく雇い主の自由な采配によって報酬を与えられるかということです。つまり、律法順守により救いを得るのか、神の恵みによって救いを得るのかと言い換えてもよいと思います。救いが働きの対価によって支払われる報酬のようなものであるとすれば、それはもはや恵みではありません。そこで必要なのは、人間性を生産力に変える力であり、神の自由な主権は不要なのです。道端の倒れた隣人を助けるより、決まったルールだけを順守する冷たい役人主義が推奨されることでしょう。

 イエス様は、当時のユダヤ教徒が当然として順守していた律法理解に真っ向から立ち向います。朝から働いて来たユダヤ人ではなく、夕方から雇われた異邦人に神からの同じ恵みが与えられることを告げます。そこでは、不公平だという人たちの声を超えて、神の自由な愛の采配があります。神が、神の恵みを自分の主権で人に与えて何が悪いのか、私の気前の良さを妬むのかと人々に問います。この問いには、ユダヤ人の誰もが答えられなかったことでしょう。イエス運動とは、宗教という枠組みから神の主権を取り戻し、神の自由な采配が人々を救われることを告げることだったのかもしれません。そして、私たちもこの神の自由によって救われているのだと思います。


「神を通って、神の中へ」         No.570
       (ローマの信徒への手紙11章25〜36節)


                
荒瀬正彦牧師

 神様の救済のご計画は不思議な展開を示します。イスラエル人のみならず人類全体が、不従順と従順、裁きと憐れみが綯い交ぜになりながら福音へと引き戻されます。それは最早(もはや)、人間の知性や論理を遥かに超えたことです。パウロは思わず賛美の声を上げるのです。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。

 神の富とは「慈愛と忍耐と寛容の富」、つまりは「神の憐れみ」のことです。神の知恵とは、どんな状況の中でも定められた救いのご計画を貫き通す知恵です。神の知識とは、神がすべてを知っておられるということ。私たちの悲しみ苦しみも、この世界の不条理も理不尽も知っておられるということでしょう。

 29節で「神の賜物と招きは取り消されない」とパウロは言います。イエス・キリストに躓(つまず)いた不信仰な者が、今もなお賜物と招きを頂き、恵みの内にある。

 私たちは神の恵みを数え、神の愛を覚えて感謝するが、「恵みを数えているのはこの私だ」ということを忘れてはいけません。目先のことしか見えない私たちにどうして本当の神の恵みの大きさ、深さ、広がりが分るでしょうか。苦しい辛いことの中に神の御心が働いていることが分からない私たちです。にも拘わらず、私たちは御心を推し量り決め付けようとする。「思い上がるな。むしろ恐れよ」とパウロは忠告します。そして「自分を見るのではなく、神様を仰ぎ見よう。共に神を賛美しよう」と呼びかけるのです。「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」。この告白は悲惨と絶望、罪と死の支配するこの世界の中で語られている。それは罪と死の支配を打ち破られたイエス・キリストの勝利に対する賛美の言葉です。この確信に励まされるとき、神の富と知恵と知識に信頼して全てを委ねることが出来るのです。           



「恐れなくてよい」            No.569
         (マタイによる福音書17章1〜9節)
      


 本日注目されるべきことは、その旧約の時代から預言される神々しいキリストが、弟子たちの手に触れて「起きなさい、怖がらなくていいよ」と言われたことです。かつて神は恐れの対象でした。創世記32章にある族長ヤコブと神とのペヌエルでの戦いでも、神に出会ったことが死に繋がると記されています。ですから、旧約の時代は、神の名をみだりに唱えないようにしていたため、神の呼び名を忘れてしまった程なのです。それ程に恐れられていた神が、人間に手を置いて「怖がらなくていいよ!」と言われるのです。これは、本当にユダヤで信じられてきた神理解の大変な変化でした。まったく逆転するコペルニクス的な転換。裁きと恐れの対象者であった神が、愛の神、赦しの神、救済の神として示されていくからです。つまり、怖がる必要のない神が、イエス様によって登場するのです。

 勿論神は、旧約の初めから愛の神であり救いの神です。しかし、人々は自らの罪によって、その愛の神を見出すことが出来なくなっていたのです。神に見つからないように影に隠れ、裁きを恐れていた。エデンの園のアダムとエバのようにです。しかしキリストは、ご自身の命がけの証しによって、本来の神の姿を回復されました。だからこそ、キリスト教会では「神は愛なり」と唱えることが出来るのです。本当に感謝なことだと思わされます。


「信じたとおりになるように」       No.568
         (マタイによる福音書8章5〜13節)
      

 このマタイの記事は、ある方向性を示そうとしています。それは、イエス様がイスラエルの救いを自分の使命とて優先すると言いながらも、常に異邦人を救う出来事が多数記載されていることによります。先週も話しましたが、15章のカナンの女の出来事。娘を癒して欲しいと願う母親に「今は異邦人のために自分は来たのではない」と冷たくあしらいますが、結果的には癒され「あなたの信仰は立派である。あなたの願い通りになるように」とイエス様に宣言されのす。つまり、イエス様が本質的に言われたかった中心的な意味は、民族や人種などではなく、神への信仰、神への信頼です。「信じたとおりになる」とはイスラエル民族のみへの約束ではなく、信じる者全てに語られる神の約束というメッセージです。

 だからイエス様は、異邦人の百人隊長にも「はっきり言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことはない。あなたの信じたとおりになるように。」と宣言されました。神の前では、民族でも、地位でも、経済力でも、人種でも、何も関係がない。イエス様を屋根の下に迎えることも出来ない人物でも、全ては信じるという信仰に集中していくのです。そししてその信仰は、真実な信仰の代表者である「アブラハム、イサク、ヤコブ」が着席する天の国で大宴会、つまり天国へと私たちを招いてくれるのです。

 若くて本質を理解できない頃は、自分の奉仕や熱心で、天国の扉をこじ開けようとしているのかもしれません。しかし、信仰を地道に続けて熟練していく過程においては、自らの力では到達できない苦難に出会い、初めて「あなたの信じたとおりになるように!」という信仰へと導かれるのかもしれません。


「初めに良いものを」           No.567
         (ヨハネによる福音書2章1〜11節)
      


 このヨハネの記録したカナの婚礼の出来事は、神が私たちに何をしてくださるかが明確に記されていると思います。まずイエス様は、母マリヤの葡萄酒の追加をなんとかしてほしいという願いに対して「わたしはあなたと何のかかわりがあるんですか」と冷たくあしらわれます。またこの似た出来事として、マタイ15章21節以下のカナンの女の信仰という話がありますが同様の展開です。イエス様に、娘を助けてくださいと懇願するカナンの女性に対して「私はイスラエル家にしか使わされてない」といいます。どちらも、それは酷いのではというイエス様の回答。しかしこの二つの話の結論は、いずれもイエス様は、女の願いを聞き入れてかなえているのです。そういう意味では、イエス様は自らの救いの順序は決めているが、情に流されやすいタイプだったのかもしれません。予定はこうだが、困っている人を見ると、ついつい助けたくなってしまう。そのような意味では聖書の示すキリストに現れる神は、決められた摂理を冷静に正しく遂行する全能者というよりも、人のように情にもろく、頼まれ毎に弱く、予定を変えても火の中、水の中に飛び込む救済者なのかもしれません。

 その神は、婚礼の初めに良い葡萄酒を用意する共に、婚礼の最後にも良い葡萄酒を備えられるのです。その意味するところは、創世記の初めに世界を良いものとして祝福に満たして造られたように、最後も素晴らしき良いものであるキリストの救いで締めくくられるのです。神は、初めも終わりも良いもので満たし、人が滅びるのを見捨てられない、情にもろい愛の神であることがこの箇所から教えるように思えます。 


「邪な愉しみを捨て」             No.566
          (エゼキエル書34章1〜10節)
           (ヤコブの手紙 4章1〜12節)

                
荒瀬正彦牧師

 「人間は他人の悪口が大好きな動物だ」と或る学者が言っている。ヤコブの手紙4章11節では「兄弟たち、悪口を言い合ってはならない」と言う。

 4章1節「何が原因であなたがたの間で戦いや争いが起こるのか」。教会内部にある社会的な差別や教義の違いなどから妬みや憎しみが湧き起り、そのため教会の霊的成長が妨げられている。ヤコブは「あなたがたは祈りを知らないのではないか。間違った動機や自己中心の動機、また神賛美ではなく利己的な欲望からではないか」、と厳しく問責する。

 人生の最終的な選択は、自己を喜ばせるか、それとも神様を喜ばせるか、のどちらかであろう。自己を第1とする世界は最後には争い合い、共倒れとなる。自己の欲望の追及は競争社会とならざるを得ないからである。自己を喜ばせる限り「祈りの門の扉」を閉ざしてしまうのである。8節で「神に近づきなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」と言う。「心が定まらない」のは、知性や思想が風にそよぐ葦のように自己保身のために右に左にと揺れるからである。そして9節で「悲しみ嘆き泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えよ。主の前にへりくだれ」と言う。信仰とは神との出会いに始まるのだが、換言すれば自分の罪との出会いから始まるとも言える。自分の罪を認めるのは悲しい体験である。心絞られる痛み、悲しみ。が、その非痛が「赦された」という感動的な喜びへと変えられていくのである。「神に近づきなさい」と言うのも、決して神に近ずくことが出来ないと分かったところから、初めて「近づいて下さる神」を知り、共に居て下さる神に感謝が生まれるからである。大切なことは、罪を知り、それを赦して頂いたという貴重な体験が、人を謙虚にしてくれることであり、そして神様の前に本当に謙虚になれることである。

 主イエスが示される律法は二つである。「主なる神を愛すること」。「自分を愛するように隣人を愛すること」。私たちに求められているのは、愛の律法の前に身をかがめ、愛の律法を行うことである。隣人を生かし、隣人を愛すること。それが神を愛すること。

 人の悪口を言うとか、競争に走るとか、利己主義とかの邪まな愉しみを捨て、神様の慈愛と憐みを祈り求めるところに、真実の喜び、永遠の喜びが与えられるのであろう。


「人生のかなめ石はキリスト・イエス」   No.565
      (エフェソの信徒への手紙2章14〜21節)

      

 キリストは、決して一致できないはずの異邦人とギリシャ人を信仰によって一つとしました。両者の敵意を滅ぼす信仰は、正に平和を告げる福音なのです。そして、この両者というのはユダヤと異邦人だけではなく、神と人、敵と味方といった関係からの解放を意味します。キリストを信じるとは、分裂と反目を続ける人間に、敵意を滅ぼし、和解の道へと導くことなのです。そのために、イエス様は死に、そのためにイエス様は十字架にかかり、そのためにイエス様はこの世に来られました。ですから聖書は私たちに問うのです。キリストは、聖所だ至聖所だとか、清いだ清くないだとか、そのような争いのためにイエス様は死んだのですか?十字架はあるのですか。キリストは、敵意を滅ぼし平和をもたらす使者でしょう。 ある方が「自分が一人の人を憎めば、自分を憎む人が一人増える。自分が一人の人を愛せれば、自分を愛する人が一人増える。しかしその行動と結果の間には大きな時間の流れがあり、忍耐と愛が試される。」と言われました。私たちはキリスト者になっても、腹が立ったり、赦せない思いにかられてしまうことが今なお沢山あります。それでも、キリストを土台して、またキリストを要石として、その度毎に連続的な悔い改めで、自分が何故、ここに立たされ、何のために使わされているのかを思い返したいと思います。イエス様に下から支えて頂き、一番上をまとめて頂き、私たちの目標である神と人と愛をもってお仕えする一年でありたいと願います。


「神を知って生きること」          No.564
      (エフェソの信徒への手紙2章11〜13節)
      

 今年の主題聖句の個所を第一主日と共に覚えてみたいと思います。この聖句の記されるエペソの信徒への手紙の趣旨は、救いは恵みによること教会の一致です。ヘレニズムの多神教文化の中で生活する異邦人キリスト者は、キリストの恵みと信仰によって、神に近い者となったこと告げられます。神から遠く離れていたものが、より近くになった。

 さて、この遠くから近くになるという意味は、実際の距離というより、その捉え方、感覚に大きく依存すると思います。目指すハードルが高ければ高いほど、困難であればある程に、距離は遠く感じます。そのような時に必要なことは、最終目標よりももっと手前に小さな目標を設定していくことです。例えば、苦しいマラソンにおいてゴールを目指しているのですが、次の電信柱まで、次の信号までと小刻みに小目標を設定しくじけないよう走り続けるのです。勿論、小目標を設定しなくても、私たちの一般的な生活でも同様で、お正月をしなくても何も変わらないはず、結婚式をしなくても困ったことはない。クリスマスもイースターもです。 

 しかしそれでは、最終目標へ到達するのが困難となります。例えば、私たちの生活の中に「通過儀礼」というものがあります。二十歳になったので成人式を行うとかです。これはシニカルに捉えれば無意味のようですが、人生の旅路に置かれた小目標なのです。その目標によって、一つ一つの出来事を乗り越えて行くのです。それにより遠くが近くになるのです。そして更にはその積み重ねによって、信じる者は、天国への約束を手にするのです。ただ重要なことは、その小目標の設定は、イエス・キリストに向かって行われるということです。人の願いの実現ではなく、キリストご自身が目標なのです。 本年度は、あさひ教会も会堂建設をいよいよ本格的に始動していくことになりました。どのような計画になり、いつ建てられるのか、そう考えると楽しみで一杯になります。しかし、どんなに素晴らしい建物が出来たとしても、それは天国への旅路の宿であり、その要石はキリストなのです。キリストに向かって今年も歩みたいと願います。         

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