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「願いを遥かに超えて」 No.793
(エフェソの信徒への手紙3章14〜21節)
使徒パウロは急成長するエペソの教会に、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に 栄光があるように」と語りました。つまり、神様から頂いた、私たちの内にある聖霊によって物事を受け止め、私達の願いや思いの全てを、はるかに超えてかなえることの出来る、神様を信じなさいというのです。
聖霊の働きとは、私たちのあらゆる願いをそのままかなえてくれるというよりも、一人の人間の自分の方向だけから見た考えを遥かに超えて働かれるというのです。つまり私達の願いに、神様は時には大きな修正を加えつつも、正しい方向に導くのが神の力なのです。疲れて服を裏返しに着ていても気付かない小さな人間の思いを遥かに超えて、その人の人生に、その人の歩みに、その人の旅路に、その人の願いを最も相応しく働いて下さる神様であるからこそ、栄光が相応しいのです。
私が神学校時代に学んだ大きな考え方の一つは「相応しさ」です。世の中には、絶対と相対という基準があります。時代や人によって変化しない根源的な価値観が絶対ですが、相対というのは時代や状況によって変化していく基準です。この変化しない基準が愛なる神であり、変化する基準が相応しさなのです。神様は、Aという人にはAという判断を。Bという人にはBという人生を用意するのです。人の目から見れば不可解なことでも、神の目では相応しいです。神は良いことも悪いことも含めて、私たちの人生を最も相応しい道へと導かれます。その導きを感謝として受け止める力が聖霊の力なのです。だから私たちは「御霊よ降りませ」と祈るのです。
「あなたの望むことはみな」 No.792
(ルツ記3章10〜13章)
古畑和彦牧師
ルツは、真夜中に麦打ち場で、ボアズに結婚を申し込みました。ボアズは、とっさにルツの祝福を祈りました。この祈りには、何事でも主との関りで見ていく、信仰の基本が表れています。ボアズは、「あなたの望むことはみな、してあげましょう」(新改訳聖書10節)とルツの願いを受け入れました。しかし、問題がありました。ボアズよりもエリメレクに近い「家を絶やさぬ責任のある」親戚がいたのです。ボアズは、その人が「責任を果たすというのならそうさせましょう。責任を果たすことを好まないなら、わたしが責任を果たします」とルツに約束しました。ボアズは、決して自分の考えや感情を優先しません。一つ一つ順序正しく進めるけれども、結果は主におまかせするという姿勢がよく表れています。
イエス・キリストは、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)と語られています。私たちも、ルツの様に大胆に主イエスに近づき、私たちの願いを申し上げましょう。そうすれば主イエスは「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と言って下さり、思わぬ方法で私たちに恵みを与えて下さいます。
「地面深くに土台を据えよ」 No.791
(ルカによる福音書8章46〜49節)
神を信じその言葉を行う人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ているとイエス様は言われました。この例えからは、色々なことを思い起こさせられます。一つには地面近くまで掘り下げられた土台は、外から見えないということです。それが分かるのは、嵐や地震がきて初めてその違いが分かる訳です。キリストを信じるとはそういうことなのだと思います。信仰者も、そうでない者も、普段は分からないので。しかし事が起きた時、信じる者は揺るがない岩盤によって支えられ倒れない。しかし見かけは立派でも、強固な土台を持たない生き方は嵐と共に倒れ去るのです。そしてその倒れ方は「酷い」とイエス様を言われます。
この深く掘り下げるという言葉からの、もう一つのヒントは、外からは見えない深く掘り下げられ場所とは、自分が見えてくる場所とも言えます。穴のように人生を深く掘り下げると、自分の問題が見えて来ます。言い訳の出来ない自分自身の問題にぶち当たるのです。それはつまり、地中深く掘り下げると、人は自分の罪との出会うのです。そして、掘り下げた先で、岩盤なる神にカツンと自分が当たるのです。強固な土台を求めて、掘り下げた時、私たちは初めて揺るがない岩である神と出会い、そしてその方に実は日々赦され、命が支えられていることを私達は悟るのです。
自分の問題を掘り下げて自分の罪と出会うとは、つまり必然的に、岩である神の上に人生を立てるという事です。つまり、神の上に土台を置くとは、自分自身の本当の姿の発見であり、自分の罪の赦しの発見なのです。この強固な土台の悟りこそが、私達の信仰なのです。
「行きつ戻りつする道」 No.790
(ルカによる福音書6章53〜56節)
奨励 内田弥生長老
エマオまでの道は暗く、トボトボとした歩みだったに違いありません。立ち止まったり、首を傾げたり、暗い顔で話し、論じ合っていたのです。しかし、イエス様が2人に開示された時に、喜びのあまり、時を移さず、泊まらないで、きびすを返すように、エルサレムに戻ったというわけです。あの時、心が燃えていたね。神の道がなんだかわかった気がしたね。苦難の道に希望が見えてきたよ。心が燃える経験。私たちにもきっとあります。魂が燃えると言ってもいいかもしれません。神の語られるみ言葉には力があり、権威があり。真実でそして愛があるのです。愛を体感するのです。それが魂を燃やし、心を燃やすのです。消えない炎。希望の道しるべは、羊の門に通じています。私たちには苦難がある。しかし、その苦難の先には羊の門がある。苦難の門と羊の門はもしかしたら一体となっているかもしれない。苦難とイエス様は切っても切り離せない関係だからです。トボトボと歩く道。しかし、その只中で語られる神のみ言葉。そこには希望の光があった。復活の命と救いの光です。救い主をはっきりと見ることができたのです。それは単に見るということではなく、心に生き返ったと言ったら良いでしょう。
「羊の門」 No.789
(ヨハネによる福音書10章1〜21節)
イエス様は、自らを「良い羊飼い」であると言います。その良い羊外は羊のために命を捨てると二度も繰り返して語り、その十字架への決意を示されました。そしてまた、イエス様はご自身を「羊の門」と例えられました。羊の門とは、囲われた柵の中と外の境です。柵の外は、オオカミや盗人に常に狙われている場所であり、柵の内側とは外敵や被害から守られている場所。この門は、私達の社会から言えば、戦争と平和、危険と安全、憎しみと愛との間に立つ門です。この門を羊飼いの声に導かれてくぐれと言われるのです。イエス様は、この門をくぐる者は救われると語り掛けます。
「不幸の薬は、希望のみ」とシェークスピアは言ったと。どんな不幸でも、その先に希望が見えていれば、人は不幸から抜け出せるのです。逆にとても幸福でも、その先が不幸のどん底になることが見えていたら、幸福という場所にいる不幸でしかありません。キリストの存在とは、まさに私たちの不幸の中の希望の門なのです。私達には、様々な悩み、様々な困難、様々な涙は避けられません。しかし、キリストを見上げることで私達は常に希望の下にあるのです。何故ならば、イエス・キリストは、良い羊飼いであり、良い羊の門だからです。「あそこに門が見える、その門をくくれば大丈夫。みんなで力を合われて、羊の門をくぐろう。元気な人も、病の人も、手を引き、肩を貸しあい、車椅子を押し、あの羊の門を目指すんだ!」これが信仰の道なのです。そのような意味では、羊の門とは、キリスト教会そのです。キリスト教会は、命の門、救いの神に通じる門、イエス・キリストご自身なのです。みんなここを通って、罪赦されて救いに囲いに入りたいと願います。
「衣の裾を広げて、私を覆ってください」 No.788
(マルコによる福音書6章53〜56節)
古畑和彦牧師
ルツは、ボアズに「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と結婚を申し出ました。あなたは私と結婚をして「家を絶やさぬ責任」がありますと迫りました。私たちには、責任があるから結婚をするということには、違和感があります。しかし、結婚は神の前での契約関係です。契約である以上責任があります。お互いが責任を果たすことなしに幸せな結婚はありえません。ルツは、情欲を超えたところの結婚を求めたのです。ボアズも責任ある対応をしなければならなくなりました。何と賢いプロポーズの仕方だったでしょうか。
「十二年間も出血の止まらない女」(マルコ5:25)は、主イエスの衣に触れただけで病気が治りました。そのことに満足して主イエスのもとを去ろうとしたこの女性を、主イエスは留めます。「触れただけで帰ってはいけない、私が愛の衣であなたの人生を覆ってあげる。私のもとに来なさい」と声をかけて下さったのです。私たちもルツの様に、主イエスに「どうぞあなたの衣の裾を広げて、この私を覆ってください」と祈りましょう。私たちのために十字架にかかって下さった主イエスは、愛の衣で私たちの人生を覆って下さり、幸いを与えて下さいます。
「のっぴきならない出来事として」 No.787
(マルコによる福音書16章1〜8節)
熱心なクリスチャンは、イエス様の復活を信じられない人を不信仰と言うかもしれません。しかしこの聖書箇所を見ると、墓でイエスの遺体がないことを目撃した婦人三人は震え上がり、正気を失って墓から逃げ去ったと記されているのです。つまり、キリスト復活とは信じられない出来事として始まるのです。ではその信じられない出来事はどうしたら信じられるのか。それは「のっぴきならない出来事」として出会う必要があるのです。私たちの、退くことも引くことも出来ない危機的な状況、自分の力ではどうにもならない人生と、イエス・キリストの十字架の死と復活というのっぴきならない出来事が出会う時、その意味をその事実を自分の事として理解できるのです。
私たちは死にゆく存在として生きています。どんな功績も努力も、全て死の先に持っていくことは出来ません。裸で生まれ裸で神のもとに帰る私たちは旅人です。この虚しくも素晴らしい人生とキリストの出来事が重なる時、私たちの魂は死と復活を体験するのです。つまり、キリストの死は私たちの死であり、キリストの復活とは、私たちの復活なのです。私たちがキリスト共に、死の墓から呼び出され、命のもと戻された出来事。これ以上の「のっぴきならない出来事」ありません。つまりこれこそが、イエス・キリストと私たちのイースター(復活)なのだと思います。
「子ロバに乗った王」 No.786
(ヨハネによる福音書12章12〜19節)
子ロバに乗った王とは、世俗の王とは違う印象です。王様ならば力の象徴である強い軍馬でしょうか。今なら、車のリムジンとかンチュリーでしょうか。しかしそれが、カローラいや軽自動車に乗ってやってくるのです。威厳も強さも見られない子ロバでの入場。それは、イエス・キリストが世俗の王とは全く違う王であること示しています。先週の話から言えば、イエス様の示す王は「仕える王」です。マルコの10章から言えば、偉くなりたい者は、皆に仕える者に。一番上になりたい者は、全ての人の僕に。イエス様は人に仕えてもらうことではなく、仕えるために来た王様なのです。仕える王は、多くの人の身代金として自分の命を献げる王なのです。イエス様はその仕える姿勢をもって、キリストに繋がる私たちも同じように隣人に仕え、神に従いなさいと示すのです。
私達は、礼拝ごとに、この子ロバに乗った謙虚に仕える王なるキリストをお迎えするのです。棕櫚の葉を振って、自分自身の心の内にキリストをお迎えするのです。その揺るがない岩なる神様を自分自身の心の内に迎えるものは、逆説的には変化を恐れる必要はないのです。それはパウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないと記したようにです。
あさひ教会はこの16回目の創立を迎えるまで、大変な大きな試練を頂きましたが、それでも神様に見捨てられず、神様は私たちを探し求め救い出して下さいました。故に、あさひ教会は、今尚生きており、神を信じて歩み、子ロバに乗った王にこれからも従って行きたいと思います。
「キリストの杯を飲むとき」 No.785
(マルコによる福音書9章57〜62節)
以前私はこの箇所を読む度に、弟子達の勘違いを指摘してきました。キリストの受難を理解しないで、自分達が王座の左右に着くことを願う愚かさをです。しかし改めてこの箇所を読んだ時、他の味方もあることに気付きました。それは、弟子達は自分もイエス様に従って受難を受け死ぬぐらいの覚悟があったのではという印象です。イエス様が「出来るか」と問うと、ヤコブとヨハネは「出来ます」と答えました。それは本気の返事だったのでは。しかしイエス様は、その本気の言葉を受け止めながらも修正を加えるのです。つまり、キリストの杯を飲むとは「偉くなりたい者は、皆に仕える者に。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。キリストは人に仕えられるのではなく、仕えるために来た。それが私の杯なんだ。」と語りました。
先日、神学校の同期で若くして亡くなった女性牧師の記念会に出席しました。彼女は、とても優秀な人材で大学卒業後はミッション系の高校教師に赴任しました。しかし、彼女の中の真実への追及は、高校教師を辞任させ「真実の言葉を語りたい」との願いを実行するために神学校に、牧師に向かわせるのです。
この言葉には私もとても共感しましたし、同じ思いが自分の内にもありました。しかし、その真実な言葉を語りたいと言う願いに対してのイエス様の回答は、何か想像も付かない知恵で答えるのではなく「仕えられるのではなく仕えるものになりなさい」という極めてシンプルでありながら、御言葉の核心を明確に現わす言葉で答えます。私達もまた、キリストに従う意味を改めて心に留めたいと思います。
「あなたが幸せになるために」 No.784
(ルツ記3章1〜6節)
古畑和彦牧師
ナオミはルツの幸せを考えて、ルツの「幸せになる落ち着き先」を探してきました。ルツは、死んだ者の名を継ぐために、夫マフロンの近親者(ゴーエール)と結婚する必要がありました。そのゴーエールであるボアズに、ルツが落ち穂拾いに出かけた初日に出会うことができました。ナオミは、摂理の神の導きに驚いたことでしょう。ボアズは、人格者で、その人柄は素晴らしいものでした。ナオミは、この人ならルツを委ねることができると確信していました。ルツにボアズとの結婚の意思があると確信したナオミは思い切った行動に出ました、ルツにボアズのところに行って直接プロポーズするように勧めたのです。ナオミは、ここまで導いて下さった摂理の神は最善をなしてくださるに違ない、と信じて信仰の冒険をしたのです。
今日考えたいことは、私たちにとって「幸せになる落ち着き先」とはどこかということです。ヨハネの黙示録3章20節は、私たちが、「『幸せになる落ち着き先』はどこかと探す必要はない、心の戸を開けて主イエスを迎え入れれば、そこが安らぎの場所、幸せの場所となる」と教えています。さらに、主イエスと結ばれた者の幸いは決して消えてなくなることはありません(ローマ8:38、39節)。
「キリストの涙」 No.783
(ルカによる福音書9章57〜62節)
ある日、イエス様に「どこへでも従って参ります」と言う人がいたと記されています。本来はキリストに従うと言うのですから素晴らしい心掛けとして歓迎されるはずです。しかしイエス様の返事は、悲しみと叱責に満ちていました。イエス様は「どこへでも従う」と言うが、本当にその従うという意味が分かっているのかと問うのです。つまり、従うといった弟子たちも皆、十字架の下でキリストを見捨ててしまった。ここにイエス様の涙があります。沢山の人がイエス様に従っていくが、風向きが悪くなると全ての人が裏切って逃走してしまったからです。しかし、この全ての人に裏切られるという出来事こそが、イエス様がこの世に来られた最も重要な使命だったのです。全ての人に見捨てられる涙の出来事。キリストの歴史は、裏切られるための涙の道だったのです。それこそが十字架なのです。そのキリストの涙、キリストの怒り、キリストの失望があって、私達は救われたのです。だから、受難節はキリストの涙に集中して行くことなのです。
現代的に言えば、神様は人間界を上から眺めているのではなく、イエス・キリストとなって地上に降り、あの3.11に於いて、キリストもまた一緒に津波で死んだのです。キリストも生き埋めになったのです。キリストも戦火で涙し、裏切られ、銃弾で共に死んでいったのです。だから、キリストの涙は、私達のあらゆる苦難の涙を体験し知っているのです。十字架のキリストの意味は、私達と同じ苦難を背負うための証しだったのかもしれません。ですから、一つ一つ聖書の言葉を追い、私達もまたキリストに連なりたいと思います。
「裁きではなく救いを」 No.782
(ヨハネによる福音書4章1〜11節)
私達の社会は裁きに満ちています。常に自分の価値観と視点で、相対する人を判断し裁きを下すのです。万人祭司ではなく、万人裁判官といった状況が世の常です。失敗しない人間などいないし、罪を犯さない人などいないのに、何故人は人を裁くのか。ある人は、大きな罪も小さな罪も正さなければならない。強盗犯が悪くて、万引きは見過ごしてよいのかと問うのです。確かにその通りです。
しかし、この裁きを下すには「資格」が必要であることを忘れてはなりません。それをイエス様は「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」という言葉で修正を加えるのです。つまり「強盗をした者が、万引きを裁く資格がありますか」と問題提起するイエス様の答えは、勿論「出来ない」です。それは自分の目に丸太か入っているのに、人の目にあるおが屑の塵を指摘するようなものであると言うのです。人から見れば「目糞鼻糞を笑う」といった諺のようですが、私達の日常はこの馬鹿な裁きに満ちているのです。
でも誰も裁かれたくはないはずです。キリストの到来は、この裁きからの解放と言えます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。人を裁く「資格」持つ神ご自身が、その裁きを放棄して、救いを告げるのです。ここに福音があるのです。裁く私達が、裁かれず救われる。キリストが救いを告げたのだから、救われた私達も救いを告げ知らせましょうというのです。これこそが福音伝道なのです。
「信仰は何を語るのか」 No.781
(マタイによる福音書4章1〜11節)
この荒野でのイエス様の悪魔の試みは、私達への信仰の試みであり三つ罠を現わしています。つまり、信仰があれば、空腹にならず石がパンになるだろう。信仰があれば事故にも合わず死なないだろ、病気にも災いにも合わないだろ。信仰があれは、どんどん成功して反映し裕福になるだろう。しかし、信仰とは、社会成功のための方法論なのでしょうか?。それはまさに昨今政治家と利益供与をしている振興宗教と言われる人たちの手法そのものです。私達のキリストは、それどころかそんな自動販売機型の偽物宗教ではないわけです。この箇所は私達に、本物の信仰とはなんであるかを問うているのです。信仰とは、問いの前での神との対話することなのです。
人間は衣食住に足りていれば幸せという生き物ではないのです。人間は、何故という問いを持ち続けている生き物、私は誰であり、何のため生きているのかを常に自分自身に問う生き物なのです。その考える葦である人間に、イエス様は語り掛けるのです。人間は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と。また箴言の著者は「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり/全てを健康にする。」と。
信仰とは、私達に常に迫る成功しなければダメ、限りある命は不幸といったステレオタイプの価値観から、人間の人生の意味をキリストの受難と十字架と復活から問い直す試みなです。この意味を深堀する哲学的な思考こそが、私達を真の意味で健康にし、神に近づけ、隣人と共同する人間へと引き戻してくれるのです。社会に溢れる安易な回答に引きずられず、まことの真理を信仰によって見て行きたいと願っています。
「慈しみを惜しまれない神」 No.780
(ルツ記2章18〜23節)
古畑和彦牧師
ナオミは、ルツに目をかけてくれたのがボアズであることを知りました。ボアズは、ナオミの親戚であり、しかも「家を絶やさないようにする責任のある人」でした。ナオミはボアズがきっとその責任を果たしてくれると信じていました。そこでルツにこの恵みの場から離れることがないようにと勧めました。「恵みの場から離れない」、これも信仰者に求められることです。こうしてルツは、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、七週間、ボアズのところで落ち穂を拾いました。
主なる神は、何と慈しみを惜しまれないお方でしょうか。ルツは、ボアズの目にとまって、親切を受けました。と同時に主なる神の目にとまって、惜しみない慈しみを受けました。その慈しみは、ルツだけにとどまらずナオミにも広がり、結果的に死んだ人――エリメレクとその息子たちにも広がっていきました。過去、現在、未来へと惜しみない慈しみは拡大していきます。真に、私たちの信じる神は、今も慈しみを惜しまれないお方です。慈しみを惜しまれない主をいよいよ信じて、御言葉に聞き従いましょう。
「時を待って実を結ぶ」 No.779
(ルカによる福音書8章4〜8節、11〜15節)
将棋棋士の羽生さんと藤井さんの対戦で、頭を掻いて髪の毛が立った姿をニュースは「アンテナが立っている!」と例えました。人は、難しい局面に立たされると特定の仕草をしたり叫んだりするようです。それは混乱した頭をなんとか整理するためのようです。そんな意味では、最近私は、ストレスに耐えられなくなり、突然大声で叫んでしまうことが増えたような気がします。勿論、人前では叫びませんが、バイクや車に一人で乗っている時にあります。20歳で洗礼を受けて、曲がりなりにもクリスチャンとして何とかやって来ました。しかしその日々は沢山の障害があり、石地に落ちて干からびるようであり、茨に遮られて傷だらけになるような日々であり、順調であったとは言えません。それでも何とか、御言葉にしがみつき、今も忍耐と辛抱をもって土地を耕しています。
イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われましたが、これは他者に向かって語っていると共に、もしかすると自分の声を叫びを聴くという意味なのかもしれません。つまり、自分の声を聴く時、それでも今日までやってこれた事実に出会うからです。あんな調子でも、不思議と守られ、今日までやってこれた。これこそ神のご配剤であると。良い地でもなく、立派な清い心でもなく、御言葉をよく聞き守るとも出来てこなかったが、それでも、忍耐して耕し、まがりなりにもクリスチャンとしてやってこれた。その感謝に出会うのです。だからこれからも、忍耐して実を結ぶ人でありたいと思いました。
「最後に来た連中として」 No.778
(マタイによる福音書20章1〜16節)
このぶどう園の話。何故ここで大きな混乱が起き、労働者達は農園の主人に食って掛かったのか。朝から働いていた労働者は、夕方から来た労働者を「最後に来たこの連中」と呼び卑下します。それは「妬み」によるものです。それを悟った主人は「気前の良さを妬むのか」と言い返すわけです。つまり、朝から働いていた労働者は、労働の対価への不満から、あの連中への妬みに駆られてしまうのです。主人の対応は、一見不公平のようですが、約束した対価を支払っている訳ですから契約違反でもなんでもないのです。しかし、人は「妬む」のです。「錆びは鉄を腐らせ、妬みは人を腐らせる」と言いますが、人間は妬みで腐っていくのです。一見正しいように見える主張でも、根底が妬みから出ている限り解決や和解は難しいのです。
でも人間社会とはそんなもんなんです。私も学生時代、出席日数が足りず単位を落としそうになった生徒を弁明する女子に「あいつは自分で楽くして休んでいるのに、なんで助けてやる必要があるんだ」と言ったことがあります。しかし、その助け船を出す女子は「だってかわいそうじゅない」と言ったのです。私はその言葉を聞いた瞬間、凍り付くような思いで、自分が大きな間違いを犯していることに気が付きました。そして、神の愛は、本来罰せられる人間を「かわいそうじゅない」と言って救ってくれる無償の愛なんだと知らされのです。イザヤ55:8「
わたしの思いは、あなたたちの思いと/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」。私も最後に来た連中であることを忘れず、この道を歩みたいと思います。
「その道を整える」 No.777
(ルカによる福音書1章67〜80節)
現代の日本は、御言葉の広がらない時代と言われます。それは仏教も同様で、彼らは「末教の時代」と呼びます。では一体それは何故なのか、何故、末教の時代なのか。それは人々の心の中から「問い」が無くなったことにあるように感じます。生きるとは何であるのか、人間とは誰であり、何処から来て何処へ行くのか、人生の目標、生と死とは。そのような哲学的な問いを持たず、生きている期間を他者より楽しく過ごすことに関心の大半が及んでしまう。しかしそのような時代でも、私達は洗礼者ヨハネに倣ってキリストの道を整えていく使命が神様から託されています。
しかし誤解してはいけません。例えば、テモテへの第二の手紙4章2節では「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」とありますが、この言葉は、問いを持たない人にも無理やり聖書の話しをしなさいという話しではありません。人は喉が渇いているから水を飲む訳で、喉が渇いてない人に水を勧めても飲みたいとは言わない訳です。この「時がよくても悪くても」とは、登山道の整備に似ています。道がなくては、山頂に行きたくても辿り着けません。一日誰も通らなくても、いつ人が来ても通れるように道を整備すること。それこそが、主の道を整えると言う現代的な意味だと思います。恐ろしい犯罪や新興宗教が人々を苦しめる時代に、キリスト教会は負けてはなりません。人々が「渇く」と叫ぶ日に備え、キリストの道を整える使命を放棄してはなりません。「備えよ常に!」それが私達に与えられたミッションなのです。
「燃え尽きない働きをする」 No.776
(コリントの信徒への手紙一 3章1〜17節)
先週、記憶に残る言葉がありました。それはスタートレックのピカード船長が定年後に「生きていたんじゃない、死ぬのを待っていた」という言葉です。大変な活躍をした人が老後を有意義に過ごしているようでしたが、そうではなかった、ただ死ぬ日を待っているだけであったと気付くのです。この言葉を受けて、自分はどうなのかと考えました。今、自分は生きているのか、それとも死を待っているのか。コヘレトの手紙12章1節に「
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはないと言う年齢にならないうちに。」とあります。私達には色々な目標があり、役割があります。それを担うことで充実した人生を行きたいと誰もが願う訳です。しかしその生きた人生を送る必須条件は、世界を造られ自らを造れた主なる神に心を留めることなのです。本日の箇所でも「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」とパウロの言葉あります。アポロもパウロも必死に伝道し、キリスト教の歴史において偉大な功労者です。しかし、その二人働きに注目することだけが重要なのではなく、成長させてくださる神に目を注ぐことなのです。
本当にこれでよいのか、何か間違っていないのか、本当に生きているのか、という問いが日々私達に迫り、迷路に迷い込むことが多々あります。しかしその時こそ、主なる神を見上げたいと思います。今あるのは、成長させる神様の力、これもあれも恵で過ごしている。謙虚な思いをもって今週も過ごしたいと思います。
「ひと言おっしゃってください」 No.775
(マタイによる福音書8章12〜16節)
イエス様のところに、大切な部下の癒しを求めて百人隊長がやってきます。しかし彼はイエス様が行って癒してあげようという申し出を断り、癒されるという言葉だけを貰えれば大丈夫だと言うのです。上官が部下に命じれば、その通り行うように、イエス様に命じられれば、その言葉だけで行えるという意味です。この返事にはイエス様は驚き「これほどの信仰を見たことはない」と絶賛しました。一般的に、上司に部下が命令すると「やらされる」という隷属的なイメージがありますが、ここでの命令への服従は自主的な応答であるということ注目したいのです。
私はこの出来事を見て思い起こしたのはマタイ5:41 にある「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」という言葉です。最初の一ミリオンは強いられて歩くが、次の二ミリオンは自主的に進むというイエス様の話し。イエス様に命令されて行うのではない、その言葉を自分の課題として、自分の意識で行っていく。これこそ、イエス様が絶賛した素晴らしい姿勢なのです。
つまり、信仰とは、社会への隷属から人間を解放する自主性の回復とも言えると思います。イエス・キリストとの出会いとは、そういう主体的な人間性の回復なのです。昨今、騒がれている新興宗教団体の教えはその団体への信徒の隷属が目的です。しかし、私達のイエス・キリストは、私達を自由にし、自分自身の決断で正しい愛の道を選び取る人生へと向かわせるのです。イエス様って素晴らしいですね。
「気前の良い神」 No.774
(ルツ記2章14〜17節)
古畑和彦牧師
ルツがボアズの畑で落ち穂拾いを行い、お昼になりました。ボアズは、ルツに上質のパンと炒り麦を与えました。ルツは、このボアズの気前のよさに対して、遠慮せずに食べました。ルツは、与えられた恵みを素直に、喜んで受け止める女性でした。ルツは昼食を終えると、すぐに落ち穂拾いに立ち上がりました。ルツは恵みを喜んで受けますが、そこに座り込んでしまうことをしません。すぐに自分の果たすべき働きに戻りました。夕方になり、ルツは拾った落ち穂を脱穀しますと、1エファ(約25s)にもなりました。これはボアズの気前のよさを示すとともに、ルツの勤勉さを表しています。
主イエスの語られた譬え話に、気前の良い農場主が登場してきます(マタイ20:1〜16)。この人は、8時間働いた労働者にも、1時間しか働かない労働者にも同じ賃金を支払いました。この主人は神を表しています。ルツに気前よく接したボアズの様に、神は大した働きもできない、取るに足らない私たちに、気前よく接して下さり、思いもよらぬ祝福を与えて下さいます。ですから、私たちもルツの様に、恵みを喜んで、与えられた務めを果たしていきましょう。
「キリストの望んでいること」 No.773
(テサロニケの信徒への手紙 一 5章12〜18節)
聖書には厳しい戒めと、限りない赦しと愛の宣言が混在しています。勢いのいいパリサイ型クリスチャンは、この厳しい部分に注目し、戒めなくてはならい、忠告しなければならないと考えるものです。私自身も若い頃はそんな調子でした。しかし、同じ個所に、互いに平和に過ごしなさい、気落ちしている人を励まし合いなさい、弱い人を助けなさい、全ての人に忍耐強く当たりなさいとも書いてあるのです。
つまり自分の期待している内容の聖書箇所には注目しますが、期待したくない箇所は軽く扱ってしまうのです。その姿勢は、神の期待しているクリスチャンの在り方ではありません。本日の箇所で、最も大切なことは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」との言葉です。神の望んでおられることを追い求めなくてはなりません。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」なのです。喜べない現実の中で喜び、祈れない日々の中で祈り、感謝出来ない状況下で感謝する。勿論、そんなことは出来ない!というのが本音だと思います。しかしその本音にならって落胆の日々を過ごしていても、私達の人生は一向に好転しません。良いことなんて一つもない。寧ろ、大きく心を切り替えて、神様が望んでいる方向に人生の舵を切るのです。直進だけが道ではありません。時には、大きく舵を切ることが必要です。イエス様は私達の前に立って「おもかじいっぱい!」と叫びます。私達もまた、「おもかじいっぱい!ヨースロー」と呼応するのです。キリストに従う道は、必ず私達の人生を好転させることでしょう。今年もこの方についていきたいと願います。
「希望通りに」 No.772
(テトスへの手紙3章4〜8節)
「怠惰を認めて、勤勉にいきつく。」という言葉がありました。これはあるアニメの中で、麻雀の勝負師に言われた言葉です。楽して金銭を得ようと賭け麻雀を始めるが、勝つために必死に勉強をしていたら勤勉になってしまったという話しです。
これは、本当に面白い言葉で、私もとても共感しました。そして信仰の世界も似ているように思います。自分自身の様々な問題で疎外感を感じ、神に救いを求めて教会の門を叩く。そこでは、自分の傲慢さや我がままさや怠惰さの逃げ道としての信仰があると思いますし、私も同様でした。
しかし、礼拝を守り、賛美と祈りを献げ、キリストの言葉に留まる時、我がままの肯定を期待して神のもとに来たのに、いつしか勤勉に謙虚にさせられていたという現実に出会う。当初希望したこととは、結果が大きく違いますが、人生は好転していくのです。神を信じるとそういう道なのかもしれません。
そして更に言い換えれば、「怠惰を求めてキリストに行きつく」といってもいいように思います。私達はキリストによって勤勉にさせられますが、その勤勉さで救われる訳ではないからです。私達の救いは、あくまでも、神の憐れみによって救われているのです。イザヤ9章にある聖書の言葉から言えば「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」 今年も、神の下に集まった仲間と共に、キリストに行きつく希望をもって歩みたいと思います。
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