カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


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2021.10.17更新
    

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「従うべきものには従う」        No.709
      (ローマの信徒への手紙13章1〜10節)

 誤解してはなりません。パウロはここで、「国家権力はすべて神の授け給う不可侵の権威を帯びている」といった王権神授説的な神学を開陳しているのではありません。聖書全体を見ればわかります。旧約の預言者たちは、神に背き、慈しみと正義を欠く王を厳しく糾弾しました。イエス様を拝みに来た東の博士たちは、ヘロデ王の命に背いて「別の道」から帰りました。ペトロやヨハネは、議会に呼び出されて「イエスの名によって語るな」と脅された時、「神に従わないであなたがたに従うのが神の前に正しいかどうか考えてみてください」と言い返しました。神のみこころに反逆するようなニセの権威には服従してはいけないのです。

 ではパウロはなぜ「権威に従いなさい」などと教えているのか。それは「この世のことなど関係ない。すぐ終末が来るのだから」といった社会的に無責任な熱狂主義の問題があったからです。パウロは教えます――この世の秩序も神の下にある。神様は世の秩序を通して人間を守るために、政治や行政にあたる人に一定の権限を授けている。だから私たちもそれを重んじ、法を守り、税金を納め、良い市民として胸を張って生活しよう。それは私たちが妨げられずに、本当に大事なこと、すなわち福音を伝え、福音を生きることを守り続けるために必要なのです。


「後で考え直すという道」        No.708
      (マタイによる福音書21章28〜32節)

 父親が長男に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」というと、彼は「いやです」と答えましたが、後で考え直して出かけました。次男にも同じことを言うと、彼は「承知しました」と返事をしたもののぶどう園へは行きませんでした。どちらが父の望み通りにしたか。もちろん兄です。この譬えで面白いと思うのは、「行きます」と言ってすぐその通り実行する三番目の息子は登場しない、ということです。そんな非の打ちどころのない人などいない、ということではないでしょうか。おそらく我々は、「後で考え直す」という仕方でしか、神様のもとに行くことはできないのです。大事なのは、自分に向けられた真実の勧告をまっすぐに受け止め、素直に「後で考え直す」ということです。

 神が救い主としてこの地に送ってくださった神の御子がわからない。これはイエスに敵対したエルサレムのお偉いさんたちだけではありませんでした。弟子たちもまた「何を望んでいるかわかっていない」のでした。絶望か。いや、イエス様はすべての者に「後で考え直す」という道を用意してくださっています。

 今日は世界聖餐日。我々も世界の仲間と共に、主の食卓を囲みます。この食卓は返事も行動も満点という優等生のみ招かれている場、ではありません。神に背き続けてきてしまったけれど、「私のぶどう園に行って果実を収穫しておくれ」という父の呼び掛けに後で考え直し、一方的な恵みによって赦された者たちが、「ここに来られて良かったね」と互いに喜び合う――そんな祝宴なのです。


「信仰は怠情の理由に非ず」       No.707
   (テサロニケの信徒への手紙二 3章6〜13節)

                 荒瀬牧彦牧師

 宗教は民衆のアヘンだ」とマルクスは言いましたが、宗教が神の御旨から遊離し、人をだめにする方向に働くというのは確かにあることです。テサロニケの教会で、一部の熱狂的な人が「仕事を放り出し、怠惰な生活に明け暮れる」ことが起こっていました。パウロはそれに対し、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と書き記します。

 ここでの「働きたくない者は食べてはならない」という言葉を根拠に、自己責任論を振り回すようなことをしてはなりません。これは、信仰を理由にして働くのを放棄している人々への警告なのです。収入を得る仕事をしている人だけが一人前で、食べる権利があるという教えではありません。労働が無理の状態にある人にだって、誰にだって、食べる権利があります。食は分かち合うべきものです。そのことをよく確認した上で、我々は<働くことの尊さ>をここから学びましょう。ギリシア世界では、働かないでよいのが精神性高き市民で、労働は低次元の事という考え方があったようですが、パウロは「地に足をつけて、落ち着いて仕事をする」信仰者の生き方を教えているのです。

 イエス様は安息日に人を癒し、そのことを批判された時、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われました。天の父の愛があり、それを具現化するイエスの奉仕があり、そしてその延長線上に私たちの「働く」があります。誰にでも、どんな状態でも、生きている限りは必ずできる仕事があるのです。まったく動けない人にだって、心を動かし、祈りをささげるという尊い労働があります。「たゆまず良いことをする」労苦を通して、わたしたちは天の父、御子イエスとつながっています。



「神からの誉れ」            No.706
      (ローマの信徒への手紙2章17〜29節)

                  鈴木淳牧師

 イエス様は、自分たちこそ律法を守り、神に仕えていると自負するユダヤ人に対して、神様を侮っていると指摘します。そのことをカール・バルトは「目覚めた者のはずなのに、神の判定によれば彼らは眠れるもの。信仰があるのに信仰なき者、義なる者なのに不義なる者」になっていると厳しく批評しました。そしてそのような「神抜きの神の戦士は、道標の指さす道を行かないで、道標のもとに立ち止まっている旅人に等しい」と言うのです。自分たちの上に道先が記されているのに、それを見上げないで、立ち止まり、迷っている人間。傍から見ればおかしな話しですが、それが私たち人間の現実なのだと思います。

 人間の知恵、人間の話し合い、人間の努力で、何かを達成し得ると思い、右往左往する人の姿は、道標を見上げずに、その真下で立ち尽くす迷い人と言えます。
大切なことは、人を見ずに神を見上げること。神という道案内をよく見ること。人と人が向き合って、道について議論するのではなく、上を、神を見上げる。その時、おのずと道は開かれるのです。イエス様は言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」



「人を分け隔てする罪」         No.705
           (ヤコブの手紙2章5〜13節)


 ヤコブの手紙は、「行いが伴わないなら信仰は死んだもの」と教えてくれる手紙だ。その「行い」の中で特に取り上げられているのが「人を偏り見る」問題である。裕福な人は大歓迎で厚遇し、貧しい人は冷遇する。当時の社会では当たり前の事だったが、ヤコブはこれを重大な「罪」と見た。現代の我々も抱えている問題だ。相手によって態度を変えている自分がいる。

 ヤコブは、そのような差別は「誤った考えに基づいて判断を下した」ことになるのだと指摘する。何に基づいて判断するのか。世の慣行ではない。基準は神だ。旧約聖書は「神は人を偏り見ない」と度々記す。貧しく虐げられている人間にとってこれがどんなに大切な希望であったか!世で不当な扱いを受け続ける弱い立場の者に、偏り見ない神は最後の砦である。

 「栄光に満ちた主イエス・キリストを信じながら人を分け隔てしてはならない」とヤコブは言う。イエスの栄光とは、ベツレヘムの家畜小屋に駆けつけた埃まみれの羊飼いらが、飼葉桶に寝かされた御子にみた栄光だ。イエスは物乞いにも金持ちにも、会堂長にも百人隊長にも、まったく同じくように、人として向き合ってくださった。「人を偏り見ない」神の受肉。それが栄光に満ちる主イエスである。その主の憐れみによって救われた者として、憐れみを人と人との関係に満たしていこう。分け隔てなく、出会った一人ひとりの尊厳を心から重んじ、共に生きよう。


「問題だらけのコリント教会」      No.704
    (コリントの信徒への手紙一1章10〜17節)

                
荒瀬牧彦牧師

 パウロが去った後、コリントの教会に颯爽と登場したアポロという伝道者にはよほど魅力があったらしい。パウロは「書く」力があったものの「語る」説教は聞き辛く、他方アポロの雄弁は力に満ちていた。パウロはアポロと張り合うつもりなどない。しかし信徒たちが比べてしまうのだ。そして、「私はパウロにつく」、「いや私はアポロに」と対立が始まり、「いや、ケファこそ一番弟子」というペトロ推しも現れ、さらには「キリスト派」主張の人さえも出てくる始末。

 派閥抗争は世の常。「人の集団はどこだってそんなものだ」という見方もあろう。しかしパウロは、キリストの体なる教会にとっての重大問題をここに見てとり、手紙を通して「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と教えるのである。最も低い所まで降り、底において我々を受け止めてくださったキリストの十字架を無にするような愚かなことをしてはならないのだ。

 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」とパウロは言う。この「しかし」の後をしっかり見て取ろう。それが「霊の人」のすることである。我々がただの「肉の人」にとどまり続けるなら、人に左右され、一つの体である教会が肉の問題によって裂かれてしまうのだ。


「あなたがたの天の父は」        No.703
       (マタイによる福音書6章25〜34節)

                
内田弥生長老

 本日の箇所は「思い悩むな」という小見出しが付けられています。イエス様の時代に生きる人々にとって、何を食べようか飲もうか、何を着ようかということは、実際生きる上で切実な問題として常に人々にあったでしょう。そのような人々にイエス様は「空の鳥を見よ。野の花を見よ。あなた方の天の父が育んでいるその姿を見よ。働きもしない、紡ぎもしないものでも、このように命を与えて下さっている。ましてや、あなた方はそれに勝るものではないか」と。「君たちの天の父はね」と話しかけてくださるイエス様の愛の眼差しを感じます。今日の思い煩いに右往左往している私たち。自分の足で立とうともがいて、明日を憂いている。そんな私たちにイエス様は「信仰の薄い者たちよ」とたたみかけます。しかし、責めているのではありません。「だからこそ私は救いたいのだ、私により頼み、神の国と神の義を求めなさい」と語りかけるのです。

 神の国は、今現在生きているこの世にあります。神との正しい関係を築きなさい。体と命を与えたもう方を当てにして生きなさい。安心して求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば天の父が人智を超えて、あなた方の心と考えを守ってくださる。苦しみを苦しみとして受け入れる――そのことさえ神はご存知です。天の父を信じることを賜物として与えられています。信頼し、委ねて生きよ。それこそが真の命であり賜物として与えられている、私たちが今を生きることを許されている根拠そのものなのです。


「神の正しい裁き」           No.702
      (ローマの信徒への手紙2章1〜16節)

                  鈴木淳牧師


 全ての人類は、神の裁きのもとにあります。私たちは他人を裁くことによって、神の怒りを自分自身に蓄えてしまっているのです。その蓄えた神の怒りは、時が来ると、自分が裁いたあの人が裁かれるのではなく、正しく裁いたつもりの自分が神に裁かれるのです。

 この神の裁きがおかしいと思う人は、神様の立場から考えたらどうでしょう。キリストの救いによって赦しを人に与えているのに、あいつが悪いこいつが悪いと人間同士争いの連続。神様から見れば「俺が赦したのに、なんでいつまでも裁きあっているの」と怒り心頭では。この赦しは無料ではなく、御子の死の代償をもって差し出された赦し。それなのに、隣人を赦せないとはどういうことか。

 人を裁くという人間の性質を、カール・バルトは、川の流れに流される人類のようだと形容します。抵抗はすれど全ての人類がこの流れに逆らえないと。預言者エレミヤもルターもフランチェスコも、使徒パウロでさえ例外ではない。その姿は不幸の海に漂う漂流者のようだと。しかしその不幸の海の只中に見出すのがキリストの島。キリストの赦しという島にたどり着くことが、唯一の救済の道。但し私たちは自力でこの島に泳ぎ着いたのではなく、打ち上げられた漂流物のようなもの。「助かった!」キリストの救いとは、そんな命からがらの出会いなのです。神の恵みの偉大さ、そのご配剤に感謝したいと思います。



「平和を実現する者は幸い」       No.701
      (マタイによる福音書 5章 3〜11節)     


 主イエスが山の上でなさった八つの「幸い」宣言(八福)ですが、七つめの「幸いだ。平和を造り出す者は」には、他と少し異なる要素があるようです。八つとも神様に与えられる(して頂ける)恵みが述べられていますが、「平和を実現する者たち」は、神の子と呼ばれ、ただ受けるだけでなく、一歩進んで神の協働者とされて、神の慈しみでこの世界を満たしていくという働きを担う、というアクティブな役割が加わっているからです。

 ヘブライ語の「シャローム」は、戦争状態がないというだけでなく、すべてのいのちが満たされ、尊厳を守られ、互いを慈しみ合っている状態です。強者が圧倒的力をもって弱者を抑えつけて黙らせているなら、表面的に平穏だったとしても、シャロームではありません。詩85編に「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」とあります。正義の踏みにじられている所には真の平和はないのです。また平和なしの正義というものもありません。

 私たちは平和を造り出すためにどうすればよいのか。たくさんのことが必要ですが、基本はシンプル――神様に与えられている感性と想像力をフルに用いることです。神・キリストがそうされるように「見る」、「よく聞く」、「人の痛みを知る」、そしてその結果「動く」ことです。平和を造る神の子たちに幸いあれ!


「与えられた使命に生きる」       No.700
          (使徒言行録20章17〜35節)     

 パウロが「私は今エルサレムに行く」と行った時、周囲は反対しました。彼にも、投獄と苦難が待ち受けていることはわかっていました。でも危ないから行かないという発想はなく、「自分の決められた道を走り通し」、「神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たす」ことができれば、命だって惜しくないと考えました。

 信仰は私たちに、「人生とはミッション」であり、「生きるとは、神からの使命を果たすこと」と教えてくれます。使命とは、天からの「使え命を!」という呼び掛けです。それに応えてこその人生です。パウロは伝道のために貧や病や苦を負った人ですが、しかし、幸いな人でした。なぜなら、伝えるべきことを伝え、使命を全力で果たしたからもう自分には責任がないと言うことができ、後悔が残らなかったから。そして、使命の故に泣きながら別れなければならない愛する人たちを、「神とその恵みに委ねる」ことができたからです。

 旧約の預言者エレミヤは、もう語ることをやめようと思うほど苦労しましたが、「神様、あなたの勝ちです」と白旗をあげて、語り続けました。パウロもその線上にいます。「私の負けです」と告白した人は、祝福された人生を送ります。「あなたに託された使命にささげられたから後悔はありません。愛する人たちのことも安心してあなたに委ねられます」。そう感謝できる人生です。



「慰めの子がいて良かった」       No.699
          (使徒言行録 9章26〜31節)     

 サウロ(パウロ)は、キリスト教の大迫害者でしたから、回心後の彼がエルサレムに現れた時、弟子たちは怖れました。その時、彼を使徒たちのところに案内し、「主がこの人に出会い、召したのです」と説明したのがバルナバでした。「説明した」は「つないだ」とも訳せます。バルナバが関係を作ってくれたからサウロは教会の中に受け入れられたのです。

 その後、エルサレム教会とサウロの連絡が途絶えていた時、バルナバはタルソスまで足を伸ばし、サウロを探し出してアンティオキアに連れていきました。そこで共に牧会し、共に伝道旅行に赴き、大きな実りが生まれました。バルナバの存在は大きかったのです。次の伝道旅行の時は、両者の意見が衝突し袂を分かつことになりましたが、それはバルナバが、最初の旅行で挫折したマルコという若い弟子を再起させようとしたからです。

 バルナバは、人を見出し、人をつなぎ、人を活かす人でした。バルナバというのは教会でついたあだ名で、「慰めの子」という意味です。初期の教会に真の慰めの子がいたのは本当に幸いなことでした。あなたも、慰めの子に助けられる時があるでしょう。そしてあなたが、誰かのための慰めの子となる時もあるのです。


「人類の罪」              No.698
     (ローマの信徒への手紙21章18〜32節)

                  
鈴木淳牧師


 
パウロは、この箇所で大いに人間の罪を指摘します。神の造られた自然を見れば、神の存在は明白であり弁解の余地がないと言います。日本の山の頂に登るとほこらや神社があるように、人間の多くが自然の中に神の存在を感じているのです。しかしそれなのに人間は、神から離反してしまうのです。「自分は知恵あるもと自負して、神以外の偶像を作り、それを拝めた。」つまりここでの問題は「知恵」なのです。人は、知恵があるから神様を見出すとも言えるし、知恵があるから神はいないとも言えます。

 この箇所について、カール・バルトは彼の著作『ロマ書』の中で「人々は先ず自分自身に迷い込み、次に神ならぬ神に迷い込む」と言います。つまり、偶像礼拝の根源は、自分自身の迷い込みにある。自分の存在を見出せないという実存の問いによって、人は迷路に迷い込んでしまうのです。しかし神は見えないから見出せないのではない。バルトは「神の不可視性こそが、神の永遠の力でありその神性であり、神が未知なるものでないとすれば、我々はそれを神と崇めることが出来るのか」と問います。未知なる神でないなら、どうして神であると言えるのか。私たちの理解できる範囲に神がいるはずがない。神の不可視性、神の未知なる力の内にこそ、神が神であるゆえんがあるとバルトは結論付けます。つまり、まことの知恵があるとすれば、それは不可視で未知なる中にこそ神を見出すことなのです。箴言に「 主を畏れることは知恵の初め」とあります。人類の罪を赦すという理解不能な未知なる神の御旨に、私たちも心を寄せて行きたいと思います。



「サラの神はハガルの神」        No.697
            (創世記21章 9〜21節)     

 差別とは、我々の抱える大問題です。「私には差別の意識はない」とか、「日本には人種差別はない」という人がいたら、ただ気が付いていないだけと言わねばなりません。たとえば沖縄の苦しみを考えてください。面積が国土の0.6%の沖縄に、在日米軍施設の70%があるという事実。戦後、首都圏の米軍基地の多くが返還される中、沖縄には更に基地が増えました。ヤマトの我々はそれを当然のように考えています。自覚していないだけで、明白な沖縄差別があるのです。

 無意識のうちにある差別に気が付いていくこと。そしてそれを乗り越える努力をしていくこと。それは、神さまに「神のかたち」として創造された人間が、真に人間らしく生きていくために、不可避の課題です。歴史的に見ると、宗教が差別を解決することができず、むしろ加担さえしてきた過去があるのは悲しいことです。しかしなおイエス・キリストにある救いは、人に差別の罪を悟らせ、囚われた心を解放し、新しい関係を生み出す力を持っていると私は信じます。
アブラハム・イサク・ヤコブの神としての主の業を描き出す創世記の中に、ハガルの物語が含まれていて、サラの神はハガルの神でもあると名言されているのは大事なことです。神はハガルと息子イシュマエルの泣く声を聴かれたのです。



「悪魔とは手を切ろう」         No.696
          (使徒言行録19章13〜20節)     

 出身部族や受けてきた教育など、人に誇れる諸々の条件を持っていたパウロが、このように語っている。「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています」(フィリピ3:7-8

 本物に出会ったら、他のものは未練なく捨てられるのだ。偶像満ちる文化の中で育ち、いかがわしい魔術を使って利益を得ていた者たちが、キリストへと導かれたがゆえに、高価な魔術の書を持ってきてすべて火にくべてしまった。もうそこへは戻らないという決意を行動で示したのである。初期の教会では、洗礼志願者たちは、洗礼を受ける前に幾度も「悪魔とは縁を切ります」という誓約を行った。後戻りしないためである。

 人は欲に弱い。しかしその人間が、既得権益を喜んで捨てられるようになる。それほどの力をもった本物の愛がキリストにある。私たちも「キリストにかえられません」と歌い、そう生きる者でありたい。


「たゆまず祈る 一緒に生きる」     No.695
     (ローマの信徒への手紙12章 9〜21節)     

 我々の祈りは浮かんだり消えたりする我々の感情と同じものではない。中空に吐き出す溜息とも違う。キリストの名を通し、聖霊に導かれて、天の父へと向かう祈りは、人格的な交わりである。祈ること自体、神様のお働きへの参与である。だからどんな時でも、いかなる境遇にあっても「祈り続ける」ことが重要だ。

 我々の祈ることは、大事なことであればあるほど、実りが見えるまでの時間がかかる。神は我々の祈りを聞き漏らすことのない御方だが、それはこちらの陳情項目を一件一件クリアしてくれる神だ、ということではない。むしろたゆまぬ祈りを通して、我々が変えられていくのである。奥村一郎神父の用いたイメージでいえば、我々は湖上に浮かぶ小舟である。岸からのロープを我々がひっぱる(祈る)時、岸(神)をこちらに引き寄せているのではなく、舟が岸に引き寄せられていくのだ。

 パウロがもし今生きていて我々の教会の状況を知ったなら、ローマ書に書いたのと同じことを我々に書き送るだろう。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」。この言葉を本気で実行しよう。ちょっと祈って、「やっぱりだめだ」と投げてしまうことのないように。神が道を示してくださることを信じて、じっくり腰を据えよう。「祈って待つ」ことのできる教会でありたい。


「手のひらに刻み付けられた我ら」    No.694
           (イザヤ書49章14〜21節)
          (使徒言行録 4章32〜37節)     

 
神の手のひらに刻み付けられた主の民は、神様の帰還と共同体再建の約束を、確かに果たしてもらいました。それは、エルサレムの都に新神殿が建造され、城壁が補修され、人口も増えてメデタシメデタシ、という実現ではありません。その意味なら、再建された都は再び帝国(今度はローマ)によって破壊されてしまうわけで、空しい話なのです。そうではなく、「神の手のひらに刻み付けられた」人々は、「心も思いも一つにして」、「一人として貧しい者がいない」と言えるほどに分かち合って共に生きる共同体を(土木工事によらず)聖霊によって与えられたのです。2世紀前半の教会指導者ユスティヌスは、その頃の教会の様子をこう記しています。「かつて、むやみに他人の財産や富を欲した我々が、今や所有していた財産を共有して、すべての貧しい人々と分かち合っている。」誕生から百年が経過した教会にも、そのようなスピリットが宿っていたのです。 

 わたしたちは今、財産共有の共同生活をしているわけではありません。そうすべきということでもありません。しかし、誰も威張らず、誰も卑屈にならず、一人も貧しい人がいない。そういう共同体から出発し、その完成(神の国)を目指して歩んでいる者です。神様の手のひらに刻み付けられた民である、という自覚を大切にしていきたい。



「初めから終わりまで、信仰を通しての実現」  
                    No.693
     (ローマの信徒への手紙 1章16〜17節)

                  鈴木淳牧師


 テレビショッピングなど見ていると、衝動的にものを購入してしまう場合があります。しかしよく考えると不要なものがほとんどでは。人間は計算高く損得を生きようとしているようで、多くの場合、感情に左右され、正確な判断など出来ていないのです。また世俗社会は、その人間感情を利用して、商戦だけでなく、政治や思想までもコントロールしようとするのです。だから、私たちに見極める力がなければ、あっと言う間に悪魔の餌食になってしまいます。だからこそ、揺るがない一点を見上げていく必要があると思うのです。その一点とは、パウロが語る福音の力です。パウロはこの福音を「信じる者、全てに与えられる神の力」と記しました。

 この箇所の旧約聖書ハバクク書の引用箇所の2章2節には「走りながらでも読めるように書き記せ」と神の言葉が語られます。よく街中でスマートフォンを見ながら歩いている人を見かけますが、歩きながらではなく走りながらでも読めるようにはっきりと記していくこと。それは、如何にその福音が私たちにとって重要であるかを語っています。ある人が「悪魔があなたからひとつだけ取り上げられるとしたら、それは聖書だろう」と記しました。悪魔が恐れる聖書、それは私たちを生かす最も大切な神の言葉だからです。私たちは、福音を悪魔に取り去られないよう、走りながらでも読めるように、日々私たちの心に書き記して今週を歩みたいと思います。



「主のもとに無駄はなし」        No.692
     (フィリピの信徒への手紙2章12〜18節)


 「不平や理屈を言わずに行いなさい」とパウロが言いました。不平はギリシア語でゴグスモス。日本語だと「ブツブツ言う」。どちらも濁音が多いのは、心の中で濁った音がするからでしょうか。「なんで私がこんなことやらなきゃいけないの!」。そんな呟きが理屈を支配し始めると、キリストに従って生きるという信仰の道に身が入らなくなります。すると、へり下って仕えて生きるなんてことは馬鹿らしくなり、辛くなり、遂には放り出してしまいます。パウロはそのことを心配し、愛するフィリピの人たちが、神様に頂いた救いにふさわしい生き方を最後まで全うしてほしい、と心から願っているのです。

 闇夜に星のように輝く信徒たちの姿をパウロは既に見ています。自分のしたことが「無駄ではなかった」とキリストの日(終末)に振り返ることができる、と信じています。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」(コヘレト11:1)。キリストの従順に倣って仕えて生きる道には、パンを水に流すような虚しさが度々あるでしょう。でも、それは決して無駄にならない。そう確信できる私たちは幸いです。


「悔い改め――その時は今!」      No.691
          (使徒言行録17章22〜34節)


 アテネのアレオパゴスでのパウロの説教。それは今までの彼の語り口とはかなり異なるものでした。ギリシアの神々の像が満ちている宗教風土の中にいる人たちの側に立って語り始めたからです。相手に大切なものを届けるのならば、壁を壊そうとするのでなく、扉を開けて入るのは大切なことです。異邦人には異邦人のようになって、です。しかし、パウロは福音を水で薄めたわけではありません。話は核心に至り、キリストの復活を語りました。すると、ある者は嘲笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」とスルーしました。パウロは自信を失い、ひどく疲弊してアテネを去りコリントに移りました。

 ではこの伝道は「失敗」だったのか。そうではないでしょう。「彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」のです。「何人か」の心にはパウロの語った言葉が響いたのです。「今、神は、すべての人に悔い改めるようにと命じておられます」ということばが、目覚めを与えたのです。この「何人か」にとって、神からの「今」を語ってくれるパウロはどうしても必要な人でした。

 私たちの存在も誰かのための、神からの「今」を告げるために用いられます。数で成功・失敗を計る必要はありません。大切なのは神の召しに忠実であることです。


「父と子と聖霊に包まれて」       No.690
    (エフェソの信徒への手紙 1章 3〜14節)


 今日の箇所(3節から14節)は長いですが、ギリシア語だと一センテンスです。「ほめたたえよ!」という賛美から始まり、そのさんびの理由を神、キリスト、聖霊の順に語っていきます。これは賛美歌として歌われていた者でしょう。この歌は喜びに溢れています。それはなぜか、三つの理由をあげてみましょう。

 第一は「キリストによって」という根拠を持っているということ。キリストがこの地上に来られて、わたしたちを贖う(買い戻す、身請けする)ことをしてくださり、天の父とつながれました。」第二は、「神が選んでくださった」という土台。その選びは決して変わることのない永遠のものです。第三は、私たちが「約束された聖霊で証印を押された」ということ。この聖霊は私たちが「御国を受け継ぐための保証」だというのです。聖霊は、私たちの内に宿ってくださる神です。聖霊のお働きがあるので、キリストを主と告白し、キリストの名によって父をあがめることができるのです。

 三位一体という言葉は初期の教会にはまだありませんでしたが、しかし、この賛美歌は、キリスト者たちが、父と子と聖霊に招かれ、包まれ、育てられるということを礼拝において実際に経験していたということを表しています。それが後に教理となっていたのです。父・子・聖霊のお働きが先にあります。



「自分になる 自分を超える」      No.689
           (使徒言行録 2章 1〜11節)


 
キリストの復活から50日、昇天から10日目のこの日、祈って待っていた弟子たちに聖霊が降臨し、教会は世界に向かって神の救いを語り出しました。二点に注目しましょう。一つは、聖霊が巨大な炎の舌として全体をのみこんだというのではなく、分かれて一人一人の上にとどまったという点です。一部ではなく一同に降ったのですから、信仰深さや能力や血筋による選別はありませんでした。取り残される者はなかったのです。でも十把一絡げではなく、個々のパーソナルな経験でした。「私が神に創造された本来の私になる」経験とも言えます。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」この実は自分が自分として受容され、活かされる時に生まれてくるのです。

 もう一点は「違うことばで語る」ことが起こったということ。彼らが外国語の達人となったというのではなく、この時だけのことでした。しかし教会はその最初の出来事において、それから先進むべき道を示されたのです。本質を示されたのです。それは「異なる者が共に生きる」ということです。神の家族とは、違う言葉を話す人たち、違う背景や歴史を持つ人たちが、違いを抱えたまま一緒に生きる共同体だ?そのことが聖霊降臨の日に示されたのです。異なる気質や考えを持つ人と共に働くのは大変です。苛立ちも生まれます。でも、キリストの福音につながれているがゆえに、私たちは忍耐強く対話を続け、困難を乗り越えていくのです。



「パウロの願い」            No.688
      (イザヤ書52章 7〜10節)
     (ローマの信徒への手紙 1章 8〜15節)


                  
鈴木淳牧師

 使徒パウロの願いは、ローマの仲間に、会いたい、励まし合いたい、使徒としての責任を果たしたいというものでした。そして、新しいローマの教会にある混乱と問題解決の手助けをしたいというものでした。しかしその彼の願いは、パウロが元々持っている優位性ではなく、キリストの裏切者としてのマイナスからの伝道であったということです。

 神学者カール・バルトは「使徒というのはプラスの人間ではなく、マイナスの人間である。その空洞をもって人々に益する。 それは、君に由来するものはなく、私に由来するものでもない、われわれは共に無であり、無一物である。」と、ロマ書の講解で話されました。何もない、無一物、いや何もないどころかマイナスの人間としての出発です。しかし、そのマイナスを神は用いられるのです。

 ノールトマンスという神学者は「クリスチャンとは一体どういう者であろうか。いろいろな答え方があると思うが、こう言うことができるのではないだろうか。クリス チャンとは、人生がそう簡単にはいかないということを知っている者のことである。クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる。古代の神学者アウグスティヌスはこれを、弓矢を引くことにたとえている。まず後ろに引かなければ、前へは飛ばないのである。最も遅れた人生こそ、最も遠くまで行くのである。これこそ聖霊に導かれる生き方である」と語りました。
 
 弓矢を飛ばすには、後ろに弓を大きく引かなければならないように、聖霊は私たちを、後ろに大きく後退させるのです。しかしその後退をもって、人生の遅れをもって、神は私たちの使命を、責任を果たさせようとするのです。
 
 キリストを信じる者は、マイナスを、よりマイナスであると評価し合うような、世俗社会に組しないことだと思う。それは、キリストが私たち人生の後退をもって、前に進めてくださるからなのです。

 Uコリ12章 9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。弱さの自覚なくして、キリストの力は十分に発揮されないのです。だから、私たちはパウロのように、罪あるものであること告白し、赦された事実を延べ伝えるのです。



「演じる祈りではなく」         No.687
        (マタイによる福音書 6章1〜15節)


 いわゆる「信仰熱心な人たち 」も大変でした。善行、施し、祈りという自分の 行為 を、人に見てもらえるようにと、あの手この手で努力していたのです 。世間に認められれば自分の評価がアップし、それなりのリターンがありました。でもイエス様はそれを「もったいない」というのです。 世の評価という次元で完結してしまって、本当に大事な、天の父からの祝福を頂けなくなるからです。良いことをし、祈りをするなら、神様だけが見ておられる 隠れた 場所でしなさい」とイエス様は教えられました。

 しかしさらにすごいことを言われたのです。「右手のしたことを左手に知らせるな 」。つまり、自分のしたことを自分に誇るな、ということでしょう 。 自分がしたことはどんどん 忘れていきなさい」という<信仰的健忘症のすすめ> です 。私たちの中にしばしば「あれだけのことをしたのに、それが忘れられている」という不満や憤りが湧きます。でもそれが 自分のした「善い」ことをどれほど駄目にし、悪臭さえ 放つものにしてしまうことか 。自分の積んだ善行や施しや祈りの数など忘れてよいのです。忘れたほうがよいのです。天の父が覚えていてくださいます。天国銀行の残高確認は不要です。なすべき信仰の業をささげたら、後は神様に委ねましょう。

 神さまが見ておられる。 受け止めてくださるこの純粋で真実な信仰に繰り返し立ち帰りましょう。人の前で「演じる宗教性から解放されていくために 。



「あなたは既にみている」        No.686
        (ヨハネによる福音書14章1〜11節)


 「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスが言われました。我々の信仰は、本当は「キリスト教」ではなく「キリスト道」と呼ぶべきものでしょう。キリストの教えを学ぶことではなく、キリストという道を生きることなのですから。

 「キリストが道である」とは、一つは、キリストがみずから一粒の麦となって死に、父の家に至る道を開かれたということであり、もう一つはわたしたちがキリストという道を歩むということです。その道は華やかなブロードウェイではなく、「狭い門」から入る細い道です。それは上昇よりは下降、仕えられるよりは仕えることを求める道です。大きいもの強いものにすり寄る私利私欲の道ではなく、小さい人に寄り添い、いのちを守ることを選び取っていく道です。しかし、その真理といのちの道を歩んでこそ、「住む所がたっぷりある」(2節:本田哲郎訳)父の家に至るのです。

 「わたしを見た者は、父を見たのだ」とイエスは言われました。「既に見ている」ことの恵みを、キリストの道をたどる中で実感していきましょう。愛すること、ゆるすこと、人の命を守ること、正しいことに献身すること。父の家の「たっぷり」に至る道を、励まし合いながら、歩いていきましょう。



「マルタは信じたのだろうか」      No.685
       (ヨハネによる福音書11章17〜27節)



 イエス様に「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。これを信じるか」と問われたマルタは、迷わず、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。ところが彼女は、その直後にお墓で、洞穴の口をふさぐ石を取りのけなさいと主イエスにいわれた時、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と発言したのでした。

 果たしてマルタは本当に信じたのか?二つのことが言えます。第一に、彼女は信じたのです。本当に信じたのです。キリスト教信仰においては「自分の口で告白すること」が重んじられますが、彼女は堂々と自分の口で「信じます」と言えたのです。それは素晴らしいことです。そして第二に言うべきことは、彼女は信じ、告白したけれども、その信仰告白が真に意味することはまだわかっていなかった、ということです。「イエス・キリストが復活であり命である」、ということの中身は、主イエスが「出て来なさい」と兄弟ラザロを呼び、墓穴から呼び出してくださったという出来事を通して、知るようになるのです。

 わたしたちが自分の口で公に信仰を告白するのはとても大事なことです。その信仰告白がわたしたちを守り導くのです。しかし同時に、自分が告白していることの本当の中身をまだわかっていないということも知らねばなりません。主は「石を取り除けなさい」と呼び掛けておられます。石が取り除けると、主イエスの「出て来なさい」という呼び声が響き、復活のいのちが始まります。


「聴くことの価値」            No.684
       (マタイによる福音書12章38〜42節)


 預言者ヨナの説教を聴いて悔い改めたニネベの人たちの話(ヨナ書)と、ソロモン王の語る知恵の言葉に感嘆し、イスラエルの神をたたえた南の国の女王の話(列王記/歴代誌)。この二つには何のつながりもないようですが、主イエスは、共通するものをここに見ておられました。それは、自分に有利なことや嬉しいことではなく、むしろ耳の痛いことなのに、神から自分に向けられた真実の言葉であると受け止め、謙虚に従った(降参した)ということです。彼らは「聴く」ことによって、帰るべき道に立ち戻ったのです。「しるし」、つまり奇跡や目に見える保証が与えられたからではありません。与えられたのは、神が遣わした預言者あるいは王という神の器を通して語られた真実な言葉です。しかしそれが、ニネベの人々、そして女王を動かしました。

 「ここにヨナにまさるものがある。ソロモンにまさるものがある」。言うまでもなく、イエス・キリストのことです。究極の神のことば、キリストが我々に与えられています。キリストの言葉に聞きましょう。設立13周年記念の礼拝をささげている我々は、「キリストに聴きなさい」と命じられているのです。聴くことを過小評価してはなりません。それは新しい気持ち、新しい行動、新しい関係を生み出していく能動的で創造的な行為です。それをしないで、他のことに「しるし」を求めていくなら、この教会は滅びるでしょう。しかし本気で聴くなら、我々の欠け多き言葉も、真実なものへと練り上げられ、用いられていくでしょう。聴くことの価値を信じよう。



「再び山に登って」            No.683
       (マタイによる福音書28章11〜15節)


 復活された主イエスとガリラヤの山で再会する!感動的な場面ですが、しかしその時「12弟子」は「11人」でした。ユダが消えていました。後に補充されますが、後に「大宣教命令」と呼ばれるようになる大事な命が授けられた時は、欠員状態だったのです。しかもその中には「疑う者もいた」という驚きの記述!復活し、再会してくださった主を信じられないとは、後の教会の不信仰ぶりを予兆するような姿です。「天と地の一切の権能を授かっている」お方と、ここに至ってなお不信を抱えているその弟子たちの溝はなんと大きいことか。にもかかわらず、主イエスは「すべての民」を弟子とし、洗礼を授け、主イエスの道を教える、という重大任務を弟子たち(わたしたち)に授けてくださいました。

 教会は、自分たちの不完全さや不信をわきまえ、真に謙遜でなければいけません。自分たちは偉いのだと勘違いして、キリストの権威を笠に着て、植民地支配者のようなメンタリティで力を振り回し、人を抑えつけたり傷つけたりしてはならないのです。イエス様は、弱い人、小さい人、苦しめられている人の中へ入り、低みに立ち、そこに既に神の愛が注がれていて、神の国が始まっていることを言葉と行動で示されました。その主に従うわたしたちも、また、おのれの弱さと行き詰まりと苦しみのただ中で、生きておられるキリストの力をあらわすのです。


「新しい現実に出会う時」         No.682
       (マタイによる福音書28章 1〜10節)


 「マグダラのマリアともう一人のマリアが見たのは、イエスの遺体が墓にないという事実でした。これはどういうことか。天使は「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と告げました。二人のマリアはそれをまっすぐに受け止め、人の悪は神の愛には勝てなかった、復活された主が行く手に待っておられる、という新しい現実を見たのです。我々が復活を祝うとはこういうことです。イースターはただの春の風物詩ではありません。不条理な死が最終結論ではない。復活のキリストが開く新しい世界が始まった。行く手に待っている主に向かって走ろう――そうやって走り出す者たちの祝祭なのです。

 マリアたちへのサプライズ。なんとイエスが道の行く手に立っていて「おはよう」と挨拶してくれたのです!この挨拶のギリシア語は、ユダがイエスを敵に引き渡す時に「こんばんは」といって接吻した時、また、十字架刑を執行する兵士らがイエスを嘲笑して「ユダヤ人の王、万歳」といった時と同じ言葉です。その言葉を、イエスは深い慈愛と真の祝福の挨拶として彼女らに贈ったのです。

 ハッピー・イースター!わたしたちのこの挨拶が真に意味を持つのは、道の先で私たちを待つ主イエスが、裏切りや憎しみの言葉を、愛の言葉へとつくり替え、わたしたちのうちに新しい現実を起こしてくださるのを経験する時です。



「見捨てられた救い主」         No.681
       (マタイによる福音書27章32〜56節)


 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか!」これが、イエスの最後の言葉でした。あまりに衝撃的なこの叫びをどう理解すればよいのか、後の教会は悩みました。「主イエスは本当に見捨てられたと思ったわけではなく、詩篇22編を唱えていたのだ」という解釈もなされます。その詩は冒頭の嘆きで始まるのですが、それが信頼と感謝へと変わり、力強い賛美で結ばれるからです。

 しかし、その解釈で安心してしまうと、あの叫びの真実から遠ざかってしまうのではないでしょうか。イエスが叫んだことは、実際に起こったのです。イエスは弟子たちに逃げられ、民衆に見放され、指導者たちに裁かれ、兵士たちにたたかれ、道を通りかかった者に嘲笑され、隣の木につるされている強盗からも罵られ、そして今や、神に捨てられたのです。この方からは尊厳が、あらゆる関係が、そして心臓の鼓動までもが奪い去られ、完全に見捨てられたのです。

 この徹底的な喪失とまるで引き換えであるかのように、何かがこの世界に起こりました。イエスの死の後、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。すべてを間近に見ていた処刑した部隊の隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と告白しました。「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲られたあの方が、十字架から降りてこないことを通して、わたしたちに新しい世界を開かれたのです。あなたはあの日のゴルゴタに何を見るか。一人ひとりが問われています。



「仕える者になりなさい」        No.680
       (マタイによる福音書20章20〜28節)


              
奨励  高橋雅恵長老  
 今週はゼベダイの子、ヤコブとヨハネの話です。ヤコブとヨハネはペテロと並び、12弟子の中でも中心的な役割を担っていた者たちでした。その母は二人の息子を連れて、イエス様に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座れるとおっしゃってください。」と願い出ました。それを聞いたイエス様は、二人の息子に「あなたがたは、自分が何を願っているのかわかっていない。この私が飲もうとしている杯のむことができるか。」と聞きます。二人とも躊躇わず「できます。」と答えました。この杯は苦難の杯でした。

 イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたいものは皆に仕える者になり、いちばん上になりたいものは皆の僕になりなさい。」と言いました。それは、まさにイエス様の生き方そのものです。イエス様は私たちの為に、神の子でありながら誰よりも低いところ所に生まれ、誰よりも低いものになって十字架で殺されました。あさひ教会は、これからも隣人に、地域の人々に仕える教会でありたいと願います。



「一瞬の輝きは何を示す」        No.679
        (マタイによる福音書17章1〜13節)



 山の上で、弟子三人は主イエスの姿が栄光に輝くのを目撃しました。モーセ(律法を代表)とエリヤ(預言を代表)が主と語り合っていました。三人は見たことを「黙っているよう」命じられましたが、主の復活の後には語り始めます。そしてそれは後の教会にとって重要な霊的資源となったのです。

 どういう意味で大切なのか。二つあげるとすれば、一つは、雲の中で響いた声が「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という宣言の後に「これに聞け」と言われたことです。イエスはご自身が山の上に祀られる存在ではなく、山を降りて人々の苦しみの中に入っていく方でした。教会はそのイエスに従い、そこでイエスに「聞く」ことを求められます。「聞く」とは「聞いて行う」ことを意味します。わたしたちは、この世の現実の只中に入っていくイエスに従い、そこでイエスの言葉を「聞いて行う」のです。

 もう一つは、教会は「今見たこと」(the vision)の共同の記憶を持っている、ということです。この語は使徒言行録では「幻」と訳されています。パウロは「幻」に呼ばれて、海を渡ってヨーロッパ伝道に赴き、主が「恐れるな」と語る「幻」に励まされてローマにまで行きました。教会には、山の上で一瞬示された栄光のキリストのビジョンがあるのです。先に待つ栄光を知っている者は、どんな苦難の中でもあきらめず、へこたれず、ゴールを目指して歩みを続けます。



「失って得る命」            No.678
       (マタイによる福音書16章13〜28節)


 福音は逆説(パラドックス)で表現されます。神の愛は、人間の理屈や常識をはるかに超えているからです。

 イエスは「貧しい者は幸いだ」、「富んでいる者は不幸だ」、「最も小さい者こそ、最も偉い者だ」と言われました。白馬ではなく子ろばにまたがり、金冠ではなく茨の冠をかぶせられたイエスが王の中の王となられました。イエスは最も低い僕(しもべ)となられたが故に王であり、地に落ちて死ぬ一粒の麦であるがゆえに命を与えられます。十字架は、史上最大の逆説と言えるでしょう。最も残酷な刑罰の手段が、神様の救いの計画の中で最も深い愛のしるしとされました。

 そのイエスがわたしたちに「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われます。だから、わたしたちも福音の逆説を生きるのです。「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない」。そして、「弱い時にこそ強い」という逆説の人生です。

 主に従うために「人のこと」ではなく「神のこと」を求めましょう。手放しましょう、握りしめているものを。捨てましょう、つまらない誇りを。そうしたらわたしたちは失うことを通して得る者となります。最も大切な「命」を得るのです。く



「悪霊の力か神の霊か」         No.677
       (マタイによる福音書12章22〜32節)


 行く先々で誹謗中傷を浴び、それでも意に介さなかったイエスであるが、一人の人を悪霊から救い、そのことをファリサイ派の人たちが「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力だ」と陰口をきいていた時には、黙っていなかった。これを見過ごしたら、あの人は前よりも強力な悪霊に取り付かれたということになってしまう。そうではない。あの人は神に愛されている。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 ファリサイ派は真面目で勉強家で正義感の強い人たちなのに、なぜ主イエスにおいてなされた神の霊の働きを悪霊の親分の仕業だと決めつけたのか。イエスのなしたことが自分たちに理解できず、自分たちの枠組みに収まらないことだったので、怖れを覚えたのだ。イエスは、律法順守の達成度など問いもせず、神の純粋な恵みの業として癒しを行った。これは律法主義的な神―人間関係の理解に入らないことだった。ならばその枠の壁を一つ取り払って外に向かって開けばよいのだが、それをせず、イエスのほうを間違っていると決めつけたのだ。

 「木は実によって知られる」。人間が自由にされ、平安があり、異なる他者と共に生きる慈愛と誠実がそこに生まれているなら、それをもたらしてくださったのは神の霊である。「悪は悪を追い出すことができない」ことを心に刻もう。



「悪魔の誘惑は心に迫る」        No.676
        (マタイによる福音書4章1〜11節)


 荒れ野で悪魔 からの試みを受ける主イエス 。それは「甘い誘惑」などというものではな かった 。 こ れに負けたら、人間が 霊的存在としての尊厳 を失い、 偶像の 奴隷に転落するというような 決定的場面において、 説得力のある 言葉 ともっともらしい論理で(聖書さえ用いて)口説きにかか る。それは 真に誘惑 (心揺さぶるようなこと) なのだ。そしてそれは、神のみこころに従おうとしている者をこそ襲う。(その志がない人はそもそも襲うに値しない。)あの主イエスが 激しい 誘惑を経験されたのだ。「 心に 誘惑を 感じるなんて 、 私は 罪深くてだめな人間だ 」ではない。神の国を求める者こそ誘惑されるのである。

 悪魔的誘惑の怖さは、それにのると当面はうまくいくということ にある 。しかし、その先に待っているのは滅びである。「今だけ、金だけ、自分だけ」で生きる
人間や社会の先に は 何が待っている だろうか 。
我々が誘惑に遭うのは避けられない。そして人は誘惑に極めて弱い。では我々はどうすればよいのだろう。道は一つ。イエスを見つめよう。イエスは、人間の 自由と 尊厳を守るため、神の言葉によって悪魔に勝利された。イエスはその勝利を、我々のものとして与えてくださる。 イエスにつながっていよう。



「信仰のハードレッスン」        No.675
        (マタイによる福音書14章22〜33節)


 強風が吹くガリラヤ湖上で、弟子たちは大変怖い思いをしました。しかし、そこで湖上を歩いて舟に近づいてきてくださるイエスを知りました。ペトロはイエスのもとへ歩み行くことを願い、ゆるされました。しかし風を見て怖くなり、溺れかけました。しかしそこで、主が自分をつかんでくださることを知りました。試練の一夜でした。でもそこでイエスが神の子であると知り、あがめました。

 この時乗っていた小さな舟が、後の教会という信仰共同体と重ねられているのは明らかです。教会の歴史において、舟は教会のシンボルとして用いられてきました。わたしたちは「舟に乗り合わせた者たち」なのです。

 「水上歩行」は馬鹿げた信じ難い奇跡譚の代表のように扱われます。私も昔そう感じていました。でも、教会という舟に乗り込み、そこで様々な嵐を経験してくる中で、これはとてもリアルな話だなと思うようになりました。主イエスに「向こう岸へ渡ろう」と命じられ、嵐の湖上へ出る時があります。それは主御自身にとっても岐路に立つ時なのです(だから祈るために山に退いたのでしょう。)

 向こう岸では多くの人が救いを求めています。教会という舟はイエスと共に向こう岸に渡って行きます。不信仰な我々は怖れ、うろたえ、失敗しますが、そこでこそ主がどなたかを知っていきます。渡っていくことを避けてはなりません。



「イエスを言い負かす人」        No.674
        (マタイによる福音書15章21〜31節)


                  
荒瀬牧彦牧師

 
苦しんでいる娘を持つ外国人女性が、主イエスに助けを求めてきた。意外なことにイエスは「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と求めを退けてしまう。しかし彼女は、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と食い下がる。イエスは「あなたの信仰は立派だ」と感嘆し、前言を翻して娘の病気を癒すに至った。

この女性はすごい。なにせイエスを言い負かしたのである。そして、彼女に言い負かされたイエスもすごい。魂の響き合いが生まれたことが何より素晴らしい。

 何が「立派」だったのか。一つは彼女の自己認識である。娘に何もしてやれない小さな自分。民族や地位からくる権利や資格が自分にあるわけでもない。自らの小ささを認め、それでも、いやそれゆえにこそイエスに迫り続けたのである。そしてもう一つは神への信頼である。子供のことを心配してパンを与える主人は、小犬のことだって忘れない主人だ。「わたしの信じるご主人様、私のように小さな者を切り捨ててしまう主人ではありません。」その信頼に立って、「わきまえろ」と脅されてもわきまえて引き下がることなどせず、願い続けたのだ。主イエスには、律法学者やファリサイ派を言い負かして黙らせた時よりも、彼女に言い負かされた時のほうがずっと大きくて深い喜びがあったに違いない。


「律法とイエス」             No.673
        (マタイによる福音書5章17〜20節)


                  
荒瀬牧彦牧師

 
安息日律法を度々破った(ように見える)イエスが、ご自分が来たのは「律法を廃止するためではなく完成するため」だと言われます。さてどういうことか?理解の難しいところです。

 この難所を突破する鍵は、「義」にあります。律法を守ることにおいてイエスが求めているのは一貫して「義」なのです。それは端的に言って、神と人との正しい関係、人と人とのあるべきつながり、ということです。さらに言い換えれば、神様がこの世界と人間に求め、願っていること。それが義なのです。律法はそのためにあります。ところが人間は律法の規定を自分の正当化のため、自分の価値を上げたり保ったりするため、人を責めるため、また人を支配するために使ってしまう。しかし律法は本来、「自分の義」証明のためでなく、生活の中で「神の義」を行うためのもの。文字面でなく、律法の「こころ」が肝心です。

 使徒パウロは「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)と言いました。キリストの律法は自分一人では守れません。また、決疑法で「この場合はこう」と定められた規定を履行すればよいというものでもありません。場面ごとに「どうしたら神様が真にあがめられ、人が真に大切にされるか」を皆で考え、悩み、義の実現を祈り求めていくこと。それが、命へと至るキリストの律法を生きる道なのです。



「天国接近宣言」             No.672
        (マタイによる福音書4章12〜22節)


                  
荒瀬牧彦牧師

 
福音宣教の始まりの場面です。なぜイエスは「ガリラヤに退かれ」たのか、なぜ宗教と政治の中心エルサレムで始めなかったのか。これは福音の本質に関わることです。福音は高いところにいる「上の」「偉い」人にもたらされてそれが下へ落ちていくというのではなく、日のあたらない所に置かれた「小さい」人々にもたらされ、「低み」から始まるものだからです。マタイ福音書はそれを、旧約の預言者イザヤの「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という預言の実現であると説明しています。

 イエスは四人の漁師に近づき(それは彼らにとって天国(=神の支配)が接近したということでした!)、「ついてきなさい」と声をかけました。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、ガリラヤの過酷な現実に支配されてきたのですから、それに思考を縛られて、「そんなの無理だよ」と拒絶しても不思議ではありません。しかし彼らは「網」(自分たちの過去を縛り、しかし日々の生活を支えてきたもの)を置いて、ついていきました。そんな大胆なことができたのは、彼らが過去をすべての基準にして未来を考えたのではなかったからでしょう。彼らは、いま自分に迫りつつある天の国、イエスがこれから行われること、自分たちの先に待っているものに目を向けたのです。人生が180度転換してしまう素晴らしいこの出来事が起きたのも、イエスが彼らを「呼び出して」くれたからです。わたしたちもイエス様に呼び出されて、真に自分の人生を生きる者となります。



「あなたがたもいるのです」        No.671
        (ローマの信徒への手紙1章1〜7節)


                   
鈴木淳牧師

 本日のロマ書の箇所において示されるイエス・キリストについて、カール・バルト先生は「神と世界の関係、この両者の間の切断線は自明的に見えるものではない。この切断線が人目に現れる唯一の点はイエスである。すなわちナザレのイエス、歴史的なイエス、肉から言えばダビデの血筋から生まれたイエスである。歴史的規定たる「イエス」は、我々の既知なる世界と未知なる世界の切れ目を意味する」と記しました。

 少し難しい言い回しですが、つまり、私達の住む世俗社会と神との関係について語っています。この神と世俗社会、神と人との、両者の関係がどうなっているかは「自明には見えない」のです。つまり、自分の能力や知識では見ることは出来ない。自分の力では理解することは出来ないということです。そこには神と人との間の大きな境、隔たり、切断線、切れ目があるからです。ただ、自分では理解することは出来ないが、唯一見ることの出来るカギはこの切断線を注視することです。つまり、その線こそがイエス・キリストであるというのです。
ダビデの子孫としてナザレに生まれた人間であるイエスが、死者の復活により神のメシアとして、私たちの世界に顕現する。イエス様の復活により、神の存在が顕示される訳です。真の神でありながら、真の人であるイエス様。このイエス・キリストの存在が、唯一神と私たちの間の切断線、切れ目を現し、その切れ目を繕えるのです。繋ぎ合わせる存在であるということなのです。まさに、神と人との仲保者、メシアキリストです。この切断線に立つキリストこそが、神の側から差し出された、一方的な恵みが、神と人との関係を回復させるのです。

 私の恩師のバルト研究家の細川弘道先生がよく言っていた言葉は「天から垂直に下される恵み」なんです。横からではなく、天から垂直にです。それは、人がどうのこうのという話はまったく挟まずに、天から、上から、直接、純粋に、垂直に下される恵み、救い、恩寵なのです。それこそがキリストなのです。天から垂直に!

 これは超重要です。それは言い換えると人と人との関係にも言えるからです。つまり、その切断線は、人と人との隔たりでもあるのです。その人と人との隔たりの上に立ち、その切断線を繋ぐことが出来るのは、まったく唯一の神であり人であるイエス・キリストなのです。それは決して自明で解決できるものでもないのです。キリストの仲介なくして切断線を繕うことは出来ないのです。どんなに言葉を尽くしても、どんなに論証しても、それを繕うことは出来ない。神と人、人と人を繋ぎ合わせるのは、切断線に立つ、垂直の恵みとしてのキリストのみなのです。


「洗礼ってなんでしょう」         No.670
        (マタイによる福音書3章13〜17節)
        

                  
荒瀬牧彦牧師

 
洗礼はキリスト教の入信儀礼です。入信儀礼は人生の通過儀礼の一つとされます。ヨーロッパのキリスト教社会において、生後すぐの洗礼は確かに社会的な通過儀礼でした。でも、洗礼に込められた豊かな恵みを考えたら、これは「通過」していく儀礼などではありません。生涯にわたって、わたしたちのアイデンティティを形成し、生き方を整え、生きる力を与え続けるもの、伴い続ける恵みであって、「終身」儀礼と言うべきものでしょう。

 洗礼はまた、あなたが何者として生き、何をするのかという課題を与える恵みです。牧師や長老が最初にその職に就く時、按手を行います。手を置いて、神からの任命、そしてそれに必要な聖霊の注ぎを与えるのです。洗礼もそれと本質的に同じです。キリストのもの、主イエスの弟子への就任式なのです。そのことの恵み深さ、素晴らしさは、洗礼を受けた時点ではまだよくわかっていない人が多いでしょう。しかし後から次第にわかってきます。

 あなたに降りた聖霊という鳩はどこかへ飛び去ってしまいはしません。あなたの内にずっと留まります。その恵みを忘れかけている人は、思い出して感謝しましょう。そして使命に生きましょう。まだその恵みに与っていない人は、ぜひ前に一歩踏み出しましょう。


「神とつながり、人とつながる」      No.669
       (ローマの信徒への手紙12章9〜21節)
        

                  
荒瀬牧彦牧師

 
新年の主題聖句はローマ12章から与えられました。パウロはここで、「愛には偽りがあってはならない」という主題を掲げ、それを具体的に11の勧めによって展開しています。わかりやすく訳せばこうなります。
 「悪とは絶交し、善と仲間になり、兄弟たちと親身なつきあいをし、互いに相手を自分の師とし、勤勉さでは遅れを取らず、霊において主に熱心に仕え、希望において喜び、困難においてぐっとこらえ、祈ることを決してやめず、窮乏している聖徒たちを助け、旅人を助けもてなすことを追求せよ」となります。下線を付したのが本年主題聖句の前半です。そしてそれに続くのが、「喜び人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」です。(下線部が主題聖句の箇所)

 面白いことに、主題の二つの聖句は、パウロの教えを通貫している「神とつながる」と「人とつながる」という二つを見事に凝縮しています。我々は、(目の前の現実が良好だから、ではなく)希望を神に頂いているがゆえに喜び、困難を耐え、そしてしぶとく祈りつづけます。神とのつながりの中で、我々は自分の下に立ち、下から自分を受け止めてくださる神をキリストにおいて見い出します。そして、それゆえに、自分と他者の関係において、人の上に立とうと競うのでなく、人と同じ所に立ち、その人を下から見上げます。その時はじめて、その人のことがわかる(under-stand:下に立つ)ようになります。そして「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という本物のつながりが生まれるのです。



「星を見た人たち」
  
                                     No.668
        (マタイによる福音書2章1〜12節)
        

 12月27日説教より          荒瀬牧彦牧師

 
先週、木星と土星が800年ぶりに大接近するというニュースがありましたが、2千年前に不思議な星の動きを見て、それに導かれてベツレヘムまで旅した人たちがいました。占星術の学者たちです。彼ら「王」の誕生に心躍らせ、その御方を拝謁したい一心で長い旅をしました。彼らはイスラエルの神を知りませんでしたし、聖書を読んだこともなかったでしょう。でも、星には詳しい人たちでした。毎晩、夜空を見上げている人たちでした。だから神様は彼らを、星によって導かれたのです。神とはそういう御方です。その人が気付くことのできる導きを用意してくださるのです。

 おそらくその星は、世界中が大騒ぎする巨大新星のようなものではなく、かすかな星の動きだったでしょう。しかし、真理を求める純粋な魂を持つ者たちには、それが旅路を導くものとなったのです。

 イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられる」と言われました。博士たちはその実践例です。信仰生活とは、星に導かれて冒険の旅をするようなものであり、損得勘定を超えた純粋な魂の行為です。既にわかりきっていることを義務的に繰り返すだけの、退屈な行為ではありません。神様のサインに気づき、主に出会い、喜びに溢れて宝物をささげ、そして「別の道」へと踏み出していく!そんな信仰のロマンを楽しもうではありませんか。

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