カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


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2018.11.18更新
   

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「愛の自由」               No.557
      (イザヤ書61章1〜4節)
      (ガラテヤの信徒への手紙5章1〜15節)

                
荒瀬正彦牧師

 
 パウロが生み出したガラテヤ地方の教会が、パウロが伝えた福音から外れてユダヤ教的な教えへと走ってしまった。律法を守らなければ救いが受けられないという説であった。パウロは慨嘆し叱るのである。「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。彼は心を尽くして福音を伝えたのであった。「ただキリストを信じる信仰によって義とされるのだ。律法によって義とされようとするなら、キリストとは縁もゆかりもない者とされる」。パウロは「律法からの自由」を断固として主張する。「キリスト者の自由とは何か。それは律法からの自由ではないか。福音の自由とは愛をもって仕える自由である」。

 ヨハネ福音書5章を見ると、イエス様はベトザタの池で38年もの間病で苦しんでいた男に「起き上がれ。床を担いで歩け」と言って癒されたことがあった。その日は安息日であった。イエスはこの癒しをもって「律法からの自由」を宣言されたのだ。律法が神様の御心より大事にされてはならない。パウロの自由の理解は正にここに結びついていたのである。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切である。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』の一句によって全うされる」。

 「隣人を愛しなさい」という言葉には「自分を愛するように」が前提とされる。この自分を先ず神様が十字架の犠牲をもって愛して下さっている。神に愛されている自分を信じ受け入れるのだ。ところが、私たちが人を愛するとき「愛する相手の心を自分だけに向けさせたい」という誘惑がある。自分に拘り自分に囚われる。この誘惑に勝たしめるのはキリストの愛のみである。キリストの愛に身を委ねる時、相手と一緒にキリストに心を向けることが出来る。恥じることなく自分も隣人も愛せるようになる。「愛の自由」が得られる。律法からの自由は「愛をもって仕えること。キリストにのみ心を向けること」。

 私たちもイエス様を見上げることで「愛において自由」でありたいと願うのである。



「驚くべき回答」              No.556
       (マタイによる福音書22章15〜22節)
      

 イエス様の回答は、誰でも明確に理解出来るものでも、計算式の答えや、ヘーゲルの三段論法のように論理を導き出すようなものでもないと感じます。

 このローマへ税金を納めるべきか、拒否するべきかという敵対者達の質問。税金を納めなさいとい言えば、ローマ支配に加担し皇帝への偶像礼拝を是認していると民衆から思われてしまう。また、納めるべきではないと言えば、ローマへの反逆を指導したとして告発される可能性が。何れの答えもピンチの状況で、イエス様は思いもよらぬ回答するのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい!」。その回答を聞いた敵対者達はイエス様のもとから立ち去たと記されます。しかし何故、彼らは去って行ったのか?。よく見てみると、イエス様は税金を納めろとも納めるなとも回答していないのです。では何故、彼らは退散して行ったのか。それはここに世俗社会のHow-to本ではない、もっと本質的な意味があったのです。どうすればいいかと悩む民衆に「皇帝のものは皇帝に返せばいい、あなたは神のものは神に返せばいいじゃないか」。他の聖書箇所から言えば、「思い悩むな、まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば全てが与えられる」という言葉に通じます。

 ここで注意することは、イエス様の回答を意味付けして解釈しないことです。この箇所は、実際様々な解釈がありますが、寧(むし)ろそのまま受け止めることが大切です。イエス様の語られたイメージをそのまま心で受け取ること。「ああ、神のものは神に返せばいいんだ」と信じて行けば、何があっても、今日も明日も大丈夫なんだと受け止めること。この受け止め方こそが、信仰者に与えられ霊性という部分なのです。理論ではなく、神の言葉を心で受け止める。その時、自分の状況は依然としてひっ迫していても、大きく心が解放されるのです。これことが、信仰者に与えられた天来のギフトなのかもしれません。  


「赦せない人が赦されて」         No.555
       (マタイによる福音書18章21〜35節)
      

 
七の70倍赦しなさいと聞いて、私達はどう思うでしょうか?。一回や二回ならわかりますし、日本では「仏の顔も三度まで」といいますように仏でさえ三回しか赦せないのに、私たち人間が出来るはずがありません。それを七の70倍とは、490回、いや無限に赦しなさいという話しなのです。例えば、クリスチャン経営のコンビニで万引きをしてしまう犯人がいて、一年間毎日万引きしてもまだ赦しが余ってしまう計算。あり得ないですよね。

 でもこのあり得ないことが、実は起こっているのです。それは人間の誰かがやりとげたという話ではなく、イエス・キリストがやり遂げたのです。私達の毎日毎日続けてしまう不従順な歩みを赦し続けるイエス様。もうその赦しは、とうに一年以上過ぎている。

 このお話は勿論、人を赦して行く事の大切さが語られていますが、本質的には、あり得ない赦しの出来事がキリストによって私達日常の上に、毎日もたらされていること示しているのです。このことをパウロは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」と言われました。そしてこの例えの注目すべきもう一つの点は、23節のあるように「天の国は次のようにたとえられる」と記されることです。つまり、この赦しの出来事は、天国へ私たちが迎えられる出来事を記しているのです。七の70倍の赦しなくて、私たちは天国には入りえない。一万タラントンという何億円という額を帳消しにしてもらえないと入りえない場所。天国への凱旋の条件は、この救いをもたらすキリストへの信仰のみ。神は、愚かな私達が必死に謝る信仰の姿をみて、哀れに思い天へとむかえ入れてくださるのです。本当にありがたいなと思いました。  



「『求める者には与えなさい』とは」    No.554
       (マタイによる福音書5章38〜48節)
      

 この聖書箇所は、説教に置いて一番苦手な箇所です。何故ならば、書いてある教えに従ったら、クリスチャンは、殴られ、裸にされて、破産してしまうからです。しかし、この聖書箇所と同じ資料を使っているルカによる福音書によれば、貸したものを返してもらうことは罪人でもやっている。クリスチャンは、天の父が憐れみ深いように、キリストが罪人をも赦す憐れみ深いように、キリストに倣うものになりなさいと話します。つまり、私たちの世俗社会が織りなす、常識的な損得勘定ではなく、神の、キリストの価値観を身に付けなさい、何故ならば、その価値観なくして罪ある私達は救われ得ないからなのです。この非常識とも言える事柄への対応方法こそが、私たちの救いの根底を支えているのです。ですから、私たちが「本来は?」と言い出してしまったら、第一に人生の借金返済を迫られ、裁かれるのは、私たち自分自身なのです。

 だからこそ、このキリストの戒めに私たちは再チャレンジする必要があります。何度も何度もチャレンジすることで、それが難しく苦しく徒労のようなことであることを知り、イエス様の裏切られた気持ちと救いの偉大さに出会うのです。「罪多きところに恵も増し加わらん」。これは真理なのだと思います。


「信仰の駅伝」              No.553
      (イザヤ書52章 7〜10節)
      (テモテへの手紙 二 2章1〜13節)

                
荒瀬正彦牧師

 

 
「駅伝」は今や世界語。日本から始まって世界の長距離スポーツとなっている。「たすき」をゴールまで?げていくことに目的がある。今日の聖書箇所でパウロは愛弟子のテモテに「信仰も駅伝なのだ」と言い聞かせる。福音という「たすき」はチーム全員のもの。チームとは教会。初代教会から未来の教会まで世界規模の広がりで福音を引き継いで行くのである。総監督はイエス様。イエス様がずっと伴走して下さる。パウロはテモテに言う。「お前も信仰の駅伝の選手だ。辛く苦しいことも多いが、その苦しみに耐える力は恵みの内から頂くのだ。そして次の忠実な選手に引き継いで委ねなさい」。

 信仰の「たすき」の引き継ぎは2つのことに基礎を置いている。
 ●一つは「聞くこと」。伝えてくれるのは教師も学者もいるだろうが、市井の普通の人の生き方を通して、言葉ではなくとも福音を聞くのだ。
 ●2つ目は「信仰は伝達すべきもの」。

 私たちは駅伝ランナーとして福音の恵みと言う「たすき」を受け取る名誉と特権と同時に、それを次の者へと手渡して行く義務と責任がある。

 箱根駅伝では毎年何校かがたすきを途切らせて男泣きしている。だが、福音のたすきを途切らせた時、どれだけの人が涙して謝っているか。どれほど義務と責任を重く受け止めているだろうか。それを重く受け止めている人がパウロの言う「忠実な人」であろう。良きランナーとしてパウロは3つのタイプを示している。兵士とアスリートと農夫。
・兵士とは職務に忠誠と献身を誓う者である。兵士は指揮官の命令に行動を委ねる。命令の意味が分からなくても従うことが求められる。
・アスリートは厳しい訓練と節制を守ることを誓う。そして自己訓練を積み重ねる。キリストに従うとはそういうことである。
・農夫は様々な準備を整え、田畑と作物を管理して実りを待つ。どんなに焦っても季節が来ないと芽は出ない。神様に委ねて待つのである。信仰の継承もそうではないだろうか。

 辛い時、苦しい時、不安や迷いで気持ちが萎えそうになる時、「復活のイエスを思い起こす」のである。この世は良き音づれを待っている。皆な神様の愛のメッセージ「愛のたすき」を待っている。神の働きを信じるなら耐え忍ぶことが出来る。愛は耐え忍ぶ力がある。
    


「どうすることも出来ない日」       No.552
       (ルカによる福音書12章13〜21節)

      

 
群衆の一人がイエス様に、財産の相続が公平にされるよう進言して欲しいと頼みはじめます。するとイエス様は、まったくその依頼には直接は答えないで、別の話を始めるのです。「だれが、私を裁判官や調停人にしたのですか、あなた方は大いに勘違いしていますよ!」とイエス様は語り、ある大きな蔵を立てた金持ちの例えを始めます。沢山の財産を蓄えた金持ちが、自分に向かって「これだけ財産があれば安心だよ」と言ったというのです。しかし、その金持ちの命はその晩に「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と宣言されてしまうのです。この話は、大小の差はあれど、私たちにとっても同様であり、その時が突然来たら成すすべもなく取り返しが出来ないのです。そしてその日は必ず来る。

 私たちがここで、心に止めたい二つの法則があります。一つは、神や聖書の権威を利用して人間の私たちが、裁判官や調停人になってはならないということです。裁き赦すのは、神様のみであり、私達は決してそれに代わってはわらないのです。第二は、その取り返しがつかない日が、いつ来てもいいように、天に宝を積むように毎日神と人とにお仕えして行くことなのです。勿論、神と人とにお仕えするといっても、間違いなく完璧に行って行くことが求められている訳ではありません。そうしたくても出来なかったり、逆に行ってしまったりの連続でも、諦めないでその目標を外さないことです。「今日は旨く出来なくても、明日は少しでも」といった具合にです。その継続した信仰の歩みこそが「すべてを忍び、すべてに耐え、すべてを望み、すべてを信じる」「この希望は、わたしたちを欺くことはありません。」とパウロが語る道なのだと思わされます。この道に間違いなし。信じて共に歩みましょう。



「もっとも重要な掟」           No.551
      (マルコによる福音書12章28〜34節)

      

 何か良いことが続いたり、旨く事柄が進み出すと逆に不安になるものです。いいことが続くと、何か逆にマイナスなことが起きそうで心配になる。私たちは良い時も、悪い時も、いつも迷っている生き物なのだと思います。しかしそのような日々迷える子羊に、イエス様は常に基本に立ち返るようにと言われるのです。順風でも逆風でも『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟は他にない。』。いつもここに戻って、この二つを熱心に信じて続ければいい。これに勝る明確な目標はなく、これこそが迷える私たちを安心させるのです。

 しかしもう一点この箇所で注意すべきことは、この答えを正確に回答した律法学者にイエス様は「天の国は遠くない」と言われたのです。つまり「天の国に入れますよ」とは言わないのです。ここにどんなに正しく生きようとも、罪ある人間の限界が示されており、天の国に入る方法は別であることを告げます。ロマ書では使徒パウロが「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と語ります。つまり、私たちは行いによらず、信仰によってキリストに罪赦され、神との和解を得ているのです。これこそが、天国に入れる唯一の条件なのです。行いでは、天国に近づけても、入ることは出来ない。出来るのは、自らの行いからを離れ、イエス・キリストを自らの救い主と信じる謙虚な信仰のみなのです。だから、良い時も悪い時もこの方を信じて歩みたいと願わされます。    



「パン屑の信仰」             No.550
      (マタイによる福音書15章21〜28節)
      

 私たちが、小さいものを感謝して頂くことが出来るか、そうでないかで大きな違いが人生にあるように思えます。仕事は、玄関を掃除するところから始まります。ホームラン王も、バットの素振りから始まる。小事に忠実な者が初めて大事を託されるのです(ルカ16.1-13)。そのような視点からカナンの女を見て行きたいと思います。

 彼女は、イエス様に懇願するも「犬に餌をやるのはダメ」と冷たく突き放されます。しかし彼女は「子犬だって机から落ちたパンを食べるじゃないですか?なんとかしてイエス様!」と食い下がるのです。普通なら、「人間を犬扱いするなんて、もうあんたにはたのまん!」とブチ切れてもおかしくないと思います。でも彼女は「おっしゃるとおりです」といって懇願を続けるのです。それを見たイエス様はとても感心して「あなたの信仰は素晴らしい。願い通りになりますように」その願いを聞き入れるのです。ここにパン屑の信仰があります。パン屑なんかと馬鹿にして跳ねのけてしまうか、パン屑ありがとうございますと言って小さなものでも感謝して受け取れるのか。このカナンの女性は、結果的に小さなパン屑を拾って、大事を得ることになるのです。そのように、パン屑の信仰を持って進むかぎり、私たちの道はキリストの祝福に満ちているのです。



「神の視点で」              No.549
        (マタイによる福音書12章1〜8節)
      

 介護車両をぶつけてしまいよく凹みが出来ます。凹むたびに自分で出来る範囲で板金修理をしています。しかしある時「どうせまたぶつけるのに、この修理はなんの意味があるのか?」とふと考えてしまいました。でもこれって、人間も似ているような気がします。明日亡くなるとわかっていても、今日包帯を巻くんです。明日死んでしまうから、何もしないのではない。朽ちゆく人生とわかっていても、今日を少しでもいい日にしたいのです。 それが人なんだと思います。

 私たち人間が、何かが出来る、どれだけ生産出来るという基準で人の価値を決められるとしたら、それは無機質なマシン社会であり、生きる意味を容易に失うことになるでしょう。私たちは、神が造られた命です。人間は、力のある人も弱い人も、頭のいい人も呑気な人も、健康な人も病気の人も、その全ての人が密接に絡み合って社会を構成する生きものなのです。そして、更に聖書では「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」というのです。聖書は超能力でもなければ理解出来ないという世界ではなく、人間社会の当然あるべき互いに愛をもって生きる姿を記していると言っていいと思います。

 そしてその当然あるべき人の姿の回復を目指して、イエス様は宣教されました。「安息日のために人間が作られたのではない。人の子こそが安息日の主である」。意味を見出せないようなおかしなルールに無批判的に従属させられる宗教社会への警鐘。イエス様は「あなた人間でしょう。それはおかしいでしょ。神は人を愛し生かす方でしょ。神を愛し隣人を愛する。それが人に与えられた全ての務めでしょ」と言われるのです。ここにこそ、あさひ教会とフレンドシップあさひが目指してきた理念があります。これからの10年も、変わらずここを目指して進みたいと祈っています。 



「しもべとなって」            No.548
     (ヨブ記42章1〜6節)
      (フィリピの信徒への手紙2章1〜11節)

                 荒瀬正彦牧師

 
 聖書の世界にも有名な歌があります。皆の心を一つに集めて神様を賛美するのです。旧約聖書には、出エジプト記にモーセの賛歌がありミリアムの賛歌がある。何よりも「詩編」は壮大な賛歌です。新約聖書では今日のフィリピ2章6節以下が有名です。

 讃美歌は本来「祈り」でしょう。一つの歌詞に皆の祈りが凝集し、整えられた美しい言葉をもって一つのメロディーに皆が声を合わせる。フィリピ2章を見てみよう。
6節「キリストは神の身分でありながら」―神である方が人となって罪ある人間の一人となって私たちの間に住まわれた。「自分を無にして」―死に至るまで罪人を愛し、罪人のために全てを献げ尽くされた。ここに愛と救いがある。7節「しもべの身分になり」―イエス・キリストが奴隷の身となられた。換言すれば「私たちの身代わりとなって下さった」。私たちが当然負うべき罪の責任・罰を負って下さる。それが「仕える」ということであり「しもべとなる」ことである。ヨブ記の最後でヨブはこう言う。「今まで神様のことを聞いて、浅はかにもそれで神様のことを<知っている>と思っていた」。ヨブは「我と汝」という自分と神の関係の中で神の前に立たされる。その時ヨブは自分の現実の姿を直視させられた。ヨブは思わず叫ぶ。「私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」。私たちも主イエスの優しさ、慰め、労わりを、自分本位に見詰めるのでなく、しもべとなって仕えて下さるお姿、十字架の上に血を流し肉を裂かれるお姿に目を留めるとき、ヨブの叫びを叫ばずにはいられない。それにも拘わらず、私たちは傲慢にも祈る。「あなたがキリストなら私の苦しみを取り除いて下さい」。

 そんな私たちのために、十字架のイエスは神に向かって祈るのである。「神よ、彼らは自分が何をしているのか、何を言っているのか、知らないのです」。そして私たちに向かって「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」。このお姿に、このお言葉に、私たちは愛を見るのだ。「しもべ」ということの、「仕える」ということの、本当の意味を知るのです。キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わりの内に、心を合わせ思いを一つにして、しもべとなりしキリストをほめたたえて歌いたい。「キリストこそ我が主である」と歌い上げたい。



「感謝の心」               No.547
        (ルカによる福音書17章11〜19節)
      

 
重い皮膚病を患った10人が、イエス様の言葉に従い10人とも癒されるのです。しかしその感謝を表しにイエス様のもとに戻ってきたのは、たった一人だけでした。これはいったいどういうことなのでしょうか。勿論他の9人も感謝していたことでしょう。社会から疎外される酷い伝染病と言われた病からが治った訳ですから。でも、9人は感謝はあったが、その感謝を現す対象を知らなかったのです。自分はどこから生まれどこに行くのか。誰が命を与え、その命を導かれるのか。つまり、造り主なる神、感謝を現す対象である神を知る信仰がなかったのです。

 この箇所で最も大きな問題は、9人は神の民であるユダヤ人で、残りの1人は異教の民として軽蔑されていたサマリア人であったことなのです。本来、一番神を知っているはずの神の民が、神に感謝を表さず、異教徒が一番正しい行いをしたという皮肉にも満ちた出来事をイエス様は取り上げ、最も大切なことを伝えるのです。  テサロニケ第一5章に「 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。つまり信じるとは神に感謝を現すことなのです。自分で何でも出来ていると思い込んでいる愚かな人間の私たちですが、造り主なる神を思い出し、どんなことにも感謝を捧げて行きたいと思います。                


「行って、あなたも」          No.546
        (ルカによる福音書10章25〜37節)

             
奨励 高橋雅恵長老


 
誰もが「よきサマリア人」として何度か読まれた箇所、もしくはメッセージを聞いた箇所を、初めて奨励するにあたり有難く受け止め、私なりに勉強させていただきました。

 この箇所を読み進めると、社会の中において単に「人のために良いことをしなさい。」という道徳的な物語で終わってしまう恐れがありますが、まず何よりも聖書の言葉が分かった気になってしまう事そのものを問題にしていることを忘れてはならないでしょう。ここに登場する律法の専門家は聖書のことをわかっていると思い、イエス様を試そうとして質問をしていること自体を問うておられます。

 例え話の内容は、強盗に襲われ、半殺になったその人を助けたのは、神様に仕える仕事をする祭司やレビ人ではなく、憐れに思った宗教上では異教徒だったといわれていたサマリア人だったというものです。

 さて、この律法の専門家はすべて正しい答えを知っていて回答しましたが、実行に移すことに欠けていたのです。私たちも、常にイエス様から「行って、あなたがたも同じようにしなさい。」といわれているのだと思います。

 最近、災害が多く、不自由な思いをしている人が、助けを求めている人が、弱っている人が、イエス様なのではないかと思えてくるのです。そういった人たちに向き合ってどのように行動するのかをイエス様は問われているのです。  
 
 私は、4年前から高齢者と向き合う仕事につきました。また、3年間で続けて両親を失いました。大きなことが出来るような立派な人間ではありませんが、明日からまた、体力的にも自信がないという利用者の方ひとりひとりを、イエス様だと思い、両親だと思いつつ、何をすべきかを考えつつ歩めたらと思います。


「信頼の担保」              No.545
        (イザヤ書2章1〜5節)
         (ルカによる福音書7章1〜10節)

                 荒瀬正彦牧師

 
 
8月は平和を祈る月です。イザヤは言います。「主の言葉が私たちを統治される。神の言葉に心から信頼する者は、もはや戦うことを学ばない」。

 聖書全巻を通して言えることは、平和とは心底から神の言葉に信頼することが根本であり、一切はこれに懸かっている。

 人は、自分の喜びとか幸せを自分の力で獲得しようとする為に、力に訴えてきた。が、「主の言葉に信頼すること」が最も大事だとイザヤの預言は繰り返し主の言葉に信頼することを訴えています。現代は「信頼崩壊の時代」と言われます。様々な偽装、偽証、虚言が横行し、信頼の根拠をどこに見出したらよいのか分らない。そこで信頼を「担保」の上に築きます。担保がなければ信用しない。徹底した人間不信が「信頼」の根底にあるのです。「信頼」についてルカ7章はイエスと百人隊長の話を伝えています。 

 一人の百卒長が、部下が重病になった時ユダヤ人の長老に依頼してイエス様をお迎えして癒しを頼もうとした。頼んだ後で「いや待てよ」と思った。

 すぐに使いを発てて「お出でにならなくても結構です。一言おっしゃって僕を癒して下さい」と申し上げた。ここにイエス様に対する深い信頼、お言葉に対する絶対の信頼が見えます。イエスの権威に信頼している姿がある。神の権威は、人を解放する権威、癒しと命を与える愛の言葉です。

 私たちは信用・信頼を何かを担保としてその上に組み立てようとします。しかしそうした「担保」が何の力も無く、いつか崩れ去ってしまうことに気付きません。百人隊長の話の中に、御言葉の権威、人種も信仰も超えるキリストの愛、罪も死も妨げ得ない十字架の愛、崩れることのない神の愛という絶対の信頼の担保を見るのです。全てを支配する命の御言葉、愛の御言葉。
これこそ信頼の根拠であり、信頼の担保であるのです。この絶対的な「信頼の担保」を根拠として平和の道を歩みたいと思います。


「祈りは愛、愛は生きること」      No.544
     コリントの信徒への手紙T(13章1〜7節)

              奨励 内田弥生長老

 
 
この箇所は中学生だった私の記憶に残る印象深い箇所です。友達へ手紙を書く代わりに、聖書のこのページを破いてプレゼントしようとしたという神をも冒涜する行為に及ぼうとした時、正に雷に打たれるとはこの事でしょう。心臓がドキンと高鳴り、破ってはいけないんだと瞬時に悟る事が出来ました。

 奨励の準備をしていると、出て来たのは希望が丘の週報です。牧会雑話に「入院」鈴木 淳。牧師が胃がんになり入院された2000年の9月17日付けのものです。一部抜粋いたします。「私は考えさせられるのです。あの主イエスはガラリヤの湖畔でそんな人々の苦しみ、うめき、いや神への懐疑の叫びをともに涙し、担われたのだろうなと。(中略)神なむしろ生きる事を良しとし。多くの事柄に置いて隣人を見つめともに笑い、ともに泣く、そして赦され赦す事を人の一生と定められたのです。その中で不条理の深淵でもなお祈る事の温かさをイエス自ら生きられたのです。祈りとは、人が生きる事と自然に伴う誰もが求める愛そのものかも知れません。」誰もが求めるものは愛である。私たちは愛を求める。愛に傲慢である間は人は謙虚になれないような気がいたします。愛にたいしても、人にたいしてもです。つい先日の事ですが、私は仕事で大失敗をしてしまいました。正に愛の無い行動が人を傷つけ、「分かってないなあ!」と牧師から言われてしまいました。しかしその事を通して、深い哀れみのあがないの主の愛に会う事が出来た。イエスは愛そのものだからです。その愛はただの愛ではありません。私たちの、いえ私の魂を救う愛なのです。更に「自分が分からない者である事を自分自身が知らなければならない、そうしたらもう少し寛容になれるかもしれませんね。」と牧師はおっしゃってくださいました。私には愛が無い。愛が足りませんでした。ルカによる福音書7章47節:「だから言っておく、この人が多くの罪を赦された事は、私に示した愛のおおきさで分かる。赦される事の少ない者は愛する事も少ない。」詩編119編7節「私は、貴方の正しい掟を学ぶとき。ただしい心もってし、あなたに感謝します」愛はどこから来るの?神の国から来る。既に神に愛されている事を忘れて、求めてばかりいる私達です。いえ私です。求めているのに、他者に対しては愛でないことが多いのです、それでも愛を求めて、愛の為に生きる事を、神に追い求める、神に示す愛が日々ある事を、毎週の礼拝において祈り求める者であらんことを。せめてその事を切に祈ります。



「時を見極めることは出来ない」      No.543
        (ルカによる福音書19章37〜44節)
      


 
聖書は私たちに悟ることを進めると共に、神の時は誰も見極められないとも説きます。それ故に「わかりなさい」というよりも「目を覚ましていなさい」と言われるのです。つまり大切なことは、分かることではなく、私たちにはわからないとう自覚です。更に言えば、神の御心がわからない、隣人の苦悩が分からない、いや自分自身が一番わからない。44節から言えば、神の訪れが分からない者である謙虚な自覚が必要なのでしょう。更に、42節から読み込めば、私たちは平和の道をさえわきまえられない者なのです。

 終戦記念日は、1945年8月15日の出来事を日本人の心深くに刻み込みます。しかしそのような痛みは人間の無知という罪の上にあったようです。先日のニュースに、太平洋戦争の開戦前夜、東条首相のメモが発見され、そこには「すでに勝った」という言葉があったと報道されました。なんたる傲慢!。もしも当時の首相が、わからない者であることを自覚し、目を覚ましていたら、戦争の悲劇で多くの人が苦しまずに済んだのではと悔しい思いさえ感じます。

 ヨハネ福音書9章41節は、イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と訳しました。人間の罪は、時を見極められない者であるのに、自分にはわかると言うところにあります。私自身も「わかるわかる」と言って来てしまったような気がして、最近特に反省させられています。わからない者がわからないまま救われました。ここに神の愛があるのだと思います。   



「多くのものが任せられている」      No.542
       (マタイによる福音書25章14〜30節)
      

 このタラントのお話しは、色々な解釈と示唆に富んでいますが、本日は前後の関係から神のご意思を探って見たいと思います。

 この前の箇所は、花婿が遅れてくるのを知らず油を切らしてしまった愚かな花嫁たち。主人が怖くて資金を埋めといた愚かな管理人。牢獄に入れられている人が神様だとは知らずに、面会にも行かなかった僕と続きます。つまり、その共通点は、知らなかったの三連続なのです。わかっていれば、油を買っておいたし、お金は銀行に預けたし、牢獄に面会にも行った。でも知らなかったんです。

 そしてこの知らなかった人とは、まさにユダヤの民のことなのです。神を裏切り見捨てて自己保身と異教に走ったイスラエルが、罪に気付いて、その無知から神に立ち返るようにというイエス様のメッセージなのです。

 少し前の22章37節にイエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』とあります。このイエスは言われたと訳される言葉は「イスラエルよ聞け」(シェマーイスラエル)というヘブル語から来ています。つまり「イスラエルよ聞け、自分たちが神から委ねられたものを思い起こしなさい。心を尽くして神と隣人を愛するのがあなた方の使命ですよ」とイエス様は、語られるのです。すぐに忘れて自分かってに生きてしまう私たちに、イエス様はいつもイスラエルよ聞け、私に立ち返りなさいと言われているのだと思います。これは裁きではなく愛の進言なのです。 



「立派な行いとは如何に」         No.541
        (マタイによる福音書5章13〜16節)
      

 
私たちに与えられ使命は、立派な行いによって神様を証しすることであると記されています。これは大変な使命です。みんなが承認できるような立派な行いが出来るのならよいのですが、仮に自分の側から立派な行いが出来ていると思っても、他者の目からは決してそうでない場合が大半だからです。そのような意味では、どうやってこのイエス様の言葉を履行すればよいのでしょうか。 
 先週は、毎年恒例の富士山登山をしてきましたが、よく凄いですねと言っていただきますが、富士山に毎年登らなくても死ぬ訳ではありません。では何故そうするのか、そこには意味付けがなくてはなりません。山頂登頂という意味ならば、もう達成済みですから目標にはなりません。今の目標は、一種の修行のようなものです。苦しい修行を乗り越えて、次に進みたいという願いとしての行動です。

 つまり働きとは、他者から評価される立派さというよりも、自分自身の中の目標設定に重点があるのです。どうやってその目標を達成して行くのか。つまり、その行動の種類や出来栄えではなく、そこに向かって進もうとする姿勢こそが立派な行いと言っても良いかもしれません。その私たちが行うべき立派な行いの最重要目標は、礼拝を守ることだと思います。ロマ書にあるように、私たちの体を聖なる供え物として捧げることが神礼拝そのものです。更に、神礼拝を捧げることが、私たちの最大の良い立派な行いと言い換えてもよいと思います。私たちにもしも立派な行いがあるとすれば、この私たちの住む町で、礼拝を続けて行くこと、信仰を捧げて行くこと、これこそが神の栄光を現わし、証していく立派な行いの第一であると思わされます。 


「五つのパンと二匹の魚」         No.540
        (ヨハネによる福音書6章1〜15節)
      

 
この二匹の魚と五つのパンの出来事は、本当にユニークな内容だと思います。イエス様は、集まった人たち全てに食事を用意しなさいと言われます。男女や子ども達も合わせれば、きっと一万人以上の人達です。大体、仮に購入するお金があったとしても、その人数が食べるパンの在庫が直ぐにある訳ありません。更に弟子達たちは、一人の少年を指さして「この少年は二匹の魚と五つのパンしか持ってなく何の役にも立ちません!」と言うのです。少年は、きっと家族の食材を買って家に帰る途中だったのかもしれません。しかし、群衆に巻き込まれ、あげるとも言っていないのに、勝手に何の役にも立たないと言われ、ハア?何言っているのという気分だったことでしょう。あり得ない要求と、大切な持ち物を役立たずと言われた少年。

 この状況下で、まったく予期せぬ出来事が起こるのです。何の役にも立たないはずの二匹の魚と五つのパンは、イエス様の祝福のもと何倍にも増え、みんなが満腹した後でもあり余ったというのです。これは一体、何を意味するのでしょうか。まさにそれは、差し出すつもりもない何の役にたたないものでも、神の祝福の下では何倍にもなり、多くの人を満腹するような神様の祝福に変えることが出来るということです。そしてだからこそ、私たちにとっての、二匹の魚と五つのパンは何であるかが日々問われているのだと思います。それは献金かもしれない、奉仕かもしれない、何かの持ち物を差し出すことかもしれない。しかしそれ以上に私たちが第一に差し出すべきものは、礼拝なのだと思います。造り主なる神に、週ごとに礼拝を捧げて行くこと。これが私たちに求められる霊的な礼拝であり、これ以上でもこれ以下でもないのだと思います。神は、私たちの差し出す小さな礼拝を何倍にも増やして、多くの人たちの祝福と変えてくださることでしょう。


「招きと連帯」             No.539
         (ルカによる福音書5章27〜32節)

                 荒瀬正彦牧師

 
 
レビという徴税人がいた。職業柄、人々の嫌悪と差別と無視に晒されていた。孤独と反発と怒りと不条理が彼の日常を支配していた。そこへイエスが来られた。レビとイエスの目が合った。するとイエスの方から声を掛けられた。「わたしに従いなさい」。

 レビの中に衝撃が走った。経験したことのない温かい眼差し。レビは立ち上がり従った。私たちは何かに囚われる時、大切なものを失っていくことがある。囚われてしまう何かは大切かも知れない。が、それが私たちを毒していくことがある。レビもそうだった。お金が一番大切だと思っていた。がそのことで人々は離れて行ってしまった。

 レビはイエスに従うことの喜びを皆で分かち合いたいと盛大な宴会を開いた。イエス様も一緒に食卓に着かれていた。それを見たパリサイ派の人は「徴税人や罪人と一緒に飲んだり食べたりするとは何事か」と弟子たちに言った。これが社会の現実です。

 罪人と一緒にいる者は罪人なのです。その時イエス様は言われた。「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。わたしは正しい人を招くために来たのではない」。私たちの周りにもさまざまな差別の現実があります。被差別部落、アイヌ、沖縄、在日、外国人労働者、障害者・・。私たちの社会はこうした差別構造を持っているのです。イエスの言葉には「本当に正しい人はいるのか。本当に健康な人はいるのか。そのような人は世界にはいない。だからわたしはお前たち皆を招いているのだ」という意味が込められています。イエスの目から見れば私たちは病んでいる罪人です。その私たちの所にイエス様は来られました。イエス様の招きとは「連帯」することです。

 登山の時にはパーティーは一本のザイルで互いを結び合います。互いの安全を確保するためであり、結び合っている相手の危険を引き受けるためです。それが連帯です。 マイファーストが当たり前の世の中。こんな私たちにイエスは悔い改めを求めます。悔い改めとは告白や謝罪を迫ることではなく、「神様の方へ向きを変えなさい」という呼び掛け、招きのことです。そしてイエス様の招きは連帯のことです。イエス様は病んでいる私たちを招き、最後まで連帯して下さいました。それが十字架でした。イエス様の招きと連帯に心からの感謝を献げたいと思います。     


「漁をしなさい」             No.538
         (ルカによる福音書5章1〜11節)
      


 
「ステータス・クオ」という状態があります。これは現状維持と訳されますが、意味的にはマイナスイメージです。つまり、前にも後ろにも進まない停滞状態を意味するからです。本日の箇所の、漁師ペテロたちの状態がそれです。昨夜から漁をしたのに何も釣れないで、がっかりと諦めた状況。そこにイエス様が来られて再び漁に出るようにというのです。彼らの心の中では、二つの状態が引き合っていたことでしょう。つまり、昨夜、必死に漁をしたのだからもう一回やっても駄目に決まっているという思いと、確かに昨夜はダメだったが、あの岸の向こうに行けばまた釣れるかもしれないという思いです。この二つの思いが両側から引き合う綱引き状態が、彼らを停滞させてしまうのです。人間は頭のいい存在で、何かを行う場合、出来る理由と同時に出来ない理由も直ぐに思いつくからです。

 さてでは、このステータス・クオからどうしたら脱出できるのでしょうか。そこで必要なことは「思考停止」を行うという方法論です。つまり自分の頭の中で引きあう論理を放棄して、何となくという感覚で選択して行くと停滞状態から脱出できるというのです。この思考方法の転換こそが、私たちにとっては神の声を聴くことであり、キリストの声に従うということなのだと思います。人間という自分の頭の能力を離れて、天の声を聴くことで、停滞状態から解放され未来へと一歩踏み出せるのです。この踏み出しこそが信仰なのだと思います。

 小さな人間の頭を離れて、天地創造の神に自らの道を委ねていく。これこそが、信仰の道なのだと思います。



「キリストの体の一部として」       No.537
    (コリントの信徒への手紙一12章12〜27節)

                
唐澤健太牧師

 
 
パウロは教会共同体とはいかなる共同体であるのかを体のたとえを使って明快に語っています。体には多くの部分があり、また必要であるように、「キリストの体」なる教会も同じというのです。

 「わたしは目ではないから、体の一部ではない」、「お前は要らない」という言葉は、実際にコリント教会で聞かれていた言葉でしょう。その中でパウロは教会共同体にとって決定的なことを語ります。「そこで神はご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)。体の多様な部分は、「神が望みのままに置かれた」のです! だから、自分たちで勝手に「必要ない」とか、「あいつは要らない」ということは言えないのです。

 また、パウロの体理解で特徴的なのが「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)ということ。弱い部分があるからこそ互いが配慮しあって、体に分裂がおこらずに済むのです。体は苦しみと喜びを共感、共有するものであり、キリストの体なる教会はそのような共同体なのだとパウロは説くのです。

 教会は決して理想的な組織でも共同体でもありません。コリント教会が分裂の危機に直面していたように、教会にはいつも課題があり問題があり続けます。「一つの体」を保つのは、当たり前にできることではありません。だからこそパウロはこの後に「愛を追い求めなさい」(14:1)と語るのです。キリストの体の筋であり、血液は「愛」です。キリストの体を形作るのは愛に他なりません。

 パウロは、問題を抱えるコリントの共同体に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と語りかけています。罪深さ、弱さを抱える群れが「キリストの体」なのです!なんという慰めであり、励ましであり、喜びでしょうか。神の愛なしに私たちは「キリストの体」であることはできません。神の愛だけが、私たちを「キリストの体」とするのです。この神の愛を証しするために教会はこの世にたてられています。あさひ教会のこれからの10年もこの「神の愛を証しする」教会でありますように!  



「99匹を野原に残して」         No.536
         (ルカによる福音書15章1〜7節)
      

 
この残された99匹と、救い出される1匹の話は常に議論になる箇所です。現実的に考えれば、迷い出た1匹より99匹を守った方が効率もいいし損失もしない。この現実的な選択を逆転させる方法は、唯一見る方向を変えることなのです。つまり、1匹の救われた側から考えるのです。以前、酷い宗教団体から救い出された人が「教会は病人の行くところなので私は治ったからもう行きません」と言われたことを今でもよく覚えています。その救出は多くの人が必死の努力をして、やっとなされた出来事でした。しかしその本人は、1匹であった自分から離れ99匹の中に埋没して行ってしまったのです。残念なことですが、これが私たちの社会の現実なのです。だから、この1匹救済の話は美談であっても現実的選択肢ではないようなのです。

 私たちは滅ぶべき罪人でありながら、キリストのご恩恵によって値なく救われたのです。しかしそれを忘れて、また一人、神のもとから迷い出てしまう。もしかすると、この1匹は1度ならず何度も迷い出ているのかもしれません。そしてその度に、キリストは99匹を残して私たちを捜してくれるのです。つまり、私たちは毎日、何度も救い出されているということなのです。ですから、その毎日の救済を心にとめることが、この例えの恩恵を実感するカギなのかもしれません。 この事実に感謝をもって向き合い、そしてキリストがなされたように、自分のお仕えする今日の1匹を日々捜して行きたいと思います。


「高ぶる者よ」             No.535
         (ルカによる福音書18章9〜14節)

                 荒瀬正彦牧師

 
 
教会では何かする前には必ずお祈りをする。何であれそれを神様に献げますと祈り、それが神様の御心に適うものとされ、神様の知恵と分別を与えられて教会の業に相応しいものとされ、最終的には神様のご栄光を顕すものとされることを願います。

 日本語では人間のことを「人の間」と書いて「関係の存在」であることを表現するが、ギリシャ語では人間を「アンスローポス」と言う。「祈る存在」という意味です。祈るとは信仰の姿です。ですから「祈り」は、誰に向かって、何を、どう祈るのかが真剣に吟味されなければなりません。イエスは祈りについて2つの譬え話をされた。

●一つは寡婦の話です。この寡婦は不公平な扱いを受けて困っていた。彼女の前に立ちはだかっていたのは、何と「裁判官」だった。ある場合には「世間」というものとか、理不尽な事柄かもしれない。この寡婦は神を畏れない裁判官に対して正義の戦いを始めた。この世の背後には世界を支配なさる神様がおられる。訴え続ける寡婦に裁判官は遂に神の正義に基づく裁判を始めたという。イエス様は真剣に祈ってぶつかっていくことを称賛される。「世界は人間の悪や権力で動いているのではない。また、お前たちの信仰や正義で動かされているのではない。ただ神の御心が勝利するのであり、神のご計画が成るのだ」。

●もう一つはファリサイ派の人と徴税人の祈りの譬えです。ファリサイ派の人は天を仰いで感謝して祈った。「私は奪い取る者、不正な者ではなく、あそこにいる徴税人のような者でないことを感謝します」。一方、徴税人は人々の憎悪の対象となっている人です。彼は顏を上げることも出来ず「罪人の私を憐れんで下さい」と祈った。
神様に認められて義とされたのは徴税人であった。

●この二人の違いは何か。ファリサイ派の人は周りを見て自分と比較した。その眼は神を見ないで自分を見ていた。彼は自分に拠り頼み自分を基準としていた。

 徴税人は他人を見なかった。神様しか見ていなかった。神の憐みによる他に生きる道は無い。キリエ・エレイソンと叫ぶしかなかった。それはあの寡婦もそうであった。

 神様に頼るしかない。祈りとは神に頼りゆく「求め」です。「高ぶる者よ、神の憐みを求めよ」。イエス様はそう私たちに呼びかけておられるのではない。


「耳を傾けるべきもの」         No.534
        (ルカによる福音書16章19〜31節)
      


 
イエス様はここで、人間の根本的な問いへの答えを語ります。黄泉から死者が復活し警告してくれるのなら、人間はみんな悔い改めて神を信じるであろうという問いです。それに対して、イエス様の答えは、モーセや預言者によって語られた神の言葉である聖書を信じない者が、死者が復活したからといって信じることは出来ないというのです。事実、キリストの復活に出会って信じた者もいれば、それでも信じない者や寧(むし)ろ否定する人も多かったから言えます。神様が、人間に求められることは大いなる奇跡によって信仰に入るというのではなく、日常の生活の中で聖書を読み神と出会うことの大切さを告げるのです。ヘブル書の言葉を借りて更に言えば、「 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」というように、イエス様に聞くこちらこそが信仰の道であると聖書は語るのです。

 とある日に尋ねられたことがあります。「先生は、イエス様を本当に信じているのですか?」という問いかけ。牧師にそんなことを聞くとは、という言い方もありますが、牧師もその問いの前で例外ではないと思います。ちょっとたじろぎながらも、その神を信じる者の全てに向けられる問いに「信じているなんて大そうなことは言えないし、約束もできないけど、信じて行きたいとは思っていますよ。」とお答えしました。その方は「ふ〜ん、そうなんですね。わかりました。」といって帰られたのが印象に残っています。誰でも、私は信じます、間違いありません、などと言えません。しかし、誰でも、信じて従っていきたいという願いを告白することは出来ると思います。今週もみんなで聖書を読み信じて進みたいと思います。  



「新たになり続けること」        No.533
        (ヨハネによる福音書3章1〜15節)
      

 
神の霊(聖霊)は風のように思いのままに吹く。そして、霊から生まれた者も同じだと聖書はいいます。霊から生まれた者とは、神を信じて洗礼を受けた者と定義すれば、クリスチャンは風のようであると言えます。そして、その性質は、どこからどこへ行くのかを知らないということなのです。何か、クリスチャンなら神への信仰を与えられ揺るがない道を持っているかのようにも思います。確かに、キリストの道を知るという意味では確かにそうなのですが、依然として風のようであることも確かなのです。

 風のようであるという表現は、とても示唆に富んでいます。霊から生まれた者は、風のように何処に自分が向かうのかを知らない。注意すべきことは、何処に行くのか分からず迷っているという意味ではありません。どこに行くかは、その方向は、風のように自由に吹き、自分の能力の領域を超えたもっとダイナミックな、予想もつかない世界へと私たちの人生が導かれていることです。それが霊から生まれた者も、風と同じとの意味ではないでしょうか。

 気持ちのいいそよ風もあれば、台風のように荒れる風もあります。しかしその霊の風に乗って私たちは、神の道への導かれるのです。いい時もあれば、悪い時もある。順調に飛ばせる日もあれば、どんなに努力しても強風に押し戻されてしまうこともある。しかしその全てが、神の霊の風に乗るという事であり、その風に人生を委ねることこそが、しなやかな生き方であり、最高の選択であることを知るのです。 自分で築き上げる人生から、神の声を聴き、その風に乗って生きる生き方。ここに最高の道があると思います。


「神を愛していても掟を守れない」    No.532
       (ヨハネによる福音書14章15〜24節)
      

 
この箇所は、神の送られる聖霊は弁護者であり、それは真理の霊であると記します。この真理とは、ギリシャ語では”アレイセイヤ”といい「隠れることの出来ない」との意味です。誰もが承認し、隠れることの出来ないものが真理。この真理の霊はそういうものなのです。しかし実際、この霊を誰でも承認できたとしたら、伝道する必要もなくなるような気がします。真理であるのに、隠されている。では、その隠された真理を知る方法はなんでしょうか。敢えてこの23節以降の聖書箇所をダイナミックに解釈したとすれば、キリストの言葉、その掟を守る者に、真理は示されるとも言えます。キリストに従い掟を守る者だけが、隠された真理の霊を受けるのです。

 しかしでは、この掟とは何でしょうか。それは、マタイ22.34に記される「神を愛し隣人を愛する」という掟です。私たちは信じる者として、この掟を守って行きたいのです。しかし実際は、気持ちはあっても守れない。神を信じていない訳ではないけど、その掟を常に行えているとはいいがたい。ここに神を信じ愛して行きたいけれど、その掟を守れない私達がいるのです。しかし大丈夫です。私が思うには、この愛しているのに従えない私たちの言い訳をして下さるのが、弁護者なる聖霊なのではと思います。自分で必死に言い訳しなくても、聖霊が神と私達を執り成してくださる。だから、キリスト者は逆に言い訳がましいことは弁明しなくてもいいのかもしれません。ペテロが「私の気持ちはあなたが一番ご存知です。」と復活のイエス様に答えたようにです。神の霊が、従いたくても従えない罪ある私達を執り成し助けてくれるのです。だからこそ救いなのです。ペンテコステありがとうございます。   


「わたしが好きか」           No.531
       (ヨハネによる福音書21章15〜19節)

                
荒瀬正彦牧師

 
 
イエス様の復活後、ペトロたちは故郷ガリラヤへ帰って漁師をしていた。がその夜は不漁だった。夜が明けて岸へ戻るとそこにイエス様が立っておられた。イエス様は弟子たちと一緒に食事をした後でペトロに呼びかけた。「わたしを愛しているか」。 

 ペトロはイエスが捕われた夜、役人に対してイエスを否定した男です。そのペトロにイエスは憐みの眼差しと赦しの言葉を向けられる。3度イエスを否認したペトロに3度赦しと愛の言葉を与えられる。ペトロは答えた。「あなたがご存知です」。彼は度重なる失敗で謙虚にされていた。「私が愛している」という自己中心な言い方を捨てて、自分の愛の告白が確かな偽りのないものであるか、その判定をイエスに委ねるのです。

 イエス様は「わたしを愛するか」と2度問い掛けられた。ペトロは「フィロー・好きです」と彼の言葉で答える。3度目にイエスは「わたしが好きか」とペトロの言葉を使われた。ペトロは3度目も「はい、好きです」と答える。ガリラヤの漁師であるペトロとっては「愛する」という言葉よりも「好きだ」と言う方が自分の純粋な気持ちを言い表すのに一番適切な言葉であったのだろう。

 イエス様は「わたしが好きか」と聞かれる。「私の教え」でもなく「キリスト教が」でもない。「復活の主、生ける神であるキリスト・イエスを何ものにも勝って愛するか」。ここが出発点なのだ。「私があなたを好きなことは、あなたがよく御存じです」と答えるペトロに主は「では、わたしの羊を飼いなさい」と言われる。イエスを愛することは、新しい課題を担い、この世へと派遣されて行くことです。恵みと賜物を頂くと同時に、主の十字架も頂くのです。それが羊の世話をする、羊を愛する、ということなのです。

 イエスは更に言葉を続ける。「わたしに従いなさい」。力弱い者には世話をし切れない、従い切れない、かもしれない。でもこれは主イエスの命令です。イエスの選びです。それならば神様は必ずその力を与えて下さる。「何も出来ない自分」・・だが出来ないことで神様の栄光を顕すことが出来る。神様が用いて下さるからです。「さあ、わたしの羊を飼うために出掛けなさい。わたしに従ってきなさい」。私たちも新しい信仰の歩み出しのスタートラインに立たされたのです。 


「わたしは一人ではない」        No.530
       (ヨハネによる福音書16章25〜33節)
      

 
イエス様が「わたしは一人ではない。父が、神が共にいてくださる。」と言われたように、信仰とは神が私たちと共にいて下さることを信じることなのだと思います。しかし私たちは、予想以上に自分のことが分からない生き物です。私の神学校の恩師は「だれでも不純な動機で神と出会っている」とユーモアたっぷりに話されていたことがあります。教会の門を叩く時、純粋に神を求めるというよりも、友人が欲しいとか、仕事や生活で困っているとか、正に神頼み的に訪問することも多いのではないでしょうか。しかし仮に、不純な動機で教会の門を叩いたとしても心配はいりません。それでも、週ごとに教会に通うことで、私たちは神によって聖書を通して修正されて行くのです。神とは何であり、キリストとは誰であるかを知るのです。そして私たちが「そうだったのか」と気付いた時に、イエス様は「やっとわかったんですか」と笑みを浮かべて迎えてくれるように思えます。

 わからない者が、わからないまま招かれて、信仰の道に入れられるのです。そして、そこで自分は一人ではないと気付かされるのです。神われらと共にあり、インマヌエルの主がここにおられるのだと思います。



「疲れた者の集まりとして」       No.529
       (マタイによる福音書11章25〜30節)
      

 
この箇所は「疲れた者、重荷をおっているものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」という聖書の有名な言葉が記されています。このイエス様の言葉は、人生の重荷をおろして休みたいと常日頃から思っている私たちにとっては慰めを与えられる訳です。しかしこの箇所の注意すべきことは、休ませて頂くには条件があるのです。その条件とは、キリストのもとに行くという行為、更にはキリストの軛(くびき)を共に負うという行いが必要なのです。そうすれば「安らぎを得られる」と記されるからです。ただ何もせずに、休みと安らぎが得られるという無料バーゲンの話ではないのです。

 しかしでは、キリストのもとに行き、その軛を負うとはどういうことなのでしょうか。それに関してイエス様は、わたしの軛は負いやすく荷は軽いから大丈夫ですよ!と言われるのです。つまりキリストのもとに向かうとは、何か自分も十字架に掛けられる覚悟がないと出来ませんというものではなく、キリストを信じついて行きたいという信仰が大切だという事なのだと思います。何らかの優れた才能や、揺るがない信仰とかという自己努力みたいなものではなく、兎に角この方を信じてついて行きたいという願いのような信仰があれば、神からの休息と安らぎがあたえられるという事なのです。是非、軽く負いやすいキリストの軛という信仰をもって今週も進みたいと願わされます。


「神の掟を侮ってはなりません!」    No.528
       (ヨハネによる福音書15章1〜10節)
      

 
キリストの幹に繋がっている者は、豊かに実を結ぶし、願うものは何でも与えられると記されます。これは一見すると、信じる者は何でも成功し、手にしたいものは与えられるという成功論者への言葉にも聞こえます。しかし良く注意して読むと、そのキリストに繋がっている結果は「父の掟を守り、その愛にとどまる」ことと記されるのです。神の掟とは、マタイ22章によれば、神を愛し隣人を愛することです。つまり、豊かな実も、願うものも、その結果は、神を愛し隣人を愛するということに帰結するのです。神の掟と愛に留まる者は、また豊かに神の掟と愛を結んでいくのです。愛に留まる者が、また愛を結んでいくというループのような行動原理です。

 これは同じことの繰り返しのようですが、この繰り返しこそが人生一番の恵みとも言えます。ただ普段はその恵みを感じにくいものですが、それを一番感じるのは、そのループが壊れかかった時です。家族の問題や病気や仕事や、今まで淡々と繰り返したことが、崩れかかった時に、私たちはその繰り返しこそが恵みであり素晴らしいことだったと実感するのです。
 
 マルティン・ルターは「たとえ世界の終末が明日であっても私はリンゴの樹を植える」と語り、アシジの聖フランチェスコ「来週世界が滅びるとも、今日私はニンジンの種をまく」と言われたそうです。それは諸説ありますが、私はどんな時でも、キリストへの信仰の道を繰り返し続けてと行く大切さと、恵みを両者は語っているように思うのです。この信仰の繰り返しの恵みを侮らず、日々を感謝して進みたいと思うのです。 


「よい羊飼いの使命」          No.527
       (ヨハネによる福音書10章7〜21節)
      

 
私たちにキリスト的な迫害が迫った時に、どうするでしょう。意外と一番に逃げてしまいそうな人が信仰に留まり、勇敢に戦いそうな人が遁走してしまうかもしれません。牧師が一番先に逃げだしてしまう可能性も大きいと思うのです。ペテロだって初めから十字架を前にして逃げ出そうと思っていた訳でなく、みんなが躓(つまず)いても俺は絶対に大丈夫と言ったことも本心だと思います。みんな、出来れば留まって信仰の道を死守して戦いたいと思っていますが、しかしその場にならないとわからないのです。私たちは、羊を守るよい羊飼いでありたいのですが、その場になると怖くなって逃げだしてしまう可能性大という自覚は必要なのです。そして、自分は決して良い羊飼いにはなれないからこそ、私たちを導かれる良い羊飼いが必要といえるのです。

 私の友人の牧師の先輩が「俺は教会のために何もかも捨てて来たというやつを信用しない。そういうやつは、いずれ教会も捨てる。」という名言をフェイスブックに書き込みました。正にその通りだと私も同感した次第です。勿論、「何もかも捨てて」という発言は当初は誠実な思いであったことでしょう。しかし、その決意を自分の熱心でやり遂げようとした時に大きな挫折に陥るのです。私たちは良い羊飼いではないのです。自分の力や熱心には限界があるのです。自分でしがみ付いて良い羊飼いを演じるのではなく、まことの良い羊飼いであるイエス様に、自分自身を委ね行く信仰こそが一番大切であり平安な道だと思わされます。    


「行け、ガリラヤへ」          No.526
        (マルコによる福音書16章1〜8節)


                  
荒瀬正彦牧師

 

 
週の初めの日の朝早く、夜の闇を破って日が昇るとすぐ、女たちはイエスが葬られた墓に向かった。女たちは墓の入り口を塞ぐ大きな石を心配していた。それは死と生の世界を分ける動かし難い壁です。イエス様の言葉と業を押し潰し、人間が神を封印しようとした罪の石です。この石をどかせることは誰にも出来ない。生と死の場所を変えることは出来ない。

 ところが墓に来てみると「既に」石は転がされ退かされていた。そこにイエスの亡骸は無かった。空っぽの墓。誰かが先回りし石を退かしていた。しかし空っぽの墓の中に「言葉」が残されていた。言葉が響き渡っていた。「あの方は復活されてここにはおられない」。更に言葉は告げた。「弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。そこでお目に掛かれる」。イエスを裏切り否認したペトロや弟子たちを甦りの主は真っ先に招いて下さる。甦りの主の眼差しは最も遠くにいる者へと注がれます。

 ペトロがイエス様を3度も否認したことの切っ掛けは、ペトロがガリラヤ訛りで喋って、女中から「あんたガリラヤ訛りだね。あの人の仲間だね」と言われたことからであった。お国訛りは単に方言を喋るということでなく、その訛りが語られている所こそ本拠だということです。その生かされて生きる場所を彼は否定した。それは主に召され主と共に生きることを否定することであった。が、甦りのイエスはそこで待っておられると言うのです。

 主は、私たちが生きているこの場所、私たちの言葉が語られているこの場所、罪と汚れに満ちているこの生活の場所で、もう一度生き直すことを望んでおられるのです。

 私たちのガリラヤは、私たちの教会です。信仰はキリスト教の知識に始まるのではなく、生ける神・主イエスとの出会いから始まるものです。その出会いは教会の礼拝で与えられます。私たちの信仰生活は教会から始まり、教会で深められていくのです。出会いはガリラヤなる教会で起こり、礼拝の中で繰り返される信仰体験です。

 イースターの朝、天使は女たちに言いました。「行って、ペトロに告げよ」。ペトロとは私たちであり、この町の人々、私たちの隣人です。代々の教会は忠実にこの言葉に従った。今度は私たちの教会が伝える務めを担うのです。御言葉を聞いたなら人々に「既にイエス様はガリラヤであなたを待っておられます」とお伝えしなければならない。



「見ずに信じるものは幸いなり」     No.525
       (ヨハネによる福音書20章1〜10節)
      


 
「復活祭おめでとうございます。イエス様が私たちの為に死者から甦りました!」とキリスト教会は2000年語り続けてきたことは凄いことだと思います。それは、本日の聖書箇所も含めて、キリストの復活に直接出会った弟子たちの誰もが、その事実を信じられず疑いの思いを持ったことが記されているからです。彼らが信じることになったのは、復活のイエス様に出会って初めてといいますか、その事実を確認しやっとと言うことなのです。それ程この出来事は、信じがたいことであり、それを伝え続けてきたキリスト教会は凄いというか、何なのか?とさえ思ってしまいます。さてその何なのかとは、マリヤや弟子たちが、本当に復活のキリストとの出会うことなくして、今日の教会の信仰はなかったと言うことなのです。 ですから、現代の人がキリストの復活と言われても、そう容易には信じられません。

 では何故、キリスト信仰の道が開けたのか。それは突然死者が生き帰ったという話ではなく、旧約聖書の時代から面々と語り継がれてきた預言の成就だからなのです。マリヤも弟子たちも、イエス様に出会い信じただけでなく、その出来事が旧約聖書に記されていたことを知ったからなのです。神の救済の約束の成就。ここに復活を力づける根拠があるのです。それ故に、神を信じキリストに従うことは、今も昔も変わらないのです。



「子ロバに乗った王様」          No.524
      (ヨハネによる福音書12章12〜19節)
      

 
イエス様は、エルサレムに民衆の熱狂を受けて迎えられます。その民衆の姿を見て、イエス様を失脚させようとするファリサイ派の人たちは諦めたと記されます。その熱狂の理由は、前章にも記されるようにラザロの復活や様々な奇跡を伴うイエス様の力でした。しかしでは、何故そんな凄いイエス様が人々から最終的には見放されてしまうのでしょうか。それは、キリストの力のもう一つの面を見ていなかったからなのでしょう。それは、イザヤ書53章に記される苦難の僕としてのキリストの力です。神の力に満ちた主は、同時に僕として私たちの身代わりとなって十字架にかかる苦難の僕なのです。旧約の時代から預言され続けて来たキリストの受難を民衆は理解できず、不信という負の力に支配された人の罪が、キリストを十字架に付けることになったとも言えます。そのような意味では、この私たちの無理解、無知を認めて、悔い改めることが信仰と言ってもいかもしれません。

 私たちは自分では「全てはわからないがだいたいのことは分かっている」と思っているのではないでしょうか。しかし。寧(むし)ろわかっている事は僅かで、殆(ほとん)どのことが分からずにいるのかもしれません。罪の分からない者が、罪の赦しを得る出来事。それがキリストの受難の象徴であり、キリストの復活の喜びなのです。イースターおめでとうございます。毎年、復活祭が来るように明けない人生の夜はありません。明るい方向に、神の国の方向を信じてみんなで進みたいと思います。



「何を願っているのか分からない」     No.523
      (マルコによる福音書10章35〜45節)
      

 
イエス様が「わたしの受ける杯を飲めるか」と尋ねると、ヤコブとヨハネは「出来ます!」と即答するのです。でも、彼らはその杯の意味を理解していませんでした。わからなかったのです。38節でそのことをイエス様は先取りして「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と叱責されるのです。 このように、イエス様がいよいよ十字架にかかる直前でも弟子たちは分かっていなかったのですが、この無理解な弟子たちを私たち聖書の読者は批判することが出来るのでしょうか。
 最近よく思うことは、人間とは本当に他者のことがわからない存在なんだということです。分かる部分は本当に小さなところだけ。しかし私たちは、自分は全てではないが、だいたいのことは分かっていると思ってしまいます。意見が合わない時は、自分が間違っているとは思えず、相手の無理解のせいでこんな混乱を招いていると思ってしまう者なのです。それは、傲慢であるとか、悪い人間であるとかといった話ではなく、相対するものを理解する能力の人間的な限界の問題なのだと思います。そして、その人間的な限界は、極めて低いレベルにあり、自分の正しさはその低いレベルの内側にしかないことを知らなくてはならないのだと思わされています。

 さてでは、私たちは何をどうすればいいのでしょうか?。それは、いつもイエス様にそのことを聞くことだと思います。イエス様の答えは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われました。何かを分かった者となるのではなく、私たちは仕える者になるようにとキリストは語られます。信仰とは、この同じ問いの答えを何度も聞き続けることなのかもしれません。 


「人生やり直せる」           No.522
     (エフェソの信徒への手紙2章11〜22節)


               
   荒瀬正彦牧師


 多くの人が現状が思わしくないと「あの時、〜であれば」「〜であったら」とボヤクことが多い。けれども人生はやり直しがきかない。過ぎ去った日は戻ってこない。ところが聖書は「やり直しが出来る」と言う。第2コリントでは 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とある。間違いと失敗を繰り返してきた人生でも、今から新しい存在としてやり直せる、と言うのである。

 11〜13節にかけて「遠い者と近い者」と言われる。「遠い、近い」は律法からの距離である。律法が壁となって分けている。この壁はさらに人間と神様を隔てる壁となってしまった。この壁を打ち破るものは、ただキリストの十字架のみである。分かたれた二つのものを一つにするのはキリストのみである。キリストによって全く新しい人間が創り出されるのである。

 15節では「新しい者と古い者が」対比される。人は新しいものに憧れる。が、人が作る新しいものは人間の欲望、自己中心がこびり付いているから、そうした「罪が」全てを古くしてしまう。罪からの解放がなければ新しくなれない。神様との関係が変わらなければ新しくなれない。新しくされるとは、キリストの十字架で罪が打ち破られ、神様との和解を頂き、全く新しい者とされて恵みによって生きること。

 大事なことに気付きたい。私たちはキリストに愛されて、既に新しくされているということ。そこに立てば神様とも人々とも新しい関係を持つことが出来る。人を赦すことも、傷つくことに耐えることも、無関心だった社会や世界のことを祈れるようになる。「近い者と遠い者」が一つにされる。「古いものが新しいもの」とされる。そこには神様の目的とご計画がある。

 18節「キリストによって両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るようになるため」である。キリストに愛され、キリストを愛し、キリストと共に生きることで、人生やり直そうではないか。



「振り向きつつも前進」          No.521
       (ルカによる福音書 9章57〜62節)
      

 
イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」と言われました。一旦従うと言ったが、いざその時になると、色々な用事を付けてなかなか従おうとしない。自分で決断したのに、何とも身勝手な話しでイエス様が厳しく批判されるのも最もなことです。しかしでは、私たちは大丈夫なのでしょうか。私たちも自分の決断と努力で、その使命を遂行しようとするのなら、同じ結果になるかしもれません。

 使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙において、自分が神にお仕えしているのは、自分の努力で何かを捕えているからではなく、自分がキリストに捕えられているからなのだと言われます。自分で捕えているのではなく、他の者に捕えられているという感覚に目を向けることが大切なのです。

 巷では、凄い能力のある人がいます。勢いよく組織を立ち上げ、沢山の人を集め、尊敬と信頼を集める人です。しかしそのような人は、気が付くと全てを投げ出て辞めてしまう人が、けっこう多くいるのは何故なのでしょうか。それは、自分でやり抜き突破する力には限界があるからなのだと思います。人間が基本的に持っている能力は、それ程の違いはなく、一気に大きな力を注ぎ出す人は、自分でやっている限り、疲れはてて放棄してしまうのです。気持ちはわからないではないですが、それでは元も子もありません。

 また、社会の組織ならそれでもいいかもしれませんが、私たちの信仰共同体においては、そんな廃教は許されないのです。自分自身だけでなく、多くの人を躓(つまず)かせるからです。しかし、そうは言っても、私も自分でやっていると思っている限りは、力尽きて明日職務を投げ出してしまうかもしれないのです。そうならない方法はただ一つ、パウロの言うように「捕えているのではなく捕えられている感覚」を持った信仰です。神が捕えてくださったから、このこともあのこともしようと。その時に私たちは、大変な働きの中でも大きな平安を得るのではないでしょうか。 


「捨てられる価値」            No.520
      (マルコによる福音書12章 1〜12節)
      

 
この箇所で、徹底的にイエス様に責め上げられる律法学者などの権力者たち。彼らは自分達の地位が脅かされることに非常な恐れを抱いたのでしょう。その失う事への恐れです。

 ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン博士は、「私たち人間の脳は、利益よりも損失を敏感に、そして損失を「過大」に感じ取ってしまう。」といいます。得ることよりも損失をすることへの恐れの方が二倍も三倍も重く感じるというのです。

 持っていたものを手放す不安。それは新しく得ることよりも心を支配されるのです。そしてそれは、ユダヤの指導者に限らす私たちもまったく同様なのです。私たちは社会でより多くのものを集めたものが成功者であると定義され、走り続けさせられているからです。

 でも、キリストの価値観は逆のベクトルなのです。「家造りたちが不要として捨てた石が、隅の親石となる」と聖書は語ります。社会では無価値として捨てられたものが、神の前では尊いものとして拾い上げられる。私たちは、自分達で集めたものではなく、この神の拾い上げる力によって救われているのです。損失したものが、実は得たものとなるという逆説です。

 この理解のしかたは世俗社会では認められないものかもしれませんが、しかし、それを価値あるものとして受け止められる力が信仰の力です。 社会の荒波の中で、この捨てられた価値ある石をみんなで拾い上げて行きたいと思います。 


「苦難から希望へ」           No.519
      (ローマの信徒への手紙5章 1〜11節)

                 
荒瀬正彦牧師


 私たちは神様を信じているのに、何か事が起こる度に動揺してしまう。祈っても聖書を読んでも、信仰を持っているのに心が平安にならない。1節の終わりに「神との間に平和を得ており」とあるが、どこに神様との平和があるのだろう、どうすれば平安が得られるのだろう、と思わずにいられない時がある。

 聖書が言う「平和・平安」という言葉は「恵みが満ち足りた様」という意味がある。コップに口きり一杯水を入れる。更に入れると水は溢れ出す。その状態をシャロームという。私たちはイエス様の十字架によって既にシャロームを得ている。もうその恵みの内に入れられていると聖書は言うのである。ルターは5章1節をこう言っている。「ここで語られている『平和』という言葉は、『信じる』ということである。不安でならないところで、揺れ動いている所で、神様との間に立てられた平和を確信することなのだ」。

 神様との平和には「自分との平和」も含んでいる。私たちは自分で考える以上に自分を受け入れていないことが多い。「なぜ私が・・?」。私を取り囲む状況が問題なのではなく、この状況の中で苦しむ自分が受け入れられないのだ。そんな自分でも受け入れられない自分を神様が受け入れて下さっている。神様との平和とは、実はこんな自分を神様が受け入れて下さっているということ。

 私たちは困難や悩みの中に立っている。悲しみや苦難の中で激しく揺れ動いている。でもそこは神様の恵みの中なのだ。自分の力で立っているのではなく、神様に立たせて頂いているのだ。神様の愛が支えて下さっている。だから耐えることが出来る。立ち続けられる。そのことによって一層強くされる。

 恵みの中に立ち続けるには確りした足腰の強さが必要であるが、自分の強さと努力で得られるのではない。神様が罪人の私をこよなく愛しておられる。神様が平和を下さっている。この神の愛を知ることが足腰の強さなのだ。

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。この力強い福音の言葉で足腰を強めて頂き、しなやかに、したたかに、恵みの中に立ち続けたい。



「我が十字架を知ること」         No.518
       (マルコによる福音書8章31〜38節)
      

 
若い頃は「サタンよ引き下がれ!」というイエス様の言葉をカッコいいな〜と思ったものです。イエス様の真似をして「サタンよ〜」と言っていましたが、その頃は自分の罪がわからず、自分がサタンそのものになってしまっていることに気付きませんでした。実際、この言葉はイエス様だけが言える言葉なのです。真の神であり真の人であるイエス様のみに許される言葉。また別の視点から考えると、イエス様はその力によってユダヤの王になる選択も十分あったはず。それでも十字架を選び取っていった。つまり、もしかすると、イエス様は自分に向かってこの言葉を言ったのかもしれない。そしてこの苦しみこそが、キリストの十字架なのだと思います。そして更に、その方を信じて生きることこそが、私たちの担うべき十字架と言ってもいいと思うのです。

 先日、介護の仕事で「はっきりいいますけど、ケアマネージャーってそんなことしか出来ないんですか」と叱責されました。とても複雑な介護状態と、お役所仕事の決定により、現状のギリギリ在宅生活が崩れていくところでした。ですから、ご家族の叱責は、もっともだと思いました。制度の中で出来る限りの対応をしたつもりでしたが及びませんでした。しかし如何に大変だったとしても、これを「私の十字架」などと言ったら酷い思い違いかもしれません。キリストの十字架は、もっと高貴でもっと美しい。マタイによる福音書では、イエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。キリストの十字架は、私たちが喘(あえ)いで背負うものではなく、もっと軽い、もっと負いやすいもの。担いたくなるような素晴らしいもの。つまり信じて生きることの素晴らしさこそが、十字架の重みかもしれません。今週もキリストの十字架が軽く感じられるいい日々でありますように。



「良い地とは何か」           No.517
        (ルカによる福音書8章 4〜8節)
      

 
良い土地の例えです。タネが様々な理由で育たないダメな土地と100倍の種が育つ良い土地。この現実にある出来事をイエス様は、信仰という世界に例えるのです。しかし世俗の価値観における沢山の収穫を得られる「良い」という表現と、私たちの信仰の世界における「良い」と視点が違うようです。信仰における実を結ぶとは、ヨハネ15章のぶどうの木の例えのように、キリストに繋がっている者が実を結ぶということなのです。つまり、良い地であるとはキリストに結ばれている事、信じて行こうとしていることによるのです。いや更に言えば、信じた者はそれだけで、既に実を結ぶ良い地となっていると言っても良と思います。

 私たちの日常は、日々ガッカリに満ちているような気がします。何でこんなことになっちゃうの?と言ったようなガッカリ。あさひ教会をスタートしてからも、本当に沢山のマイナスな出来事がありました。しかし今振り返ると、本当に困った!と思ったことでも、何となく切り抜けてきているのです。それはまた、自分の努力で乗り越えたというよりも、神を信じる信仰がそのことを乗り越えさせて来たように思います。正に、私たちは信じることによって、良い土地とされ、様々な嵐に出会っても実を結び続けるのです。これって本当に素晴らしく、ありがたいことだと改めて思わされます。自分の能力に縛られず、自分の愚かさに失望せず、神のもっとも良いご配剤を信じて心安らかに今週も生きたいと思います。



「気前のよさが神様の特徴」       No.516
      (マタイによる福音書20章 1〜16節)
      

 
朝から真面目に働いてきた労働者と、夕方から雇われて藁の一本を締めた程度の労働者が同じ賃金であるとの話。仮に、この夕方から雇われた労働者が逆に朝から働いていたら、同じようにその不公平に怒ったことでしょう。しかしこれが、聖書の説く真理のカギなのだと思います。また逆にこの出来事に全く納得できない方はキリストには向いていないかもしれません。この逆説的例話の中に、神の真理を感じる方はキリストの弟子に近いと思います。

 この真理が語る一つの重要な視点は、自分は朝からまじめに必死に働いた成果として天国に入ったと思った私たちが、実は、自分も夕方から来てやっと雇ってもらった者であったことを知ることなのです。自分も、夕方にやっと見つけてもらい、ギリギリセーフで天国に迎えられた。この自己認識こそが、イエス・キリストを信じる信仰なのだと思います。

 介護保険の仕事をしていると、本当に意味があるのかという事務処理が山のように存在します。そして役所の方々も、隣の市で行ったまったく同じ書類審査を一からやり直すようにと命じられ、無意味な時間に人生を費やされているのが行政の業務のようにさえ感じます。しかし、私たちがキリストの信仰によって行う様々な業は、神の目には決して無駄のないものなのです。神様に役に立つ働きを日々積み上げているのです。ですがそれもまた、私たちが天国への切符を買うための仕事ではありません。私たちの救いは、私たちの努力によって勝ち取るものではなく、神様の「気前の良さ」によってのみ与えられるギフトだからです。  


「恐れることのない恐るべき方」     No.515
      (マタイによる福音書17章 1〜13節)
      

 
新この山の上でのイエス様の山上の変容は、同行したペテロ・ヤコブ・ヨハネの心に決して忘れられない出来事となったことでしょう。そしてこの出来事は、彼らが宣教に赴く中で次々と出会う試練や迫害の中でも、彼らを信仰の道に留まらせ弟子としての使命を生涯全うさせるのです。

 私たちもまた、そのような体験・経験を積んでいくことが大切だと思います。私たちにとっての、自分自身にとっての、キリストとの出会い、人生の高い山の山頂で神を感じる神々(こうごう)しい思い出。キリストを体験した出来事。それを忘れてはいけないのです。ペテロ達に語り掛けられた恐るべき神の御子は、また私たちが恐れる必要のない愛のキリストだからです。

 日本の登山歴の中で有名な人物に、播隆上人という方がおられます。彼は、北アルプス槍ヶ岳に魅せられて、何度も登頂をしてその地で修業を続けました。そして、その山頂での神々しい体験を多くの人達にもして欲しいと願い、槍ヶ岳山頂の槍の穂に鎖をかける計画をします。当時の松本藩は飢饉で貴重な鉄を放出する余裕はありませんでした。しかし、播隆の必死の懇願により、多くの人が心打たれ出資をして鎖をかけることに成功するのです。

 この出来事における鎖をかける行為とは、私たちとっては正に伝道と言ってもいいと思うのです。神に、キリストに出会う出来事へ向かう道を備えること。困難な道のりでも鎖をかけ、願うものは誰もが神を体験できるように導く。

 私たちの生活は、楽しいことばかりではなく、本当に辛い鎖にしがみ付いているような出来事も多々起こってきます。しかしその体験を超えた時に、山頂で私たちは神と出会うのです。良いことも辛いことも全てが、私たちを神へと導かれるのです。是非、信じてこの道をみんなで歩んでいきたいと願っています。    


「良いものは後から来る」        No.514
      (ヨハネによる福音書 2章 1〜11節)
      


 
新年より、カナの婚礼におけるイエス様の最初の奇跡が取り上げられました。この箇所が私たちに示すことは沢山ありますが、本日はイエス様によって良い葡萄酒が後から婚礼の席に出されたことに注目したいと思います。会食の席では初めに良いお酒を出して来場者に喜んでもらうものですが、後半は酔いが回ってしまって味覚が不明瞭になっていることから安価な物が提供されるというのが社会の通例のようなのです。しかしイエス様はその奇跡によって、社会の慣例に反して後から良いものを出されました。

 そしてその奇跡は、葡萄酒が要求されているのに、水がめに水を汲むという無駄な行為の応答によってなされます。これはペテロが一晩漁をしても何も取れなかったのに、もう一度網を打ちなさいとイエス様に言われて、無駄と思っても従った行為に似ています。その結果は、大漁であり、良い葡萄酒の軌跡が起こるのです。一見無駄と思えても「イエス様がおっしゃるならばやりましょう」という精神。その結果は、後から良いものがやってくるのです。

 先週、ボーイスカウトのスキーキャンプに出掛けてきました。そこでスキーが早く上手くなる子とそうでもない子がいることに気付きました。早く上手くなる子の特徴は、指導者の指示通りに動ける子なのです。逆に、言うとおりに出来ない子、また言われたことをやりたくない子は中々上達しないのです。またもう一つの上達する方法は、続けて毎年スキーキャンプに来る子です。続ける子は、当初は用量が悪くても必ず滑れるようになるのです。つまり、指示に従って訓練することと、諦めずに続けることの二点です。

 信仰も同様だと思います。イエス様の教えどおりに生きようとすること。そして投げ出さず生涯その道を歩むことです。その結果は、後から良いものがどっさりやってくるのです。何かそう思うと、凄く楽しみですね。今年もみんなで、イエス様の道を歩みたいと思います。


「神の御手にある未来」         No.513
      (イザヤ書42章 1〜 9節)
      (マタイによる福音書3章13〜17節)

                  荒瀬正彦牧師


 私たちは自分たちの明日や将来を自分で築いて行かねばならないと思うから、明日 を心配したり挫折を味わったり悩んだりする。今まで努力して築いてきた健康だとか 仕事や老後や人間関係などが破れ崩れてしまう時、目の前真っ暗な思いがする。しか し私たちの信仰は、自分の手の中にある幸せな未来を確保することではなく主の御手の中にある未来を信じることではないか。

 洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた時、そこへイエス様がやって来られた。ヨハネはイエスの洗礼を思い止まらせようとした。がイエス様は彼の言葉を退け「今は黙って洗礼を授けてもらいたい」と言われた。  

 私たちには神様の御心・ご計画を全部知りたいという願望がある。しかし「知りたい」というのは「欲望」と同じで何処まで行っても満たされることはない。「知りたい願い」に限界はない。だが人間は神を知り尽くして神を自分の手の中に入れようと言うのか。「知りたい」欲望の中には信仰は無い。知り尽くし得ない神の御心という謎にじっと耐えることが信仰ではないか。ヨハネは「知る」ことではなく「信じる」ことに於いてイエス様の決意と言葉を受け入れたのであった。

 15節「正しいことすべてを行う」と言われたイエスの言葉には二つの意味がある。●イエスの洗礼は神の御心のうちにあること。イエスはご自分の先例に神の意思を見られた。そこで自ら進んで罪人の群に身を投じた。●ヨハネの宣教の業は神の道に叶っていると言うこと。しかしヨハネの宣教の業には限界があった。私たちがどんなに悔い改めても神の義にふさわしい正しさを持つことは出来ないということである。

 私たちの悔い改め・洗礼は、神の許に行くことは出来ない行き止まりの道でしかない。この絶望的な限界の前にイエスは立たれた。イエス自らが洗礼を受けることによって塞がれている神に至る道を切り開かれ突破して下さった。「私が洗礼を受けるのは全ての者が希望の未来へと通れる道を開くためなのだ」、そう語って下さっているのだ。

 神の愛のご計画は必ず成る・・そこにイエスの洗礼は土台を置いている。神は水から上がったイエスに言われた。「これはわたしの愛する子、心に適うものである」。すると聖霊が鳩のように降った。今や私たちの未来はイエス様の御手に移された。私たちの世界は根底から変えられた。もはや私たちの歩む道は塞がれている道ではない。神のご計画にすべてを委ねて、力強く2018年を歩んで行きたいと思う。



「備えよ常に」             No.512
      (ルカによる福音書12章35〜40節)
      


 
この聖書箇所では、いつ神様が来られても困らないように常に備えていなさいということを僕と主人の例えをもってイエス様が語ります。しかしここで今一度注意すべきことは、この突然帰ってくる主人の在り方です。この主人は備えていた僕に対して、ただ褒めるというのではなく、逆に自分が腰に帯を締めて僕の食卓の給仕を始めるというのです。これが聖書の示す最終的な主人の在り方なのです。そしてこの主人を私は凄いなあと思うのです。でもある人は、そんな主人は嫌だ、もっとえばって偉くいたいと思うかもしれません。実際、この後者の理解の方は、キリスト教には向いていないと思います。イエス・キリストの私たちに示された姿は「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」からなのです。

 今年も一年がいつものように始まりました。同じことを忠実に繰り返し、神と人にお仕えしていくのが私たちの使命です。しかしそれはただの繰り返しではありません。いつ、イエス様がこられても、いつ世界の終わりが来ても、慌てないような備えの上に日々があるのです。そしてその備えとは、まさに信仰です。正直、罪ある私たちは行いでは中々備えきれない者ですが、この神から頂いた信仰によって備えることができるのです。

 今年の主題聖句「「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」(第二コリント13章11a節)が与えられました。一生懸命みんなでこの聖句のもと思いを一つにして進みたいと思います。しかしその進む先は、何か完璧な聖人になるというのではなく、励ましあって備え得るべきものは信仰によってのみ勝ち得る天国の門です。この道こそが、今日明日の私たちの地上の生活を整えてくださるのです。天国楽しみですね。

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