カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


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2018.2.11更新
    

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「良い地とは何か」           No.517
        (ルカによる福音書8章 4〜8節)
      

 
良い土地の例えです。タネが様々な理由で育たないダメな土地と100倍の種が育つ良い土地。この現実にある出来事をイエス様は、信仰という世界に例えるのです。しかし世俗の価値観における沢山の収穫を得られる「良い」という表現と、私たちの信仰の世界における「良い」と視点が違うようです。信仰における実を結ぶとは、ヨハネ15章のぶどうの木の例えのように、キリストに繋がっている者が実を結ぶということなのです。つまり、良い地であるとはキリストに結ばれている事、信じて行こうとしていることによるのです。いや更に言えば、信じた者はそれだけで、既に実を結ぶ良い地となっていると言っても良と思います。

 私たちの日常は、日々ガッカリに満ちているような気がします。何でこんなことになっちゃうの?と言ったようなガッカリ。あさひ教会をスタートしてからも、本当に沢山のマイナスな出来事がありました。しかし今振り返ると、本当に困った!と思ったことでも、何となく切り抜けてきているのです。それはまた、自分の努力で乗り越えたというよりも、神を信じる信仰がそのことを乗り越えさせて来たように思います。正に、私たちは信じることによって、良い土地とされ、様々な嵐に出会っても実を結び続けるのです。これって本当に素晴らしく、ありがたいことだと改めて思わされます。自分の能力に縛られず、自分の愚かさに失望せず、神のもっとも良いご配剤を信じて心安らかに今週も生きたいと思います。



「気前のよさが神様の特徴」       No.516
      (マタイによる福音書20章 1〜16節)
      

 
朝から真面目に働いてきた労働者と、夕方から雇われて藁の一本を締めた程度の労働者が同じ賃金であるとの話。仮に、この夕方から雇われた労働者が逆に朝から働いていたら、同じようにその不公平に怒ったことでしょう。しかしこれが、聖書の説く真理のカギなのだと思います。また逆にこの出来事に全く納得できない方はキリストには向いていないかもしれません。この逆説的例話の中に、神の真理を感じる方はキリストの弟子に近いと思います。

 この真理が語る一つの重要な視点は、自分は朝からまじめに必死に働いた成果として天国に入ったと思った私たちが、実は、自分も夕方から来てやっと雇ってもらった者であったことを知ることなのです。自分も、夕方にやっと見つけてもらい、ギリギリセーフで天国に迎えられた。この自己認識こそが、イエス・キリストを信じる信仰なのだと思います。

 介護保険の仕事をしていると、本当に意味があるのかという事務処理が山のように存在します。そして役所の方々も、隣の市で行ったまったく同じ書類審査を一からやり直すようにと命じられ、無意味な時間に人生を費やされているのが行政の業務のようにさえ感じます。しかし、私たちがキリストの信仰によって行う様々な業は、神の目には決して無駄のないものなのです。神様に役に立つ働きを日々積み上げているのです。ですがそれもまた、私たちが天国への切符を買うための仕事ではありません。私たちの救いは、私たちの努力によって勝ち取るものではなく、神様の「気前の良さ」によってのみ与えられるギフトだからです。  


「恐れることのない恐るべき方」     No.515
      (マタイによる福音書17章 1〜13節)
      

 
新この山の上でのイエス様の山上の変容は、同行したペテロ・ヤコブ・ヨハネの心に決して忘れられない出来事となったことでしょう。そしてこの出来事は、彼らが宣教に赴く中で次々と出会う試練や迫害の中でも、彼らを信仰の道に留まらせ弟子としての使命を生涯全うさせるのです。

 私たちもまた、そのような体験・経験を積んでいくことが大切だと思います。私たちにとっての、自分自身にとっての、キリストとの出会い、人生の高い山の山頂で神を感じる神々(こうごう)しい思い出。キリストを体験した出来事。それを忘れてはいけないのです。ペテロ達に語り掛けられた恐るべき神の御子は、また私たちが恐れる必要のない愛のキリストだからです。

 日本の登山歴の中で有名な人物に、播隆上人という方がおられます。彼は、北アルプス槍ヶ岳に魅せられて、何度も登頂をしてその地で修業を続けました。そして、その山頂での神々しい体験を多くの人達にもして欲しいと願い、槍ヶ岳山頂の槍の穂に鎖をかける計画をします。当時の松本藩は飢饉で貴重な鉄を放出する余裕はありませんでした。しかし、播隆の必死の懇願により、多くの人が心打たれ出資をして鎖をかけることに成功するのです。

 この出来事における鎖をかける行為とは、私たちとっては正に伝道と言ってもいいと思うのです。神に、キリストに出会う出来事へ向かう道を備えること。困難な道のりでも鎖をかけ、願うものは誰もが神を体験できるように導く。

 私たちの生活は、楽しいことばかりではなく、本当に辛い鎖にしがみ付いているような出来事も多々起こってきます。しかしその体験を超えた時に、山頂で私たちは神と出会うのです。良いことも辛いことも全てが、私たちを神へと導かれるのです。是非、信じてこの道をみんなで歩んでいきたいと願っています。    


「良いものは後から来る」        No.514
      (ヨハネによる福音書 2章 1〜11節)
      


 
新年より、カナの婚礼におけるイエス様の最初の奇跡が取り上げられました。この箇所が私たちに示すことは沢山ありますが、本日はイエス様によって良い葡萄酒が後から婚礼の席に出されたことに注目したいと思います。会食の席では初めに良いお酒を出して来場者に喜んでもらうものですが、後半は酔いが回ってしまって味覚が不明瞭になっていることから安価な物が提供されるというのが社会の通例のようなのです。しかしイエス様はその奇跡によって、社会の慣例に反して後から良いものを出されました。

 そしてその奇跡は、葡萄酒が要求されているのに、水がめに水を汲むという無駄な行為の応答によってなされます。これはペテロが一晩漁をしても何も取れなかったのに、もう一度網を打ちなさいとイエス様に言われて、無駄と思っても従った行為に似ています。その結果は、大漁であり、良い葡萄酒の軌跡が起こるのです。一見無駄と思えても「イエス様がおっしゃるならばやりましょう」という精神。その結果は、後から良いものがやってくるのです。

 先週、ボーイスカウトのスキーキャンプに出掛けてきました。そこでスキーが早く上手くなる子とそうでもない子がいることに気付きました。早く上手くなる子の特徴は、指導者の指示通りに動ける子なのです。逆に、言うとおりに出来ない子、また言われたことをやりたくない子は中々上達しないのです。またもう一つの上達する方法は、続けて毎年スキーキャンプに来る子です。続ける子は、当初は用量が悪くても必ず滑れるようになるのです。つまり、指示に従って訓練することと、諦めずに続けることの二点です。

 信仰も同様だと思います。イエス様の教えどおりに生きようとすること。そして投げ出さず生涯その道を歩むことです。その結果は、後から良いものがどっさりやってくるのです。何かそう思うと、凄く楽しみですね。今年もみんなで、イエス様の道を歩みたいと思います。


「神の御手にある未来」         No.513
      (イザヤ書42章 1〜 9節)
      (マタイによる福音書3章13〜17節)

               荒瀬正彦牧師


 私たちは自分たちの明日や将来を自分で築いて行かねばならないと思うから、明日 を心配したり挫折を味わったり悩んだりする。今まで努力して築いてきた健康だとか 仕事や老後や人間関係などが破れ崩れてしまう時、目の前真っ暗な思いがする。しか し私たちの信仰は、自分の手の中にある幸せな未来を確保することではなく主の御手の中にある未来を信じることではないか。

 洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた時、そこへイエス様がやって来られた。ヨハネはイエスの洗礼を思い止まらせようとした。がイエス様は彼の言葉を退け「今は黙って洗礼を授けてもらいたい」と言われた。  

 私たちには神様の御心・ご計画を全部知りたいという願望がある。しかし「知りたい」というのは「欲望」と同じで何処まで行っても満たされることはない。「知りたい願い」に限界はない。だが人間は神を知り尽くして神を自分の手の中に入れようと言うのか。「知りたい」欲望の中には信仰は無い。知り尽くし得ない神の御心という謎にじっと耐えることが信仰ではないか。ヨハネは「知る」ことではなく「信じる」ことに於いてイエス様の決意と言葉を受け入れたのであった。

 15節「正しいことすべてを行う」と言われたイエスの言葉には二つの意味がある。●イエスの洗礼は神の御心のうちにあること。イエスはご自分の先例に神の意思を見られた。そこで自ら進んで罪人の群に身を投じた。●ヨハネの宣教の業は神の道に叶っていると言うこと。しかしヨハネの宣教の業には限界があった。私たちがどんなに悔い改めても神の義にふさわしい正しさを持つことは出来ないということである。

 私たちの悔い改め・洗礼は、神の許に行くことは出来ない行き止まりの道でしかない。この絶望的な限界の前にイエスは立たれた。イエス自らが洗礼を受けることによって塞がれている神に至る道を切り開かれ突破して下さった。「私が洗礼を受けるのは全ての者が希望の未来へと通れる道を開くためなのだ」、そう語って下さっているのだ。

 神の愛のご計画は必ず成る・・そこにイエスの洗礼は土台を置いている。神は水から上がったイエスに言われた。「これはわたしの愛する子、心に適うものである」。すると聖霊が鳩のように降った。今や私たちの未来はイエス様の御手に移された。私たちの世界は根底から変えられた。もはや私たちの歩む道は塞がれている道ではない。神のご計画にすべてを委ねて、力強く2018年を歩んで行きたいと思う。



「備えよ常に」             No.512
      (ルカによる福音書12章35〜40節)
      


 
この聖書箇所では、いつ神様が来られても困らないように常に備えていなさいということを僕と主人の例えをもってイエス様が語ります。しかしここで今一度注意すべきことは、この突然帰ってくる主人の在り方です。この主人は備えていた僕に対して、ただ褒めるというのではなく、逆に自分が腰に帯を締めて僕の食卓の給仕を始めるというのです。これが聖書の示す最終的な主人の在り方なのです。そしてこの主人を私は凄いなあと思うのです。でもある人は、そんな主人は嫌だ、もっとえばって偉くいたいと思うかもしれません。実際、この後者の理解の方は、キリスト教には向いていないと思います。イエス・キリストの私たちに示された姿は「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」からなのです。

 今年も一年がいつものように始まりました。同じことを忠実に繰り返し、神と人にお仕えしていくのが私たちの使命です。しかしそれはただの繰り返しではありません。いつ、イエス様がこられても、いつ世界の終わりが来ても、慌てないような備えの上に日々があるのです。そしてその備えとは、まさに信仰です。正直、罪ある私たちは行いでは中々備えきれない者ですが、この神から頂いた信仰によって備えることができるのです。

 今年の主題聖句「「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」(第二コリント13章11a節)が与えられました。一生懸命みんなでこの聖句のもと思いを一つにして進みたいと思います。しかしその進む先は、何か完璧な聖人になるというのではなく、励ましあって備え得るべきものは信仰によってのみ勝ち得る天国の門です。この道こそが、今日明日の私たちの地上の生活を整えてくださるのです。天国楽しみですね。

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