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「いつくしみの神」 No.821
(ルカによる福音書4章18〜22節)
宮崎昭夫牧師
祭司ザカリアと妻エリザベトは、主の掟と定めを全て守り行い神の前に正しい人達でした。しかしエリザベトは不妊の女であった事もあり、子どもがなくて寂しく悲しい日々を送り、二人とも年をとっていた。そう言う中で神殿に入って香を焚く栄誉に預かったザカリアは、その所で天使から驚くべき事を聞かされた。それは妻エリザベトに子が与えられ、その子ヨハネはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせる人となる事だ。しかし祭司ザカリアは、その素晴らしい知らせを正しく受け止める事ができず、「何によって私はそれを知ることが出来ようか」と不信仰な態度をとり、口が利けなくなった。しかしその後で、与えられた子どもの名を板に、ヨハネと書くことにより、その口は癒された。今日のみ言葉から1.神は私どもの祈りを聞いて下さる。神は御心に敵った祈りに応えて下さるお方です。しかし、自己中心な祈りは聞かれない。(ヤコブ5:3) 2.神は、私どもの祈りに耳を傾け、私どもの祈りに応えたいと考えておられる。しかし、私どもの側に問題がある場合がある。それは現状にばかり気を取られるという不信仰な態度だ。しかし、主イエスは私どもの現状を知り勝利を与えて下さる。(ヨハネ16:33)私どもは現状を見つつも単純に神を信頼し、神の約束を信じるべきである。神の約束を信じ、現状を見るべきなのだ。口を利けなくなったザカリアだが、それは神の裁きではなく、神とはどういうお方であるかを教える為の大切な教訓。神を信じ、待ち望みましょう。ヨハネ一、5:14−15「何事でも神の御心に敵うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事はなんでも聞き入れてくさるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることもわかります。」
「備えて油の用意をしましょう」 No.820
(マタイによる福音書25章1〜13節)
この十人の乙女の話しは、相変わらず不可解な話しに感じます。花婿を迎えるのに五人の乙女は到着が遅れた場合を予測して油の予備を整える。しかし他の五人の乙女は、予備の油を用意していない。この違いは何故なのか。その失敗の背景には思い込みがあると思います。物事を正確に確認せずに「私はこう思った」と言い結論付けてしまう。「花婿はそんなに遅れてくるとは思わなかった」です。つまり、この「私はそう思った」という行動パターンこそ私達の失敗のもとなのです。何故なら、世の中は私の思った通りには進まないからです。では、どうしたらその失敗から抜け出すことが出来るのか。それは「聞く」ことなのだと思います。私はこう思いますが、あなたはどうですか。そして自分の気付かない部分を修正するのです。しかしこの「聞く」に絶対的に必要なことは謙虚な姿勢です。自分は分かっていると思っている限り、人の言葉は心に入ってこないからです。そしてこれを信仰の世界で語るとすれば、神の言葉を聞くということなのだと思います。謙虚な姿勢で神の言葉を聞くことなのです。
そのような意味で、この十人の乙女の話しを大きく再解釈をすると、この切らしてはいけない油とは神の前での謙虚さであり信仰のように感じます。油は潤滑油の役目をします。どんな精密エンジンも潤滑油が無ければガタガタと動くことは出来ず直ぐに壊れてしまいます。しかし油があれば本来の性能、本来の働きが出来るのです。備えて待つとは、この神に聞くという信仰の油を謙虚な姿勢で持つことなのだと思わされます。
「歴史を支配される神」 No.819
(ルツ記4章18〜22節)
古畑和彦牧師
ルツ記の最後にダビデに連なる系図があるのは、ルツ記が書かれた目的の一つが、ダビデの祖先が、どのような人々であったかを示すことにあったからです。この系図を見るとき、ダビデの祖先が主なる神への信仰を持ち、敬虔な生き方をしたことが分かります。この系図は、神がどのように摂理の御手をもって、ご自身の民を導かれたかを示しています。つまり、この系図は、第一に、神の救いのご計画が、忠実に進められていることを表しています。第二に、神がご自身の民に対して恵みが豊かに注がれていることを示しています。第三に、摂理の神の支配があらゆる時代を超えて、永遠に続けられていることを示しています。
系図の最後に掲げられているダビデは、無名の羊飼いからイスラエルの王となったすぐれた軍人、政治家、詩人、信仰の人でした。彼の子孫から「ダビデの子」と呼ばれた主イエスが生まれました。新約聖書は、その最初の頁から、主イエスを「ダビデの子」と呼んでいます。つまりこの系図は、イエス・キリストを通してご自身を現された神がどのようなお方かを示しています。私たちもこの神の救いの御業を喜び、「ダビデの子にホサナ」(マタイ21:9)と叫んで、主イエスを迎えた民衆のように、心から迎え入れましょう。
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