カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


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2020.2.23更新 次回更新予定2020.3.17
    

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「実は死んでいるあなた」         No.623
            (ヨハネの黙示録3章1〜6節)
           (ダニエル書12章1〜4節)

                    荒瀬牧彦牧師

 「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。サルディスはそう言われたのだ。しかし、なぜかサルディスの教会に対しては、他の教会のような具体的な問題点への言及がなく、ただ「死んでいる」というのだ。

 サルディスは「無難」だったのかもしれない。責めるべき難はないが、何もしていないので、何も生み出さない。キリスト教信仰において、無難と多難はどちらがよいのだろう。神と無関係に生きるなら無難こそ最善かもしれない。しかし我々はキリストと出会ったのだ。「自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と主が招き、その道を主と共に歩き始めたのだ。ならばキリストという宝を忘れた無難より、キリストと共にある多難のほうが良い。

 「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ」。あなたが霊的に死んでいることから、生きた者へと立ち帰るのは、他の人たちを強めることになる。あなたの生は他の人の生にも関わるのだ。サルディスの教会には、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいた。多くの人が眠りこける中、信仰を生きている人たちがいた。この人たちが、仮死状態の者を起こし、強めてくれる。神は、どんな惰眠教会にもこういう人たちを貴重な存在として残し、重く用いてくださる。

 この者たちは「白い衣を着てわたしと共に歩く」と、キリストが約束してくださっている。白い衣とは、神の前に、新しくされた人間として生きる人のことだ。古代教会には、洗礼の儀式において志願者が古い服を脱ぎ捨てて水に入り、水から上がった後に白い衣を着せてもらうという習慣があった。キリスト者の新生を象徴する衣だ。彼らの姿が、他の者たちを励ます力となるのである。

 キリストは、この人たちの名前を「父の前と天使たちの前で公に言い表す」と言われる。公に言い表す(ホモロゲオー)は、人が信仰を「告白する」という時に使われる言葉だ。キリストを告白する人々に対して、キリストは天においてその名を公に表明する。名を大声で呼んで、「この者はわが民の大切な一員であり、命の書に名が記されている!」と宣言してくださるのだ。



「相応しくない賃金として」        No.622
         (マタイによる福音書20章1〜16節)



 このぶどう園での労働者の例えは、様々な示唆を私たちに与えてくれます。そこでは、聖書の語る報酬は、私たちの価値とは違っていること。働いた側の請求権ではなく、支払う側に主体的な判断があることを示すのです。対価報酬ではなく、神の主権に救いはあります。

 私たちは労働において、努力することや効率を求めることは当然なのです。みんなが、夕方からしか働かないなら仕事は進みません。でも、ここではそんな話をしているのではないのです。ここで語られるのは、値なく罪人が救くわれるという十字架の原則なのです。良い行い、大変な修行、忍耐と努力、それは人類が求める重要なことではありますが、キリストの救いの主体性を超えるものでは決してないのです。そのキリストの救いの主体性は、労働者への対価を例にとれば、決して平等ではないが、神の目から見ればまったく正しい。いや、自らの罪を知る者には、これ以上のありがたい話はないのです。

 私たちの社会は、働きに相応しい賃金を求めますが、神の国は「相応しくない賃金」なのです。更に言えば、もしも救いが労働の対価のように相応しく支払われるなら、私たちの誰が救われるのでしょうか。ヨハネ福音書8章の「罪を犯した女」の例えではないですが、「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエス様は言われると全ての人が立ち去ったように、誰も行いによって天国の鍵を手にすることは出来ないのです。救いの条件は、私たちが決めるのではなく、神が決められるのです。そしてその報酬は、一方的な恵みとして、「相応しくない賃金」としてのみ、私たちに支払われまるのです。ここに神の愛があります。


「キリストの輝きの意味」         No.621
          (マタイによる福音書17章1〜9節)



 イエス様の姿が山上で太陽のように輝くという出来事。この輝きの意味は一体なんでしょうか。太陽のようにという形容ですから、その光は自らの力で光り輝いていることを意味しています。そしてその輝きは「これは」という天からの声を伴う輝きです。つまり、イエス様が真の人でありながら真の神ご自身であることが明示されるのです。しかしそれだけではなく、その神である輝きは何をなそうとしているのかということが重要です。それは後半の旧約聖書で、再来を預言された預言者エリヤに関する問答からもわかります。つまりエリヤの再来であるバプテスマのヨハネが、その受難によって引いた道をイエス・キリストが更なる十字架を背負って歩んだという受難の輝きなのです。重い十字架を背負い、罪人の永遠の同伴者として歩むキリストに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神は語られます。キリストの光は、この受難と十字架、そしてそれを乗り越えた復活から照らされ、その道を指し示します。その輝きは、世俗の力を象徴する光ではなく、神の子が自ら苦難の道を選び、復活するという神の人類救済の光なのです。

 多くの人が教会に関心を持ち、アクセスしてきます。そしてその理由は「助けて欲しい」という一言かもしれない。自分の人生が何処へ行くのかわからない、降りかかって来た災難にどう向き合えばいいのかわからない、自分は何故生まれ、何故生きているのがかわからい、「助けてほしい」。その叫びは、私たちも同様なのです。イエス様助けてください。

 しかしこの方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではない」(へブル4:15)のです。だから、私たちは無策で途方にくれている訳ではありません。神様が「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われた神の子キリストの言葉、聖書を持っているからです。この聖書の中に、私たちの命と道があるのです。大丈夫です。信じて歩みましょう。 


「信じたとおりになるように」       No.620
         (マタイによる福音書8章5〜13節)


 この百人隊長の僕(しもべ)を癒すという出来事。ここには二つのメッセージがあると言われます。一つは、当時の堕落してしまったユダヤ教に対する厳しい警告です。時が来て、天の国の宴会が催されても、堕落した神の民イスラエルはそこに入ることが許されない。だから悔い改めなさいという話です。そしてもう一つは現代の教会に対する励ましです。

 イエス様自身に直接会うことの出来ない現代の教会は、神の力にも預かれないという事ではないのです。百人隊長の僕が直接イエス様に会っていないのに、その言葉と百人隊長の信心によって癒されたことは、現代の私たちも同じ信仰によって神の力に預かることが出来るという励ましなのです。

 勿論、信じれば全てが思い通りになるという話ではありません。思い通りにならず信仰の訓練を受けることも沢山あります。ですから、ヘブライ人の手紙には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。」と記すのです。  
 
 世の中も、自分の人生も思い通りにはならない。しかしだからこそ、この世に振り回され一喜一憂して疲れ果ててしまわないように、神を見上げる信仰が大切なのです。神は愛する子を訓練されます。

 その毎日の訓練の中でも、神は私たちに新しく礼拝する場所を備えてくださいました。神様はここでまた新しいことを始めようとされています。その神様に大いに期待し、だからこそ神様の愛の訓練に弱り果てることなく、百人隊長が信じた信仰にならって、私たちも進みたいと願わされます。  


「縁まで水を満たすこと」         No.619
         (ヨハネによる福音書2章1〜11節)


 イエス様の最初の奇跡と記されるカナの婚礼の出来事は多くのことを私たちに語っています。水を葡萄酒に変える奇跡は、ユダヤ教の水の清めを超えて、キリストの血が私たちを清め罪の赦しと命を与えることを象徴していると言われます。その中で、本日は母マリアが召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたことに注目したいのです。その言葉を聞いた召し使いは「かめの縁まで水を満たした」と記されます。実際この水がめの大きさは一つ120リットルも入る大きなもの。大人二人でも容易に運べる重さではありません。普通ならこぼれないように、八分目程度にするはずです。しかも当時は水道などありませんから、どこからか汲んでくるわけです。それを六個の瓶に入れて宴会場まで運ぶ。これはよく考えると物凄い大変な作業なのです。しかしマリアは「水をいっぱい入れなさい」といい、召し使いは、かめの縁まで水を満たし」て運ぶのです。そこで大いなる神の奇跡が起きるのです。

 あさひ教会は、突然ではありますが来週から新しい場所に礼拝を移します。13年この場所で、出来ることをみんなで一生懸命やってきました。しかし、私はこの聖書箇所のように、自分は水を縁いっぱいまで汲んでいたかと問われたような気がしました。「まあこんなところでいいのでは」と妥協してきたのではないか。いや、水が葡萄酒に本当に変わると信じられれば、八分目ではなくいっぱいまで水を汲めたはずです。でも汲めない。そこに私の信仰の足りなさがあるように感じました。そう神様は、八分目ではなく、縁いっぱいまで水を汲むようにと私たちに語っているのです。そして奇跡を待てと語ります。

 この召し使いと訳されるギリシャ語は、弟子とか執事とか訳される言葉です。つまり、キリストの弟子は、水をいっぱいに汲んで神の奇跡を待つのです。そして、大切なことは、水を汲むのも運ぶのもイエス様ではなく、召し使いである弟子の私たちの仕事だということです。務めを果たし、神に委ねること。きっと、そのように神は新しい礼拝場所で、次の奇跡を起こそうと願っておられます。その奇跡と恵みに期待して縁いっぱいまで水を汲んで、マリアのように期待して共に進みたいと願っています。


「洗礼という神秘」            No.618
         (マタイによる福音書3章13〜17節)

                    荒瀬牧彦牧師

 主イエスが洗礼を受けた時に何が起こったか。三つのことが福音書に記されている。すなわち、イエスが水の中からあがると、「天がイエスに向かって開いた」。そして、「神の霊が鳩のようにご自分の上に下って来るのをご覧になった」。天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえた――これは、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、天からの啓示として起こった出来事である。しかし、これは我々にとっても大変重要な箇所なのだ。なぜなら、キリストにつながれた者にとっては、イエスの授けられた洗礼の恵みが自分のものとなるからである。

 「あなたは何者なのか」と問われたら、どう答えるのか。自分の真のID(身分・正体)は、洗礼から考えなければならない。

 パウロは言った。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されたからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ8章)。

 あなたは何者か?そう問われて、「罪の奴隷です」と答えなければならない者であった自分に、洗礼において、新しいIDが与えられた(与えられる)。あなたの上で天が開き、あなたに聖霊の鳩が降下し、<あなたはわたしの愛する子>という天からの宣言が響いた(響く)。古いアダムとしての自分が水に沈められ、水の中からキリストにある新しい命をもった神の子としての自分が生まれた(生まれる)。

 「洗礼において、神は私たちを神御自身のものと宣言し、ご自分の民として、恵みの契約の相続者として、しるしをつけられます。洗礼は、罪の赦し、キリストへの接ぎ木、聖霊の注ぎ、そして死と新しい命への復活を象徴します。」(カンバーランド長老教会信仰告白)

 洗礼は神秘だ。我々が自分で理解しているよりもずっと奥深い恵みなのだ。神に「私の愛する子」と呼ばれた神の子たちよ、罪の奴隷という古いIDに逆戻りしてはいけない。いつも洗礼に立ち帰れ。         


「神の子キリストとして」         No.617
          (ルカによる福音書2章41〜52節)


 この箇所において、迷子になった少年イエスをマリアは叱ります。しかしそれに対するイエス様の回答は「何故捜していたのですか、私は父の家にいるのは当然ですよ」というものでした。本来なら必死で捜していた親ですから「その言い方は何ですか」と叱ってもいいところでしょう。しかしマリアは、そのイエス様の言葉の意図は理解できませんでしたが「これらのことすべてを心に納めた」とその心情が記されています。この出来事は、他者から見るとむしろ少年イエスの行動がおかしいように感じますが、マリアはその受け止め方が違ったことに注目したいと思います。このマリアの反応に似たような出来事として、同じ福音書の1章38節があります。天使から幼子イエスを授かるというお告げを受けて、戸惑いながらもマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と言われたことです。つまり、他の人達は理解できなくても、マリアは少年イエスが神の告知によって生まれて来た特別な存在、神の子メシアであることをマリアは身を持って知っていたからなのです。だから、人間の親としては感情的に叱ってしまったが、イエス様の回答を聞いて、あの日の天使のお告げを明確に思い起こしたことでしょう。

 私たちの人生は、この世の諸悪に翻弄される日々です。クリスチャンでありながら、神を知らないような自己判断しか出来ないことが本当に多い。マリアのように「なんでこんことを」と日々怒鳴りたくなります。しかし、その時に、神のお告げが、聖書の言葉が、私たちを立ち返らしてくださるのです。神のお告げを心に全てとめること、どんな出来事の前でも、お言葉どおりになりますようにと信仰を持って進むこと。「お言葉どおりに」とは神が私たちの人生に最善をなしてくださるという信頼です。悪魔の力を覆す神が、私たちの人生と同伴されていること。必ず道を開いて下さること。罪あるものが罪なき者として赦しを得て天に凱旋できる約束を頂いていること。そのことを「すべて心に納めて」天から力を頂くこと。ここに毎回立ち返る。毎週立ち返ること。これが信仰者の力なのだと思います。

 今年の教会主題聖句「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ2:4)は素晴らしいですね。信じてみんなでこの道を進みたいと願わされます。



「シメオンとアンナの降誕祭」       No.616
          (ルカによる福音書2章25〜38節)
          (イザヤ書42章1〜7節)

                   荒瀬牧彦牧師

 
シメオンもアンナも高齢であったが、エルサレム神殿で幼子イエスを見出し、祝福するという大切な役割を果たした。高齢だったがというより、高齢だからこそ役割を果たせたというべきだろう。長い人生の歩みを要する役割があるのだ。神がそれをお用いになる。

 アンナはその人生において、多くのことを為し得たというわけではない。ずっと神殿にいたのだから。でも彼女は一事に徹するということの美しさを見せてくれた。自分の役割として与えられた本当に大切な一つの事に打ち込み、その的を射たのだ。恵まれた豊かな人生である。シメオンもそうだ。死ぬに死ねない老後を過ごしていたようにも見える。しかし、神はきっちり約束を果たしてくださった。彼しかできない役割を果たした。空振りの人生ではなかった。

 その人生の大きな秘訣は聖霊である。聖霊の導きがあればこそ待ち続け、幼子が神殿に連れてこられた時も見逃さなかった。自分の力ではない。聖霊の導きに心開き、聖霊に従う。そこに空振りの人生はない。人を振り回したり、人に振り回されて生きると的を外す。聖霊に身を委ねて、神に導いて頂く者にとって「虚しかった」という人生はない。

 「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」ヌンク・ディミティス(シメオンの賛歌)を我々も歌おう。修道院の聖務日課では終課、夕の祈りで歌われてきた就寝前の歌だ。それは人生の最後において、死の眠りにつく時に我々が歌える賛美だということでもある。「今こそ安らかに去ります」と歌って死ねる人生は幸いだ。しかし、シメオンが預言したことばをふまえると、これはそれ以上の意味を持っている。シメオン退場の歌であると同時に、キリストの福音の始まりの歌なのだ。「今安らかに去ります」は、今日わたしたちが、「シャローム(平和)のうちに出かけていく」、新しい生き方へと平和のうちに出立するのである。

 「今だけ、金だけ、自分だけ」という今の日本を覆う風潮は、今年いよいよ深刻になったようだ。「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方は、未来の世代からの資産強奪であり、先に待つのは滅びだけだ。他方、アフガニスタンの砂漠に用水路を敷き、緑の沃地にした中村哲さんのような生き方があることも我々は見た。シメオンの歌を歌いながら新しい年に進もう。    

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