カンバーランド長老キリスト教会


教 会

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 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
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              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事へ


御言葉と出来事(2008年)


2010.7.3更新

「命が与えられたこと」
(使徒11章1-18節) 2008.12.28


 「命が与えられたこと」とは、何を意味するのでしょうか。このテーマは簡単に答えてはならない領域かもしれません。それはその意味の問いに人々が、苦しみ続けてきたからです。
 しかしそのような業を背負う人間を、神は風呂敷に入れて天から釣り下ろして来たのです。神は「これは私が聖めた人を、お前はどうするのか」と問うているように私には聞こえるのです。

 命が与えられるということは、単純な生物学的命ということではなく、真に生きたものとなるという意味です。死んだような人生からの回復です。その意味を他者に言葉で伝えることは、あまりにも困難なことです。

 しかし、その人間回復のプロセスの一端に主体的にかかわることにおいて、私たちは自分自身の人間性が回復していくことを経験するのではないかと思うのです。それがヒントです。主イエスが『受けるよりは与える方が、さいわいである』と語ったことは、命を追い求める人への道しるべとも言えるのです。

 聖書ではイザヤに「見よ、わたしは火をもってお前を練るが銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。」と語られました。それは、私たちの人生の歩みが決して容易ではないことを示しています。しかしその苦しみの炉の先に、信じることにおいて確かな希望や光を見出せる者は、命を与えられた意味を確かに見出すことでしょう。




「イエス様ありがとう!」 
(使徒10章34-42節)2008.12.21


 クリスマスの出来事が伝えるメッセージは、月並みなようでありながら大きな深い意味があります。それは確かに全ての人を変える力があるのです。羊飼いへのメッセージか最下層の人たちに告げられたメッセージであると共に、星に導かれた博士たちの御子の拝謁の出来事は、如何なる立場のものにも救いが告げられるチャンスを示していると思うのです。

 その中心は、イエスの生涯が現す生き方への誘いと、その行いから止揚された悔い改めと救いのメッセージです。その二つの意味は、確かに世界を変え支えてきたのです。

 先日、サービス契約をした利用者の方と、話の流れの中でキリスト教会の話になりました。私が「牧師もやってます!」とお話しますと、牧師先生なら信用できるのでとても良かったとご家族が言われました。
それはとても嬉しい出来事でしたが、間違えてはいけないことは、その信頼は私自身にあるのではないということです。そうではなく、2000年の間も苦難に耐え忍びながらもイエスの言葉に従い続けてきたキリスト者の苦難の上で成り立っているのです。

いや更に言えば、イエス・キリストの降誕から十字架、復活といった生涯が、今日の「信頼できます」とい言葉を支えているのです。私たちは、いつもこの十字架の血の代価の上に建てられた信頼であることを心にとめて、クリスマスの感謝を捧げ、送り出されたいと願うのです。



「罪の赦しについて」
(使徒10章34-43節)2008.12.14


 この不景気の中でも町や家庭でクリスマスのイルミネーションは輝き続けています。それを点灯している人たちで、その意味を本当に知る者は日本においては少ないことでしょう。そのような意味では「クリスマスおめでとうございます」といった言葉を使う時も「何がめでたいのか」という問いをもって、私たちはその深い意味に目を止めなくてはならないと思います。

 の意味が理解出来ていないといった面では、今も昔もかわりません。だからこそ、使徒ペテロは、その意味を伝えるために宣教の道を歩み続けるのです。ではその意味の中心とは何でしょうか。それは「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」とぺテロの言葉をもって語られます。さてでは、この"だれでも"とは誰のことでしょうか。勿論言葉通り、その枠組みは全ての人が対象なのです。

 しかし問題は"信じるもの"という下りです。では、この信じるものとは誰なのでしょうか。キリスト教の洗礼を受けた人でしょうか、また毎週教会に通う人でしょうか。

 私は21歳の時に教会の門を叩いてから、「だれでも」と「信じる者」との関係が単純にイコールとしてのクリスチャンと言うことをはばかる何かが自分の中にあるように思え、この何かの前に立たされ続けてきたように思えます。それから25年の歳月をへても尚、その意味を今だに理解しきれていないのです。

 しかし確かに言えることは、神という方はその意味を理解出来たとか出来なかったとかいった人の知的関心には全く関係なく、人を見つめその手を差し伸べている方であることは、御子をこの世に送られた事実から間違いないのです。

 そのことを心に深く捉えた上で今一度「クリスマスおめでとうこざいます!」と言いたいと思います。自分の理解や努力もすべて神に委ねた時、救いは確かに上からやってくることを私たちは感じるのだと思います。



「わたしもただの人間です」
(使徒10章23b-33節)2008.12.7


 自分の前にひれ伏す人たちに使徒ぺトロは「お立ち下さい。わたしもただの人間です。」と言われました。神の奇跡を授かった使徒。胸を張ってその権威を示すことも可能だったかもしれません。しかし彼らはそれをしませんでした。

 それは、実際に出会い、共に暮らしたイエス様という方の強い印象が、彼らを世俗権力の誘惑から守ったのではないでしょうか?誠実に生きぬいたイエスという人物。その彼が復活をもってメシアであるという真実に確証を与えます。その事実に動かされた使徒たちは、イエスの生き方に心からの共感を得て、またそこから押しだされて宣教に仕えたのでしょう。

 私もデイサービスにおいて、利用者さんやご家族と対面する時に同じような言葉を頂くことがあります。「心から感謝してます!」「私を見捨てないでください!」私はそんな時に本当に恐れ多いと思います。そんなに感謝される対象ではない自分であることを知っているつもりです。
 「私もただの人間です。」寧ろ感謝される方があるとすれば、私たちのあさひ伝道所を、フレンドシップあさひを建て上げ、私たちにその宣教を委ねてくださった主イエスご自身こそが感謝され、称えられるべきなのです。
 しかしきっと、イエス様に対してそのように私達が言ったとしても、主は成すべきことをしただけですよ!とおっしゃることだと思います。この方こそが、この降誕節に覚えるべき私たちの救い主なのです。



何故、ここに来たんですか? 」
(使徒10章17-23a節) 2008.11.30


 この使徒書の記述はある面でクリスマスの記事と似ている部分があるように思えます。例えば、ペテロの見た幻とマリアへのお告げ、ペテロを探す三人の使者と、幼子を探す博士、聖なる天使のお告げとしての記述。あまり関係ないようですが、そのテーマは、ある人を探しているという面で一つの方向性があると思います。どうしてここに来たんですか?、「あなたを探しだすためです。」。 イエス・キリストがこの世に来られたのは、失われたものを尋ね出して救うためであると聖書は記します。
尋ね出し救うためには、やはり部屋の中で待っていては駄目なはず。出て行ってとにかく探し回るのです。

 先日デイサービスで一人の利用者の方が「こんな駄目な人間ですが見捨てないでください」といって帰られました。私はその言葉に心が痛む思いでした。どのような気持ちでそのことを言ったのか。何故そのような事を、私に言わなくてはならない状況に、人生が追い込まれたのか。
 更には、これからの人生はどうなるのか。その言葉に、うまく返す言葉が本当に見つかりませんでした。しかしその時にイメージとして与えられたことは、「神が差し出したクリスマスのメッセージを現実に行いなさい」という語りかけに聞こえたのです。人が人に出来ることなど小さなことです。でもこの肌寒い年の瀬において、何とかして一人の人を尋ねだし、暖かい部屋にお迎えしたいと願っています。


呪われた食べ物なんてありません!」
(使徒10章9-16節)2008.11.23


 私たちの社会は、何かマイナスの出来事があると、何かの報いや呪いだと吹聴し、またそれに連なるエセ宗教が、人の不安を煽って金儲けをしている現実があります。避けることの出来ない、病気や事故といった苦労が、その苦しみだけではなく社会全体の差別の目線により更なる苦難へと追いやられてしまうこの世界。その風潮は私たちの社会だけではなく、古い聖書の時代から起こっていた人間の罪とも言えるのです。呪われた食べ物があり、それを食すると自らも汚れると人は考えました。その思想は食事だけではなく、人間自体を差別する思想へと連結しているのです。しかしその呪いを、神はキリストの十字架の出来事ゆえに全て解放したのです。そこに本当の人間性の回復があります。

デイサービスにおいても、同じようなことが常に起っています。それは良い利用者と駄目な利用者という区分けです。他者より手間のかかる利用者は切り捨てられ、安定した手間のかからない利用者はお金儲けの道具として、大きなワゴン車が地域を回って回収していきます。それを業界用語では「老人狩り」と呼ばれています。
しかしその老人狩り専用ワゴン車が去っていった時、誰も迎えに来てくれず、一人部屋に取り残された人の思いは如何様でしょうか。呪われた駄目な人生だから、そんな目に人は会うのでしょうか?いや断じて違う筈です。キリストの十字架の出来事は、いやイエスがこの地上にお生まれになったということは、その全ての呪いからの解放を告げる出来事に他ならないのです。フレンドシップあさひの介護車両"太郎"と"次郎"は、取り残されそうな一人ひとりを、キリストの愛する友人として、誰よりも大切に思い、暖かい部屋へと、暖かい食事へと、暖かい心の持て成しへと、お迎えするためにこの地域を走りまわらねばならないのです。それがキリストが私たち託された使命なのです。




諦めないで続けること!
 使徒10章1-8節 2008.11.16


 カイサリアのコルネリウスは、異邦人でありながら熱心に祈りを捧げ、奉仕と善行に励む人物であったことが記されています。その彼のところに、"ある日"の"午後3時ごろ"に突然の出来事がやってきます。神の天使が彼の前に幻として現れ、コルネリウスの祈りと施しは神に忘れられてはいないと告げるのです。彼は本当に驚いたことだと思いますが、それでもその言葉を信じて告げられたとおりにペテロのところに使者を送るのです。
 私は、この聖書の出来事にとても励まされる思いがしました。つまり、私たちの働きは無駄ではないという思いです。どんなに祈っても、どんなに善行を積んでもそれが何処かのブラックホールに吸い込まれるように忘れられてしまい、代わりに何か世渡りの旨い人間だけが得をしていくように感じられる世の中。でも、そうではないのです。神の恵みは、熱心なユダヤ人だけに与えられるのではなく、神のことをよく理解していなくても、心の祈りを捧げ生きる者の上に注がれるのです。
 それは、私たちのまったく予期しない時にある日やってきて明らかになるのです。だからこそ、無駄に思え、挫折しそうな気持ちの時も諦めず続けていけるのです。

 デイサービス事業の展開は、本当に喜びと挫折感の連続です。営業としての成績と、本当の人助けの狭間をウロウロしているように思えます。潤沢な資金がある中での運営ではないので日々選択を迫られています。しかし、いつも立ち返るのは、これは教会の働きであって商売ではないということです。諦めずに、神の望まれることを全力でやって進むのです。他者より楽をしようなどと思わずに力を注ぎ込むのです。
 きっと、その働きは、その思いは忘れ去れらないはず。ある日が必ず来ると信じ、待ち望みつつ、与えられた業にみんなで仕えて行きたいと願います。




生きている意味奇跡と信仰の関係
 使徒9章32-35節2008.11.9


 本日の聖書は、復活体験をしたドロカスという人物を中心に構成されます。この人は、周りの評判からしても、とても良い方だったようです。それ故に、彼女の死を悼み、友人は生き返るチャンスをイエスの弟子であるペテロに願うのです。そしてその懇願通りに、ドロカスはこの世に生還するのです。
 この事は単純な奇跡物語とも捉えられますが、注意深く観察することにおいてもう少し違った意味を受け止められます。例えば逆に、ドロカスではなく悪行に心を奪われ生きた人間が死に、その人間が仮に復活したとします。
 では、その目撃者は復活という奇跡として神を賛美したでしょうか。いや、もしもそんなことがあれば、神が何故あんな人間を生き返らせたと指摘され、神の立場は、いや信仰自身さえ地に落ちてしまうのではないでしょうか。
 つまりこの箇所は、生き返るという奇跡物語が神の臨在を単純に示すという構造ではなく、良い行いを続けてきた人の一生は決して神は見過ごしにはされていないということを伝えていると言ってもよいと思うのです。

 私たちは生きているのではなく、生かされているのです。そこには深い意味があるはずです。髪の毛一本が抜け落ちることさえ覚えておられる方が、小さな私たちの善行かもしれませんが、お忘れになるはずはありません。それが奇跡が伝える一つの生きる意味ではないでしょうか!。



奇跡と信仰の関係
 使徒9章32-35節 2008.11.2


 この聖書箇所は、アイネアという8年間も病気で寝込んでいた人物の癒しを中心に構成されています。ペテロが神の命を受けて行った奇跡的な癒しの出来事によって、多くの人が信仰に立ち返る機会となったというのです。その奇跡の不思議さと理由は弱く理解しにくいことですが、少なくとも言えることは、福音は研究室や机の上で起こっているのではなく、人々の生活の現場で起こっているのです。踊る大捜査線の言葉を借りれば、会議室ではなく現場で福音は活動しているのです。
 最近、中会会議の準備に向けて、議案書を作るにあたり本当に多岐にわたる意見がメールで寄せられて、どう判断して最終案にすればよいのか悩んでいます。どんなに多くの人の意見を取り入れでも、また一から批判を受けてしまいます。「これはあの方の意見を取り入れたのです」と伝えてもなかなか納得が得られません。また「他者の意見でいちいち内容を変更しない方が良い」といアドバイスを頂くと、他の方から人の意見をきちんと盛り込まねばとのクレームが来てしまいます。
 一つ一つの意見は、真剣に考えられたものであることは確かですが本当に困り果ててしまうのです。
 私はそのような時に、福音は会議室で起きているのではなく、現場で起きているんだと言いたい気分になります。会議のテーブル上でいくら議論されても、何千通のメールが行き交ったとしても、どんなに誠実に語られた意見であったとしても、議場の話し合いは、一人の不自由を余儀なくされる困窮者の生活とは多くの場合関係のない話しとなってしまう場合が多いのではないでしょか。
 本当に人の役に立つ事柄は、足を使って、人の息遣いの感じられる距離に寄って、声を聞かねばなりません。奔走し続ける現場に、自らを投じて感じてみなくては、本当のものを受け止めることは難しいのではないでしょうか。

 しかし、現場でそれを感じたものは、少なくとも先の大戦の抵抗運動において命を落としたボンヘッファー牧師が語った言葉が、今も生きたものとして聞こえてくるはずです。
 「神はいかなる困窮に際しても、われわれが必要とする限りの抵抗力を我々に与え給う信じる。しかし神はその力を前もっては与え給わない。それは、われわれが自分自身にではなく、神のみに信頼するためである。」神のみへの信頼を取り戻すために、今日を明日を耐え忍び乗り越えて進みたいと願っています




「説明することは大切です」
(使徒9.26-31) 2008.10.26


 フレンドシップあさひの営業達成率がここのところ停滞しています。70%を超えたり、60%近くに下がったりを一か月の間に繰り返しています。まるで昨今の株式市場さながらの状況です。勿論、新規の利用者がどんどん入ってくるのですが、今までの利用者が家族の理由や、体調不良によって利用を中断してしまうのです。このままではフレンドシップあさひは潰れてしまうのではないかという声さえも。しかし勿論大丈夫です。初めっから超低空飛行の赤字運営なので特に変動していません。また営業成績も重要ですが、それよりも何をしたいのかが更に重要です。この事業を通して何を伝えたいのか。事業成績はまだまだですが、その伝えたいことはこの半年の短い期間でも地域のケアマネージャーの方々に少しずつ広まっている実感があります。

 パウロは、キリストへの転身の次第を一生懸命説明しますが、周りに理解してもらえませんでした。勿論、さんざんクリスチャンを迫害してきたのですから容易に納得してもらえるはずのものではありません。そんなパウロの弁明をかわりに行ったのが、バルナバです。彼の説明によってやっとパウロは信用を得て、イエスキリストの宣教に仕えることが出来るようになるのです。
理解されていない事柄が、理解され受け入れられるように成っていく経緯は容易ではありません。
 しかし、分かってもらえるまで諦めてはならないのです。その志が確かであれば、必ずバルナバのように代わって弁明し支援してくれる人が出てくるのです。どんなに退廃した世界であっても、真実は変わらないのです。必ずやあさひ伝道所の願いが、フレンドシップあさひの働きが、この地域で無くてはならないものになるはずです。そのことを信じて、いや「既にかなえられたもの」として今を大切に忠実に過ごして行きたいと願います。



逃亡者として!
9章23節〜25節 2008.10.19


  あさひ伝道所のフロワー増築工事が進んでいます。仮設の壁の向こう側から大きな工事の音が聞こえています。この前は、壁の防水塗装で、デイサービスのフロワー全体が、シンナー臭くなってしまい大変でした。一人の利用者の方が、その臭いのせいで鼻にちり紙を詰めていました。私が「申し訳ございませんね!」と言いますと「こんなデイサービスは他にはない」と言われました。勿論それは酷い環境だという意味ではなく、工事のガチャガチャした現実もまた面白いねという意味で、こんな所は他に無いと言ってくれたのです。

 デイサービスにおいて、工事の騒音が常にしているということは、サービスのマイナスのイメージになるとも考えられますが、しかし私的にはこれが楽しいのではと思っています。年配者を厄介払いのようにしてしまう整理された環境は、逆に静かでも社会から隔離された生活とも言えます。それは決して人としての社会性を持った生活ではないと思うのです。
 生活していくとは、大きな騒音があったり、不便だったり、笑いがあったり、時には怒りや憤り我慢が発生したりと様々なことを周りの人たちと共有して過ごすことだと思うのです。大きなトンカチの音がした時も、「何が出来ているのかな?」とみんなで考えること、不便な狭い場所も「狭いわね」と経験を一つにして行くこと。笑ったり怒ったり、それが共に生きていくということであり人間であるということではないでしょうか。

 パウロは、キリストの使命に召された故に、嘗ての仲間につけ狙われ、逃亡者として過ごさねばならなくなるのです。真実の道に帰ったのに苦しい人生が待ち受けていました。しかしその彼を、嘗てのユダヤの同士ではなく、キリストにある新しい仲間が救い出すのです。生まれ変るとは、嘗ての仲間ではなく新しい仲間と生きることを意味するのでしょう。

 デイサービスフレンドシップあさひの働きでも、年と共に失ったものを取り戻すことは出来ないかもしれません。しかし、みんなの力で新しい家族を育て味わっていくことは出きるはずです。そこに大変でも素敵な喜びがあります。そしてそれこそが、苦難の中でも伝道者パウロを支えた喜びだったのではないでしょうか。





「ユダヤ人びっくり!」
(使徒9章19b-22節)2008.10.12


 あさひ伝道所の増築工事が、始まってしまいました。予定よりもかなり早く工事日程が進行しています。ちょっと手狭で埃っぽい感じもありますが、フロアーが広がるのは楽しみです。しかしまたそれとともに、過ごしやすい良い設備になるだけではなく、そこで何を進めていくかという質が更に求められていると思います。

 パウロはキリスト教の大迫害者でありましたが、大転換をしてクリスチャンとなります。その転換の凄さはユダヤ人たちの驚きの叫びからも見て取れます。しかし更に重要なことは、彼が何に転換したかということなのです。つまり、良い方向に向ってです。仮に、驚くような奇跡に出会って方向が変わったとしても、人間は意外とそのことを忘れてしまうものです。熱心に祈ってかなえられても、しばらくたつとすっかり忘れて日常に埋没してしまうのです。パウロの転換はそのような意味では、奇跡の感動が出発となりましたが、それを継続して天に帰る日まで彼を宣教に仕えさせたのは、確かな真実の道が示されたからに他なりません。

 この方向性を見失っては、どんな資産や設備があっても意味を持ちません。あさひ伝道所とフレンドシップあさひは、みんなの献金と献身よって支えられています。その方向性はただ神の側へです。パウロのように私たちは生きることは到底できません。行きつ戻りつの人生です。しかしそれでも方向性だけは良い方を向いてみんなで進んで行きたいと願いします。



「苦難の使命」
(使徒9章1-19a節)2008.10.5


 人間は正しい方向に進んでも、大いなる苦難を背負う運命の中にあります。それは、大きな使命を託されれば託されるほどにです。パウロは、教会の迫害者でしたが、改心させられ、そして新たなる使命を与えられます。しかしその使命は、キリストの名の故に大いに苦しまねばならないというものでした。正しい方向にやっと向いて、後は幸せになったという訳ではないのです。正しい道に戻ったにも関わらず大きな困難を抱えてしまいます。

 先日、任職式を経てフレンドシップあさひの新職員が与えられました。それは凄く嬉しい出来事であるとともに、これから大変だなとも思います。介護の仕事は、毎日様々なことが起こります。同じ利用者メンバーでも、今週と来週とでは違うのです。その一つ一つに、その場で考え前向きに対応していく働き。一生懸命やったことが、そのまま感謝されるとは限りません。

 でも、その大変な使命をどのように果たしていくかは重要です。方向性としては「気持ちの良い使命の遂行」です。その目標や使命感がはっきりしている時に、それが如何に困難を伴うものであっても、その遂行はマラソンを走り終えた時のような気持ちよさがあるのです。同じ苦労でも、心が疲弊してしまうような状況と、心が逆に解放されるような在り方があるのです。

 パウロは、その使命を神の側に見出し生涯を走り抜けました。私たちもまた、同じ苦労をするならば方向の定まった気持ちのよい使命もって生涯を全うしたいと願います。それが神の側にあると信じます。



「読んでいるけど分からないこと」
(使徒8.26-40)2008.9.28


 私たちには分かっているつもりでわからないことが多くあります。何故、分からなくなってしまうのか。それは単純に、意味が分からないとか知識が不足しているとかいう理由ではなく、その人の置かれる立場によって"わからなく"なることが起こるのだと思います。最近、失言三連発で辞任した大臣がいましたが、事柄の捉え方は人によって様々で、ある面ではいかなる発言も自由ですが、大臣としてそのようなことを言ったら大変なことになるのは一般の立場からすれば明白なはずです。それなのに堂々と喋ってしまった。それはつまり、理解の違いではなく立場の違いによると思うのです。立場の違いは、様々な大切な事柄を見えなくしてしまいます。

 以前めぐみ教会の荒瀬先生は、視点を変えるのではなく視座を変えねばならないと行っていました。この聖書テキストに登場するエチオピアの高官は、社会的には有意な立場にいたのですが、その視座は低い視点を持っていました。つまり、その神の前での謙虚な視座が、聖書テキストへの誠実な問いと、フィリポの解き明かしへの素直な応答を生み出したのです。
 私たちは自分の立場と利権を守りたい一心で、大切なことが見えなくなってしまいます。しかし、そこを信仰という支えによってなんとか一歩乗り越えて、本当に大切な、示されている事柄を受け止めて行きたいと思うのです。



「お金で買えない素敵なもの」
(使徒8章14-25節)2008.9.21


先日どこかの芸能ニュースで、最近よくテレビに出ている美人?女医の「やっぱりお金が好き!」という言葉が待っていました。私はそれを見た瞬間に、こんな人間と結婚する相手は、正に不幸のどん底を好んで買い入れるようなものだと思いました。ひどいようですが、正直な感想です。しかし、そんな風潮はこの女性に限ったことではなく、聖書以前の世界から現代まで人の心に住み着いた病巣のような価値観であるのかもしれません。この使徒言行録の8章14節以降に繰り広げられる魔術師シモンの価値観は、イエスのもとに改心した後でも、尚も金で聖霊の力を買い取ろうとするのです。それは読者にはバカバカしくも映りますが、私たち自身が作りだしている社会価値観そのものを反映しているのではないでしょうか。つまりシモンの姿は、私たちそのものということになります。
私たち人間は、何千年も大きな勘違いをして、欲しいものはお金があれば揃えられると信じてきたのです。しかし、イエスへの信仰によって与えられる命の霊は、どんなにお金を積んでも買い取れないものです。そして更に言えば、そのどんなにお金を積んでも得られないものが、無料であるという逆転なのです。その無料で与えられる最高の恵みという極意を知る者こそが信仰者ということなのです。「ただより高いものは無い」と言われますが、まさに神の賜物は無料であるが故に、何よりも高価な私達への贈り物なのです。その高価な価値を、イエスを信じることによって、少しでも日常生活の中で垣間見たいと願います。



「たいへん喜んで頂きました」
(使徒8章4-13節)2008.9.14


 デイサービスを展開していく中で、全力で利用者中心のサービスを行っても結果的に感謝されないことが色々あることを実感しています。そんな時、何となく無力感というか虚しさを感じるのですが、聖書を読んでみると人から喜ばれるというのうは、点というよりも線の上で受け止めなくてはいけないと思わされます。

 この8章において、イエスの弟子であるフィリポと、魔術師であるとされるシモンの両方が民衆からの尊敬を受けているのです。では、その何処が違うのか。それは、一時的な人々の目を奪う行為なのか、その瞬間だけではなく、時には迫害され、時には見捨てられ、時には相手にされなくとも、その力を失わないものであるかということです。一時の評価ではなく、その業の延長線上に何があるかということを見つめて進むような在り方。それこそが、本物の喜びを与える力なのだと思います。

 昨今、世間を騒がしている米問題や厚生年金問題、大分教員事件も全て点における利益や喜びの追求の思想が生み出した出来事ではないでしょうか。これらの問題の中心人物が、線の上で人の人生を考え真の喜びとは何であるかという問いを持ち続けていたとしたら、同様の事件は起きなかったのではと思わされます。
私たちの人生は、無意味で途切れてしまうような世界です。しかしそれは、私たちの努力や力の入れ方によって、変わってしまうようなものではないのです。大きな力が人生を引っ張っているのです。そのことを信じて受け止める時、喜びの質もまた変わっていくことと思わされます。



「受け継がれる使命」 
(使徒言行録8章1b-3節)2008.9.7


 人間誰でも苦しい状況を堪えていくことは本当に辛いことです。そして、その辛さは、常にその苦しみの意味を問い続けさせるとも言えます。そして、その問いに意味が見い出せるとすれば、人は相当の苦難も耐え抜くことが出来るのです。
 耐えに耐えた結果、良いものが待っているとすれば、今の現実が未来の希望によって大きく変えられます。ステパノの殉教は本当に、教会にとって痛むべきことであり、その出来事を恐れ多くの人が教会から遠ざかったかもしれません。しかし、教会は、その迫害を耐えに耐え抜きます。その結果、キリスト者の家々に押し入って迫害してまわったサウロさえ改心させ、逆に偉大な伝道者とされるのです。

 この出来事や見方は、今、社会でよく言われる「勝ち組・負け組」とかいったレベルの話ではないのです。信仰者は、見えない未来を聖書により見ていたのです(ヘブル 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです)。それが力だったのです。
 そして、その心づもりとは、単純な目標設定というような意味ではなく、その目標さえも不安視される中でも、きっと神は私を良い方向へと導かれるという根源的安心感のようなものです。
例えば、強い信念をもって将来の目標を追い求めた結果といった力や能力による評価みたいな世界ではないのです。むしろ、まったくの日常を信じて委ねて生きていくということなのではないでしょうか?
 フレンドシップあさひの営業は本当に毎日が戦いのようです。感謝されることばかりではなく、全力投球したにも関わらずかえって恨まれるようなシーンがあります。しかし、だからと言って、安易な利益サービスには決して陥いってはならないのです。耐えに耐えたその先に、必ず良いものが待ち受けていると信じるからです。祈って一事にお仕えして行きたいと願います。



「受け継がれる使命」 
(使徒言行録8章1b-3節)8/31


 人間誰でも苦しい状況を堪えていくことは本当に辛いことです。そして、その辛さは、常にその苦しみの意味を問い続けさせるとも言えます。そして、その問いに意味が見い出せるとすれば、人は相当の苦難も耐え抜くことが出来るのです。耐えに耐えた結果、良いものが待っているとすれば、今の現実が未来の希望によって大きく変えられます。ステパノの殉教は本当に、教会にとって痛むべきことであり、その出来事を恐れ多くの人が教会から遠ざかったかもしれません。
 しかし、教会は、その迫害を耐えに耐え抜きます。その結果、キリスト者の家々に押し入って迫害してまわったサウロさえ改心させ、逆に偉大な伝道者とされるのです。
この出来事や見方は、今、社会でよく言われる「勝ち組・負け組」とかいったレベルの話ではないのです。信仰者は、見えない未来を聖書により見ていたのです(ヘブル 11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです)。それが力だったのです。
 そして、その心づもりとは、単純な目標設定というような意味ではなく、その目標さえも不安視される中でも、きっと神は私を良い方向へと導かれるという根源的安心感のようなものです。
例えば、強い信念をもって将来の目標を追い求めた結果といった力や能力による評価みたいな世界ではないのです。むしろ、まったくの日常を信じて委ねて生きていくということなのではないでしょうか?
フレンドシップあさひの営業は本当に毎日が戦いのようです。感謝されることばかりではなく、全力投球したにも関わらずかえって恨まれるようなシーンがあります。しかし、だからと言って、安易な利益サービスには決して陥いってはならないのです。耐えに耐えたその先に、必ず良いものが待ち受けていると信じるからです。祈って一事にお仕えして行きたいと願います。



「40年間も苦労しました。」
(使徒7章23-53節) 8/24


 人生とはまさに苦労の連続であることは言うまでもありません。しかし、だから絶望的ではないのです。つまり、その苦労がある意味を持つと受け止められるとすれば、全く同じ状況でも私たちの心には、暗闇の中でも光が灯るような経験をするのではないでしょうか?
 教会の歴史上、初めての執事の一人として任命されたステファノの最後は、真実を語り続けながらも集団虐殺とも言える悲劇的な死を迎えます。また、彼が最後の説教において語ったモーセの生涯は、荒野をさまよい歩く40年の苦労のすえに得たのは、約束の地の直前でそこに入ることを許されず死なねばならない苦難の歴史でした。
 しかし、それもまた見方を変えると、その二つの人生は決して一方的に絶望と断定するものではないのです。つまり、明確な目的は達することはできなかったとしても、その先に続く希望の延長線上での死であったことは意味があるのです。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの人たちが入ろうとするカナンの地を、ネボ山の山頂から眺めて本当に自分に与えられた使命が価値あるものであることに震えるような感動をもって感じたことでしょう。つまり、結果を自分の手にとって眺めることはできなくとも、希望の延長線を見い出せるかで、大きく人生は変わるのだと思います。

 フレンドシップあさひに来られる利用者の方々の多くは高齢の方々です。私は、一人一人のお顔を拝見する時に、その人生の苦労を感じます。40年どころか、戦争を乗り越え70年、80年、90年と生きた日々。
 その苦労を、身体的不自由さによって、単なる苦労で終わりにして欲しくないと思うのです。自らの苦労の人生を見渡した時に、満足感のような感謝や喜びを感じ受け止めらけれるような日々へと。容易ではないかもしれませんが、イエスキリストがお仕えしたように私たちもそのようにお仕えしたいと願っています。



受難の人生を越えて
使徒言行録7章1-22節

 最近、私たちのデイサービス"フレンドシップあさひ"に紹介されてくる利用者の方々は対応が難しい方が多く来られるようになったような感じがします。
 ケアマネージャーさんも、何とか良いプランをと計画するのですが、本人が旨くプランを受け入れられず難航するケースです。私たちのサービスは小規模で組織に縛られていませんので比較的融通が効くので、何とか上手くサービス提供が出来ないかと様々な問い合わせを頂きます。
 それを受けて、スタッフ一同頑張りますが、正直何をしても上手く受け入れられないケースが沢山あるのです。どう声をかけても、何を提案しても、どんなに話しに傾聴してもです。

 私たちが難儀するのですから、日常一緒に過ごされている家族は更に苦労が絶えないことだと思います。そしてこのようなケースは、本人以上に家族が混乱し苦しんでしまう場合がとても多いようです。

 しかし、実際的に起こっている家族の混乱は、私たち第三者の立場から見ると、そこまで苦しまなくてもよいのではないかという事がよくあるのです。つまり、現実の問題以上に、家族は混乱しているといったことです。

 嘗て、恩師の瀬底先生は「自体が紛糾しているのではなく、あなたが紛糾しているのです」とよく言っていました。
 まさにその状況です。そこから解放されるためには、自分自身を今一度他の視点で見直さねばなりません。
 先週の聖書箇所で、ステファノは裁判にかけられていくシーンでありながら、極めて冷静に今自分の置かれている状況を見据えていました。自分の受難は、イスラエルの救済史の大きな流れの一貫なのだと受け止めていたのです。
 自分の置かれている状況が単なる偶然や運の悪さによるとすれば、人々の叫びはいよいよ大きくなることと思います。しかし、如何なる困難な状況でさえ、人生の救済の途上ある大切な出来事と受け止められれば、心持ちも変わってくることでしょう。
 これは大したことではないようで大きな意味を持ちます。また私たちはその意味ある受け止め方を信仰と呼ぶのです。 
 この信仰という見方、考え方、生き方、在り方こそが、苦難の人生を超えていく確かな道筋なのです。



本当に解放された者!
6章8節から15節


 オリンピックの女子柔道で惜しくも銀メダルになった谷選手が、相対する選手のことを「自分の能力を引き出してくれる存在」として表現していました。
 相対するものを敵ではなく、自分を高めてくれる存在。この受け止め方は、素晴らしいことですが、なかなか出来ない事でもあります。しかし本当に人間が人格的に解放されていくとはそのようなことなのだと思わされます。

 フレンドシップあさひの営業をしていく中で、多くの困難を覚えます。やっとの思いで家族から依頼されて迎えた利用者の方が、到着すると同時に帰宅願いを再三訴えられて対応に困り果てるシーン。ケアマネージャーが紹介してくれた利用者でも、キリスト教会が運営しているということで利用前に断れてしまう出来事。本当にガックリする出来事の連続です。しかし、上記のことから言えば、そのことはデイサービスフレンドシップあさひの、いやあさひ伝道所の能力を引き出してくれる方々なのかもしれません。

 先週の使徒言行録6章8節以下に登場するステファノと「解放された奴隷の教会」に属する人たちとの対立。どちらも、抑圧的状況からの解放を求め、神を敬うことに熱心。
 しかし何が違うのか?それは本当の意味で解放されていたのかどうかということではないでしょうか。15節において迫害されているはずのでステファノの顔は、さながら天使のようであったと記されています。そのことはパウロの語るように、自分に敵対し迫害する人々さえも祈り対照と受け止め、信仰に生きようとした真の解放者の姿があるように思えます。
 それは私たちにとっても、あらゆる場面で起こってきます。職場において、家庭において、学校において、生活の場所の全てにおいて。
 神は、私たちを訓練し高めるために相対する存在をしつこいまでに置かれるのです。そのことで、私たちは大いに精神もろとも疲弊してしまうのですが、今一度信じる心に立ち返り、神は愛するもの訓練されると受け留めなおして神を見上げて進みたいと願うのです。



評判の良い人とは誰?
 使徒言行録 6章1-7節 2008.8.3


 中国開催のオリンピックがいよいよ始まりました。その出場選手のインタビューを聞いていて私が特に思うことは、オリンピックの戦いが大変というだではなく、オリンピックまで漕ぎ着けるのにどれだけの苦労を選手達がしてきたことかということです。先日、ボクシングの世界タイトル防衛をした内藤選手は試合後のインタビューで「とにかく休ませてくれ」と言いました。試合はもちろん大変だと思います。しかしそこに立つまで、選手達は逃げ出すことの許されない超過酷な訓練と努力をしてきたのです。投げ出したいような疲労を乗り越えてはじめて競技場があるのです。つまり私たちの見ているオリンピックのシーンは、その結果としての一瞬でしかないのです。
 先週の説教は、評判の良い人とは誰?というテーマでした。その評判とは単に周りの人から称賛されたりするという単純なことではなく、時には「人につくより神につかねば」と、人々からの評判を失うことによって初めて得ることができるものでもあるのです。ここで言われていることは、一瞬の勝敗ではないのです。そこまで続いていく過程で、何を目標にどれだけの困難を引きずって歩んだかが問われているのです。
  神を信じて歩むとは、そのようなことなのでしょう。信じる行為は、一回的ではなく小さな積み重ねなのです。しかしそれは、愚かな成果主義的な意味合いを持った「努力」のようなものであってはなりません。その成果さえも努力と共に投げ捨てるような歩み。いや、成果によらず救われたからこそ、容易にそれを捨て得ることを可能とするのが信仰なのかもしれません。
 勿論、その捨てる行為は、前者の積み重ねよりも更に困難であることも信仰者にとって自明のことであります。しかしなんとか、そこを越えていく時、成果や力によらない平安や喜びみたいなものが得られるのかもしれません。信じることに寄りすがるようにして日々を過ごしたいと願います。




神からか、人からか、それが問題ですA
使徒言行録 5章32-42節 2008.7.27

 人間の持つ"恨み辛み"というのは真に恐ろしい限りです。その前では、どんなに正しいことでも、間違いなく良いことでも、人を救うためにかけがえのないことでも、一切話は通らないのです。そして更に悪いことに、人間の"恨み辛み"は、「神のために!」という言葉を使って平気で人々を苦しめる側に身を転じてしまうのです。 そこでの正義は、他者より力あるものが決定する権利を持つのです。イエスの使徒たちも本当に苦しんだと思います。いや苦しさというよりも、悔しさ一杯だったんじゃないかなと思います。それではも彼らは、「イエスの名によって辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と記されます。負け惜しみのようではありますが、そう記された使徒たちの働きはやはり凄いと思わされます。

 先週、介護保険の講習会に行ってきました。そこでのある資料の記載がとても気になりました。「気分転換を目的とした外出でのレクリエーションは認めない」という項目です。これって何なのでしょうか。デイサービスを行っていく中で、利用者にとって最も重要なことの一つは気分転換のタイミングなのです
 指導では基本的に、一日同じ場所にいることが求められますが、認知症が進むほど同じ場所にじっとしていることは難しくなります。それを無理やりとどめると、「帰りたい」という叫びの連続や、奇声の合唱のような世界になる可能性大なのです。
 それでも入口に鍵をかけて、時間まで監禁?しておけば良いかも知れません。 しかし、本当に介護保険制度を作っている側の人が、利用者本人になった日に、同じように閉じ込めておいて欲しいと願うのでしょうか?心からそう思い、その制度を作っているのでしたらそれも認めます。
しかしそんな人は、実際はいないでしょう。
 どんなに正しくても、通らないことが世の中に沢山あります。しかしだからと言って、それに迎合してしまっては、教会として提供するサービスの意味がありません。
 教会のサービスは、その言葉どおり礼拝(Service)なのです。利用者の方々ひとり一人に、イエスキリストにお仕えするように仕えていく。
神から出たものとしての働きでなくてはならないと思うのです。



「誰も来ませんでした」
2008.7.20使徒5:12-16


 使徒5:12-16は不思議な個所です。イエスの弟子たちは、熱心であり民衆から賞賛されていたが、誰も仲間に加わろうとしなかったと言うのです。
 この不可解な記事に対して、多くの注解者は、アナニアとサフィラの事件が尾を引いているせいだと理解しました。確かに、嘘をついた信徒がその場で倒れて死んだという噂は、すごい勢いで広まったであろうし、周りの人の恐れも当然です。
  しかし現代、そのような理由付けを仮にしなくても教会には人が集まりません。今年の4月のあさひ伝道所開設以来、未だに全く知らない地域の人は誰もこの教会を訪れていないのです。
 まさに、誰も来てません!という感じです。礼拝に来てつまらなかったというのはわかりますが、はじめから誰も来ないとは教会の宣教はどこに行くのでしょう。

 先日、神学校関係の集まりがあり出かけてきました。その時に色々話しをしていたのですが、教師というのは自分を棚に上げて、あれがダメだ、これがダメだと、よく言うものだと実感しました。勿論、それはそれで批判力があるのは大切なことですが、教会に人やお金も集まらないのは、原因として、説教が悪いからだ、牧師が悪いからだと言うのです。まあ、まだ自身が何かのおかしな形でも成功的大教会の創設者なら言う権利もあるかもしれませんが、日本においては大体が衰退しきった教会を横ばいでなんとか運営しているのが現状なのに口先ばかりが大牧者なのです。

 私は教会成長論者ではありません。しかしその時に気づいたのは、これこそが教会衰退の最大原因だということです。口先だけの宣教、口先だけの批判、口先だけの献身。いつまで日本の教会はこんなことを繰り返しているのでしょう。
 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」(松尾芭蕉)という言葉がありますが、まったく正反対の教師の体質は、みんなで足の引っ張り合いです。まことに御言葉に聞き、その実りとして具体的生活を生きようとするのなら、教会運営が良くても悪くても答えとして「謙虚」になるのだと思います。
 その謙虚さこそが、アナニアとサフィラのマイナス的評判の事件を越えて、教会の宣教を前進させたのではないでしょうか。誰一人仲間に加わってこなくても、頭を垂れて、謙虚に。まずは牧師の私自身がならなくてはなりません。その上で、答えは、主ご自身にお委ねしたいと思います。



「恐ろしい出来事」
2008.7.6 使徒言行録5.1-11


 この使徒言行録の箇所は、不可解にも思えるほどの恐ろしい出来事が記録されています。自らの土地を売ってまでして献金をしたアナニヤとサフィラは、その売却した金額を正直に言わなかっただけで、死んでしまうことになったのです。多額の献金をしていたのにです。この事は、何を意味するのでしょうか。嘘を付いてはいけないという警告としての見せしめのようなことなのでしょうか。この箇所で、教会全体が非常に恐れたと記録されているように、そのことは決して他人ことではなく、全ての人たちに、大なり小なりのアナニア達のような偽りがあったからではないでしょうか。そしてまた、そのことは現代の私たちも言い逃れの出来ない不安感を与える出来事と言えないでしょうか?
実際、この死の出来事が何故に起こったかということは、正直理解出来ません。しかしわからないながらも、そこから示されることは、「出来る限り正直であれ!」という事かもしれません。そして、その正直さというのは、「自分には出来ませんという」弱さの告白の上でなされることを意味するのでしょう。ペテロはそれ故に、出来ると嘘をついた彼らへの落胆の言葉を4節で「…どうしてこんなことを…」という言葉で表現しています。
私は、フレンドシップあさひの営業をする中で、上手くお客さんを取り込むような言葉を語らねばと思う反面、実際提供出来る以上のサービス内容を、顧客確保のために宣伝的に語ってはいけないなと思っています。私たちのサービスは、場所も狭いですし、機能訓練といっても出来ることは限られています。しかしそのことを正直に語る中で、私たちの大切にしていることをお伝えしたいと思っています。
先日、利用者のご家族から大変感謝しているとのお話を頂きました。当初は、場所も狭いのでケアマネの方もそれ程乗り気ではなかったようですが、利用に入る中で本人がとても元気になっていく姿をもって、フレンドシップあさひへの信頼を得ることが出来たのです。やはりそこで必要なことは、正直であることだと思わされました。出来ないことは出来ないでいい、その限界から語り伝えていく時にこそ、予想もしなかった素晴らしい出来事に私たちは出会えるのではないでしょうか。自分の分を超えたものでなく、等身大の信仰をもって神様にお仕えして行きたいと願います。(



「心の共有」2008.6.29 
使徒言行録4.32-36


 6月のGAが素晴らしい内容で無事終了して一ヶ月弱。ふと気がついたことは、フレンドシップあさひの新規利用者申し込みがGA以来、いや正確にいうと香港ユースチームの1000枚のチラシ配り以降まったくなくなっているのです。これはいったいどういうことなのか、GAに力を注いでいて営業が手薄になったせいなのか、チラシ配りで宗教が警戒されたせいなのかまったく状況が掴めません。そこで私は、先月の利用実績報告を郵送でなく、手渡しでケアマネージャーさんに持っていくことにしました。渡すタイミングで、利用者の話や状況を話し合う機会が生まれるからです。福祉の世界は様々な人がいますが、基本的にみんな人様のお役に立ちたいという、感じの良い方が多いでのす。ですので、話していると心温まる出来事に多く出会います。この出会い、関係こそが人を動かす力だと思うのです。
先週の聖書箇所に現れる、原始共産主義的な持ち物の共有の世界は素晴らしい理念だったかもしれません。しかし、その姿は他の人達によって、理念がシステムとして形を変えてしまうのです。その結果、逆に人々を苦しめる不公正な世界を生み出してしまったことは歴史が証明しています。つまり、それは聖書の読み間違えともいえます。つまり、この箇所での重要なことは、その志なのです。そこに人々が共感していくのです。つまり、「持ち物」の共有ではなく「心の共有」がこの箇所の第一に取り上げられるべき意味なのではないでしょうか。
 日本の公共福祉の世界は、現在介護保険によるシステムによって構成されています。しかし、そこで大切なのはシステムよりも、それを作り上げようとした理念なのです。その心が忘れ去られては、何も意味がありません。心の共有こそが、求められています。それは確かに難しいことです。面倒なので、人は形や方法をひねくり回してなんとかしようとします。しかし、その面倒な作業をスポイルしては、輝く感動は得られないことでしよう。面倒でも諦めず進みたいと願います。





「何を祈りばよいのか」2008.6.22
 使徒言行録4.23-31


 先週は「何を祈りればよいのか」の題で使徒言行録よりお話しをしました。人には多くの願いがあります。しかしその願いは、容易にかなえられず、寧ろその願いが挫折感や失望を私たちの心に与えてしまう場合が多くあります。人は、仏教的に言えば、煩悩(ボンノウ)が人間の苦悩を生み出す源泉だとして、その世俗世界からの解脱を願いました。
しかし私たちの信じる信仰も同じ苦悩の傘下にあるのでしょうか。イエスの弟子たちが祈った祈りは、癒しや奇跡の前に、イエスの復活と救済を告げることでした。その目標を目指して神の力を懇願していくのです。その祈りには、私たちの日常とは違った目標があるのです。つまり、何を祈るかという問い以前に、何んのために祈るかという問いが私たちに語られているのかもしれません。
 デイサービスの利用者一人に対して、多くの人の願いがあることを覚えます。本人、家族、友人、ケアマネージャー、フレンドシップあさひのスタッフ、また大きな意味では介護報酬を抑えたい行政や国会といった様々な思惑があります。しかしその願いは、全く立場が反対であろうとも、一人の利用者の救いにかかっていなければなりません。それを外れては、いかなる働きもパウロの言葉を借りれば無に等しいなではないでしょうか。 私たちの祈りは、小さな身勝手なものです。しかしそれが、自分の思惑を離れ、何のために祈るかという目標が決まった時、私たちの祈りは無意味な独り言から、命を救う希望へと変えられていくように思えるのです。それこそが「祈りはきかれる」という意味だと思います。



「 捨てられた方が、実は救いの神!」
2008.6.15
 

 先々週に香港ユースメンバーが鶴ヶ峰に1000枚のチラシを配ってくれまた。そして、更に奉仕をしただけではなく多額の献金まで奉げていってくれたのです。本当に凄い献身的な働きでした。さて、その働きの成果が多少は、先週の礼拝に出るかと思いきや、牧師を合わせて4名という"あさひ伝道所"が始まって以来の少ない礼拝でした。勿論、いつものメンバーもそれぞれの用事があり当初から分かっていたことですが、初めてのチラシ配布の後でもあり何となくショックを感じました。これから、この地域での直接的御言葉の伝道はどうやっていけばいいのか。まったく容易いことではないという実感。そして、そこに使わされている牧師としての自分は、どんなメッセージをしていけばよいのかいよいよ問われているように思います。フレンドシップあさひの管理者として毎日奔走する中で、どうやって教会としての伝道を生き生きと広げていけるのか、正直悩みます。その中での唯一の希望が「捨てられた救い主イエス・キリスト」だと信じて行きたいと願います。



「自分を忘れるほどの感動」2008.6.1
使徒言行録3.1-10


 先週の説教では「自分を忘れるほどの感動」と題して、生まれながらに足の不自由であった人が癒しを得た感動について共に考えました。
 その感動は、正に金銭には換えられないものであったことを聖書は語っています。私たちの日常はある意味で平坦なものです。しかしその中にも、実は金銀に変えられないような小さな感動が、神の臨在を示すような出来事は沢山あるのです。それは自分達の利益や欲を超えたところから差し出される働きなのです。
 フレンドシップあさひの働きを日々進めて行く中で、沢山の困難と感動に出会っています。「ありがとうこざいます。」「ありがとうございました。」毎日が小さな感謝の受け渡しの連続。私たちの働きは、ある面でとても日常的。
車の送り迎え、お茶と世間話、食事の提供等々と特別なことではないかもしれません。しかしその特殊ではない日常の行為一つ一つを心を込めて行っていくことは、健康な日々を失いかけている利用者にとっては極めて大切なこと。そこでなされることは、ビジネスや仕事であってはならないのです。
 神が愛し価値ある生涯と命を与えた人生の先輩に、キリストに仕えるようにお仕えすることです。だからこそ、そこには金銀では得られない感動があるのです。足が不自由でも、適切な介助者がいれば立ち上がれるのです。
 神は奇跡の癒しの業を私たちの手に委ねられました。その委ねられたものをどのように用いるかは私たちにかかっています。出来ないことを出来るように語らず、出来る小さな事をお献げしていきたいと思います。
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