カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事へ

御言葉と出来事(2010年)


2010.12.25更新

「救い主、幼子イエスとの出会えて」
(マタイによる福音書2章1〜12節)No.144


 
先日、電車に乗っていると向いの席に三人の方が座られていました。そして、その中央の方がもの凄い咳をし始めたのです。すると、一方の方は非常に迷惑そうな表情をして席をずらしました。しかしもう一方の方は、一瞥すると、自分のカバンからマスクを取り出して着用し、更に喉の消毒スプレーをして涼しい顔で本を読み始めたのです。私はこの一部始終を向いの席から伺い、とても感心させられました。まさに「備えよ常に!」という言葉の見本のような出来事です。この事はまた、私たちの信仰に於いても同様です。マタイ25章の十人のおとめの例えではありませんが、いつその時がくるのか分からないからこそ、準備をしておかなくてはなりません。そしてその備えによって、私たちは慌てることなく危急の事態でも乗り越えて行けるのです。そしてその備えとは、私たちにとっては物ではなく、心、信仰なのです。

 そしてその信仰は次のことを語るのです。クリスマスの出来事は、無力な幼子としてこの世に来られる神の物語であることを。勿論、大人としてでも、軍隊を引き連れた王としてでも、神はこられることは可能だったでしょう。しかし、神は、人の手によってイエスを育てられるのです。つまり、神の救いの道の一端として、人の働きを用いられるということです。勿論、神は救いの完成をご自身一人でなし得るのですが、尚、私たちにその働きの一端を信仰によって担わせるのです。この「担い」こそが、人の生きる喜びと繋がっているのです。いつ神からのオファーがくるかもしれません。是非、備えを持って信じる日々を過ごしたいと願います。



「神の熱意が成し遂げられる」
(マタイによる福音書1章18〜25節)No.143


 
先日、フレンドシップあさひの看護師さんが、教会から送られたクリスマスの手紙の字が凄く上手いと感動していました(会員の姉妹が宛名を書かれました)。「まさか所長が書いたのですか?そんなことないですよね!」とのお話し。私も「まさかでもあり得ません」とお答えしました。

 しかしその「まさかでもありえないことが、遥かに信じられない出来事がクリスマスなのです。世界中に知れ渡る2000年前のユダヤの出来事は、その主体者であったマリヤとヨセフにとっても、あり得ないような出来事だったのです。そのあり得ないような出来事は、罪ある者が信仰によって全て救われるという更にありえない出来事を導くのです。

 では救われるには何をしたらいいのでしょうか。歌舞伎俳優の暴力事件の報道の中で、彼の連れ合いさんが、「生まれ変わらなくてはならないね」と言ったということが印象に残りました。同様以上に、イエス様は、救われるにはどうすればいいのかというユダヤの議員に「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言わたのです。更に、生まれ変わることなど出来ないと答える彼に、信じることだと主は語られます。

 つまり、クリスマスの信じ得がたい事実を信仰の目によって見て信じることこそが求められるのです。それはまさに、罪人に御子を差し出す程に人を愛された、神の熱意が成し遂げられた人類救済の出来事だからです。 


「恐れることはない、信じなさい!」
(マルコによる福音書4章35〜41節)No.142


 イエス様は、嵐の船の中で慌てふためく弟子達に、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と厳しく戒められます。今まで、イエス様とずっと同行して様々な神の力を見て信じて来た弟子達なのに、船が転覆しそうになると、あっという間に信仰に羽が生えて飛んで行ってしまうと言った事態です。その弟子達に、腹立たしい言い方でイエス様は叱責します。信仰とは、本来、恐れとおののきによって委縮した生き方をするのではないのです。嵐の中でも、恐れてはならない、信じなさいという、解放と前進を導く力なのです。

 私たちは何かを始めようと議論する度に、常に「出来ない理由捜し」に夢中になってしまうのです。人と言うのは本来怠惰な者です。何か新しいことをするよりも、現状維持を選びたい者なのです。しかし、信仰とは、嵐の船に乗り込むことであり、苦境の状況を信じて歩むことを意味しています。そういう意味では「出来ない理由ではなく、出来る理由を探して行く」ことです。どうしたらイエス様は出来たのか、私たちはそこから何を学ばねばならないのか。

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11章1節)なのです。このクリスマスアドベントの時に、行うチラシ配り。それは一見、無意味のようにさえ思えます。しかしだからこそ、信仰を持って行動し進むのだと思います。必ず神はそのように私たちの小さな献げものを取り上げて下さるはずです。      



「語ることと、聞く力を知る事」
(マルコによる福音書4章33〜34節)No.141


 イエス様は「人々の聞く力に応じて語られた」とあります。つまり何でも言えばいいという訳ではないという事です。ではどういう基準で語ればよいのか?。そのことをパウロはコリントの信徒への手紙Tで、最高の道として、全てにおいて愛を持って語ること。それが無ければ、命を投げ出すような行為でさえ無意味だと語りました。しかし人は「愛しているから言うのよ!」と言うかもしれません。その言葉に対して「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」と聖書は続けるのです。人の聞く力に応じて愛を持って語るとは、相手側よりも話す側の信仰が試されているように思えます。

 先週ぐらいのニュースで、法務大臣の辞任に際して、色々な意見があるのを耳にしました。その中で、娘の恵さんを拉致されて活動している横田早紀江さんは「大臣には拉致問題を真剣にやってくれるなら続けて欲しい。人の欠点を上げつらっていても意味が無い」と言われていたことが印象的でした。クリスチャンの早紀江さんは、本当に酷い状況の中でも愛とは何であるかを聖書から考えているのだなと思わされました。

 そのことは、また私達一人ひとりにもイエス様は、忍耐を持って聞く力に応じて語られているという事実を受け止めることにあると思うのです。神は私達の力の及ばない、出来ないようなことを強要されるのではないのです。忍耐をもって相応しく語られるのです。それは私達の救いと直結しています。ペテロの手紙Uでは、「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」と記されます。忍耐をもって救われている私達もまた、神の愛と忍耐に送り出された言葉を語って行きたいと願わされます。    



「小さくても、大きくても、愛されています」
(マルコによる福音書4章30〜32節)No.140


 主の祈りにおいて、私たちは「み国が来ますように」と祈ります。このみ国とは来るべき天国であるとともに、私たちの現実の世界に神の御心がなされて行くことを意味します。しかし現実の私たちの世界は、そこから遥かに隔たった愚かな出来事の連続です。神の国の実現からは程遠いのです。

 しかしその現実だからこそ、この「辛子種」の例えが語られるのです。蒔かれる時は0.5mmといった小さな種が、3mにもなる木に育つ辛子種。そのように神は、見えないような私たちの小さな神の国実現への行為も、忘れ去られることなく取り上げてくださり、大きく成長させて下さるのです。だから、諦めないで!というメッセージです。

 人は直ぐに目に見える形での結果がでないと、失望したり、怒ったり、諦めたりしてしまいます。しかしそこが忍耐のしどころなのです。日本の諺に「武士は喰わねど高楊枝」という言葉があります。貧しくて食事をする経済力がなくても、楊枝をくわえて満腹しているかのように見せる生き様。決して弱音をはかない辛抱の姿です。これは痩せ我慢のようにも受け取られかねませんが、そのような姿勢が聖書から信仰者にも求められているように思えるのです。

 イエス様は、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」と語られます。現実に目を向けつつ、未来を仰ぎ見る信仰の姿勢。それは人から誉めたたえられるような立派なものでなくていいのです。小さな小さな種を蒔くような働きを神様にお献げして行きたいと願います。   


「神の国は日々成長しています」
(マルコによる福音書4章26〜29節)No.139


 
私たちは日々生きて行くことに於いて、努力を繰り返しています。それは、社会における仕事という狭い分野だけのことではなく、生活全般に於いてです。しかしその努力の成果を期待せず、神にその働きをお返ししなければならないと聖書は言います。種は畑に蒔かれるが、それは独りでに成長して行くようにです。努力の結果を評価して欲しいのが人間そのものですが、聖書はその結果を神にお返ししなさいと言われます。これは理屈ではわかりますが、なかなか出来ない事です。努力を積み重ねたことが、無視されることがあれば本当に人はがっかりするものです。しかしそれを少しでも捨てるのが信仰の道かもしれません。

 先日、テレビでアニメの「巨人の星」の再放送がされていました。その中で、主人公の星飛雄馬が、父親の星一徹に向ってライバルの左門が妬ましいと吐露します。しかしその言葉に父親は「人間はみなそんなものだ。しかし、そんな自分かわいさを一瞬でも人のために捨てた時、人は美しいのだ!」と語ります。これは本当に人の本質をとらえていると思わされました。人はそんなものなのです。常に、人を羨み妬んでしまう生き物。しかしそれをそれでいいのだとしないで、キリストへの信仰によって、一瞬でも捨てて行きたい。きっとその時にこそ、イエス様の気持ちに寄り添う経験ができるのかもしれません。

 それを完全に捨て続けて行けられる人はいないと言えるかもしれません。しかしだからと言って諦めず、一日の中の一回だけでも、他者の為に自らの努力の成果を放棄して行くような一瞬があればいいのではないでしょか。そのような信仰に今週も生かされたいと願います。



「大きく考えること、身の丈に合ったこと」
(マルコによる福音書4章21〜25節)No.138


 
この個所は信仰のダイナミズムを伝えています。神に信頼し、大きな期待をもって祈って行くことの大切さです。神が沢山の恵みを下さるのですから、私たちの受け取る信仰をもっと大きく持ちたいと思うのです。しかしこれを単なる拡大の論理や、プラス思考のようなものと勘違いしてはなりません。この信仰の器とは、良い事だけではなく、私達にとってマイナスなことも全て受け止める器であると言うことなのです。危機や、病気や、苦しみなど全てのマイナスも大きな器に引き受ける。器の広さだけではなく、深さが大切だということなのかもしれません。
 本日の説教題を「大きく考えることと、身の丈にあったこと」という題にしました。只、成功論の風潮から、それに邁進するように人々を駆り立てる思想があります。そこでは失格者になる不安から、無理やり、誰もが大きく考えることばかりに目を向けさせられるのです。そして、成功を夢見て自分の実力以上の行動に出てしまいます。結果は、一部の成功者と、身の丈を見失って負のスパイラルに陥ってしまう失敗者に分けられてしまうのです。勝ち組と負け組という世界がそこで作られて行きます。そのような理解は、この聖書個所が語る「大きな信仰の器」という理解とは、似て非なりと言わざるを得ないでしょう。
 聖書の語る、神の求める器とは、大きさだけでなく、その質が問われているのです。つまり自分の秤の質です。その器に、どんなものを受け止めようとしているのか。自分自身に都合のよいものだけを受け止めるのではなく、マイナス面も全て受け止めて行く器。その信仰こそが、イエス様の求める信仰です。私たちは、何も大きく背伸びをする必要はないのです。身の丈にあった信仰であり、歩みで十分なのです。その歩みの中で、質の高い心を、質の高い器を願っていきたいと思います。それこそが、本当の大きさと言えるのかもしれません。


「迷いのない人生を送るために」
(マタイによる福音書6章26〜30節a)No.137


 順風満帆、平穏無事の人生を一生を通じて送ることができる人はほとんどないでしょう。人生に波風が立ち、意に添わない日々を送ることも珍しいことではありません。もっとちがう人生を送りたかったのに、望む仕事に付きたかったのに、なぜ、こんな目に会わねばならないのか、どうしてこんな病気に罹ったのか、などとつい愚痴や嘆きが出てくることもありましょう。そのような時、生き方を変えて、新しい自分に立て直して生きなければなりません。どうすれば、それは可能なのか。一つは「安心感」を持つことです。もう一つは「委ねる」勇気が必要です。これら二つは生きるためになくてならぬ土台です。あなたは、どんな時にも「安心感」を持って生きていますか。「委ねる」勇気を持って、どんな時にも前に向かって進むことができますか。どうすれば、それらはわたしのものとなるのか、聖書の中に、その答えを発見しましょう。               (説教 賀来 周一牧師)

【説明として】
 先生の言われる「安心感」とは、神様は、私たちが生きている時だけではなく、生まれる前から、死んだ後も知っておられ愛してくださるという聖書のメッセージのことだと思います。また、委ねるとは「自分より偉いものを持つこと」という言葉で言い表わされていました。つまり、神にお委ねするという事です。その二つこそが複雑な人生を乗り越え良いものにする力ということでした。 
              (記述 鈴木 淳牧師)



「神の言葉を蒔くこと」
(マルコによる福音書4章13〜20節)No.136


 昨今の、日本の政治の混乱と国際関係の不協和音に、恐れを感じるのは私だけてはないと思います。中国との首脳会議が中止されたことや、外務大臣の握手が中国要人に撥ね退けられる報道シーンを見ていて、何やら戦争の危機さえも感じさせられます。この事をジャーナリストは、その背後にある思惑を推測しながら、それぞれの見解を述べ続けています。しかしその半分は、当たっていても半分は外れていると思うのです。つまりこれは、思惑や政策というよりも感情のぶつかり合いでしかない面があると思うのです。国の責任者が、相手の態度に対して、感情的に無責任な”嫌味”を繰り返かえす。この摩擦の連続はイライラした「憎しみ」しか生み出さないことを為政者は分からないのでしょうか。相手が何と言おうと、国益を守る立場の責任者は、100折れて平和を維持する努力が第一です。腹が立ったからといって、言い返すなど言語道断。これは常に、互いが自分こそは優位だと考える傲慢さの結果です。サービス業の精神から言えば、どちらも早々に落第営業です。

 この聖書の個所で、神の言葉の蒔かれた四つの土地が対比的に語られます。良い土地である条件は、蒔かれたものが伸びる環境を持っているのかという事です。しかし実際のところは、キリスト者であっても四番目の良い土地のように行かないのです。神の素晴らしい言葉の種が蒔かれても、いいところ三番目のいばらの土地程度で、常に誘惑と障壁によってなかなか成長できないのが現実です。そのような人間が、私の言葉は正しいのに、土地が悪いから芽を出さないのだ!と隣国を非難しても始まりません。もっと努力をして、芽が出て、良い方向に成長するような蒔き方や、種自体の質が再検討される必要はないのでしょうか?。
神は忍耐に忍耐をもって、私達の成長を待って下さいます。人のそれが、望まれる通りでなかったとしても、十字架の赦しは取り去られることはありません。そのご恩寵の光の下で、国際関係も、私たちの周りの人間関係も、再構築されていければいいのにな!と思わされます。 



「神の国の秘密」
(マルコによる福音書4章10〜12節)No.135


 
先日の日本と韓国のサッカーの親善試合で、日本が引き分けになったことがニュースで報道されていました。応援した人たちにインタビューをすると、悔しいという反応よりも「今までずっと負けて来たので、引き分けでも嬉しい。」という感想が目に留まりました。このヒントから思わされたことは、出来事をいつも勝者の側から見ていると残念の連続かもしれませんが、敗者の側から見れば、救われねばならない罪人の側から見ると、同じ事態でも随分と違った形で受け止め方が出来ると思わされるのです。

 本日の個所では、神の国の秘密が弟子達に告げられている事が記されています。しかし、その同じ神の国の秘密も、救いを必要としない立場から、権力や地位にしがみつく立場からでは、何の意味も持たないのです。いや寧ろ、その素晴らしいメッセージが怒りの原因とさえなってしまいます。

 ある人達はこの世に奇跡などないといわれますが、ある学者が「自分のような物が救われているといこと事態が最高の奇跡だ」と語っていたことを思い起こします。神の国の秘密とは、まさに「救われ得ないものがキリストによって救われた」という事実なのです。このメッセージを罪人の側から読み、日々の生活の中に救いの感謝と応答を見出して行きたいと願います。



「聞く耳がなくても聞いて下さい!」
(マルコによる福音書4章1〜9節)No.134

 この箇所には、二つのテーマがあります。一つは神の言葉を聞く気がありますか?という事と、もう一方は神の言葉を聞いて理解し、農園に播かれた種のように成長できる信仰の土壌がありますか?という事です。イエス様は神を信じていれば、何でもいいのですよ?という言い方はされません。まことに信じるとは、どういう事なのかという問いを厳しく追及されるのです。それは当時のユダヤ社会全体が、信仰という意味ではみんなが律法を守り、そのように生きているように見えながら、まったくの不信の社会が構成されていたことによります。それでは駄目だと言われたのです。
 イエス様は、9節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。この言葉は一見すると、もう事態を投げ出してしまっているかのように聞こえますが、その背後には、神の民イスラエルを救い出したいという痛みがあると思うのです。

 そのような意味では、聞く耳が無くても聞いて欲しい!というのが、神の心中とは言えないでしょうか?。聞く耳のない離反者の為に、十字架に身を投げ出したイエス様の生き様にその心が現れていると思うのです。その上で、その恵に生かされて、蒔かれた神の言葉が成長できるような信仰の土壌が大切なのです。
 では、神の言葉の成長する信仰の土壌とは、何なのでしょうか?。それは、私たちの周りに溢れているはずの恵みを見る心です。恵みの見えない弱り切った心では、何一つやる気も信仰も出てこないのです。
自分が生かされ、恵みを頂いていることを感じられなければ、前進や成長する精神力が出てくる訳がありません。

 だからこそ、愛される事と愛する事。神の愛こそが、スタートでありゴールなのです。それを見つめて進みたいと願います。   


「誰もが家族、一人の人はいません!」
(マルコによる福音書3章31〜35節)No.133


 
イエス様は本当の家族とは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。勿論、罪ある人間が神の御心を行っている!と言い切れる人などいないはずです。ここの意味としては、そう在りたいと、それを失敗しながらも目指している仲間としての家族理解でよいと思います。その方向性を目指している人たちこそが、世俗の血縁を超えた家族だとイエス様は強調したかったのでしょう。
 実際、このイエス様の指摘は極めて重要なのです。つまり、世俗の家族という概念には、素晴らしさと共に危うさが潜んでいるからです。例えば、テレビのドキュメントなどでは、家族の素晴らしさが強調され、人の生きる力の源こそが家族愛であると描かれるものが多数あります。しかしそれだけが真実であるとしたら、世俗の血縁の家族を持たない人の価値とはどうなるのでしょうか。誰のために働き、誰のために努力し、誰のために生きるのでしょうか。私は、そのようなドラマや風潮を家族を持たない立場の人が、どれ程の痛みや悲しみをもって受け止めているかと思わされるのです。
 やはりそこで、今一度立ちかえるべき世界は、やはり神の家族という理解です。人は一人ではなく、誰もが神の家族に入れられるべきなのだということです。教会は、そのことを信仰の理解の上で伝えて聞く使命があると思うのです。そしてまた、教会の福祉事業はそれを行いとして証しして行くことにあると思うのです。ある本で「人は死にゆく前に誰でも言い残したい事がある」という言葉がありました。その言い残す言葉を、教会に、神の家族に、いや神の家族が聞き取りたいと願わされます。 
            


「人生のリーダーは誰か」
(マルコによる福音書3章20〜30節)No.132


 イエス様は、その働きの素晴らしさ故に、多くの人たちの嫉みを買うことになってしまいます。そして、悪霊の親玉だからそのようなことが出来るのだと、悪魔呼ばわりされるのです。確かに、民衆を支配し権力の場に君臨したい者たちにとっては、イエス様は悪魔そのものだったかもしれません。しかしまた、神への赦しと癒しを求める人達にとっては、イエス様は天使ならぬ神ご自身そのものだったことでしょう。このように、人の立ち位置によって、神を天使にも悪魔にしてしまうのです。さてそれでは、私たちにとってイエス様はどちらなのでしょうか?。
 それは、人生を進めようとする方向によるとも言えるのではないでしょうか。先日、三十代の苦難というテーマの報道番組が放映されていました。自分の望む就職先に入れず、定職に就けずにいつまでも夢を追い続けて、負のスパイラルに入ってしまうというものです。それは一見、夢を実現しようとするやる気に満ちた姿勢のようにも思えますが、現実を見つめる力を失い、地道な努力の積み重ねから逃避してしまった姿にも思えます。つまり、いくら努力しても、その方向に誤りがあるので実を結べないのです。それ故に、そこで語らねばならない事があるとすれば「努力しなさい」ではなく「方向はそっちではないですよ」という言葉だと思うのです。
 このことを私たちの言葉で言い換えれば「イエス様の方向ですよ」と言うことです。イエスを悪魔にする側ではなく、イエス様を神と認めて付き従う方向です。神の方向です。 私たちは常に迷い続けてしまうものですが、週毎に礼拝を守り神の側で生きたいと願います。  
   



「悪霊を追い出す力として」
(マルコによる福音書3章13〜19節)No.131


 イエス様が12名の弟子達を派遣したように、私たちも神の僕としてこの世界に派遣されています。そして、その派遣に伴って、私たちは信仰によって悪霊さえも追い出す力が与えられているというのです。この力とは単なる悪魔払いをするといっただけのものではなく、世俗の力と闘い、神の道を通して行く忍耐と信仰の力です。しかし、この力をどの方向に使っていくかは重大な決断です。つまり、この神に仕える力をイエス様を裏切ってしまったユダは、自分のために使ってしまったという事実があるからです。神は、人に神に従う自由と、背く自由をお与えになりました。そのような意味では、私たちは神の操り人形ではなく、個人の決断の中から善をおこなう事が求められているのです。
 機械ではない生の生きた人間である私たち。その人が、神に従い善を主体的に選び取って生きて行くとは、非常な困難を伴うのです。しかし神は、それを人の生涯と定め、神の側を選んで生きる者に、生きている喜びと充実という金銭には変えられない賜物を与えられるのです。
 私たちは、その価値に右往左往してしまうものですが、皆で礼拝を守り、祈りを捧げ、御言葉に親しみ、この道を歩み通したいと願います。今週も神のご恩寵が私たちの上に留まりますように。



「落ち穂を拾う祈り」
(ルツ記2章1〜23節)No.130

                   濱崎孝牧師



 困難な状況にあっても腐らず、地の塩、世の光になる祈りの路づくりにつとめ、私どもを大いに励ましてくれたのがルツ姉です。
 ルツ姉は、「落ち穂を拾わせてもらいます」(2章2節)という決意を表明しました。それは、プライドにかかわることでした(9節には「邪魔」をすること、22節には「だれかからひどい目に遭わされる」ことが語られています)。彼女は、「おかあさん(ナオミさん)は、すっかり落ち込んでいらっしゃる。私が痛みを引き受け、何とかしなければ」と想ったのでしょう。教会の困難な折にも、そんなふうに立ち上がる会員が必要です。
 ルツ姉は、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言いました。彼女にとって「厚意を示してくださる」誰かは、やがてボアズという人だったということが明らかになります。私どもキリスト者も、実は、「厚意を示してくださる方の後ろ」にいるのです。主イエスさまの後ろです。常に慈しみを垂れてくださる主は、私どもの人生や教会の明日を切り拓くために先立ち歩んでくださるのです。神のドラマは、主なる神さまの後ろに展開されて行く……。だからこそ、先が見えない困難な時には焦らず、主に信頼して落ち穂拾いのようなことをする意味があるのです。主イエスさまは、私どもに「パンの屑を集めなさい」(ヨハネ福音書6章12節)と語りかける神さまでしたね。
 ルツ姉の落ち穂拾いは、ボアズ兄やナオミ姉の心を動かしました。「うつろな帰国」となり、「全能者がわたしを不幸にした」と呟いていたナオミ姉は、主の恵みを数え、隣人愛を回復しました。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように」(20節)……。ルツ姉の落ち穂を拾う祈りは、隣人の心の傷の癒しをも引き出したのです。どうぞ、私どもも、「厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」という信仰に立とうではありませんか。
 ルツ姉の祈りは、新約聖書にまで憶えられるようなドラマに発展しました。そのスケールには及びませんが、私どもも神さまの偉大なドラマに与かることは出来るのです。そして、それは、とても大きな喜びと感謝の体験になります。ですから、あさひ教会とその一人一人の歩みが、落ち穂を拾う祈りの路づくりに健闘することを期待します。ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)。   



「イエス様にふれること」
(マルコによる福音書3章 7〜12節)No.129


 
イエス様のもとに、生活に困った人や病気の人が、ぞくぞくと押し掛けた事が記録されています。その為、イエス様は押し潰されそうになり、陸地ではなく船の中から、民衆に教えを説かれました。みんながイエス様に触れたいと願いました。それにより、病気が治るのではと、それにより人生が回復するのではと、必死の人々の姿です。

 しかしまた、その姿は私たち自身の姿とも言えないでしょうか。私たちは、病の痛みから癒しの願いを込めて、見えない世界に手を伸ばします。また、人生の師を求めて、私たちは、その何かに触れようと必死に手を伸ばすのです。

 では、その触れるとは一体何を意味するのでしょうか。イエス様は、ヨハネ福音書6章35節にて「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と言われます。つまり、イエスを求めるとは、主を信じると同義語と言えないでしょうか。イエス様に触れるとは、主を救い主と信じること。そこにこそ人生の解決と方向性があると聖書は語っています。

 先日の介護のケアマネージャーの研修会に呼んで頂いた時に、この仕事で一番大変だと思う事は何ですか?と質問をしました。その答えの一つとして「ケアプランを立てても思い通りに進まず、どうすればいいのか分からなくなってしまうことがあります」と言われた方がいました。この職務の難しさを感じさせられる発言でしたが、この方は更に優れた答えをして下さいました。「私は、どうすればいいのか分らないので、利用者さんに私も分からないのですが、どうすればいいんでしょうか」と聞いたというのです。すると利用者さんは「わたしもわからないのです」と答えたとのことです。

 これは本当に凄いケアーだと思わされました。自分の計画したものに相手をはめ込むのではなく、どうすればいいのか分からなくなってしまっている孤独な利用者さんと一緒に、迷い迷走する姿。そこにはまさに人生の同伴者たる主イエスの似姿がありました。
 
 信じるとは、明確な答えを得られるという事ばかりではないと思うのです。信じるとは、時には一緒に大きく人生を迷走し続けることも、それなのです。また私たちは、迷走したとしても、ただの迷子ではないのです。イエスに触れ続けているから、迷子ではないのです。だから、あらゆる行く先が暗雲の中でも、不安の渦中であったとしても、大丈夫なのです。今週もその主イエスを信じて歩みたいと願います。



「悲しみながらの怒り」
(マルコによる福音書3章 1〜 6節)No.128


 
イエス様は、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。そして「手を伸ばしなさい」と言われ奇跡の癒しをされました。それは、安息日に癒しを行うところを見て批判をしようとする指導者の人たちに対しての、当てつけとも思える善行でした。苦しむ人の病が癒されることは、誰が見ても正しく良いことなのに、それを見ていた指導者たちは「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。これが人の姿なのです。ここに二つの怒りがあります。一つは、イエスへの嫉妬に満ちた人たちの妬みからくる怒りです。そしてもう一つは、その人の頑なな心に対する悲しみの目をもったイエス様の怒りです。同じ怒りでも、それはまったく質が違うのです。つまり、イエス様の怒りは、敵対する人に対してさえ憐れみをもった愛に裏付けされた怒りだということです。この裏付けなくしては、どんな行為も全ては空しくなってしまうと言えるでしょう。

 今年は、マザーテレサの生誕100周年の年であり、その特集がテレビなどでよくされています。その彼女の言葉に「飢えている人がいます。 でもそれは、パンがないためではありません。 愛、思いやりへの飢え、だれかの「自分」でありたいという思いがみたされない飢えなのです。 裸の人もいます。服がないということではありません。 見ず知らずということだけで、やさしい心づかいをしめしてもらえないという意味で裸なのです。 でも、それらの人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。 ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから。」
 私がこの言葉に感銘を受けたのは、特に最後の二行です。上から説教するのではなく、人に話すことを少なくして、寧ろ箒を手にしてその行為をもって語りなさいという趣旨の内容です。その方が遥かに、人の言葉より雄弁に語るというのです。本当にそうだと思わされます。私たちは、常に箒ではなく、箒の柄だけを手にして、それを振りかざして人に説教をしてしまうのです。そうではなく、口先だけではなく、行いを先行させないとならないのです。しかしそれは決して難しい事柄ではなく、一方の箒を手にすることよって誰にでも出来る生き方であるとマザーテレサは語りました。ここにこそ、イエス様との生き方の共通点があります。つまり愛に裏付けされた言葉です。

 人間の愚かな罪の姿さえ、憐れむ心を持つイエス様。主は今日も箒を手に持ち、私たちに先だって進まれていることでしよう。それに、ついて行くような一週間でありたいと願います。



「生かすための戒め」
(マルコによる福音書2章23〜28節)No.127


 イエス様はいつも根本の問題を問い続けます。当時、安息日の規程を順守することは、絶対中の絶対とも言える項目でした。そこでは、無批判的にその規程を順守することが敬虔であると考えられていました。しかしその規程を、主は見事に覆してしまいます。いや、覆したというよりも、その規程を本当に生きたものにしたと言った方がよいでしょう。

つまり、安息日は人のために定められたものであり、規程のために人がいるのではないという当たり前のことです。ルールというのは、どんなものであれ、当初は相対する人を守るためであり、人の利益になる目的で制定されるはずです。しかしそれが、文章となった瞬間から、言葉の持つ意味は独り歩きを始め、その規程を司る側に有利な解釈となってしまうのです。そこでは、誰もがおかしいと思える事柄が、信仰という言葉によって正当化されてしまいます。

 イエス様のチャレンジは、まさに人に奪われたこの規程を今一度、人に返す働きであったとも言えます。勿論、それはルールを無視した独善的で勝手な世界を意味しているのではないのです。
初心に立ち返ること。そのルールを本当に生かすものへと引き戻す働きです。ここに私たちの学ぶべきことがあると思うのです。

 昨今の政治の社会情勢は目を覆うようなことがらばかりです。本来、国民のための制度が、権力側の都合で自由に制定、改定されて、血税が湯水のように浪費されてしまう。そして、国家は大赤字になっているのに、その漏れる穴を埋めようとせずに、新しく課税をしようとする動き。
このことをイエス様が見られたら、本当に怒り嘆かれることでしょう。勿論、社会情勢という意味ではイエス様の時代の方がさらに混乱していたはずです。しかし、イエス様の凄いところは、それでも使命を投げ出さずに、人々の救済に仕え切ったとう事です。 私たちも、諦めたい、投げ出したい、納得できない、現実の中でも、信仰の盾をもって歩みたいと願わされます。





「新しいものは新しい袋へ」
(マルコによる福音書2章18〜22節)No.126

 イエス様の「新しい葡萄酒は新しい革袋に!」という有名な言葉には様々な示唆があります。その中で、今回、特に感じさせられたポイントは「柔軟さ」という事です。新しい葡萄酒は、常に発酵が進んでいるので柔軟性のない古い革袋に入れると、膨張して破裂してしまう可能性があるのです。それは、大切にしてきた古い革袋も無駄になってしまうということです。イエス様の理解や答えは常にこの新しい柔軟さを持っていました。ですので、多くの多種多様な人たちを受入れ、導くことが出来ました。神を愛し人を愛するという路線を外さずに、旧約以来の慣習に拘束された生活からの自由を訴え、本当に大切な事を問い続けたのです。それ故に、多くの人が彼の言葉と行いに引き寄せられて行ったのです。新しさとは、新しい考えの押しつけではないのです。どっちが新しいかという競争のようなものでもないのです。新しさとは、柔軟さであり、しなやかさであり、優しさであり、命だと思わされます。だから、それは年齢などには左右されず、神に目を上げたものが等しく受けとるチャンスを得ていると言えないでしょうか。

 先月、富士山登山の途中9合目あたりで、泣き叫んでいる女の子がいました。同行の母親は山頂の素晴らしさを告げ何とか登らせたい、しかし少女は「何の意味があるの・・・」と叫ぶばかりでした。登頂することは、母親にとっては重要な意味のある事であるかもしれませんが、少女にとっては、ただ命令に従って登らされる苦痛のみの世界となっていたのでしょう。
この例から言えば、富士山山頂の清々しささえも、”新しさ”ではないのです。彼女の心の痛みに寄り添って、山頂を目前としても一緒に下山することの方が、愛に裏付けられた柔軟な新しい革袋とも言えないでしょうか?。

 イエス様はおっしゃいました。『 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。』(コリントT13.1-)   


「医者を必要としている人として」
(マルコによる福音書2章13〜17節)No.125

 この有名な聖書個所には、二つの異なった目線があります。それは律法学者と主イエスとの違いです。当時は、職業や病気によって人は大きく差別を受けていました。このイエス様が声をかけた、徴税人レビも同様に差別を受けていました。勿論、税金を取り上げるという立場もあったことでしょうし、不正な取り立てを行っていたのかもしれず、その差別は民衆心理からしても当然のことだったのかもしれません。しかし、イエス様の視点は、その人の社会的な立場ではなく、その人自身を見つめていました。彼は救いを求めているのです!。ですから、律法学者に対してイエス様は、「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。」と批判を返すのです。

 この言葉の意味は、勿論病気の人についてのみの話ではなく、次に続く「私が来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」と言われたように、人間の救いに関する比喩なのです。正しい人には救いは不要であり、健康な人には医者はいらないのです。しかしあなた方はどうなのか?とイエス様は私たちに問うているのではないでしょうか。

 その主の目線を避けるのではなく、私たちは見つめ返して、自分は医者を必要としている、自分は救いを必要としていると告白して行きたいのです。それが信仰なのです。

 この8月はいつも終戦の出来事が記念として、各所で報道されます。その番組を見る度に、戦争を肯定する人と否定する人が出てきます。そのあり様は、罪を認めたくない人の姿と、認めねばという人の苦悩の姿が両義的に現されているように思えるのです。
 私たちは信仰者ですから、無理に立場を取りつくろう必要はないのです。未来のために、医者を必要としているものとして、今を悔い改めたいのです。
間違いなく私たちはイエスキリストの十字架の重みによって救われるのですから、その告白を続けて行きたいと願います。 


「心の中で考えていること」
(マルコによる福音書2章 1〜12節)No.124


 イエス様は、律法学者が心の中で考えていることをご自分の霊の力で見抜いたと記されています。この場面では、その考えている事とは律法学者たちのイエス様への批判でした。そのような意味では、私たちがどんなに表面を綺麗に装っても、神はその心の内を見抜かれているということになるでしょう。
しかしその事実は、恐ろしいというよりも安心を与えるとも受け取れます。

 つまり、私たちは神の前では、外側を装う必要はなく、ありのままでいられる!という事なのだと思うのです。それは私たちの内側にある神への不満のようなものや、本当は神に従いたいのに出来ないという痛みや、そのようなものの連続的な心の内の全ての思いを神は受け止めて下さっているのです。
 先日読んだキリスト教系の雑誌のインタビューで「韓国のキリスト教の凄い事、祈りの中で神様をぼろ糞にやっつけているところ」だという言葉がありました。私は、文化も、生き方も違うので、韓国のスタイルが日本でもそのまま適応出来るとは思いませんが、そのような祈りの姿は、一つの信仰者のあり方として、学ぶべき点ではないかと思わされました。心を解放して、神の前に弱さも強さもお献げして行きたいと願います。 
 
 ローマ書8章25節より「 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」



「人の心と神の心」
(マルコによる福音書1章40〜45節)No.123

 当時、重い皮膚病にかかった人は、病気の苦しみと共に、共同体内での人としての権利も失う事となったのです。彼らは、町の外に住むことを強要され、人が近づくと「私は汚れたものです。近寄らないでください!」と叫ばねばなりませんでした。そのような人たちが、イエス様との出合いで病気を癒してもらう奇跡の出来事。これは単純な治癒奇跡の驚きという以上に、癒された人の権利の回復を意味していたのです。イエスとの出会いは、阻害された人が、今一度共同体の中に、人間の中に戻る事を意味しているとも言えるでしょう。
 かといって、病にかかっている全ての人が希望通りに癒される訳ではありません。また、そこで癒された人も、何れはまた何らかの病が原因でこの世を去ったのです。そのような意味では、奇跡は神の相応しさの中にあると言えないでしょうか。
その人が今与えられるべき最善のものが用意されている、それが癒しであるとともに、時には病でもある。相対する人と生活の中で、私たちにもっとも相応しいものを神はお与えになるのでしょう。
 確かに神のご意思は私たちには、はかりしれません。しかし、わかることもあるのです。マタイ6章28節では、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」と語られます。
 わからないことばかりの社会の中でも、わかる神の愛を信じて歩みたいと願います。


「みんなが捜しています」
(マルコによる福音書 1章35〜39節) No.122

 朝早く人里離れた場所で、イエス様は祈っていたと記されています。祈っていたとは知らずに、弟子たちはイエス様が何処かに行ってしまわれたのではと、心配しながら捜しまわるのです。このことは「みんな捜しています」という言葉に表れているように思えるのです。
人は、自分の人生の師を求めてさ迷い歩きます。そして弟子たちも、私たちも、イエス様に辿りつくのです。しかし実際のところは、私たちが人生の師を捜し当てたのではないのです。私たちを探し出して下さったのは、イエス様ご自身なのです。弟子達に最初に声をかけられたのが主ご自身であるようにです。
先週、外国で映画化された「ハチ」を見ました。忠犬ハチ公の外国版です。この映画で感銘を受けたのは、私たちの歩く道端には神様からの手紙がたくさん落ちているという言葉です。つまりその映画では、秋田犬のハチが神様からの手紙という意味だったのでしょう。自分の用事ばかりを優先させ、足早に人生を通り過ぎるのではなく、神様からの手紙を拾い上げる心、立ち止まる心の大切さです。イエス様は、私たちを探し出すために、沢山の手紙を聖書を通して、出会いを通して、自然を通して語られるのです。その手紙には、捜していたのは神ご自身であり、イエス様自身であることが記されているように思えます。この方を覚えて、今週も歩みたいと思います。


「もてなすことと、拒絶すること!」
(マルコによる福音書 1章29〜34節) No.121

 イエス様の弟子となったシモンの姑は熱が下がって病気が癒されたことが分かると、直ぐに周りの方々をもてなしたと記されています。
 私たちは、何かの問題に突き当たった時、病気の痛みをかかえた時など、祈りを捧げて何とか解決しようとします。しかし、意外とその問題が解決すると、祈った対象のことはすっかりと忘れてしまい日常の生活に戻ってしまうような者なのです。あの祈りは、何処へいってしまったのかといった様子です。
 そのような私たちに、このシモンの姑の話しは大切な示唆を常に投げかけていると思うのです。それは大きな癒しといった奇跡のような出来事に限らず、小さな出会いや出来事に於いても同様です。祈ったこと、頂いた恵に自分らしい神への応答を忘れてはならないはずなのです。
 またそれと共に、この個所では、イエス様が悪霊を追い出した記事が並行に記されています。私はこの記述の中から、神への感謝をお返しする事とともに、何でも受け取ると言うのではなく人生をマイナスに引き寄せる力に対して毅然とした拒絶を示すことが記るされていると思うのです。
 昨今、相撲の世界や政治の世界の混迷は酷いかぎりです。この事は、自分より高いものへの畏敬と、マイナスへの拒絶の判断が不明瞭になってしまっていることによると思うのです。勿論、私たちにミスが無く、人を責められる立場にあるとは言えませんが、尚、大きな示唆を聖書から頂き続けなくてはならないと思うのです。
 聖書に親しみ、聖書から神の御言葉を頂く生活。その声が聞こえないような日々にこそ、耳を傾けていくことが重要だと思わされます。


「人にお仕えする権威として!」
(マルコによる福音書 1章21〜28節) No.120

 イエス様の教えは、律法学者のようにではなく権威ある教えであったと聖書は記します。しかしその権威とは、何か上から目線の命令形の言葉であったという訳ではないのです。寧ろ、その言葉に権威を付与したのは、行いが伴もなっていたからです。それ故に、主イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広がったと記されています。
 しかし勿論、物事の評価が結果としての行いだけで評価されてはならないはずです。主イエスは、そのことをルカの16章では「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」と言われました。行いを以て証しを立てながらも、その結果による評価に頼らずに使命を果たして行く宣教。これは容易なことではありませんが、私たちの進むべき道のはずです。
 先日、あるテレビ放映で下駄屋さんのコメントが愉快でした。下駄のサイズが合わなくても、痛くないと言い張って歩くことが”粋(イキ)”なのだという説です。これは悪く言えば、強がりとも言えるしマイナスイメージです。しかしこの同じ出来事を”粋”だと表現するのは、極めてプラス思考の考え方だと思わされました。
 例えばそれを信仰に言い変えると「お財布を拾ったら、ねこばばせずに届けちゃいますよ」と、「日曜日はみんな遊びに行っていますが、自分は礼拝を守っちゃいますよ!」と、「世俗は自己利益に生きるが、私たちは神の側で行きますよ。」といった表現です。つまりそれこそが「粋な信仰」です。イエスの権威に従って歩む生き方は、この世と反対側に向かっているようですが、まことに粋な生きたかと言えると思えます。今週も、主にあり歩みたいと願います。
    


「出発は捨てることから!」 
(マルコによる福音書 1章16〜20節) No.119


 漁師であったシモンとアンデレは、イエスの呼びかけにすぐさま答え、全てを捨てて従ったという記述があります。ここでのメッセージは、捨てて出発することです。しかし実際の私たちは、捨てずに沢山のものを引きずって進もうとしているのです。以前見た「ミッション」という映画のシーンで、宣教師が大きなガラクタの塊を引きずりながら、崖を登っているシーンがありました。そのことに解説はありませんでしたが、人間の捨てられない姿であり、罪を引きずりながら重荷を下ろせずにいる姿を示していたのかもしれません。そして、それは私たちそのものだと思うのです。そのような私たちに語られる、「捨てて出発しなさい」というイエス様のメッセージ。
 勿論、本当に捨てられたいいでしょう。しかしまた、そうでなければ信仰の道が無意味であるとすれば、マタイによる福音書の19章に現れる金持ちの青年の例えのようになってしまうことでしょう。沢山のものを持っていながらも、従っていると主張する人間になってしまう。私たちは、まず捨てられない者であることの自覚と、そのようなものが救われた上で、尚、語られる道と受け取らねばなりません。捨てることは、救いの条件ではないのです。
 先週のワールドカップサッカーの試合で、ゴールを決めた選手が「神様がどのようなチャンスをくれるか」といった主旨のことを言われていました。どんなに練習しても、どんなに才能に満ちていても、その結果は神のご配剤の中にあることを伺い見るような言葉です。
 私たちの歩みも同様です。どんなに努力しても、自らを動かし生かしている方を知らなければ、本当の意味での人生のチャンスも見えてこないのかもしれません。そこには、捨てるチャンスがあるはずです。捨てられない者が、尚、信仰によって捨てることが出来るのかもしれません。全部は無理でも、少しずつ捨てて、逆に良いものを拾い集めるような歩みでありたいと願います。


「悔い改められなくても信じなさい!」
(マルコによる福音書 1章14〜15節) No.118

 イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」といわれます。しかし私たちの悔い改めには前提となる条件がないと、なかなか正直に罪を告白することは出来ないのです。つまり赦されるという前提があっての悔い改めです。

 例えば、最近騒がれている大相撲の野球賭博事件でも、厳重注意だけですむという前提があったからこそ、沢山の力士が告白したのでしょう。そうでなければ、政治献金問題をいつまでも追及されている政治家たちのように、いつまでも見え見えの言い訳を続けなくてはならないのです。

 私たちは、いつでも人の欠点が多く目に付き、なかなか自分自身の事として問題を捉えられないものです。しかし神は、御自分の瞳のように、信じる者を守られると聖書に記されています。その神は、私たちの小さな罪も赦し、また小さな悔い改めも見逃さない方であると言えないでしょうか?。

 私たちの、何度も繰り返してしまう失敗!。しかし十字架の赦しに信頼を寄せて何度も悔い改めていく信仰の歩み。その繰り返しの積み重ねこそが、神に生かされているという事なのではないでしょうか。



「天使も仕えるお方とは!」
(マルコによる福音書 1章12〜13節).117

 イエス様は、荒野で様々な試練を受けることになったと聖書は記します。野獣と暮すような危険な中でも、天使はイエス様にお仕えしたとあります。この事を私たちの現実に即して比喩的に理解するとすれば、荒野や野獣とは世俗の社会を意味し、イエス様を荒野に送り出した霊や仕えていた天使とは、神のご計画であると共に、私たちを救い立たせる信仰とも受け止められます。

イザヤ書48章では、「 見よ、わたしは火をもってお前を練るが/銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。」と人に与えられる試練が説かれます。
イエス様は、その試練を聖書の言葉を持って退けたことが記されます。そしてそのことは、私たちにも同じように説かれるのだと思うのです。勿論、私たちにはイエス様と同様な歩みには程遠いもですが、一歩でも、半歩でも信じて進みゆきたいと思わされます。

 人間は、その若き時代から、どのような価値観で生きて来たかが、来るべき時に問われると思うのです。あさひ伝道所の宣教としての福祉事業というフィールドで、利用者の方々の沢山の話しを伺います。そのお話は、認知症のため整合性の取れないものが多くあります。しかし、何度も何度も繰り返し伺っていくと、確かにその方の大切にしてきた事、拘ってきとこが分かってくるのです。そして、そこに現れる価値観が、人生の最後までその人を苦しめ続けているように思えるのです。

 私たち、何れは、もう生きているのに何の楽しみもない!と言う日が来るのかもしれません。しかしその時に、今一度立ち戻る先があれば、コヘレトが語るように「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、」という言葉を心に止め直すことが許されるのだと思うのです。



「神の愛する人とは」  
(マルコによる福音書 1章 9〜11節) 116

 マルコによる福音書は、1章11節で、イエス様は、「神の愛する子であり、神の心に適う者」であることを告げています。勿論その理由は、自らの命を投げ出す覚悟で進むイエス様の生涯が示しています。そして、その姿を遠くから私たちの教会も追い求めているのです。
しかし、この神の愛する人という言葉が、イエス様に適応される場合と、私たちに人間に適応される場合では、その評価基準が大きく違ってくると思うのです。つまり、上記のような行いによる評価基準であるとすれば、人間は追い求めても決して到達できない罪人である故に、決して神の愛する子とは成れないのです。
 人に対してその言葉が適応されるとするならば、ルカによる福音書18章9節以下にみられる「罪人のわたしを憐れんでください」という祈りを通した悔い改めの姿勢に対してです。出来るものではなく、出来ないものとしての信仰の歩みの上に神の救いは差し伸べられます。
 そうでないと、信仰はある種の成功主義になってしまいます。”救い”つまり神の心に適う者とは、全ての人に与えられ、受け取るチャンスを持ったもの。それが、悔い改めと再出発です。
 この再出発のお手伝いが、伝道なのかもしれません。そして、フレンドシップあさひ(通所介護事業所)の働きも、そのままでは崩れ落ちてしまいそうな現実の中から、今一度、人の輪の中に、人が戻っていくような出来事、その再出発のお手伝いと言えないでしょうか。
 私たちも、週毎の礼拝に集い再出発をしていきたいと願わされます。



「人生の師を求めて」   
(マルコによる福音書 1章1節1〜8節) 115

 
人は自分自身の力で生きているようではありますが、自分の人生の道を確実に導いてくれる師を求めていることは誰も否定出来ないのではないでしょうか。ヨルダン川で、イスラエルの民に悔い改めの洗礼を授けるパプテスマのヨハネ自身も、人生の師を求めて、さ迷っていたと言えるでしょう。

 先日、フレンドシップあさひの利用者さんで私費にて利用したいという方の申し込みがありました。この方の受入れに際して、担当のケアマネージャーさんに連絡すると、介護保険外の利用で事故が起きた場合責任は取れないので係わりを持ちたくないとの連絡がありました。この回答は確かに最もの事のようですが、また何とも人間味に欠ける紋切り型の答えだと思わされました。自分自身が担当している利用者さんとの係わりは、契約や利益のためではなく、その方の人生自身にお仕えしたいという願いと共にあるべきだと思うのです。何かあったら直ぐさま自分は安全場所に身を引こうとする人に、信頼してケアプランをお願い出来るでしょうか?。

 私たちの人生の師であるイエス・キリストは、ヨハネによる福音書の10章で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」と言われました。

 私たちが本当に信頼できる方は、危機の時に我先に逃げ去るような俗人ではなく、私たちのために命を投げ出すお方なのです。勿論、私たちにはそのような真似はできませんが、目指し従い行くお方であることは間違いありません。この方を今週も見上げて歩みたいと願います。



「神は、既に来られています。」
(使徒言行録1章1節6〜11節) 114

 主イエスは、天に上げられたように、またおいでになると聖書は記しています。では、いつおいでになるのか、それは「未だと既に」という言葉に包含されます。「未だ」という面では、主イエスは、最後の審判の時に、確かに私たちの救い主として再び来られるのです。しかしまた、「既に」という面では、今、私たちのただ中におられ、働かれているというのが聖書のメッセージです。それではイエス様は、私たちの何処におられるのでしょうか?。

 それを示唆するのが、ペンテコステの時に語られるトルストイ著作「靴屋のマルティン」の物語です。天からの声を聞いた老人のマルティンは、イエス様の到来を待ち望むのです。しかしやって来るのは、生活に困った人たちばかり、その一人ひとりを助けて一日を過ごすマルティン。夜になってもイエス様は一向に来られません。イエス様の訪問を心待ちにしていたマルティンはがっかりしますが、そこに天からの声が聞こえてきます。昼に、マルティンが出会ってお仕えした一人ひとりがイエス様自身であったというメッセージです。彼はその声を聞くと、心が喜びで満たされ、十字を切って福音書を読み始めました。すると、「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』(中略)すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 (マタイ25:35-40)。

 イエス様は既に私たちのもとに来られています。今週も、フレンドシップあさひに沢山のイエス様が訪れて下さることでしょう。その一人ひとりに、イエス様にお仕えするように仕える力が、私たちに与えられますように。小さな感謝をお返しする一週間でありますように。



「神は真実な方です!」
(コリントの信徒への手紙一1章1〜9節) 113


 パウロはこのコリントの信徒への手紙の冒頭において、教会への神の恵みと、彼らの歩みを誉めたたえます。しかしその中心は、彼らの努力や行いではなく、9節にある「神は誠実な方です」にかかっていると思うのです。信仰の歩みは、順風の時も、逆風の時も、神は誠実な方であるという確信にかかっているのです。

 コリントの教会は、道徳の乱れ、キリスト教の自由の誤認、集会における混乱、復活理解と様々な問題を抱えていました。人間の歩みは、信仰にあると言いながらも本当に貧しい愚かな者です。しかしそれでも尚、教会は教会として立ち続けてきたのです。それは、まさに神は誠実な方だから故です。

 この神の誠実さを私たちは多くの場合見失っているのかもしれません。しかしまた、見失っているにも関わらず、神の私たちへの誠実さは変わらないのです。確信しきれないものが、尚ここに確認を見出し、今日の、明日の歩みを進めたいと願うのです。
 



「聴く耳のない私たち!」
(使徒言行録28章23節〜30節) 112

 恩師の瀬底先生は、「それでは使徒言行録の29章を開けて下さい」というユーモアーのある問いをよくされていました。勿論、使徒言行録には29章はありません。先生は「みなさんが29章をやって行くのです!」と語りました。イエス様の時代から、使徒の時代を超えて、宣教は前進し続けてきました。しかし、最も聖書にも、預言書にも精通しているはずのユダヤ人が、メシアであるイエスを受け入れず、その福音の広がりは異邦人へと向かっていくのです。この出来事を私たちは他人事のようにユダヤ人の無理解として揶揄していては、私たちも同様に聖書の批判する対象でしかないと思うのです。

 私たちもまた、福音の解らないものなのです。その無理解なものが、神の恩寵によって救われている。この救いこそが福音であり、それを伝えるのが宣教です。

 初代教会は、この福音の言葉による直接的伝道と、その福音の具体的な行いを実践して行きました。行いだけでも、伝達だけでも不十分なのです。その両方をどのように、見える形で教会の宣教として行くかという課題です。この事は、まさに私たちの教会に与えられている課題そのものです。御言葉の伝道と実践をもって地域にお仕えする教会です。私たちに与えられた使徒言行録29章を神の集めて下さったみなさんと、これからも更に力強く進めて行きたいと心から願わされます。



「鎖は希望のために!」

(使徒言行録28章17節〜22節) 111

 パウロは、イエス・キリストの宣教のために鎖に繋がれた生活を余儀なくされます。しかしその鎖は、不自由という以上に、希望のための拘束と言ってもよいのではないでしょうか。パウロは、ユダヤ人の中での地位を持ち、ローマ市民権を持っていました。何も、死者の復活を告げ続けて、鎖に繋がれる必要などなかったのです。しかし、罪の奴隷となり、異教の神に怯え、死の恐怖に人生を支配される人間に、信じる者の自由を告げようとするのです。つまりその鎖こそが、隣人の希望となるのです。

 私たちは、何か自分の人生を自分自身で選びとれる自由を持っているかのように、勘違いをしています。そのような私たちは、実は自由ではないのかもしれません。自分より大きな偉大な方の存在を見ずに、自分自身の欲と業に人生を支配されている、まことに不自由な存在。しかし信じる者は、まことの自由を持つ者ゆえに、その自由で鎖に繋がれるのです。

 フレンドシップあさひは、このGWも全て出勤となりました。しかし私たちが、デイサービスの営業を続けることによって、GW中も部屋の中で一人で過ごさなければならない方が、外出して、一日を一人ではなくみんなで過ごす、少し有意義な自由を得られるとも言えないでしょうか?。またそれと共に、ご家族は一時介護から解放されて、また自由な時間を得て生きると力を蓄える機会ができるとも言えます。つまりひとりの人が自由を捨てることにより、他者が自由を得て行く生き方。その時、それは「鎖」ではなく、自分自身にとっても、隣人にとっても「希望」そのものとなると思うのです。そのような、希望に生かされて、今週の務めに付きたいと願います



「自由と束縛!」
(使徒言行録28章11節〜16節)110


 人間は個別の自由を持っています。ある面では、何をするのも自由であり、生きるのも死ぬのも選ぶことが出来る時もあります。しかしまた、全てから自由のようでありながら大きな束縛の中にあります。それは経済的であったり、空間的であったり、性別であったり、人の欲求のようなものであったりとです。そのような意味では、本当は極めて拘束された狭い自由の中にいるのかもしれません。自由と言いながらも、自分自身に支配されており、本当の自由の中にはないのです。

 しかし、信仰にあるキリスト者は、何ものにも拘束されない自由を持つと言われます。マルチン・ルターは、「キリスト者は全ての者の上に立つ、自由な主人であり誰にも服しない。また、キリスト者は全ての者に仕える僕であって誰にでも服従する」という事を言われました。つまり自由の行使は、共同体の中に合って責任を付与されたものが、その自由をもって他者にお仕えするということなのです。その仕える行為を自由に選びとれることこそが、信じる者の自由なのでしょう。

 デイサービスフレンドシップあさひでの働きは、スタッフもボランティアも、この自由よって隣人にお仕えする信仰の歩みでありたいと思うのです。


「何も分かっていない私たち!」
(使徒言行録28章1節〜10節)
109

 先日、えらい剣幕の電話が教会にかかってきました。「毎日、訪問に来やがって、母親が迷惑しているんだ!」とのお申し出。「多分、私の教会のものではないと思いますが」とお答えすると、「だって、キリスト教って言っているぞ、お前の所だろ」とのこと。日中、一人で在宅のお母さんの所に、執拗に勧誘にくる新興宗教に困っての訴えなのでしょう。
 ご本人は母親を守ろうと必至ですが、私たちとは関係のない団体のこと。いくら必死でも、親への愛であっても、訴える方向が大きく違ってきてしまう。しかし、その方を笑う事は出来ないと思うのです。私たちも、あらゆるシーンに於いて、同じように方向のずれた訴えをしているのかもしれません。
 この聖書の個所に出てくる、パウロ達を助けた人たちと同様です。初めは、パウロに蛇が噛みつくと呪われていると思い、死なないとわかると今度は「神さまだ」と言ってみたり。天国と地獄を毎日何往復もしているような、精神構造の愚かな人間。そのような私たちに、聖書は「まだ、知らねばならないことも知っていない」と言われるのです。
 ここで大切なことは、知り得ないという謙虚な姿勢と共に、そのような私たちの名が信仰によって天に記されているという不思議を受け止める心です。つまり、知っている知っていると頑張る必要はないということなのです。知り得ないと謙虚な思いを持って、自分を見つめて行く歩み。そこにこそ、知りえないものが、信仰によって未来を知りえるものとなるのではないでしょうか。信仰の歩みにこそ、人の生きる道があるのだと思わされます。



ぎりぎり助かりました」
(使徒言行録27章1節39〜44節)
108

 パウロ達の船は難破してしまいますが、まさにギリギリの線で乗組員全員が助かることになります。私は、この出来事を人生の歩みに譬えると面白いと思うのです。人生の道、どこが陸地がわからない、やっと見えてきた目的に進みますが、頭から深みに嵌ってしまい進めなくなる、更には人生自身が壊れてしまう、死にそうになるが他の人の恩恵で生き延びる、板きれに掴まるようにしてなんとか人生の荒波を乗り越える、といった感じです。
 私たちは、何不自由なく普通に過ごしているようですが、本当は人生に翻弄されて漂流する板にしがみついてギリギリ生き延びているようなものなのかもしれません。しかし、更にそのことを聖書から読み解く時、私たちは自力でギリギリ生き延びているのではなく、神ご自身が人生を救いへと導かれているとも受け取れるのです。
 恩師の瀬底先生は、「人生に偶然はない」と口癖のように言われていました。それは、今日起こったことが、今日救われたことが、今日生きていることが、神が私たちに最も良い事として用意された出来事であると信じる事なのです。
自分の成果を放棄して、神に全てをお返しする謙虚さ。その上で、より高いブイを目指して進んでいく歩み。謙虚に、自己放棄と努力を繰り返して進む歩みを、信仰にあって続けたいと願っています。


「必ず復活する!」
(ヨハネによる福音書20章1〜10節)107

主イエスが十字架に架けられ、死後、墓場に葬られます。しかし、墓の入り口の大きな石が取り退けられており、主の遺体が無くなっていました。この出来事に、弟子たちは大きなショックを受けます。そのことを、聖書は9節で「イエスは必ず死者の中から復活する・・・二人は理解していなかった。」と形容しました。
 弟子たちの反応は、一般の常識から見ると当然のことです。しかし、聖書は神秘を語るのです。それを自分自身に関係ある出来事として受け止められるかどうか?それが信仰ということなのだと思わされます。

 中世のアウグスチヌスは、「人生とは、刺しゅうの絵の裏側を見ているようなものだ。」と語ったと言われます。刺繍の糸は、裏側から見ると滅茶苦茶に糸が交差していて、何の意味があるのかわかりません。しかしそれを表から見ると、美しい模様が出来ているというのです。
 つまり、私たちは、自分たちの人生を裏側から見て、毎日その意味を問い続け、ため息をついているのです。しかし、それは神の側から見れば、無意味のような糸も、美しい模様を飾る掛け替えのないものであることがわかるのです。

 本日は、イースターであるとともに、創立記念礼拝、召天者記念礼拝です。この教会の意味とは何であるのか。先に、天に帰えられた友達の人生の意味と、復活の希望とは何であるのか。
 それは、人の目から見た時、ハッキリとしない事柄かもしれませんが、神の目から見渡せば、いや私たちも信仰の目から見渡すことにおいて、その意味と希望を確かに知ることが許されるのです。



死と向き合ったイエス 佐藤岩雄牧師
   (ヨハネによる福音書12章20-26節)no.104

先主日の佐藤先生の説教から、ダニエル・グリッポ(カソリック司祭)の言葉をご紹介いたします。
 「誰でも皮膚を切ってしまう経験をした事があるでしょう。ハサミでやってしまうことも、野菜を切っていて思わず手が滑ることもあります。そんな時どうするでしょうか。突然の激しい痛み、それに伴い出血をしてしまう。その後で消毒をして、絆創膏を貼ります。適切な処置をすることでしょう。
 喪失感と悲しみというのは、感情の次元で続けて起こるのが自然です。私たちは、愛する者の喪失を経験する時に、激しい痛みに襲われます。血が流れる代わりに、涙がとめどなく溢れてきます。その時に必要なのは、「適切な処置」なのです。適切な処置とは、嘆きながら死に向き合うことです。
 傷はまだ治らず、時として激しい痛みが襲う事もあります。しかし、忍耐と祈りをもってその時を過ごせば、必ず癒しが伴うのです。ゆっくりと、様々な経験が結びつき、傷口は癒されます。喪失の悲嘆は癒しへの道を開きます。
 私たちが近道をして日常の忙しさに気を紛らわそうとして、嘆くことを誤魔化したり、死に向き合うことを恐れてお酒や多量の薬だけに常習的に頼り始めるのは、傷の手当てを満足にせずに、放っておくようなものです。
 心の傷は、意識的な治療がなければ治らないのです。あなたの人生の旅を、あせらずに進んで下さい。それは恥ずかしい事ではありません。時間をかけながら、ゆっくりといきましょう。」


「短くても真実」(使徒言行録26章24〜32節)no.103

 
私たちは、自分の考えを相手に分かって貰いたくて必死で説明をすることがあります。そして意外と、長く説明するほど理解が得られない場合も多々あります。パウロは、短い時間であろうと長い時間であろうと真実が変わることがないことを語ります。真実は時には短く光っています。
 マタイの22章では、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」とイエス様に回答が求められます。それに対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と答えられました。 律法と預言者とは、旧約聖書の事を意味しています。つまり、この厚い聖書の言いたいことを集約すると、これに尽きるのだということです。 そこには、長い説得のお話しではなく、短くとも納得できる光があります。
 勿論、納得できたからと言って、それを確実に実行できるとは限りません。いや寧ろ、出来ない事の方が多いのではないでしょうか。わかっているがどうすればよいか、悩んでしまう出来事の連続。
 ヒントとして、少し前に野球の桑田投手が解説者として「投球フォームとは引退するまで悩むものです」と言った言葉が印象的でした。つまり、これで決まりといった実行スタイルは、生涯確定するものではないということだと思うのです。様々な出会いを通して、常にスタイルを修正していくことが求められるのです。
 それは、自分のスタイルや予定を出会いによって、変更する勇気を持つことだと思うのです。短くても長くとも、納得できるような人生を信仰によって得たいと願います。


「天から示されたことに背かず!」 (使徒言行録26章19〜23節)no.102

パウロは自らの宣教の歩みを「私は天から示されたことに背かず」と語りました。神に背き続けてしまう人間が、背かずと語ることは口先では簡単かもしれませんが、生き方でそれを現すのは容易ではありません。しかし確かにパウロは、そのような思いで、迫害や投獄に耐え続けていたのでしょう。
 私たちは、生きる道に於いて多くの乗り越えなくてはならない苦難の道を経験します。しかし努力の方向性が間違っていたとしたら、その努力も虚しい限りです。

 最近、フランチャイズの福祉サービスが増えてきました。その広告によると、飲食店に対して福祉サービスが如何に儲かるかということが宣伝されていました。そして、投資家を集めお金儲けをして行くのです。そのような福祉サービスは、根本が投資対象なので、行く先がどうなることかと思わされます。投資のうま味が無くなれば撤退してしまうことでしょう。しかし撤退しても、生活に苦労している利用者がへる訳ではないのです。進むべき方向の価値が問われるのです。

 どのような方向に向かって努力をしているかが、私たちにはいつも問われていると思うのです。その方向性は、常に背き続けてしまうものが、背かず進もうとする方向であり、すぐに諦めてしまうようなものが、諦めずに努力する価値を持つ方向性なのです。
 私たちは、パウロのようには走れませんが、彼の見つめた方向を私たちも見上げて、進みたいと願いします。 



「自分の足で立て!」(使徒言行録26章12〜18節)no.101

 
先日、風の谷のナウシカというアニメ映画が、テレビで放映されていました。何度も、見た映画でしたが、何度見ても味わい深い内容です。あの映画には、キリスト教的な贖罪、復活、赦しのテーマがあるとよく言われます。
 今回、見ている中で印象に止まったことは、登場人物のトルメキア軍参謀が、上官クシャナの悲報を聞いた時に、「うだつの上がらぬ平民出に回ってきたのは、幸運か、破滅の罠か、」といった言葉です。
 それは、権力を自らの手中にするチャンスを意味しています。ここでは、二つの破滅と幸運という道が語られますが、実際はどちらも人間の願望の実現という延長線上にある未来なのです。それはつまり、どちらに進もうとも、神に離反した肯定的な人生ではないのです。
 それに対して、キリストの兵卒であったパウロの道は、投獄と裁判の道でしたが、その出発は神の愛なのです。そこに自分の足で立つようにという使命の告知を彼は受けるのです。そこからの出発は、似たようであっても、まったく価値の違う人生が広がっているのです。

 私たちのデイサービス事業も、ある面では同様です。地域に沢山のデイサービス、福祉事業があります。しかし、私たちの出発は、単なる利益や博愛主義の延長線上にあるのではありません。私たちの出発は、私たち一人一人の「贖罪、復活、赦し」の出来事から出発しているのです。この出発点を常に確認しながら、前進しなくてなりません。単なる前のめりの前進ではなく、私たちを引き戻す方への信頼を確認しつつ、未来を形にする努力を続けて行きたいと願います。


「信じがたい真実」 (使徒言行録26章1〜11節)no.100

 
死んでしまったイエス・キリストの復活という、信じがたい事実をパウロは伝えます。しかし、この信じがたいことこそが、パウロの希望であり未来を導く力でした。
  確かに、私たちの周りには信じられないような出来事とが沢山あります。マジックのような、奇跡のような。しかし一番信じられない事は、人間自身なのではないでしょうか。一人ひとりの考えや、あり方は本当に千差万別です。自分が如何に正しいと考え、常識と考えることでも、相対する人はまったく別の考えを持っている場合が多いのです。
  それは、あえて言えば、死者の蘇り以上に不可解であり、ストレスの世界と言えるのではないでしょうか? しかし私たちは、その事実を受け止めなくてはならないのです。
  残念ながら、自分だけが常識であり、自分だけが理性的であり、自分だけが正しい考えを持っているのではなく、私たちには理解不能な世界が沢山あるのです。
  そのような、自分の領域を超えた、信じがたい事実を受け止めること。その自己放棄とも思える心持が、私たちに希望と未来を与えるような気がするのです。
  神が、主イエスを復活させ、人々へ罪の赦しを実現されたこと。この信じられないように出来事は、自分を捨てても信じる価値のある出来事となのです。

「罪状なき告発」    (使徒言行録25章13〜27節)no.99

 
身に覚えのない、告発というのがあります。いやまた、多少は覚えがあったとしても、そこまで言われる筋合いはないということがあります。そのような不当な告発は、当事者に対してストレスを与えることであり、苦しめる出来事ともなります。
 しかしまた、それこそが信仰者の道なのかもしれません。パウロは不当な告発に対して、信仰によって対抗するのです。それはその出来事も、大きな神のご配剤の中にあると受け止める信仰です。その道に立つ時、私たちの生活の景色は、確かに変わってくるはずです。
 今年に入ってから、デイサービスにこられている方々で介護度が真中あたりの方々の再認定が、軒並み引き下げられています。昨年四月の認定方法の改定の、悪い成果が出てきています。このまま推移してしまうと、私たちのデイでは、利用者数は変わらなくても年間200万円近く減収となってしまう可能性さえ出てきました。本当に年始から、がっかりするような介護保険の現状です。
 しかしまた、このような出来事が迫ってくる時、今一度、何のために福祉サービスを教会でやっているのかという問いを突き付けられるような気がします。この働きは、業績が上がる上がらないにかかわらず、神にお仕えするように人様に仕えることを第一目標としているはずなのです。
 そのことを私たちは、苦しい現状だからこそ、追求せねばなりません。罪状なき不当な告発と思われる現状の中でも、信じる者には、キリスト者には、神からの大切な問いとチャレンジとして受け止めることが許されていると思うのです。






「偽りの平和を捨てて!」 (使徒言行録24章1〜9節)no94


 一言に平和といっても、様々な平和があります。例えば、本日の箇所でパウロを訴えるユダヤ人が、ローマの権力に対して「私どもは十分な平和を享受・・・」と言いましたが、この「平和」は権力への妥協によって得た偽りのものです。
 聖書の語る平和とは、キリストにある平和です。このキリストの平和とは、パウロの歩んだ道であり、それはパウロ自身が持っていた特権さえも捨てさせ、苦難の宣教を歩ませる力なのです。

 ユダヤ人たちは、そのパウロを「疫病のような男」と言い表しました。それは酷い愚弄のようでしたが、まさにパウロの伝える福音は、疫病よりも早く確実に広まり続けたのです。そして、それは終焉することなく、数千年を超えて広がり続けたのです。

 先日伺ったYMCAの新年職員礼拝で、YMCAの目指すことは補助金によって事業を安定させるところに留まらず、行政の隙に落ちているところで事業展開を進める必要があるとの趣旨の言葉が、総主事田口さんよりありました。私は、そのことにとても感銘を受けました。安定した事業運営だけを目指すのではない、寧ろその安定を捨ててでも、財政的に厳しくても、人に仕えて行こうという事業姿勢。
 これはまさに、いつわりの平和から、キリストの平和への努力の取り組みだと思わされました。
 私たちの宣教も、単なる居心地のよさではなく、より難しくなろうとも、まことの平和を伝えるものとして前進したいと願わされます



「全てに理由はあります!」 
(使徒言行録23章23〜35節)no93

 神にあっては、全ての出来事に意味があり理由があるはずです。しかし、理由のないこともあります。例えば、突然、箸が折れたとか、塩をまくのを忘れたとか不吉な出来事の前触れとか捉える考え方です。全てに理由があるというのは、そのような占い的なことではなく、人生の方向性に意味があるということです。
 パウロは投獄されて尋問を受けます。しかしその結果として、パウロには訴えられる理由がないことが分かった、という報告がなされるのです。では、本当にパウロには何の理由もなかったのでしょうか。いやパウロには、ユダヤ人に訴えられている理由はないかもしれませんが、神の側にはその意味があったのです。
 つまり、キリストの救いを地の果てまで伝えるという使命がそれです。

 この神が与えられる理由、使命は、私たちには常に明確なものではありません。地図のルートのように、示されてはいないのです。それは、秘められた計画なのです。新約聖書では、日本語の訳の中だけでも「秘められた計画」という言葉が12回も出てきます。パウロは暗い牢獄の中で、自分自身への神の秘められた計画を思い起こしていたことでしょう。
 いやだからこそ、その苦難の投獄生活を生きられたとも言えるのではないでしょうか?。
 私たちにも今年一年間の、神の秘められた計画があります。一年を過ぎて、その一つ一つにアーメンと言える信じる歩みを進めたいと願います。  

「人はパンのみにて生くるにあらず!」
 (ルカによる福音書4章1〜12節)no.92

 ルカによる福音書は4章4節にて「人はパンのみにて生くるにあらず」という旧約聖書の名言をイエス様の言葉として記載します。しかし不思議なことに、この言葉の後半の「・・・なく、神の口から出る、神が語られる一言一言の言葉によって生きるのだ」(申命記8章3節)が、マタイには全文が記されているのに、ルカでは割愛されているのです。
 何故、このような重要な帰結をルカは割愛してしまったのか。それはたぶん、誘惑する悪魔に、現場的に言い放った言葉だからでしょう(後半はイスラエルでは自明のことで、言わなくても分かることとして)。
 つまり、ルカの記載の方が実際の言葉に近く、それに対してマタイの記載は、イエス様の実際の言葉というよりも、解説的な記述といってもいいかもしれません。
 解説なくしても伝わるインパクトある言葉。それが「人はパンのみにて生くるにあらず」です。この言葉の意味をキリスト者でなくても、人は皆、感じているはずです。何故なら、人間の現場を見つめれば一目瞭然だからです。

 デイサービスの現場では、スタッフをはじめ、全ての関係者は、この言葉が本当だと実感として知っているはずです。そして、それは利用者さん自身のこととしてだけではなく、お仕えする側も同様です。人は、人の中にあって初めて人となる。栄養分を注入しているだけでは生きているとは言い難い。それ故に、人が仮に寝たきりの状態であっても、人の間に居ることで生きたものとなるのです。
 人生は、神によって与えられ、神のもとに帰る旅の様なものです。比較的平地をのんびり旅する人もいれば、困難な山奥を必死に進む方もいます。しかしそれが、一人ひとりに相応しいものとして、神より与えられた道であれば、感謝してお受けせねばなりません。そしてそれを生ききることが、神の言葉に生かされるという意味でしょう。
 今年一年の道は、どの様にものでしょうか。私たちが歓迎する、しない、に関わらず神の目からは最高の道が備えられていると信じて、スタートしたいと願います。


「新年の心」新年礼拝2010.1.1

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