「聴く耳のない私たち!」
(使徒言行録28章23節〜30節) 112
恩師の瀬底先生は、「それでは使徒言行録の29章を開けて下さい」というユーモアーのある問いをよくされていました。勿論、使徒言行録には29章はありません。先生は「みなさんが29章をやって行くのです!」と語りました。イエス様の時代から、使徒の時代を超えて、宣教は前進し続けてきました。しかし、最も聖書にも、預言書にも精通しているはずのユダヤ人が、メシアであるイエスを受け入れず、その福音の広がりは異邦人へと向かっていくのです。この出来事を私たちは他人事のようにユダヤ人の無理解として揶揄していては、私たちも同様に聖書の批判する対象でしかないと思うのです。
私たちもまた、福音の解らないものなのです。その無理解なものが、神の恩寵によって救われている。この救いこそが福音であり、それを伝えるのが宣教です。
初代教会は、この福音の言葉による直接的伝道と、その福音の具体的な行いを実践して行きました。行いだけでも、伝達だけでも不十分なのです。その両方をどのように、見える形で教会の宣教として行くかという課題です。この事は、まさに私たちの教会に与えられている課題そのものです。御言葉の伝道と実践をもって地域にお仕えする教会です。私たちに与えられた使徒言行録29章を神の集めて下さったみなさんと、これからも更に力強く進めて行きたいと心から願わされます。
「鎖は希望のために!」
(使徒言行録28章17節〜22節) 111
パウロは、イエス・キリストの宣教のために鎖に繋がれた生活を余儀なくされます。しかしその鎖は、不自由という以上に、希望のための拘束と言ってもよいのではないでしょうか。パウロは、ユダヤ人の中での地位を持ち、ローマ市民権を持っていました。何も、死者の復活を告げ続けて、鎖に繋がれる必要などなかったのです。しかし、罪の奴隷となり、異教の神に怯え、死の恐怖に人生を支配される人間に、信じる者の自由を告げようとするのです。つまりその鎖こそが、隣人の希望となるのです。
私たちは、何か自分の人生を自分自身で選びとれる自由を持っているかのように、勘違いをしています。そのような私たちは、実は自由ではないのかもしれません。自分より大きな偉大な方の存在を見ずに、自分自身の欲と業に人生を支配されている、まことに不自由な存在。しかし信じる者は、まことの自由を持つ者ゆえに、その自由で鎖に繋がれるのです。
フレンドシップあさひは、このGWも全て出勤となりました。しかし私たちが、デイサービスの営業を続けることによって、GW中も部屋の中で一人で過ごさなければならない方が、外出して、一日を一人ではなくみんなで過ごす、少し有意義な自由を得られるとも言えないでしょうか?。またそれと共に、ご家族は一時介護から解放されて、また自由な時間を得て生きると力を蓄える機会ができるとも言えます。つまりひとりの人が自由を捨てることにより、他者が自由を得て行く生き方。その時、それは「鎖」ではなく、自分自身にとっても、隣人にとっても「希望」そのものとなると思うのです。そのような、希望に生かされて、今週の務めに付きたいと願います