カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事へ

御言葉と出来事(2011年)


2011.12.24更新  

ボランティアとして参加して」  No.196

                宮島熱示 伝道師


「奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」(ペトロ第一の手紙4章11節b)

 このたび、伝道師の研修の一環として5日間のデイサービスにボランティアとして参加させていただきました。以前から日本のサービス業の品質は天下一品だと思っていましたし、傍から見たり、聞いたりしていましたが、今回は現場に実際に関わるという特権に与りました。
特に介護スタッフの方々の利用者さんに対する「行き届いた配慮」「丁寧な言葉遣い」「ムダのない身のこなし」などなど見て多くの学ぶものがありました。それに対し、自分は何と大雑把で気の利かない者だということが露呈してしまい、恥ずかしい限りでした。
また、みなさんの厳しいまでのプロ意識と仲間を思いやるチームワークのバランスのあり方にも多く見習うものがありました。
所長の鈴木淳先生をはじめ、ケアマネージャー、調理スタッフそして介護ボランティアさんたちのそれぞれが、イエスさまを愛し、人を愛するということを大切にされている姿を垣間見ることができました。
私のような素人を快く受け入れてくださって、本当にありがとうございました。終始、親切にご指導してくださったスタッフの方々に感謝いたします。
 
私は来年4月にブラジルに帰り、マッタ伝道教会に派遣されることになっております。
「フレンドシップあさひ」で学んだことを、是非、今後の牧会配慮の働きに活用して行きたいと願っています。      



「神の血筋を持つメシヤとして」  
(ルカによる福音書2章1〜7節)No.195


 
この12月は、教会はとても忙しい季節です。それは年末とXマスが同時に来るからです。何も、イエス様の降誕の史実とは違う年末の忙しい時期に、Xマスが必要であるのかと思ったりもします。しかし神の計画は、私たちの都合によって決められるのではなく、神のご意志によって決められることを私たちは覚える必要があるのです。

 そのような意味ではこの聖書個所は、私たちの都合にあうメシアと、神の提示されるメシアとの対決が記されていると思うからです。つまり、ダビデの子孫としてイスラエルを強い国として再建してくれる待望のメシアと、マリアの処女降誕によってダビデの系図から外れた形で生まれる神の血筋を持つメシアとの対峙です。私たちが、この前者のメシア像だけを求めている時、神の僕ではなく、神を私たちの僕としようとしてしまうのです。
 教会に沢山の要求をして来る人がいます。その要求の背後に、人生の様々な困窮から発信される叫びのようなものが聞こえるように思えます。そしてその必要に出来る限り教会は答えようとします。しかし、残念ながら教会の目指す使命を利用して、ただ自分の要求だけを突き付け続ける方も時には来られるのです。そのような時、本当にどうすればいいかと悩みます。この一人の人を神は間違いなく愛されている。
しかしその方の要求に全て答えていることが、本当に愛と呼べるのだろうかという思いです。私たちは神を僕としてはならず、神の僕とならねばならないと思うからです。

 クリスマスにおける、二つの願い。神の願いと人の願い。きっとそれを一つに結ぶのが、イエスキリストご自身と使命であり、生涯であり、十字架なのだと思います。御子の降誕を待ち望みます。



「その憐れみは代々に限りなく」  
(ルカによる福音書1章39〜56節)No.194


 
この個所でエリザベトは、「あなたは女の中で祝福された方です」とイエスの母マリアに語りかけます。しかしルカの11章27節では、イエス様は「むしろ幸いなのは神の言葉を聴き、それを守るものなのです。」と答えられたのです。神の憐れみは無限に続く力を持ちます。しかしそれは、「主を恐れるものに」と対象が記されている事を私たちは謙虚に聞かねばならないのです。では主を恐れる者とはいったい何を意味するのでしょう。それが律法の順守のようなものであるとしたら、イエス様の宣教と逆方向に向かってしまうことでしょう。

 神を恐れるとは、落ち度のない聖人の生活を意味するというよりも、常に神を感じ意識する生活を意味するのです。人との出会い、良い事も悪い事も、神はこのことを通して何を私に伝えようとするのかという意識です。

 例えば、ダイエット中の人が、机の上のチョコレートを見たとします。普段ならパクリと食べてしまうところでも「いやいやまたこれを食べては・・・」と思案するはずです。神を恐れるとは、この「いやいやまてよ」と私たちが立ち止まり考える事を意味するのです。勿論、ダイエットがある人には如何に大切であったとしても、信仰の世界が持つ壮大さと比較することが出来ません。しかし、同様な意味合いとして、その神の壮大な力と愛は、私たちの人生に大きな方向と価値を与えるのです。それ故に、神の憐れみは代々限りないと言えるのです。
この神を感じて今週も歩みたいと願わされます。
 


「正当な裁きを!」  
(イザヤ書11章1〜5節
 ヨハネによる福音書1章1〜13節)No.193


 
私たちの世界は不公正に満ち溢れています。仮に税金や保険料が高額であっても、それが公平であり公正であるものとすれば、私たちは納得できるはずです。しかし、何か不公平な印象を受けてしまう制度の中では、納得がいかないのは当然です。しかし、来るべき救い主は、正当な裁きと、公平な弁護をもって来られると本日のイザヤ書に記されています。そして更には、その正当な裁きは、本来有罪の判決を受けなければならない立場の私たちをキリストの身代わりの故に無罪とされるという正当性を持つのです。

 昨今のニュースでは、放射能によって出荷制限を受けた農家の方が「私たちは何も悪いことをしていないのに!」と訴えられている場面があります。その被害の現状は大変なことと思いますが、本当に何も悪くないと言いきれる人がいるのかという疑問も感じます。もしも、その方がキリスト者ではあるとしたら、決してそのような答えはされないでしょう。ある点に於いては、ミスはないかもしれないのですが、神の前では人として他に多くの罪を犯していることを私たちは信仰によって知っているからです。そして更には、その罪が正当な裁きの故に赦されたということも知っているのです。だから、「罪はない!」と言い張る必要など信じるものにはないのです。私たちは堂々と罪人であることを表明し、またその救いの偉大さを述べ伝えるのです。この救い主を、アドベントとクリスマスに伝えて行きたいと願わされます。 



「喜んで聞ける教え」  
(マルコによる福音書12章35〜37節)No.192


 
営業の基本は「自分の売りたいものを押しつけるのではなく、相手の買いたいものを売ればいいだけ」と言われます。何とか不要なものを売りつけようとするのが私たち経済社会の常ですが、イエス様の言葉は、多くの人が喜んで耳を傾ける言葉であったと記されています。何故なのでしょうか。それは、裁きの恐怖によって規則を守ることを教え説いていたユダヤの指導者たちとは違い、イエス様の教えは、神と隣人に仕えるという目標を得て自由に選択し生きることを求められたのです。言い変えれば、信仰という言葉を利用して権力を握っていた者たちから、神の側に主権をお返しする大政奉還とも言える出来事でした。

 韓国で、自分が乗車しているバスの運転手の首を絞めた男がいて、逮捕されたという記事がありました。運転手の首を絞めたのですから、犯人自身も含めて事故死する寸前であったことが防犯ビデオに録画されていました。このことは何とも可笑しな笑い事のように思えますが、もしかすると私たち人間の姿そのものなのです。

 私たちの人生を導く神を十字架に付け、自らが乗船する地球を放射能や環境破壊によって疲弊させ、結果として自分たちの滅亡を招いてしまうかもしれないのです。私たちは、そのような生き方から今一度、神に立ち帰り、人生の主権を神に返し、その教えを喜びを持って迎えられる生き方へと修正せねばならないと思わされるのです。

 今週よりアドベントを迎えました。世界中の人達が、知ってか知らずでか祝っているこのクリスマの真実を私たちは週毎に覚えて行きたいと願わされます。         


「知恵と心を尽くして」  
(マルコによる福音書12章28〜34節)No.191


 
ユダヤの学者は、「あなたにとって好ましくない事は他人にもしてはならない。これが律法全体であり、他はその解釈である。」と言いました。それに対してイエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」と言われるのです。この二つの回答はとてもよく似ているようですが、大きく違う点があります。つまり「してはならない」という制限や禁止に対して、イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして・・・しなさい」と行動を促すのです。テモテへの手紙ニでは「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」とあります。つまり私たちの信じる信仰は、私たちの内側に賜った神の霊は、裁きによる委縮や制限を語るのではなく、十字架の赦しによる力強い行動を促す霊なのです。勇気を出して信じて、知恵と心を尽くして生きなさいという言葉です。

 私たち人間の行動には、全て理由があります。その理由をキリスト者はイエス・キリストへの信仰によって得ているのです。私たちの行動の原理は、聖書でありイエス様の生き方です。勿論、そうはいっても従いきれるものではなく、寧ろ従いえていない事柄の方が遥かに多いのが現実です。しかしだからといって、行動の原理となる理由が変わる訳ではないのです。
週毎に、このイエス様から発信される理由に押し出されて、小さな隣人へのご奉仕を献げたいと願わされます。     
  


「小さきものに目を留められる神」  
(ルカによる福音書20章45節〜21章6節)No.190

              説教 鈴木手以 伝道師

                
 今日の箇所では、3つの小見出しが付いているが、それらは後からつけられたもの。ルカは、ここの場面を前後のつながりの中で記している。「律法学者への非難」、「貧しいやもめの献金」、それに続く「神殿の崩壊」、これら全体が伝えていること、それは、偽りの見せかけの信心ではなく、真実な信心(信頼)に生きよ、ということである。

 主イエスは、金持ちたちが賽銭箱に献金を投げ入れているなかで、2レプトン銅貨を献げた貧しいやもめが、誰よりもたくさん献げた、と告げられる。金額としては、最少であっても、そこには、彼女の神に対する信頼と全き献身の心があったのである。

 人は目に映ることを見るが、主は、真実な心をご覧になられる(サムエル上16:7)。

 この世における、目に見える貢献ではなく、目立たない奉仕や小さなささげものを、主は喜んで受け取ってくださる。ここには終末的観点がある。この地上的な価値では、あってもなくても変わらないような僅かな額。しかし、それは、主の目には、誰よりもたくさん献げたと受け取られ、天において覚えられるのである。主は言われる「はっきり言っておく。私の弟子だと言う理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)」心を込めて、神にささげたものは、来たるべき終末の世において報われるのである。対照として語られているのは、立派な神殿である。問題は外側ではなく、内側である。外側の物は、朽ちて、なくなっていく。私たちは財産や、外側のものは天国へ持っていくことはできない。裸で生まれ、裸で天に帰る。外側の栄華がはぎ取られた時に、私たちの中に残るものは何だろうか。人々からの栄誉だけを求めて、神からの栄誉を求めていない者は、見事に飾られ建っていても、やがて跡形もなく崩れ去ってしまう神殿のように、滅び去る。しかし、神の子イエス・キリストを信じ、その復活の命に与るものは、失われることのない愛と希望を頂いて生きるのである。私たちは、朽ちる富ではなく、朽ちることのない永遠に残るものを求めるものでありたい。そして、弱い者に心を向け、そこに神の慰めと愛が溢れることを祈って仕えていきたい。
「わたしにできることは小さなこと、でもそれを感謝してできたら、きっと大きなことだ。」(星野富弘) 


「平安あれ」  
(マルコによる福音書4章35〜41節)No.189

    
  (佐々木炎 牧師の説教より)              

 先週は、あさひ伝道所の特別礼拝で佐々木炎先生よりメッセージを頂きました。電気も水もない生活という厳しい幼年期を乗り越え、母親の願った宣教の使命を受け継いだ先生の信仰の生き方に感銘を受けました。また、聖書のメッセージとしては、先生はご自身の大きな失敗を語られる中で、しかしそれはその失敗や挫折を通して、イエス様が私たちを向こう岸へと導かれると言われました。厳しい訓練を通して、イエス様は私たちを新しいしい未来へ導かれると先生は語られました。
確かに、経済的に裕福に生きた人も、学者として知識人として著名であった人も、全てを失っていくよう思える老後では、その人生は不幸へ進んでしまうのです。まことの進むべき道、信じるべき方を知らなくして、まことの人生はありません。私たちはその進むべき道を示される方こそがイエス・キリストご自身だと信じているのです。今週も、この道にとどまり続けたいと願わされます。        
        


「大変な思い違いをしている!」  
(マルコによる福音書12章18〜27節)No.188


 先日、講座の担当者として招いて頂いた東京聖書学院に向かう途中の小平市あたりに、「ふれあい下水道館」という施設がありました。不思議に思い帰宅後調べてみますと、下水道復旧100%を記念して市が建てた記念館とのことです。業務内容は、下水の色や匂いが体験できるとのことです。何でも記念することは結構な話ではありますが、小平市だけで360億円以上の借金がある市政の中で、下水とふれあう施設が本当に必要があるのかと思わされた次第です。

 私たちの周りには一見正しいようですが、明らかに思い違いをしていることが沢山あります。そして、その事は聖書の世界から続き私たち自身に繋がる問題なのです。

 イエス様を陥れようとするサドカイ派の人達は、旧約聖書のレビラト婚の規程を持ち出し、イエス様が言う復活の希望を否定しようとするのです。しかしイエス様は、神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神であると語り、彼らの大変な思い違いを正されるのです。

 私たちの教会の価値観は、世俗の幸福の延長ではないのです。貧しいものが天国では大金持ちになるのではなく、天国では平社員が社長になるのでもないのです。価値感自体が違うのです。それは神ご自身の価値観です。

 しかしそれは、来るべき天国の世界のみで実現されるものとして、今は耐え忍ぶだけでいなさいと聖書が言っている訳ではありません。主の祈りには、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」とあります。天の価値観が、この地上でも成就されるように信じ祈り行動することがキリスト者には求められているのです。勿論、その完成は来る世でしかありえませんが、小さな天国がこの世俗の世界の中でも実現するよう日々の出会いを大切にして行きたいと願わされます。
   


「神のものは神へ」  
(マルコによる福音書12章13〜17節)No.187


 
この個所の重要なテーマは「神のものは神に返しなさい」というイエス様の言葉にあります。主を陥れようと詰め寄る当時の宗教指導者の論戦に対して、イエス様は同じレベルでの議論をせずに、もっとも根本的な信仰の在り方を持って答えられたのです。それ故に、この言葉は、何と味わい深いものでしょう。全ての人が、生活を一旦止めて、立ち止り、自分にとって神に返すべきものは何であるかを問わねばならないと思うのです。

 ある面では、私たちの生活は、神の主権を侵すように自然の営みを支配しようとしてしまっています。その結果が、今回の原発事故に表れてしまったと言っても言い過ぎではないと思うのです。安全や平和よりも利潤が目的となってしまう社会。それは、私たち一人ひとりの内側にある罪の姿を見える形にしてしまったかのようです。ここで、私たちは立ち止り、自己放棄をして、神に世界と人生の主権をお返ししなくてはならないのです。自分の自己欲の象徴とも受け取れるカエザルのものはカエザルに返し、神から授かったものを神にお返ししていくような信仰の精神。しかしそれが具体的な何であるかは、私たち一人ひとりが祈りの中で受け止めていくテーマなのです。日々の営みの中で、イエス様の問いかけを心に止めて生活したいと願わされます。



「人の目には不思議な神の業!」  
(マルコによる福音書12章1〜12節)No.186


 
神の働きは、私たちの人知を超えて不思議な形で現れます。この個所の葡萄園の出来事のように、農園主の殺害された息子が、実はイエス・キリストご自身の生涯と使命を現している事。またその見捨てられた息子のようなイエス様が、神によって建てられた隅の親石となること。つまり救い主として復活するというメッセージです。私たちの周りには、本当に難しい、困難な出来事が繰り返し現れます。しかし、その一つひとつの災難に落ち込んでいては人生は進みません。寧ろその出来事の中に、神の不思議なメッセージが含まれていると捉えなおすことが大切です。

 先日、聖路加病院の日野原先生のドキュメントがテレビで放映されていました。先生は、母親の病気や、担当した患者の死など辛い経験をしながらも、その中から自分自身への神のメッセージ、使命を受け取って行ったとありました。出来事の中に示される、その人しか見出すことの出来ない隠された神の言葉です。

 旧約のダニエル書3章32節に「わたしはいと高き神がわたしになさったしるしと不思議な御業を知らせる。この神のしるしは、いかに偉大であり/不思議な御業は、いかに力あることか。その御国は永遠の御国であり、支配は代々に及ぶ。」とあります。この神の”しるし”を聞きとる心の信仰を今週も大切にして行きたいと願わされます。



「愛の権威でお仕えしたい。」  
(マルコによる福音書11章27〜33節)No.185


 
イエス様の活動されたイスラエルは、強い国家権力に支配された社会のように思われますが、実際は国の指導者である祭司長、律法学者、長老達は、民衆の反応を恐れていたのです。政治への不満が噴出して暴動が起これば、統治能力がないとローマから見られ、権力者の地位を失う事にもなるからです。そのような彼らが「何の権威でこのようなことをするのか」とイエス様に問いかけました。しかしイエス様は、その言葉にまともに答えずに「わたしも答えない」という言葉で決着を付けるのです。このことは、いったい何を意味するのでしょうか? そこには人を動かす行動の目標が、何処にあるのか?という問いがあると思うのです。つまり、イスラエルの権力者の行動の原理は、ローマ支配の権力に服することであり、日和見主義的に自らの利権を守ることでした。

 しかしイエス様の行動の原理は、保身でもなければ、革命的理念でもありません。イエス様の行動の原理は、神と人とにお仕えしていくという愛の権威なのです。そこでは、どう答えるかではなく、愛の原理をもって何を成して行くかが問われるのです。恐れるべきものは神ご自身であり、愛するものは隣人そのものなのです。キリスト者の生き方の原理は、そこにあるのです。

 勿論、何故キリスト教はそのような絶対他者性に生きなくてはならないのかと言われる方もおられる事でしょう。しかしそこにもまた、私たちを動かす原理があります。それにイエス様は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とマタイによる福音書10章の言葉で答えられるのです。価なくただで救われた者は、今週もこの原理をもとに、目標を目指して生活して行きたいと願わされます。
     



恨みを赦して出発しましょう!」  
(マルコによる福音書11章20〜25節)No.184


 この聖書の個所には、二つのメッセージがあります。信じて祈ることと、赦しを持って祈ることです。しかしこの二つは、とても難易度の高いものですが、意味を理解するためには逆に考えると分りやすいと思います。つまり、初めからかなわないと思って祈る祈りとは何なのかということ。また人を赦せない者が、自分は神に赦してくださいと願うことが正当な要求なのかという問いです。その答えは、良識のある人でしたら誰でもノーだと言われることと思います。
私たちの周りには、本当に憤りを感じ腹の立つ事柄が多々あります。そしてその怒りは当事者にとっては正当なものかもしれませんし、それ故に憤りを感じるのです。そして、それが正しい感情の表現だと私たちは思っているのです。しかし聖書はそうは言わないのです。エペソの4章31節では「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」とあります。また、ヤコブ1章20節には「人の怒りは神の義を実現しないからです。」とあります。聖書が私たちに語る価値観は、私たちの考え方を変える事を求めているのです。  

 先日あるテレビCMで、「自分がどう思うかではなく、人が喜んでくれる仕事をする。それがプロです。」という言葉がありました。この言葉を私たちに言い変えれば「自分がどう思うかではなく、聖書が、イエス様が、喜んでくれる事とは何であるかと問い続ける事こそが、クリスチャンです。」と言えるのではないでしょうか。そのような道に進もうと生きる私たちの祈りを 神は必ず聞き上げてくださいます。信じて今週も歩みたいと願わされます。



祈りの家としての教会」  
(マルコによる福音書11章15〜19節)No.183


 この個所は、宮清めと呼ばれる個所です。イエス様は、エルサレムの神殿が神を礼拝する場所ではなく、商売の為の場所になり果てていることに憤りを覚え戦います。その描写は細かく、現実にイエス様の行った行為が、人々の心奥深くに残っていたことを示しています。そこで、イエス様は、神殿は「私の家は、全ての人の祈りの家と呼ばれるべき」と聖書の言葉を引用します。人の地位も、経験も、能力も聖書の前では関係ありません。全ての人は、聖書に書いてある!というだけで御言葉に敬意を持って従わねばならないのです。それは神の言葉そのものだからです。マタイの5章には「あなた方も完全なものになりなさい。」という言葉があります。
ここでは、まあこの程度でいいとか、ぼちぼち行きましょうといった教説ではないのです。完全に!なのです。

 最近、わたしが認識させられるのは、容易に動かない、与えられた、現実の中で、どれだけ高いハードルを信仰に於いて設定し、また目指せるかというテーマです。愛と正義を実現するための抗議を続けることは大切ですが、変わらない現実の中で、与えられた壁を越えていかねばならないことも大切な使命です。その為には、ボーと過ごしていてはやはり不十分なのです。災害に向けて、緊急用品を整えるように、日々の訓練、信仰の鍛錬が必要なのです。その鍛錬とは、キリスト者にとって礼拝を守ること、共に祈ることにほかなりません。今週もそのことを心に止めて歩みたいと願わされます。
 


実りのある働きを信じて」  
(マルコによる福音書11章12〜14節)No.182



 イエス様は、実がなっていないいちじくの木に腹を立て呪いの言葉を言われたという記事が本日の個所です。何か、愛に満ちた寛容なイエス様のイメージとはかけ離れた出来事です。また、この個所に疑念を感じる人は、実がなるには季節外れである、そんなことで怒るイエスはおかしいなどと思うかもしれません。しかしこの個所は、そのようなことを言わんとするのではありません。実の無いいちじくの木を例にして、いつまでも信仰の実を実らすことのないイスラエルをイエス様は叱責しているのです。先週もご紹介した榎本保郎師の語った「損をしない程度の信仰」という言葉にこの事は言い換えられます。それでは、実のある信仰生活とは何んでしょうか?。それは勿論、十戒に代表される聖書の言葉の中にあります。十戒の初めの三条、「わたしのほかに神があってはならない。 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。 」これを大切にすることが第一です。自分自身を神とせず神のみを拝していくこと、そしてその現れとして主日礼拝を極力大切にして行くことです。これは人が語る良い講話ではなく、神ご自身が直接私達に語られる戒めなのです。戒めと言うと、厳しい拘束感をイメージしますが、神の戒めとは本当の自由の宣言なのです。神を求めて生きることは、何ものにも縛られずに生きる「解放」そのものなのです。なかなか従い得ない私達ですが、せめてその方向性を目指して今週も歩みたいと願います。


イエス様を乗せる子ロバとして」  
(マルコによる福音書11章1〜11節)No.181


 旧約のゼカリヤ書の預言に沿って、イエス様は子ロバに乗って救い主としてエルサレムに入場されました。人々は、その出来事を歓喜を上げて迎えます。しかしそれは、王としての登場というよりも、これからイエス様を待ち構えている十字架への受難の道でもありました。

 この出来事を読むたびに、亡くなった榎本保郎牧師の「ちいろば」という言葉を思い出します。榎本先生は、自分自身をイエス様をお乗せする子ロバに例えました。無力なものだが「主の用なりと言われたら、ぐずやけど、イエスさまを乗せてどこへでも行こう」と決心されたと言うのです。また時には厳しく「損をしない程度の信仰」ではいけないと戒められました。

 ガンディーの語った七つの社会的罪というのもがあります。その七番目は「犠牲なき信仰」です。なんとか苦難を避けて損をしないように、それでも信仰者として留まりたいとう人間の姿をこの言葉は表します。そしてこの事は、程度の差はありますが、キリスト者となったもの全てが抱える罪の姿です。しかしだからこそ、少しでも自分自身の都合を優先させるのではなくキリストのご用を優先させる日常生活でなければならないと思うのです。榎本牧師は、天へ帰る日まで人生の全てを捧げてキリストに仕えました。私達は到底真似はできませんが、先生の目指した志、イエス様が神様に捧げた受難の日々。それを心にとめて、出来る奉仕を捧げて行きたいと願わされます。      



信仰があなたを救います。」  
(マルコによる福音書10章46〜52節)No.180


 世界陸上の大会を見ていますと、その選手たちの背後でどれ程の努力がなされて来たことかと思わされます。何事にも努力することの大切さがありますが、それ以上に素晴らしいものがあるというのが本日の聖書のメッセージです。

 この個所で、目の不自由だったバルティマイが大声で周りの制止も顧みず、必死でイエス様に食い下がります。そしてイエス様は、その彼に対して、あなたの努力がと評価はせずに、あなたの信仰があなたを救ったと語られました。
人には大切な三つの能力があると言われます。一つは、もともと備わった才能です。運動でも、勉強でも、考え方でも訓練を受けずとも与えられた天性のようなもの。また、もう一方では努力して勝取る力です。特出した才能はなくとも、地道な努力によって積み重ねられる煉られた力です。そしてもう一つが、見えないものを信じて行く心です。聖書は、この三番目を最重要課題として人に語られるのです。

 自分を動かしはているもの。そして自分の進むべき道を示してくれるもの。見えなくとも信頼して行く対象。ヘブライ人への手紙11章3節には「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。そのことを伝えて行くのが教会の使命です。
今週も、この使命に立って教会は進んでいきたいと願わされます。



「仕えるために神の子は来ました!」  
(マルコによる福音書10章35〜45節)No.179


 イエス様の直弟子、トップスリーの内の二名であるヤコブとヨハネが、自分たちを来るべき時には、高い地位に付けて欲しいとイエス様に願いでます。何とも愚かな姿のように見えますが、私たちも同じ場面に立たされれば、同様の態度を取っていたのではと謙虚に考える必要があります。またそうでないと、聖書の語る私達への本当のメッセージを受ける取る事は出来ないのです。弟子達の姿を通して、イエス様は私達に、そうではなく「仕えるものになりなさい」と言われます。その先頭に立って、見本を示されたのがイエス様ご自身です。

 以前、瀬底正義先生がよく語っていた言葉に「趣味は好きなことをする、仕事は出来ることをする、奉仕は出来ない事をするのです」と言われていました。奉仕は出来ない事をするとは、人には出来なくても神には出来ない事はない、という信仰に基づいた志の大切さを語っていたと思うのです。人間という者は仕えてもらいたい者で、仕える側になりたくないのが根本だと思うのです。しかし、それを信仰によって乗り越え、イエス様のように仕えるものに成りなさいと聖書は語ります。その訓練や過程は、とても厳しい精神的な戦いとも言えます。しかし、神は、信仰によって実の神の子とされた私達をとことん訓練されるのです。

 その訓練は、この世の生涯に及ぶことを心に止めたいと思うのです。しかしそれは苦しいだけの訓練の日々ではないのです。スポーツの後の爽やかさのように、私達の人生はその信仰の訓練によって、より充実した喜びのある生き生きとしたものになるのです。運動は苦しくなってからが、本当の鍛錬です。楽な運動だけでは、結果としての成果も喜びも得られません。今週も、訓練を歓迎し、聖書に従って生きる喜びのある人生を進みたいと願わされます。



「虹と十字架、空の墓」  
(創世記 9章12〜16節)No.178


           
説教 古畑和彦 中会主事

 
神は、大洪水の後でノアを通して人類と「二度と洪水によって滅ぼさない」という契約をたてました。この契約のしるしが虹でした。人は虹を見るたびに、「生きていてもいいのだ」という希望を神から与えられました。
ところが、人は次第に「神は滅ぼさない。それなら好き勝手に生きよう」という生き方を選んでいきました。そのため罪が蔓延し、神が滅ぼさなくても、人類のほうが自滅してしまう状況になってしまいました。ノアの契約は台無しになり、虹は「黒い虹」になってしまったのです。

 神は、実に驚くばかりの方法でこの契約を元通りにしてくださいました。御自身の独り子であるイエス・キリストをこの世界にお送りくださり、全人類の罪の代わりに十字架につけたのです。そのことによって、もう滅ぼさないという救いの契約が再び有効になったのです。さらに、神は、キリストの復活によって永遠の命の希望を与えて下さいました。ですから、私たちは何があっても生きることをあきらめてはならないのです。
ノアが虹を見て生きる希望を与えられたように、私たちも、十字架と復活によって生きる希望を与えられました。ですから、私たちは、自分だけでなく、共に生きる人々にもこの生きる希望を伝えていくのです。十字架の愛と復活の希望を伝えていくのです。           


「先頭に立って進む方」
(マルコによる福音書10章32〜34節)No.177


 
デイサービスのレクリエーションで簡単な手品を行うことがありますが、その面白さは種がわからないところにあります。それ故に、仕掛けを教えてくださいと言われてもそう教える訳には行きません。それと似たように、私たちの人生も先が分からないからこそ面白いとも言えます。これから先の全てが見えてしまっているとしたら、何とつまらない事でしょうか。

 しかし、先が見えないからこそ面白いというのと、行く方向が分からないというのは大きく違います。介護事業を通して、一般の人たちと仕事をし、話しをする機会が沢山ある中で、人生の晩年になっても、なかなか人生の方向が持てず迷走されている人が多いのを感じます。そしてそのような時、自分はクリスチャンでよかったとしみじみと感じさせられるのです。どんなに能力があっても、経済力があっても、先の見えない人生を歩むことは何と大変なことでしょうか。人生の主を見つけることほど、生きている中で価値のあることはないと思うのです。

 本日の聖書の個所に記されるイエス様の姿は、まさに私たちの従うべきお方を示しています。受難の待ち受けるエルサレムに、先頭をきって進まれるイエス様。しかしそれは捨て身の猛進とは違います。神が、死しても三日目に復活の奇跡を起こされるという目標に向かった前進なのです。そしてその目標は、イエス様自身の命の回復という以上に、その出来事を通した全人類的な罪の赦しの救済にあるのです。だからこそ、この方について行きたいのです。ヨハネ福音書14章で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とイエス様は言われました。まさに、この方の内に人生の道があることが示されています。
主に信頼して歩みたいと願わされます。 



「永遠の命を受け継ぐ方法」
(マルコによる福音書10章17〜31節)No.176


 この個所で「永遠の命を得るにはどうすればよいのですか?」というユダヤの金持ちの青年に、イエス様が「人の努力では全てを捨てなければ入ることが出来ないが、神には出来る」と答えられるのです。しかし、その言葉を聞いたペテロは「私は全てを捨てて従って来たぞ!」と言い放つのです。全てをかなぐり捨てて必死にイエス様に従ってきたペテロとしては、自分とはまったく違う社会的地位を持ち経済的優位に立つ青年が、何も捨てずに天国へ入れるなど到底許せなかったのかもしれません。その気持ちは当然のことですが、しかし、それがなんと!人知を遥かに超えた十字架の赦しの重みなのです。人の目から見ては不公正に思えるような、天からの一方的な神のご恩寵。しかしこの恵み無くして、私達が永遠の命を得ることは、らくだが針の穴を通るよりも難しいのです。

 サッカーのメッシ選手のインタビューで忘れられない言葉は「犠牲が必要です」という言葉でした。世界のトップレベルのプレーヤーになるには、犠牲が必要だということ。私は、そのテレビを見ていて、メッシ選手は何を思い浮かべながらその言葉を語ったのかと考えました。そして私自身は何を犠牲として神に捧げて来たのかと。自由にのびのびと、好きなように、良い成果を上げる方法などありません。そこには苦しみと痛みが必ずあるのです。そしてそれを必死にやり抜ける程、ペテロのような呟きも出て来てしまうのが人の業です。

 しかしだからこそ、自分の命の為ではなく、神と隣人に、救われた者として21節後半にある言葉のように「天に宝を積む」のです。その積む働きこそが、必ずや今日の明日の私達の人生をよいものにしてくれるはずです。



「子どものように神の国を求める!」
(マルコによる福音書10章13〜16節)No.175


 
以前、お仕えしていた教会の幼児園や教会学校で、子ども達に質問するチャンスがよくありました。聖書の質問をすると「ハーイ」という声と共に沢山の子が手を上げるのです。しかしそれは、明確に答えがわかっているからという訳ではありません。何となく勢いよく?という感じです。そしてその答えの多くは、質問内容が何であれ「イエス様」「神様」と答えるのです。また、教会学校の先生は、そのような子ども達に対して「そうだね!」といって誉めるのです。このようなやり取りの中に、幼子のように神の国を求めるという姿があると思うのです。事柄や自体が正確に理解出来ていなくても、神の方向を求めて行く時、その結果は必ず良い道が与えられると信じる心。それが信仰の原点だと思うのです。

 大人になるにつれて、私達の心には茨がたくさん伸びて来て、純粋に神を求める心に覆いかぶさってしまうのです。神は変わらず不変であるし、神を求めたい心に変わりはないのに、色々な疑念が沸いて来てしまう。それは聖書学的なことだけではなく、個人の内側の傲慢や欲望が覆いかぶさるのです。しかし信仰とは、そこを突き抜けて行く力なのです。冷静な判断力でなく、霊性の判断力を持って見えない世界を伺い見る心です。

先日、介護関係の会社を起業した数人の方と話し合う機会がありました。その働きはとても立派なものでしたが、その企業精神は私がサラリーマンを辞める時に、既に会社に捨て置いて来たものでした。それを未だに求めている様相は、正直がっかりさせられました。単に、社会で成功し、お金が儲かればよい、たまたま介護をやっているだけで、他に儲けのチャンスがあれば直ぐにでも移ってしまうような姿勢。私はその方々の話しを伺う中で、自分は既にその世界から卒業して来たのだと実感させられたのです。そして更には、今は信仰によって与えられた新しい世界に生かされ、またその素晴らしさと価値を今一度噛みしめる出来事ともなったのです。
是非、みなさんと、幼子のように神を求める心で進んで行きたいと願わされます。



「頑固な心を柔らかく!」
(マルコによる福音書10章1〜12節)No.174


 
この個所では、モーセは離婚を認めたが、それは本来ではなく、人々の心が頑なだから妥協したに過ぎないとの主旨が語られます。神は、人の頑固な心にも配慮される方であることを覚えると共に、イエス様の言われるようにそれでよい訳でもありません。あるサッカー選手のインタビューで、ボールをトラップする良い方法は、受け取る瞬間に体の力を抜くことであると語っていました。体を固くしていると、どんな良いパスも跳ね返してしまうのです。私達は、体ならぬ心を柔軟にして、神から送られてくる言葉を受け止めたいと思うのです。

 数週間前に、ケアマネージャーの研修会でカウンセリングの方法論について話しをさせて頂きました。その場所で何回も、相手の心を反射するような受け答えの方法を伝えましたが、講義が最後になっても旨く応えることが出来ない方が多数でした。それは方法を理解出来ていないというのではなく、結構それが難しい応答であることを意味しているのです。理論を習っても、何度練習しても、その場になると相手の心を旨く受け止めることが出来ない。しかし、それは決してやる気がないのではなく、練習が足りないだけなのです。人の心を受け止めるのは本当に難しいし、況してや神の御心を受け取るというのは何とも難しそうなことです。しかしそれは、繰り返し、繰り返し練習していくことが大切なのです。そのことは私達の信仰に例えれば、礼拝を毎週守り続けることで、神の言葉を受けとめられるようになって行くとも言えるのです。
今週も少し力を抜いて、神の御心を伺い知りたいと願います。


「塩味の付いた人生を!」
(ヨハネによる福音書7章42〜50節)No.173


 
この聖書個所は、とても厳しい個所です。私は入信したころこの42節を読んで、自分が海の底に沈められて行くような恐怖を感じました。それと並ぶようにして、罪を犯す手足や目を切り落しえぐり出せと言う言葉も鬼気迫る裁きを感じさせられます。勿論、キリスト者はその裁きをキリストの故に免除されているのですが、その厳しさを忘れてはならないのです。そのことを忘れないことこそが、裁きの火で塩味を付けられた生き方になると言うのです。また逆に、救いの中で安穏に過ごしてしまうことは、塩味を失った塩になってしまうこと、つまり役立たずのクリスチャンになってしまうと言うのです。確かに、神の裁きによって味付けされた信仰の歩みというのは一言で答えの出るようなものではありません。また、何か大きな他者が賞賛するような良い業を行うというのでもありません。自分の出来ることを自分の賜物で天へお返しする日々の積み重ねです。

 先週から、デイサービス利用の促しをする為に自宅へ伺っている方がおられます。最初に訪問した時は、何しに来た!という感じでした。しかし回数を重ねると、少しずつ笑顔が見えて来たのです。後、何回か伺えばもしかするとデイサービスに来てくれるかもしれません。そのお誘いには、お金でも効率でもない、ある種の神様にある使命感を感じます。出てこられなくても、無駄足でも、効率が悪くとも、その人にお仕えすること。それが厳しい罪の裁きを赦された者として、ガリラヤの地で進まれたイエス様のずっと後ろの方を付いていく歩みなのです。
今週もその様な歩みになればと願わされます。


「心の充電」
(ヨハネによる福音書7章37〜39節)No.172


               奨励 平尚紀神学生

 今は、「命を考える時」、「本当に何が大切なのかを考える時」にあると思います。
より便利に、より早く、より快適に。いつしか、それらはマヒし、必要以上の快適さ、便利さを求める「暴走」へとつながっていったのではないでしょうか。そして、根底から覆される経験をしました。3月11日の地震と津波、そして原子力発電の事故。わたしたちは、今、何を考えるべきなのでしょうか。そして今、わたしたちは何をするべきなのでしょか。

 私には、2人の娘がいます。神様から預かっている、大切な子どもです。子どもたちをよく観察していると、時々、面白い行動をしていることがわかります。ある日、娘がソファーの上に飛び込みじっとしていました。しばらくすると、立ち上がり、また自由に遊びまわっています。また、ある日、娘が一人でしくしくと泣いていました。そんな時は、しっかりと話しを聞いてあげます。どんどん涙がエスカレートしますが、最後には、笑って楽しい話しで終わります。涙をとことん出した娘は、すっきりと元の明るい子どもに戻っています。これら娘たちの行動を、わたしたち夫婦は「充電」と呼んでいました。
 
 ドラマや映画を見るのが好きな女性がいます。泣くとわかっているのに、泣くために見るのです。泣くのがわかっていながらも、お金を払ってでも泣きたいのです。なぜでしょうか?子どもと同じ、「充電すること」なのではないでしょうか?大人になると、あまり感情を出さなくなります。自分を押し殺し次々に心に鎧を着ていくのです。鎧を重ねた結果、わたしたちは「無関心」になってしまいます。そして3月11日の地震・津波・原発事故、私たちは無関心ではいられなくなったのです。

 わたしは、幼稚園をきっかけに、教会に通いました。ボーイスカウトという奉仕のために教会に行っていたのかもしれません。そして、その奉仕の中で、いつの間にか、疲れ、渇いていったのです。それはなぜでしょうか?いつの間にか、神様への感謝であるべき奉仕が、自分のための奉仕になっていたのです。神様の近くにいるのに、心がつながっていなかったのです。そのことに気付かされてから、毎日祈り、神様の御心を尋ねるようになったのです。そして、初めて、自分の心が空っぽだったことに気が付かされたのです。それからわたしは、神様から「心の充電をしている」と感じるようになったのです。心が満たされていくのです。子どもが、大人の愛情を受けて育つのと同じように、わたしたちも静まって、神に立ち返り、神様に心を向けた時、心を充電することができるのではないでしょうか。

 今こそ、わたしたちは、自分自身を見つめ、神に立ち返り、隣人を愛する時なのではないでしょうか?人は心が満たされているとき、隣人を愛することができるのです。無関心でなくなるのです。そして次々に愛があふれていくのです。


「必ず良い報いがくる!」
(マルコによる福音書9章38〜41節)No.171


 教会の前で花や野菜の手入れをしていると、通りかかる人とお話しをする機会がよくあります。よく生っていますね、綺麗ですね、と声をかけて頂きます。この教会は通りに面していて目立つ場所ではありますが、通りかかる人達はそこで語られる内容よりも、そこで何をしているかということに関心があることがわかるのです。福音の内容よりも、そこから発生した働きによって出来たトマトが何個生っているか、デイサービスとは何をするところなのか?という関心です。

 そのような意味では、本日の聖書個所はその働きの部分に注目がなされています。イエス様の弟子達は、イエスの名を使って奇跡行為を行う者達に対して、それを止めさせようとしました。それは、自分達こそがイエスの弟子であるという特権意識であり、人が癒されるという喜びよりも、その意識が勝ってしまっていたことを露呈しています。その弟子達の勘違いした理解は、イエス様の復活後までも続いてしまいます。その弟子達に、イエス様は現実を見なさいと言われるのです。何が大切であるかを見極めなさいと言われるのです。

 ある時、神から使わされた方はあなたですか?と、尋ねてきたパプテスマのヨハネの弟子に対して、イエス様は「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」と言われました。つまり、その事実こそが真実を語っているのだということです。
 そのような業を私たちも小さな石を積み重ねるように続けて行くことが信仰の応答です。その小さな働きは一見無駄のように見えてしまうこともありますが、神は、イエスの弟子に一杯の水が差し出されたことをお忘れにならないように、私達のキリストに押し出されて行う小さな行為も決して忘れられないのです。無駄にならないからこそ、私達は諦めずにその働きにお仕えして行きたいと願わされます。  



「いちばん偉い者はだれか?」
(マルコによる福音書9章33〜37節)No.170


 
イエス様は、弟子達の内で誰が一番偉いかと議論しているのを見て「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と厳しく叱責します。それはまさにイエス様自身の姿でした。いちばん偉くなるためには、第一にその責任を果たさねばなりません。つまり、受難と十字架の死を享受したものだけが、その地位も得るのです。しかし人は、責任は置いて、地位ばかりを欲し主張してしまうものなのです。

 またこの戒めは、単なるヒューマニズムや道徳規準を示しているのではないことに注意しなくてはなりません。つまり、37節にあるように「わたしの名のために・・・」、キリストの故にという事なのです。世の中には、本当に誠実で優れた方々が多数おられます。しかし私達は、キリスト教的なアプローチをもって他者にお仕えして行くのです。信仰という大前提のもと、あれもこれもして見ようという事です。キリストが招いて、キリストが引き寄せ、キリストがチャレンジを要請する出来事。それに真摯にお仕えするものこそが、本当の偉いものという逆転の発想のもとにです。

 イエス様が、子どもの様に我儘で弱い私達を受け入れ、救いに招いて下さったように、私たちもまた主に習うものでありたいと思うのです。



「みんな救われます!」
(使徒言行録2章14〜21節)No.169


 
ペテロは聖霊に押し出されるように、声を張り上げて話し始めました。「知って頂きたいことがある」と。その言葉からしても、本当にペテロの必死の思いが感じさせられます。神は言われる、終わりの時、神の霊が注がれ、息子娘は預言をし、若者は幻を見、老人は夢を見ると。暗闇のような時代に、人は将来の、未来の出来事を見て行くという事なのです。そしてそれは、若者だけではなく、老人になっても希望の未来があることを示しています。ではその幻や未来とは何でしょうか?。それは21節にあるように、信じる者は全て救われるというメッセージに集約されるのです。救われ得ない罪人が、救われるという秘儀。これこそが、夢であり幻なのです。

 しかしその上で、この幻と訳されるビジョンは、大きいものと小さいものがあると思うのです。つまり、皆救われるという最終目標が大きなビジョンです。そして、そこへ到達する以前の経過の中で、小さなビジョンが沢山なくてはならないのです。それは、人生の歩みであったり、教会の宣教であったりと様々です。大きな救いのビジョンがあるからこそ、小さなビジョンの一つひとつを自由に生き生きと描いていくことが私達には許されるのです。

 ビジョンと言えば、私の恩師の瀬底正義先生です。叩かれても、叩かれても、めげずに幻を描き続ける姿勢。それは今でも、昨日のことのように思い起こします。

 少し前に起こった北海道の列車事故で、それを経験した人が立ち込める煙と暗闇の中でもう駄目かと思ったが、こっちだ、もう少しだ」という声が聞こえて勇気付けられ助かったと語っていました。私達はどんなに絶望的な暗闇でも、進む方向を示してくれる声が聞こえれば進むことが出来るのです。それが私達のビジョンであり、神の言葉そのものだと思うのです。今週も、この言葉に導かれて、小さなビジョンを一つひとつ実現して行きたいと願わされます。



「怖くても尋ねて下さい!」
(マルコによる福音書9章30〜32節)No.168


 イエス様が弟子達に、ご自身の死と復活の話しをしますが、理解できなかったと記されています。そしてまた、怖くてそのことについて尋ねられなかったともあります。本来ならば、イエス様は死だけではなく希望の復活を語っているのですから、そんなに恐れる必要はないのです。しかし弟子達は、直近に迫る受難の恐怖に震えて、一番大切な言葉を聞くことが出来なかったのでしょう。

 確かに、危機迫る恐怖や、様々な疑問は、私たちを信仰から遠ざけてしまいます。しかし、それでも、尚、私たちが信じられているのは正に聖霊の働きそのものだと思うのです。未だに疑問は解決しなくとも、不安や恐れはあっても、主を尋ねて行く、その時信じる道は神の霊によって必ず与えられるのです。

 私たちは何とか自分の人生をよいものに、充実した生活をと願っています。そして色々のものを購入したり、関わったりして、人生を満たしたいと願うのです。しかしそれは、譬えると原子力発電所の中に溜まっている放射能汚染水のようなものです。汚染水をあっちこっちに移しても、直ぐにタンクは一杯になってしまい、次から次へと、新しい場所を用意しなくてはなりません。同じように、私たちは心の内側にある汚染水は様々な所に流れ出すのです。品物であったり、力であったりと、しかしそれではきりがありません。私たちは、自己実現的な幸福感から、神に支えられているという幸福感へと信じる心によって切り替えて行かねばならないです。怖くても不安でも、その道を尋ねて行くのが信仰の道だと思わされます。



「信仰のない時代に生きること!」
(マルコによる福音書9章14〜29節)No.167


 先日、テレビドラマの金八先生作製に関する番組が放映されていました。その中で、30年間このドラマはいい意味でのマンネリ化で進めて来た、との主旨が紹介されていました。そしてそれは、金八先生が教壇を30年たっても降りることを許さない解決されない社会問題があることを伝えていたのです。

そのような意味では、正に聖書も、2000年間イエス様が山上から降りることを許さない人間の混沌とした現実があるのです。イエス様はこの個所で、「なんと信仰のない時代なのか」と憤りを現されます。何度奇跡に出会っても、何度神の言葉を聞いても、また同じように迷い続ける人の姿は私たちそのものです。そのような私たちを、あの三重苦を乗り越えて社会活動を続けたヘレン・ケラーは「霊的に盲聾である世界」と呼びました。

 私たちは先を見据えて、今どうあるべきかを問わねばならないと思うのです。介護の仕事に携わっていると、個人の社会的成功や業績がその人の老後の幸福と決してリンクしていないことをひしひしと感じさせられます。あまりにも、私たちの社会は成果主義、働き中心になり過ぎてしまっているのです。その結果、その働きを老年や病気や怪我によって奪われた時、人は個人の価値を失ってしまうことになるのです。しかしそれでは、何のため生きて来たのかわかりません。
 私たちは、信仰のない時代から、信仰のある生き方へと自分を切り替えていく必要があると思うのです。ヘレン・ケラーは更に「1つの扉が閉まれば、別の扉が開きます。しかし、私たちは閉まった扉のことを残念そうに振り返るあまり、開いた扉に気づかないことがよくあります。世界で最も素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです。」と語りました。それを感じる心を彼女は信仰によって見出しました。私たちも信仰の目を持って、今一度、今日を明日を隣人を自分を見つめて行きたいと願わされます。


「三つの仮小屋を建てて」
(マルコによる福音書9章2〜13節)No.166


 
ペテロは山の上で、イエス様の姿が輝くように変り、エリヤやモーセと語り合っている状況に出会い、三つの仮小屋を建てましょうと言います。これは彼が錯乱して口走ってしまったのも確かですが、自分もその権威あるメンバーの仲間に入りたいと言う思いもあったことでしょう。しかし信仰は、ある権威に留まろうとすることではなく、7節にあるようにイエス様の言葉を聞くことなのです。その信じる者にこそ、神の子となる資格を与えられると聖書は記します。

 モーセは荒野の40年の試練を超えて、エリヤは預言者としての受難を通して、イエス様は十字架の受難を通して天に迎えられるのです。しかし私たちは、そのような受難なくして天に迎えられる権利を、信じることによって与えられているのです。だからそこ、イエス様に、聖書に、聞き続けていくことが重要なのです。

 先日の神学社会委員会の講演で、写真家の講演者が「写真やニュースと現場の違いは臭いです」と言われていたのが印象的です。それと同じ事として、聖書の場面はどんなに厳しくても、イエス様の生きた現場の臭いを嗅ぐ事は私たちには出来ません。しかし、イエス様自身の言葉には確かに現場の臭いが染み付いているのです。それこそが生きた言葉です。そして、この言葉を聞くことによって、私たちが実際には聖書の現場の臭いを嗅ぐことは出来なくても、感じることはできるのです。それを感じ、受けとめ、時代は違っても、そこに生きる時、私たちもまたイエス様に連なるものとなるのだと思わされます。


「自分を捨てて頑張りましょう!」
(マルコによる福音書8章31節〜9章1節)No.165


 
イエス様は、「自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われました。この言葉からの印象は、自我を捨てて必死に行為していくようなイメージを感じます。しかし、この言葉に先行するものとして、第一に神への、キリストへの信仰がなくてはなりません。自己努力に基づく行為の力によって成そうとしている限りは、ペテロと同様の姿となってしまいます。ペテロがイエス様を諌めたのは、イエス様を心配してというよりも、主の十字架への道を認めることは、自分自身も弟子としてその道を行かねばならなくなってしまうという不安からの言葉とも言えるからです。

 行為の強さだけが要求される時、私たちは従いきれず福音を否定するしかなくなってしまうのです。しかし、信仰が優先する時、今は出来なくとも神がその必要に応じて、答える力を与えてくれると受け止められるのです。それが信じて従うということなのでしょう。

 私の神学校時代の同窓には、本当に様々な生徒がいたことを思わされます。ビジネスマンで家のローン抱えながら牧師を目指し、卒業と同時に家を売却して宣教に付くプランを立てていた人。毎日一企業で仕事をしながら、土日は牧師として教会に仕えている教職。自分にはあんなこと大変で出来ないと当時は思っていました。しかしまた気が付いてみると、今は自分も神様に大変なことを”やらされて”しまっているのです。人生は自分で選んでいるようでありながら、神がお決めになった道の上を歩んでいる事を振りかえると思わされます。

 そのような意味では、これからの道も、自分自身は迷っているようでも、神は真っすぐに導かれるのです。信仰の道は、茨の道であると共に、またそれを上からのものと受け止められた時に喜びの道となると思うのです。信じる心で、今週も進みたいと願います。

 

「自分の言葉で告白すること!」
(マルコによる福音書8章27〜30節)No.164


 
イエス様は「それでは、あなたはわたしを何者だと言うのか」と弟子達に問われます。ペテロは「あなたはメシアです!」と直ぐに答えたことが記録されています。そして、信仰者の私たちもまた同様の告白をするものですが、尚、このメシアとは誰のことなのでしょうか?。

 今回の原発事故で、電力供給が云々といった話がよくニュースに流れます。浜岡原発を停止したら、それによる経済活動がどうのこうのと。もしも私たちのメシア像が、自分の国をより強くするためのものであったり、パチンコ屋さんを何件増やしても大丈夫なぐらい電力供給を叶えてくれるメシアであるとしたら、イエス様の問いに答えているとは言えません。

 私たちのメシアは、この個所の31節以降に続くように受難と復活のメシアなのです。それは私たちの世俗的な願いを叶える対象というよりも、私たちの魂を救うお方であり、未来への正しい道を示し、導くお方なのです。
夏目漱石が則天去私(そくてんきょし)という言葉を語りました。これは「小さな私を去って、自然に委ねて生きること。」という宗教的な悟りを意味する言葉だと言われます。聖書に親しんだ漱石が、イエス様の言葉からヒントを得たのかもしれません。つまり彼の言葉を借りれば、私たちのメシア像は、「罪人の小さな私を去って、神に自らを委ねていること」。その委ねられる信頼の対象こそが、メシアと呼ばれるイエス・キリストなのではないでしょうか?。
私たちを惑わすものが溢れるこの世で、今一度このメシアを見上げて行きたいと願います。              



「何でもはっきり見えるように」
(マルコによる福音書8章22〜26節)No.163


 
イエス様は多くの病人の癒しを行います。しかしその癒しは、病の患部の治癒だけではなく、その人の心の癒しだと思うのです。この目の見えない人の癒しにおいては、「何でもはっきり見えるようになった」とあります。これはイエス様との出会いにて、肉体の目だけではなく、心の目が見えるようになるということを意味しているのです。

 私たちは目が見えているのに、見ることが出来ていない。神から大切なものが提示されているのに、無視してしまう。本当に大切なものではなく、無駄なものばかりに視力が奪われてしまう。
 キリストとの出会いは、そこから少しでも見えるようになる事だと思うのです。自分自身を神の側から見つめ直すこと。それが神の言葉である聖書を読むということなのだと思うのです。

  最近のスポーツ選手を見ていると、現役を引退するタイミングの難しさを感じさせられます。まだ出来るのではという思いと、もう引退してはどうかという思いです。それはスポーツ選手に限らず、私たちも同様の思いをすると思うのです。信仰を持っていても同じように人生の岐路で迷うことでしょう。しかし一つ言えることは、人生の最後は神がお決めになるということです。人生の着地点が、人の努力や失敗に係わらずに、神が一番相応しい時を定めて下さるのです。その信頼 といいますか、安心のもとで、私たちは今日を明日を生かされて行くと思うのです。つまり、確かに人生のゴールを信仰によって、私たちははっきりと見ているのです。だからこそ、様々な出来事はあっても、キリストにある平和があるのではないでしょうか。
神のゴールを信じて、今日を生きたいと願います。


「三日目の復活!」
(ルカによる福音書24章1〜12節)No.162


 
このイエス様の復活に係わる記事で、注目される言葉は「三日目に復活することになっている」という言葉です。十字架の上で死なれたイエスは、その日でも翌日でもない、三日目の復活なのです。定められた期間を過ぎなければ、弟子達はイエス様と再会することは許されなかったのです。待って、待って、そして神の栄光を見るのです。

 しかしその待つ時間を絶望感と共に私たちもただ耐えているという訳ではないのです。私たちはその期間に自分自身を整理して行くよう促されるのです。例えば、私たちが大切な物を無くしてしまった時、何とかそれを探し出そうと部屋の隅から捜索していきます。一生懸命捜して行くとその物が見つかった時には、意外とその場所が片付いていることに私たちは気付かされます。それは物を探し出すために、その周辺を整理し片づけをして行くからです。そのように、私たちは大切なものとの再会をするために待つ期間は、自分自身を整理し整える期間とも言えるのではないでしょうか。だからこそ、待つことが大切な時間なのだと思うのです。

 また三日目の復活は、逆に言えば10年後でもないのです。私たちは延々と苦難の日々を苦しみ続けねばならない訳ではないのです。それは事柄によって期間は違うかもしれませんが、必ず定められた時を超えた時に、私たちは前もって与えられた希望の中に入れられるからです。 
その様な、光を感じさせられるのがイースターのメッセージの一つとも言えると思うのです。是非、耐えるだけでなく、自分を整理しなおす期間として、与えられた時を大切に過ごしたいと願います。



「何が見たいのか!」
(マルコによる福音書8章14〜21節)No.161


 
この聖書個所では、パンを持ってくるのを忘れた弟子達は、そのことをイエス様に責められていると勘違いしてしまいます。しかしイエス様は、先の四千人への給食の奇跡を忘れたのか?とちょっと呆れた様子で弟子達を諭します。そしてこの記事を読む私たちにも、弟子達の反応は滑稽にさえ見えます。しかし、この姿が私たち自身の信仰の姿であることを聖書は伝えようとしているのではないでしょうか。見えるようになりたいのに、目があっても見えない私たち。聞きたいのに、耳があっても聞こえない私たち。イエス様は本当に忍耐に忍耐を重ねて弟子達を訓練したのだと思わされます。

 そして、私たちに対しても同様以上に忍耐して待ち望む、神の姿を思い浮かべる時に、私たちもまた忍耐に忍耐を重ねて行かねばならないのだと思わされました。自分の思い通りに事柄が進まないからといって、諦めたり怒ってはならないのだと思うのです。イエス様の私たちへの愛と忍耐を思い起こすたびに、私たちもそれに連なりたいと思うのです。何とか信仰を持って、精進し、少しでも変えられたいと願わされます。



「深い嘆きからの出発」
(マルコによる福音書8章11〜13節)No.160


 この イエス様が本当に神の身分を持つものなのかと、ファリサイ派の人達が試したと記されています。それに対して、イエス様は心の中で深く嘆かれたと言うのです。この事は、ファリサイ派の人達の不信仰というよりも、私たち自身も同様に主イエスの力を見てみたいと思っているではないでしょうか?。そのような私たちに、「決してしるしは与えられない」というのです。しかし聖書には、他の個所では人々の求めに応じて奇跡を行われた個所が多数あるのです。つまり、イエス様のおっしゃられる本当のしるしとは、マタイによる福音書の平行個所に記される「ヨナの奇跡」、つまりイエスの復活の奇跡こそが、イエス様が神の身分を持つしるしそのものなのであとる言われているのです。そしてそれを信じられない人達に、主は嘆かれるのです。

 しかしそれは、私たちを見捨てたという意味で言われているのではなく、期待しているのに答えない人達への悲しみとも捉えられます。神の期待に私たちは何かをお返ししたいのです。

 災害の炊き出しに出かける時に、私は何人かに声を掛けました。しかし、残念ながら用事があり一緒に行けないとの回答を数回貰いました。その時に、ルカによる福音書14章の大宴会に招かれた人達の話しを思い出しました。大宴会に招かれた人達は、用事があると言って出席を断ってしまい、怒った主人が弱い立場の人達を招き入れるという話しです。以前は、この話しは自己都合で宴会を断る駄目な人達と解釈していましたが、今回の出来事でそれだけではないと思わされたのです。つまり、本当に宴会に行きたかったのにどうしても行けない人達も沢山いたのではということです。炊き出しに参加出来なかった一人のメンバーは、わざわざ教会まできて「行けなくて非常に残念です。せめて」といって支援金を置いて行かれました。神の期待への応答とは、そういう事なのだと思わされました。仮に招かれた大宴会に当日出席できなくても、前日でも後日でもその思いを捧げて行けばいいのです。それが私たちに求められている、神の期待に応答する小さな働きなのだと思うのです。



「忘れられない出来事として」
(マルコによる福音書8章1〜10節)No.159


 この4千人への給食の話は、6章の5千人への給食の話と非常に類似しています。場所や人数などは違いますが、弟子達の反応などまったく同じなのです。同様の出来事が数回あったとすれば、一回記述すればよいとも思えますが、きっとこの出来事はイエス様と出会った方々にとっては、忘れられない出来事だったのでしょう。そして、弟子達が前に同様の出来事を経験していながらも、また同じ不信に陥る姿も、福音書の読者に伝えたかった大切なことなのかもしれません。そのような意味では、この記事は忘れられない出来事であるとともに、重要な事を弟子達が「忘れちゃった」記録でもあるのです。     

 私たちは、沢山の恵みを天から頂いているにも拘わらず”喉元過ぎれば熱さわすれる”という言葉の通り、直ぐに忘却してしまうものです。そして更に、人は悪い印象の方をいつまでも忘れないという特徴を持っています。そのため、私たちは神から頂いたよいものを直ぐに忘れてしまい、不平を言ってしまうのです。しかしそうではなく、恵みを恵みとして心に刻み、悪いものをも神が益としてくださるという素晴らしい事実を心に止めねばならないと思うのです。
 
 この地震と津波の大災害の中でも、きっと輝く恵みは沢山あるはずなのです。勿論、被災された方々にとっては、勝手なことを言うなとお叱りを頂くかもしれません。しかしだからこそ、神のご恩寵と信じる心を忘れず、頂いた恵みを困難な中におかれる方々に、お返しするように他者にお仕えして行きたいと願わされます。     



「神よ聞こえるようにして下さい!」
(マルコによる福音書7章31〜37節)No.158


 イエス様は異邦人の土地を通ってガリラヤ湖に戻って来ました。そこで、耳が聞こえず口もきけない人が癒されたというのが本日の個所です。人は話す障害がなくても、聴覚に障害があると自分の話している声が聞こえないため、話すこと自体が出来なくなると言われます。つまり聞けないと話せないのです。イエス様は、この個所でまず耳を癒し、そして舌に触れ癒されたと記されています。この事は、一見耳が聞こえていると思っている私たちにも、大きな気づきを与えてくれます。つまり、私たちは聞くよりも話すことが先行してしまうからです。しかし、まず聞くことなのです。ただし、この聞くというのがまた容易なことではありません。謙虚に他者の話しを聞こうとしても、ある人は引っ張りなさいと言い、ある人は押しなさいと言われます。どちらも自分の経験から誠実にアドバイスをしていても、その答えがまったく逆方向のようなことがよくあります。ですので、聞いても両方に従う事が出来ないのです。

 そのような意味では、ここで聞くとは人の言葉に翻弄されないというのではなく、多くの関係の中で、神の言葉を聞いて行くということなのでしょう。それは時には、人の言葉に反してしまうかもしれません。しかし、信仰の応答として、罪を引き受ける覚悟をもって真摯に応答するしかないのです。そして、その結果へと導かれると信じるのが信仰だと思うのです。聞けないものが、聞くものとされ、真実を求めて生きることを願わされます。
 


「信じて家にかえりなさい!」
(マルコによる福音書7章24〜30節)No.157


 
イエス様は、娘の癒しを願って訪れた異邦人の女性に「子ども達のパンを取って、小犬にやってはいけない。」と言われました。この言葉は私たちに「それは酷いではないですかイエス様!」と言いたくなるような印象を与えます。当時イスラエルは異邦人を犬と呼び蔑視していました。しかしこの個所は「子犬」という言い方で、寧ろ悪いイメージではないと、ある聖書学者は解説します。実際そのようにイエス様は、そうは言われても百人隊長の僕の話を初め、様々なところで異邦人への救いの手を伸べます。また、よいサマリア人の話しでは、イスラエルの民よりも異邦人を褒め称えているのです。

 旧約新約聖書をある学者は、イスラエルの時、イエスの時、教会の時と三つに区分した学説は有名です。その区分によれば、この時点ではまだ教会の時(異邦人を対象とした世界宣教の時)は訪れていないのです。しかしこの女性は、それでもイエス様に食い下がるのです。そして、娘の癒しを得ました。ここで、私たちの学ばされることは、時は神ご自身が定められるのですが、私たちは時が良くても悪くても、熱心に神に願いを申し上げ続けることが大切であるということです。神の時さえ変更して頂くような、熱い願いと信仰の大切さがここでは語られているのかもしれません。 今回、未曾有の災害に見舞われた日本であり、何故こんなことがと私たちは暗い気持ちになってしまうかもしれません。しかしその中で、いやその時だからこそ、祈り願い確信し進むことが大切なのかもしれません。



「人を汚すものは外にはない!」
(マルコによる福音書7章14〜23節)No.156


 
神学者のユンゲル・モルトマンは大戦中に兵役に就いていた時、直ぐ傍にいた兵士が爆撃で亡くなり、自分だけが生き残った出来事に、大きな神の不思議な意志を感じてキリスト者としての道を歩み出したと言われます。今回の、大地震と津波被害の惨劇に痛みと驚きを感じながらも、何故自分が生き残り、何故被災地の人たちが亡くなってしまったのかという大いなる問いが突き付けられたように思えます。それは人の罪のためなのか、いやかの地の人たちは、他の地の人に比べ罪深かったとでも言うのでしょうか?。

 イエス様は、外から入って来るもので人を汚すものはなく、悪いものは全て人の内側から出てくると人の本質を突きました。私自身、何か不慮の事態が起こると、あれが悪いから、これのせいだと思ってしまうものです。
しかし外部の要因ではなく、自分自身の内側から問題が出てしまっているとしたらどうでしょうか?。

 私たちの内側には、人としての原罪が潜み、どうしょうもなく病んだ心の闇が、社会と社会、人と人とを仲違いさせてしまいます。しかしまた、悪いものが内側から出るとともに、良いものも私たちの内側からであることは間違いないと思うのです。使徒パウロは「神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮です」と言われました。神の宮から発信されるのは、良いものに違いありません。そのような良いものが私たちの内側にもあるのです。
 日本がこの大災害に見舞われた時に、私たちにどのような事が出来るか、非常に歯痒い想いでさえありますが、私たちの内側に授かった良いものをもって、出来ることを出来る限り献げて、痛む方々にお仕えしたいと願っております。


「神の掟とは」
(マルコによる福音書7章1〜13節)No.155


 
先週二つの介護関係の講演を聞きました。その講演は二つとも現場経験から発信されるものでしたが、片方はあまり響くものがありませんでした。その理由としては、その言葉を支える哲学が感じられなかったからなのです。どんなに良い事を行っていても、何故、そうしなければならないのかという問いへの思惟がないと混迷してしまうように思えるのです。

 その点、イエス様には明確な神の哲学がありました。昔の人の言い伝えを守ることが、神の喜ばれることではなく、それはむしろ神の言葉を無にしてしまうことであると語るのです。人は何かに導いて欲しいものです。ですから、人の言い伝えを守ることであっても安心しようとするのかもしれません。しかしそれが無意味だと言われたとしても、人は困り果ててしまいます。他の導く何かがないと。

 キリスト者にとって、その何かこそがイエス様自身であり、聖書なのです。信じることこそが、無意味と思える人生に規律を与え、意味を与え、愛を与えてくれるのです。人は迷い続けてしまいますが、神の道は確かです。
今週も信じる道を進みたいと願います。



「私たちの願いとは何か?」
(マルコによる福音書6章53〜56節)No.154


 先日の塩狩峠の観劇はとても感銘を受けました。また、その中で「人の悪口を言ってはいけないと言いながら、自分の悪口は正義のために言っている」と人は言うという言葉が、自分自身の事として鈍い感性ですが突き刺さりました。そんな人間が、尚、赦されるというのが聖書のメッセージです。

 本日の個所でも奇跡的な癒しの出来事が記されています。そして、その癒しに人々は「イエス様の服の裾にでも触れたい」と出かけて行くのです。しかしイエス様の出来事が、病気の癒しだけであったとしたら、2000年を超えて人々の信仰の対象にはならなかったはずです。イエス様の出来事は、十字架の苦難から引き出された人類の救済史が、人々の心に強く印象と感動を与えたのです。その忘れることの出来ない、人の心を動かせた出来事こそが信仰となって行くのです。

 先程の塩狩峠の劇の、ラストシーンは毎回泣けます。電車を必死で止めようとする長野氏の姿は、同乗した乗客だけでなく、今もそのストーリーに出会った私たちの心を震わせるのです。そして、きっと同じ様な思いで、人々はイエス様の十字架を見上げていたのではないでしょうか。信仰の薄いものですが、尚、主イエスの十字架を見上げて、その感動を心に与えられた日々を過ごして行きたいと願います。



「心を鈍くしないでください!」
(マルコによる福音書6章45〜52節)No.153


 
ここの個所は、イエス様が湖の上を歩かれて来た事実を弟子達が認められず慌てふためいたという記事です。しかしここの起点は、51節後半の「心が鈍くなっていた」という言葉にあると思うのです。つまり、前の個所で五千人の給食という奇跡を目の当たりにしていながら、一時後にはイエスへの信頼を失っている弟子達を通して、信じることの難しさを聖書は伝えようとするのです。

 しかしそのような人にも対策はあるのです。注目すべき事は、51節前半です。イエス様が船に乗り込まれると風が静まったという記事です。つまり、嵐の中でも、イエスを拒絶するのか、危機的な状況でもイエスをお迎えするのかという問いです。恐怖に怯える中でも、イエス様をお迎えすることは、結果的に嵐を静めることになったと聖書は記します。

 これと同様に、私たちもイエス様を心の内にお迎えしなくてはならないのです。それが危機的であり、また神など信じられないという程の出来事の中でも主をお迎えする心。それは、私たちを混沌の闇夜から救い出す力を、嵐を静める力を与えてくれると聖書は語ります。信じられないものですが、信じるものとして、心のうちにイエス様をお迎えして一週間を過ごしたいと願います。



「よい飼い主を得た羊たち」
(マルコによる福音書6章30〜44節)No.152


 先日、NHKの特集で「無縁社会」という番組を観ました。現代社会で多くの人たちが、心の病に陥って行く現状。その中で「自己有用感」という言葉がありました。自分自身の存在が、そこで必要とされているのか?という悩みです。しかしこの事は、特定の病に陥った人に限らず、誰もが問いかけられ、その答えを其々が求めて行かなくてはならないものです。しかし、その答えは容易ではありません。誰もが自己評価を高くされたいし、誰もが必要とされたいからです。ところが私たちの世俗社会での「必要とされる」という言葉の原理は、必要とされない人との差によって成り立っています。つまり競争の原理の中での優越が、価値基準の根底にあるのです。それが差によって成り立つ故に、結論として万人が、その自己有用感を獲得することが出来ないのです。所謂、勝ち組と負け組という評価。そのもんもんとした閉塞感漂う社会で、イエス様は人々を「飼うもののいない羊の群れ」と称したのです。その価値観は、羊を病ませても導くことが出来ていなかったからです。

 実際、聖書の語る自己有用感は世俗のそれとはまったく方向性が違っているのです。まず私たちの人生の時間軸は、この世に生まれる前から、天へと帰るという線の上での旅の途上にあるという事なのです。つまり、旅人としての人生の理解。そこで語られる必要性とは、世俗での差の原理に翻弄されない、神の価値観です。それはまた、こちら側から発信されるものではなく、神の側から恵みとして発信される価値感なのです。私たちが健康を失い、ただ座っているだけになった時、いや臨終の床においても、その人から取りされることのない恵み。その永遠に取り去られない生きた価値を追い求めて行きたいと願います。



「正しい人の死は語る!」
(マルコによる福音書6章14〜29節)No.151


 バプテスマのヨハネは、新約聖書の時代においてもっとも注目されていた人物の一人でした。イエス様と年は一歳程度しか違いませんでしたが、へロデはヨハネからの教えを願っていましたが、イエス様のことを知りません。それ程の人物が、王妃の策略によって簡単に処刑をされてしまうのです。ある面で、このあっけないとも思われる死は何を語るのでしょうか。

 王妃ヘロデアとは違い、ヘロデ王はヨハネに対して「ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていた」と聖書は記しています。つまり、ヨハネの正しい聖なる生き方は死後も、イエスの到来をヨハネの復活かと思わせる程の力を持っていたのです。彼は天に召されて行きましたが、その正しくあろうとした歩みは、死後も人々に多大な影響力を残して行くのです。

 これは近代においても、ガンディーやマザーテレサ、キング牧師と死しても語り続けられる賢者たちの姿の中にあると思うのです。キング牧師は、公民権運動の中で「そのために死ねる何かを見つけていない者は、生きるのにふさわしくないのではないか。」とまで言いきります。この言葉を借りれば、まさにヨハネは死ねる何かを持っていたのです。それがまさに信仰です。そしてその対象は、神ご自身なのです。私たちは正しくありえない、しかし神ご自身は確かに正しい。信仰のありがたさは、自分の正しさに頼らなくて済むことです。自分が正しく生きることは本当に難しいと思うのです。正しさを主張する程に、罪人の私たちの心は偏屈になってしまうものです。ただ私たちは、パプテスマのヨハネのように、正しく聖くいきることは出来ないかもしれませんが、正しく聖い方を知っていて、その方向に歩んでいけばいいのです。そこに信仰の素晴らしいさがあるのです。正しくない者でありながら、正しさの方向に招かれている人生。この感謝をもって、今週も歩みたいと願います。    



「上を向いて歩こう♪」
(ヨハネによる福音書21章20〜22節)No.150



           奨励 高座教会 元栄信一主事


「弱いときに強い」とはどういうことでしょうか?人は人生において、2つの大きな関係があるように思います。一つは横の関係。この世との関係。仕事、学校、同僚、近所づきあい。ここにはいつも競争があります。勝ちか負け。勝つため頑張る。つまり強くあり続ける。ここでは神様は働きません。もう一つの関係。縦の関係。これが私の経験した神様との関係です。この時、価値観が変わります。例えば同じ不慮の事故で入院した二人も一人はまわりに感謝し生き、他の一人は、まわりを呪いながら生きる・・・なぜでしょう?これが横か縦かの違いなのです。
 イソップ物語のウサギと亀の競争物語のお話し。足の速いウサギはどうやって亀を叩き潰すか、村の動物たちにどうやったら受けるか、つまりウサギは横の関係だけに生きた。亀は?亀は横を見ない。ただお山のてっぺんのゴールだけ見て、上を向いて歩いた。
そしてウサギが目を覚ますと、亀はお山のてっぺんだった。

 今日の聖書にも同様の話が。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。・・・ペトロは訊いた。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」 ・・・要するにペトロは横との関係、ヨハネとの関係が気になって心が定まらない。それに対してイエス様はこうおっしゃった。「(それが)あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 ・・・私だけ見上げて歩みなさい。

 その昔、「上を向いて歩こう♪」という歌がありました。「上をむいて。歩こう♪涙がこぼれないように♪」上を向いて歩くと涙が止まります。弱いとき強くされるからです。そのためにも、これからもご一緒に日曜ごとの礼拝を大切に守っていければと願います。      

「一本の杖を持って」
(マルコによる福音書6章6b〜13節)
No.149


 ボーイスカウトのキャンプで子ども達にある質問をしました。この緩斜面を止まらずに滑って来るのはどうすればいいでしょうか?。上からスピードをつけて来ること、スノーボーダーにぶつからないこと等などが子ども達の答え。しかしもっとも重要なことは「スキーの板にワックスが良くかかっている事なのです!」と答えると、すかさず子ども達からは「技術じゃないじゃん!」とブーイングの嵐。しかしこれはしょうがない事です。寒い夜空に、ワックス掛けをした私のささやかな勝利です。

 これと信仰の歩みも似たところがあります。いよいよその危機的な場面になってからでは、準備しても間に合わないことが多々あるのです。予め準備しておかねばならない事。つまり、日々の信仰の鍛錬です。イエス様は、この個所で弟子達を訓練の時期から、いよいよ実践の時期として宣教の現場へと向かわせます。そこでは、一本の杖以外は持っていってはならないと言うのです。この杖とは、当時においては、荒野を旅する時に身を守る道具であり、疲れ果てた体を支える為ものです。つまりそれは、私たちにとっては物理的なこと以上に、人生を支える信仰を意味しているとも言えます。

 本日の主日礼拝は、昨年の1月25日に天に召された三浦徹也兄の記念礼拝として行っています。三浦兄の人生は、病との戦いであり、自分自身の痛みと闘い続けた生涯でした。しかしその中でも、彼は神に招かれ、洗礼を授けられ、教会にとどまり続けました。彼の歩みは型破りで時として誤解を受けることもあったかもしれません。それでも彼は、確かに、イエス様から差し出された一本の杖を握り続けたのです。信仰の友である私たちには、その三浦兄の杖が見えるのです。彼が成そうとして進んだ道のいたる所に、その杖の跡が残っています。その信仰の戦いの跡を私たちも見つめ直し、今一度、信仰の道を歩みたいと願います。



「人となられた神の痛み」
(マルコによる福音書6章1〜6a節)
No.148


 
イエス様は、この個所において故郷のナザレに帰られます。しかし、そこではうまく宣教を進めることができませんでした。その理由としては、ナザレはイエス様が育った地元であるために、その言葉が軽視されてしまったことにあると記されています。つまり、人々がイエスを信じることが出来ず、その不信の結果が奇跡などの神の業を妨害してしまったという事です。しかし、神の業や神の力とは、人々の不信仰によって、行う事が出来なくなってしまうような小さなものなのでしょうか。勿論違います。神の力と知恵は遥かに、人の存在を超えています。それにも関らず、神は人の信仰の応答を求められるのです。5章の34節で「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様は言われたようにです。

 信仰の応答とは、先週の瀬底ノリ子先生が語ってくださった「実」のことでしょう。ただ、イエス様に繋がっていても実を結ばないのでは、その信仰の質が問われてしまうという事です。しかしその実自体は、大きさも形も質も人によって様々です。時には甘い樹液をうまく通せず酸っぱい実になってしまうかもしれません。そして私たちは、その実の良し悪しばかりを議論してしまっているのかもしれません。大切なことはまず繋がることです。この繋がる結果としての実があるのです。そして、 この繋がることとは信仰そのものです。繋がっているのに実を結べていない!と、イエス様から言われないような、太い幹で繋がって行きたいと願うのです。そうすれば、私たちにも、必ず神の喜ばれる素晴らしい実が実るはずです。



「今年も主につながって」
(ヨハネによる福音書15章1〜17節)
No.147


               奨励 瀬底ノリ子姉

 地中海の東側に位置するイスラエルは、ぶどうの栽培に適した地で、多くの野生のぶどうが自生するそうです。けれど、その野生のぶどうの実は、口にできないほど酸っぱく、食べると歯がうくと言われます。ぶどう園の農夫は、その野生のぶどうを甘いまことのブドウの木に、接ぎ木するという方法で、良質のブドウを栽培し、豊かな実りを得ていました。

 主イエス様は、イスラエルの人々が誰でも知っている甘いまことのぶどうの木の栽培方法に例えて、私たちとイエス様の関係を語りました。「わたし(イエス様)は、まことのぶとうの木、あなたがた(わたしたち人間)は、その枝である。」(ヨハネ15;5)と語られました。神に逆らい、自分勝手に歩み、隣人を愛することの出来ない私たちの本質は野生のぶどうの姿。その野生の枝がまことのふどうの木に接木される時、野生のふどうの枝は、甘いまことのぶどうの木に変えられて行くというのです。野生のふどうの枝に、まことのぶどうの木の甘い樹液がいきわたり、甘い良い実が結ばれていくのです。

 私たちが、キリストに繋がれる時は、私たちの内にキリストの言葉が生きて働きます。キリストの愛が、私たちの人生に流れ込み、私たちを生かします。キリストが私たちの内で働いて下さる時、わたしたちは必ず甘い実を結ぶことが出来るのです。

 イエス様は私たちの身代わりに十字架に架かって、私たちを生かす為、自らの命をお与えくださる程に、私たちを愛して下さいました。私たちがどんなに弱く小さな者であっても、イエス様の愛を信じる時、全ての罪は贖われるのです。「わたしはあなたを愛している。」このキリストの言葉が、いつも私たちの内に樹液のように流れ、私たちの歩みの全てに生きわたりますように。その愛によってイエス様が私たちを愛して下さったように互いに愛し合いましょう。


「新年、神の力に信頼して」
(マルコによる福音書5章21〜43節)
No.146


 キリスト者の本分は礼拝を大切にして行くことです。そして、その生き方に於いては、隣人愛の理念に基づく他者利益優先といいますか、一般から見れば損失してしまっているような歩みかもしれません。しかし、その半面、実は、その損失より遥かに大きな恵みを受けているのが、信じるものと言えるでしょう。

 本日の個所は、二つの奇跡物語が重なり合って語られます。それぞれが意味深い内容ですが、その中に共通するテーマは、「あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない、信じなさい」というイエス様の言葉です。この語りかけはとても興味深いものです。つまり、神が救ったとか、イエス様が救ったのではなく、人間の応答としての信仰が、自分自身を救ったということだからです。神の偉大な力は、人の手がなければ何も出来ないようなものでは決してありません。しかし敢えて神は、人の信仰の応答をもって、その救いを成し遂げられるのです。神は、出来ないからではなく、あえてそうなされるのです。

 人とは怠惰な生き物です。何もしなくて救われるのなら、何もしたくないものなのです。楽をしたい。それが本音ではないでしょうか。そのような人間に、イエス様は応答せよ!と語られます。それは一見面倒のような、重荷のような気もしますが、実はその応答の中に私たちの人生が生きたものになるカギがあるのです。

 自分の考えではどうにもならない出来事。自分の中では、どう考えても正当と思われるのに、うまく進まない関係。その自己の価値観を聖書の価値観に、ほんの少し、一瞬でも写すことが出来た時、「あなたの信仰があなたを救った」と言う言葉が聞こえてくるのかもしれません。私自身も頑なでなかなか上手く勧められない事柄が、日々山積みです。しかし、何とかこの聖書にしがみついて、与えられた勤めを果たして行きたいと願います。  



「神の御心が天でなるごとく、鶴ヶ峰でもなりますように」No.145
      2011.1.2 元旦礼拝


 新年あけましておめでとうございます。今年の私たちの人生が、あさひ教会の歩みが、どのように進むのか主にあって楽しみにしています。勿論、特別大きな計画がある訳ではありませんが、神が示され進みなさい!と語られる方向を感じとる信仰の感性が欲しいと願わされます。

 ところで、昨年の最後のフレンドシップあさひの営業日に、ある職員からアドバイスを頂きました。その指摘は、私が普段まったく思っていない点の指摘でした。自分は上手く出来ていると思っていた部分だったので驚きと共に、そうなのか!という非常にガックリとする思いでした。そしてその出来事で一年間を非常に反省させられたのです。自分では問題ないと思っていたことが、他者から見ると実は殆ど出来ていなかった。そのショックは、私にリーダーシップと謙虚であることの両方を大切にしていくことの難しさを考えさせる良い機会となりました。

 神の計画は私たちの思いを超えて大きく進んでいます。しかし、その計画にどのように係るかは、其々の賜物によります。ですから、自分自身は、どのポジションで何をするべきなのかを問い続けなくてはならないと思うのです。
私たちは、これでいいと思った時には、既に神の計画の前進から外れてしまっているのかもしれません。箴言19:21に「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。人の計らいではなく、神の御旨を謙虚に受け止められる信仰が今年も私たち一人一人に与えられることを心から祈りたいと思います。


    
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