カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事

御言葉と出来事(2012年)


2012.12.29更新     

  「見よ、このような日が来る」  
(ルカによる福音書2章22〜35節)No.249


 クリスマスのメッセージは、救いの恵みであると共に、剣で心を刺し貫かれる出来事であることを聖書は告げます。救い主の光は、人の心の内側に沈潜する闇にまで届き、人生の痛みを浮き彫りにするのです。表面的に何気なく日々を過ごしていて、救いなど不要に思える人間に、神の剣はその必要を告げるのです。

 今年も一年間様々な出来事があった事と思います。あの乗り越えられないのではと思われた困難も、ジタバタしている内に不思議とそこを超えて行ってしまうのです。しかしそれは何となく忘れ去られてしまうことではなく、そこへ確かな意味付けがなされないと無駄になってしまいます。出来事という剣で心を刺され、人の本質が顕わにされることは、私たちを再び神のもとへと帰営させる大切なプロセスです。

 神は、確かに私たちを一年間救いへと招き続けました。その事実が、私たちを新しい未来へと導かれるのです。必ず来年も一人ひとりに最も相応しい良い年になります。感謝をもって一年を締めくくりたいと願います。


「いと小さき者の救い」  
(ミカ書5章1〜3節)No.248


 
クリスマスの告げる世界の救い主は、幼子という姿で登場します。この出発と十字架の苦難とが示す救い主の姿は、世俗の人間が待望する力の象徴のようなものとは違いました。

 しかしその姿の中に、確かに人々は救いを見るのです。そして、その姿だからこそ!なのです。荒廃したような人の心の内側に、確かな光を届けてくださるイエス・キリストのご降誕。私たちはその、いと小さき救い主との出合いによって、人生はまだ捨てたものではないと感じるはずです。そして、小さき者がリーダーである以上は、私たちも小さき者としてリーダーに従って行くのです。

 アメリカの大きな伝道団体が、大統領選挙の為に異端を是認して、大変な問題となってしまいました。世俗のパワーの中で、宣教すると、その力を旨く利用して成功へと向いたいというのは人の心情です。しかし私たちは、今一度いと小さき救い主に目をそそぎ、イエス様がそこで何をしたかったかを心に止めるべきなのです。世俗のパワーに振り回されるのではなく、小ささの中に示される神の力を信じる事が、今の時代だからこそ最も大切なのです。

 政治や戦争、経済と混迷を続ける地球号の乗組員の私たちは、行く末を案じる思いが年々大きくなりますが「信じる者は救われる」のです。この道に止まる限り大丈夫なのです。いかなる時も朽ちる事のない、このメッセージこそがクリスマスの恵みなのです。


「苦しみの地から闇が消える時」  
(ルカによる福音書2章1〜7節)No.247


  先週の礼拝は、説教原稿の保存を忘れてしまい、結局ギリギリに書いた四行のレジメ?でのお話しとなりました。実際のところ、2時間前まで準備していたので細かい年号などは怪しく成りますが、頭に入っているので何とか話せる訳なのです。人間は、そのようなかなり長い事でも記憶をしていく能力が与えられています。しかしその反面、忘れて行くこともまた能力だと思うのです。覚える事とともに忘れる事の大切さです。結構、嫌やな思い出も時間がたつと薄れて行くものです。この薄れがなかったら、人間の心は苦しみで一杯になってしまいます。

 イスラエルの民が、苦しみの地におかれ、闇の中をさ迷うような苦難の日々。しかしそこには必ず光が戻って来ると預言がされる。その預言のとおり、痛みの日々は新しい光の輝きで薄れて行くのです。信仰の世界は、人間を過去の痛みに拘束せず、新しい光と未来へと招いていると思うのです。クリスマスが象徴する闇と光、寒空に現れた温かい幼子のイメージ。その全てが、私たちの人生を解放する大切なメッセージです。人は救われなくてはならない生きものです。このアドベントに、この救いを味わいたいと思います。


「一つの始まりが世界を変えた」  
(ルカによる福音書1章26〜38節)No.246


  先月の毎年開催しているクリスマスリースの会にて、お花屋さんからポインセチアと植え込み用のお花を教会用に沢山購入しました。そのお花は、気が付くと近所の方々や、家主さん、フレンドシップあさひの利用者さんや看護師さんが次々と購入して下さり、あっという間に売り切れてしまいました。その中で、一人の看護師さんが「あたしの欲しかったポインセチアが売れちゃった、残念!」と言いつつ、他のお花を沢山購入されたことに印象を受けました。

  このことを神様の出来事に例えると、私達は欲しいものと、神様が私たちに下さろうとしているプレゼントは、また別のものかもしれないということなのです。私達は自分の望んだものと違うので”え〜”と思うかもしれませんが、それこそが私達にもっとも相応しいギフトなのです。

 乙女マリヤに、イエス様の受胎告知が与えられた時、当惑してしまった様子が聖書に記されています。彼女は、まだ結婚もしてないのに、こんな事になって私の人生はどうなってしまうのだろうと涙目だったかもしれません。しかしその始まりが、世界を変えて行く人類救済の出来事となって行くのです。

 私達に一人ひとりにも、その同じ意味のプレゼントが神様から用意さています。それは私達にもっとも相応しいものなのです。だから、箱を開けずに、タンスの奥にしまっていてはいけません。出して、感謝して、それを用いて行くこと。私達の出来ることを捧げて行くこと。それこそが、神様からのクリスマスプレゼントへの喜びのお返しなのです。      



「裁かれず愛されるように」  
(コリントの信徒への手紙一4章1〜5節)No.245


 
パウロは伝道に於いては、他の使徒と比較しても物凄い成果を残して行きました。しかし、それに反し、彼へは批判が集まり、いつも使徒であることに疑義が上げられ、働きへの批判が相次ぎました。しかし彼は、本当に意気消沈する思いの中でも、宣教を投げ出さずに、石にかじりつくように使命に専心したのです。そしてその結果は、世界へとイエス・キリストの救いが広がって行くのです。

 私達には神の御心はわかりません。それを知る方法は、前進してみるしかないのです。進んだ先が、閉ざされたり開かれたりしますが、開かれた方向が神の御心なのです。ですから、ただパウロのように使命感をもって前進するだけです。その道の上で、神は御心をなされるのです。

  私たちあさひ伝道所の会堂建設も、介護事業の発展も、とにかく進んで見る。その先に、神の御心はなされます。そして神は、私たちのその働きを必ず覚えていて下さることでしょう。



「自分を欺いてはならない」  
(コリントの信徒への手紙一3章18〜23節)No.244


 私達の経験では、少し聞いたことや知ったことの方が、直ぐにでも人にそのことを話したくなるものです。逆に、真剣に深く学ぶと、そう簡単にぺらぺらとしゃべることが出来ないとことも知ります。しかしパウロの語る「智恵のある者になるために愚かなものになりなさい」という言葉は、それとも少しニュアンスが違うようです。つまり、神を良く知ると自ら謙虚になると言うよりも、神の崇高さと智恵の前に、平伏しなさいという強いメッセージのようです。コリントの教会は、ギリシャやヘレニズムの文学の強い影響を受け、教会内では信仰よりも、神の実在や容態などといった議論の方が盛んで、知識人がもてはやされ、信徒間に序列が生まれていたのかもしれません。しかしそうではないと、パウロは強く主張するのです。知者の議論は空しいことを知りなさいと。どんな知者も自分を真摯に見つめると、その議論が愚かなものと実は気付くのではないでしょか。だからこそ、自分を欺かず、自分の心に誠実に向き合いなさい。そこでは、何が真実で、何か正しいかを知ることになるはずなのです。私達は、自らの心を欺かず、神の世界を見つめる心が大切なのだと思わされます。 


「明日を良い日に」  
(士師記6章11〜12節)No.243

              説教 潮田健治牧師


 自分としては、こうなるはずではなかったのに、なぜか思いとは別の方向に、意図したところとは違う方向に、進んで行ってしまう、ということがあります。「ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(士師記6章11節)。逃げ、隠れている。居る場所が違うのです! Mさんは言われました。「競馬に行くとね、みんな馬の方を見ているんだよね」。精神科の薬を飲み続け、人の視線を気にしてきた人の言葉です。本当は、競馬なんかに行きたくなかった。しかし、そこに居ざるを得なかった。それが30年、40年と続いたのです。しかし、今、神の言葉が彼に届いたとき、洗礼を受けたMさんは言います。「今は、行きたくなくなった」。神の言葉が支配したのです。そして彼の人生が変わりました。そういえば「楽譜」には最初に付けられた記号♯とか♭があって、曲を支配します。今、神が最初にかけられる言葉で私たちの人生は、支配されるのです。人生の「演奏」の仕方が変ります。ギデオンは初めに「勇者よ」という言葉を聞きました。それが後の歩みの始まりでした。私たちも神の言葉を聞くとき、言うことができます。今日は私の残りの人生の最初の日、と。


「人生の土台を据えましょう!」  
(コリントの信徒への手紙一3章10〜17節)No.242

              
 先日、ミス何とか?に日本人で初めて優勝した女性の父親の言葉が印象的でした。「二番や三番は予選落ちと変わらない。常に一番にならなければ意味がない!」と言って子育てをしてきたとのこと。何とも、凄い教育方針だと思いました。しかしパウロも聖書で、賞を得るのは一人だけだから、賞を得るように走りなさいと言われました。この二つの言葉は、どちらも一番を目指しているようですが「似て非なり」と言ってもよいのです。では何が違うのか、それはその言葉が発せられる土台の違いです。人間の望む栄光が土台なのか、イエス・キリストが受難と栄光が土台なのかという違い。パウロはこの土台を大切にして宣教しなさいと言います。そしてその土台の上に、家を建てなさい、神殿を建てなさいと言うのです。更には、その建てられた神殿とは、建造物ではなく、キリストを信じる人達こそが建てられた神の神殿だと大きく理解を改めるのです。同じように努力をして走り抜けても、まったく違う人生。努力に努力を重ねて、努力で得られないものを獲得して行く歩み。これこそが信じる者に与えられた最高の道だと思います。


「相変わらず大切なのは神です。」  
(コリントの信徒への手紙一3章1〜9節)No.241

              
 先日、家族で劇団四季のジーザス・クライスト・スーパースターを見に行きました。登場するユダが妙にかっこよく、その渦中でのイエス様は何を思っていたのかと思いを巡らしました。人々の裏切りの中で、全くの無力者のように十字架に架けられたイエス様。しかしその無力な死こそが、神に認められた救いの業でした。ここに救いがあります。しかし、人はなかなかその意味を捕えきることが出来ません。それ故に、イエス様は人に裏切り続けられ、何度も十字架に架けられて続けているように思えるのです。

  パウロの牧会したコリントの教会は、信徒の間に霊的な序列のようなものが生まれ、キリストの伝えようとした道から大きく外れて行きました。どれだけ自分が信仰熱心であり霊的であると言ったとしても、教会内に混乱があるという事実が、キリストから離れていることを示しているとパウロは言います。寧ろ、人の能力や地位ではなく、大切なのは、信じる者を成長させて下さる神ご自身であるとパウロは語りました。

  私も以前は、教会の混乱の渦中におかれ、本当に身心ともに疲弊したことを覚えています。そこで如何に正しいという考えがあったとしても、教会内の混乱が続くとすれば、そのことがキリストから離れているという証明になってしまうと言うのです。私達はこのことを心深く止めながら、愛する教会を建て上げることに専念しなければなりません。人の愚かさを超えて、神の御心がなされることを祈ります。


「神に教える立場ではありません。」  
(コリントの信徒への手紙一2章10〜16節)No.240

              
 先日ある講演を聞きました。とても親日なアメリカ人の講師のお話しで、多く共感を受ける内容でした。しかし、外国の方であるという限界もあり、日本の現状分析の部分では、必ずしも的確とは思えないところが見られました。講師の先生曰く、日本は仏教や和食という素晴らしい文化を持っているのに、戦後それが軽視され、特にバブル以降は核家族化が進み、人の支え合いがお金で解決されるようになり駄目になってしまったという論説です。私は、その分析は一つの答えであると共に、バブルや核家族、貨幣よって、容易に失われてしまう信仰の文化というのは何であるかと思わされた次第です。信仰が、そのような世俗の流れに放浪され衰退してしまうとしたら、その様な基礎の信心を取り戻すこと自体に意味があるという問いです。

 パウロは、支配者の世俗の智恵ではなく、神の智恵に付きなさいと言われます。そしてそれは、神の聖霊よって初めて明確に知り得るのだと言うのです。人の努力や勤勉や研究では到達できない、神の霊による世界。神の霊を無視して、知識や能力で、人が神に教えようというのか?と叱責します。信仰の世界は人の能力や地位によって左右されない、イエス・キリストを信じ従って行きたいという志の上に注がれるのです。私たちは、大きく変動し移り変わる社会の中で、揺るがない人生の土台の上に立って生きたいと思わされるのです。


「隠されていた知恵」  
(コリントの信徒への手紙一2章6〜9節)No.239

              
 昭和名曲集のCDの宣伝で、昭和の時代は大阪万博を初め人々は素晴らしい未来を夢見ていたとありました。自動車は空を飛び、経済は限りなく成長し、世界から戦争がなくなると思っていたと。しかし現実はそうではありませんでした。何故ならば、それは聖書によれば「滅びゆく支配者の智恵」でしかなかったのです。本当の智恵とは、神がイエス・キリストの十字架によって示された赦しと愛こそがそれなのです。神の王座は金銀をちりばめた玉座ではなく、馬小屋なのです。ここにこそ、全ての人を救うメッセージがあります。私は、神学校時代に教授より、この秘儀(ミステリーオン)をとことん叩きこまれました。それ故に、未だにその事の真実の重みを感じて宣教に仕えさせて頂いています。

 ニューヨークヤンキーズに移籍した天才バッターの一郎選手が、移籍後「チームに貢献しようと毎日必死です」と語っていたことが、私には印象的でした。あの天才が必死で使命を果たそうとしているとは。ならば、私達キリスト者も、毎日必死に神の使命を果たして行こうという意気込みが必要に思えました。勿論、毎日走り続けていたら疲れ果ててしまいますが、心と信仰は元気でいたいと思わされます。  



「滅びゆく知恵を捨てて」  
(コリントの信徒への手紙一2章1〜5節)No.238

              
 先日、63歳の娘が90歳の母を殺害してしまったという痛ましい記事がありました。その理由は「子どものころからの不満が爆発した」とのこと。人間は、考え方や生き方の違いだけでも大きな摩擦を起こし、関係のトラブルに巻き込まれてしまうのです。何とも酷い話しですが、またこれが人間なのです。それ故に、その負のスパイラルを抜け出す方策を持たない限り、人は延々と争いを繰り返してしまうのです。

  パウロは、滅びゆく人の智恵を捨てて、神の愛に生きることを常に勧めます。それはパウロ自身の経験から来ています。破竹の勢いで宣教するパウロに、非難と妨害が降りかかります。彼は意気消沈して崩れ落ちるような思いの中でコリントに到着したのです。そこでは、自分の智恵によって相手と論争するような気力も無く、ただイエスキリストの十字架のみを伝えたのです。しかし教会はコリントに設立され、大きく成長して行きました。だから、パウロは言うのです。滅びゆく知恵を捨てて、神の力を信じなさい!と。
私たちも自分を守る知恵を捨てて、神の愛の智恵を信じて今週も歩みたいと思います。


「無学な者を選ばれた神」  
(コリントの信徒への手紙一1章26〜31節)No.237


              
 神は知者に恥をかかせるために、無学なものを弟子に選ばれたと聖書は記します。つまり言い換えれば、キリスト者として選ばれるということは、仮に知者であっても無学なものになるとも言えないでしょうか。世で誇る価値感や地位が、教会内でも通用してしまうのは間違いなのです。高校に行ったことがなくても、英語など一言もしゃべれなくても、キリストの弟子であることに何の関係も無いのです。神はそのあなたを選ばれるのです。そして、この言葉はキリスト者に謙虚になることを求めています。社会的に評価される優れたものを持っていても、それは信仰の世界の優劣にはまったく無意味だといわれるのです。努力を積み重ねてきた人には辛い言葉ではありますが、それが神の求める世界なのです。来るべき天国の価値は、人が作るのではなく、神が決められるからなのです。

 私達は日々努力をし、夢を持って前進しなければなりません。しかしその事が、教会内での人間の差異になってしまうとしたら大きな躓きです。私達が死んだ後も生かす神の価値感をもって今日を生きることが大切なのです。パウロはイエス様の弟子として、誰よりも働きました。その彼が、そういうのですから、私達は、その歩みに見習うべきなのです。腰低く勇気ある信仰の歩みを今週も目指したいと願わされます。        


「神の愚かさは人よりも賢い」  
(コリントの信徒への手紙一1章18〜25節)No.236

              
 先日、東京にて昭和喫茶と書いてある喫茶店に入りました。昭和生まれの私には、何となく落ち着くような場所でした。しかしつい先日まで昭和だったような気がしますが、平成になって24年もたった訳です。懐かしくも滅びゆく時代。移り行く時の流れの中で、揺るがない信じるものを持つことは大変な人生の宝です。神の言葉は誰にとっても、聞こえがよく、直ぐに信じられるものではないのです。しかし時には、世間からばかばかしいと中傷されたとしても、信じるものには救いの力なのです。パウロはそのことを何度も伝えます。奇跡や知恵によって人を引き入れるのではなく、不変の本物の価値に人々を導くのです。

 私たちの考えは、どんなに正義感をもっても、どんなに真実を語ろうとしても、それは同じことの繰り返しのような堂々巡りの世界。神に仮に愚かさがあったとしても、人の智恵よりは遥かに賢いのです。自分より高い方を見上げ、信じることこそが人生を負のスパイラルから抜け出させる唯一の道なのです。信じて今週も歩みたいと願います。



「心を一つにする方法とは」  
(コリントの信徒への手紙一1章10〜17節)No.235


              
 パウロの、混乱するコリントの教会を何とかしたいとの必死な感じが、この手紙から読み取れます。キリストの教会なのに分派が発生し、争いが起きてしまっている現実。パウロは、そこで自分の使命を明確に語ります。彼の仕事は、洗礼を授けることではなく、御言葉を伝えることだと言うのです。分裂した教会が一致して行くためには、そのように使命を明確にすることが必要だと思わされます。誰の為に、何をしようとしているのか。そしてその方法としてパウロは、言葉の智恵によるものではないと続けます。これは一体どういう事でしょうか?。伝道すると言いながら言葉ではないと。実際、パウロはとても話しの長い人であったと使徒言行録に記されています。つまり「言葉の智恵によらず」とは、宣教とは人の能力によるものではなく、神の力によって成されるものであることを強調したかったのだと思います。対話論の中で「説得でなく納得」という言葉があります。言葉巧みに説得しても、相手にはやっつけられたという屈辱感が残るだけで意味がない。寧ろ、言葉数は少なくても、相手もそうだなと思えるように愛の言葉を語ることが大切という意味です。パウロは、キリストの宣教が人間の争いや押し付け合いのような空しいものにならないことを心から願って語るのです。私達もその事を学ばなくてはなりません。誰の為に、何をしたいのか。その為に、自分は何をするべきなのか。
今週もキリストの導きを信じて歩みたいと願わされます。
一コリ1.18 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」     



「神は真実な方です」  
(コリントの信徒への手紙一1章1〜9節)No.234


              
 先日自宅のPCのディスプレイが壊れてしまい新しいものを注文しました。初めに私が購入した液晶ディスプレイは10万円でしたが、今は1万5千円でした。これではシャープ工場も赤字になる訳だと思いつつ、こんなに価値の大きく変わる社会で人はどうやって正しい判断をして行けばいいのかと考えさせられました。

 パウロが伝道をしたコリントという地域は、ローマやギリシャと中東を結ぶ港町で、貿易の盛んな文化の混在する都市でした。当初、パウロが告げた福音は、あっと言う間に異文化の影響を受け、教会は危機的な状況に陥ってしまいます。そこで、神は真実な方であり、その方は終わりの日には、私たちを非の打ちどころのない者になるように訓練されるというのです。激しい文化の衝突の中で、真実を持ち、非の打ちどころのないものになること。

 勿論、私達は非の打ちどころのない者になることなど到底出来ず、寧ろ失敗の連続です。しかしその失敗や挫折を暗い出来事として忘却するのではなく、今一度神と言う視点から再解釈して行く必要があります。アメリカの大学の研究に、忘れようとすることは、より忘れることを難しくさせてしまうというのです。寧ろ、そのネガティブな出来事が、自分自身の人生にどのような意味を持ちうるのかとじっくりと考えることで、人生は好転していくとのことです。

聖書を通して、神の視点で日々の生活と出来事を見つめ直して行くことこそが、より良い人生の道と言えると思うのです。



「言葉が真実であること」  
(マルコによる福音書16章19〜20節)No.233


              
 ある広告にストレスが溜りやすいタイプが四つの類型で記されていました。真面目で責任感が強いタイプ、才能豊かな実力者タイプ、人に気を常に使う優しいタイプ。どれもがストレスを大きく抱えてしまうというのです。しかし上記のような人達が社会では必要とされ尊ばれるタイプでもあるのに、強いストレスを強いられてしまうのです。それはもしかすると、その人の行動を支える正しさの概念にズレがあるのかもしれません。

  キリストを信じ従った人達は、真実の言葉を語ったと記されています。しかしこの真実とは、単なる正しさや正義という意味ではないと思うのです。その真実とは、人の真実ではなく、神のキリストの真実です。つまり、十字架の愛と赦しに基づく言葉と言うことです。神は、たとえ攻めるべき事があってもキリストがそうされたように、私たちも赦し合い愛し合いなさいと告げられました。これこそが真実な言葉なのです。自らの正当性や正しさを主張するのではなく、神の言葉を語ることが、信じる者には求められているのです。マルコの追記となったこの最後の個所で、その事を記した記者は、復活のキリストが伝えたかったことは、この事に尽きると示したかったのではないかと思います。

  昨今の国境線での隣国との混乱は目に余るものがあります。自分達の立場こそが正当と、そのことで国民を扇動するのです。その延長線上は戦争です。その時に苦しめられるのは、それを扇動した人達ではなく民衆です。何を目標として考え生きるのか。キリスト者の目標は、自らの義ではなく、神の国(平和)と神の義(赦し)です。その事を心に深くとめ、思慮深く信仰の道を歩みたいと願わされます。


「新しい言葉を語る」  
(マルコによる福音書16章14〜18節)No.232


              
 この個所は、不信仰の弟子達にイエス様が顕れるという出来事です。勿論、弟子達が不信仰とは言っても、死人が生き返ったという知らせをそんなに簡単に信じられる訳もありません。その彼らにご自身の復活を示され、そして使命を与えられます。全世界に福音を述べ伝える使命と、信じるものには様々な力が与えられるというのです。しかしその力は、誰にでも均等に与えられると言うのではないことがコリントTの12章に記されています。ただ、様々な奇跡的な業は出来なくとも、信仰者には「新しい言葉」を語る力が与えられている事が記されています。ではこの新しい言葉とは何でしょうか。それは、私達が生きてきた人生の中での、様々な失敗や罪の問題が赦され、新しい人生の出発が与えられていることを告げる事です。私達は、過去の問題を清算するために、自己努力を積み重ねて奔走する必要はないのです。イエス・キリストがそれは赦して下さったのです。ですから、自分も隣人も、その信仰のもとに新しい人生をいくつになっても出発することが出来るのです。聖書にある「日々新たにされる!」という言葉は何と素晴らしい励ましでしょうか。わたしも、日々失敗の連続ですが、毎日が神によって全てリセットされ、一から出発しなさい!と言われていると思うと、とても一日の勇気が湧きます。
その新しい言葉を多くの人に伝えて行きたいと願わされます。        


「何故、信じられるのか!」  
(マルコによる福音書16章 9〜13節)No.231


              
 よく「どうしたら神様を信じることが出来るのですか?」と聞かれます。この素朴な質問への回答ほど難しいものはありません。何故ならば、クリスチャンの私達でも、自分がどうして信じているのかという決定的な理由がわからないからなのです。しかしそれは聖書によればもっともの事です。コリントの信徒への手紙では「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」とあるように、私達の気合や善行や信心の強さによって信仰の道にはいれているのではないからです。それは神の霊の働きなのです。しかしまた、聖書は神の臨在を示すもう一つの視点を語っています。それは、本日の個所の12節に、イエス様は別の姿で弟子達に現れたと記されている事です。これは何もイエス様が変装をして分からないようにして、出て来たと言ったことでは勿論ありません。つまりこの事は、マタイ25章35節以降の例えのように、神は、旅人として、貧しい裸の人として、病の人として、牢屋に入れられた罪人として現れるということです。つまりそのような困難の中に置かれた人達にお仕えすることこそが、神との出会いであり、神に仕えることそのものであると聖書は言うのです。神を見出したいのなら、空を見上げるのではなく、隣人や自分自身を見つめていくことが大切であるという事です。是非、今週も私達の生活の内に生きておられる神を見出して歩みたいと願わされます。


「いつものように」  
(ダニエル書 6章1〜24節)No.230


               説教 古畑和彦牧師


 ぺルシヤ王国に、「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」(8節)という法律が成立しました。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階にあがり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(11節)。ダニエルは、この法律が自分を陥れるものであると知っていましたが、「いつものとおり」の礼拝の生活を変えることはありませんでした。なぜなら、礼拝の生活が、彼の人生を支えていたからです。

 神は、このようなダニエルの信仰に応えて、獅子の洞窟から救い出してくださいました。これは、ダニエルの「いつも」の信仰に対して神が与えてくださった賜物(プレゼント)のほんの一つにすぎません。神は、私たち一人一人にも、ダニエルとは違う賜物を与えてくださっています。ですから、私たちは、神から与えられた人生を、「イエスが歩まれたように」(Tヨハネ2・6)、いつも地道に歩んでいきましょう。これこそが、本当の「奇跡」なのです。

 私たちは、私たちの「いつも」が問われる時代を迎えようとしています。それは、単に社会の動きだけではありません。個人個人の人生においても、突然思いがけないことが起こり、私たちの「いつも」が問われる時が来るかもしれません。いや、もう既に来ています。私たちは、ダニエルのように、どのような世の中であっても、また、どのような人生の局面に遭遇しても「いつものとおり、祈りと賛美を自分の神にささげる」信仰の歩みを歩んでまいりましょう。



「神にお会いする場所」  
(マルコによる福音書16章1〜8節)No.229


 先日掃除機を購入しようと思い、色々ネットで調べていると面白い書き込みがありました。ある方が、販売店で掃除機を選んでいると、性能の良いとても軽いものがあったので、それを喜んで購入して帰ったというのです。しかし、帰って箱を開けて掃除機を持ってみると、お店で見た物より凄く重くて驚いたというコメントでした。勿論、その理由はお店の品は見本で、中身が入っておらず、本物はモーターが入っていたためです。いくら形はよくても、機能する重みがなくては何の意味もありません。聖書も同様です。どんなに高い道徳理念を上げていても、それを支える重みがなければ無価値です。ではその聖書の重みとは!勿論それがイエス様の死と復活なのです。イエス様の十字架の死の出来事と、死からの復活の出来事こそが、聖書が単なる良いことの書いてあるだけの本に止まらず、世界の人達の人生を導く力があるのです。

 連日、オリンピック競技がテレビで放送されています。日本人の活躍を見ていると、何か自分自身が誇らしげに思える程です。しかしまた金メダルの先には何があるのかと、いつも思わされます。この日を目指して四年間やってきましたという言葉。それでは、それが終わってしまった時に、何を人は目指すのでしょうか。私達は、目標を超えた目標を設定することが出来ないと、生涯競争に追われ続ける人生になってしまうかもしれません。信じる者には、死後も続く希望の道が備えられています。いやだからこそ、今を充実させることが許されるのです。
朽ちるものではなく、朽ちないものに目を向けて今週も歩みたいと願わされます。         


「神の国を待ち望む心を持つ」  
(マルコによる福音書15章33〜41節)No.228


 介護の仕事をしていますと、利用者さんが一番不安に思っている事は、いつまで今の生活を続けられるかという心配のように思えます。また老人ホームに入られている方は、自立した生活が前提の契約が多く、介護されるようになったら今の場所を出て行かねばならないという、落ち着く場所のない不安です。この事に関して、ハード面を整えようと行政も真剣に事態を捕え計画をしています。しかしまた、私達がこれから何処に行くのかというのは、ハード面だけの整備では不十分で、精神面での備えも同様に必要となります。私達は生きて、そして死に、何処に向っているのかということへの回答です。

  イエス様が十字架で死なれた後に、納められたお墓をじっと見つめていた婦人達の記事が本日の個所に記されています。私は、この婦人達はどのような思いで、イエス様のお墓を見つめていたのかと思いを巡らしました。救世主と思われた人物の死による絶望でしょうか。いや彼女達の中には、このままでは終わらないのではという不思議な思いもあったと思うのです。つまり、イエス様が生前語っていたように復活の奇跡への期待です。イエス様の死を見つめるという事は、即ち私達自身の死を見つめるという事です。イエス様が朽ち果ててしまったのか、復活されたのか、それは私達のこれから行く先そのものを示しているのです。聖書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。まさにここにこそ、信じることの大切さが語られるのです。そして、それを信じて行くことこそが今の生活に希望の光を与えるものなのです。死んだらみんな同じ、死んでから考えればいいというものではないのです。それは今の生活に大きく関係しているからです。見えない事実を信仰によって確認し、希望をもって今週を良い日にしたいと願わされます。


「お見捨てにならないでください!」  
(マルコによる福音書15章33〜41節)No.227


 この聖書個所は、多くの聖書学者がその解釈をめぐって奮闘して来た個所であります。何故ならば、イエス様が十字架の上で「何故神は自分を見捨てられたのか?」という問いを発したからです。この言葉は、後の信仰者にとっては躓きともなる言葉ですが、聖書はその事を削除せずに記載してしまうのです。それは、その十字架のシーンを多くの人達が目撃し、修正することが許されない事実であったからなのでしょう。しかしこの一見不利とも思える言葉が仮に無くて、直ぐさまイエス様をエリアが助けに来たとしたらどうなのでしょう。そして反対者を天からの炎で焼きつくしてしまったとしたらどうでしょか。多分、それでは、現在までキリスト教会が残ることはなかったことでしょう。つまり、単なる作り話の宗教として世界の片隅にも残らなかったということです。しかし寧ろ、イエス様のおられた現実は、私たちの日常とまったく変わりがなかったことを示しています。どんな大声を上げたからと言って、自分に都合よく神が顕われる訳ではないという私達の現実。イエス様は、同様に苦しまれ、同様に叫ばれた、その中で信じる道を示し、復活へ到達するのです。つまり、この世の不条理を一身に背負ったような十字架は、私達の人生の苦難の意味を十字架に今一度直すことを促すのです。ここに力があります。

 先日、富士山登山に行って来ました。もう五回目の登山で、疲れたので7合目でよっぽど引き返そうかと思いました。何も誰か証人がいる訳ではないので、山頂にいったよ!と言えば誰も疑わないはずです。しかし、かといってそんな嘘をついて五度目の登頂を吹聴したからと言って何の意味があるのでしょうか。そこには何の力もない虚しい言葉だけが残るのです。本当に力を持つのは事実です。つまり、信仰で言えば十字架のありのままの事実こそが現代のキリスト教会を作り前進させているのです。これはまぎれも無い事実です。それは十字架の苦難と叫び、復活の力こそが真実であったことを証しするものだと思わされます。信じて今週も歩みたいと願わされます。



「侮辱されても侮辱しない心」  
(マルコによる福音書15章21〜32節)No.226



 
イエス様の人生はまさに真面目そのもの。神と人とにお仕えした生涯。友なきものの友となりて、地を奔走されました。しかしその結果として、十字架の苦難を背負う事になってしまったのです。私たちは人生の不条理への不平不満を常に覚えますが、あの生き方をしたイエス様でさえ、人々から無理解と苦難を受けたのですから、罪ある私たちが正当な評価をうけられるはずがありません。しかし、それでも信じる者はその道を進むことを願うのです。誠実に生き行動しても、理解されない生き方、それが信仰の道です。イエス様でさえそうだったのですから、私たちは勿論それでいいのです。信仰者への賞賛があるとすれば、それは豪華な王様の冠ではなく、茨の冠の栄光です。

 本日のお話しを模索するなかで、インターネットで「パッション」という映画を見ました。以前も観たことがありましたが、十字架へ向うイエス様の悲惨きわまりない姿。本当の十字架刑とはこんな酷いものかとショックを受ける人も多数いる事でしょう。きっとそれ以上にひどかったのが十字架刑なのです。この刑に服する中でも誠実を貫いたイエス様を信じて歩みたいと願います。


「茨の冠の痛みを知ること!」  
(マルコによる福音書15章16〜20節)No.225


 十字架にかけられようとするイエス様に、王様の格好をさせて、人々は馬鹿にし辱めたという記述が聖書にあります。人間は、何故、そのようなことをしなくてはいけなかったのでしょうか。問題人物を処刑して、この世から取り去ればそれでいいじゃないですか。そしてまた、イエス様はこんなに馬鹿にされるような、酷い事をどこでやってきたと言うのでしょうか?。寧ろ、この問題は、イエス様の処刑の原因よりも、人々の心の中にある抑圧された感情が引き起こしていると言えます。抑圧の連鎖構造が人々の心を歪め、互いを苦しめあって行く現象。いじめを受けたものが、更に自分より弱い者をいじめてその心の痛みを解消しようとする。どこまでも続く負の連鎖です。そしてその負の連鎖を人は容易に断ち切ることが出来ないのです。ただ、それを乗り越える方法がないわけではありません。いや寧ろ、これしか本質的に解決の道はないとも言えるのです。それが、信仰の世界です。自分の損得の感覚や、やられたらやり返したくなってしまうマイナスの心を切り替えて行く力が信仰にはあります。イエス様が、どのような思いで茨の冠を被り、唾を吐きかけられながらも願っていた思い。そこに私たちの心を寄せることで、はじめて自分の思いを超えて神の思いへ近づけるとも言えるのです。そしてさらに言えば、神の心に近づくことこそが、私たちが真の人の心を取り戻すこととも言えるのです。

 人をバカにしたり、大きな声を張り上げたり、暴力をふるう事が「強さ」ではないのです。本当の強さとは、イエス様のように、敵さえも愛する心を持つことなのです。優しさこそが、本当の人の強さを示すのです。悪に負けてはいいけません。神に近付くのです。どうか今週も主ご自身が私たちを守り導いて下さいますように。                


「釈放された者として生きましょう!」  
(マルコによる福音書15章6〜15節)No.224



 私たちの人生の進む方向や終点とは何処なのでしょうか。介護事業を通して様々な方と出会い、そのことを考えさせられない日々はありません。獲得して行く人生から、手放して行く人生へと私達は進んで行きます。そこでは成果や強さが大切なのではなく、もっと深い意味での心が必要なのだと思います。私はこの場面では、多くの場合は男性より女性の方が、この心を備えているように感じています。男性は、多くの場合、成果主義の中で訓練され過ぎてしまい、目標や効率に縛られて、それを失うと喪失感が大きくなります。またその半面、女性社会は、買い物一つでも、物を購入するという目的に縛られず、その行為自体をエンジョイして行くのです。目標やゴールの設定なくしても、有意義に生きられる方々がいる。私もそんな豊かな心をもった人生を歩みたいと日々思うのです。そしてそれを更に可能にするのが信仰です。

 イエス様のかわりに、釈放されたバラバのその後の人生はどんなものだったでしょうか。またそのことは、私たちもイエス様によって釈放されたものであることを告げています。折角、救い出してもらった人生。その人生を意味あるものにしたいと誰もが思います。しかしその意味あるものとは、見える建物や成果ではない、見えない世界の価値によって意味づけられるのです。それは信仰の世界です。全てを手放しても、人を生かし平安を賜るこの世界に生涯とどまりたいと願わされます。


「王ではなく神として」  
(マルコによる福音書15章1〜5節)No.223



 ある熱心な信仰者が「明日は晴れになりますように」とお祈りをしたとします。そしてまた、他の熱心な信仰者が「明日は雨が降りますように」とお祈りをしたとします。さてでは、神はどちらの願いを聞き入れて下さるのでしょうか。この質問は、一見すると最もの様ではありますが、更に言えば、その質問者は神の偉大さも力も何も知らないという事になります。神は、私たちの願望の投影者ではないのです。イエス様はユダヤ人の王としてこの世に来られたのではなく、イエス様はメシアとしてこの世に到来されたのです。それは、何度も繰り返し繰り返し罪を続けてしまう私たちを救い出すためなのです。では、何故、神はそんなことをなさるのか?。その答えは単純です。つまり「神は愛」だからです。ただの人である私たちでさえ、愛する人の救いを望むようにです。

 本日は、日本中会のミッションサンデーです。ミッションと言う言葉は、宣教とよく訳されますが、語源は伝達するという意味です。それでは、何を伝達するのか。それは裁きではなく、救いだということです。私たちは裁きを告げることは容易に出来るのですが、救いを告げるとなると、どうすればいいのかと立ち止まります。それはそれ程に、救いを告げることが少ない現実を表しているのです。寧ろ、積極的に、意識的に、救いの到来を告げて行くこと。愛されている故に赦されている事。この事を聞いて嬉しいと思わない人はいません。誰でも、救われたいからです。この教会のミッションを心にとめて今週も進みたいと願います。



「見えざる手」  
(使徒言行録16章6〜10節)No.222

               
説教 唐澤健太牧師


 パウロは二回目の伝道旅行において繰り返し進路変更を余儀なくされます。パウロたちは思い通りに事が進まない挫折を経験しながら地中海に面した小さな港町トロアスに辿り着いたのです。著者ルカは進路変更の詳しい理由を一切記さず「聖霊から禁じられた」、「イエスの霊がそれを許さなかった」とだけ記します。つまりパウロたちがトロアスに到着したことは、決して挫折や失敗などではなくて神の導きであったことを聖書は伝えているのです。そして不思議なことにこのトロアスでパウロは一人のマケドニア人の叫びを聞き、トロアスからパウロたちの宣教はヨーロッパ地方へと開かれていったのです。

  神様の不思議な導きには、時として巧妙に他の道を断つという方法があるのです。私も道が閉ざされることを通して神に導かれた一人です。高校を卒業して大学に進学する時に推薦によって希望の大学に進めることがほぼ決まりかけていたところで、予想外のことが起こりその道は閉ざされてしまいました。結局私は希望する大学へは進めませんでした。しかし、私には挫折としか思えなかった大学で私は牧師としての召しを受けたのです。今では私が経験した予想外のことは「聖霊から禁じられたこと」と見えざる御 手の導きを信じ告白するものです。

  私たちの人生や教会の活動において、私たちも計画を立てます。しかし、すべてが思い通りに、計画通りには進みません。必ず挫折や道が閉ざされる経験をします。しかし、道が閉ざされる出来事の中に、なお神の見えざる御手の導きあることを今日の聖書から受け止めたいのです。たとえ挫折や失敗の意味をすぐに理解することが出来なかったとしても、後の日に、あの日も確かに「神の召し」の中にあったということを「確信する」ことが出来ればと願います。神様の不思議な導きに委ねて新しい一週の歩みへと遣わされて行きましょう!


「あの連中の仲間になる!」  
(マルコによる福音書14章66〜72節)No.221


 人は気を付ければ修正できる部分と、気を付けても直せない素性のようなものがあります。ペテロは、14章29節ではイエス様に絶対私は躓きません!と言いますが、この個所では、誓ってイエスなど知らん!と言ってしまいます。それは勿論、捕えられ刑に処されるのを恐れたからでしょう。しかしまた、その姿は努力で乗り越えられない私たち自身を表していると思うのです。心から誓っても、自分の弱さで次の瞬間は、それを否定してしまう。寧ろ、このペテロの姿の中に、私たちは自分自身を見つめるべきなのでしょう。

  その場にいた人は、ペテロに「お前はあの連中の仲間だ」と言います。しかし、もしもその仲間の条件が、迫害の中でも勇ましく揺るがない強い信仰者であることだとすれば誰が仲間になれるのでしょうか?。寧ろ、その仲間であるということは、イエス様の前から逃走してしまう様な人間でありながら、なお、罪赦されたものであることを知るものだと思うのです。強さを主張していく生き方から、悔い改めと赦しを信じる生き方、そこから新しい人生へと何度でも出発できる生き方です。あの連中の仲間にあるとは、そういう信仰を持つことだと思うのです。

 テトスへの手紙3章5節「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」             



「何も答えない真実」  
(マルコによる福音書14章53〜65節)No.220


 最近、携帯電話を二回ほどコンビニに忘れて来てしまう事がありました。原因は、携帯電話のお財布機能で支払をしたまま置いて来てしまうという失敗です。この失敗を改善する方法としは、支払うときに携帯から手を離さないということで解決することが出来ました。私たち人間は、忘れないようにしようとしてもなかなか改善できないものです。寧ろ、人は忘れるものであるという前提で、どうすればよいかと考える方がより建設的です。信仰生活もそれに似ています。強い信仰を持ち続けようというと言うよりも、どうすれば信仰の道に留まっていけるかというテーマです。その答えは、手を離さないことです。聖書の言葉に親しみ、時ある毎に祈り、礼拝を大切にしていくことです。

  イエス様は、裁判の席で不利な証言を立て続けにされても、黙って何も言わなかったと記されています。勿論、答えられなかったのではなくて、答える必要がなかったのです。語るべき真実は一つ、神の子メシアとはイエス様自身であるという回答です。私たちはこの真実から手を離さないことです。ここに留まりつづける限り、私たちの人生は何があっても大丈夫です。
信じて今週も歩みたいと願わされます。 


「差別なき聖霊の風を感じて」  
(使徒言行録11章1〜18節)No.219


 ぺテロが見た夢は、私たち自身に大切な神のメッセージを与えています。天からつりさげられてきた袋の中に、地上のあらゆる生き物が入っていたと。その中の獣や野獣も、神は清められ、それ故に清いものとして取り扱いなさいと言うのです。ペテロは今までの自分の価値判断から、神の価値感へと変えられて行くのです。

  私たちが神を信じて生きると、自分自身の価値感で生きるのではなく、神の価値感で生きることを意味します。神は全てのものを救いの対象とされるのです。そして、差別なく赦され救われた者とは私たち自身の事なのです。

  先月訪問した高齢者施設の話ですが、ある施設では、職員は高学歴の者だけを集め、高額なサービスでハイソな文化を施設内に作り出しているというのです。その高い文化?を売りのバリューとしているとのことです。しかしそれが本当に「高い文化」なのでしょうか。寧ろ差別に満ちた低い文化のように感じました。聖書の話から言えば、天から吊るされてきた袋の中身をバザーの籠のように、自分で別けているような状況。年を重ねて、本当の生きる意味を知るべき時に、そのような価値感で生きることは、神の願われる世界とはまったく相いれない、寂しい世界だと思わされました。

  私たちは今一度神の価値感に立ち返り、何が正しく、何が神の求められることであるかを受け止めたいと願わされます。   



「ついて行きたい思い」  
(マルコによる福音書14章51〜52節)No.218


 この短い聖書の個所は、長年、聖書学の世界で議論され続けている個所です。ここに登場する若者は誰であり、何の為に記されているのでしょうか。弟子達が逃げ去ったという記述の後に、何故この記事が記されているのでしょうか。普通の著者ならば、話の流れ上は不要として削除するような記事です。しかし聖書の伝承保持という原則に基づく時、この不要とも思えるこの文章は違和感一杯の中でも削除されないのです。その理念は、イエス様に関する伝承をなるべく変えることなく、正確に残しておきたいとの初代教会の意思があり、そこに神の意図があると信じる信仰があったからです。そのような意味からこの記事を読む時、この青年が何としてもイエスについて行きたかった思いを著者は読者に伝えたかったのかもしれません。暗闇のようなイスラエルの現状の中で、光を差し込み真理を語ったイエス様について行きたい。人生を導いて欲しい。その思いは時代や状況が変わっても、人間にとって同様の願いなのです。

  この青年は、結果的には捕えられるのを恐れて逃げ出してしまいました。思いはあるが、従いきれないのが人であり、私たちも同様なのです。しかしだから私たちは駄目なのか。救いようがないのか。火炙りになっても逃げ出さない信仰がなければ救われないのか?。聖書は、そうではなく、信仰の確信は、常に揺れ動く人の側にあるのではなく、神の側にこそあると伝えます。私たちは自分の強さではなく、弱さを見つめる時に、はじめて神の力を知ることが赦されるのかもしれません。罪を告白して、神への信頼を持ち続けたいと願います。


「聖書の言葉が実現する時」  
(マルコによる福音書14章43〜50節)No.217


 スポーツ選手の活躍がテレビでよく報道されています。その選手の表情を見る時、勝利の感動、使命を果たした喜びなど他に変えられない充実感があるのだろうと思います。しかし全ての人がそのような充実を味わう訳ではなく、それはほんの一部の才能豊かな人達だけに許されたものなのです。そしてまた、その優秀な人達もまたその充実を手放さねばならない日が必ず来るのです。私達の人生が、多くの充実や感動だけを求め続ける限り、かならず挫折と失意の中に引き込まれてしまうことでしょう。そうではなく、私達は、全てが失われても滅びることのない、聖書の言葉に人生の基礎を置かなくてはならないのです。その時に、社会や他者に翻弄されたような人生から、岩の上に基礎を持った家のように揺るがない人生が与えられるのです。

 新約聖書のヤコブの手紙に「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」と警告が語られます。しかしそれに続けて むしろ、「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」と御言葉が続くのです。何という慰めであり、導きでしょうか!。ここに私達が人間が立つべき場所があるのです。信じてこの道を歩みたいと願わされます。   


「心は燃えていても体は弱い」  
(マルコによる福音書14章32〜42節)No.216


  夜に見る夢は、その人の精神状態を反映していると言われます。例えば、家や会社が壊されてしまう夢というのは、他者に人生をコントロールされている不安からの場合があるそうです。考え過ぎはよくありませんが、私達は確かに他者にコントロールされているのです。それは神です。イエス様を裏切ってしまった弟子や、反対勢力の律法学者も同様に、神の意思の中にいるのです。それを知らずして、イエス様を十字架に追いやり、復活と救済の片棒を担ぐのです。

 そのことは私達も同様なのです。ですから多様な祈りを献げることの大切さとともに、イエス様が祈ったように、「何でもお出来になる方が御心を行ってくださいますように」と祈ることも大切なのです。私たちは体だけでなく、心も直ぐにくじけてしまう弱いものなのです。成すべきことを行えず、御心を行えないものなのです。しかし私達は不十分でも、神は正しく相応しい御心を行ってくださるのです。箴言に「19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」という言葉があります。この言葉は、なんと私達に慰めと安心を与えてくれる事でしょうか。弱い者でも、失敗があっても、神は正しい方向に導いて下さるのです。この方に信頼を寄せて歩みたいと願わされます。


「神を知らないと叫ぶ心」  
(マルコによる福音書14章27〜31節)No.215


 先日電車に乗り、さて携帯のメールでもチェックするかと思い、ふと周りを見回しました。すると数人の若い人達が案の定、携帯の画面を見つめているのです。そこで気付いたことは、若者の携帯が全てスマートフォンという機種なのです。そして、何かヒソヒソと「あの人、携帯使ってるわよ?古いわね〜やだわ!」という言葉が聞こえてくるような気さえしたのです。

 勿論、これは私の気のせいですが、何故人は恥ずかしいと感じるのでしょうか?。例えば信徒の方も「私は神様を信じています、クリスチャンです」と公に言い表すのを躊躇した経験があると思います。何故そう思うのでしょうか?。そこには人の心の内に、他の人とは違う事への不安感があるからなのです。人から指摘されたり、目立ってしまったりしないように、なるべく同じように生きようとするのです。そしてそれは自然な人の心だとも思うのです。

 しかしその生き方だけですと、信仰の道に入るのは難しいかもしれません。ペテロに、イエス様を知らないと叫ばせた心の不安。それは勿論、自分も投獄されたり迫害に遭うのではという恐怖から発せられた言葉でしょう。ただ、もう一方で、神を知らないと叫ぶ声には、私たちの心の奥底に、神を求めたいが他者と違う行為をしてはまずい!という心の投影もあるはずです。

 私達は、自分だけで生きるのでも、常に連帯して生きるのでもないのです。自立と共生が調和して人格が形成されるのです。周りが何と言おうと、個人として守るべき信念や信仰、そしてその個が共に生きるための相互愛。そのことをよく受け止めると、人はとても自由になるのです。他者に依存しない、個の信仰の自由。この信じる道こそが、携帯の機種は変わっても、他者から決して古いと言わせない命の道なのです。 



「パンと葡萄酒の意味として」  
(マルコによる福音書14章22〜26節)No.214


 聖餐式の意味は、救済の出来事を忘れないようにするための記念行事だけではありません。パンと葡萄酒に与ることは、キリストの苦難を実感し、またその恵みを実際に体験することにあると言われます。この決して滅びることのない、キリストとの実体験を伝えて行くのが伝道です。

  先日、ある愉快な話しを聞きました。以前、私が高座教会に招かれた時に、その話しを聞いていた信徒の方が「あの時の鈴木先生の話しはとても共感したので忘れないようにと思っていたが、今は何の話だが思い出せない!」とのことです。私はこの話しを聞きまして、心からそれでいいんだと思いました。人の言葉は、瞬間瞬間の勝負です。その日、その時に価値があっても、一週間もたてば、多くは色あせてしまいます。しかし、神の言葉は、聖書の言葉は、時が過ぎれば過ぎる程、宝石のように輝く価値があるのです。教会の働きも同様です。私たちは色々なことをもって働きを捧げます。それは、人から感謝され歓迎されることも多々あります。しかしその働きが全て忘れさられた日でも、教会は聖書の言葉を神の恵みを伝えていたことが人々の心に残ることこそが私たちの使命です。聖餐式の持つ大切な意味を神の言葉として伝えて行きたいと願わされます。                      


「準備の時を大切に」  
(マルコによる福音書14章12〜21節)No.213


 エリクソンという学者は、幼児期から老年期までの人生を6段階に区分しました。その最終段階である老年期のキーワードは「統合と絶望」です。統合とは、今までの自分の人生に起こった良い事も悪い事も「これでよかった」と受け取る精神状態です。それに対して、自分の人生の価値を肯定的に評価出来ず劣等感や虚無感に苦しめられ、このままでは死ねないと恐怖に怯え、絶望していく状態です。この言葉を聞くと、実際自分がその立場になった時どのように受け止められるかと不安感を感じさせられます。健康も能力も全てを神様にお返しして行く中で、私たちはこのことを「これでよかった」と受け止めることが出来るのでしょうか。もしも、同様に不安を感じられる方がいるのでしたら、是非、信仰の道を目指される事をお薦め致します。

  来るべき天の御国に迎えられるまでの私たちの人生は、準備の期間のようにも思えるのです。その日に向って、どれだけ人間性を成長させて行けるか。これで良かったという人生を振り返られる心の準備です。本日の聖書個所に記される裏切り者ユダの姿は、まさに統合を失敗した人生の代表のように思えます。見えないものの価値よりも、目の前の効率や金銭に人生が振り回されてしまったのです。彼の死は、決してこれで良かったと思えるものではなかったことでしょう。

  しかし信仰に生きる道は、仮に人生の一場面でユダのような失敗をしたとしても、統合出来ないという事はないのです。自分の人生を振り返り、その大きな失敗も神が自分の準備にあてられた期間であり、悔い改めと救いに信頼するために必要不可欠な出来事であったと受け止めるのです。これこそが、信仰の道です。イエス様は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われます。この道に留まりたいと願わされます。  


「あなたの人生も復活します。」  
(マルコによる福音書16章1〜8節)No.212


 イースターの象徴は何と言ってもイエス・キリストの復活です。しかし、この死人が生き返るという教理で、キリスト教は2000年もよく続いて来たとも言えます。常識ではありえないし、真面目な顔をしてそんな話しをしたら笑い者です。しかしそれでも、地球上でもっとも多くの人が、この信仰を大切にしているのです。先週の個所で、ユダが高価な香油をイエスに注いだ女を責めた記事がありました。ユダの判断は人間社会では極めて常識的で良心的なものでした。しかし、それは人の常識であって、神の常識ではなかったのです。信仰とは、人の常識が神の常識に追いつかねばなりません。その中にこそ信仰の奥義があるからなのです。

 先週、私の父親が召されました。現役をリタイアして長かったので、私自身の生活にこの他界が大きな影響を与えることはありませんでした。しかしやはり、父親の死は、何となく寂しい感じがします。また、父親の人生は何であったのかと改めて思わされるのです。

そのような意味では、来るべき神による復活や天での再会の希望は、地上での生涯に無理な意味付けをすることからも解放されると言えないでしょうか。来るべき時に、全てが明らかになる。神がそのご意思を開示される。だからこそ、今は与えられた分に応じて生きて行けばいいのです。そこには、安心や平安があります。このような心を私たちに備えて下さるのがイースターのメッセージです。復活を信じて、今日を生きて行きたいと願わされます。



「神を失わずに歩め!」  
(マルコによる福音書14章10〜11節)No.211


 オリンピックの選手だった青年のその後を特集している番組が放映されていました。期待された選手でマスコミも大いに取り上げましたが、結果が出せずに試合を終えてしまいます。選手としての結果を出せないその後は、今までもっとも信用していた人まで離れて行ったというのです。 

  このような関係性や、存在の評価は何とも虚しい限りです。しかし神によれば、人間は全てを失っても認められ愛される存在なのです。この聖書の個所で登場するユダという人物は、自分の価値を世俗の評価によって判断しようとしたのかもしれません。前の個所でも香油の価値を金銭に換算し論理的に物事を進めようとします。しかし、神の価値感はそのような世俗の論理でなく、一人ひとりの心の中の痛みを見つめるような肯定的な評価だと思うのです。品物や金銭に還元できない、根本的な人間の内面の評価。善を行いたくても出来ない人の姿、人を傷つけたくないのに争ってしまう心の貧しさ、そのすべてを受け止めて、救いをもたらすのがイエス・キリストのご恩寵です。そしてそれを認めることが信仰の道です。

  世俗の自己評価を離れ、神の言葉によって生かされる人生に私たちは心を切り替えたいのです。勿論、容易ではありませんが、それを知っているか知らないかでは天と地ほどの開きがあるのです。是非、神が私たちに賜る恩寵を忘れることなく、日々を進めたいと願わされます。 


「二千年間も語られる出来事」  
(マルコによる福音書14章3〜9節)No.210


 この聖書の個所で注目されることは、イエス様は人の行動よりも、その行動を起こした背景となる心を見ておられるという事です。高価な香油を売り払えば、沢山の貧しい人達を助けられることが出来たのは間違いありません。またイエス様も、他の個所では財産を売り払い施すことの重要性を語っていたほどです。

  しかし、ここでは違うのです。何が違うかと言えば、この女性が、その様な経済的整合性よりも、十字架刑に旅立つイエス様に、出来る限りの寵愛を示そうとした行為が高く評価されていたことです。ここに神の目線があると思うのです。

  私たちの教会のメンバーであった三浦兄の人生は、正に波乱万丈極まりないといった人生でした。しかし彼の志しは高く美しいものでした。効率や高価といったものでは、到底、測ることの出来ない価値が人の心の内にあります。それをイエス・キリストは見つめ、賞賛され、いつまでも語り継がれる言葉として人々に告げるのです。

  私たちの働きは小さなものです。時として、傍から見れば無価値で無意味に映るものかもしれません。しかしそれでも神に喜んで頂けるように、神が何を求め、何を望んでいるのかを心にとめて日々を歩みたいと願わされます。


「石さえも叫ぶ時」  
(マルコによる福音書14章1〜2節)No.209


 説教題として付けた「石が叫ぶ」出来事は、ルカによる福音書19章に記載されている言葉です。本来、言葉を発することのない石が叫び出すとは、その、のっぴきならない出来事の大きさを表していると言えないでしょうか。そしてその出来事は、聖書の世界だけではなく、私たちの日常の中にあると思うのです。生活の困窮が、人生の痛みが、押し殺したように黙ってやり過ごそうとしても、叫びとなって現れる。そのような意味では、イエス・キリストはまさに私たちの人生の代弁者そのものなのです。進んで、自ら受難を引き受け、十字架への道を進まれる人生。そこから発信される言葉は人と同じようでも全く違う意味を持つのです。

  映画監督の守山さんという方が、ニュアンスの違いということを語っていました。「人生は苦しい」という言葉も、若者が言うのと、年輩者が言うのでは違った意味を持つというのです。まさに、そのような意味では、十字架にかけられるイエス様の言葉は、私たちの言葉とは、まったくニュアンスの違う重みを持つのです。石さえも叫ぶことを止めない真実、それは罪ある人が、なおも救われるというメッセージそのものです。

 もうすぐに受難週が訪れます。また、復活祭(イースター)が到来します。是非、この事を心深くとめて日々を過ごしたいと願わされます。


「心の目を覚まして」  
(マルコによる福音書13章32〜37節)No.208


 聖書に記される世界の終りの時とは、単なる大災害ではなく、全ての人が裁きの座に立たされる時なのです。災害で命を失うことが最後ではなく、その後の裁きの方が遥かに恐るべきことであることを私たちは信仰によって知るべきなのです。ではその時に向けて、今は何をするべきかと言う事です。聖書によれば「目を覚ましていなさい」ということです。では目を覚ましているとはどういうことでしょうか?。それは、目を覚ました生き方をするということだと思うのです。裁きの日を軽んじて、自分の好きなようにだけ生きようとしてはならないのです。大きなことは出来なくても、小さなことに忠実に生きることです。

 最近の政治の話題で「不退転の決意で」と言う言葉がよく取り上げられます。しかし、それを進めるには、国民に納得してもらうべき改革を一つひとつ忠実にこなして行く必要があると思うのです。それが履行されて行けば、誰もが納得することでしょう。小事に不忠実なものに、大亊を任せる人はいないはずです。信仰もまったく同じことです。小さなことの積み重ね。その第一は、礼拝を大切にすることです。これを外しての信仰の道はありません。毎週毎週を積み重ね、来たるべき日にも、慌てず揺るがない心の目を整えて行きたいと願わされます。


「決して滅びない言葉」  
(マルコによる福音書13章28〜31節)No.207


 聖書は、世界の終末と裁きの時の到来を明確に告げます。しかし、その神の告げる戒めとは、決して何かのルールに嵌められた同じ人間を作り出すことではありません。独裁主義国家で行われている”膝の曲がらない行進”を一糸乱れず行うように、神は求めている訳ではないのです。神は、私たちを体のそれぞれのパーツに例え、その個性や個々の役割の大切さ、それぞれの違いの美しさを語られます。そして私たちは別々の違った個性と個体でありながら、神に繋がる葡萄の枝であり、一つの体であることを聖書は語ります。違いがあっても、ばらばらなのではなく、私たちを繋げるのが神の言葉なのです。世界の終りの日が来ても決して滅びない言葉によって、私たちは繋げられているのです。この言葉こそが私たちを生かすのです。

 最近、フレンドシップあさひの求人に関して数人の方と面接をしました。この採用を前提とした面接というのは、ある意味でとても難しさを感じさせられました。それは誰を採用するかという判断や迷い以上に、面接官は面接者に対して優越的な立場に立たされているということなのです。何か偉そうな、何かの権力を持っているかのような立場。もしも私に、神の言葉がなければ、大いに胸を反らせ、上からの言葉を語っていたことでしょう。しかし、神の言葉を頂いている者としては、面接において問われているのは、面接者ではなく、面接官自身であることが示されてきたのです。「人を面接しようとしているお前は何者なのか、良くわきまえるように!」と天から語られているような気がします。神の言葉、私たちをいつも正しい道へと導かれ、永遠の命へといざなってくださいます。今週もこの言葉を信じて生きて行きたいと願わされます。


「選ばれる事の意味として」  
(マルコによる福音書13章24〜27節)No.206


 
聖書は、イエス・キリストの再臨の時、選ばれた者たちが天へ迎えられると記している。ここに記されている選ばれた者たちとは、間違いなく信仰告白したキリスト者の事です。信じる者は救われるという言葉そのものです。しかしではクリスチャン以外の人は、どうなるのかという疑問が残ります。親しい人を亡くしても教会に来てなかったから地獄に落ちてしまうのか?という疑念。重要なことは、この個所ではそのような議論はされていないと云うことです。あなた方は信じなさい、信じる者は救われるからという話です。生前に信仰に至らなかった人たちが、天国へと迎えられるかどうかは、神様ご自身がお決めになることなのです。私たちは、立派な行いによって救われたのではなく、ただ信仰の道に出会ったということだけで救われました。それ故に、この救いの恵みが差別なく他者へと広がるようにと祈り宣教に仕えていくことが神から求められているのです。ですから、いつまでも机の上で議論している信仰に留まってはなりません。本当は信仰の道を求めている人が沢山いるはずなのです。地域の方々へ、この本物の信仰の道をみんなでお伝えしていきたいと願います。


「苦難の日の到来」  
(マルコによる福音書13章14〜23節)No.205


 さて、明日が世界の最後の日ですが、あなたはどうしますか?と問われたら私たちは何と答えるでしょうか。宗教改革者のルティン・ルターは「明日、地球が滅びようとも、今日、私はリンゴの木を植える」と語ったと言われますが、まず間違いなくそんなことをする人はいないでしょう。明日が世界の最後の日だとしたら、私は迷わず教会に向かい、愛する教会の兄姉と礼拝を献げたいと思います。私たちの世界は、いずれ、必ず、今まで経験したことのないような苦難の日々を迎えることでしょう。神がその手を下さなくても、昨今の環境破壊や原発事故を見ていると、人間が自らそれを招いてしまうように思えるのです。

  聖書は、私たちにその日が来る前に、「悟る」ことを求めています。「悟」という言葉は、己の心と書きます。つまり、自分より外側の現象を客体的に理解するということではありません。今、置かれた現状の中で、自分自身を知ることなのです。

 勿論、「悟る」というと難しいようで、何か仏教的修行をしないと到達出来ないかのように思えますが、私たちにはキリストにある信仰があります。この信仰によって、私たちにはそのことが予め示されているのです。だからこそ、慌てないのです。いよいよの時は、教会に集えばいいのです。私たちと世界を造られた方に従えばいいのです。ここにこそ、信仰に生きる真の価値があると思うのです。今週も信じる者として行きたいと願わされます。



「最後まで耐え忍ぶものは幸いなり」  
(マルコによる福音書13章3〜13節)No.204


 聖書に示される終末の預言は、私たちに不安感を与えます。そのような日が、来たならばどうすればよいのか。そのような人に「最後まで耐え忍ぶものは救われる」と聖書はメッセージを残しました。しかしこの耐え忍ぶと言うのは、何かの修行や訓練を受けた強いものだけが生き残るということではありません。また、道徳的で正しい人、正義感に満ちた賢者が生き残ると言うのでもありません。ここで、最後まで耐え忍ぶとは、信仰を持ち続ける者こそが救われるということなのです。エルサレムの神殿が崩壊して跡形もなくなっても残る信仰。それを私たちは第一に求めなくてはなりません。
 
  以前、経理事務所の人と話しをしていて、興味深い話しを聞きました。ある会社経営者が、決算期に帳簿を会計事務所に提出したそうです。しかし、間違えて裏帳簿を提出してしまったそうなのです。担当者が指摘すると慌てて、表帳簿を持って駆け付けて来たとのことです。このことは何か笑える話ではありますが、私たちの信仰にも関連しているかのように思えました。

  私たちは、神の前に体裁の良い表帳簿を提出しなければ救われないのではないのです。寧ろ、隠しておきたい人生の裏帳簿を間違って提出してしまったとしても、神は信じる信仰の故に赦しを与えて下さるのです。守るべきは、自らの正しさではなく、神への信頼です。いつ、終わりの日が来ても、どんな人生の裏帳簿が出来あがってしまったとしても、
このイエス・キリストという方を信じて歩みたいと願わされます。


「朽ちない冠をあなたに!」  
(マルコによる福音書13章1〜2節)No.203


 
三浦徹也兄が召天をして、早いもので二年の月日が経ちました。また、あさひ伝道所が開所して今年の4月で丸四年の月日が流れました。この時に、朽ちない冠を目指して進む信仰のありかたが今一度問われているような気がします。弟子達が、エルサレムの神殿を見上げてその荘厳さを称えたことに対して、イエス様はそれが朽ちて行くべき冠であり、本当に大切なものに今一度目を向け直しなさいと言われました。

 三浦兄の一生は、まさに人生の虚無との戦いだったと思わされます。彼の口から度々漏れる言葉に、その痛みをいつも感じさせられていました。しかし、だからこそ彼は、朽ちない冠を得たいと願い信仰の道を進みました。彼は、この地上では、その全てを得ることは出来なかったかもしれません。しかし確かに、その方向性に誤りはなかったと思うのです。

 生き方は様々です。人生の苦悩も課題も様々です。しかし、その進むべき方向性が、神の側に向かい続ける限り、どんな挫折があろうと、その人生は成功であったと言い得ると思います。

  私たちの教会の使命は、ぞれぞれの人生が与えられたことの素晴らしさと、来るべき日の救いと希望を伝えることです。そのことを、伝道を通して、介護事業を通して、この地域にお伝えして行ければと願わされます。


「介護保険の改正と共に信仰」 No.202

 
  今年の4月に介護保険の大きな改正が行われる事が決定ました。これにより、民間の通所介護事業所は大きな減算を受け入れるか、職員の負担増を選択するかという究極の選択を迫られています。2月中にはどのような体制にするかを明確に示し、体制変更を急ピッチに進めなくてはなりません。お国の発表としては今回の改定の狙いは、利用者家族の更なる介護負担の軽減と介護報酬の適正化にあると謳っていますが、その煽りの全てを事業者と介護職員が被ることになるのです。厚生労働省さんは何を考えているのでしょうか?。

  しかしまた、よく考えると、法改正前と後で、実際は利用者さんの状況が大きく変化している訳ではないのです。生活に困っている人の状況は変わらず、私達のサービスがその方々から必要とされている事実も何一つ変わらないのです。それ故に、改正の混乱に振り回されるのではなく、困窮している方々一人ひとりを思い浮かべることこそが、今後の道を備えてくれると思うのです。
それは正に信仰に生きる私達にとっては、天を見上げ隣人に仕えるということそのものです。

 先日、私の父の誕生日をフレンドシップあさひで祝って頂きました。何か一言と父に聞きますと「人生いろいろあるが・・・」と言っていました。言いたいことは明確ではなかったですが、嬉しそうな顔をしていました。本当にスタッフの方々に感謝しています。私は所長であると共に、利用者の家族であり、どんな思いで家族が利用者さんを送り出しているのかを知る機会を与えられています。その感想としては、間違いなくこの働きは役に立っているということ、そしてイエス様も喜んで下さっているということです。是非、この働きをお祈りに覚えて頂ければと願います。
               


「余っていても、乏しくとも、」  
(マルコによる福音書12章41〜44節)No.201


 
聖旧約の箴言では、罪を犯さないために、神に貧しさも富も私に与えないで欲しいと願うソロモンの言葉が記されています。
人間は、貧しくても、富んでいても心の病んでしまう厄介な生き物です。そのような人間に、イエス様は量ではなく、質の問題を語るのです。

 100円の献金を捧げた女性と、何万円もの献金をした財産家を対比して、神は100円を捧げた女性を称えるのです。その価値感は非常に崇高な神からのものですが、全ての人がその価値を賞賛して、イエス様に従っていた訳ではないのです。イスラエルの中でも、神に選ばれた民だけがそのことを心の奥深くに受け止めたのです。言葉が如何に真実でも、その行いが如何に正しくても、それを受け入れ従うにはあるハードルがあるのです。それが信仰の世界です。

 世俗の価値観は、信仰の世界の価値観とまったく違う世界です。その中から、信じる者は選び出され、成すことをしなさいと言われるのです。与えられた使命に旨く応答できるか出来ないかは、別としてもその素晴らしさを私たちは信仰によって知っているのです。生涯この道を信じ、追い求めて行きたいと願わされます。


「人一倍厳しい裁きを受けないために!」  
(マルコによる福音書12章38〜40節)No.200


 聖書は、この個所に登場する律法学者だけでなく、人間全てが厳しい裁きの対象であることを告げています。そして、更に言えば、その裁きからの赦しを告げるのが、キリスト教の教理の中心です。私達人間は自己の努力では、どうしても、罪の姿から抜け出すことが出来ない者と言えるでしょう。そのような私達に、聖書は神を信じなさいと告げるのです。清く正しい生き方によって、自らの義を立てるのではなく、神の義を盾にして救いを受けなさいと聖書は語るのです。

 しかし、それにしてもキリスト教会の宣教状況は、特に日本では芳しくない状況です。この世に悩みの無い人などいません。しかしその悩みを神に委ね、信じる道を求める人は何と少ないことでしょうか。勿論それは、教会の宣教方法への課題である共に、人々の心にも課題があるのかもしれません。人は、その悩みの限界に達する時が来るのです。そして、人は必ずその救いを聖書の示すイエス・キリストに求めなければ解決できない時がくるのです。私達は、その時を目指して、石にかじりついてもキリスト教会と礼拝を守り続け、十字架を掲げ続ける使命があるのです。

 今年は、その使命を果たすべく、伝道集会や家庭集会も展開する予定です。勿論、大変なことは多々ありますが、信仰にある救いを兄姉と共に福音を告げ知らせて行きたいと願っています。



「おいでください、イエスよ、ここに」  
(ヨハネの黙示録3章14〜21節)No.199

              
説教 古畑和彦牧師


 ラオディキアの教会の誤りは、豊かさのゆえに自己満足に陥って、自分の真の姿を分かっていないことにありました。キリストの目からみれば、彼らは「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」でした。2章に出てくるスミルナの教会が「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」と言われていることと対照的です。キリストは、ラオディキアの教会に三つの物を買うように勧めています。神に対する信仰を指す「火で精錬された金」、イエス・キリストの十字架の血潮で白くされた「白い衣」、聖霊の働きのことを指す「目に塗る薬」でした。この三つの物を買うためにはどうしたらいいのでしょうか。買い物にどこかにでかけなければいけないのでしょうか。それとも、何か特別な修業をしなくてはいけないのでしょうか。そうでは、ありません。この三つの物を下さる方が、心の扉の外にたって、ノックしておられるのです。この方をお迎えする時、たとえ「苦難や貧しさ」の中で労苦していたとしても、キリストが共におられるがゆえに、「本当はあなたは豊かなのだ」といえる人生を歩むことができるのです。これこそが、景気と不景気、いのちと死、略奪や破壊にも左右されることのない、本当に幸いな人生であるということができるのです。
「おいでください、イエスよ、ここに、この胸に」
(讃美歌443番)


「希望は、既に芽生えています!」  
(ヘブライ人への手紙11章1〜3節)No.198


 神は新しいことを始めると記されています。そして、それを見る前に確信することこそが信仰であると記されています。また重要なことに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」とあります。新しいとは、新規に始まるという事とともに、古い事を捨て去るという重要さがあることを教えられます。古い失敗、古い人間関係、古い痛み、それらを全て新しく刷新していく事が、神の新しさなのでしょう。過去の失敗や、こじれてしまった人間関係も、また一から新しく始めること。それが信仰の新しさ、神の与えてくれる新しさなのです。そう考えると、この一年のスタートは、ワクワクするような希望に満ちていると思うのです。

 神は私達に、特定の人にしか到達できない、心を無にした精神修行のような信仰を求めているのではないと思うのです。過去に縛られず、新しく生きる人生の素晴らしさを説いているのです。到達できないものが、みんなで信仰もった一年を歩みたいと願います。 


「人となられた神の子」  
(マルコによる福音書2章13〜15節)No.197


 
人の心には、どんなに肯定的な言葉が出ていたとしても、その背後には不安があるのです。それは、絶大な力を持つ国の王という立場でも同じです。ヘロデ大王は、イエス様の降誕の噂を聞きつけ、その出来事が本当ならば自分の地位が失われると恐れるのです。クリスマスの出来事は、何か暖かい幸せの到来のようなイメージを私たちに与えると共に、言い知れぬ不安感のようなものも与えると思うのです。それは、キリスト教とはまったく関係なく祝われる世俗のクリスマスにおいても、人々の心にイエスとは誰なのか、人生はそれでいいのかという問いです。そのような不安感を持つ私たちの人生に、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と語られるのです。

 2012年は私たちにとって、どのような年となるのでしょうか。昨年のような災害は、もう暫くは起きないとは誰も言えないはずです。明日、同じような出来事が起こるかもしれません。しかし、かといって今の生活や仕事を放棄する訳には行きません。そう思うと不安な毎日ですが、だからこそ、幸せも災も司る方を覚えておかねばならないと思うのです。何が起こっても、決して揺るがない心の基盤を持つこと。勿論、私たち自身は、事ある毎にゆらゆらと揺れてしまう小さな生き物です。しかしその土台は揺れてはいけないのです。
是非、この神という土台の上で今年を歩みを整えて行きたいと願います。



    
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