カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事

御言葉と出来事(2013年)


2013.12.28更新  

  「心配からの解放の知らせ」
(マタイによる福音書2章1〜12節)
                    No.302

 このクリスマスの時に私たちは何を思い浮かべるのでしょうか。暖かい暖炉に囲まれた欧州のようなホワイトクリスマスでしょうか。勿論、人が幸せを噛みしめ、友人や家族と過ごすクリスマスの聖夜は素晴らしいことだと思います。しかしまたその暖かいクリスマスを与えてくれた、イエス様自身はどのようにその時を迎えられたかを覚えることは更に大切なのです。

 昨今隣国では、とても厳しい独裁政治がなされているとの報道がありますが、実際イエス様のお生まれになったイスラエルの状況は、もっと酷い政治体制の中にありました。当時ユダヤを統治していたヘロデ王の家系は、自らの地位を守るたるため親、兄弟、親族まで殺害して行くという有り方でした。それ故に、ヘロデ王は、イエス様の降誕が自らの地位を危うくする可能性を感じ殺害の計画を立ててしまうのです。しかし不思議なことに、王が地位を脅かされて不安になるのはわかりますが、聖書は民衆もそのことを恐れたと記しているのです。これはいったいどのような意味でしょうか。

 人は、神を求め、救いを求めているのです。しかしまた神の到来は、罪を指摘され裁かれる不安の中にあります。日々の生活を改めさせられ、富を取り上げられ、地獄へと投げ入れられてしまう心配です。救いと裁きの間に、人は置かれるからです。
しかしメシアの到来とは、寧ろ、その不安からの解放なのではないでしょうか?握りしめたものよりもっと違う価値を持つよいものが与えられるというメッセージです。ヘロデ王もエルサレムの人たちも、自分自身を神に委ねていけば解放されたはずです。自分で必死に守り抜こうとする人生から解放されて、大きな力に任していく人生へと変えられていくことこそが本当の幸福なのです。この自己変革こそが、メシアの到来であり、神を信じることなのです。

 今年も一年間、沢山の出来事が私たちの内にありました。しかしその事柄の一つ一つの中に神の臨在があり、私たちの変革へのメッセージがあったはずです。そのことを覚え、新年は今年の心配を乗り越えて、神への信頼のもとで迎えたいと願わされます。



「必ず実現すること」
(ルカによる福音書1章39〜56節)
                    No.301

  以前、フレンドシップあさひのデイサービスの利用者さんが、思い出を話して下さいました。若い頃、夫婦で品川のダンスホールによく通った時のことです。ダンスに不慣れだった彼女は、ご主人に「お前と踊っているとイモ俵を引きずっているようでダメだ!」と怒られたそうです。自分の奥さんをイモ俵に例えてしまうとは何とも答えようがない感じがしました。しかし、ダンスなら相手を変えればよい事ですが、実際の私たちの生活はまさに重たいイモ俵を毎日引き回しているかのような現実にあるような気がします。人生という相手は変えることが出来ず、軽やかに走り抜けたくても、泥るみに足をとられて思うように進めない日々です。

 そんな毎日の連続の中で、私たちは思い起こす必要があります。それは、神の約束は必ず実現するということです。聖書は、それを信じた人は、なんと幸いか!と言うのです。それはすなわち、未来と希望を示しているのです。神を信じる心を持つ者の人生は、如何なる苦境に立たされても、絶望しないし、行き詰まらないと信じる心。神は人を作られた故に、人を愛し守られるのです。その見える証しが、イエス様のご降誕です。この光は、決して朽ちることのない永遠の希望を与えてくださいます。クリスマスおめでとうございます。


「平和の計画と永遠の約束」
(エゼキエル書37章24〜28節)
                    No.300


  私たちの社会には、不履行による約束の破棄がなんと多いことでしょう。そしてその言い知れぬ閉塞感が、社会からまじめに生きる思いを奪いさってしまうと思うのです。しかしその世俗の世の中で、イエス・キリストの働きによって神は永遠の契約を人と結んでくださったと聖書は語ります。人間側の問題で、破棄されてしまうような不安定なものではなく、確かな、拠り所となる契約です。この混乱した社会の中で、馬鹿と言われようとも真面目に、このことを信じて行くことがキリスト者の徳なのです。その心を持ち続けて行くことです。

 ある日、デイサービスの利用者さんに朝来所をすると呼び止められました。そして「あなたは俳優さんになった方がいいわよ、こんな所にいてはもったいない!」と言われるのです。私としても気分の良い?お言葉でしたが、実際はそれ以外の意味があります。つまり、その言葉には「私は、今日は機嫌がいいですよ!」というメッセージがあるのです。この気分の良さは、全く変わらない日常を好転させるのです。いつも会う同じ人をある日は「俳優さん」にまで高める力が心の力です。この心の力、心の考え方、心の持ちようこそが、信じることに通じます。
 私たちは永遠の契約を持っているのだ。窮地に陥っているようだが、未来と平和を既に得ているのだ。信じる者は救われる。必ず信じる心を持つ人の上には、神の永遠の平和がとどまることでしょう。


「平和の計画」
(エレミヤ書29章10〜14節)
                    No.299


  紀元前六世紀頃には、イスラエルの民はバビロンの捕虜となり苦難の生活を強いられることになってしまいました。そこで偽預言者と呼ばれる人たちが、苦しむ民に向かってエルサレムに直ぐにでも帰還できるかのような希望を伝えるのです。人々はその言葉を聞いてきっと喜んだことでしょう。しかし預言者エレミヤは「そんなことはない、惑わされてはならない、あなたたちが生きている内に故郷に帰れることはまずない。今はここに留まり家族を守り仕事をして生活をしなさい」と言われました。その言葉に、民はがっかりしたことでしょう。しかしこれこそが神の御心だったのです。神の計画は、人々が願うものとは違うかもしれませんし、当面は喜ばしいと思えないかもしれませんが、それこそが平和への計画なのです。

 最近、国会でも様々な法案が強行採決され社会を混乱させています。ある与党のOBは「このような法案がどんどん通ることは戦前の戦争への準備を行っていた政府とよく似ている」と言っていました。ある立場の人が考える、ある立場からの正義や正しさによって、戦争が起きてしまう。それにより、何の憎しみもない相手を戦場では敵として殺害する命令の下に人は置かれてしまうのです。どんな正しさの主張も、力によってそれを実現しようとする時、屈服させられた側の心には反省ではなく怒りと復讐が宿ることは歴史が証明しています。

 私たちの計画は、神の御心にそった計画、つまり平和の計画でなくてはならないのです。今は苦難にあえて絶えて、平和への忍耐と、信仰の希望に生きること。そこにこそ、敵味方を超えたキリストの和解が生まれて行くはずなのです。その為に、イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。


「神に繋がるとは愛することなり」
(ヨハネによる福音書15章1〜10節)
                    No.298


  本日は、イエス様がご自身をブドウの木に例え、人と神との関係を寓話にて話された箇所です。この箇所で特徴的なことは、まずブドウの木、つまりイエス様に繋がりなさいというのです。更に、神の愛の内にとどまりなさいと言われました。いきなり繋がって掟を守りなさいとうのではないのです。まずは、神を信じ、その愛の庇護のもとに入ること、そこから11節以降の展開が初めて許されるのです。イエス様自身に繋がることは、繋がった人たちが喜びで満たされるためであり、それによって愛し合う心を持つということなのです。

 以前、ベンチャーのビジネスマンの人が仕事とはスピードの世界であり、ハンドル操作を誤れば一瞬にして会社は潰れてしまうと言っていました。私にとっては、介護事業所の責任者として、本当に共感する言葉でした。しかし、信仰の世界は、世俗の根性論のような成功体験とはまったく違う価値観の中にあると思うのです。まずは、イエス様に繋がり、幹から栄養をもらい、ゆっくりと愛のもとで休むこと。それは一日を終えて、全てから解放されて眠りにつく布団の中のような居心地のよさ。この安心と休息があるからこそ、朝起き上がって、今一度自分の使命を果たすことに出発できるのです。寝なくて働ける人はいないように、神の愛に癒される経験が必要なのです。つまり赦される経験です。これなくして信仰の道は進めないと思います。神は愛です。そこから出発して、明るい世界に向かって、信じる道を進みたいと願わされます。



「何事にも愛をもって」
(コリントの信徒への手紙一16章13〜24節)
                    No.297


  パウロはこの手紙の最後に「何ごとにも愛をもって行いなさい」と語りました。しかしまたこの手紙は、更に最後には「主を愛さない者は神から見捨てられるがいい」と強烈な言葉を残します。この矛盾にも満ちた二つの言葉は何を意味しているでしょうか。まさにここにパウロの目指し続けた目標設定と、苦労の連続からくる苦しみの叫びがあると思うのです。

  実際、そう言いたくなる現実が彼の前にあったことでしょう。飢え渇き、虐待されても自分の手で生活費を稼ぎ、侮辱されても相手を祝福し、罵られても優しい言葉を返していながら、人々からは世の屑、全てのものの滓とまで馬鹿にされてきたのでから。パウロとしては、ここまでやったのだから、後はあんたの責任だぞ!と言い放つのです。
 
  やることをやり抜いたパウロだからこそ、言うことができた言葉だと思うのです。そしてそれは、自己責任への回帰を意味するのです。この言葉は、あの人は何故信じないの?ではなく、イエス様がペテロに言われたように「あなたは私を信じるのか?」という問いに私たちを引き戻します。このパウロの最後の突き放しは冷たいようですが、実は、私たちを自分の信仰の決断へと引き戻す一番の愛を示した言葉なのかもしれません。

  厳しい言葉も、心からの愛をもって発したものであるかぎり、必ず理解される日がきます。また逆に優しい言葉でも、その人の未来を願うものでない言葉は、その価値を失うことでしょう。私たちは常に、自分とは誰であり、愛とは何であるかを問われ続けているのです。
この問に答えて行く信仰でありたいと思います。  



「大きな門と反対の波」
(コリントの信徒への手紙一16章5〜12節)
                    No.296


  パウロの宣教は大きな成果を残していく素晴らしいものでした。しかし、その大きな成果と共に、沢山の反対者にも囲まれ苦しめられて行くのです。ある人は、何故、神の為に働いている人の道なのに、反対者が沢山いるのか、神は順風の道だけを何故与えないのかと思うかもしれません。実際パウロ自身も、同様の思いだったのかもしれません。寧ろ、その何故との戦いが彼の宣教そのものだったと思います。しかし彼は、その何故を信仰による考える力で乗り越えて行くのです。この反対者達は、宣教の成果を誇りたい傲慢なパウロに与えられた神の剣であると受け止めるのです。パウロに与えられた神の剣は二章では「言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」と言わせることになるのです。パウロは、全ての事柄を神との対話の中で再解釈し、信仰の力で受け止めて行くのでした。

 以前、介護保険の研修で聞いた忘れられないキーワードがあります。それは「大きな波を送ると大きな波が帰ってくる」というものです。それはパウロで言えば、大きな反対の波は、彼の働きの大きさを物語っているのです。つまりそれは偉大な働き人にのみ与えられる、宿命のような抵抗の力です。そしてこのマイナス的な波を、私たちは信仰の考える力で神の訓練ととらえるのです。様々で大小に富んだ苦難と訓練が、私たちの日常に日々降りかかってきます。しかしその訓練を通して、神は私たちの天の国に相応しいものになるようにと導かれるのでしょう。今週も何とか自分を捨てて、自分の十字架を背負って、イエス様の道に連なりたいと願います。     


「幾らかずつでも献げましょう!」
(コリントの信徒への手紙一16章1〜4節)
                    No.295


 パウロは宣教旅行の訪問先で、エルサレムの教会への献金を集めて歩きます。しかしこの献金は本部へのロイヤリティ(royalty)としての支払いではありません。当時のエルサレムには、イエス・キリストを信じた地方の貧困層の人たちが解放を求めて集まって来ていたようです。その人たちへの経済的支援が目的のようでした。パウロはエルサレムから始まった救いのメッセージが、異邦人教会に於いて忘れ去られることなく、キリスト教信仰の一体感を訴えるのです。

 では幾ら献げればよいというのでしょうか。それは「分に応じて幾らかずつでも献げましょう」という願いです。そこで求められるのはルールに縛られた献げものではなく、自分自身を吟味して自主性をもって献げるということです。この自主的選択こそが私たちに求められることなのだと思います。

 勿論、私たちの世界は社会のルールや経済的、共同体的な支配のもとにあります。誰もが、それぞれの不自由を抱え苦しんでいます。しかしその不自由の中で、信仰にある自由な自主性を持って生きられるかが、人生の輝きと大きく関係していると思うのです。

 ある人は牢獄の中でも主体的な役割を見出し、ある者は社長であっても不平不満の中に置かれます。では、私たちから自由と主体性を奪う最大の敵はいったい誰でしょうか。それはまさに、自分自身なのです。自分自身こそが、自分から自由を奪う最大の敵なのです。

 私にとっての仕事は、常に自分の内側との戦いです。怠惰であり、面倒だと思う心。自分の問題を他人に転嫁してしまう依存的体質。決断を先送りにして言い訳をしてしまう心。全てが自分の問題です。しかしだからこそ、自分を乗り越える時に敵は存在しなくなるとも言えるのです。神との対話の中で、自分を乗り越えて、幾らかでも出来ることを献げていくような働きを今週もしたいと願っています


井上先生の奨励「悲嘆に直面した時」から
(サムエル記上 30章1〜25節))
                    No.294


 先週は東京キリスト教大学の井上貴詞先生をお招きして奨励を頂きました。旧約聖書の勇者であるダビデ王が悲嘆にくれる中でも、そこから立ち上がる出来事を通してグリーフケアの意味を教えて頂きました。また先生ご自身が弟さんを亡くされ、その出来事を通して悲嘆を乗り越えて行くことの意味が語られたことは、私たちにとって感銘を受けるものでした。

 以前の私は、グリーフケア(死との直面から悲嘆を受け止め回復へ向かわせるケア)と言うとあまり良い印象を持っていませんでした。それは何か悲嘆に暮れている人に、寄り添いケアしてあげるといった印象があったからです。悲嘆に直面した人は「あなたに何がわかる、ほっといてくれ」と思うのではと考えていたからです。しかし井上先生のお話しを伺って、激しい悲嘆を経験した当事者自身が語ると、こんなにも説得力があるのかとグリーフケアに対する考え方を一気に変えるチャンスとなりました。

 そのような意味では、私たちは何かを批評したり意見を言う場合は、自分が当事者であるのか、客体者であるのかをよくわきまえる必要があると改めて感じました。どんなに正しい理論や意見も、当事者でない人から語られる言葉は力になる場合は少ないのです。当事者の悲嘆を本当の意味で理解できるのは、それ以上の悲嘆を経験したものでなければ及ばないのです。
 それはまさにイエスキリストご自身しか、いないのではないでしょうか?。それ故に、私たちの出来ることは、人を修正するのではなく傾聴することと心深く止めて、謙虚な思いを胸に人と出会う必要があると思えます。
今回の講演で多くのことを学ばされましたし、勉強不足も感じさせられました。今後もみんなで成長して行きたいと思わされます。  


「無駄にならない人生を」
(コリントの信徒への手紙一15章50〜58節)
                    No.293


 誰でも人生を無駄に過ごしたいと思う人はいないはずです。何とか有意義に、何とか意味のある人生にしたいと願っているのです。ではその方法はというと、聖書が明確に語っています。神に結ばれて信じて生きる人生の苦労は、決して無駄にならないと言うのです。

  私自身は、洗礼を受けた後でも、何と自分の人生が無意味なんだろうと思っていた時期がありました。何故、そういう思いに陥っていたのかと分析すると、神にではなく、他者に自分の人生が支配されていたからなのです。つまり、自分の責任を他者に押し付けていたのです。本来、神との対話の中で、自分で決断し、自分の責任で生きて行くべきなのに、他者がああ言った、他者がこうしてくれない、だから今はこうなってしまっているのだと思い続けていたのです。

 しかしそれはとんでもない間違いであったことを近年知ることになりました。人生は他人のものではなく、神と自分との対話の中で決断し選び取っていくもの。その神への信頼の決断こそが、私たちの人生を大きく解放してくれるのです。パウロは、神の神秘を告げますとこの箇所で語りました。その神秘とは、朽ちる者が朽ちないものに変えられること。つまり死して無意味に帰す生涯ではなく、朽ちない価値のある人生が信じる者には与えられるということです。ここに信じる者へ与えられた神の秘儀があるのです。


「幸福のパラドックス(逆説)」
(ルカによる福音書 6章20〜26節)
                    No.292


               説教 荒瀬正彦 牧師

 「貧しい人は幸いである」とイエス様は言われるが、貧しい人、泣いている人が、どうして幸せであろうか。イエス様は言われます。
「では、富んでいる人は本当に幸いなのか。満腹し笑っている人は幸いなのか。」 多くの人は貧しさを覚えず、同情や慰めを必要とも考えていない。「慰めは既に自分の中にある」と思って満足しています。しかし富んでいるのは表面だけで、実は、私たちの姿は卑しく貧困なものなのです。本当は人一倍慰めが必要な存在なのです。

 必要を満たし、慰めを与えるのは神様。本当の充足と慰めは人間の中にも、この世の中にもありません。神様から頂くしかないものなのです。富んでいると思っている者は、その慰めと充足を神様から受ける必要を感じなくなっている。その時、真の慰め・充足を見失ってしまっている。見かけの充足を真の充足と思い違いしてしまっている。こうした人間の有り様、心の在り方、神様無しで良しとする人間の傲慢さ、それをイエス様は「不幸だ」と言われるのです。貧しさを知り、飢え渇く者に「あなたがたは幸いである」と言うイエス様の言葉は「祝福の言葉」です。偽りの満足でなく、神様の真実の助けを待ち望む貧しさ。神に依り頼み、神に求めざるを得ない貧しさ。そこにイエス様が祝福を与え、神の富を分かち与えて下さるのです。


「時として、思い違いもあります。」
(コリントの信徒への手紙一15章35〜49節)
                    No.291


  以前、死後の世界について解説している芸能人の番組がありました。死後はこうなるああなると。しかし本当にそうなのでしょうか。誰が見て来たというのでしょうか。初代教会でも、そのような議論がされていたようです。天国で生まれ変わったら、どんな体になるのか?。しかし聖書には、本当に死後の世界を見た者は、決して地上には帰ってこないと告げています。私たちのわかることは、この地上での人生や体がそのまま続いて行くのではないということです。天には天の体があり、その違いは同じようで輝きが違うというのです。大切なのは、この輝きの違いだと思います。その輝きは、キリストに似た者になるという輝きの違いです。

 信じる道とは、この輝きの違いなのです。信仰を持っている者も、そうでない者も、同様に、同じような喜びと、同じような苦難の連続の人生です。しかし信じる者は、輝きにおいて違うのです。では、何処が違うのでしょうか。それは、朽ちるものが朽ちないものに成るという希望であり、卑しいものが輝かしいものに成るという希望であり、弱いものが力強いものに成るという希望を持つことの違いです。その違いは、人の内側を変え、その内側から輝きが与えられるのではないでしょうか。その希望の輝きは、内側から出ている故に、他者によって支配されるものではないのです。他者によって与えられる輝きは、また取り去られることでしょう。しかし私たちは、信じる希望に於いて、他者に左右されない、内側からの輝きを持っているのです。この輝きによって、自分の人生を他者の言葉から取戻し、自分の人生の決断を他者の価値観から神の価値観へと取り戻すのです。「あの人がこう言った、ああ言った」ということに一喜一憂する歩みから解放されて、神との対話による自己決断と自分の人生を取り戻すこと。それこそが信じる者に与えられた、素晴らしいギフトだと思わされます。 


「正気になって身を正すこと!」
(コリントの信徒への手紙一15章29〜34節)
                    No.290


  パウロは正気になってよく考えて見なさいと言いました。逆から言えば、コリントの教会の状況は“正気の沙汰”ではなかったのでしょう。教会は何処から始まり、何のためにあり、何処へ向かっていくのか。それは勿論、キリストの受難と復活との出会いから始まり、キリストのなされたように神と人とにお仕えし、来るべき永遠に繋がる天に帰る日が来ることを信じることです。

 どんな良い組織も教理も放置していると、どんどんとおかしな方向へと変化してしまいます。人間の都合の良い、理解のしやすい方向へと向かい、キリストの死も復活も無駄になってしまうのです。パウロは、キリストから離れてしまったら、日々死ぬような思いで宣教しているのに、それが無駄なことになるではないかと問いかけます。大切なのは、その行動を支える哲学であり神学なのです。

 今度、私たちの介護事業所の特徴をケアプラザで発表する事となりました。私は、そこで何を発表すれば良いかと考えました。デイサービスの内容やプログラム、食事のメニュー等々と発表することは多々ありますが、私たち教会の介護が他の事業所と決定的に違うとしたら、それは運営する哲学の違いだと思うのです。そしてそれこそが発表するべき内容と行き着きました。

  私たちの運営哲学は、まさにパウロが何度も語ったように、死によって人生が徒労に終わるのではなく、キリストの復活の希望に連なり永遠へと繋がるサービスなのです。そのことを覚えて、心を込めて働きたいと願わされます。


「最後の敵とは」
(コリントの信徒への手紙一15章20〜28節)
                    No.289


  宗教は、信徒が従うべきシステムを供給するのではなく、ものごとの本当の意味は何であるかを問い直すための力でなければ、危険な組織になってしまいます。
 聖書が語るその問い直す力で、パウロはコリントの教会を再生させようと必死でした。私たちの生涯は、永遠から永遠へと繋がる時間軸の中にあることが、キリストの死と復活によって示されたのです。現世の世界が全てのように、誰が優れた信仰者であるとかと優劣をつけたり、キリストの復活を過去の出来事として追いやったり、最後の審判を軽視したりするようであってはならない。キリストは人類最大の敵である死に打ち勝ったのだから、その神を第一に信頼し、そこから与えられた地上での生涯を意味あるものとして生きるようにと聖書は語ります。

 私たちの生涯は信仰があっても、なくても喜びと苦難の連続です。しかし信じるものは、その出来事が単なる不運や偶然ではなく、自分自身に意味のあることだと受け止めるのです。無価値な人生に、価値を与え、無意味な苦難に、意味ある未来を付与するのです。死によって全てが無に帰する人生ではなく、永遠を見つめ、今を生きる生涯を信仰を持って歩みたいと願わされます。


「全ての人の中で、最高の者に」
(コリントの信徒への手紙一15章12〜19節)
                    No.288


  先日自宅にいると、ものみの塔の方が二人で訪ねてきました。私はキリスト教の牧師なんですが?と言いつつお話しを少し伺いました。その対話の中で印象的だったのは「正しい知識で理解しなくては!」と何度も言われていたのが印象的です。一生懸命に何度も正しさを主張するまじめそうな信者の方に、常に教理と預言を変更し続ける新興宗教がどんな基準で正しさを伝えているのかと気の毒に思いました。

 パウロのコリントでの戦いは、このおかしな正しさとの戦いでした。コリントの教会内では、信仰の完成者と呼ばれる人たちが力を持ち、その人たちは、キリストの復活さえなかったと言い出していました。その言葉の背後には、キリストの死と復活によって罪を赦され救われる必要を感じなくなった傲慢な人たちの興隆です。いやそれは既に、コリントの教会が、キリスト教ではなく異端へと変容しつつあったことを示唆しています。

 だからパウロは必至でした。このままでは教会が壊れてしまう。復活がなければ私たちの宣教も信仰も無駄になってしまうではないか。あなた方は何を信じて来たのか。何処に向かっているのか。最も惨めな者になるのか、最も喜ばしい者になるのかはあなた方の信仰にかかっている。キリストの復活を信じるというのは言葉では簡単ですが、よく考えると容易なことではありません。しかし、だからこそ、そこに価値があるのです。第一に自分は、救われなくてはならない者であること知ることです。そして、罪赦された者だからこそ、その和解と赦しを告げ知らせていくのです。困難な時代に信じる心を忘れないようにしたいと思います。  


「信じたことを無駄にしないで!」
(コリントの信徒への手紙一15章1〜11節)
                    No.287


  パウロは、信じたこと自体が無駄になってしまう場合があると、聞き捨てならないことを言うのです。それは、私たちの救いがキリストの苦難と十字架と復活を通して与えられたことをしっかりと覚えることだと言います。逆を返せば、自分達の救いが、自己の功績や教会内での地位や、大きな声で異言を語れること等には、一切依存しないものであることを知ることです。それこそが信じたことを無駄にしない生き方なのです。

 勿論、だからといって何もしなくて良いという訳ではありません。教会はイエス・キリストが成されたように神と人とにお仕えするのが使命です。この二つで一つの使命をそれぞれの与えられた賜物よって行うことが信仰の道です。片側だけを強調して、他方を蔑視することは聖書の語る働きとは遊離してしまうと思うのです。

  日本の戦後の教会は、この問題の渦中に置かれました。特にプロテスタント教会は、戦中は社会の力に迎合してしまい、隣国への被害の片棒を担いでしまいました。その反省は「だからこそ教会は厳しく社会へ発言しなくてはならない」と主張する社会派と呼ばれる人たちと、「教会は社会には一切関わらない御言葉を伝えるだけが使命なのだ」という福音派と呼ばれる人たちに分裂してしまうのです。この不幸な歴史は、同胞内での醜い罵倒合戦を生み出し、まさにパウロの言うような信じたことが無駄になってしまうような事態を招くのです。

  信じることは、神の和解と救いを信じることです。同心の者が争うことではないのです。不毛の争いは、神と人とにお仕えするというエネルギーを奪いさり、教会から宣教の力を奪い去ってしまうのです。私たちはパウロの語る信仰の道に謙虚に留まり、信じたことを無駄にしないように、生きた信仰の歩みをしたいと願わされます。            


「適切に秩序正しく」
(コリントの信徒への手紙一14章33b〜40節)
                    No.286


  女は黙っていろ!とは何と言うことでしょう。ここでパウロは、考えられないような父権的な思想で、女性蔑視甚だしい発言をしてしまいます。しかしパウロは他の箇所では、キリストにあっては男も女もないと言っているように、本来はそうであることがわかっていたはずです。では何故そのような発言をしたのか。それは、キリスト教会がその存在する地域で市民権を得て行くためには避けられないことでもあったようです。社会全体は、極めて父権的な社会であり、教会に通う女性がそのような思考になって地域で混乱を起こすことは極めて宣教のマイナスであったのでしょう。

 教会の目標は単なるヒューマニズムの実現ではなく、平和の神を伝えて行くことなのです。その使命を果たすために、今何をするべきかを考えることが必要となります。人を造り上げるための預言的な発言は大切です。また、神を賛美する異言も行き過ぎがなければよいことです。しかし、それは教会の目標を見極めた上で、適切に、秩序正しく行わなければなりません。信仰の道は単なる自己実現のためではなく、他者を神の救いと平和に招き入れるために神が与えた目標です。私たちは忍耐をもって、混乱を選択するのではなく、適切に神の平和を実現することで人々の幸いを願いたいと思わされます。


「平和の神」
(コリントの信徒への手紙一14章26〜33節a)
                    No.285


  神は無秩序の神ではなく、平和の神であるとパウロは語りました。この言葉を理解する上で大切なことは、何の目的でこの言葉が記されているのかということです。例えば、秩序という言葉が多発される時、組織が危機に瀕しているとある評論家が語っていました。つまり、神が語っているかのように、権力者の体制維持を擁護するために使ってはならないということです。では、この言葉は何のために用いられるべきなのでしょうか。それは26節にあるように、人を造り上げるためであり、33節のように混乱ではなく平和を望まれる神のご意志を実現するためなのです。

 人は様々な意見や考えがあり、時には対立して真実を明らかにしなければならない時もあることをパウロは他の箇所で語っています。しかしそれは、互いの権利やプライドの擁護に容易にすり替えられてしまう危険性を私たちは心に留める必要があります。常にこの議論は何の為なのか、自分は何のために行動しようとしているのか。それは人間の共同体の中に、神の平和を実現していくことなでのす。
私も日々その原点に立ち返り、自分を捨てて神の御心を心に留めたいと願わされます。 


「幼子の純粋さと、大人の判断」
(コリントの信徒への手紙一14章20〜25節)
                    No.284


  パウロはコリントの教会に、悪いことは子どものような純粋さを持って退け、物事判断に於いては大人となって欲しいと語りました。教会の状況を大人の目で判断して欲しい。信者たちが自己満足のようなパフォーマンスに陶酔していたら、教会を初めて訪れた人は、この人たちは気が変になっていると思うでしょ!と忠告をします。パウロはいつも目先の出来事よりも目標を確認することを伝えます。宣教の目標は「まことに神は生きておられる」と人々が思えるようにすることだと言います。この目標達成のために、今は何を成すべきかを大人の判断として、進めて行かなくてはならないのです。

 例えば、自転車乗りの練習をする時、必ず言われることは「遠くを見て」というアドバイスです。初心者は目の前が気になり、必死にハンドルを左右に蛇行させで安定させようとします。しかし、目の前の車輪だけを見つめていては、いつまでも乗れるようになりません。スムーズに走るためには、前を見ることです。私たちの人生もしかりです。足元ばかり気にしていては、日々のハンドル操作に疲弊してしまいます。しかし、遠くに掲げた目標を見つめて、ペダルを踏み込むとき、真っ直ぐに爽快に走れるはずです。人生も教会も遠くの目標を見つめ、熟慮した大人の判断で進むとき、困難が多々あれど、必ず歩みは正されていくはずです。自分を離れ、他者の為に、目標を持って、信じて進む。その時、必ず良い人生が送れるはずです。 


「一万の説教より一回の共感」
(コリントの信徒への手紙一14章6〜19節)
                    No.283


  カーネギーの本に「人を一日ウキウキさせるような言葉を語る」といったような意の文章があります。その時、私も本当にそうだなと思ったのです。私たちの世界には、沢山の言葉が溢れています。一日どれ程の言葉をしゃべり、どれ程の言葉を聞くのでしょうか。その中で、私たちの人生をよいものに変えてくれる言葉が何個あるでしょうか。信じる者は、その言葉を日々探していたいと思うのです。パウロは、常に人を造り上げることを、教会を建て上げるためにはどうしたらと思案し続け、言葉を探し続けた様子が聖書から読み取れます。自分のために生きるのではなく、他者のために語りなさいと。しかし、ではどうしてそうしなくてはならないのでしょうか?

 世の中には、友愛の大切さ、誠実さを重んじる言葉が沢山あります。そしてそのことは大切であり尊重されるべきです。しかし残念なことに、何故そうしなければならないのかという、理由が記された道徳書はないように思えるのです。大切なことだけど、何で人に良くしなくてはならないの。他者を何故造り上げなくてはならないのか。答えは何処にもないのです。

  しかし、私たちの信じる道には、その答えあるのです。神が私たちにそうしてくださったからこそ、私たちも神にお仕えするように人にお仕えするのです。キリストは一万の言葉を語るよりも、一回の十字架に命を捧げることで、生きる意味と目標を人間に明示したのです。神がそのようにして下さったように、私たちも人を生かす五つの言葉を語れればと思います。


「人を造り上げることば」
(コリントの信徒への手紙一14章1〜5節)
                    No.282


  パウロは、人を造り上げる言葉を語りなさいと言いました。そして、それこそが教会を造り上げていくのだと語るのです。しかしでは、人を造り上げる言葉とは何でしょうか。それは、愛を追い求める中にあるとパウロは語ります。そして重要なことは、それは到達したものから発信する力ではなく、求め続ける、求め続けなくてはならないものなのです。何度も何度も繰り返し続けなくてはならない業です。もうこれで十分とか、完成するとかいうことのない高い目標。それが愛するという行為です。これ以外に人を造り上げることは出来ないと聖書は語ります。

 このことは言葉で言うのは容易ですが、行うのは至難の業です。人は善意で語ったとしても、決して自分の思うようには動きません。寧ろ逆の場合の方が多く、そのことに人はストレスを感じて疲弊してしまうのです。そこでは力は何の意味も持ちません。愛を追い求め続ける以外に、解決の道は、人を成長させ造り上げる方法はないのです。人を変えるのは正しさではなく、愛する心だけなのです。私も言葉を毎日忘れずに、自分に言い聞かせて行きたいと思います。  
             

「全てに耐える愛を」
(コリントの信徒への手紙一13章4〜13節)
                    No.281


  先日、トイレが壊れてしまいました。修理のための新しい部品を早々にインターネットで注文し、翌日には部品が届き、無事トイレが使えるようになりました。本当に便利な時代になったと思います。インターネットの普及で、以前は図書館でやっと探し出せた情報も瞬時に手に入るようになりました。またネットだけでなく、日本の英語教育の力の入れようはすごく、数年後は若い者はみなあるレベル以上なることは間違いないように思えます。そのような時代の変化の中で、ものを探し出せる能力や、外国語の会話力が優れているだけでは、専門家と呼ばれることの出来ない時代の到来を感じます。これからいよいよ問われるのは、人間性ということになるのでしょう。様々な情報の中で、何を選択し、どのように感じ、何を表現していくのか。

  しかしその全てを進める前提として、欠くことの許されない重要な法則があることを私たちは知らなくてはなりません。それが聖書の説く「愛する」という心です。この心が無くては、どんな知識も能力も無に等しいのです。旨く事柄が進まないと思う時、その背後に愛する心が欠けているのではないかと私たちは第一に考えることが必要なのです。人を叱りつけても、どのような論説で相手も屈服させても、愛がなければ人を造り上げることはできません。愛は全てに耐えると聖書は語ります。全てに耐える愛の力を信じるとき、私たちの人生はプラスの回転を始めるのです。これこそが最高の道であるとパウロは語るのです。 


「最高の道を教えます!」
(コリントの信徒への手紙一12章31b〜13章3節)
                    No.280


  最高の道があるのなら教えて欲しいと誰もが言うはずです。その道は、全財産を捧げてしまうより、命を友のために投げ出してしまうより大きな道。それが人を愛する心だと聖書は言うのです。また逆を返せば、その愛がとことん出来ないのが私たち人間なのでしょう。大きな目立つ行為だけが賞賛されて、全ての基礎となる愛が軽んじられてしまう現実。それはキリスト教会の共同体自体に忍び寄る悪魔の罠のようです。わたしもキリスト者として、口ではこのことを提唱していましたが、以前は何もわかってなかったように思えます。今、教会と介護の現場で奔走する中で、物事を本当に有効な形で進めるのは、この愛の道しかないと感じさせられています。

  先日、以前私たちのデイサービスに努めていた看護師さんが、またこの職場に戻ってきてくれることになりました。家族で話されて「場所じゃなくて人だよね」という結論に達して復職を決意されました。私たちにも、色々な失敗や行き違いは常にありますが、それを愛によってカバーし合う関係が出来ているのかもしれない。その看護師さんの言葉に、私たちの職場がほんの少し目指すべき方向に進めていることを実感できた嬉しい出来事でした。この道に間違いはないと思います。                  


「もっと大きなものを目指す!」
(コリントの信徒への手紙一12章27〜31a節)
                    No.279


 
この箇所でパウロの言いたいことは明確です。つまり「神は教会に色々な人を立てた。その一人ひとりが集まってキリストの体であることを忘れないで欲しい。信仰者に優劣などない。ただ役割の違いである。」ということです。しかし注目するべきは31節です。だから「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」というのです。本来なら、そういう訳だから、みんな仲良くしなさい!というのが話しの流れだと思うのです。

  では、その熱心に求めるべき大きな賜物とは何なのでしょうか。教師はもっと偉い校長を目指しなさいというのでしょうか。預言者は大預言者になりなさいというのでしょうか。平社員は社長を目指すのがクリスチャンですよというのでしょうか。勿論違います。この大きな賜物とは、この後の13章以下に書かれているように、愛するという心です。つまり、何か偉くなって成功しなさいというのではないのです。教会に神は様々な人を集めてくださり、一緒に信じる道を歩みなさいと使命を与えられました。その使命を達成するための最大の方法は、互いを愛するという心だと言うのです。ある面、この言葉は教会では聞きなれたことようですが、実は、何度聞いても達成できない味わい深い示唆だと思うのです。

  あさひ伝道所の運営するフレンドシップあさひは、来年は事業追加のために動き始めています。会社を大きくして、安定させて職員が働きやすい環境を整備していくことは大切です。しかしそれが、単なる経済活動に翻弄されてはならないことをパウロが度々警告しているように思えます。聖書の言葉を頼りに、目指すべき道を見失わず、神を信じてこの一事にお仕えしたいと願っています。



「洗礼は和解と一致のしるしです。」
(コリントの信徒への手紙一12章12〜26節)
                    No.278


  人が信仰の道に導かれ、洗礼を授けられることは、一人ひとりが他者との比較の中ではなく、神に愛される存在であることを知らされます。そしてその信仰は個人のことであると共に、教会全体の共同体に仕える者とされたことも合わせて伝えられるのです。

 パウロは、彼の愛する教会の中に信徒間の優劣のようなものが生まれ、分裂しそうになっていることに心から憂慮しています。そこで、信徒一人ひとりが、教会のあるべき姿に立ち返り宣教の前進に努めることを願い手紙を書きました。一人ひとりは体の一部分であり、相手を不要と切り捨てることは許されないのです。寧ろ、弱い部分こそが大切な部分であり、それを支えるために周りはあると伝えます。

  あの金メダリストの水泳の北島選手のコーチは、長所を伸ばすために、短所に目をつむることから始めたと聞いたことがあります。人間は、欠点を見つけて指摘することの天才です。自分はおいといても、他者の批評に夢中になってしまうのです。しかしそれでは、教会の共同体とはなりません。欠点に注目するのではなく、神が一人ひとりに供えられた良いところに、得意なところに、注目していくこと。目標を設定し、その為に何が必要かを模索する前向きな働きが必要です。

  例えば、牧師の私も欠点が多いものなので、それを指摘しているだけで日が暮れてしまうと思います?。是非、親切な欠点の指摘ではなく、私の苦手なところをそっと助けて頂ければ感謝です。私も、愛する教会の方々にそのようにお仕えできればと思っています。一人ひとりは様々ですが、信仰も教会も一つです。心を合わせて進みたいと願わされます。 


「個性はみんなのために」
(コリントの信徒への手紙一12章4〜11節)
                    No.277


  人間は本当に一人ひとり違います。神様はよくまあここまで、考え方も生き方も様々に人をお創りなられたなと思う程です。しかしそこには必ず創り主の意図があるはずです。神は、一人ひとりの多様な違いを用いて、全ての人の益になるよう仕えあいなさいと言われるのです。神様から頂いた賜物は、私たちが良いと感じるものばかりではなく、寧ろマイナスとも感じられる賜物を与えられる場合も多々あります。また、神は賜物を与えないという有り方で、人をある目的へと導く場合もあると思うのです。

  私自身のことで言えば、もしも立派な学歴や才能が自分に与えられていれば医者や弁護士にでもなって、その世界で生きていたことでしょう。しかし神は私にはそれを与えず、その代わりに地を這うように神と人とにお仕えする道を備えて下さいました。この道は、私が逃げ出しても、逃げ出すことの出来ない、神の定めだと最近感じています。だから、この与えられた道で、教会と地域の方にお仕えしたいと思っています。それは一人一人に霊の働きが現れ、全体の益となるためだと思わされています。     



「神の霊によって語る人とは」
(コリントの信徒への手紙一12章1〜3節)
                    No.276


  強く大きく成長するものには、多くの障害や問題が立ちはだかるものです。コリントの教会の成長と拡大は、まさにその問題の渦中におかれて行きます。そこで、パウロは教会を初心に帰らそうと「神に霊によって語る人は、イエスが主であると告白する」と明確な方向性を示します。多様な意見や考え、些末な出来事に教会という組織は、揺り動かされてしまいますが、その目的は、イエス・キリストを神と告白し、和解と救いへの招き入れられることなのです。

 コリントの教会では熱狂主義的な人が目立ち、そのような見える姿こそが信仰の完成者と呼ばれていました。しかしそのような外面的な人の評価は、心の内を見られる神の評価とは大きく隔たりを持っているのです。大切なことは、信じる道に於いて「心のベスト」を尽くしていくことです。他者の評価ではない、神の評価のもとの「心のベスト」です。ベストを尽くせば大抵のことは可能です。イエスご自身がなされたように、犠牲を伴わない前進は、神の望まれる方向ではありません。声の大きさだけで、信仰は図られるものではありません。他からの評価ではない、心のベストを尽くすとき、イエスは再び言われるのです。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8.12)と。
           


「自分をわきまえて素敵な人生を」
(コリントの信徒への手紙一11章27〜34節)
                    No.275


  この箇所は、洗礼を受けていない者が聖餐に与ると裁かれるという話しではありません。ここで裁かれる対象は、信徒の集まりに先に来て、後から来るものを無視して飲み食いをしている裕福な同胞のクリスチャンに対してです。

 それでは、パウロが言う「自分をわきまえる」とはどういうことでしょうか。それは自己吟味をするということだと思います。私たちは、富や貧しさの優位性ではなく、共に神に救済されなくてはならない罪ある人間であることをわきまえ知ることです。人間の考えや答えは、常に不十分であり、正しさを含んでいても、正しさそのものではないことを自覚することです。正しいのは神のみであり、正しくない私たちを尚正しい道へと導かれるのがキリストです。

 先日、医療系の講演会に出席しました。老後の治療や延命の是非について、パネラーの方々が様々意見をしていました。その中で気になったことは、議論は常に同じところを堂々巡りになっていたことです。問題に真摯に取り組めば取り組むほど、更に回答不能の世界に陥る難しい課題です。またその背後には、思慮深ければミスなく正しい道を選び取れるのではという人間の願いがあるように思えました。

  しかし、私たちは人間には、絶対と言える正しい道を選ぶことが出来ないことを、わきまえ知らねばならないのです。自分自身でミスなく決断しなければ人生は終わりではないのです。人は初めから終わりまで不十分な生き物なのです。そのような者が、神の恩寵によって救われ、正しい道へ神の力によって日々導かれているのです。その救われた自分を知ることこそが、私たちの人生を明るく開いて行くのです。人と人との差に注目するのではなく、神のご恩寵に注目して今週も恵み深い日にしたいと願わされます。



「忘れてはならない契約」
(コリントの信徒への手紙一11章23〜26節)
                    No.274


  聖書は繰り返し主の晩餐のことを思い起こすようにと伝えます。それは教会の使命が何であるかを心の奥深く留め、何度も確認し続ける必要があるからです。つまり、キリストの死が私たちの救いのためであり、その救いを告げ知らせることが教会の目標です。

 パウロの時代から現代まで、全ての人に神の救済を告げ知らせる使命を与えられた教会は、その性質故に、あらゆる立場の人たちが集められてきます。しかしそれ故に、大きな混乱が生じてくるのも避けられません。コリントの教会はまさにそのような渦中にあり、信仰者間の仲間割れさえ起きてしまいました。

 そこで大切なことは、キリスト教会は何のために集められているかということの確認です。それは、キリストを述べ伝えるために存在し、集められているのです。この目標を持つとき、自分たちが仲間割れしていることが、その目標達成のために如何にマイナスであるかを悟らされるのです。目標が明確でないと、高い倫理感を持つ教会は、いつも何が正しいかという論争や、個人のプライドの張り合いのような世界へと陥ってしまうのです。そうではなく、目標達成のために、今は何を語り、何をするべきかと考えねばならないのです。

 昨今、プロ野球のボウルの変更が報告されたとか、されないとかとニュースを賑わせていますが、あのトップの人が、自分はプロ野球の発展のために立てられているのだということを理解していれば、あんな回答や態度で混乱を起こさなかったことでしょう。
 大切なのは目標設定です。わたしたちキリスト教会の目標は、神と人とにお仕えすることです。このことを繰り返し心にとめて日々の生活を送りたいと願います。   


「仲間割れはやめましょう!」
(コリントの信徒への手紙一11章17〜22節)
                    No.273


  パウロは「ほめる訳にはいかない」とこの箇所で語ります。その思いは、勿論、彼らの宣教の働きを誉めたいのだか、そう出来ない忌々しき事態が教会に起こっているからです。それは信徒の集まりに於いて、仲間割れが起こっているということなのです。当時、信徒の集まる夕食会には多様な人たちが集まっていました。信仰において教会では、裕福な人も貧しい人も神の前では同一の価値ある存在として取り扱われたからです。しかし実際の現場は、夕食に間に合うものと、そうでないものとの格差が生まれ、それが教会の大きな問題になってしまうのです。パウロはそれでは、主を記念とする晩餐にはならないと強く警告します。

  キリスト教会が宣教を拡大していく上で、もっとも重要なことの一つは、信徒間の友愛の姿が民衆全体から評価され、好意を寄せられ、その結果として入信者が与えられていったことが使徒言行録2章に記るされています。教会が分裂し、差別が横行しているようでは、如何に荘厳な礼拝を守っていたとしても、宣教の前進には寄与しないのです。

  イエス様は、自らの親兄弟は、血縁ではなく、神の御心を行うものであると語りました。教会という共同体が、そこに立っていなければ宣教は遅延してしまいます。しかしそこに立っていれば、貧しく小さな宣教でも神はかならず前進させて下さいます。信じて聖書に立って進みたいと思わされます。



「自分で判断しましょう!」
(コリントの信徒への手紙一11章2〜16節)
                    No.272


 本日の聖書の箇所を読むとき、酷い男尊女卑の思想があるように感じます。キリスト者の自由を説くパウロもこの時代の制約の中に置かれていました。
しかしまたその更なる背景には、女性への抑圧と共に女性の活躍があるのです。社会的に低い存在として扱われ続けていた女性が、キリスト教会においては神の前には男も女もないという信仰のもと、抑圧から解き放たれ教会の中心として活躍していくのです。またその反面、逆に男性を軽視するような状況が生まれていきました。そのため、教会内で多くの混乱が発生するのに対して、パウロは自分でよく考えて見なさいと修正を加えたのです。長年続けられて来た男性優位の社会ですから、一時期、女性の方が上に出たからといって、そんなに騒ぐ必要はないように思えますが、その混乱が教会の宣教にはマイナスとなってしまうのです。

  教会の目標は、単なるヒューマニズムの啓蒙ではなく、イエス・キリストの宣教の拡大によって神の視点を共有していくことにあります。パウロの目標は常にそこにありました。だからこそ、自分で判断しなさいと言われたのだと思います。私たちは全てにおいて自由である故に、自分で判断し、その責任を負わねばならないのです。誰かがこういったから、こうしましたと言えるのは子どもの時代だけです。何が、神のお役に立つのかを第一に考えることです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、日本人には日本人のように宣教していきたいと思います。 



「神の愛が聞こえますか」
(ローマの信徒への手紙5章1〜5節)
                    No.271


  私たちには聖霊によって、神の愛が信じる者の心に注がれていると聖書は記しています。この愛によって、信じる者はあらゆる苦難にも耐え、希望を持つことが出来るというのです。これは神の霊が私たちの内にやどる霊の働きです。

 私たちは出来る限り、自分の人生を平和に過ごしたいと願っていますが、やはり避けられない苦難も山のようにあります。それでは、その苦難と出会った時に私たちはどうするのでしょうか。不平不満を漏らし人生を嘆き続けるのでしょうか。それをもたらした人や出来事を呪い続けるのでしょうか。時には言葉も必要ですが、私たちは容易に不満と愚痴の奴隷になってしまうのです。それが習慣となってしまうのです。そして更には、この言葉が人との関係を築く道具になってしまうのです。これが、私たちの誰もが陥りやすい人の罪の姿です。

 しかし神の霊に生かされるものは、不平不満を人生の道具とはせずに、如何なる場面でも希望を目指して進む者と変えられるとあります。神は、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるのです。その訓練をへて、私たちは如何なる時でも、その先に希望を見出ことができるように成長させられるのです。
今週も聖霊によって信じる者として成長したいと願わされます。


「他者の良心に仕えること」
(コリントの信徒への手紙一10章23節〜11章1節)
                    No.270


  パウロは、キリスト者は全てのことに於いて自由であることを強調します。しかしまた、その自由を用いて他者の良心に仕えることを語るのです。しかし、100人の人がいれば、百通りの考え方があります。つまり他者の良心に仕えるとは、その考え方に賛同し同意するという意味ではありません。その人が何故そう考え、何故そう考えるようになり、どのような人生の変遷の上にそう思うようになったかを深い意味で理解し、その心の痛みや喜びに共感を示すということなのです。

 そして何故、そのようなことが必要かと言えば、一人でも多くイエス・キリストへの信仰に導き、神の栄光を現すためであることをパウロは語ります。全ての目標はそこにあるのです。このキリスト教の目標は、自分の考える正しさを主張することでも、相手を論破するためでもないのです。

 私も長年信仰の世界にいますが、このことが朧げにわかって来たのは、つい最近のように思えます。介護事業を運営する中で、次から次とやってくる困難な経験の中で、パウロのメッセージの深い意味を受け止める素養が、やっと備わってきたような気がします。
私たちは不十分ではありますが、日々信仰に立ち返り、明確な目標を目指して歩みたいと願わされます。


「意味あるものを求めて」
(コリントの信徒への手紙一10章14〜22節)No.269


 先日、日本の富士山が世界遺産に登録されるというニュースがありました。その理由は、古くから信仰の山として尊ばれて来た経緯からだというのです。富士山に登ると、健康が守られ、気運が上がるとのこと。それが本当なら、富士山に登った人は成功者となり、登れない人は不幸な人生を送るとすればこんな分かりやすい話はありません。

  しかし、聖書は、何でもただ信じなさい、従いなさいとの服従のメッセージを送ってはいません。パウロは「あなたがたは分別があるのだから自分で考えなさい」と言われます。世の中には、ただ服従させる権力や、ただ無意味な行動を要求する宗教が多くあり、人々はそれによって疲弊していきます。私たちキリスト教の信仰者は、そのような無意味な世界から解放されているのです。

 私たちは、無意味なものではなく、意味あるものを求め、意味あるものを信仰の対象とし、意味ある人生を歩むようにと召されているのです。神以外のものにある種の霊力があるように思い、それを偶像化して仕えてはならないのです。それはまた自分自身を偶像化して神を追いやってはならないということを含んでいます。罪ある私たちの生活は、なにか神と悪魔の両方に仕えてしまっているようなものです。しかし今一度聖書に立ち返り、神にお仕えする今週であることを願います。                


「耐えられる試練が沢山!」
(コリントの信徒への手紙一10章1〜13節)No.268


 
この聖書箇所で、パウロは、神の耐えられないような試練は今までなかったではないか!思い出してほしいと語ります。私たちは、嫌な出来事はいつまでも覚えていても、楽しかったことは沢山あっても忘れてしまうものです。そんな私たちに恵みを思い起こしなさいと語るのです。

 人生の道には、沢山の困難や障害が立ちはだかります。そして、その一つ一つを何とかもがきながら超えている内に、時は過ぎ、年を取り、一生を終えてしまうような虚しいイメージがあります。しかしその道を神という視点で今一度思い起こすと、決して虚しいものではないことを発見するのではないでしょうか。人生の出来事を幸運不運や偶然といった基準で考えないで、神のご配剤という視点の中で生きるとこは素晴らしいことです。

 介護の世界でのキーワードに「自立支援」という考えがあります。何でも先回りをして、して上げることが介護ではないのです。その人が自分自身の力で生きて行けるように、一部分を支援していくことです。これはきっと神様も私たちに対して、そうお考えなのではないでしょうか?。つまり神は何でも私たちにしてくれるというよりも、自分自身の足でしっかりと立って生きるための支援をして下さる存在かもしれません。その支援によって、私たちは一つ一つを乗り越えていくのです。多くの恵みを頂いても直ぐに忘れてしまうような私たちですが、耐えられる沢山の試練を超えて、感謝して生きる日々でありたいと願わされます。
                  


「自由からの解放!」
(コリントの信徒への手紙一 9章19〜27節)No.267


 
人は自由を得たいものです。人に支配されず自分で人生を選び取っていく自由です。しかしパウロはその自由を捨てたというのです。自分自身は何者にも支配されない自由を持っているが、失格者とならないために自分を打ち叩いて服従させているというのです。

 若い頃、仕事もしないで好き勝手に生きたいと、楽しく贅沢に生きたいと思うものです。しかし年を重ねていくと、このパウロの言葉が少しわかってきたような気がします。他者にお仕えすることが、実は自分自身の幸せに繋がってくることを感じてきました。自由を得たいという欲求からも解放されて、キリスト者の自由によって不自由を選び取っていく生き方。ここに本当に生きる価値があるように思います。この線で教会も進みたいなと思っています。

 ヨハネによる福音書8章31節から32節「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」


「真実一路の旅ゆえに」
(エフェソの信徒への手紙 4章25節〜5章4節)
                    No.266


             
説教 荒瀬正彦 牧師

 25節で先ず「偽りを捨てなさい」と言われます。この世には殆ど無意識に語られる嘘・偽りが数知れない程あるために、ついに嘘が正当化される場合がしばしばあります。さらに続いて「真実を語りなさい」と言われます。「偽り」というのは俗に言う「嘘」のようなものではなく、愛を否定し、神の真実を否定し、キリストを受け入れようとしない心です。そして「真実」とは「キリストにある真理」です。私たちはイエス様によって真実とは何かを知らされます。偽りに満ちた罪の中にいる私たち。だから真実に遠い私たち。その私たちの為に神の真実を貫き、十字架の上から招いて下さる主イエス。神はキリストの十字架のゆえに人間の不真実を包み、人を新しく造り上げ、永遠の命に生かし、愛と憐れみ、そして赦しを語ります。
そして言われます。「真実を語りなさい。神の愛を語りなさい。赦しと救いの福音、即ち命の言葉を語りなさい。聞く人に恵みが与えられるように。その人を造り上げるのに役立つように。」
福音の言葉こそ本当のコミュニケーションでしょう。


「求める者は良いものを得る」
(マタイによる福音書 7章7〜12節)No.265


  あさひ伝道所の宣教も、創立より6年目に入りました。開所当時に比べて、本当に沢山の方が礼拝に出席されるようになり、またデイーサービスとケアマネージメントも利用者さんが溢れています。本当に感謝に絶えない状況です。

  さてでは、この5年間に私たちは何をして来たのでしょうか。それは「自分のしてもらいたいことを隣人にも行っていく」という聖書の教える単純な作業の繰り返しだったとも言えます。教会という器だけでは関わりきれない、地域の困難を抱える方に介護事業というツールを使って、神のご愛をお届けして来ました。後は、みんなで一生懸命週ごとに礼拝を守ること。神と人とにお仕えするという、もっともシンプルなスタイル。開所より訳もわからず進んで来ましたが、これで良かったのかもしれないと今は思わされます。(勿論、その背後に沢山の奉仕があることは忘れていません)

  しかし順調そうであっても、停滞は許されないと思うのです。停滞は目標を喪失してしまい、人の力を創造から混乱へと沈めてしまうからです。だから、これも聖書の言うとおり「求め、門を叩き」続けたいと思います。勿論、私たちは、聖書の教えに全面的に従える訳もなく、本当に愚かな罪人でありますが、それでも、聖書に示される目標を目指して行けばいいと思うのです。

  今日まで、あさひ伝道所を導かれた生きた神様は、これからの5年間も大きなご計画を持っておられるはずです。会堂の場所もまだ私たちには見えませんが、神様は「ここにしようかな〜」と決めているはずです。神は私たちを赦し、和解を与え、確かに導かれるに間違いありません。これからも信じて進みたいと願わされます。          


「見えないものを信じる心」
(ヨハネによる福音書 20章24〜29節)No.264



 本日の箇所に登場する使徒トマスは、イエス様の刺し傷に手を突っ込んでみなければ信じない!と公言しました。死者が生き返るなどまったくありえない話し。彼はまさに常識的な人物そのものでした。しかしまたその常識的な判断が、信じる世界まで全てを正しく捉えられるとは限りません。寧ろ、その常識が、本当に見つけなくてはならない、本当に大切なものを見失わせてしまっているかもしれないのです。そんな私たちに復活の主は「見ずに信ずるものは幸いなり」といわれました。

 この復活祭の日に、私たちの教会は毎年召天者記念礼拝を行っています。それは死者を悼むというよりも、キリストの復活の中に、召天者との再会の希望と慰めを頂くためです。その延長線上の希望が輝くからこそ、今の人生が意義付けられ、今日も生きていこうと決意が出来るのではないでしょうか。
信じる心を大切に生きたいと願わされます。 



「無報酬という報酬」  
(コリントの信徒への手紙一 9章1〜18節)No.263


 パウロは、本当に全力でキリストの宣教にあたりました。しかも他の使徒とは違い、教会から謝儀も貰わず、自分で働いて生計を立てて働くというあり方です。しかしそれ故に、多くの批判も受けることになるのです。この聖書箇所には、その彼の心の内の怒りと、必死の弁明が記されています。彼は、自分が宣教の働きの報酬を受けることは当然だと主張しながらも、自分の報酬は無報酬という報酬を頂いている!と言いきります。その言葉を傲慢だと批評する人もいますが、私は、寧ろここでは彼の並々ならぬ決意が表れていると感じました。何故ならば、パウロは「キリストの福音の妨げにならないために」そうしているからです。何とかして一人でも信仰の道に導きたい。だから自分の権利と自由を捨て、無報酬という報酬を受け取るのです。このことは、私たちにも言えるのです。必死に神と人とにお仕えする中で、その奉仕に何の意味があるかと自分に問いたくなることがあります。しかし、私たちにはパウロと同じように、必ず無報酬という報酬が与えられるのです。これこそが、信じるものが受ける最高の秘儀と言えるのではないでしょうか。(※勿論、実際は、何も報酬がないのではなく、既に神の赦しを受け取ってしまっているのです)


「失うわけでも、得るわけでもない。」  
(コリントの信徒への手紙一 8章7〜13節)No.262


 キリスト者は全てのことにおいて自由を与えられています。何かを食べたとか、何処に行ったとか、何にさわったとか、誰に会ったとか。それによって、何かを失うわけでも、得るわけでもないのです。しかしでは、全てにおいて自由な者は、どんな基準に於いて活動したら良いのでしょうか。パウロは、全てにおいて自分は自由だが、隣人を躓かせないために肉を食べないと言いました。つまり、私たちは、隣人愛において、自分のその行動はどういう効果があるかということを基準に考えなさいということなのです。神と人とのお役に立つには、何をなすべきなのか。人は、それぞれの賜物を与えられています。似ているところはあっても、一人としてまったく同じものはありません。その人が、自分の賜物によって、力を発揮できる働きを見出していくことは人生において、もっとも大切なことです。何をしても良いという自由を神と人とにお仕えするという視点から、選択し、自分らしい、自分しかできないことを行っていくこと。このことこそが、地上で与えられた生涯を有意義に価値あるものにする鍵です。

  あさひ伝道所の五周年修養会を今回は迎えることができました。ここに集められた人は、誰一人強いられて集まったのではなく、自分の意思で、何かを求め、何かをしたいと集まったのです。これが大切なのです。自分で選んで、自分で進むこと。しかしもう一点加えるとしたら、その結果を振り返る時、神が全てを成してくださったと受け取る信仰の基礎が大切なのです。与えられ大きな自由をもって、信仰の歩みを続けたいと願わされます。 


「愛は造り上げる!」  
(コリントの信徒への手紙一 8章1〜6節)No.261


 勉強し向上していくことは大切なことです。しかしそれによって得た知識が、人を生かし造り上げるものでなければ、何の意味もないのです。素晴らしい知恵を披露し、人を教育しようとしても、その人を総合的に生かす方法でなければ、知識は正しくても人は裁かれ追い詰められるだけなのです。だから、一番大切なのは、人を愛する心だとパウロはいうのです。それによって、初めて人は造り上げられるのです。

 私はこの聖書箇所を何度も読んで来ましたが、やっと最近その本質の一部分だけですが、理解できる気持ちになってきました。人に向かって「知らなければならないこともわかってないね!」と思っていた自分がいます。しかし実は、自分が一番わかっていなかったのかもしれません。人が立ち、生き生きと生活をして行くのは、個人の努力も大切ですが、一番重要なのは周りの支えなのです。この支えによって、出来なかったことが可能となり、学んだ知識が初めて成果を出すことができるのです。その支えの根本が神ご自身の愛なのです。

 あの災害から2年が経ちましたが、被災地で生活している人たちが回復するには、個人の努力だけでは無理なのです。日本全体がかかわらないとなりません。いや、更に言えば、私たちも被災地の人たちの生き方に支えられているという理解が不可欠です。互いの助けがあるところに、初めて人間の復活があると思います。壊すのではなく、造り上げる愛。それをキリストの十字架から頂きたいと願います。


「どうすれば喜んでもらえるか!」  
(コリントの信徒への手紙一 7章25〜40節)No.260


 世界の終りが近づいているとすれば、私たちはどのような行動に出るでしょか?。その時、パウロは「神に喜ばれるには何をするべきか?」と考えなさいと言うのです。私たちが行動を起こす基本原理がここにあるのだと思います。しかしでは、神に喜ばれるとはいったいどの様なことでしょうか。パウロのような殉教者となることでしょうか。何か大きな偉業を成し遂げることでしょうか。勿論、そうとは限りません。マルティン・ルターが、「明日世界が滅亡しようとも、私は今日、リンゴの木を植える」と言われたことは有名な話しです。つまりそのことは、日常の小さなことに地道に仕えて行くのが、神に喜ばれる道ということなのです。

  先日テレビドラマの「JIN仁」というのを見ました。その中で印象的だったことは「お前の行動が神の意に適わなければ、あっと言う間に取り去られるだろう」という言葉です。この言葉は恐ろしいイメージもありますが、逆に考えることも可能です。つまり「神が喜ばれると思うことを一所懸命やればよい。それが神の意に適わなければ、神がストップされる。だから心配しないで、正しいことに全力で取り組みなさい!」です。その時、神は私たちの人生を必ず祝福してくださることでしょう。         



「与えられた分に応じて生きる!」  
(コリントの信徒への手紙一 7章17〜24節)No.259


 パウロは、其々神から与えられた分に応じて生きるようにと語ります。人間は一人ひとり与えられたものがあります。ある人は学者や大統領などにもなるかもしれません。またある人は、専業として家庭に仕えたり、一企業で忠実に働く生涯かもしれません。パウロは、その与えられた今を背伸びするものでも、卑屈になるのでもなく、今のままにとどまり、忠実に仕えていくことを勧めるのです。

  先日「仁JIN」という医療系のドラマを見ていて思わされました。江戸時代にタイムスリップしてしまい、そこでの医師としての自分の使命は何であるかを問い続けるストーリー。その中で主人公が常に立ち返らされるのが、いま出会った責任を果たして行くことです。様々な出来事と心配があり迷い続ける人生に於いて、今の与えられた場面での、与えられた責任に仕えて行くこと。それが大切なんだ!という展開。 まさにそうだと思わされました。私たちがどんなにあがいても、避けられない出来事があります。神は与え、神はとられるのです。その与えられた場面、許された出来事の中で、自分に精一杯の働きを捧げていくこと。これこそが、神に与えられた分に応じて生きるということだと思うのです。

 上を目指して努力を続けることはとても大切なことです。しかし私たちは、その努力をもって、努力で得ることのできない神のご恩寵に出会うのではないでしようか。今週も、謙虚に、かつ熱心に進んで行きたいと願わされます。  


「人によって生き方は違うのです!」  
(コリントの信徒への手紙一 7章1〜16節)No.258


 パウロは、1節で記されるように、コリントの教会からの問い合わせに呼応してこの手紙を記します。しかも注目すべきことに、12節で「主ではなくわたしがいう」という言い方をされました。これは、神が言うとか、聖書が語るなどの権威付けをせずに、信仰にあって自分で考えて見てください!と言いたかったのかもしれません。妻も、夫も、相手を本質的に救うことはできません。出来るのは、神のみなのです。だから、謙虚に物事をとらえなさい!ということです。また、何かを多く所有するものが偉いと考えたり、子どもや家族を沢山持つ者が祝福されていると考えて、自分の価値観と基準で人を裁いてはいけないということです。人の人生は様々であり、賜物は多様です。私たちの基軸は、人の個別の価値観ではなく、神の御心なのです。私たちの人生は生まれてから、多くのものを集め、獲得して進んで行きます。しかしまたある時から、その集めたものを一つ一つ手放していく歩みとなります。そこで、私たちが常に目を向けるものは、全てを手放しても残るものなのです。これこそが信仰の道です。ここにとどまって、与えられた分に応じて使命を果たして行きたいと願わされます。 


「自由は真実のために!」  
(コリントの信徒への手紙一 6章12〜20節)No.257


 ある聖書の注解書に「パウロの主たる関心は、このような彼らの高ぶりを正すことにあった。」とありました。勿論、それは自分の言う事を聞かないことへの単純な怒りからではありません。コリントの教会が設立されたころの純粋な信仰は疲弊してしまい、世俗の価値に流されて行く信徒たちを何とか引き戻したい一心です。教会という共同体は、この世にあって宣教する使命が与えられている故に、世俗の価値感の中で、どのように振る舞うべきかが問われています。全てに縛られない、信仰にある自由を持つキリスト教共同体は、その自由を世俗との迎合に使うのではなく、神と人とのために用いることが求められているのです。教会という共同体は罪人の集まり故に、多くの問題をその内側に持ちます。しかしまた、この共同体は、人の失敗を赦し愛い、神の為に進もうと言う高い志を与えられているのです。

 先週から参加していた介護の研修会で、隣の席のご婦人が「私も小学校の頃は教会に行っていたの。とても楽しかったわ!」と言ってくださいました。そのような思いが、人の心に残る宣教をして行きたい。そして、その女性がまた教会の門を叩きたいと思う教会形成をして行きたいと思う。その為に、私たちの信仰にある自由があるのです。



「神の国を受け継ぐもの」  
(コリントの信徒への手紙一 6章1〜11節)No.256


 
パウロはこの個所で、教会の問題処理能力を問うというよりも、教会の質について問題提起をしています。「世俗の私たちは、キリストによって救われたではないか、あの時の初心に立ち返って欲しい」という思いです。コリントの信徒たちがもう一度キリストに立ち帰り、世俗社会とは違うキリストにある生き方をして欲しいのです。

 人生には多くの節目があります。その節目を迎えた時に、私たちは今一度、人生の意味を問い、信仰の歩みを見直して行くのです。それは裁きの時ではなく、新しくされていく大切なチャンスなのです。パウロは、そのようにドロドロの現状に陥ってしまったコリントの教会を刷新させたいのです。
 先週から出席している介護の研修会で、研修とはらせん階段を登るようなものですと講師の方が言われていました。人は、何かを学んだからといって、一足飛びに変化するというものではないということです。信仰の世界もまったくそうです。いや、寧ろ、もっと緩やかな登りでしかないかもしれません。しかし、週毎に礼拝を守り続けて行く中で、自分でも気付かぬ内に、信仰は成長して行くのです。そしてそのように鍛え上げられた信仰は、普段は感じなくとも、危機迫る時が訪れた時に私たちの心を強く立たせて下さるのです。そう、信じで歩みたいと願います。  
 


「罪人として善に生きる」  
(コリントの信徒への手紙一 5章9〜13節)No.255


 コンピューターや携帯電話の様々な機能はとても便利である共に、個人の情報が自分も知らないうちに送信されてしまうような世界になってしまいました。実際、そのような世界はけしからんと批判を加えても、それを利用しない世界に戻れる訳ではないのです。寧ろ、そのような世界のただ中で、自分はいったい誰であり、何をなし、何処へ向かうのかという事を知らねばなりません。本日の聖書の個所で、パウロは世俗の世界と関係を持たない生き方などはあり得ないといいます。寧ろ、その世界の中で、神を信じる者としてどうのように生きるかが問われているのです。つまり、外なる人は神が裁く、まず自分たちの信仰共同体を再検査しなさいというメッセージです。しかしでは、教会内の罪を犯すキリストの兄弟を裁きなさいということなのでしょうか。勿論そのことも教会の為に大切かもしれませんが、寧ろ、更に内なる人としての自分自身は、教会から取り除かれてしまうよう罪人なのではと、問い直す事が大切です。その行きつく先の答えは、救われないものがキリストによって救われ得るという事実です。私たちは、自らの義によって信仰を立てたのではないのです。その事を心の奥深くまで止め覚えて行くのが信仰の世界です。そこに罪人として、善を生きるキリスト者の道があるのです。   


「純粋で真実のパン」  
(コリントの信徒への手紙一 5章1〜8節)No.254


 キリスト教会にはその固有の価値があります。楽しい交わりや遊びも時には大切です。しかし世俗の楽しみと同じことをしていては、そのことが如何に楽しくても、教会としての意味は薄れてしまいます。教会の美徳は、パウロが語るように純粋と真実の道です。昔の慣例や、世俗における常識とは違うのです。新しいパン種を入れない純粋な心で、新しい信仰生活を送ることが大切です。

 勿論、古いパン種に例えられる悪意と邪悪を持つ者が、イコール全て取り除かれるべきとすれば、牧師を初め、誰が教会に残ることが出来るでしょうか。私たちは、全てが罪ある者なのです。だからこそ、キリストの贖罪が必要なのです。私たちは、その神の犠牲によって救われて、その恩恵のもとで、初めて罪ある者が純粋で真実なパンを追い求めることが許されたのです。

 「イエス様が新聞を読んだら」という本が以前ありましたが、私たちはそのような視点で物事を捕えて行きましょうということです。この出来事をイエス様なら何と思われ、どう行動されるか。その目線こそが、純粋と真実を求める信仰の心です。ただ、罪を裁く姿勢ではなく、キリストの視点です。赦されたものとして、真実と愛を求めて行きたいと願います。   



「天国を目指す旅人」  
(ペトロの手紙一 1章1〜2節)No.253


               
説教 古畑和彦牧師

 
「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3・20)。キリスト者の真の故郷は神のもと(=天国)にあります。その意味で、この世の歩みは旅の途中の「仮住まい」(口語訳「寄留地」)の場所となるわけです。単なる「仮住まい」にすぎないのでしたら、この世の歩みは、真面目に生きることに意味がないのでしょうか。そうではありません。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(使徒8・4)とありますように、「仮住まい」(寄留)しているからこそ、まわりに福音を伝えて行くことができるのです。散らされることが、福音を伝えるチャンスとなったのです。このように、天に国籍をもつ者は、天国の代表者として、地上にできるかぎり、神の国の証しを立てるのです。

  使徒ペトロは、主イエスが十字架につけられた時、信仰の旅を中断して、故郷のガリラヤへと帰って行ってしまいました。私たちも、時に旅を中断して、もと来たところに戻ろうとする誘惑に陥ることがあります。その時、私たちは、三位一体の神に選ばれた者であることを思い出させていただきましょう。私たちは、イエス・キリストの十字架の血の注ぎかけによって、生きる者とされました。その私たちを、すべてをご存知の父である神が選んでくださり、“霊”によって聖なる者として旅を導いてくださるのです。ですから、私たちは恐れることなく、「イエス・キリストに従う」信仰の旅を歩むことができます。
 
  信仰の旅は、いつも喜びにあふれる旅ではありません。時に、苦難の旅となることでしょう。そのとき私たちに必要なものが神の「恵みと平和」です。いまでも「恵みと平和」は十分に与えられています。しかし、それは足りないのです。信仰の旅を、苦難に満ちた信仰の旅を続けるために、もっとあなたの恵みが必要なのです。この世の中で、あなたが与えてくださった使命に生きるためには、まだまだあなたの平和が必要なのです。そう祈り願っているのです。この「恵みと平和」があるから、私たちの信仰の旅は、たとえ苦難の中にあっても恐れることはないのです。私たちは、この週も私たちの信仰の旅を、私たちなりに大胆に歩んでまいりましょう。 



「愛する自分の子のために」  
(コリントの信徒への手紙一 4章14〜21節)No.252


 人間はどのような立場であろうとも、人に好かれたいと思う事に違いはないと思います。しかし100人の人がいれば、100種類の考え方があり、なかなか一致するものではありません。特に、相手の間違いを指摘し、修正するというのは容易ではありません。使徒パウロは、コリントの教会の腐敗状況を度々耳にし、自分が人生を掛けて設立した教会が道を外れて行くことに心を痛めていました。そこでは、彼はそれを裁く前に、私の愛する子として語り始めました。ですから、厳しい言葉で、ただ畳み掛けるというよりも、自分の行動を見て再起して欲しいと語るのです。言葉ではなく力を見て欲しい。

  この手紙の言葉は非常に厳しい叱責を記録しています。本当なら、そんな厳しい言葉ばかりでは、慰めにもならず破棄されてしまうのが普通でしょう。しかし何故、そんな厳しい言葉の連続が、聖書として残されて来たのか。つまりそれは、その言葉が死んだ言葉ではなく、生きた言葉だからです。パウロの献身に献身をした苦難の宣教の日々は、受け入れがたい程に厳しい言葉に説得力を与えたのです。パウロの歩みを知っていた人達は、その行動の力に証明された言葉にひれ伏す思いだったのかもしれません。

 神の国は言葉ではなく力なのです。キリストの十字架の贖罪に裏付けられない言葉はどれほど正しくても人を成長させる事はできないのです。そして私たちの語る言葉も、同様なのだと思います。  


「キリストを信じて愚かな者となる」  
(コリントの信徒への手紙一 4章6〜13節)No.251


 
あさひ伝道所も5年目の新年を迎える事が出来た事を心より感謝致します。そして今年は私たちにとっても、どのような年となるでしょうか?。様々な希望と共に、勿論困難も多々あることでしょう。

 使徒パウロは、その世界宣教において、本当に苦労に苦労を重ねた事が記されています。そして、彼は決して温和な人物ではなく、怒りを表明し、自分の苦労を吐露してしまうとても人間的な人でした。その彼は「私たちはキリストを信じて愚か者となっている」と言いました。これはコリントの教会への痛烈なプロテストの言葉でしたが、真実を言い当てているとも思うのです。賢いものではなく、愚かなものになること。これこそがキリスト者の生き方の秘儀です。教会は、神と人とにお仕えするために、損得ではなく社会が無駄と切り捨てるようなことに真剣に取り組んで行くのです。それが使命なのです。マザーテレサは「神様は成功して欲しいなんて望んでいません。ただ挑戦することを望んでいるだけ!」と言われました。神と人とにお仕えするための挑戦を続けていくこと。その時に、様々な困難に出会っても、教会も人生も前進し、今年もよい年であったと言う事がゆるされるのではないでしょうか。
祈りをもって一年をスタートしたいと願わされます。



    
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