カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事
御言葉と出来事(2014年)
  
2014.12.28更新
  「その子をイエスと名付けた」
(マタイによる福音書 1章18節〜25節)        
                                     No.355


「先日、新年の新聞折り込みの地域紙タウンニュースにフレンドシップあさひと教会のことに関して記事を載せることにしました。その文章の打ち合わせで、担当の方が最後に「鈴木さんが地域に発信したいことは何ですか?」と聞かれ、はたと考え込んでしまいました。確かにキリストの救いを伝えるのが、私たちキリスト教会の第一義的な使命です。しかし、それを地域の方々にわかりやすく、かつ受け入れやすく話すのはとても難しく感じました。

  キリストのご降誕が告げるクリスマスのメッセージは、世俗の暗闇と自分自身の暗闇に埋没してしまった私達に差しのべられた救いのメッセージです。そのことは、クリスマスがこの世の商戦に利用され、如何に変容してしまっても、まったく変わることはない救いです。この救いをキリストの働きを持って伝えるのが、私たちの教会の第二の使命です。そしてこの第一と第二の使命は、礼拝と献身が一つの働きであるとロマ書が語るように、二つことでありなから一つの神の業なのです。

  御子のご降誕は、あのノアの時にちりじりバラバラになった人の心をキリストのもとで、また一つに集めるようとする神のチャレンジです。マタイによる福音書1章23節に 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。人を造り救われる神は、私たちを再び信仰によって集め、神の働きに着けて下さるのです。

  今年も一年、守られてなんとかやってこられました。神の私たちに求められることのほんの一部しか出来ませんでしたが、来年も必ず変わらぬ恵みと救いの力が与えられることだと信じます。主にあり感謝!


「神の子と呼ばれる
ほどの愛」
  
(ヨハネの手紙一 2章28節〜3章3節)      
                                     No.354


 「私たちは信仰によって、神の子と呼ばれる資格を得た」と聖書は語ります。これは分不相応でありつつも、神の偉大な恵みです。しかしまた、この言葉を聞いておちおちとしている場合ではないのです。
 
神の子という言葉で聖書を検索すると、「神の子なら・・・石がパンになるように命じたらどうだ。」「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」というイエス様に投げつけられた言葉に多数出会います。つまり、神の子であるとはその権利と共に、大いなる裁きの座に引き出されることを意味するからなのです。

 人の心は闇に満ちています。到底、神の子と呼ばれることに絶え得るような善意の行動は出来ないのです。その心の闇夜では、どんな懐中電灯をかざしても自分の方向からしか物事を見ることしかできません。そうではなく、全体を明るくして、全体が見えるようにしなくてはならないのです。信仰とは自分の方向からだけみる自我から解放であり、全体を見渡し隣人と共同する光を得ることなのです。
 信仰の力によって、心の闇に大きな光を得て、神の子と呼ばれる恵みを得て行くこと。クリスマスのメッセージはまさにここにあります。寒い夜に集まり、天来の恵みを御子の降誕によって感じる時。私たちへの神の愛は、どんな悪事でも取り去ることのできない天の宝なのです。

 クリスマスおめでとうございます。御子の祝福が皆様の上にあることを心よりお祈り致します。 


「真実であって偽りでないこと」  
(ヨハネの手紙一 2章26〜27節)      
                                     No.353


 真実は一つでも解釈は星の数ほどあります。私たちは、事実の断片を自らの都合という視座から解釈し、沢山の事実?を造り上げてしまうのです。そこでは、何が真実であり、何が正しいのかという判断さえ足踏みをさせられます。

  しかし聖書の語る言葉は、違います。それは「真実であって偽りではない」というのです。その事実とは、まさにクリスマスのメッセージそのものである「イエス様が救い主である」ということ。

 聖書の時代も、それから続く歴史の中でも、人の自我からの都合により、イエス様を救い主の座から引き下ろそうとする多くの陰謀がくり広げられました。マタイの28章にもその陰謀の一端が記されていますが、その真実は打ち消されることはありませんでした。それは真実であって偽りではないからです。この真実を心の内に持っているか、そうでないかは大きな違いです。

 少し前に、仕事の相談を受けたことがありました。職場を次々と変えてしまうその人の職場批判は、凄いものでした。しかしそれは単なる批判というより、その人の誠実な思いから出る真面目な批判でした。私は、そのような話しを伺うと本当にそうだなと共感を覚えます。その心の叫びを同じように感じるからです。では、そこで同じように感じる私と、その来談者との違い何なのでしょうか。実際、その違いがあるすれば、信仰の道を与えられているかそうでないか程度の違いなのです。互いに真面目に一生懸命働きたいと願っているし働いている。しかし私たちには、世俗の偽りに埋没することのない、キリストからの信心があるのです。この真実は、だれも取り去ることができないのです。来週はいよいよクリスマス礼拝です。その恵みを頂いたいと願います。


「偽りは真理からは生じない。」  
(ヨハネの手紙一 2章18〜25節)      
                                     No.352

 「全ての偽りは真理から生じない」と聖書は記します。それはつまり、真理を語っているといいながらキリストを否定する人たちに向けられた言葉です。 私は、この言葉を聞くとヨハネ福音書18章でのイエス様とピラトの『真理とは何か!』という問答を思い出します。

 私たちの社会では、自分の語っていることは真実であると言う人たちが沢山いるのです。今度の選挙でも、まさにそのような人たちが人を奴隷化しようと走り回っているように感じます。

  勿論、人はその正しさとか真理とかに到達したいと思っているし、出来れば真実に生きたいと誰もが思っているのです。人は罪ある者ですが、また人は真実を求めて生きたいと願っていることも確かです。しかし世俗社会は、その人の心を利用し暗闇へと引き込もうとするのです。真理とはまったく別の、偽の真理に人を引き込み都合の良い道具として使おうとするのです。

 先週、中会の神学社会委員会の靖国ツアーに参加し、何年かぶりで靖国神社に出かけて来ました。ガイドの西川先生の話を伺いながら、靖国神社自体が戦争を美化し、あの参事を正当化していく原動力となってしまっていることを感じました。

  9月の沖縄を訪問した時に、ひめゆり学徒隊の生き残りの津波古さんが言われていたことが心に残っています。「あの頃は何の疑いもなく、言われるままに戦争に加担していました」とのこと。そこでは、国や人が真理であり、その真理によって人は罪を犯させられ、苦しめられてしまうのです。それは真理という名を語った、悪魔の仕業としかいいようがないことをあの参事は語っていると思うのです。

  聖書は、ピラトの真理とは何か?という問いに御子が私たちの救いであると明確に答えるのです。つまり真理とは、神の犠牲による赦しの業から発信する光だと言えないでしょうか。その光のもとにある限り、人が再び奴隷とされることはなく愛され生かされるのです。そしてそれがキリスト者の本分なのです。

  クリスマスのメッセージはこの光について語ります。この光を心に抱いてこの時期を過ごしたいと願わされます。


「赦されているからこそ言います!」  
(ヨハネの手紙一 2章12〜17節)      
                                     No.351


 手紙の内容は世俗の欲に駆られて生きてはいけないこと、それらはいずれ過ぎ去るものと、読者を厳しく戒める内容です。

 しかしこの手紙の著者は、その戒めの前提としてあなた方は赦されている、あなた方は初めからの神を知っている、あなた方は悪いものに打ち勝った、だから言っているのですと語るのです。つまりダメなものを戒めて変えようとするというよりも、既に選ばれ恵みを受けているものとして、あなた達なら出来る!という励ましのようにも感じるのです。

 人は戒め続けて変わるのなら、苦労はないのです。厳しくすれば良くなるとすれば、こんな簡単な話はありません。そんな事では人は変われないのです。寧ろ、人は、その成長を助ける励ましがないとなりません。何故、成長しなければならなのかという根底的な哲学がないと表面的な有り方に終わってしまうからです。その何故が、その哲学が、私たちにとってはキリストへの信仰なのです。

 先週、有名な俳優が亡くなりそれを偲ぶ番組が多数放映されていました。その中で目に留まったことがあります。それは、生前、若者がその俳優に「どうしたらあなたのように生きられるのですか?」と質問したというのです。すると彼は「いい人に出会うこと。自分からその場所に近づいて行く事」だと答えたそうです。

 まったくそうだと思いました。私たちにとっては、そのいい人とはイエス様であり、自分で近づくとは、信仰の告白です。この方の道にこそ、世俗に翻弄されない確かな人生であると私は感じでいます。この方をお迎えするクリスマスアドベントの時期を大切に、信じる心を持って過ごしたいと願わされます。



「自分の闇に負けないで歩む!」  
(ヨハネの手紙一 2章7〜11節)      
                                     No.350


 
聖書は、新しい掟を話すのではなく、古くからある掟を新しく話しているという表現をします。この言葉は私たちに大きな力を与えるものです。つまり、私たちの人生がどんなに失敗に満ちていても、どんなに闇の中をさ迷うようなものであったとしても、全く新しく生まれ変わることが出来なくても、古いままで新しい生き方ができるということを告げるのです。

 人の心が闇に引き込まれてしまうのは、現実のマイナス的な出来事の連続によるのではなく、その絶望に耐え切れない心が私たちを苦しめるのです。しかしその変えられない現実の中で、聖書は新しい生き方を提示します。新しく赤ちゃんとして生まれるのではなく、今の自分のままで、生まれ変わるのです。ここに信ずる心の力があります。もうダメではない、今日また新しく一からスタートです。

 このクリスマスを迎える時期に、私たちへ語られるメッセージは、まさにここにあります。人の世界が闇に支配され、人の心が互いの違いを憎しみとしてとらえてしまう時。その闇は、真実を見る目を失わせ、自らの心を闇に引きずり込み、疲弊し倒れさせてしまうのです。点しか見えず、全体を見失ってしまいます。

 そこに降臨された、神の御子イエス・キリスト。きっと地上の現実をみてイエス様も「わ〜あんなところ行くのやだな?」と思われたかどうかはわかりませんが、なんかそんな気もします。しかし御子は、敢て私たちの人生のど真ん中に降臨し、人の生み出す暗闇と戦い、その労苦と犠牲をもって勝利されるのです。だからこそ、私たちは救われたのです。現実の生活の闇に引き込まれずに、何度でも神を見上げて、毎日新しい人生を歩みたいと願わされます。



「失敗しても大丈夫!」  
(ヨハネの手紙一 2章1〜6節)      
                                     No.349


 先日、ベルリンの壁の崩壊から25年という特集がテレビで放映されていました。壁の崩壊は自由をもたらしましたが、未だにある東西の差別や格差の問題に焦点が向けられていました。そのテーマは長い間、自然とタブー視されていたとのことでしたが、討論会の主催者は「凝り固まった考えをやめよう」と訴えていました。誰でも凝り固まった考えになりたいと思う人は、いないはずです。聖書はその凝り固まりたくないと願う人に、大きな支持を与えていると思うのです。

 この箇所は二つのことが言われています。一つは「罪を犯さないように」という事と「罪を犯しても大丈夫ですよ」と言う相反する考えです。これは矛盾しているようですが、当時の難しい教会の状況が繁栄しているのです。自分は罪を犯さない聖人であると主張する者もいれば、罪は赦されているんだから豊潤に生きればいいのだという考え。恵みが優先したり、行いが優先したりと本当に混乱に満ちていたのです。 その中で、この手紙の著者は、赦されているのだからこそ良い行いが必要であることを語ります。そしてそれこそが、伝道となると言うのです。

 本当にそうだと思います。世俗の世の中を見ても、理論を延々と語るよりも、一つの実績を上げることこそが説得力を持つのだと思います。そのような意味では、私たちの働きも、自分の出来る小さな一つの働きを捧げて行くことこそが伝道なのでしょう。それは御言を告げると共に、花を活けたり、字を書いたり、送迎をしたり、窓を拭いたり、食事を作ったり、履き仕事をしたり、声をかけたり、週報を折ったり、会議をしたり、そして何よりも祈りを大切にして礼拝に出席すること。それは小さなことでも、天に数えられ、地域の人たちがその何気ないふるまいの中に神を見出して行くのではないでしょうか。私たちの信仰の小さな捧げものを神は必ず取り上げてくださるはずです。 


「闇の中か、光の中か」  
(ヨハネの手紙一 1章5〜10節)      
                                     No.348


 事業運営をしている人と色々な人がアクセスしてきます。沢山の人たちと出会って、いいことも色々ありますし、いい人もたくさんいます。しかしこれはビジネスの世界であり、この仕事を辞めれば何のかかわりもない世俗の付き合いでもあるのです。

 しかし、教会の交わりは一生ものであり、死んだ後までも続くキリストにある家族の交わりです。私はこれこそが重要だといつも思っているのです。目の前の利益を生み出す関係に、気分を左右されている前に、聖書に親しみ、共に祈ること。聖書は闇の中ではなく、光の中を歩みなさいというのです。まさに光の中を歩むとは、この信仰にある家族と共に歩むということではないでしょうか?。

 カンバーランド長老キリスト教会の信仰は、告白的ですと荒瀬先生が言っていました。つまりそれは、自ら主体的に対象をもって告白することだというのです。何かに強制されたり、何となくわからないけど有難く敬うというのとは違うのです。自分で理解し、自分で告白していく主体性。信仰の道は、この主体性と、神が捉えられるという客体性を相互にもつ世界です。主体だけが強調されたら、恩寵は消えうせますし、神の摂理だけが強調されると、無責任な依存的な信仰となってしまいます。

 私たちの人間関係も同様です。自分の主体性があると共に、その主体性を守ってくれるのは相対する隣人の客体性なのです。「自分の価値を理解してもらうには、他者の価値の受容から始まる」とある賢者が言ったのは本当だと思います。この世の消え失せる関係ではない、キリストにある交わり。これを聖徒の交わりといいます。俗なるものがキリストにあって聖なるものとされた。これが闇に光が勝ったというクリスマスのメッセージかと思います。もう、11月です。来月の12月アドベントを楽しみに待つような信仰をもって今を過ごしたいと願います。


「目で見たものを伝えます!」  
(ヨハネの手紙一 1章1〜4節)      
                                     No.347


 ヨハネの手紙の著者は、自分が伝えることは、目で見て、手で触れた本当にあるものを証ししているのだと記します。そこには、人が聞いた良い話というのとは全く違うキリストの臨在のリアリティーがあるのです。そうなると、私たちはイエス様に直接は会っていなので、何か信仰のリアリティーに欠けるのではと思うこともあります。しかし2000年前に生きていなかったからといて、キリストの実在の実感がないとは言えません。寧ろそこでは、見えないものを見る信仰の実体験があるのです。世の中では、偶然とか、運がいいとか、はたまた努力の結果だと言われる事を、神という視点で見直していく作業にリアリティーがあると思うのです。

 あさひ伝道所がスタート、介護事業所を運営し、来る日も来る日も働き続けてきました。その働きの中で、今回のスポーツデイの開所が与えられたのです。努力の結果といえば確かにそうかもしれませんが、同じ努力を捧げても同様の結果を得られない場合も多々あるのではないでしょうか。それでは、何故ここまで来たかと言えば、神がそのことを人の努力を通して形にすることを良しとしてくださり進めてくださったからだと思うのです。そこには、確かな神のリアルな現実への介入があると思うのです。今回の物件交渉から、開所に至るまでの困難極まりない道が、常に開かれて来た事がその確かさを示していると私は感じるのです。

 私は確かに神の業を、目で見て、手で触れる機会を与えられました。この実感を取り去ることは誰にもできないはずです。そして、形は違っても、信じる者は皆このリアリティーを感じているのではないでしょうか。神は確かにおられる。そして働かれている。それは信じる目を与えられた人には確かに見出せるのです。



「神の御心がなりますように!」  
(ヘブライ人への手紙13章20〜24節)      
                                     No.346


 著者は、21節で「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と祈りました。全ての良いものを神が供えて下さるという信仰。勿論、私たちに起こる出来事の全てを良いものと感じることは難しいことです。いや、悪い事の方が多いのかもしれません。しかしその悪いものも、私たちにとって結果的には良いものとなることを信仰の道は悟らせてくださるのです。

 23日に無事にフレンドシップあさひスポーツデイの開所式を行うことが出来ました。教会を開設するわけでもないので、そんなに大々的に式を行いたいとは思っていませんでした。カンバーランド長老キリスト教会の教師と友人たち、フレンドシップあさひの職員、そして特にお世話になった方々をお招きして内輪の会をしようと思っていた次第です。しかし結果的に50人以上の方々が参加してくださり、立派な開所礼拝になってしまいました。

  前でお話しをする中で、一デイサービスの開所にこんなに人が関心をもって来てくれるとはと、とても励まされる思いでした。また荒瀬牧彦先生の、中会のみんなはこの働きをとてもいいものと思い、歓迎して応援しているという言葉は憂いしい限りでした。十年前に、ふと思いついたこの働きが、今は一つの実を結んできたように思います。随分と自分なりに努力をしてきたつもりではありますが、その努力をもって努力では得られない神の恵みを見つめたいと思っています。よい出来事も歓迎できない出来事も受け止める信仰をもって、明日を進みたいと願っています。
 


「わたしのために祈ってください!」  
(ヘブライ人への手紙13章17〜19節)      
                                     No.345


  甲子園出場の有名校野球部が、廃止になるかもとマスコミを騒がしていました。その理由は適任の監督が見つからないということです。実際、素人目には、監督は何もプレーをする訳でもないので、いなくても選手達が相談して決めて行けばいいように思えます。しかし、実際は監督がいないとやはり運営は難しいようです。つまり、選手たちはギリギリまで能力を出して戦うことに集中しなくてはいけない状況で、全体の運営まで考える必要が出てくるとベストを尽くせなくなってしまうからです。個々が力を発揮できるように、全体を組み立てる人がどうしても必要なのです。

 その様な意味では、教会にも指導者が必要であることが、この聖書の箇所に記されています。そして、その指導者に従いなさいというのです。ある面では、この記載は指導者側にとっては何か好都合な内容で「ほら、こう聖書に書いてあるから私に従いなさい」と自己権威の肯定に使われてしまうかもしれません。しかしそうではなく、また逆から言えば、指導者はみんなが従ってもらえるものに成らねばならないという、裁きの座に引き上げられるという記載でもあると思うのです。「あなた方は教師にならない方がよい」とパウロが言われたように。

 ではまた更に言えば、従う価値のある完璧な指導者が現れないと、従わなくていいのかという疑問もあります。つまり、人間が務めている限り、完璧な指導者などおらず、完璧に出来ている人にしか従わないとしたら指導者など存在しないことになるからです。だからこの聖書の箇所が続けていうのは、指導者の為に祈って欲しいということです。そしてその指導者が指導者として立てられていることが、あなた方の益になるのだという話です。指導者と従者とは、上下関係ではなく互いに祈り合い、支え合う役割の違いなのです。是非、そのような意味では、鈴木牧師が仕事をさぼらず、謙虚に忠実に努められるようにお祈り頂ければと思います。その祈りによって指導者が立てられるのだと聖書は語るからです。


「思い出し見倣うこと」  
(ヘブライ人への手紙13章 7〜16節)      
                                     No.344


 
スポーツデイの申請書類を作成するのに大変な苦労をしています。普通の会社では、社会保険労務士と管理者が行う仕事を自分で行っているためです。しかし、この仕事もお金を払えば済むということ考えもありますが、苦労して自分で行う利点もあります。それは、介護保険の法律や周辺の規定にとても詳しくなるということです。苦労するということは、それなりの成果もあるのです。

 現実に自らの手で行う働きには力があります。それはイエス・キリストが成された地上での受難の人生は、人の痛みや苦しみを誰よりも理解するため必要な苦しみでした。神殿の幕屋の中ではなく、そこから出て自らが行うキリストの業。私たちは、この受難のイエス様の生涯に見倣うものなのです。

 見倣うとは、ただ単に従うというだけではなく、その強さを自分のものとして頂くということだと思います。FSAの職場で、ここのところ多少ミスが続き落ち込んでいるスタッフがいました。わたしはその職員に、失敗から学ばなくてはいけないことも沢山あるが、それと共に心を強く持つことが大切ですと伝えました。私も仕事の中で自分に向かって「挫けるな、心を強くもて、大丈夫だ」と何度も語りかけています。この働きを祈って始めた以上、どんなに人としての失敗があろうとも、キリストにならってその道を歩む限り必ず大丈夫なのです。大丈夫でないとすれば、自分自身の心の問題です。以前、先代の瀬底先生が「事態が紛糾しているのではなく、自分が紛糾しているのです」と言われていたことは、まさにその通りなのです。キリストには力があります。だから私たちは大丈夫なのです。そして、この方に従い見倣う事。その先には必ず素晴らしい人生の道が開かれているのです。 



「助け手がいる」  
(ヘブライ人への手紙13章 1〜6節)      
                                     No.343


  本日の箇所では、キリスト者への訓戒が語られます。信仰の兄弟愛を持ちなさい。旅人をもてなしなさい。虐待されている人を思いやりなさい。夫婦関係を大切にしなさい。金銭に執着せずに過ごしなさいと色々ありますが、ある面では当然の内容とも言えます。勿論これは、迫害に合う教会とその信徒に向けた言葉ですが、私たちの日常にも当然のことながら適応されるべき訓戒です。しかし、何を今更と思えるような常識的なルールであっても、この当然のことが出来ないのが、人間であり信仰者なのです。

  フロイトは精神的に健康な人は「働くことと愛する事」が出来るといいました。人間は予想以上に人を愛する事が出来ない生き物なのです。勿論その愛とは、恋愛的に人に好意を持つという意味ではなく、友人や会社での隣人を愛する心のことです。仲間を思いやり失敗を許し合い助け合い、共同体を良好に維持していくこと。しかし、このことが出来ずに多くの人が挫折し、多くの人が共同体に躓き、多くの人が孤立化してしまうのです。そこで欠けてしまっているのは、3節にあるように、相手は自分と同じ体を持っているという考え方です。つまり、相手の立場に立って考えなさいとのうことです。その人が正しいから相手の立場に立つと言う限定的な理解ではなく、自分に対して本当に困ってしまう状況の人の立場を考えること。

  先日、介護保険関係の友人から相談を受けました。トラブルを抱えて困っていて、本当にあの人たちは酷いという訴え。お話しを伺うと確かにそのとおり。しかし敢えて問題を解決したいのなら、その酷い?人たちも困っているという立場に立つことをお薦めしました。対立するのではなく、酷いトラブルではあるが、それでも解決に向けてみなさん努力してくれてありがとう!という気持ちで、事件を引き取ったらどうですか?というアドバイスです。その方は、何やら納得して、そうしてみると帰られました。問題解決は容易ではありませんが、そのヒントは自分の立場にあるのではなく、隣人の置かれた状況の中にあると考えることが有効なようです。そしてそれこそが、愛することなのではないでしょうか?。神の戒めは、私たちを苦しめるものではなく、私たち関係を改善し明日を開く戒めだと思わされます。



「神を拒まないように!」  
(ヘブライ人への手紙12章25〜29節)      
                                     No.342


 私たちが聖書を通して、心に留めることは、イエス・キリストによる新しい契約によって、裁きの焼き尽くす厳しい神がなくなった訳ではないということです。「恵みと厳しさは、常に並存する」と表現されるように、キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を否定するなら、神との交わりに入ることは許されないのです。審判を恐れつつ神に仕えて行く姿勢が、キリスト者には今一度求められます。勿論、その神の怒りは、私たちが苦しむ替りに、イエス様が受難と十字架に於いて負われたことを忘れてはなりません。ここで注意するべきことは、愛の神だけの強調はキリスト教の本質ではなく、それはイエス様の十字架死を蔑ろにしてしまうことになるのです。
 
  先週、家族で沖縄旅行に出かけて来ました。娘が、是非行きたいと願っていた「ひめゆりの塔」を訪問することが出来ました。その記念館で、大戦当時17歳で実際にひめゆり学徒隊であった津波古さんのお話しを直接伺い多くを考えさせられました。学徒として戦火の中を水を汲みに行ったり本部の伝令に走ったりする中、学徒隊の解散命令が出て、ちりぢりとなり、海岸線でアメリカの宣教師が日本語で語りかける言葉で救われたとのお話し。その戦争の悲惨さを伝えねばと、記念館で話しを続けていると言う津波古さんでした。

  信仰の世界も同様だなと思わされました。イエスと罪人の戦争の上に築かれた神の愛。罪人を焼き尽くす神の裁きを知るとは、私たちが震え上がるようにというよりも、キリストの焼き尽くされるような受難を覚えることなのです。罪は赦されたというよりも、裁きを受けるのを変わってもらったというのが正しいのです。だからこそ、その恵みを下さるイエス様を拒んではならないということなのです。感謝して、畏れ敬い、神に喜ばれるように日々に仕えることを目指したいと願わされます。 



「聖なる生活とは何か?」  
(ヘブライ人への手紙12章14〜24節)      
                                     No.341


 
キリスト者に相応しい生活をすることは、第一に全ての人と平和に過ごすことであり、聖なる生活を追い求めることだと語ります。私たちの心には、人を羨み、妬む心の苦い根があります。その根の毒は、自分自身の問題だけではなく、他の人までも汚してしまうというのです。つまりそれは、第一に語られた全ての人と平和に過ごすことを崩してしまうことなのです。「錆は鉄を腐らせ、妬みは人を腐らせる」という言葉があるように、これ程やっかいな心はありません。勿論、それは誰もが持っているものですが、問題はその大きさが社会生活を疎外してしまう程のものであるのかという事なのです。

  私は、牧師の仕事を仕えて来た中で、このことで苦しみ続け、自分も共同体も破壊してしまうような方々を何人も見てきました。何故、そのようなことになってしまうのか。誰もが争いでなく、平和に暮らしたい、真実をもって生きたいと根本的には思っているはずなのです。しかし、それとはまったく逆の方向に進んでしまう。その問題の中心的な課題の一つは、他者の方向から物事を見ることが出来ないということです。自分の方向からいつも考え、そして答えを出してしまう人の弱さが、結果的には自分自身をダメにしてしまうのです。

  しかし、それを乗り越える方法があります。それは、神の側から見る視点を養うことです。神が何を思い、私に何を語り、隣人に何を示そうとしているのか。信仰とは、自分という視点を離れて、神の視点に立つことで、自己解放と隣人愛に気付くことなのかもしれません。どんなに挫けても、どんなに挫折しても、どんなに苦しくても、この信じる道を外さなければ、私たちから救いは逃げていきません。神は愛だからです。


「喜ばしくない鍛錬をへて」  
(ヘブライ人への手紙12章4〜13節)      
                                     No.340


 
「およそ鍛錬というのは当座は喜ばしいものではない、しかし後になればそれで鍛え上げられた人に、義という平和に満ちた実を結ばせる」と聖書は記します。これは誰でもわかる当然のことであるようですが、誰もが「その後」を見ることが出来ず、苦しみ、弱り果ててしまっているのも現実のように思えます。では、それはいったい何故なのでしょうか?。

  それは私たちに、未来を備えてくださる神への信頼が不確かなためではないでしょうか。例え話ですが、この夏に長野の笠が岳に登りに行った時に、豪雨の中でしたが、この丸太を超えればルートに出れるのでは?と思って進もうとしました。しかし、それを超えてもルートが見つからなかったら危険な撤退になると思い、断念して他のルートを上り返す出来事がありました。そこを進めなかった理由は、その見えない先を信じられなかったからです。しかし、その先が確実であることがわかっていたなら多少危険でも慎重に前進して、その難所を超えられたはずです。そこを進む技量が変化する訳ではないので、進めるか撤退するかは、先が見えているか見えていないかということです。

  山登りに限らず、私自身も仕事の上でも、先が見えず本当に心が疲弊してしまうことがあります。しかし、その時に出てくるのが「祈り」なのです。苦しい時の神頼みとは言いますが、全くそのとおりです。しかしこの祈りの中に、先が見えなくても、供えられている道の存在は感じることできるのです。この先に、神が道を付けて下さっている!そう感じると、今の小事に忠実に進む気持ちが戻ってくるのです。大切なことは、信仰と祈りによって、心を整えて行くことです。いや私たちに備えられている試練は、信仰と祈りに信頼を置くための訓練なのかもしれません。この訓練は軽んじられてはならないのです。神は愛する子を訓練するからなのです。  


「疲れ果てないために!」  
(ヘブライ人への手紙12章1〜3節)      
                                     No.339


 聖書は、気力を失わず、疲れ果てず、忍耐強く走り抜ける方法は、イエス様の忍耐を思い起こすことであると語ります。これはつまり、早々に答えを出さずに良く物事を考えるということです。私達の人生に次々と起こる様々な出来事に慌てて反応せず、その出来事を良しとして何かを語ろうとする神のご配剤と意味を思い浮かべることです。人生は一度の失敗、一度の言葉によって取り返しのつかないような事態に陥ってしまう訳ではないのです。間違ったと解ったら、何度でも改めればいいのです。あの言葉も間違っていたと訂正すればいいのです。間違いを告白する勇気と、修正する恵みを受けることが、人生が疲れ果ててしまわないコツではないでしょうか。

 
品物購入でクーリングオフという制度があります。その時は欲しいと思って購入してしまったが、後で考えると不要であった品物をある期間内なら返品できるという制度です。この制度が存在するということは、人間がよく考えても間違えてしまう存在であり、その救済が必要であることを意味していると思うのです。人はどんなに考えて行動したとしても、間違えやすく正しくありえない者なのです。しかしだからこそ、聖書は4章で「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」と記すのです。私たちの勝手な間違いにも同情してくださる方。だからこの方の生涯を思い浮かべ、忍耐と気力を頂き、新しくされ続けることが必要なのです。疲れ果てず、前に進む力は必ずここにあります。


「生きるのも死ぬのも、信仰によって」  
(ヘブライ人への手紙11章23〜40節)      
                                     No.338


 この箇所は、如何なる苦難に出会おうとも信じる心を失わなかった民は、希望に生きる力を得るという事が記されています。人生の最大の苦難とは、希望を失うことだと思います。もう、生きていてもしょうがない、何のために今があるのかわからない、目標を見出せないという思い。自分に比べて、あの人は生き生きしていていいなと羨む思い。人は、何とか自分の人生を肯定したいともがいています。

 数十年前、私はお正月のある日に、フットボールの試合を見た後に希望ヶ丘教会を訪ねて牧師夫人の、のり子先生に話しをしました。「テレビのフットボール選手達の試合の様子は輝いていて、それに比べて俺には何もないような気がして気分が落ち込んでしまった」と。するとのり子先生は「何を言っているのよ!そんなことしょうがないじゃないのよ!この週報でも折る競争をしましょう。小さな充実を頑張るしかないのよ」との回答。乗せられて週報折りを手伝わされる中で、何か自分は勘違いしていたのかもしれないと思いました。より大きなものを目指すことが、人生を充実させ、小さなものはダメな人間がやることのように感じていたからです。

 大切なことは、この聖書の箇所が語るように、大きさではなく、小さなことでも信じる心を持って取り組むことなのかもしれません。小事に忠実であれ!と聖書は語ります。その延長線上でも、大きなものを地上で手に入れられなくても、私たちが信心のもとで進む道は、それを得たのも同然の成功した人生なのです。目の前の事柄に、振り回されるのではなく、天を見上げて、来るべき宝を信じ、今日の小事にお仕えしていく事こそが大切だと思わされました。



「死んだ人生からの復活」  
(ヘブライ人への手紙11章17〜22節)      
                                     No.337



 信仰の道に入ることは、人生の損失と考える人がいます。欲しいものを諦めて、我慢の信心に徹しなければいけないと思うからかもしれません。しかしそれが、実は損失ではなく、もっと良いものを手に入れるチャンスだとしたらどうでしょうか。信仰によって、一人息子のイサクを神に捧げようとしたアブラハムでしたが、捧げる前に神のご配剤があり救われるのです。その出来事は、死者を返してもらったも同然の出来事と例えられます。死者が再び命を得るような凄い価値をもつ出来事が信仰の道の上には備えられるのです。

 私たちの日常には、アブラハムの試練にくらべればまったく小さなことではありますが、日々の試みと試練の中に置かれます。その一つ一つを不幸と捉えるのか、これを超えて進むようにと神に導かれているのかと考えられるか大きな違いなのです。

 私の今年の登山前半では、豪雨と強風の中で笠が岳の山頂を踏んできました。笠が岳は常念岳と似たような道筋です。ここを超えれば山頂か?と頑張って行くと、霧の向こうに更に登りが現れます。それが何度も何度も続いてやっと山頂に到着するのです。必死な思いで進んでいる時は、がっかりの連続とも言えます。しかしそこを超えて、更に三つでも四つでも尾根を越えれば、必ず着かない山頂はないのです。何故なら、山頂は逃げないからです。

 私たちの希望は、なかなか到達出来ないから無駄な願いではないのです。山頂のように、それは決して逃げないのです。ただそこに至る道は、時には険しく厳しいものです。しかし歩みを止めない限り、希望は霧の中にあっても決して逃げたり無くなったりはしません。それが神を信じるということなのだと思います。今週も信じて歩みたいと願わされます。  


「仮住まいの私たち」  
(ヘブライ人への手紙11章13〜16節)      
                                     No.336


   私たちは、この世では仮住まいであると聖書はいいます。世俗の世界は、腐敗に満ちており、どんなにまじめに生きようと志しても、その心が挫かれてしまうような不条理なことが多々あります。信仰に生き、真実を尽くしたくても、常にその歩みが歓迎される訳ではありません。その理由を聖書は、キリスト者にとってこの世は仮住まいの場所であり、よそ者だからであると記しています。よそ者の仮住まいでは歓迎される訳がありませんし、疎外されるのが世の常でしょう。しかしその疎外されたよそ者でありながら、信仰を持つ者は約束のものを未だ手にしてなくても、希望を見出して生きるというのです。

  ヨハネによる福音書の6章にこんな言葉があります。「彼らはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』。」私たちには人が驚くような奇跡も、あっと言わせるような業もありません。ただ、小さな努力を積み重ねるだけです。しかし聖書の語る神の業とは、神から遣わされたイエス様を信じることそのものなのだと記されるのです。

  神を見失ってしまいそうなこの時代に、神を信じて生きることこそが神の業なのです。つまり、私たちの素朴で小さな信仰でも、それは正に神の業を行っていることになるのです。仮住まいでよそ者の私たちですが、来るべき天の御国を信じて、今日、神の業としての信仰の道を生きたいと願わされます。



「行く先も知らず出発!」  
(ヘブライ人への手紙11章8〜12節)      
                                     No.335


 旧約聖書に記されるアブラハムという人物は、神の召しを受けて行く先も知らずに旅に出たという記事があります。私は以前この箇所を読む度に、一人前の伝道者は故郷を捨てて知らない土地に行って宣教しなければ一人前ではないと思っていました。しかし最近この箇所は、もう一歩進んで受け止める必要があると思うのです。つまり、行く先を知らず故郷を捨てて出発する心とは、変化を恐れず新しい事柄に向かって進みなさいという意味ではないかということです。人はどうしても変化をすることに、億劫であり同じことを繰り返す安易さに安住してしまう傾向があります。しかし信じる心とは、そこから一歩も二歩も、前に進んで行くことを神が召しているということです。変化して行くには、大きなエネルギーが必要となります。そこには、大きな忍耐が必要です。そしてそれを乗り越える根性が不可欠なのです。

 変化というのは、努力の割に微妙なものです。私は、5月から職場に毎日歩いて通うことにしました。片道45分を朝晩と歩き続けました。しかし三か月たっても、体重が劇的に減った訳でもなく、その努力の割には大した変化はないのです。毎日毎日繰り返しても、ほんの少しの変化しか得られません。しかしそれが三か月ではなく、一年となり三年となったらどうでしょうか。小さな変化が積み重ねられて、大きな変化を得ることが出来るのです。

 勿論その努力は、単なる人のサクセスストーリーだけになってしまったとしたら、それもまた滅びゆく運命に置かれるのでしょうか。私たちはやはり、「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」詩編127編にあるように、神の建て上げるものに共同する思いで、努力を積んで行くのでしょう。その時、変化していないような小さな努力も、神は取り上げて下さり、神の御用に用いてくださることでしょう。



「見えない望みを確信して」  
(ヘブライ人への手紙11章1〜7節)      
                                     No.334


 先日NHKの番組で「やる気」のスイッチを入れる方法というものが放映されていました。それによると、やる気のスイッチを入れる方法の一つのカギは「運動」にあるとのことです。運動すると疲れてしまう?という理解ではなく、運動することで意欲が湧いてくるというのが正しいというのです。人は、健康でも時間があっても、このやる気というものが出てこないと、何も出来ないといってもいいでしょう。そのスイッチを入れるのが「運動」です。

 そのような意味では「希望を持つ」ということも同じスイッチがあるように思いました。行き詰まってしまう!という言葉があるように、希望を持てない時に、人は物事を行う体力や知力はあっても進めなくなってしまいます。これを進ませるのが「希望」です。そしてこの希望のスイッチを入れるのが、私たちにとっては信仰だと思うのです。どんな事態であっても、希望のスイッチをONにすることが出来る信じる心。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること。」と聖書あります。見えていなくても、見出し、行き詰まっても希望を得て行く力である信仰の世界。

 社会の痛ましい事件をニュースで見る度に、何故その前に教会の門を叩かなかったのかと思います。しかしまた、この人たちへ届くメッセージを教会が語れているのか?という問もあります。教会が、希望のスイッチをいれる道を地域にどのように伝えて行くのか。時代の流れの中で、変わらない不変な価値を伝えるために、私たちは変わり続けなくてはなりません。時代に適合した宣教へと変化を続ける使命があるのです。今日の課題を整理し、明日の希望に生きる教会へと向かいたいと願わされます。 


「自分の確信(確認)を捨ててはいけません。」  
(ヘブライ人への手紙10章26〜39節)      
                                     No.333


 聖書は「確信を捨ててはなりません」と語ります。しかし実際この「確信」を持って進んでいる人は世の中に何人いることでしょうか。いつも、心配があり、いつも不安と共に歩みを進めていると思うのです。それがどんな凄い指導者と言われる人でもです。絶対というものは、世の中にはないからです。ですから、それを死守するには「忍耐」が必要であると記されます。つまり確信を持ち続けて行くには、忍耐が必要なのです。世俗社会の中で、見えない神を信じ、その道に生きることは大いなる報いを得ると聖書は約束しますが、その為には大いなる忍耐が必要なのです。「大いなる報いには大いなる忍耐が伴う」ということです。私たちがもっとも苦手な忍耐です。

 あさひ伝道所の宣教課題である介護事業の新規デイサービスの開所が、いよいよ物件の契約と共に進展しました。数百万円もの支払を終えて、もう後戻りはできません。ここまでは多くの難関を乗り越えての契約締結ですが、ここから開所までは更なる忍耐が、開所後はもっと大きな忍耐が要求されることでしょう。つまりキーワードはいつも忍耐なのです。それは大変なことでありますが、この意味を信仰によって受け止めて行く限り、必ず道は開けると信じることが「確信」なのだと思います。

 早々に答えを得られるものには、大した価値はありません。それは量の話ではありません。それぞれの在り方で、積み重ねられた上にこそ美しさと確信があるのです。それを聖書は約束されるのです。今週も、信じる道の上で出来ることを出来るだけ行って行きたいと思います。



「この時代に揺るがない希望を」  
(ヘブライ人への手紙10章19〜25節)      
                                     No.332


 聖書は私たちに何々をしなさいと言いますが、ただ盲目的に従いなさいという話しではありません。その神の指示には、必ず目的があるのです。この箇所では、揺るがない信仰を保もちなさいと告げますが、その目的は、私たちが互いに励まし合うことだと聖書は語るのです。

 巷のニュースでは、毎日のように流れる悲惨な事件や戦争の話し、本当に信仰とは何であるかと、日々その情報は私たちを信心の崖っぷちに立たせているようにさえ思えます。しかしだからこそ、私たちは互いに励まし合って信じる道を進むのです。信じる道に選ばれた私たちは、互いに励まし合って、この時代に信仰の意味と価値を身を持って示して行く使命があるのです。

 現世主義でも、厭世主義でもない、信仰にある希望をもった生き方。私たちの人生は、生まれる前から、天に帰る先まで続くこの世の旅の途中であると心に留めて互いに励まし合うのです。

 マタイによる福音書では、イエス様は『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と言われました。仮に、私たちの人生から戦争が止み、貧困が解消され、悲劇が終焉したとしても、神の言葉なくして人は生きられないのです。神の言葉とは命の息です。この命は、希望に向かって進む力そのものなのです。今週も信じる心と共に歩みたいと願います。


「罪と不法の赦しはある!」  
(ヘブライ人への手紙10章11〜18節)      
                                     No.331


 
聖書は、罪と不法の赦しがあるといいます。しかしその赦しには、必ず目的があるのです。赦される目的です。それは私たちの小さな努力が、過去の罪や失敗の清算ために消費されるのではなく、未来に向かうものであることを意味します。清算ではなく、前進のための赦しがある!という話しなのです。だから努力するかいが私たちにはあるのです。そしてそこに人生の美しさがあるのです。

 先日、見に行った「春を背負って」という映画で、山小屋の食材を荷揚げするシーンがありました。山小屋では、一歩一歩担いで上げた食材で調理されたからこそ、みんなが「ありがとう」と言うのだというセリフ。本当にそうだなと思いました。背後の努力が人々の心を打つのです。

 逆の話しとしては、アメリカでは教会の説教作成用のプログラムソフトがあると聞いたことがあります。聖書箇所を入れると自動的に、ソフトが説教作成してくれるというのです。さて、このソフトが作った説教を牧師が読み上げたとして、人々はそこに感動するでしょうか。勿論ノーです。どんなに素晴らしく構成をされた説教でも、背後の努力なくしては人々の心を打つことは出来ないのです。

 私たちは赦されたものとして前に向かって努力を積み重ね、未来に向かって前進するのです。そこに神の目的があり、神の言葉の説得力があるのです。その赦しを得て、私たちは自分らしい進み方、自分らしいスピード、自分らしい努力、自分らしい休憩をもって人生を良いものにしたいと願います。


「聖なるものとなる条件!」  
(ヘブライ人への手紙10章1〜10節)      
                                     No.330


 私たちが「聖なるもの」となる条件があるとしたらいったいなんでしょうか?。いや「聖なるもの」とはいったい何でしょうか。それは、天に迎えられる資格を得た正しい人ということでしょうか。では、その正しい人にどうしたらなれるのでしょうか。それは聖書の記述によれば、どんな努力をしてもなれないという答えです。旧約聖書のユダヤの民は、それでも聖なるものとなるために、人の罪を動物犠牲による祭儀によって乗り越えようとしました。勿論その行為は、人が勝手に定めたのではなく神が律法にて人に対して定められた掟です。その掟を正しく行っていたはずの民が、何故、再び神から叱責を受けねばならなかったのでしょうか。それは、行動においては神の定めをキチンと履行していたかもしれませんが、思い違いがあったのです。神は、人間がその祭儀における動物犠牲の悲惨さの中から自らの罪を知り、悔い改めることを望まれていたはずです。しかし時をへて、重要な祭儀は形だけの儀式となり、行動は形骸化してしまい、それを続けていれば罪が赦されるという形だけの行為となってしまったのです。

 神は、それでは何のための犠牲であるかと憤慨し、自ら定めた律法を破棄して、イエス・キリストにその贖罪の業を委ねられたのです。つまり、イエス様の十字架の死の悲劇を目前にすることに於いて、人間が自らの罪深さを悟り、神へと立ち返る信仰によって救われることを神は願われるのです。つまり私たちが「聖なるもの」となる条件は、そのキリストによって提示された罪の赦しを信じることに尽きるのです。そして、その罪の赦しを告げ知らせて行くのが、キリスト者の宣教活動です。

 生活の形を整えることは大切なことですが、形は程なく形骸化を起こし、当初の目的は容易に喪失してしまうのです。ですから、大切なのは形を続けることではなく、その目的を目指すことなのです。目的を目指すために、今の「形」があるのです。信仰生活に形があるとすれば、形によって救われるのではなく、目的へと導くための「形」であるべきなのでしょう。この導き手としての自分にあった「形」を続けて行くこと。それが信じて歩むことなのだと思います。


「一回限りの人生として」  
(ヘブライ人への手紙9章23〜28節)      
                                     No.329


 神は人生を一回限りと定められたと聖書はいいます。一回であるということは、その日々を大切にしなくてはならないことを意味します。例えば、Wカップにおいて、サッカー選手たちがあそこまで頑張るのは、一回勝負だからです。一回であるということは、失敗してもやり直せないのです。逆から言えば、だからこそ失敗を恐れずに進まねばならない。

 さて、ではどう進むべきなのでしょうか。それは、遮二無二に人生を走らなければならないという意味ではないと思います。大切なことは、能力や力というよりも、28節に記載されているように、待望するキリストの方に向かって進めと言うこと。つまり、方向性が大切なのです。そしてキリストの方に進めとは、キリストが地上の生涯で行った働きにつらなることです。

 私たちキリスト教会は、この待望されるものが何であり、希望とは何であるかを発信していく場所でなければならないのです。教会が地域に根差していくとは、その希望の発信基地であるべき使命が与えられています。一回限りの生涯において、全ての失敗を神に委ねて出来る限りの働きをしていくこと。

 話しは変わりますが、先週教会の前を通りかかったご夫人と話しをしていました。彼女は帰りがけに、教会の看板を見て「ここがあるから安心ね」と言われました。私は、教会のことかな?と思いましたが、よく聞き直してみるとデイサービスの看板を見て、その言葉を言われたようなのです。私はその時、それが直接的なキリスト教への期待ではありませんでしたが、とても嬉しい思いがしたのです。教会の運営している介護事業が、地域の人たちに「ここがあれば安心!」という思いを発信することが出来ていたからです。

 教会が、地域への期待と希望の発進基地となること。お金が儲かりますから来てくださいではなく、全てを手放し喪失を覚えるような年を重ねた日に、本物のキリストの愛が人々に希望を与えること。これこそ福音だと思うのです。教会が地域に立てられる意味、一回限りの生涯、私たちには確かな進む方向が与えられているのです。


「選択を過たず」  
(ヨシュア記     24章13〜15節
  ヨハネによる福音書 3章16〜21節)      
                                     No.328

              
説教 荒瀬 正彦牧師


 ルターはヨハネ福音書3章16節の聖句を「もっとも小さい福音書」と呼びました。この短い聖句の中に深く味わい、噛み締めたい大切な言葉が3つあると思います。

 第1は「お与えになった」。私たち全ての者が「既に与えられている」のです。「与える・ディドーミ」には「死に引き渡す、棄てる」の意味もあります。神様の愛はその独り子を十字架の死に引き渡すことに示されました。

 第2は「世を愛された」。世とはこの世界、この私たちのこと。この世は神様が創造された素晴らしい所です。が同時に憎しみと不信が渦巻く暗い闇に覆われた所でもあります。それを神様はあるがままで愛されるのです。

 第3は「一人も滅びないで」。滅びるとは神様の手から失われた者となること。神様が創造された人間がどうして滅んでよいものでしょうか。多くの宗教では、天国に行く者と地獄に行く者、のように人間を二分して語られます。しかし聖書は「一人も滅びないで」と語っているのです。しかも「永遠の命を与えるために」と言います。神様が私たちにこの贈り物を受け取って欲しいと願っておられる。私たちは素直に「有難うございます」と神様の愛を信じて受け取れば良いのです。が、人間はそれを拒んでしまっている。

 ところが、18節に至って「信じない者は、すでに裁かれている」と厳しい言葉が語られます。たった今「神は世を救うために」と言ったのに、掌を返すように「信じない者は、すでに裁かれている」と言われる。一体、裁きとは何なのか。私たちは「裁き」を「懲罰」として考えるがそうではないのです。裁くとは「区別する、分ける」ということ。「選択する」ことです。人間はイエス様を選ばなかった。そのことで自らを裁いてしまった。裁いたのは神様ではなかった。光を選ばず闇を選び闇の中に留まる、遂には滅びに至る。それを自分から選んでいる。永遠の命はキリストを信じる者に与えられるものです。それは私たちの選択です。この命に関わる大切な選択を誤ってはなりません。


「希望に満ちていきるために」  
(ローマの信徒への手紙15章7〜13節)      
                                     No.327


 ペンテコステは、神の霊の降臨を記念する礼拝です。そしてその聖霊の力は、私たちを希望に満ち溢れさせてくださると聖書は記しています。このことは、人間が生きる上でもっとも重要な課題だと思います。希望無き人生とは、まさに失望の人生だからです。

  勿論、この希望とは将来は社会的に高い地位を得られるとか、経済的な成功を得るといった意味での希望ではありません。それらは願望であっても、神の霊が与える希望とは質が違うものだと思います。神が与えてくださる希望とは、前に向かうキリストのベクトルです。過ぎ去った世界に私たちを逆戻りさせず、前に進む道を供えられる神。希望を持つ者は、この方向に光があると信じて進むのです。前に進むという意味では、フィリピの信徒への手紙でパウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と語りました。なすべきことは一つなのです。

 私は、ここの聖書の言葉に人生の奥義があると思います。今まで、多くの困難を抱えられた人たちと出会ってきましたが、その方々にある種の共通する部分があるように思えるのです。それは多くのものを追おうとして奔走し、疲れ切っているということです。右に左に、早い段階で関心が次々移ってしまう。一つを着実に掴む前に、また次へと。これは疲れる訳です。
 
  聖書は「なすべきことは一つ」であると言います。一つのことを着実に忠実に最後まで仕上げて行く。それは小さなことのようですが、実はもっとも大切な大きなこと。希望とは無秩序に注がれるものではなく、小事に忠実であれ!という延長線上にこそ輝くのではないでしょうか。自分で、あれやこれやと希望を掴みとろうと奔走するのではなく、今の小事に忠実な歩みの上にこそ、神は希望を必ず与えて下さるという聖書からの確信を頂き進みたいと願わされます。
                        


「もう血は見たくはありません!」  
(ヘブライ人への手紙9章15〜22節)      
                                     No.326


 テレビをつけると、誰かが殺されたとか、災害がこうだとか、汚職がなんとかと、酷い話しばかりで思わず消したくなるのは私だけではないと思います。確かにニュースという性格上、酷い話を取り上げることの方が多くなることは致し方ないと思います。しかしそれと共に、何とも人間は病んでおり、救いようのない生き物であることを思い知らされます。私は、以前は、人が愛され受容される環境に置かれれば変えられると思っていました。しかし、そんな方程式のような人間理解では、容易に解決できない様々な事例に出会い、考え方を修正せざる得ない日々です。

 やはり人を変えられるのは、信仰であって人でないのです。どんな優秀な人の働きも、そこへの手引きであっても、それ以上でないことを知る謙虚さが必要と思います。そして「酷い社会だから信仰なんて」ではなく「酷い社会だから信じる心を伝えていく」と受け止めるべきだと思います。

 このヘブライ人の著者は、何度も何度もキリストの死と贖罪の一回性を伝えています。それは、もう繰り返し人の血を流す必要はない、犯罪に手を染める必要がないことを人に告げているのです。死は、もうイエス様の苦難で十分、人は安らかに生きなさいと。このことを諦めることなく、繰り返し伝えて行くことが信じる道なのだと思います。  


「良心の回復の時」  
(ヘブライ人への手紙9章11〜14節)      
                                     No.325


 
キリストとの出会いは、私たちの良心を回復させてくださると聖書は語ります。私が教会の門を叩いて一番関心したことは、この良心の回復でした。社会では、そんな真面目ことを言ってと馬鹿にされるようなことをまともに考えているキリスト教会の美しさを感じました。そして、その良心の回復が、キリスト信仰によるものであることを程なく知ることになったのです。私たちは、このキリストの良心により救われ、その良心を私たちも頂いているのです。勿論、良心が回復されるとは、単に良い人になる、良いことが出来るようになるというよりも、キリストの血がその人の良心を回復させた事実の上にあるのです。つまり、良心の回復とは、キリストが何をして、何を伝えようとしたのかを知ることであり、それに連なることなのです。だから、様々な苦境に出会っても私たちは落胆しないのです。イエス様なら何とされたか、パウロなら何と答えたかと考えるからです。

 介護の業界で仕事をすることは、高齢者の自立支援を行うだけではありません。様々な行政とのやり取り、地域事業者との関わり。そのビジネスとしてのお付き合いの世界では、決して有意義なことばかりではありません。極めてネガティブな場面も多々あり、精神的な疲労もかさみます。しかしそのような場面でも、自分はキリスト者の良心とは何であるかを証しするために、その場に遣わされていると考えるようにしています。キリストの良心とは、正しさの主張ではありません。その良心とは、赦しと和解の原理に基づく言葉であるべきなのです。狭い自分の了見を超えて、キリストの良心に生かされたいなと日々願っています。
       


「この最後の者にも」  
(マタイによる福音書20章1〜16節)      
                                     No.324


 
先週は関田先生をお呼びしての特別礼拝でした。
聖書の「ぶどう園の労働者」の例えの箇所から、最後の者となった隣人に仕える教会の生き方を伺うことが出来ました。夕方雇われた人物は、何もさぼりたくて一日を過ごしていたのではなく、仕事を探し回っていたが一日見つからず、やっとこのぶどう園にたどり着きました。その賃金は一人の人間が、一日をやっと生活できる最低賃金の1デナリオン。夕方から雇われた労働者の背景を読み込めば、この話は不公平な話しではなく、神の御心を示す重要な例えであることが語られました。そして、そのような方にお仕えするのがキリスト者であり、キリスト教会の使命といった内容でした。

 その後の集会の解散ぎわで、残っていた信徒の方の感想を伺いました。そしてわたし自身も同様の感想を持ったのです。それは、関田先生の話しは、実際の経験に基づいた人生の苦難の現場から、読み込まれたテキスト理解であり、これ以上の説得力のある言葉はないという事です。社会のルール以上に、聖書の隣人を愛するという戒めを宣教に於いて具現化されていく歩み。一人の人にお仕えする事が、如何に大切なことであり、聖書の語る本質そのものであるということ。何にしても、先生は人情に溢れた牧師であることを誰もが感じたことでしょう。そして、その社会の常識を超えたところにある人情こそが、聖書を読む上で最も大切なことであると感じさせられました。イエス様の行動の原点を知らされた思いであり、本当に学ばされる礼拝となりました。私たちも微力ながら、そのイエス様の視点で歩みたいと願わされます。



「改革の時まで」  
(ヘブライ人への手紙9章1〜10節)      
                                     No.323


 私たちは地上では旅人なのです。それ故に、「わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分に過ぎず、全きものが来る時には、部分的なものは廃れる。」と聖書にあります。つまりその来たるべき改革の時まで、私たちは辛抱するのです。
辛抱と言うと大変なようですが、私たちの地上の生涯が定められた期間の中にあることは、逆に考えると素晴らしいことだと思います。次の時が、必ず来るからです。この世の、苦難という縄目が取りさられ、本当の自由と平安を得る日が来ると聖書が約束しているからです。目標もなく、ただ虚ろに現状を受け入れ我慢させられる生涯であるとしたら、人生は虚しい限りです。そうではなく、必ず来たるべき改革の日が来るのです。そこを目指して進むのです。

 しかしその進み方は様々です。ある人は、力を尽くして様々な宣教の働きと成果を上げて行くかもしれません。またある人は、努力ではなく、ありのままの姿で平安を願って、時を刻む生き方をするかもしれません。それは相反する様ですが、それぞれの人生に与えられた相応しさです。

 大切なのは、この相応しさです。神は、ある人には大きな重荷を。ある人には軽やかな翼を。ある人には黙する忍耐をお与えになるのです。そして、それは神ご自身が願う、その人への相応しさの中でのご配剤です。

 私は、自分に今与えられた賜物に於いて全力をもって、この一事にお仕えしたいと思っています。しかし、それも永遠と続くのではなく、神が定められた時までです。その改革と時、解放の時、平安の時を目指して「今は!」成すべきことを成して行きたいと願っています。    



「心に記された契約」  
(ヘブライ人への手紙8章7〜13節)      
                                     No.322


 先日、中華街にわかなさんと所用の後に寄りました。大通りを一回りしていると、何やら手招きをする一人の女性。満面の笑みを浮かべて、私たちに目線をぴったり合わせて呼び寄せようとしているのです。占い師の方でした。夫婦で「怖いね〜」と話しながら足早に通り過ぎました。しかし思うに、まことに失礼ではありますが、あの怪しそうな方に自分の人生を占ってもらわねばならない程に、多くの人の道は混迷しているのだなと改めて思わされた次第です。

 しかしそんな時に、キリストを信じ、礼拝に集う私たちは胸を撫で下ろす思いかもしれません。何故なら、その占いに立ち寄らなくても、私たちには人生の道筋を与え整えて下さる信仰があるからです。勿論、苦難の日々が続く時、信仰など、何の役にも立たないと感じる時もあるかもしれません。しかし人生は「不義を通して真理に至る」という法則のもとに、私たちがあることを聖書は語っているのです。苦難の日々でも、信じることで乗り越えていく過程では、その道の素晴らしさと力強さを知るのです。私たちの信仰の道は、聖書によれば「心に記された契約」なのです。この契約は、心に記されているという以上、誰も取り去ることが出来ないのです。誰も取り去ることのできない安心が、ここにあります。そして、神は必ずこの道に生きる者を顧みてくださいます。信じて歩みましょう。         


「仲介者としての使命」  
(ヘブライ人への手紙8章1〜6節)      
                                     No.321


 数日前に介護の会議がありました。利用者さんと施設の担当者、サービス事業者が集まっての話し合いです。そこで、施設の管理者が利用者さんに「あんた倒れないって言ったでしょ!」と厳しく警告を与えていました。一見、酷い言葉のように聞こえますが、毎日を共に生活し、様々なトラブルの対処を求められる管理者の立場としては、そうも言いたくなりますよね!というのが率直な感想です。しかし、その指摘は確かに正しいですが、本当にその意味を伝えたいと願うのなら、寧ろ他のアプローチの方が有効に働くのではと思いました。つまり、正しさは人を切り、逆に心を頑なにしてしまい、本当の意味で人を変えることは出来ないからです。

 イエス様の有名な言葉の中で「父よ、彼らをお赦しください。彼には自分が何をしているのか知らないのです。」というルカの言葉があります。この言葉は有力な写本から欠けているので、現在の新共同約聖書では括弧付となっています。しかし他の有名な言葉は、後ろの付記に移されているのに、何故、新共同訳の編集者たちは、この言葉をここに残したのでしょうか。それは、この重要な言葉を削りたくないという思いかもしれません。そしてその思いこそが、口伝されて来たイエス様の言葉を本来その箇所ではないのに、写字生によって挿入させてしまった動機なのではないでしょうか。

 それは、このイエス様の言葉に私たちへの重要な教説が示されているからです。つまり、正しさによって罪ある者を責め揚げるのではなく、何故、罪を犯してしまったのかという事を鑑みる力です。本来は、そうあるべきではないのに、何をしているのか分からずに罪を犯してしまっている隣人と、同様に自分を赦す心。私たちキリスト者の使命は、正義を他者に行わせようと説教するのではなく、仲介者としてこの世に送り出されているという使命です。国と国とが争う中でも、その是非を論議するよりも、どうしたらキリストの思いとして仲介の使命を果たせるかと考えるのが、キリスト者の使命なのではないでしょうか。私自身もキリスト者になって、何年もたって、やっとそれがわかって来たように思えるのです。キリストに習う者とは何であるか?。生涯の課題として、教会の兄姉とともに求めて行きたいと思います。


「見ずに信ずる者は幸いなり」  
(ヨハネによる福音書20章19〜29節)      
                                     No.320


 イエス様の復活に出会った弟子たちに、見ずに信じることの大切さを主は語られます。しかしそれは、ただ妄信的に献金をしなさいとか、その宗教に従いなさいという意味ではありません。見ずに信ずることには、目的があります。つまり、23節に記されるように神の赦しを告げ知らせるために、私たちは見ずに信ずるのです。

  一番大切なことは「何のために、どうするのか?」というテーマに沿って考えて行くことです。キリスト者は、神の和解と赦しを告げ知らせるために信じる者とされているのです。キリストの復活に出会うと言うことは、そういうことなのだと思います。

 私たちの人生を混乱に落とし入れているのは、個々の価値観の違いだと感じています。昨今の国と国の対立も,諸原因はそのようなものです。それぞれが、自分の立場から正しいと思う意見を主張するのです。しかし、仮に自分の立場からは完璧な理屈でも、一歩他者に適応しようとしたとき混乱が巻き起こります。正しさの押し付け合いを続けていたら、私たちの社会は崩壊してしまうのです。そこで大切なことは、互いの正しさの違いを調整すること、一つの目標へと向かわせることです。それが神の和解と赦しの宣言なのではないでしょうか。例え相手に、明確に攻めるべきことがあったとしても、キリストの死に免じて赦し合う心。イエス様が、どんなにそのことを望んでおられたか。そして、見ずに信じる者は、そのイエス様の願いに賛同する者なのです。

 イエス様は、ただ無目的に復活したのではないのです。その復活には意味があり、それを信じるものが目指すべき目的があるのです。キリストの復活に与った私たちは、今週もその進むべき道を目指したいと願わされます。

 イスエ様はただ無目的に復活したのではないのです。その復活には意味があり、それを信じるものが目指すべき目的があるのです。キリストの復活に預った私たちは、今週もその進むべき道を目指したいと願わされます。


「完全に救われた人生」  
(ヘブライ人への手紙 7章20〜25節)      
                                     No.319


 先日、千葉の教会の信徒の方と、女性の牧師先生がデイサービスの見学にこられました。信徒の方が中心となって、教会として介護事業を展開したいとの意向。その話しの流れからはずれますが、その牧師先生は会堂建設を進める中で、多くの反対があり50名の信徒が会堂を建てる段階では半分の25人になってしまった。それでも会堂を建てましたとのお話しです。私たちの教会も会堂建設のビジョンがありますので、興味深くも驚きをもってお話を伺いました。何故なら、私がその立場だったら、会員が半分になる会堂建設を押し通すことなど到底出来ない選択だからです。しかし、それでもその牧師先生を動かしていたものは何であるのかと思うのです。それは、一方的な思い込みでしょうか?。神がかった霊性でしょうか?。確かに多少それもあるかもしれませんが、寧ろ牧師の中で燃える信仰への使命感を打ち消すことは、誰も出来なかったからです。

 キリスト者は中途半端に救われたのでも、何かを足さないと天国の手前で挫折するといった信仰でもないのです。25節にあるようにイエス・キリストによって完全にこの世から救われているのです。その完全に救われた力が、その牧師を動かし、撤退を許さず、会堂を建て上げたと言えるでしょう。私たちへの神の救いが、完全である限り、与えられた力を全て注ぎだしても大丈夫だということなのです。実際は、容易にそう行くものではありません。迷いがあり、欲があり、怠慢があり、成すべきことさえ不十分な私たちです。しかし私たちの不十分さには関係なく、神の救いは完全なのです。ここに信仰の起源を置き、安らかに復活の主に支えられて、ビジョンをもって歩みたいと願わされます。


「希望によって神に近づく」  
(ヘブライ人への手紙 7章 1〜19節)      
                                     No.318


 律法は何一つ完全なものにすることは出来ないが、キリストの十字架によって示された赦しと救いは最も優れた希望を与えると聖書は語ります。ユダヤの律法は、私たちとっては国で定めた法律というよりも、日常の常識集みたいなものです。しかし、聖書によれば、その正しい行いの勧めも何一つ人を完全なものには出来ないと言うのです。

 私も若い頃は正しさが通ると信じて、やたらとそのような発言を繰り返してトラブルを起こしていました。しかし、近年やっと正しさを通すことではなく、人を愛する心こそが最優先される道であることを朧げ乍らですが知ることが出来ました。これは信仰の初歩中の初歩であるはずなので、やっと、少し、わかったという印象です。

 人を効率で判断し、点数を付けてはいけないのだと思います。先週テレビで「ハモネプ」が久しぶりに放映されていました。6歳の女の子がメインボーカルでお父さんとお母さんと友人で歌たったグループへ、ネットでは「歌は下手だけど子どもだから評価された」という批評がありしまた。確かにそうかもしれません。しかし、その批評は歌の旨さでしか判断していない狭い了見のようにも感じました。歌が旨いだけの人は沢山います。そうではなく、大切なのは歌を歌いあげる背景が、見ている人に伝わるパフォーマンスが出来るかということだと思うのです。それが伝わる時、凄い声量の方よりも、多少外れていても小さな子どもが高い評価されることになるのです。

 神の、私たちの人生への評価とはそういうものだと思うのです。量や精度では計れない価値を、神は私たちに与え見出して下さいます。つまり、正しさの評価ではなく、愛される存在としての評価です。あさひ伝道所も開所七年目を迎えました。神の私たちへの評価は如何様でしょうか。きっと、愛と希望の評価でこれからも頑張れ!と言われているような気もします。
神を愛し、愛される教会として地域に、その希望の意味をこれからも伝えて行きたいと願わされます。  


「安定した錨のような方を知る」  
(ヘブライ人への手紙 6章13〜20節)      
                                     No.317


 先日、娘の出ている演劇を見に行きました。18歳前後の若者が、自分たちの道を見出そうと言う願いのこもった、若者らしい内容と結論でした。しかし一時その結論を得ても、私たちの人生は迷走を続けてしまうのです。それは年を重ねても同様です。

 では、答えはないのでしょうか。少なくとも聖書は、そうは言いません。どんな嵐でも、流されない安定した錨のような方を信じなさいと語ります。信じる心とは、そういうことなのです。錨を降ろしたからといって、荒れた海がおさまる訳ではなく、船は揺れ続けるのかもしれません。しかしどんなに揺れていても、糸の切れた凧ではないのです。しっかりと繋がれているから、嵐が止むのを安心して待てばいいのです。

 揺らぐことのない神という方を詩編の62編6節では「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」と例えました。

この道に、間違いなし!神は7年目を迎えたあさひ伝道所をかならず、未来へと導いてくださることでしょう。            



「厳しい話ですが、まだ救いはあります。」  
(ヘブライ人への手紙 6章3〜12節)      
                                     No.316


 この箇所はとても面白い箇所です。「あんたらには救いはない!」ぐらいのさんざん酷い事を言っておきながら、「そうはいっても、あなた方に対してもっと良いことや救いについて確信があるんですよ」というのです。真逆な言葉でありながら、この手紙の著者が望んでいる本質は、その人が救われて欲しいという願いに満ちていることを感じるのです。神は不義な方ではない、神は私たちが一生懸命やったことも、従えなかった心の混乱も、全てご存じの方であると。だから、私たちは、自分は出来ますと言い張る必要も、自分はダメな人間ですと落ち込む必要もないのです。一にも、二にも、神に身を委ねることです。それによって、希望を失わず、そこから今一度熱心にお仕えする生き方をして行くことなのです。

 人は心の生き物です。体は、その心によって動かされるパーツでしかありません。オリンピックの競技を見ていても、競技をするトップ選手の差は、1秒以下の単位での違いでしかありません。どんなに努力をしても、人間の能力の差は数分の1秒程度なのです。だから、言い換えればその差など気にする必要はないのです。寧ろ、それをコントロールする心を整えることです。

この心を整えて進める方法こそが、聖書に記される信仰道なのです。マタイ11章28節ら「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とあります。まさに私たちを招いて下さるキリストの許で心を休ませ、そしてそこから出発するのです。今週も信じる方々の上に、神のご恩寵がととどりますのように。


「大人になるための訓練」  
(ヘブライ人への手紙 5章11節〜6章2節)      
                                     No.315


 以前、私は「きみは聞く耳がないんだよ!」と言われたような気がします。しかし、その当時でも、自分としては良く聞いていたつもりだし、寧ろ「そういうあなたが聞く耳がないんでしょ!」という程度にしか思っていなかったものです。また、今でも多くの場面で直接でなくとも、そう言われているのかもしれません。それ程、このテーマはとても難しいと思うのです。

 しかし難しいし、誰でもそうだからという言葉で、この事から逃げてはいけないと思います。聖書は、この聞くことこそが、一人前の大人になる訓練だというのです。聞く耳がないものは、いつまでたっても信仰に於いても、初歩の段階にとどまり、議論や理屈の世界を楽しみ、それで何かを知り得るかのように思ってしまうのです。しかし大切なことは、そのような初歩の議論に決別し、それを知った者は、何をするべきかという段階へと進む必要があるのです。そしてその方法論は、キリストの働きをまねて行くことです。言葉が言葉に終わらず、働きへと進んで行く。いや寧ろ、その働きをした時、自分が本当に聞けていたのかが、検証されると言ってもいいのです。

 最近、大国同士の大きな摩擦がニュースに取り上げられるようになりました。それぞれの主張以前に、彼らは、以前の大戦の悲劇を覚えているのか甚だ疑問に感じます。力で押し通して、戦争を起こし、そしてどうやってそれを終結しようというのでしょうか。人の命の犠牲の上に、成り立つ勝者は何処にもおらず、全てが敗者なのです。

 私たちは第一に、神の言葉を聞き、それを実践したイエス様に習うのです。その時、何を成すべきかは明確なはずです。人の言葉を聞けない愚か者の私たちでも、神の言葉を聞きたいのです。それは、神の言葉を聞き赦されることが、言葉が聞けるようになる第一歩と信じるからです。   



「神の嘆きと痛みを聴く」  
(ヘブライ人への手紙 5章1〜10節)      
                                     No.314


 
介護保険の仕事を続けて行く中で、様々な処世術が必要なことを実感し苦労しています。世俗の職務は、正論を主張しているだけではどうにもならず、世の中の流れや行政の意向を常に汲み取ることが必要なのです。しかしキリストに仕える職務は、そのような世俗の駆け引きではないのです。寧ろ「損して得をとれ」といった世界です。この世に於いては損をしているようだが、来るべき天の御国では、その働きは決して忘れさられる事はないのです。

 それはまさに、イエス・キリストの生涯の中に現れます。イエス様は、この世で神の子として崇められ、ゆうゆうと暮らしていた訳ではありません。激しい叫びと、嘆きの涙を流し苦しみ抜きました。その痛みによって、神から与えられた任務を全うし、それ故に救いを完成されたと聖書にあります。私たちも、神から与えられた任務があるのです。私たちは安楽なゆり籠で育つのではなく、苦しみの炉で練られていくのです。それを体現する時、世俗の不条理に嘆く時、私たちはキリストの痛みの一端を知ることが出来るのです。へブル書の12章5節以下に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。とあります。訓練は当面は喜ばしい事ではないですが、私たちはそれで弱り果てることなく使命と希望をもって歩みたいと願います。


「同じ試練を受けています。」  
(ヘブライ人への手紙 4章14〜16節)      
                                     No.313


 イエス様は、私たちと同じ試練を受けたのか。神は、本当に人間の私たちの苦しみを体験して共感できたのか?という問いがあります。 遠藤周作の著書「沈黙」の中でも、そのテーマが語られていました。そして、私も以前はそのような疑問を感じていたのです。しかし近年は、このイエス様の苦しみの意味を以前よりも正しく受け止めることが出来るようになったと思うのです。つまり聖書の言う同じ苦しみ、同じ試練というのは物理的な、時間軸的な同じを語っているのではないと言ことです。

  イエス様の十字架への受難の経験は、人からも神からも見捨てられていくというものです。自己存在が社会から無視されるという痛み。そこでは、生きる意味も価値も見いだせない虚無があります。ある人は、無視されたぐらいで死にはしないというかもしれない。しかし、そうではないのです。昨今の学校や会社での苛め問題は、この痛みに肉薄しているように感じます。「あいつは気持ち悪い、あいつは汚い、あいつなんていなくていい」など酷い言葉の連続。その言葉で人は自らの命を絶ってしまうのです。 その同じ、無意味と虚無の経験をイエス様もされたのです。だから、私たちのことをわからないはずはないというのです。「あなたは素晴らしい、あなたは大切な存在、あなたに生きていて欲しい」とイエス様は実体験が語られるのです。だから、私たちは大胆に神に祈り願って行くのです。イエス様の痛みの経験は、私たちの神に従いたい気持ちも、神に離反したい気持ちも、受け止めてくださいます。「私は罪人だから、お願いするなんて」と思う必要はないのです。神の痛みは、私たちの心の奥底に届く愛の痛みです。この方を信じて今週も歩みたいと願わされます。


「聞いた言葉が身になるように!」  
(ヘブライ人への手紙 4章1〜13節)      
                                     No.312


 ヘブライ人への手紙の著者は、「聞いた言葉が役に立たず、信仰と結びつかなかった」と厳しい叱責をします。しかしこれは当時の他人事ではなく、私たち自身に語られている言葉でもあるのです。沢山の助言、沢山の励ましを貰っていても、それを素直に受け取れない心が私たちにはあるのです。そしてその心は、人を生かす神の言葉さえ拒絶させてしまうのです。 それはいったい何なのか。精神分析の一つの仮説としては、人間は三歳までの受けかたが、その人の基本的な対人関係に大きな影響を与えるというものです。その時期に、親に愛されていたというイメージを得た子どもは「自分はこんなに大切にされるとは自分はいいものなんだ」という自己肯定感を得ます、また逆に、虐待を受けて育った子は「自分は殴られ続ける価値のない生き物なんだ」という感性を得てしまうのです。そして、大人になった時にトラブルに巻き込まれるとその感性が出てくるのです。大変な状況でも自分は愛される存在だから大丈夫と受け取る人と、逆に自分はダメな人間だからこうなったんだと受け止めてしまう人。全く変わらない同じ状況下に置かれても、肯定の心と、否定の心が人を動かしていくのです。しかしでは三歳までが悪かったから、生涯がマイナスになってしまうのではないのです。精神分析の重要なテーマは、自分がそのような感性を持っていることを知ることで、その感性を乗り越えるためにあるのです。自分はもともとマイナスに物事考えてしまう感性があるので、今そう感じた。しかしそれは現実というよりも、自分の捉え方に問題がある。そこを乗り越えてプラスに頑張ろうと考えるのです。

 そして、この自己肯定感を最終的に補完するのは、神の愛の言葉しかないのです。神は愛です。それ故に愛する対象を作り、それを人と名付けるのです。そしてこの創り主に愛され守られているという自己肯定感こそが、明日の人生をプラスに導くのです。これこそが、神の言葉が身になることではないでしょうか。

                    

「心の内側の信仰」  
(ヘブライ人への手紙 3章7〜19節)      
                                     No.311


 PFドラッカーが働く者に告げる第一の条件は「真摯」であることです。また、この素質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人付き合いがよかろうと、如何に有能であり聡明であろうと危険であり、失格者であると付け加えます。
 私は、信仰の世界もまったく同じだと思います。如何に有能でも、如何に奉仕が沢山出来ても、如何に聖書の知識に優れていても、神と隣人に対する真摯な姿勢なくて、信仰の道からは失格者となるのかもしれません。

 人の心の闇は深く、その罪から流れ出る泥水が社会では常識となってしまっています。経済社会の効率化された組織では、真摯さよりも、有能さや聡明さ、立ち回りの旨さ、成果が高く評価されてしまいます。そこでは、真摯であることは評価されず、儲かることが評価される世界。この混乱した社会の中で、わしたちは人を愛する心、神を愛する心を失ってはならないと思います。外側の社会が如何に酷くても、罪は心の内側まで食いつぶすことは出来ないのです。心を強く持つこと、人を愛すること、自分を捧げて行くこと。高い志の内に、神は必ず人生の道を開いてくださいます。
諦めないで、神の導きを信じて歩みましょう。


「神の家としての謙虚」  
(ヘブライ人への手紙 3章1〜6節)      
                                     No.310


 最近、人の心は何と病んでいることかと思わされています。自分より弱いものを探し出し、いじめあげて行く人間。人を支配しコントロールすることを喜びとする人間。そこに何の意味があるのか。何故、人は人に対してそれ程までに冷酷になれるのか。人の心の闇は抑圧から抑圧を生み出し、他者の人生だけでなく、抑圧者自身の人生を負のスパイラルへと落とし込めてしまうのです。そして、その負の闇は遠くにあるのではなく、常に私たちの足元で、私たちを飲み込もうとしているのです。心を強く持たないと、私たちも、キリスト教会も飲み込まれてしまう力。

 私たちはそんな時、無力を感じます。何も変えられない嘆きを覚えます。しかしその時こそイエス様の生涯を思い浮かべたいのです。悪の勢力がこの世を覆う中でも、愛と善をもって進んだ私たちのリーダーを。心を強く持って、確信と希望とに満ちた信仰者としての誇りを持ち続けるなら、私たちはキリストの建てられた神の家です。私たちに、人を変える力はまったくありません。その事を現実の社会の中で本当に実感するばかりです。

  しかし人には出来なくても神は出来る!。キリストは、聖書は人を変えることが出来るのです。この人生のバイブルを伝えることこそが、この世の負の力に唯一打ち勝つことであり教会の使命なのだと改めて思わされます。



「痛みを分け合う神として」  
(ヘブライ人への手紙 2章5〜18節)      
                                     No.309


 私たちの社会は、多くのストレスに満ちています。しかしそのストレスが正当なものなのか、自からの負が巻き起こしてしまうストレスなのかは注意を払う必要があります。例えば「自分に他者が合わせてくれない。自分の思い通りにしてくれない。」だからストレスが溜まるという訴えが正当化されたとすれば、その人に合わせるために周りの人がストレスで倒れてしまうことになります。

  しかしそれでも、この問題において、どちらが正当かと判断することは難しい課題です。コンピューター社会なので、それぞれの事情を打ち込んで正しい判定が出るソフトを作ったとしても、その回答で私たちが容易に納得し問題が解決するとはまったく思えません。

 そんな負のスパイラルから抜け出す方法は、唯一イエス・キリストの受難にあずかることではないかと私は思うのです。つまり、聖書への尊敬から、自分の人生の方向を見出す生き方です。そこでの主は、会社の上司でも、学校の先生でも、役人でも両親でもありません。私たちに道を示すのは、イエス・キリストなのです。この方の生き方に、その言葉に感銘を受け、不十分ながらも信じて行きたいと思う生き方。この生き方こそが人を変えるのです。人は命令では決して変えられません。その心の内側からの願い以外には、人を変えることはできません。だから神を信じるのです。イエス・キリストの痛みを知る時、私たちは初めて人の痛みを知ることが許されるのです。信じる心、全てはここに尽きると今は心から思わされています。  


「救われていること忘れないでください」  
(ヘブライ人への手紙 2章1〜4節)      
                                     No.308


 先週も二件の葬儀がありました。昨年末からもう随分と葬儀が続いているように思えます。何か、とても寂しい思いですが、キリスト教の葬儀にはいつも希望が語られて励まされます。しかしそれでも先週の木曜日に、神学校にて行われた恩師の葬儀は泣けました。一年数か月前に電話で話したきりで、最後にお会いしたのは5年程前でしょうか?。「何で俺が神学校の校長なのか?」と驚きと使命感をもって話されていたことが印象的です。その恩師の今橋朗先生は、類まれな才能と、誰よりも大きな寛容をもって教会を愛した牧師でした。私によく声をかけて下さいました。私が以前の職場で行き詰っている時には、鈴木さん元気にしていますか?。いやどうも今一な状況なんです先生!そんなことないよ、きみなら大丈夫だよ!と。何の根拠もない励ましの言葉に、何となくまだ出来そうな気になって人生を進めることが出来たのです。 

 この聖書の箇所には、神のこれほどの大きな救いに対して無頓着でいたら、逆に罰を受けますよ!というくだりがあります。自分が周りの人から、いや神ご自身から、どんなに赦され、寛容をもって救われて来たのか。自分が赦され救われていることを心に常にとめること、そのことに「いっそうの注意を払う」こと。それこそが信仰であり、人生を明るい道へと導く力なのだと思います。

  私たちは、この地上では旅人です。その旅の期間が何処までなのかは、神ご自身がお決めになります。その定められた期間を価値あるものとして生きる信仰の道を進めたいと願わされます。       


「救いを受け継ぐもの」  
(ヘブライ人への手紙 1章5〜14節)          
                                     No.307


 当時のキリスト教会は、迫害や異教の教えの台頭で危機的な状況に置かれていました。その異教的な教えは、イエス様を尊敬し預言者とは認めるが、いいところ天使の一人程度の存在として、決して救い主とは認めないというものでした。ヘブライ人への手紙は、旧約聖書の引用から、本当にそうなのか、聖書はこう語っているではないかと訴え続けるのです。

 私たちも生活の様々な場面で、イエス・キリストは誰なのかと問われることがあるかもしれません。それは他者からの問いだけではなく、自分自身のからの問いかもしれません。しかしそのような時、学術的な論争に終始するのではなく、現場を見つめることが一番大切なヒントとなるはずです。つまり、イエスをどう解釈するかではなく、イエス様が地上の生涯で何をされたかということに注目することです。

  神の権威を持ちながら、貧困と病気のただ中でドロドロになって進むイエス様の姿を思い浮かべたいのです。苦しむ人たちにパンを差出し、人が忌み嫌う酷い感染症の人を治しても逆に憎まれていく日々。最後には、ローマの権力によって弟子にも見捨てられても諦めない生涯。彼の批判者たちにイエス様は、「私と同じように、やれるもんならやってみなはれ!」と言われたのではないでしょうか?。そこにこそ、キリストのキリストたる所以があるのです。そして、その生き方とキリストの復活に預ったものが、この教えを受けついで来たのです。そして、私たちも、キリストが差し出した神の手に連なる者、その救いを受け継ぐものなのです。大丈夫です!今週もこの道を信じて歩んで行きましょう。 


「小さなキリストとして」  
(コリントの信徒への手紙二 5章16〜21節)    
                                     No.306

               説教 荒瀬 正彦牧師


 16節「今後、誰をも肉に従って知ろうとはしない。肉に従ってキリストを知ろうとはしない。」 肉に従って人を見るとは、見る側の自分の基準、自分に捉われたものの見方、自分を中心にして人の表面だけを見ることです。そうではなくて、真実に人を見るとは、神様を中心にものを見る見方です。それには先ず霊によってキリストを知ることから始まります。

  17節「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」
キリストを知るとはキリストにあって新しく造られること。それは神様の為さる新しい創造です。それが救いにつながってきます。神様の恩寵・恵みによるものです。私たちの救いとは神様が願ったことです。私たちが願う前に既に神様は御子イエスを十字架につけて救いを成就されました。

  18節、救いの御業は神から出ること。これを「和解」と聖書は申します。原文の「和解」には二つの意味があります。一つは「変化」です。関係の変化を云います。私たちは神様と断絶した関係にありました。それがキリストを通して神様との関係が変えられた。神様が私たちと和解して下さった。神に反抗し逃げ回る者を、神の愛に気付かされ感謝と賛美を捧げる者へと変化させられた。もう一つの意味は「交換」です。私たちの罪がキリストの十字架を通して神の豊かな命と交換されたのです。このとんでもない不釣り合いな交換が神様の愛によってなされている。これが和解です。神様との関係が変化し、キリストの十字架と私たちの罪が交換された、この喜ばしい知らせ、この恵みを、「有難うございます」と感謝することが信仰なのでしょう。素直に神様の恵みと祝福を頂くことが「和解」ということなのでしょう。

 20節、イエス様が私たちに和解を受けることを願い、和解の福音を伝えることを願っています。ルターは「私たちは小さなキリストである」と言いました。イエス様が十字架の上から私たちにキリストの使者の務め・福音の使者となることを願っておられます。私たちはキリストに代わって福音を多くの人に伝える「小さなキリスト」とされているのです。  



「終わりの時代からの出発」  
(ヘブライ人への手紙 1章1〜4節)            
                                     No.305



 ヘブライ人の手紙の設立背景は、キリスト教徒への迫害が起こり、異教的な考えが教会に忍び寄る危機的状況の中でした。そこで著者は、今一度キリストは誰であり、その方に立ち返ることを強く進言するのです。テキストの中に「御子は、神の栄光、神の完全な本質の現れ」であると記されています。では、この神の完全の本質とは何でしょうか。それは天高い神々しい神というよりも、十字架に向かって民衆と苦楽を共にしたイエス様の生涯のことです。つまり神の本質とは、喜ぶ者と共に喜び、泣くものと共に泣き、人々の救いのために自らの命を捧げるという姿の中にあると言えるでしょう。手紙の著者は、この時代を旧約の未完成な契約の終わりの時代であると解したと共に、世界が終わってしまうような混沌の社会状況を語ったのかもしれません。しかしその状況は失望ではなく、キリストにあっては新しい出発なのです。そのことに勇気を持って心を向けよと語られます。

  先日、私たちの教会の宝物のような宮村タネ姉が召天されました。デイサービスの利用者さんとしての出会いで、高齢ではありましたが毎週欠かさず礼拝を守り、欠かさず献金を捧げ、神を求め信じた生涯でした。彼女は、カトリック教会が多い長崎で育ち、若いころから一度ミサにいってみたかったが機会がなかったので、礼拝に来てみたいと言われ、礼拝に参加することになりました。難しい教義を学ぶことはできませんでしたが、いつも神様だけが頼りだと言われていました。そして、それこそが信仰の本質であり、彼女の信仰告白だと思わされます。一人暮らしで、社会から疎遠な生活になる中で、神のみが頼りと信じた彼女の信仰こそが、この終わりの時代にも私たちに希望を与えるものである事は間違いありません。神を信じ、先に召された仲間との再会を信じて、今日の日々を確かなものにしたいと願わされます。 



「信頼を忘れない」  
(箴言3章5〜6節)            
                                     No.304


 今年の教会の主題聖句は、箴言3章5〜6節の「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」です。 この言葉はとても味わい深い内容です。自分の分別に頼らず、神を信頼しなさいというのです。

 私たちの日常は決断の連続です。そして、何とか損をしないように自分にとって有効と思われる方向を選択したいと願っているのです。しかしその判断は常に正しい道を選択できる訳ではなく、半分以上は間違った判断をしてしまうのです。そしてその自己判断により、私たちは挫折をし、後悔をし、人と人との関係を崩してしまったりするのです。この聖書の箇所は、その判断を神に委ねなさいというのです。

 勿論、私たちが何かの判断を迫られる時に、常に天から声が聞こえて、方向をすぐさま教えて下さるのなら、それに越したことはありません。しかし実際は、天からの声は直接私たちの耳には聞こえないのです。そうではなく、その神の声は聖書の中にあるからです。毎日少しでも聖書日課を読み、神の言葉に触れて日々を過ごす。誰かから命令されるのではなく、聖書を通して神から聞くのです。そしてそれに納得して自らの自主性によって従うのです。

 そして進んだ道が開かれる方こそが、神のご意志と受け止めてよいのです。神にその判断を委ねる者には、その人生の道を神ご自身がまっすぐに整えてくださると聖書は記しているのです。ここへの信頼を大切にすることが信仰生活です。なかなか聖書に示されている通りの歩みなど到底出来ない者ですが、その方向性はわかっているはずです。失敗しながらも、その方向に進めばいいと思うのです。必ず人生の道は整えられます。
今年も信じて皆様とともに進みたいと願わされます。


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