カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事
御言葉と出来事(2015年)
  
2015.12.27更新
 
「クリスマスの恵み」
(ルカによる福音書1章8〜21節)  No.406



 クリスマスの出来事を何度も繰り返し学んでいる私たちにとって、このメッセージはともすると平凡な日常的な出来事と変わらなくなる危険性を持っています。聖書に示される「のっぴきならない」出来事が、私たちに平和をもたらしているのに、そのことを自分の事として捉えきれない霊性の未熟さです。しかしこれは、あの人は霊性高く、この人は低いという固定したものではなく、一人ひとりの中で、時と場合によってそれは上下しているのです。つまり、他人事ではなく、明日は我が身の霊的貧困状況です。それに陥らないためには、危機感をもった聖書の読み方が必要となります。冷静沈着に分析するというよりも、危機的な思いでキリストの降誕と苦難に出会う事。これが何よりも重要なのです。

 クリスマスの出来事は、私たちが一年間の歩みを再評価させられる時のように思えます。その評価は、確かに沢山の成果や恵みに現れますが、また一年間よく守られて来たという安堵の思いでもあります。世の中には様々な事件や災害がある中で、無事に一年を終えようとしている。何を得たり、何を達成したかと言うよりも、この無事に過ごせたことが一番なのではないでしょうか。次々と出会った危機的状況は、気が付くと乗り越えられて年末がある。これこそが神の恵みなのです。危機を超えて平和の恵みがある。この度重なる危機に於いて、私たちは繰り返しキリストと出会いを与えられているのです。その出来事なくして出会えない、神との対話。その対話こそが、朽ちることのない天の宝となるのだと思います。危機感を持って神と出会い、危機感を乗り越えた恵みを天に帰して行く。天と地上を循環する恵み。この霊的な躍動感を忘れずに新年を待ちたいと願わされます。


「主の言葉は成る」
(イザヤ書55章6〜11節、ルカによる福音書1章26〜44節)                No.405

  
               説教 荒瀬 正彦牧師


 
イザヤ55章11節の「わたしの口から出る言葉は〜わたしの望むところを成し遂げ、わたしが与えた任務を必ず果たす」とある言葉は、マリアへの受胎告知の言葉「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる」という言葉と響き合って、まさにクリスマス・メッセージとなっています。神の言であるイエス様が幼子の姿を取って私たちの内にお出でになり、救いと平和と祝福をもたらす「福音」となって下さいました。

 今、私たちはアドベントの時を過ごしていますが、実はアドベントは神様が私たちの応答を待っておられる時であると言えないでしょうか。神様の救いのお約束はイエス様のお生まれによって成就されました。そして神様は私たちがその恵みに応えてイエス様の下にひれ伏し、信従の応答をするのをお待ちなのです。私たちにとっては「待つ」というのは大きな試練です。待っている間にも辛いことや悲しいことが私たちを襲います。すると私たちは動揺し信仰から外れそうになります。信仰の戦いとは、試練の中で神様のお約束を信じて待ち続ける姿勢のことでしょう。その時、私たちを支え導いて下さるのが神様の言です。「神の言」即ちイエス様は観念的な神様ではなく、本当に歴史の中に現臨されて私たちに寄り添い、苦難も涙も共にして下さるお方です。このお方に心を尽くし力を尽くして応答して行くのがアドベントでありましょう。

 クリスマスには「おめでとう」と信仰に在るシャロームの挨拶を交しますが、この挨拶は「あなたは神様の恵みを受けています。私も受けています。あなたの知っている喜びを私も知っています。信じることの出来るあなたは幸せです。私も幸せです。私たちに語られる神の言葉は、神ご自身によって必ず成就するからです。おめでとう。シャローム!」。そう言い交わす挨拶です。

 神様の憐みと慈しみ、真実と誠実は、クリスマスの出来事の中に成就したのです。そのことを覚えながら、感謝と賛美と共に、神様に「シャローム」と応答しつつ、このアドベントを過ごしたいと思います。



「救い定められた運命」
(テサロニケの信徒への手紙一 5章1〜11節) No.404



 
聖書は終わりの日が来ることを告げます。そしてそれは、人々が無事だ、安全だと言っているその矢先に、突然の破滅としてやってくるというのです。しかしキリストを信じる者は聖書に記されていることを知っているので、突然の出来事では決してないのです。しかしもその日は、神の怒りで裁かれる日ではなく、私たちが救いに定められていることを知らされる日なのです。ひたすら目を覚ましていなさいと言うのです。信仰と愛、救いと希望を身を守る鎧のようにまとい、突然の出来事でも心して備えなさいという進言です。

 人々は、いや私たちも時として、信仰なんて力がない、何となく信じている、宗教なんてみんな同じ、そのレベルの思想に囚われそうになります。しかしそれは、今私たちが思いついたことではなく、昔から人々が考え尽くしてきた事でもあります。19世紀から20世紀のキリスト教会は大変な時代でした。近代化、文化、文明の発展ともに、信仰自体が懐疑的にみられていく時。キリストの非神話化などが進み、物質主義か台頭し、キリスト教信仰の崩壊がヨーロッパ全体を覆ってしまいました。文明発展によって、信仰は軽視され、夜の闇は明るい電燈で昼のように照らされ、神なしで人は生きるようになったかと思われました。しかし実は、電灯の明かりに照らされていながら、人は人生の暗闇へと突入して行ったのです。それが現代まで続いています。電灯の開発で、キリストの光は不要になったかのようですが、キリストを手放した人たちは、心の病にかかり、そこから抜け出すことが出来ず、この世の闇は依然として、人々の心に広がっているのです。

 しかし、そんな近代の私たちに、2000年も前に記された書物が再び、警告を与えます。無事だ、安全だ、といっている矢先に破滅は来る。今の内に、神を信じなさい、目覚めていなさい、光の子として歩みなさい、信仰と愛を胸当てとし、救いを希望としなさい。何故ならば、私たちは神の怒りにさらされているのではなく、キリストの救いに預かっているからだと。是非、この時にキリストのメッセージを心に留めたいと思います。


「主の召しに従う」
(ヨナ書1章1〜2節) No.403

                 奨励 和田 一郎神学生


 今回の話は、神様がヨナに一つのミッションを与えたことから始まりました。「さあ、ニネベに行け。大いなる都ニネベに行って、彼らに呼びかけよ。」ニネベはヨナのいるイスラエルからすると、敵国で大都会でした。一方、ヨナは小さな国の預言者でした。神様はヨナに「ニネベの人たちよ!あなたたちは悪い事を行っている、今のままじゃ、神様に滅ぼされますよ、悔い改めなさい!」と、言いに行くことをミッションとされました。しかし、ヨナは恐れてしまったのですね。まったく逆の方向のタルシシュ行きの船に乗って逃げてしまいました。しかし、嵐にあった船の中で乗客や船員は、びくびく逃げて来たヨナを通して、本当の神様を信じる信仰をもちます。何が信仰に導くか分からない。時として神様はその人の弱点も必要とします。

 私たちが何か大事な決断をする時に、祈って、祈って、そこに一歩踏み出すところで、邪魔するものは「恐れ」です。だから聖書にはあらゆるところで「恐れるな」と書かれているのです。Don’t be afraid!と、何度も励ましてくださっています。

 ヨナは、神様の夢を、聞かなかったことにして、逃げて時間を稼いで、遠くに行けば、神様は、諦めてくれると思ったのかもしれません。 時間がたてば、神様は忘れるかもしれないと。でも神様は私たちをミッションの為に造られました。生まれる前から計画されていたのです。それを忘れたり、予定変更するでしょうか?。ロマ 11:29「神の賜物と、招きとは、取り消されないものなのです。」神様が与えて下さる恵みも、この道を行きなさいと召してくださった呼びかけも、決して取り消さない方なのだと気付かされました。

 はじめて「あさひ伝道所」の礼拝に来ることができました。わたしの通う東京基督教大学にも福祉科があり、わたしも福祉と伝道に感心がありましたから、あさひ伝道所は以前から来たいと思っていた教会でした。鈴木先生が礼拝の前後に障害のある方の送迎を車でしていらっしゃる姿が印象的でした。初めて来るわたしたち夫婦を、みなさんが温かく迎えてくださって、恵み溢れる一日でした。


「したいことが出来ない辛さ」
(ガラテヤの信徒への手紙5章16〜21節) No.402



本日の聖書箇所からすると、ほぼ全ての人間は天国に行くことは出来ないことがわかります。腹を立てたり憎んだりなど避けようもない人の業のように思えるのです。しかしパウロは「そんなことは人の常だからまあいいですよ!」とお茶を濁さないのです。厳しくブスっと警告します。妥協を許さぬ厳しさ。それはきっとパウロ自身の悩みだったのでしょう。必死に宣教して築いた教会が崩れてしまっていく現状。まあいいやという姿勢がにじみ出て、今や本体が崩れそうになる危険。そのことをパウロは、キリストへの愛を持って進言し、今一度、霊の導きに立ちかえって行きなさいと語るのです。

 先日、開催された中会会議で、あさひ伝道所の伝道教会昇格の議案は無事通過することが出来ました。しかしその他の議案で数件、難儀するものがあったのです。その理由は、教会特有の甘えの体質が、負の連鎖を起こしている議案によるものでした。ところが誰もがおかしいと感じる内容なのに、キリスト者は批判しては愛がないという考えが抵抗して、容易に率直な意見を言えない雰囲気が出来てしまうのです。しかし、そのような状態の放置は、まじめに働くものを挫けさせ、教会を危機的な状況へと向かわしてしまうのかもしれません。

 パウロは自分の経験でよくわかっていたのです。小さな甘えが、全体を壊してしまう。だから、厳しく厳しく追及するのです。それは、なんとかキリスト教会がキリスト教会として立ち続けて欲しいという願いでした。そういう視点で見ると、パウロの厳しい語調もわかる気がします。それが彼の使徒としての愛なのです。私たちはしたいことが出来ずに、してはならないことをしてしまう愚かな生き物です。しかしだからといって、その言い訳に留まっていてはならないのです。パウロが教会をキリストのように愛したように、私たちもキリストを愛するようにこのアドベントの時に、出来る限りの応答をしたいと願わされます。 


「キリスト者の自由」
(ガラテヤの信徒への手紙5章13〜15節) No.401



 先日のバザーは、大盛況でした。食品の売り切れと共に、物品もよく売れて初めての試みとしては上出来の内容でした。しかしこれは偶然に起こったことではなく、背後での沢山の準備があってのことです。その準備を神が用いてくださったのです。またある面では、私たちの生活全てにおいてこのことが言えると思います。神は私たちを祝福されようといつも思っています。しかしその祝福する対象が起こらないと、祝福しようがないのです。この為に、私たちは小さな働きを捧げていくのだと思います。

 パウロは、人は全ての自由を持っているが、その自由を罪を犯す自由ではなく、人を愛するために使いなさいといいました。この人を愛する自由の行使を神は待っておられ、祝福されたいとその出来事を待っているのではないでしょうか。

 そのような意味では、キリスト者の自由は、ある方向性が定められた自由なのです。それは、隣人への奉仕という方向性です。相手の事情を察し、自分を変えて、仕えて行くための自由。 パウロはこのキリスト者の自由をあえて神に仕える奴隷と言い換えました。自由を一気に奴隷と同列にです。これは何か違和感を持つ表現ではありますが、マスター(主人)を変えなくてはならいという意味です。どんなに必死に仕えても、悪代官ではダメだめなのです。ダメどころが、その必死の働きは無駄となるのです。そうではなく、その働きを正当に評価して祝福して下さる方に、マスターを変更しなくてはなりません。そのことを「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6.13 )とパウロは問うのです。勿論、私たちは不器用ながらも、神にお仕えする方向性を選ぶのです。何故なら、それがキリスト者の自由だからなのです。


「人生のよりどころを得る」
ガラテヤの信徒への手紙5章7〜12節) No.400



 
パウロの説教の根底はいつも、神を拠り所としての信頼に基づくものでした。この拠り所から発信されるメッセージには力がありました。逆にどんなに正しい教説でも、この拠り所なき批評は、やかましい鐘にしか過ぎないとこをパウロはコリント書でも語っています。

 そして、この拠り所から発信されるのは説教だけではなく、私たちの全ての生活が、そこにあることが望ましいのです。その場その場で、立場と立場で、人と人で、浮いたり沈んだり、右にいったり左にいったり、全く逆になることも多々ある人生の場面。私たちは、その場、その時にしか発信されない一面の真理で、与えられた人生はジャッジしてはならないのです。私たちが立つ場所は、私たちは価値を付与されて生まれ、神の愛される対象であり、それ故に必ず良い方向に人生を神が導かれるという信頼感、拠り所の上です。

 教会を運営し、事業を運営し、毎日自分以外の隣人の人生に巻き込まれてキリキリ舞いしてしまう日々。「キリキリ舞い」とは、片足を上げて勢いよく体を回すこと」と辞書にありました。片足とは、両足を地面に着ける前に次に動き出さなければならない状態。私たちは、個人差はあれど、心の中がこんな感じになってしまうことが多々あります。両足を付けて考え直す暇も余裕もない。

 何かこんな話しをすると、パウロの宣教は正にキリキリ舞いの宣教だったようにも思えます。でも、彼は倒れなかった、どんなキリキリ舞いの日々でも、確かな支柱をもっていた。それがキリストという拠り所なのだと思います。私たちも是非、ここに立ち続けて、楽しくキリキリしたいなと思わされます。 


「愛の実践を伴う信仰とは」
ガラテヤの信徒への手紙5章2〜6節) No.399


 スポーツデイの隣で今年の初めにオープンしたミニスーパーが、早くも閉店になることを知りました。実際、このスーパーがオープンする前から、あそこに開店して利益を上げられるような商売ができるのかな?と私は思っていました。そしてきっと、近所人たちもそんな印象を持っていたと思うのです。家賃も高いし駐車場も狭く明らかにダメっぽい。でも、経営戦略のプロが採算を見込んでオープンしたことだと思いますが、実際は近所の人の方が現状を解っていたのではないかと思うのです。しかしこれは笑いごとではなく、場面を変えれば私たち自身の姿なのだと思います。明らかにおかしい、そんな無駄な、なんでそんなことを。傍から見ればおかしい限りなのに、本人は必死にやろうとする。私たちは、何とも本質的にわからないものなのかもしれません。

  しかしわからないものだからこそ、そこで求められるのは、愛の実践を伴う信仰に基づく歩みだと思います。争いや虚栄心の為に、するのではなく隣人愛をもって行っていく。その結果が如何におかしいことでも、その根本原理が間違っていなければ信仰に於いては正しいのです。信仰の世界は、結果の評価ではなく、出発の動機なのです。神の見られる視点はそれなのだと思います。愛の実践を伴う信仰。この原理に基づいて働く限り、全ては失敗でなく神のご加護のもとにあるのです。

 パウロの働きは、教会の危機の中で、まるで空を打つかの虚しいものに見えたかもしれません。しかし、その出発点は明確な神への信仰にありました。それ故に、パウロに失敗はないのです。そして、私たちも同様です。失敗のない人生とは、まさに信仰の道です。ここに立つことこそが「信従」と呼ばれるのだと思います。


「朽ちない働きとして」
コリントの信徒への手紙T9章24〜25章1節)
                     No.395


 
パウロは伝道者として使徒の誰よりも働いたことは名実共に明らかなことです。しかし彼はその働きを自己の功績としてではなく、朽ちない冠を得るために走り抜けたことは、その働きの大きさ以上に重要なことなのです。

 競技をするものは、一等賞を得るように必死に練習をします。しかし、そこで賞を得られたとしても、その嬉しさは程なく虚しさへ変わり行く朽ちる冠だと聖書は語ります。そうではなく、同じように努力と節制をもって走り抜けるが、努力するなら、苦労するなら、朽ちない冠を得るように走るようにと。これがパウロの言いたかったことなのです。

 フレンドシップあさひが、運営を開始してから8年目となります。来年度はこの働きを新たに設立するNPO法人に移行し、更なる事業運営の前進を図りたいと願っています。しかしその移行に於いては、NPOの理事や会員の名前をカンバーランド長老キリスト教会日本中会のメンバーで全て埋め尽くして申請しました。勿論、事業運営の進めやすさを言えば一般の会社形式にするのが一番容易です。しかしここは敢えて、沢山のキリスト教会の兄姉の意見を聞きつつ進める形態を選択しました。それは、パウロが語ったような「朽ちない冠」を目指した働きを続けたいという願いです。そして、この働きを教会に委ねる限り、キリストの弟子がこの働きを健全に引き継いでくれると信じています。

 勿論、キリスト教会が引き継げば100%大丈夫という訳ではありません。しかしそこには、私たちが如何に失敗をしたとしても進むべき道を示してくださる聖書があります。何度失敗しても、聖書に立ち返り、初心に引き戻され、確かな道を見つめ直す限り、キリストがそのご自身の働きを進めるための、手足として用いてくれることでしよう。このことこそが、あさひ伝道所の宣教であり、フレンドシップあさひの”やり方”なのです。            


「自由な身分を得ている」
ガラテヤの信徒への手紙4章21〜5章1節) No.397


 
娘の演劇の公演を先日見に行きました。その内容は、いつもながら人生は何か?という壮大なテーマを学生たちが問い続けているように思えました。そこでの最終的な帰結は、人と人との係わりの中で自分と言う存在がどのような影響力を持って存在し得るかということです。必要とされているとか、無意味であるとか。しかしこのテーマは学生達だけのテーマではなくて、私たちも同様に年を重ねても未解決のままの課題であり続けるのです。

 その答えのヒントとして、本日の聖書箇所が語る「私たちはキリストによって自由を得ている。だから二度と奴隷の軛(クビキ)に繋がれてはならない」という言葉です。 

 人は自由を要求し求め続けるのに、その獲得した自由を容易に返上して不自由に依存してしまう不思議な生き物です。それは自由には、責任が伴うからです。その責任の重圧に押し潰され、折角得た自由を手放してしまう。しかし本来はこの自由な選択的な生き方こそが、人生とは何かというヒントなのだと思います。つまり、やらされるのではなく、自らの意思で行い、人と係わり、関係を作り行う人生のあり方です。逆に言えば、責任を回避した隷属的な生き方は、楽かもしれませんが人生のテーマに回答を与えてくれることはないのです。大切なことは、自由を放棄しない生き方こそが、私たちを無意味と言う虚無から救い出してくれるのです。

私たちの世俗社会は、経済や規則に縛られて本当にストレスのたまる構造になっています。しかしそのような世界だからこそ、心を解放し自らを取り戻す価値ある生き方をする必要があります。私の恩師の瀬底先生は「体は縛られているが頭はいつも自由だ」と言われて事に追従したいと思わされます。 


「途方に暮れている指導者」
(ガラテヤの信徒への手紙4章12〜20節)  No.396



 介護のケアマネージャーの勉強会に続けて出席している中で感じていることは、問題解決の為の研究なのに、発題者自身が、問題が何なのかを悟れずに迷走しているのです。自分の介護方針が既に決まっていて、それを受け入れさせようと周りと戦い続け疲れ果ててしまう姿。しかしこれは酷いようですが、場面が違えば私たちもよく陥る人間自身の持つ根本的な問題なのかもしれません。

 かつての初代教会の現場で苦闘し続けたパウロは、本日の箇所で「あなた方のせいで途方に暮れている」いうのです。キリストへの回心を経験して生まれ変わったはずのクリスチャンが、何故か律法のもとに再び拘束されそうになる現状。何故なのかと嘆くパウロは、途方に暮れてしまうのです。途方に暮れるというと何か、完全に行き詰っているように思えるが実はここが重要なカギとなっているのです。どうしたらいいのでしょうか?という問いをガラテヤの信徒たちに投げかけからです。つまり、教会のみんなと一緒に途方に暮れるという問題解決の方法です。それによって、今起こっている問題を共同の課題としようとパウロはチャレンジをするのです。

 この課題の共有化こそが大切なのだと、本日の聖書の箇所が示唆しているよう思います。途方に暮れるとはギリシャ語で「アポリア」という言葉が使われます。これは「行き詰まり」という意味で、かつてソクラテスが、論客の相手に無知を知らしめるために使った論駁の方法です。

 自らの無知の知を知ることこそが、論理のスパイラルに落ち込んだ自分を今一度リセットして、知らなかった神を知りえるチャンスになるのです。この無知の自覚、自らの知力の惨敗こそが、自らを超える方の声を聞かせるのです。自覚させられた無知の知は、神を知る知となることをパウロは伝えたかったのかもしれません。


「逆戻りしないで

(ガラテヤの信徒への手紙4章 8〜11節)  No.395



 先日、研修会に行く途中で、横浜の立ち食いうどん屋さんに入りました。その日は、いつになく混んでいましたが、一人のお客さんが注文したものが来ないことに激怒して「お前のうどんなんか食えるか!」と叫んで出て行ってしまいました。まあ待たされた怒りもわかりますが、その方は自分の怒りで”わかめうどん”一杯を損失してしまったのです。

 しかしこの出来事は当人にとっては真剣な課題ではあったとしても、傍から見ているとなんとも「短気は損気」ということわざ通りに見えるはずです。そしてこれは、滑稽なように感じますが、実は神さまから見た私たちの行動はそのものなのかもしれません。本人にとっては真剣な課題でも、大きな視点で上から見ると、なんとも間抜けな損失した人生です。聖書は「私たちは神を知っている。いやむしろ神から知られている」と語ります。信仰を持って生きるとは、神から知られていることを知覚することなのだと思います。

 世俗の生活において、自分の思い通りに事柄が進むことはめったにないハズです。しかし人は自分の思い通りにならないと憤り、心を痛め、疲れ果ててしまうのです。そこで必要なのは、自分を離れ、私たちの創り主なる神の視座を垣間見ることなのだと思います。信じる人に選ばれた以上、以前の姿に逆戻りしてはなりません。心して神さまに目を向けるのです。それが使徒パウロの祈りであり、神さまの願いなのだと思います。


「奴隷になってはいけません」
ガラテヤの信徒への手紙4章 1〜 7節)  No.394


 人間の行為には、その行動を引き起こす理由があります。同じような行動でも、その行動を起こさせる原理の違いは似て非なりということになるのでしょうか。では何が違うかと言えば、それは隷属的行為なのか自発的な行為なのかということです。

 例えば、新興宗教では、盲信的に信じる熱心さ?が求められ、その教えに従うことが信仰とされます。しかしそれは、行為を裁きと恵みという尺度に当てはめた教祖の奴隷となっているだけなのです。そこには自発性はないのです。自分から自発的にやっていると反論する方もいるかもしれませんが、それは恐怖と喪失という道具によって支配された行為に過ぎません。
パウロは、厳しい事を次々いいますが、彼の神感はイエス様が説いた「アッバ、父よ」なのです。父と子の間では、どんなに厳しくても奴隷と主人の関係ではありません。相続者であり跡継ぎである関係における訓練なのです。

 では、この神の恵みの相続者としての地位を与えられた私たちに求められるものは、何であるかということなのです。地位には、当然に責任が伴うはずです。ノブレス・オブリージュという有名な言葉あります。これは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味となります。私の大好きな映画のスパイダーマンの言葉を借りれば「大いなる力には大いなる責任が伴う。」です。

 私たちは、キリストの贖罪により赦され神の子となる権威を与えられたのです。その権威は高貴である故に、義務を求めるのです。そしてこの義務に、自由な意思を持って臨むのが、私たち信じる者の生き方となるのです。しかしこの義務の働きは、自由な応答である限り、決まった行為ではなく、極端な言い方をすれば、何でもいいということなのです。命がけの行為でも、素朴なお祈りでも良いのです。自由に自分の信仰による熱心で選び取ればよいのです。それこそが、「アッバ、父よ」と呼ぶことを赦された者への恵みだと思うのです。   



「身分なき神の子として」
(ガラテヤの信徒への手紙3章21〜25節)  No.393


 聖書は、キリストによる信仰によって人種、身分、性別の差はなく、全ての人が一つであると語ります。この事は、逆から言えばいかに私たちの社会が、他者との差ばかりに注目し依存し、差別を行っているかを示していると思うのです。そして、そうは言っても私たち自身も、いや教会自身もその世俗の理屈にどっぷりと浸かっており、その支配下で右往左往してしまっているのも確かなのです。しかしだからこそ、その全ての人に価値の差がなく一つである事実を、キリスト教信仰に於いて社会に伝え続けなくてはならないのです。キリストは、その神としての身分を捨てて、へりくだって民衆に仕え、命をかけて救済の業に仕えたのです。私たちも同様に、世俗社会における身分でも、あえて身分なき謙虚な姿勢をもって出会った隣人に仕える必要があると思うのです。

 最近特に思うのは、社会での失敗の第一原因は傲慢な姿勢だと思います。何か自分が偉いものかと思い込んで発言し、そのような態度にて事柄に臨でしまうことなのです。介護関係の研修会に参加する度に、講師がどのような内容を話されるかというよりも、どの視点から話そうかとしているかをよく考えます。そして、その視点の位置によって、講習に参加する人たちからの評価だけではなく、学習効果が大きく違うのです。内容よりも何処から発信しているかが第一なのです。

 実際、「謙虚こそが最大の武器」とも言える力を持っていることを実感させられる介護業界ですが、またこの謙虚さが全くなくて失敗を繰り返してきたのも私自身なのです。しかしそれでも、何とか人の前で話をし、仕事において責任的立場で今お仕えさせて頂けるのは、聖書の教えに週毎に打ちのめして頂いていることに他ならないと思うのです。もともと自己中心的な人間の私たちは、正しい指導者無くして、人生を旨く進めることが出来ないのです。その指導者であるイエス・キリストを見上げて今週も進みたいと思います。



「挫折は信仰への門」
(ガラテヤの信徒への手紙3章21〜25節)  No.392



 パウロは、かつてのユダヤの律法はキリストへの信仰に導く養育係の役割を担っていたといいます。しかし、キリストが現れた今は、その養育係は不要となり律法に縛られた生き方をしてはならないというのです。しかしこの養育係はいなくなった訳ではなく、新たな養育係へと変わったことを私たちは知りたいと思います。その養育係とは「挫折」です。パウロもこの挫折という養育係によって、キリストへと導かれるのです。順調、順風、何の問題もない人が信仰の道に入るのは極めて難しいことでしょう。しかしまた逆に、挫折のない人は誰もいないとも言えるのではないでしょうか。誰もが、多くの場面で挫折し続けている。しかし大切なことは、その挫折が、自分より高いものを見つめるチャンスとになるかということなのです。前向きな挫折は、人生を刷新させる大いなる恵みとなるのです。

 最近、スマートフォンを新しくしました。長年キャリア携帯を使ってきましたが、思い切ってフリーSIMに変更します。私は、あまり携帯もPCも使える限りそれほど買い替えないタイプなのです。それは新しくしても、そんなに性能は変化しないだろうという思いがあるからです。しかし、一年落ちの新古品への交換でしたが、驚くほどに使いやすくなっているのです。では、何故そんなに使いやすくなったかと言えば、以前の不具合をメーカーが必死に改善することに努めたからです。つまり、不具合というマイナス経験が、より良い物を生み出すチャンスとなったのです。

 これは私たちの人生には、更に有効な意味を持つと思うのです。大いなる挫折を受け入れ、それをもって神へと近づく。大切なことは、このチャンスを負の財産として自分に蓄積してしまうのか、プラスの恵みとして前進するのかなのです。パウロは、その挫折を大いなる信仰の飛躍へと転換しました。そして私たちも人生の転換のチャンスが日々与えられているのです。
 このチャンス(挫折の連続)に満ちた出来事を、キリストへの信仰への養育係として歓迎していく心をもって進みたいと願わされます。 


「ルールの先行は、人を建て上げない。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章15〜20節)  No.391


 20代のころ、希望が丘教会の瀬底先生宅にお邪魔していた時にこんなことがありました。先生のお嬢さんが、学校の校則が厳しくて意味があるのか?という話をしていました。そこで、私は「学生時代はルールを守るのも勉強なんじゃないかな」と言いました。しかしそこで、瀬底先生は「ルールなんてものは出来れば、なにもない方がいいんだ!」とのコメント。私は、その時、軽い衝撃を受けました。そんな考え方があるのかと思ったからです。実際ルールを守るという言葉からは、まったくかけ離れた青春時代を過ごしていた私でありましたが、それでもルールがあるのはもっともと考えるのが普通な社会です。今思うと、瀬底先生は、聖書でパウロが語っていた言葉をよくよく吟味して、心に留めていたんだろうと思うのです。パウロは、ユダヤ教の指導者として律法順守の見本のような人物でした。その点では、彼を責められる人は誰もいない程でした。しかし彼は、その律法の行いを捨てて、人の救いは、ただ神の救済の業を信じる信仰のみなのだというのです。かつて、創世記でアブラハムが受けた神の祝福の約束は、律法の実行によって継続されたのではなく、人を神への信仰によって既に決まっていたことなんだというのです。

 私たちはルールという世界に縛られ、それを順守している人が正しい人のように、見られ思われる社会です。しかし私たちは、そのような拘束の中にあるからこそ、聖書に示される行いではない、信仰による義を信じていくことが求められると思うのです。


「異邦人はみな祝福されます。」
(ガラテヤの信徒への手紙3章7〜14節)   No.390


 私たちの世界には様々な判断基準があるので、何処に重点を置いて考えるかが大切な課題だと思います。聖書はこの価値観の戦いであり、またキリストの価値観への統合が求められていると思うのです。パウロは、ハバクク書の「正しいものは彼のエムナー(忠実・誠実)によって生きる」という言葉を70人訳聖書に沿って「正しい者は信仰によって生きる」と言い換えます。忠実・誠実は素晴らしい言葉である共に、ともすると行動に直結してしまい律法主義の罠にはまってしまう言葉だからです。それを「信仰」へと重点を移すのです。同じような事を行い、同じような信仰をしているようでも、この重点をどこに置くかで全てがかわってしまうほどです。

 加太コウジさんという紙芝居で著名な方がおられました。彼は子ども教育において「子どもの時代を、大人への準備の時代だと思うから、勉強しろ、しつけがと大人はいってしまう。しかし子どもは、人生に二度とない子どもという時代を今生きているんだ!」と考えるとの趣旨を語られていました。

 未来への努力や準備は大切なことです。しかし忙しい日々に立ち止まって考えるなおす必要性があるのです。今日と言う日が、将来の準備の為にだけにあるのではなく、今日という日の価値を大切にして生きること。明日のことは明日自身が思い煩う。明日の心配で、たった一回限りの今日を生きる価値を失ってはいけないということなのです。

 世俗社会において、行いの効果や評価ばかりの延長線上に生きざるを得ない私たちだからこそ、「信仰」によって今日を生きる意味は取り戻したいと思うのです。ガラテヤ3章11節「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。」



「体験を無駄にしないで」
(ガラテヤの信徒への手紙3章1〜6節)   No.389


 
エリーリッヒフロムが書いた名著「自由からの逃走」。これは、私の人生へ大きな影響を与えた一冊と言えます。人は他者に拘束されない自由を求めているはずなのに、現実はその自由から逃げ去り、不自由な拘束の中に依存してしまうということです。その理由は、自由には責任が伴うからです。その責任の重さに人は耐えられないのです。

 新約聖書では、パウロはユダヤ社会の律法と闘い続けていると言えるでしょう。いやそれは律法といより「律法主義」との戦いなのかもしれません。キリストにより律法主義から解放された信仰者は、何を食べても、何処に行ってもよく、ユダヤの教えとしての拘束から解放されているのです。しかし、解放された民に求められたのは、キリスト者としての十字架を背負った責任的な生き方です。そしてこれは、予想以上に困難を極めました。一言に「隣人を愛せよ」問われても、じゃあどうすれば?、何をどのように?。大体、本当に誰でも隣人を愛せるのか。実際のところ、ユダヤの律法主義に戻って支持された事を形だけでも行っている方が、遥かに容易だったのです。ですから、キリスト者となった人たちが再び、ユダヤ化したことは人の弱さの現れであり、一つの逃避と言ると思うのです。

 しかしここには、大きな誤解があるのです。私たちは、十字架の責任を負ってその務めを果たさなければなりませんが、それによって私たちが救われるという訳ではないという事です。自己責任を如何に果たしたからと言って、救われる訳ではない。ですから、私たちの責任は自由に発信され、うまくいかなくても、時にはサボってしまっても、出来ることを出来るだけ行っていけばいいのです。人が作ってしまう救いの条件によって、私たちは律法化されてはならないのです。

 私たちには、キリストが差し出された最高の自由を信仰によって受けているのです。だから、この義を信じている限り、信仰の道からは決して逃走する必要はないのです。      



「命の光を持つ」
(イザヤ書60章1〜2節 ヨハネによる福音書8章12節)                      No.388


                   平 尚紀教職志願者


 主イエスは、生涯にわたってサタンの誘惑に打ち勝ち続け、一切の闇を持ちませんでした。ゆえに「イエス・キリストこそこの世の光である」と言うことができます。私たちは、キリストに倣い、キリストに従う共同体なのですから「キリストに従う教会こそこの世の光だ」ということができるのです。

 しかし、いまだこの世は闇に覆われています。人の欲は留まることを知らず、さらなる富、貧富の差、搾取へとつながり、自然破壊や健康被害などの多少の犠牲を無視してでも経済活動を優先しています。評価や名声は、暴走を加速させ誰の制止も受け入れようとしません。安心・安全・平和のためと言いながら軍備や科学技術の進歩は止めることができず、環境破壊どころか、社会倫理までなし崩しにしています。そのようにこの世界は、いまだ欲による闇が蔓延しているのです。主イエスが荒れ野で受けた誘惑は、今でも私たちを誘惑し続けているのです。それでも「教会こそこの世の光だ」と言い切れるでしょうか。

 東日本大震災によって気仙沼は闇に覆われました。続く停電により街中の明かりが消された。真っ暗な夜が襲って来た。闇はものすごい恐怖を与えた。しかし、ふと上を向くと、そこには今まで見たこともない満天の星空が広がっていた。その時、初めて神は私たちを見捨てていないと感じた。直後に世界中の教会から支援物資が届き、神の愛が津波のように届けられたのだそうです。

 私たちは、もっと明るく、もっと強く求めてしまうのですが、明るくすると、本当の光を見失ってしまう。むしろ、今持っていると思う自分自身の光を一旦消すことによって、真の光が見えてくる。歩むべき先の光が見えてくるのです。 どんな状況でも神の愛は変わらずそこにあり、命の光はすでに与えられている。その命の光を私たちは分け与えることができる。自分のためだけに生きるのではなく、キリストに倣い分け与えて生きるのなら、更なる大きな闇に包まれたときに、まことの光を放つのは、キリストに従う教会なのです。 


「罪人でない罪人」
(ガラテヤの信徒への手紙2章15〜21節)  No.387


 戦後70年を迎えて、私たち神を信じる者はどう生きることが求められるのでしょうか。国会では「安全保障関連法案」というものが物議をうみ、批判の応酬合戦ばかりで、問題の本質が本当に捉えているのかという疑問さえ感じます。私たちキリスト者の最大の使命は、イエス・キリストが差し出した和解の福音を敵対する相手にも、差し出すことだと聖書から学びました。マスコミや政府が隣国の危険や問題を過剰に取り上げ、国民への不安や怒りを盛り立て、敵意を作り出し、その背後で何かの利益を生み出そうと画策する不毛の世俗社会において、私たちは心して聖書から真実を見極めていく必要があると思うのです。

 パウロは、自らの正しさで救われようとするのなら、キリストの死は無意味となると言います。これを現在に当てはめれば、行いの間違いを非難し合い、時代と場所に制約された正義という概念を押し付け合っていては、キリストの死は無意味となるのと思うのです。

 先日、放映されていた満州引き揚げ者の証言が目にとまりました。当時の満州では、現地の方々を召使として使うのは当然で、それが当たり前のように日本人はみな思っていたと。しかし終戦を迎え横暴を究めた日本人達は、立場が逆転し大変なことになったと。しかしそれでも、先日まで召使だった彼らが、自分達をかくまって助けてくれた。国と国が政治家によって上の方で戦っているが、生活する人達どうしは常に憎しみ合っている訳ではなく、優しい交流も沢山あったとの証言。この証言をしてくれた方の生涯心に残る出来事は、中国の人が差し出してくれた救いの業です。この心に残る出来事のような人と人との交流こそが、キリストの者が行うべき業であり、その弛みない努力が平和を築いていくと信じるのです。そのような事を思う中、何となく嫌煙していた隣国に対して、自分なりの小さな和解の福音を伝えていかねば!思わされます。


「パウロはぶち切れました!」
(ガラテヤの信徒への手紙2章11〜14節)  No.386


 常に、キリスト者は寛容であることを告げるパウロが、ここでは何故かブチ切れて怒っているのです。それはまさに、パウロが命がけで守りたいと願っている信念と努力が無駄になってしまうような事態。よりにもよって、教会の最高指導者であるペテロやヤコブまでも、神を恐れずユダヤ人を恐れて、かつての慣習に迎合していたからです。 そこでパウロの良心が叫ぶのです!真実を告げなさいと。

 先日、フランクルの研究者の故山田邦男さんの記録が放映されていました。その中で「良心とは、自分以外の何者かによる呼びかけ」を聞くことであると言っていました。例えば、子どもが倒れていた場面で「助けなさい!」という声が何処からか聞こえてくるようにです。その声を聴くことは、人が鐘の響きに共鳴するようなもとのことです。つまりそこでは、これは鐘であるとか場所はお寺であるとか解釈する以前の状態の共鳴です。この子どもは誰であり、自分はどんな用事があって、助けるか助けないか?という判断する以前に、神の声に共鳴して走り出すこと。

 この声に共鳴することが、神の声を聴くことであり、信仰の道標なのだと思います。世界的に有名な日本の哲学者故西田幾多郎さんは「自我を失う時に、本当の自分が現れる」と言いました。正に、自我を喪失してこそ、真の他者性を見出して行けるのだと思います。

 そのような意味では、昨今の日本の政治の保守化は酷いものです。今の政府が考える世界平和は、命を捧げることこそ国民に求められる義務のように歌い上げるのです。確かに、キリスト教としても、侵略され苦しんでいる人たちを世界で団結して救うというのに反対する者はいないはずです。しかし問題は、その「救う」とは力と力の衝突で本質的に達成できるのか?という話なのです。力の対決は、より力を持つ者が正義となるのです。そして、第二次大戦のように、「正義」は常に人の利権と強欲を覆う格好のベールとして使われるのです。私たちは、今一度パウロが聞いた、神の声に共鳴し、神の声を聴かなくてはならないと思うのです。その神の声は、力ではなくキリストの犠牲によって成し遂げられたからです。


「どうでもいいこともあります」
(ガラテヤの信徒への手紙2章1〜10節) 
No.385


 私の若いころの口癖に「意味ね〜よ」というのがありました。よく友人が私のまねをする時に、その言葉を言っていたので間違いないと思います。何の意味があるのかと、いつも若いころは考えて批判をしていたものです。しかし最近は、行政相手の仕事となり、そこでは意味があるかないか等よりも、決められた法令に適合しているかといいますか、その担当官の解釈する法令に適合しているかということばかりの世界です。若いころならブチ切れて投げ出してしまったようなことばかりですが、今はそこをのらりくらりと柳のようにしなやかに切り抜けるのが、プロの仕事だと割り切ってお仕えしています。

 しかしだからと言って、何でも言い訳ではないのです。パウロは、どうでもいい権威に人々が振り回され、本質的な神の願いが無視されていることに大きく心を痛めるのです。誰がいったからとか、どこの出身だとか、ユダヤ人だとか異邦人だとか、そんなことはどうでもいいこと。大切なことは、キリストが何をしにこの地上にこられ、何を伝えようとしていたのかということ。その受難の死に私たちは預かり、救われていること。それが大切なのです。そして、それを伝えるためならば、あえてどうでもいいことにも付き合いましょう!というのがパウロの姿勢です。 彼は、どうにかしてキリストを伝えたいと試行錯誤を繰り返すのです。そして、その師に付く私たちにも、同じ使命が与えられているのです。自分の生きる使命を知る時、大抵なことは耐えられるものです。その信仰の延長線上に素晴らしいギフトが必ずあるはずです。
 


「神が讃えられる生き方」
(ガラテヤの信徒への手紙1章18〜24節)  No.384


 
私たちの社会は、物事の本質とはかけ離れた部分の議論に多くの時間を使っているように思えます。ただ、世俗で生きる限り、それをただ嘆いても致し方がなく、知恵と忍耐をもって生きることが私たちには要求されています。しかしその不条理感があるからこそ、私たちはまことに本質を捉えておく必要があるのです。

 パウロは、20節で「神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。」とそのこと表現します。キリストの福音は二つあるのではなく、真実は一つ。私は、キリストから直接任命された使徒であること。

 しかし、ユダヤ教徒から改宗した人たちが、他の教えを吹聴してキリスト教会を混乱に陥らせてしまうのです。そこで、パウロはいよいよ切り札を出します。それは「自分は、キリスト教会を迫害した代表的な人間だが、その私が改宗したんだから間違いない」との発言。これは、言葉としてはサラッと読んでしまいがちですが、実際のパウロとしては触れられたくない罪の過去だったのです。教会の中には、当時のパウロに家族や仲間を連れて行かれてしまった人もいたはずで、容易にパウロのことが赦された訳ではなかった事でしょう。しかしそれでも、自分の失敗を表明し、そこに真実があることを告げるのです。

 ここに、神の讃えられる生き方があるのです。自分の正しさや、信仰の優位性を語るのではなくとも、悔い改めの告白が神の臨在を明確にしていく。いやこれこそが、本来のキリスト者の身につけるべき姿なのかもしれません。神を讃えるような良い働きは出来なくても、神の讃えられる罪の告白は出来るのです。この告白をもって、私たちを良しとしてくださる神を信じて進みたいと願います。


「相談する相手を選ぶこと」
(ガラテヤの信徒への手紙1章11〜17節)  No.383


 先週は、富士山の訓練登山に行ってきました。豪雨の中で次々とアクシデントがあり、本当に大変でしたが何とか下山出来てよかったです。登山は本当に大変ではありますが、数日の根性で切り抜けられるものです。しかし実際のところ、私たちの毎日の生活の方が山登より、遥かに予測を超えた出来事の連続で、危険に満ちていてが毎日大変と言えます。だからこそ、その相談相手が重要です。そして、その第一の相談相手を神とし、聖書とするのがキリスト者の道です。人の相談やアドバイスは、とても役に立つし励まされます。それに対して、神への問いは直ぐ答えが出ないように感じます。しかしそれでも、私たちは神に大切課題を聞いていくのです。使徒パウロは、血肉に相談することなく、ただ神にその道を聞いたと記します。

 人には相談相手が必ず必要なのです。例えば、なかなか一つの場所で仕事が長く続かない方は、社内に自分の相談相手を持てていないという印象を感じます。仕事は出来ても、なんとなく孤立してしまう状態。人は相談相手が、必ず必要ですから、その状態ではやはり長く続けることは難しいです。

 では何故、相談相手がうまく出来ないのでしょうか?。色々な理由はあるとは思いますが、それはパウロの言うような、第一の相談者を忘れているからかもしれません。人への相談は、相談者の幅に限定されてしまいます。だから、相談してもかみ合わないことが多々あるのです。人は、それを無理にかみ合わせようとするので、人と人との摩擦が起こってしまい、結果的に相談することが出来なくなってしまいます。しかし神は、私たちの存在を与えてくれた張本人であり、それ故に、私たちの何故を大いに聞いてくれる方なのです。ですから「これに聞け」とイエスの生涯を神は提示されるのです。イエス様の生涯を見つめる時に、この苦労こそが私たちの全ての相談者である所以だなと、私たちはよく思うのです。第一の相談者に全てを相談する事。そして、その得た答えを持って人の中に戻っていくこと。これが登山ルートならぬ、信じる者の相談ルートなのだと思います。


「何の為の、あくせく!」
(ガラテヤの信徒への手紙1章6〜10節)  No.382


 人は、何の為にあくせくと働き続けなければいけないのでしょうか。それは究極的には何のために生きなくてはならないのかという哲学的な課題のもとにあります。パウロは、その課題をキリストのためへと明確化します。つまり、何のために働き、何のために生きるのか?それは私たちを救い出してくださったキリストのためなのです。

 私たちはこの事を意識して、アクションプランを持たなくてはなりません。神の存在を感じ信心を持つ人は、世の中に多数います。しかし、その対象が誰であり、何を自分に求めているかを知ろうとする人は少ないのです。そうではなく、対象を意識して理解して行くことが信仰なのです。漠然した神感を意識したものに変えることが信仰です。その最も代表的なアクションプランは、礼拝を守ることであり、信仰を告白して洗礼を受けることなのです。

 要介護予防の研修で、反射を意識した運動に変えなくてはならないと習いました。例えば歩くという行為一つとっても、私たちは意識せずとも足を右左と出していくはずです。これを反射といいます。体が覚えていて無意識に出来るのです。しかしこの反射では、運動になりません。この反射を意識化すること、つまり、手を大きく振る、足を上げて、早めに歩く。この意識化した行動によって、運動効果が生まれるのです。その効果は、人に健康をもたらします。

 同じように、神感を意識化して、アクションを起こして行くことは、心の健康をもたらすのです。もうダメと思える状況でも、感情に流された反射ではなく、意識して神に対して、キリストの生涯を目標に心を向けていくのです。その時に私たちは、心の復活を感じるはずです。そこにこそ、なんのためにという問いの答えがあるはずなのです。   


「世の悪からの救いを得て」
(ガラテヤの信徒への手紙1章1〜5節)  No.381


 人の心は何と病んでいるのかと、最近思わされる次第です。しかしだからこそ、その闇からキリストは私たちを救い出そうと、ご自身を人の罪の為に献げてくださったのです。 しかし、このキリストの捨て身の救いを受けているはずなのに、人の人生は未だに迷走を続けてしまうのは何故でしょうか。

 そこにあるのは、人が生きていく上で必ず必要な未来への「期待」です。この「期待」を持つことが、人にやる気や願いを起こさせ人生を良いものにするし、逆にこの「期待」が、失望に移る時、人は怒りに支配されてしまうのです。「なんで」という怒りの感情。つまり、前者は「期待」が良性となり、後者は悪性となるのです。この差は何故で起こるかと言うと、心に抱く「期待」の質や種類と関係しています。

 単純に別ければ、その「期待」がキリストにある「期待」であるのか、自己の所有による「期待」であるのかということです。キリストにある「期待」とは、まさにイスエ様の生涯に現れる所有を放棄して、人に仕える生き方という「質」の問題です。しかし後者の「期待」は、失う者がいて初めて成り立つ所有者への期待です。それは質と言うより「量」の差です。この「量」とは物品に限らず、地位や自分の拘りなどの思想の部分も含まれます。この後者の「量」という所有に、過剰に縛られている限り、人の心は怒りで疲弊して行くのだと感じています。」

 パウロは、新しく生まれたばかりのキリスト教会が、古いユダヤの慣習に逆戻りしてしまいそうな危うさを知り警告を度々与えます。ここで大切なのは、キリストによる縛られない解放された信仰です。過去の物や制度に支配された信仰生活ではなく、全てを放棄しても残る本物の力です。このキリスト教の本質を見据え、量の拘束から解放されて、質を求める生き方へとシフトして行きたいと思うのです。

 人の心は、知らず知らずの内に所有と保持に縛られ、その喪失を恐れ、期待の裏切りによる怒りに支配され心を病んでしまうのです。今一度、キリストを見つめて所有から解放されて、キリスト者の自由をもって生きたいと願わされます。


「どうしたらいいの?答えは一つ」
(使徒言行録2章37〜42節)    No.380


 ペテロの言葉を聞いた人々は「では、どうすればいいのですか?」と質問を投げかけます。その答えは「悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しを得なさい」という明確なものでした。しかし、この明確な答えを中々受け取れないのも人間です。今から勉強して、東京大学に合格しなさいという話ではなく、誰もが出来ること。しかし人は、神を求めて、神から離れて行ってしまう存在なのです。

 それはもしかすると、神という方の概念が、せいぜい髭を生やした頭のいい仙人の一つ上の程度のイメージしかないからなのかもしれません。つまり、もう少し人が頭を使えば、欺ける対象であるという認識です。「盗人にも三分の理」と言うように、そのような不遜な対象理解の前では、人はどんな罪をも言い逃れられると考え、本質的に悔い改めることは出来ないのかもしれません。しかし神は、そんな人に欺くことの出来る方ではないのです。私たちの神は、欺く対象ではなく、神を信じる対象であり、悔い改め、罪の赦しを与えてくれる方なのです。そしてこの神を、何となくではなく、意識して信じて行くことが大切です。

 生活習慣予防の運動プログラムでは、意識して歩くことを推奨します。つまり、何となくボーと歩いているのではなく、運動になるように早足で手を振って負荷をかけて歩くのです。それによって、病気になりにくい体を作っていくことが目標です。

 信仰も同じように、何となくではなく、キリストを意識して信仰をして行くことが大切です。無意識の意識化を行うことで、信じている対象が誰であり、何をされて、また自分に何が求められているのか、いったいどうするべきかを知ることが出来るのです。これをイエスの生涯の内に見出すのが、キリスト教信仰なのです。難しいことではありません。しかし結構、難しいかもしれない。何故ならば、それを信じるためには、神の霊を受けなくてはならないからなのです。


「神の考え」           
(使徒言行録2章29〜36節)    No.379


 三大三日坊主と言えば、英会話、日記、運動だそうです。やらなければと思いながらも、三日続けるのがやっとという項目。何となくわかるような気がします。さてでは健康の三要素というと、食事、休養、運動だそうです。この内、食事と休養は、生理的欲求が自然と発生する項目なので、整えやすいと言われます。しかし問題なのが、三大三日坊主の運動です。運動は、やりたいという欲求が容易に発生しないからです。つまり意識して、それを行って行く必要があるのです。そうでないと、健康を保てないというお話。

 私は、これは信仰という世界でも同様だなと思いました。意識して、それを行っていくこと、何となく気が向いたらではダメなのす。神はキリストの生涯を通して、その明確な意思を人間に伝えるのです。その神の考えを知り、それを受け止めて倣って行く信仰の道はまた、意識してそのことを行っていく必要があるのです。何となくではなく、しっかりとです。

 聖書は、マタイ25章で、花婿を待つ花嫁の例えで、普段からよく準備をしていくことの大切さを伝えます。しかしまた、死ぬ直前で悔い改めた者にも天の国が約束されていると語りました。ではどちらであるべきなのでしょうか。勿論、ギリギリで救われることも確かですが、普段から準備して置くことが基準です。意識して、自分の信仰とは何であるかを常に知り、神のご意思と願いを受け止めて、日々の小さな働きを行っていくこと。

 今、人生の問題がないから神を信じないのではなく、来たるべき日に向けて今から信じていくこと。 それを、損失ではなく、幸いなり!と聖書はいうのです。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカによる福音書11章:28節)      


「もうだめか?いや道はある」
(ルカによる福音書16章1〜13節) No.378


                 説教 荒瀬牧彦牧師



 託された主人の財産を無駄遣いしている管理人がいた。そのことが主人にばれ、管理人は窮地に立たされた。「どうしようか」と考え、主人に負債のある人の証文を書き換えてやって、失職後の行き先を作った。悪い奴だ。ところがなんとこの主人は、この男の抜け目のない[=賢い]やり方をほめたというのである。

 「なんでよ!」と驚き呆れてしまうが、その意外性がポイントである。一体なにが「賢い」のか。無駄遣いしていたことではない。主人はそれを怒っている。しかし、窮地に立ってからの彼の行動は見事だった。知恵を絞り、「友を作る」という最善の作戦に出た。善し悪しは別として、ともかく、託された財産を「活かした」のだ。ここに神の願いが暗示されている。
 
 私の人生について神様から「どうなのか。決算報告を出しなさい」といわれたらどうしよう。インチキのばれる報告しか出せない自分である。でも、神は私が「もうだめだ」と無気力や自暴自棄に陥ることを望んでいるのではない。「どうなのか」は、自分の危機を知り、真剣に救いの道を求めるようになるための迫りである。神はあなたが手を尽くして道を求めることを求めている。そして、御子イエスという道を、あなたに示しているのである。証書の書き換えで作る友どころではない。十字架の死をもって、「証書を破棄」してくださる御方、イエスをどうしてあなたの友としないのか。どんな手を使ってでも、この道を求めなさい。


「苦しみからの解放
(使徒言行録2章22〜28節) No.377



 介護の仕事で、利用者さんの自宅を訪問しますと、よくある現象があります。それは、打ち合わせの会議が始まっても、テレビを消さない部屋の電気を付けない人が多数だということです。どの位の割合かと言いますと、私の感覚では五割以上の人がそうなのです。何故、来客がある中で、テレビを付けっ放しで電灯もつけないのか?。その原因として、来客に対して失礼をしようなどとは全く思ってはいないのですが、テレビを消したり、電灯を付けねばというところまで気が回らないのです。つまり高齢となり感覚が鈍くなっているのです。またテレビだけではなく、様々な部分が衰えしまうのも加齢の中では致し方ない事です。

 しかし加齢でも衰えない部分があります。それが信仰の世界です。信じる心というのは年を重ねれば重ねるほど厚みを持ち熟練していくものです。そして年を取った時にこそ、その熟練された力は人生の最後の日までも支えるのです。また更に注目すべきことは、この信仰は、神からただで受けたものであるということです。人生を支える力は、私たちの努力の結晶ではなく、キリストからただで頂いたものです。だから、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10章)とイエス様は言われました。

 どんなに、年を重ねても、どんなに衰えたとしても、私たちがただで天から頂いたものは、ただである故に誰も取り去ることはできない地上から天へと繋がる宝なのです。


「皆、救われる」
(使徒言行録2章14〜21節) No.376


 聖霊に満たされたペテロは、旧約の成就として世界の終わりと、信じる者の救いを声高らかに語ります。しかしこの「信じる者は皆救われる」という救済のメッセージは、私たちにどの様に感じられることでしょうか。多分この意味は、本当に危機迫る状況にならないと、その本質と価値は理解できないのではと思います。また逆に言えば、理解できない平和を今もらっている方は、それはそれで幸いなのだと思います。それが続くように祈ることが、大切だと思います。

 問題に出会わない。苦労しない。非難されない。危機に陥らない。その方法は、何もしないことが一番です。何かすれば、自然の法則のように必ず摩擦が発生するからです。しかしまた、人生それで良いのかという問いもあります。 

 先日、介護の関係のテレビ番組で「いしいさんの家」というデイサービスが取り上げられていました。体当たり型とも言えるその介護士の働きは、もの凄いもので、何か初心に帰る思いでした。その中で「この仕事は振り回されてなんぼ」であるとの言葉がありました。実際、人は振り回されたくはないし、振り回されない冷静で沈着な働きがプロの介護者のように思われがちですが、利用者さんに振り回される事こそが本分という言葉に、とても感銘を受けました。人の人生は、摩擦を起こさないために何もしないのがいいのではなく、人生とは神と隣人に振り回されて「なんぼ」なんだと思います。

 教会も介護も人間も、神様に振り回されて?今日が有意義になる。そのことを受け止め感謝できるとしたら、それはまさに聖霊の働きなのでしょう。神の霊がいつも、罪あるものでも私たちの内にあり、働いて下さることを感謝いたします。


「待てる人は良いものを得る」
(使徒言行録1章1〜5節) No.375

 エルサレムで聖霊降臨を待つ弟子たち。この時は、まさにキリストの時から教会の時へと聖書の時代が変わる瞬間です。イスラエルが神の民として祝福された神の祝福が、教会の宣教を通して異邦人へ大々的に伝えられる時へ移る瞬間を待つ時です。この出来事は、旧約聖書に約束された神の約束であると、使徒言行録は語るのです。人の遺言でさえ記されれば変更出来ないように、神の約束は確かに履行されるのです。

 では、この約束はどうやって確かめられるのか。それは、ガラテヤ3章にあるように「律法によっては、だれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。」とあるように、働きの評価ではなく信仰に生きることこそが、その約束を受け継ぐと言ってもよいのではないでしょうか。

 「世界一貧しい大統領」と呼ばれるウルグアイのムヒカ元大統領は「金持ちは政治家になってはいけない」「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と語ったと言われます。私はこの言葉を聞いて、本当にそうだと思うと共に、実は自分がムヒカ大統領の言った「貧乏な人」なのだと、聖霊によって示された思いがありました。自分なりに信仰を持ち努力をしてきたつもりですが、結果を求める「貧乏な人」になってしまっている面が確かにあるような気がするのです。

 そうではなく、私たちは「信仰によって生きるもの」になりたいと思います。神は私たちに何度もチャレンジをしてきます。「これでよい、これで完成」などといった信仰はないのです。何度も何度も試みに合わされ、苦しみの炉をもって私たちは信じるものへと練り上げられていくのです。きっと、度重なる苦難の中でも、人が崩れ落ちないのは「助け主の聖霊」によるのでしょう。信じて、与えられた努めを果たして行きたいと思います。    


「生活の場に派遣されて」
(マタイによる福音書28章16〜20節) No.374


 教会のホームページを公開していますと、そのアドレスから、教会への相談ではなく、他の様々なメールが舞い込んで来ます。セールスメールは致し方ないとは思いますが、怪しいキリスト教の名を語った新興宗教のような集会案内は常に届きます。また精神的に病んでいる方でしょうか、教会への酷い中傷や、人生の苦しみが切々と記されているメールも多数です。そのようなメールを受信するたびに、なんと多くの人の心が病んでいるのかと思わされますし、自分が今は正常?でいること自体が奇跡的なのではと思うほどです。

 私は聖書を読む度に、神の集められた人は、その病んでいる人たちなのだと思わされます。あのルカによる福音書14章の大宴会の例えで、最終的に集められた人たちは、精神を病んだ人、ホームレス化した人、病気の人、疎外された人です。初めに招いた人たちは、普通の人と呼ばれる方々で、仕事をする健康があり、財産があり、帰る家がある人たちで、そのような人には、神は必要ないのです。神などいなくても、何も不自由しないからです。

 しかしそうは言っても、その普通の人?にも、実はそうでない時が来るのです。年を取り、自由を失いう時が誰にでも来る。その時になって人は「やっぱり大宴会に行っていればよかった!」と思い直して急いで行ってみたが、既に宴会の席は一杯になって自分の席はなくなってしまい、時遅しです。実際、神は、やっと気づいて杖を突きながらでも、車椅子を漕ぎながらでも、必死に大宴会の席に向かう人たちを受け入れてくださることでしょう。しかし大切なことは、その前に、自分には、今から神の家族名簿に名を記すことが大切であり、帰る本当の家は地上の家ではないことを悟ることなだと思います。

イエス様が、弟子たちを最初に遣わした地ガリラヤは、神殿ではなく、人々の生活する場から出発することを示唆します。生活の場に座す、痛み病む方々と自分とで、大宴会を目指して進む。それが信仰の道なのかもしれません。
                            

「内在の超越として」
(ルカによる福音書24章50〜53節) No.373


 何か、テレビやラジオ、街角でもよく占いというものを見聞きします。この現象が物語ることは、人間というのは、神も仏も信じない現実主義者の様で、実は日常からの超越の導きを求めているということなのでしょう。しかし、ヨハネの福音書5章にあるように「 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」というのも人の現実なのです。

 現実と現実の衝突。どちらが正しいのか至って不明瞭。しかし、だからどちらなのだと私たちは慌てる必要もないのです。ある学者は「私たちは神の存在の証明を急ぐ必要はない。その存在が、自分のための神か、他者のための神かは理解しにくいが、一刻も早く存在を証明せずには落ち着かない連中のように急ぐ必要は少しもない。つまり、何故なら、わたしが証明に成功しようが、失敗しようが、神の存在は揺らがないからだ。」と言われます。

 何か本当にそうだなと思います。うろうろと慌てふためいているのは人間で、その慌てたことで神が居なくなったり、出てきたりするのではないのです。だから、心配をする必要はないということです。超越者に身を任せていけばいいのです。

 先日ラーメン屋さんに仕事の封筒を忘れて来てしまいました。それを取りに行ったのですが、その封筒が私のものであることはどうやったら証明できるのでしようか。そこでは、「これは封筒です」と言う必要はないのです。そんなことは、見ればだれもがわかっているからです。寧ろ、その封筒の中身を出して、この封筒は私のものなのですと説明することが必要です。存在は確定しているのですから、それが何に帰属しているかを説明するのです。これが私達信仰者にとっては、証しということになるのだと思います。私たちが神の存在を証明するのではなく、既に存在して揺るがない神は、自分とどういう係りを持った方であるかを伝えるのです。今日という日に、自分と係わる神という方。それは占いに高じなくとも、信じる者には聖霊の力によって感じられる命そのものだと思うのです。 


「肉も骨も心もある神」
(ルカによる福音書24章36〜49節) No.372


 
先日、ある利用者さんが言われました。「鈴木さん、私は地獄を見ましたよ」とのこと。この地獄とは、その方が見に行った老人ホームの部屋のことです。「こんな狭い壁に囲まれて、鈴木さんあれは地獄よ」。私は「それはそれはなるほど、つまり地獄と感じられたのですね?」と相槌を打ちました。勿論、そこで日々生活する人たちがいて、独居より助けられていると感じている人も多数いるはずです。だから、文字道理の「地獄」ではないはず。しかし、重要なことは、客観的な物差しを作って、判定することではなく、その人が感じたということが大切だと思うのです。

 人というのは、体だけ、心だけ、生きている訳ではないようです。心が自由なら、体はどうでも幸せという訳でもなく、体が健康なら心も健康という訳でもない。上で記した方は、まさに体の居場所によって、心も地獄へ入れられると感じたのでしょう。体と心は切り離しては考えられないのです。

聖書の時代から続く人を惑わす思想は、体と心を分離して強く語り、霊性を大きく取り上げて、体の犠牲を説き、人を思想の奴隷とさせてきました。

 ところが、イエス様の復活は、その考え方に真っ向から向き合うものです。復活のイエス様は、自分は幽霊ではなく、体があり食事も出来ることを示されます。イエス様がそうであったように、神に想像された私たちの姿も、肉体を捨てた霊のような悟りではなく、今の現実の社会で生活する体と心が一つとなった存在として生きる道にあります。そこに神が命を与えられた、生きた充実した人生があると思います。



「なお、先に進もうとする方」
(ルカによる福音書 24章28〜35節) No.371


 先週も色々ありましたが、何とか切り抜けたという仕事状況でした。大変な状況は、勿論自分自身の失敗によって起こってしまう場合が多々あるのですが、謂れのない状況下での苦難も多々あります。しかしそのような体験は、決してマイナスではなく、人生を語る重要な材料と何れなることでしょう。但し、人生を語るだけではもう一つ不十分だと私達キリスト者は感じるのです。つまり、その苦難はどういう意味があるのかという信仰による意味化が重要なのです。

 イエス様の受難の出来事も、弟子たちにとっての語られる出来事だったことでしょう。その落胆した出来事の語りの中に、イエス様が割り込んでくるのです。それは正に私たちの人生に割り込んできた神です。そして、この多少といいますか大いに強引な方は、夕方になってもその歩みを止めようとしないのです。当時は、勿論、街灯などはなく、夜は様々な危険にさらされる時です。その闇夜を突き進むイエス様。しかし、この方は進むだけではなく、弟子たちに呼び止められ、留まる方でもあるのです。時には闇夜を突き進み、時には私たちの願いを聞いて立ち止まり、食事を共にしてくださる方。その歩みは、私たちの語る人生が、止まる時も進む時も伴われる永遠の同伴者を意味しているようです。

 エマオの途上で弟子たちと語り合ったイエス様は、現代の私たちの毎日の旅路に同伴される方です。一人で進んでいるようで助けられ、一人で立ち止まっているようで一人ではない。その方を神として感じることこそ、信仰の道です。 今週もこの道を進みたいと願わされます。


「私たちの解放される日」
(ルカによる福音書 24章13〜27節) No.370


 人というのは、何と気分に左右される生き物なのでしょうか。周りの空気の酸素濃度が変わっているわけでもなく、生活への被害があるわけでもないのに、気分によって人生はバラ色になったり、灰色になったりするのです。

 この聖書の箇所に登場する弟子たちの姿はまさに灰色でした。自分達を解放してくれると期待に期待をしていた指導者がいなくなってしまったのですから、それも当然な事と思います。そのような意味では、私たちが解放される日とは、解放して下さる指導者に出会うことと直結しているとも言えます。灰色に染まってしまった人生を明るい方向へと、導き入れてくださる指導者です。その方が、私たちにとっては、イエス・キリストという方なのです。

 しかし、この指導者を私たちが一旦見つけたからといっても、人生のバラ色が一生継続するという訳ではないのです。寧ろ、見つけては失い、見つけては失いの連続なのです。本日の聖書から言えば、何度もエマオの途上で出会い、何度も聖書からその教えを頂き続けなければならないのです。更に言えば、そのキリストとの出会いの連続とは、まさに週毎の礼拝における神との出会いなのかもしれません。

 以前、瀬底先生が「僕は体は自由ではないが頭は自由だ!」といっていたことがありました。日々の職務で時間の無い中でも、発想の自由は失われないということでしょう。それを言い換えれば、私たちも、世俗社会のルールの中に置かれて、不自由を強いられることは多々ありますが、その中でも信じる心は私たちをそこから解放し、自由にしてくれる力に満ちていると言えます。私たちにまことの解放の時がくるまで、信じる自由をもって過ごしたいと願います。


「必ず、いいことがある」
(ヨハネによる福音書 21章1〜14節) No.369


 
物事が理解しにくい状況になった時の解決策に、ひっくり返して考えるという方法があります。例えば「まったくあの人は酷い、何故なんだ?」と感じ、解決の糸が見えない時、ひっくり返して、自分も他のシーンでは他の人から、また神様からは「なんなんだ?」と思われているのではと考える訳です。その事を私たちに思い出させてくれるのが聖書です。

 この箇所では、復活のイエス様に出会った弟子たちが、今一度、もとの漁師に戻ろうとします。イエス様と受難を歩んで来て、あれ程の奇跡に出会った弟子たちが、目標を失っている姿のように見えます。きっとイエス様は、その弟子を見て「なんなんだろう」と思われたかもしれません。しかし、これが人間の姿なのだと思います。そして、その姿が私たち自身なのです。

 何度教わっても、何度救われても、何度赦されても、失敗を繰り返してしまう私たち。しかしでも、更にもう一回ひっくり返して考えて見ると、だから人には救いが必要なのだとも言えるのではないでしょうか。だからこそ、キリストの受難に出会うと共に、キリストの復活に何度も出会い続けなくてはならないのだと思うのです。

 機能訓練型デイサービスのスポーツデイを初めて、利用者さんに毎回のように説明することがあります。それは「若い頃に努力や苦労したので、老後はゆっくりしたいというのが本音かもしれませんが、そうはいきません」という話。若い頃は、何もしなくても健康が保てたが、年をとると、努力をして運動して健康を保つ必要があるからです。実際、年をとることで、この世の諸行無常を享受して、人生の悟りに到達して完全なものになれば越したことはないのです。しかし神は、人をそのようには造られなかったのです。だからこそ、人生は機械のようにではなく、変化に富み、苦難に満ち、そして有意義であり、面白いのです。その人生を定められた神を信じる道は、必ずいいことがあります。復活の主の祝福を願っております。          


「私たちを守ってください」
(ヨハネの手紙一 5章18〜21節) No.368


 
聖書は「神から生まれたものは罪を犯しません。」といきなり語りますが、そんなハズはないのではと、私たちは直感的に感じと思います。神を信じたからと言って、全ての面で善人になれる訳でもなく、寧ろ、社会で尊敬される人たちよりもズッコケているのがクリスチャンみたいな印象を私達は感じるからです。そして、自分も一生懸命のつもりでも、傍から見れば、そのズッコケの代表みたいな者なのかもしれません。それなのに何故、「罪を犯しません」と聖書は語るのでしょうか。まさにそれは、罪を犯していないのではなく、犯していないことにしてもらっているというのが、より正確な表現かもしれません。つまり、赦されているのです。イエス・キリストの死と復活によって、私たちは何度失敗しても赦され、生かされていくのです。まるで罪を犯さなかったように、キリストの取り成しでそう扱われるのです。

 これは言葉で言うのは簡単ですし、何か実感の湧かないことかもしれません。しかしどうでしょうか、自分が裁判の場に立たされ、検察官から罪の指摘を受けて、いよいよ言い逃れられず死刑の判決を受けそうになっていると真剣に考えたらどうしょうか。そこで、弁護士が出てきて「この人は罪を犯していません。真犯人は、あの人です!」といったら。さて、誰が新犯人かといえば、そこにおられるのはナザレのイエス様。「ハァ?」と思うかもしれませんが、そういうことなのです。伝統的な聖書解釈ではありますが、この事は聖書に明確に記されているのも確かです。

 神は、人を機械の様に造られませんでした。意思と自由を持った、失敗を続ける存在として造られたのです。だから、神は人の弱さも愚かさもご存じで、失望せずに生きるように、信仰によって未来の希望を与えてくれるのです。失敗や罪に縛られずに前を向いて生きられるように、この道が備えられたのです。いやもしかすると、そうしないと人は神を見上げないからなのかもしれません。神を見上げて生きるように私たちは造られました。それはきっと自然なことなのだと思います。
イースターおめでとうございます。


「死に至らない罪もある」
(ヨハネの手紙一 5章16〜17節) No.367



 
介護保険を利用するための要介護認定というものがあります。その判定は、数式のアルゴリズムを使って行われるそうです。アルゴリズムとは、物事を進めていくための明確な手順、特に問題を解くための手順と定義され、最終的に必ず停止しなければならないと定義されるとのことです。

 私たちの人生は、どんな難しい数式を用いても解明することは出来ませんが、人生は最終的にかならず停止するという意味ではアリゴリズムの定義に当てはまっていると思うのです。しかし聖書は、それでもその人生の停止が終わりではないと語ります。だから、その為に、私たちは祈りさないと語るのです。

 この聖書箇所は、死に至る罪とは何か?という事ばかりが注目されやすい箇所ですが、重要なことは、死に至らないように、兄弟姉妹、隣人への祈りが大切という話なのです。そして、同じように大切なことは、人のために祈ってあげていたはずなのに、実は自分が同じ隣人から祈られて、救われていることを知ること。つまり、自分が、他者の祈りで救われているということ知ることです。

 ここで言われる死に至る罪とは、当時の教会内の混乱の現状を示しています。キリスト教会なのに、イエス・キリストの救済を否定してしまう人たちが紛れ込んでいたのです。現代的に言えば、イスラム寺院礼拝に、ISのテロリストが紛れ込んでいるようなものです。本来の教えから外れてしまい、神の救済の手を跳ね除けてしまうのなら、それは無理ですよ!という話です。その人たちの運命は、神にお任せして、私たちは愛する同胞の為に祈りなさいという意味なのです。
祈りは、無力なようですが、力があります。私は、毎日特に心配な方々の名前を挙げて祈っています。不思議と、危機的な方々なのですが、結構、何とか生活していて教会にも繋がっているのです。これはお祈りが聞かれているな〜といつも感じることです。そして、私も、みなさんに毎日祈って頂き、今の働きが続けられていると感じるのです。そのような意味では、祈りは、祈る者の謙虚さを要求しているのかもしれません。祈り祈られてこそ信仰。祈りをもって、この受難週を過ごしたいと思います。


「理由を知ること」

(ヨハネの手紙一 5章13〜15節) No.366


 
何故、聖書があり、何故、説教があるのか。それは、私達が永遠の命を得ていることを悟らせるためであると記されます。つまり、聖書を学ぶとは、善人を養成し、よい公民を作ることが主眼ではないのです。

 私たちは、働きや行動に、常に目が行き、その効果や結果に支配されてしまいがちです。それは、責任を持って生きたいという誠実な願いによるものです。しかし、それでも尚、私たちは、常に原点に立ち戻る必要があるのです。何故?という、その理由に立ち返るのです。私たち信じる者は永遠の命を得ており、その永遠の命を伝えるために、この世から聖別され遣わされている事です。

 この前もお話ししました神学校の卒業式の話ですが、ある教師が戦後のキリスト教会の混乱の中で「教会で地獄を見た」と信徒が苦境を語り、教会を離れて行ったとのことです。教会が単なる、正しい人を作るための組織、社会の常識を教える更生施設、この世の善悪を裁く裁判官となる時、それは正しいようでありながらも、本来的に神の願う道から離れてしまう危うさに満ちていることを私たちは憂慮しなくてはなりません。

 ロマ書12章には「裁きは神に任せなさい」という趣旨の言葉があります。私たちが神の力を信じているのならば、その通りなのです。寧ろ、私たちの目標は、どうやって人を愛し、どうやって共同し、どのように命を伝えるか。これがキリスト教会の現代の使命なのだと感じさせられます。
 


「命がある人と無い人」  
(ヨハネの手紙一 5章6〜12節) No.365


 先週は神学校の卒業礼拝に出席してきました。祝辞や説教、ゲストの挨拶と伺う中で、本当に牧師という仕事は大変な仕事だと改めて思わされました。しかしそれが如何に大変でも、職務を遂行し伝えたいことがあるのです。それはキリストの死と復活が指し示す、本来の人が生きる道についてです。本日の箇所では、その道に生きるとは命を得ることであると伝えます。そしてその命とは、キリストにある悔い改めしかないのです。

 かつての教会は、信じないと地獄に落ちるといったような脅しの説教をして布教していました。また、キリストの正義に生きると勇ましく社会の運動体のようになった時期もありました。しかし、そのいずれも行き過ぎた形として現れ、結果的に教会は傷ついていくのです。寧ろ、ここで大切なのは、行き過ぎた恐怖でも自己中心的な正義感でもない、悔い改めこそが必要だと聖書は語ります。近年のグローバル社会の崩壊が示すことは、社会主義も民主主義も不十分な社会形態であり、正しさの衝突は何も生み出さないことを示しているかのように感じます。今の時代に相応しいことは、正しくありたいとどんなに願っても、正しくありえない人間の罪の告白と悔い改めなのではないでしょうか。この正しくありえない人としての悔い改めからこそ、新しい神の導きを感じるのです。

 ドラマ「花子とアン」で、ブラックバーン校長が「最上のものは過去にあるのではなく将来にあります」という言葉がありました。本当にそうなのです。悔い改めは過去への後悔ではなく、未来に向かうための力なのです。神に未来へと押し出されて生きたいと願います。


「世に打ち勝つコツ」  
(ヨハネの手紙一 5章1〜5節) No.364


 この箇所では「世に打ち勝つとは、イエス様を神の子として信じることであり、信じるとは、神の子どもたちを愛すること。人を愛する心こそが、世に打ち勝つことだ」という結論を語ります。

 最近の日本の動向は、この理念とはまったく逆向きになってしまったことを感じます。人は自らの正しさを主張しますが、その主張自体よりもそれを現す形態に問題があるのです。つまり、その正しさを力によって認めさせる行為は、結果的には力の強いものが正義となり、弱いものが間違いとなってしまうのです。そこでは、正しさはどうでもよくなり、ただ力や、軍備の量こそが正義となるのです。それで本当に良いのかという問いです。

 キリストの生涯は、この力とは真逆の形の勝利を得たと言えます。弟子たちが、いよいよと思い、国を再建するのは何時ですか、イエス様に自分たちの期待を話します。しかし「あんたら何にもわかっていない」というのがイエス様の答えなのです。

 私たちは、キリストの歩みに連なり、キリストの勝利の仕方で勝利するのです。つまり、人を愛するという生き方において、この世俗の世で勝利をするのです。イエス様はある時「わたしがあなたがたを遣わすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。」と言われました。隣人愛に生きるなんて、この世では評価されず、狼の格好の餌食となってしまうようなものだと。しかしそれでも、頭を使いなさい、へびのように賢く、はとのように素直な心を持って、キリストの道を歩みなさいと言うのです。これは信仰の道が決して容易ではないことを示していますが、それでも尚、従いなさいということです。そのように生きることこそが、キリスト的な勝利の仕方だからです。私たち信じる者は、このキリスト的勝利の法則に生きるように、日々召し出されているのです。諦めることなく、神の愛を受けて、その愛を世に示すものでありたいと願います。 


「見に見えない神を愛する方法」  
(ヨハネの手紙一 4章16b〜21節) No.363


 目に見えない神を愛するにはどうすればよいのか?。そのことは、20節に明確に記されています。つまり 「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とあるように、神を愛するとは、すなわち兄弟を愛する事であり、隣人を愛する事と言って間違いないと思うのです。そしてまた、このことが記されねばならない程に、当時のキリスト教会の中では、神を愛していると大声で叫びながらも、序列のようなものが出来て、信仰の兄姉同士の間でも友愛の精神が蔑(ないがしろ)にされていた場面が多々あったのでしょう。

 信仰の世界は、一般から見れば、目に見えず触れることも出来ない対象を信じると言う、非常識的かつ不可解な世界かもしれません。しかし実際の信仰は、兄弟を愛し隣人を愛すると言う極めて現実的な形で現れるのです。

 マタイの22章では、イエス様に律法学者が問いかけた答えとして、聖書の中での一番大切な掟とは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と明確に答えるのです。これが私たちの聖書が第一義的に語ることであり、その事に連なって行くことこそが目で見えない神を愛する事なのです。

 世の中では、本当に酷い出来事が多々起こります。ぶち切れて怒りたくなる時があります。しかしその場面でも、見えない神を愛するように、友と隣人を愛し、信仰の道を示していくための、信仰と愛を神から頂きたいと思わされます。


「私たちへの神の愛」  
(ヨハネの手紙一 4章13〜16a節) No.362


 10節の「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」にキリスト教の神髄が記されています。この言葉に尽きると思うのです。しかしまた逆から言えば、この神髄が、常にキリスト教会の中で蔑(ないがしろ)にされていることも現実なのです。何故、こんな重要な中心的課題が、疎外されてしまうのでしょうか。

 それは、この言葉の持つ美しさが、人間が根本的に持つ罪の姿と対立するからではないでしょうか。私たちは、生まれながらに成長と成果を求められるように教育されているのです。だから、自分が何かをした結果として、対価を受け取るという方法が身についているのです。しかし、神の愛は会社の社長と社員のような関係ではありません。それは正に、純粋な母親と子の関係のようです。何かが出来るから子は愛されるのではなく、自分の子である事実が愛される意味を持っているのです。神の愛は、そのような存在自体を愛する愛なのです。

 だからこそ、その愛を受け、その受けた愛を発信する者こそが、神の内に留まり、信じる道を生きるということなのです。

 そのことは、私達の人間関係に於いても全てそうなのだと感じます。相手が、自分の価値観内にいるから、愛される対象なのではなく、まずその人が神から愛される存在であるという、絶対的な価値観の上に人は生かされるのです。そして、何よりも、自分がそう生かされているのだと思います。この神の目線を感じ、生きた気づきを持って生きたいと思います。


「神を見た者はいません」  
(ヨハネの手紙一 4章7〜12節) No.361


 人は神を見たことがないのに、その見たことのない神を信じることが出来るのです。そして、そのキリスト教伝道とは、この見たこともない方を伝える働きなのです。その方法なは、二つあります。一つは、私たちが自分の善意と愛の報いとして天国に入るのではないこと。あくまでも、神の行為と愛が先行することを知ることです。第二に、その上で、私たちが友愛をもってどう過ごすかという信仰の生き方です。つまり、神の救済と、そこから派遣された隣人愛です。これをなくしては、神を伝えることは出来ないと聖書は語ります。

 この救済の出来事を福音書は、99匹と迷える1匹の羊の出来事で伝えるのです。99匹を見捨てて1匹を捜すなどナンセンスであると言う方もいる事でしょう。しかし、そういう話をしているのではないのです。99匹を見捨てなさいというのではなく、迷っている1匹を捜しに行くから、99匹さんはちょっと待ってい下さいよ!という話だと思うのです。この事は、羊飼いの放牧の状況を思い浮かべれば、当時の人は直ぐにイメージ出来た話。迷い出てしまう羊というのは良くあった出来事。その民衆が良く知っている出来事を題材に、1匹を一生懸命捜す羊飼いの姿に、神の救済の出来事を重ね合わせて伝えたのです。そこに愛があり、自分もその業で救われ、私たちの隣人も、その救いに招かれているという話なのです。先週、受洗した立川姉も、そして今週奏楽をしてくれた服部兄姉と神田姉も、それぞれの信じる歩みを伺う中で、見えない神が確かにこの方々の名を呼ばれ救いに招かれたことを感じさせられました。


「真実を見分ける方法」  
(ヨハネの手紙一 4章1〜6節) No.360
         


 立川素子姉の洗礼式を行なえたことを心から嬉しく思います。以前、姉の人生の歩みは大変なものであったことを伺ったことがありました。それは世界を股にかけた大変さとでも言いましょうか、生まれも育ちも現在も“希望が丘”の私にとっては、想像もできないことです。その彼女を神は呼ばれ、神の民として天の名簿に名を記されたのです。そしてその彼女を呼ばれた神は、彼女の人生の上を共に歩まれる肉となった神であるイエス・キリストなのです。

 神という方は、何か大きな声で叫ぶ人、高らかに自らの霊性を公言する者、聞こえた、見えた、とさわぐ人に現れるのではないのです。そうではなく、消えそうな小さな祈りの中に、頽れそうな人生の上に、素朴な隣人愛の上に、謙虚な仕える姿勢の上に現れてくると思うのです。

 聖書が舞台となる教会では、前者のような指導者が教会を混乱させ、後者のような素朴な信仰者が評価されずにいたようです。そうではないと手紙の著者は言うのです。真実とは、その生活の中にあるのです。キリストの受難の生涯、十字架の死、そして三日目の復活に中にです。だから私たちもキリストと同様に、困難に合い、私たちも日々十字架につけられ、そして毎朝、キリストと共に復活するのです。その神と共に歩む生活が大切なのです。

 昨今のフランスの事件や、イスラム国の人質殺害などに象徴される出来事に私たちは心を痛め憂慮させられるのです。私たちはここで、今一度キリストの道を思い起こす必要があると思うのです。この出来事の中で、キリストならどうされたかということです。つまり、力の誇示と力の抑止力に頼るのではなく、人を愛するとは何を意味し、どのような行動を共にするかという思考の受難を逃れてはならないのです。右か左かという大きな悩みをキリストと共にすることこそが、信仰の道です。このキリストの生涯に預かることが、真理を見分けるカギなのです。真理は天から降ってくるのではなく、真実な信仰の歩みに伴うものなのではないでしょうか。


「私たちの心より大きい神」  
(ヨハネの手紙一 3章19〜24節) No.359
           


 
この聖書の箇所では、神は私達よりも遥かに心の広い方なので心配することはないよ!と語ります。勿論、だから何でもいいですよという話ではありません。神の掟を守り、互いに愛し合いキリストへの信仰にとどまることは神の臨在を経験しますということ。

 聖書は、厳しい戒めや高い倫理観を示すと共に、それ以上の大きな神の愛を示してくださいます。そこで大切なことは、常に神の大きな心が優先していなくてはならないということです。それは、時にはではなく、常になのです。何故ならば、この神の大きな心の優先無くして、キリスト教の教説は成り立たないからです。高い倫理観、正義は尊ばれる事ではありますが、パウロが使徒書で語るように、愛が無ければ全ては無に等しいのです。

 先日、希望ヶ丘教会の長老藤岡兄のお母さん藤岡和姉が召天されました。96歳でした。和姉は、6歳の時に母親と死別をして祖母に育てられ、結婚して3年して一人息子を残して夫が亡くなるという人生の中でも、神への信じる心を持ち続けてこられました。96歳となり東京での一人暮らしも大変になり、昨年の9月に藤岡兄が和さんを自宅に引き取り介護をしていました。その最後の時期に、私自身が和さんのケアマネージャーとしてお仕え出来たことも感謝です。こちらに来られてからは、認知症の進行もあり相当に大変な混乱の日々ではありましたが、家族が彼女を愛し迎え入れていた事は、キリスト者としての信仰があってこその対応であったことを私は感じていました。その中で、亡くなる数日前に、また一緒に同居されている藤岡兄の義理の母の清井姉に「私は本当に幸せなんですよ」と話されていたとのことです。

 大変な人生。老いとの戦い。その中でも、神の大きな心は、信じる者の上に注がれ、平和を与えて下さることの素晴らしいさ。私たちもまた神の大きな愛に生かされて、生涯信じる道を歩みたいと願わされます。
    


「はじめからの教え」  
(ヨハネの手紙一 3章11〜18節)  No.358          


 「あなた方が初めから聞いている教え」という言葉に、聖書の著者の苦悩を感じさせられます。何度も話したのに、初めから言っているのに、何で逸れてしまうのか。互いに愛し合うという最も中心的な教えから、何故、逸れてしまうのか。何とかキリストの教えに引き戻そうと、切々と語る著者。しかしそれは他人事ではなく、私達にも同様の裁きが告げられているのです。信仰が自分を吟味し直す力となるのではなく、非常識をあたかも常識のように肯定させる道具になってしまう。昨今社会を賑わさせている中東の宗教武力勢力のように、神に従うのではなく、神を自分たちの計画に従わせてしまう人の姿。私たちは、今一度この世に仕えるためにこられたキリストを見上げ、自分が何であり、何の使命に召されているのかを知らねばならないのです。

 先週、ボーイスカウトのスキーキャンプのボランティアに行くことが出来ました。私は中級のクラスの担当でしたので、子ども達にスキーを上手く滑るコツを伝えました。そのコツの一つは、自分の板を見ることです。自分は出来ていると思っていても、板は相変わらずハの字になったままの子ども達が多いのです。チラ見でいいので、自分の板の向きを確認して意識的に揃えて行くこと。そのことを伝えると、子ども達の板が見る見ると揃って行きました。

 この自分の板を見るという作業は、信仰に於いては聖書の視点で自分を常にチラ見しながら、向きを修正して行くことです。出来ていると思っていても私達は出来ていないのです。自分を見つめ直す聖書の力。初めから伝えられた、互いに愛し合うと言う教えに留まれているかを確認し続けること。その連続は、私たちの信仰の板を良い方向へと必ず揃えてくれることでしょう。自分を見つめる力を上から頂きたいと願わされます。


「愛と赦しの沈黙」  
(ヨハネによる福音書 8章1〜11節)  No.357          
                                    

              
説教 荒瀬 正彦牧師


 一人の女が姦淫の現場を取り押さえられ、ファリサイ派の人々によって神殿の広場に連れて来られた。ここで赤裸々に描き出されているのは女の罪だけでなく、ファリサイ人の罪、群衆の罪、つまり人間の罪です。イエス様は多くの罪に囲まれてただ黙って地面に何かを書いている。ただ黙って。イエス様の沈黙は愛と赦しの神の沈黙です。人間に向かって反省と悔い改めを求め、愛を求める「神の寛容」です。神の沈黙に人間はかえって居丈高に叫びます。「さあイエスよ、答えてみよ」。

 主イエスは静かに答えた。「あなたがたの中で、罪を犯したことのない者が先ずこの女に石を投げよ」。「真にこの女の罪を裁くことが出来る者は誰であるか」、イエスのこの問いの前に立たされ人々は逃げ出した。残ったのは全く罪のない神の子イエスと、姦淫の罪を犯した女の二人だけだった。イエスは女に言われた。「誰もあなたを罪に定めなかったのか。私もあなたを罪に定めない」。真実に裁くことの出来るお方だけが真実に赦すことがお出来になる。罪の赦しの宣言をなさるこのお方こそ、人の罪を一身に背負い、やがて十字架の上で死に給うたイエス・キリストです。赦しの言葉が語られる度に、十字架の上で肉が裂かれ血が流されるのです。恵みの福音は厳しい神の裁きの上に立っている。罪の「赦し」は英語ではリミッション(remission)と言う。直訳すれば「再び遣わす」。イエス様の罪の赦しは新しく生きるための出発点を与え、希望を与え「もう一度やり直しなさい」というのです。人を生かし、再生させることが「赦し・リミッション」なのです。私たちも赦しと恵みの御言葉を受けた。罪赦された者は他の誰でもない、この私たちです。その私たちに、主は「私もあなたを罪に定めない。さあ行きなさい」と言われる。この御言葉に担われて歩んで行きたい。 


「謙虚に成長したい」  
(コリントの信徒への手紙一 3章1〜9節)  No.356b    

 2015年の主題聖句に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙一3章5節)が選ばれました。この言葉は私たちが常に認識し続けなければない重要な御言葉です。

 私たち人間は、自分の成果を認めて欲しく、良い評価を人から得たいと願っているのです。それがまた、何かを成し遂げる原動力となって人の役に立つ場合も沢山あります。しかしそれは、人の役には立つが、神の役に立てているかは甚だ疑問なのです。神の役に立つ働きをするには、私たちが本当に心を砕いて謙虚にならねばならないからです。

 私たちのあさひ伝道所も、介護事業では地域で安定した評価を得ることが出来るようになりました。また、伝道面でも会員数27名となり、キャンドルサービスも自前のメンバーで作れるよう成長をする事が出来ました。本当に礼拝する場所探し始めた頃を思うと、私たちの小さな働きでも、誇りたい気分になるのは当然かもしれません。しかしパウロはそのような人の心を見透かすように「誇るなら主を誇ろう!」と人の栄光を封印して、神に帰してしまうのです。そして、それこそが信仰の道と言えるのです。

 最近、日本の復活?というテーマを掲げる政党が選挙で圧勝し、実体の無い経済政策が次々と提案され、何かバブルの再来を人々が願っているかのような状況です。この現象を見る時に、日本はつくづく人生の目的もたないで進んでいることを感じてしまいます。目標や信念がないので、働きが自己目的化してしまうのです。物が増えて、裕福になれば幸せ的な路線しか見えない人生。しかし私たちキリストにあるものは、如何なる働きや努力も神に栄光を帰すことを知っているのです。そしてそこにこそ本当の価値があることを知っているのです。似て非なりとはこのことだと思います。どうかこの一年が、与えられた主題聖句をいつも心に留めて、神を仰ぎ見る一年であることを願います。


「イエスは生きておられる」  
(ルカによる福音書 24章13〜27節)  No.356a     



 新年の初めに、私たちが第一に覚えておきたいこと、イエス様は生きて今も働かれているということです。いやこの出来事なくして、キリスト教自体が存在しないのです。聖書は、イエスの復活の体の科学的検証を行うために記された書物ではなく、その意味を追求するために記されました。イエス様の死と復活が私たちの人生にどのような意味を持つのかということを追及するのです。

 イエスの死と復活は、私たちの生涯が、生まれる前から、死んだ後まで続く永遠の一部であり、繋がっていることを意味しています。つまりその繋がっているという事実は、今という時を 今日という日々を、今年という年を、人生の点に意味付けを行うのです。その大きな視点は、イスラエルの解放者としてイエス様が迎えられたように、私たちの人生を解放してくださるのです。それは、仕事から、家族から、友人から、様々な人間関係からの解放です。イエスを信じるということは、全ての責務や全てのしがらみから私たちを解放してくださるのです。そして、その解放によって、解放されているという自由において、私たちは再びイエスの使命を帯びて、今一度、神と人とお仕えするために、この世の中に戻っていくのです。つまり、イエス様が生きておられるとは、私たちの解放と自由を保障するものであり、かつ私たちをこの世界に再派遣するという意味を持つのです。

 さてでは、今年という年の意味は、私たちそれぞれにとって、あさひ教会の宣教にとって何を意味するのでしょうか。一年の豊富を持つことは大切です。目標をもって走ることの大切さを聖書も語ります。しかしそれはまた進む中で見えてくるものであり、再確認と修正をもたらすのです。今は、見えなくても進みゆく中で、自分は何も持っていないかのように思っていたとしても神は大きな使命を託されるのです。

 先日、歌手のスーザン・ボイルさんがデビューした時の番組をユーチューブで見ました。小さな町の出身で、教会の聖歌隊で歌っていた一人のおばさんが、世界を驚かせることになるのです。そのように、神が明日という日に、私たちの人生にどのような計画を持っているかは想像もつかないことなのです。しかし、確かにそこには神のご配剤と使命と愛があります。そのことを信じて今年もみんなで共に、この道を進みたいと願います。


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