カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


御言葉と出来事
御言葉と出来事(2016年)
  
2016.12. 25更新

 
「神の業を見るために」         No.458
(ルカによる福音書1章39〜45節)


    聖書には預言的過去という表現があります。これは、未来のことを預言しているのに、過去に既に起こったことのように預言の言葉を記す方法です。例えば、イザヤ書53章に記されるキリストの到来の預言は「執り成しをしたのは/この人であった」という表現です。

 私は本日のマリアの出来事もそれに似ているなと思いました。マリヤは神から子を授かった親類のエリザベトを訪ねに行きます。するとエリザベトはマリアに向かって「主のおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。言われるのです。しかしマリヤは実現すると信じたというよりも、本当なのかな?と思って見に行ったというのが自然な理解だと思います。マリアは、天使から受胎告知を告げられ、その意味がどういうことなのかと思いめぐらし、その確信を得るためにエリザベトのところに向かったのだと思います。確信とうよりも確認の思いでの行動です。しかしそんな「ん〜どうなのかな?」と尋ねたマリアは「実現すると信じた方」と呼ばれる。つまり既に以前から信じていた者として認められたという出来事。

 このことは、きっと私たちが教会の門を、信仰の門を叩いた日と同じなのです。神様はいるのかな?と教会を訪れたとき、私たちは既に信じたものとされていたのです。難しい言い方をすれば、信仰の世界は、主体的な活動を神によって客体化することだと思います。自分で行動した結果を、神がそう導かれたと信仰告白するようにです。ですからそれ故に、マリアを「信じた者とされた神は、私たちをも信じた者は幸いである!」と言われることでしょう。


「へりくだりのお方、主イエス」     No.457
(フィリピの信徒への手紙2章6〜8節)


              説教 伊能悠貴伝道師


 
主イエスは暗く寂しい中に、突如として来られたお方です。クリスマスの出来事は、悲しみや寂しさを覚えている人のところにやってくる喜びの出来事です。

 フィリピ書はパウロが牢獄の中で書いた手紙です。にも関わらず、喜びに満ち溢れている手紙でもあります。不思議です。なぜこんなにもパウロは喜べたのでしょうか?それは、パウロがしっかりとキリストを見つめていたからに他なりません。キリストというお方は、神の身分でありながら、それに固執することなく、この地上に来られたお方でした。そして僕(しもべ)の姿をとって、人々の中に来られたお方でした。自分を低くして、人に仕えることを誰よりも先に選び取られたお方が、イエス・キリストというお方でした。身分が高いこと、能力があること、権力を持っていることに、こだわらないお方が主イエスです。パウロはそのことをしっかりと見つめていたのです。

 この世界は自分の居場所を確保し、自分の権利を主張しなければ生きられないというような雰囲気が漂う世界です。すると、力の無い者はだんだんと隅っこに追いやられてしまうことも起こります。しかし、全世界をご支配なさる主イエスは、その力を誇示することなく、むしろ僕(しもべ)の姿をとって、悲しむ者の友となられました。私たちもこのお方に従って、自分を低くし、主イエスの道を歩んでいくものでありたいものです。



「天地の滅びる日」           No.456
(ルカによる福音書21章25〜33節)


 アドベントを迎えて、世界の終末とキリストの再来の聖書箇所が度々選ばれています。木が春に向かって葉を出し始めるように、その時を悟らねばならないと記されています。それはまた時には、キリストの到来を知ることにも繋がります。その為に最も必要な心構えは神の前に「謙虚」であることだと思うのです。

 仕事をしている中で最近感じることは「謙虚」であるとは最大の力だと思わされることが度々あります。謙虚であると、周りから沢山のことを学ぶことが出来ます。謙虚である人を嫌いな人はいません。そのような人には、多くの場面で働く機会が与えられます。それは、きっと大多数の人がそうだと思うのではないでしょうか。しかし人はまた、そのことが重々わかっていなも出来ない者なのです。聖書は、イチジクの葉が出て着たら、気づきなさいと言いますが、花が咲いても気づかないのが私たちなのです。悟りなさいといわれても悟れない。謙虚になったと思ったとしたら、すぐさま傲慢に逆戻り。何度も聖書を読み、学んだつもりなのに、同じところに戻ってしまう私たちです。でも、だから、イエス様は言われます。32節「はっきり言っておく、全てのことが起こるまでは、この時代は滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」

 私たちの謙虚も、私たちの悟りも、私たちの知恵も財産も滅びゆくこの世の事柄にしか過ぎません。努力を積み重ねて神の御用にたとうとすることは大切ですが、努力で勝ち得ることの出来ない、天地は滅びても滅びない神の言葉を心に留めることが私たちの一番大切な使命なのだと思います。


「何を待ち望むのか」          No.455
(イザヤ書52章7〜12節、ルカによる福音書1章26〜38節)


              説教 荒瀬正彦牧師


 ルカの記事はマリアの受胎告知の場面です。二つの素晴らしい言葉があります。

 ●天使の語る「神に出来ないことは何一つない」という言葉。
 ●マリアの答える「お言葉どおりこの身に成りますように」という言葉。

「神に出来ないことはない」という言葉は、直訳すれば「神の語られた言葉は必ず実現する」という意味です。それに対して「そのお言葉がこの私の上に真実に実現しますように」という応答なのです。マリアの答えは「私は自分の言葉によって自分の人生を支配することを止めます。自分の願いによって生きることを捨てます」
ということです。マリアは神の言葉を受け入れる決断をしたのです。

 しかし、イエス様を胎に宿すことはどれ程の苦しみと悲しみを伴うことか。が、天使は言うのです。「恵まれた方、おめでとう。神の恵みの決断、神の福音の決断がそこにあるのですよ。だから喜びなさい」。私たちの生活にも、信仰の踏み出しにも先ず神様の決断が先行しています。先ず神様のお言葉があります。イザヤ52章の確信に満ちたイザヤの言葉は、「神の言葉は必ず成る。神に出来ないことは何一つない」という信仰に裏打ちされたものです。それはイスラエルの民の絶望と挫折が、希望と喜びへと変えられていった体験から証しされたものです。

 私たちはこのアドベントに何を待ち望むのか。形ばかりの華やかなものではなく、また、自分の思いや願いの実現ではなく、神の言葉の実現をこそ待ち望むべきではないでしょうか。「あなたのお言葉が、この身に真実となりますように」と祈ることではないでしょうか。主の言葉を求める者には、荒れ野はエデンの園と変わり、荒れ野は神の国と変わります。なぜなら私たちは、そこに神の愛と憐みをはっきりと見るからです。

 今年のアドベント、心の深いところで神様の良き知らせを聞き、「お言葉がこの身に成りますように」と、御言葉の実現を待ち望みたいと思います。



「眠いけど目を覚ましてください!」   No.454
(マタイによる福音書25章 1〜13節)


 花婿を迎えようと待っていた十人の女性の話。みんな準備して待っていたのに、花婿が予定より遅れてしまうというアクシデントによって大変なことになってしまう。慌てて予備の油を買いに行く女性達。必死に走って戻ってくると扉が閉まっている。「開けてください」と何度叫んでも開けてもらえない。彼女たちはどうしようかと慌てふためく。さてこの話しは、何か運動会の前日に寝坊して何度も遅刻する夢を見ている感じです。冷静に考えれば、時間通りに来ない花婿が悪いし、一人一人の油が切れても家の中で待っていればいいだけのような。それなのに慌ててしまって、あたふたとする乙女たち。予備の油を持っていなかったためにこんなことに。

 他の個所にも見られるようなこの終末の預言に共通することは、時期は不明であり、かつ突然起こるということ。だから、明日かもしれないし、1000年後に起こる出来事に準備しておきなさいということです。しかし明日や数年ならわかりますが、1000年後まで実際の油を蓄えることなどお金も場所もありません。つまり、物ではない蓄えをする必要があるということです。それがキリスト待望としての信仰です。信仰は、錆びることも盗まれることも、減ることもないのです。心の中に蓄えておくものだからです。聖書はこの信仰を油に例えて、切らさないようにと語るのです。この信仰による待望は、イザヤ40章31節「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあるように、人に力を与え続けるのです。

 あさひ教会の宣教課題であるフレンドシップあさひは、現在求人など様々な問題を抱えています。本当にどうしようかなという事態なのです。でも、キリストに望みをおく者は、新たなる力を得るのです。古い力ではなく、新しい力です。地上の油は切れかかっはいますが、信仰の油は切れていません。何故なら、この油は自分で用意したものではなく、天から恵みとして下って尽きない油だからです。



「永遠の罰と永遠の命」         No.453
(マタイによる福音書25章31〜46節)


 
この個所は、貧しい人たちにしたことが、神にしたことという逆説ですが、よく考えればイエス様の話は、神という正し方である以上当然の回答なのです。民衆は驚くと共に、本当にそうだなと思ったはずです。ただこの箇所の問題は、そうであるならば、私たちは世界の終りの日に、神の国を受け継ぐ羊と、永遠の火に投げ込まれる山羊に別けられ、裁きの座につかされるということなのです。さてでは、私たちはどちらでしょう?

 いやある人は、今日も困っている人に献金したし、お見舞いにも行った、バザーの奉仕も頑張った、だからせめて羊の隅の方でも入れてもらえるのでは?そんな期待も。でも、どうもそれだけでは羊の方に入れてもらうのは無理なような気がする。きっと当時、このイエス様の話を聞いていた人たちは共感すると共に、自分が羊ではなく山羊であることも、何となく実感したのではないでしょうか。いいこともしたけど、でも本当にそれで天国にいけるのか?。一生懸命やったが、それを遥かに上回る失敗を繰り返してきたのではないか。よ〜く考えると、やはり山羊の方に入ってしまうような感じなのです。

 確かに永遠の裁きの罰も、身から出た錆びとして、まあしょうがないという思いも何処かにある。でもそれはきっと、本当にその罰の厳しさ、苦しさを知らないから、そんな悠長なことを言っているのかもしれない。こんな病気になるなら・・・といった具合に、きっとその時にはそうとう後悔するし困り果てるのではないか。

 しかし、聖書は道徳書ではなく人類救済の教え、福音なのです。だから、イエス様の伝えるもっとも重要な教えは、羊ではなく、山羊の救済なのです。神に裁かれる、当然の報いを受ける、罪人の救済が最終目標。マルコによる福音書では、イエス様は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たと記されます。羊は自分の善行によって神の国に自力で入れる?のです。問題は、人類の内の大多数である地獄行きの山羊なのです。良い事もやっていたが、十分に出来ていない。羊を目指すが、ついつい依然として山羊を抜け出せない。その山羊の身代金として、キリストが十字架で命を献げて私たちは救いを与えたのです。「信じる者は永遠の命を得る」とヨハネによる福音書が説くように。ただ信ぜよ!されば救われん。これこそが、善行さえも追いつけない神の救済の技なのだと信じます。


「神が現れる時」            No.452
(ルカによる福音書17章20〜24節)


 
神の国は、「未だ既に」という理解の上にあることを聖書は語ります。それはキリストの再臨の時に現れる神の国はまだ来ていないが、既に神を信じる私たちの心の内には神の国は来ているという意味です。その上でこの箇所の後半は、キリストの再臨の神の国は、突然予期せぬ時にやってくると語るのです。はげ鷹がどこからともなく、死体の上に舞い降りてくるような突然の出来事。だから、私たちはいつも準備が必要であり、そのことを心に留めて毎日を過ごさなくてはならないのです。

 しかしとはいっても、明日この世の終わりが来て、神の国が来るのなら備えもしやすいのですが、私たちには毎日の生活もあるのです。その生活を整えつつ、神の国の備えもしなくてはならないのです。ではその難しい課題としての、備えはどうやって得られるのでしょうか。それはまさに私たちの只中にある神への信仰しかないのです。信仰によって備えるのです。

 マズローという学者が人間の欲求を5段階に分けて分析した有名な論理があります。このマズローの完成されたように見える5段階目の「自己実現の欲求」の上に、第6段階目の欲求があると晩年考察を加えました。それは、見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し純粋に求め続ける欲求です。私は、この段階を信仰の世界と再解釈したいと思います。そしてこの6段目こそが、人が世俗社会に巻き込まれつつも神の国への心の備えを可能とする信仰の世界なのです。毎日、必要なのか必要でないのかわからないような用事に振り回されている私たちが、神の国への希望の備えを整える唯一の方法がキリストへの信仰の待望なのだと思わされます。       


「責められることがあっても」      No.451
(ヨハネの手紙第一3章18〜24節)


               説教 荒瀬正彦牧師


 
信仰において、それが一生懸命であればあるほど、何かの時に人の心にふと疑いが湧いてくることがあります。「私は本当にキリスト者と言えるのだろうか」。そんな時、本当のキリスト者かどうかの基準はどこに置いているのでしょうか。ヨハネの基準は明快です。18節「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。この基準に照らされたら、ふと疑いが湧いてくるなどという生易しいことでは済みません。私たちは本当に愛に乏しい者だからです。

 このヨハネ第1の手紙は終始「愛」をテーマにしています。あなたに愛がありますか。心の中に湧き上がるような隣人への愛がありますか。20節で「たとえ、心に責められることがあろうとも」と言います。「責める」と訳されていますが、直訳すれば「罪に定める。裁かれている」という言葉です。愛無きゆえに罪に定められる。しかし20節は続けて「神はわたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知です」と言っています。神は私たちの罪と同時に、たとえ僅かではあっても私たちの内にある愛を見て下さる。自分でも気づいていないような愛の心。小さな悔い改めの思い。神様への信頼の心・・こうした小さなものを神様は知っておられる。それがどんなに弱々しく、不完全なものであっても、神様はそれを受け入れ、赦して下さるのです。私たちに救いの希望を与えてくれるのは、神様のこの全てをご存じの御心です。ここに希望の福音があります。神は心の奥底にある一かけらの愛を見出して下さる。それが希望となっているのです。希望を持つ人だけが人を愛し、人と共に生きて行くことが出来ます。絶望した者は人と暮らすことが出来ません。希望の無い者は人を赦すことが出来ないのです。聖書は、希望は信仰を形作ると言います。と同時に、希望は信仰から出るものです。信仰ゆえに私たちは望み得るようになるのです。暗闇の中にあっても希望と信仰を支え導いて呉れるものこそ神様の愛です。たとえ私たち自身の思いで心に責められることがあっても、計り知れない神の憐みと慈しみによって私たちは神の御前に立つことが赦され、また神様が私たちの内に宿って下さいます。この福音に感謝したいと思います。 



「恐れから好意へ」           No.450
(使徒言行録2章43〜47節)



 先主日は、吉祥寺教会の吉岡光人先生をお招きして礼拝メッセージを頂きました。そこにはキリスト教会がどのようにスタートしたかという根源的テーマが話されていました。使徒ペテロの「邪悪な時代から救われなさい」という説教に人々は呼応して、一日で3,000人が仲間に加わったと聖書は記します。それ程多数の人が一気に加わるとは、まさに熱狂的で危険とも思われる集団です。しかしそれが、私たちが巷で見るような集団である限り、いずれは消滅したはずです。何故ならば、熱は必ず覚めるからです。初代教会の集まりもまさに熱狂的な集団でしたが、しかし不思議なことにその集まりは拡大を続け2000年を過ぎでも健在しています。熱は冷めてしまうのに、何故キリスト教会は今尚あり続け宣教を続けているのでしょうか。それはその初代教会のメンバーが、民衆全体から好意を寄せられる集団だったと聖書が記すことによるのです。そして、その好意を寄せられた唯一の理由は、彼らがイエスの行いに追従した以外の理由は見出せないと吉岡先生は話されました。このキリストに、教会の全ての存在理由があるのです。

 私はこの説教を伺い、本当にそうだなと思いました。そして、私たちが集まり礼拝を献げ、宣教に日々遣わされているのは、あのイエス・キリストがそうなされたという以外に理由はないのです。私たちが真面目であるとか、私たちが努力しているとかいった人間力の問題でなく、ただイエス・キリストの生きざまと、その十字架の救済と復活にのみに教会が教会である所以があるのです。わかっているような事でありながら、何か初めて聞いたような新鮮さをもって吉岡先生の聖書の解き明かしを伺うことが出来ました。あさひ教会も、来年は鶴ヶ峰で宣教が10年目となります。ここまで時ある毎に何をすればいいのかと随分と悩んできましたが、キリストに連なるという初心に帰り、今与えられた勤めを果たしていくことだと改めて思わされました。その思いをもって地域宣教にお仕えして行きたいと思います。



「それでも私は言っておきます。」    No.449
(マタイによる福音書5章38〜48節)



 
イエス様の教説は、私たちが普段当然と思っている理屈を覆してしまいます。例えば、本日の個所では、旧約聖書に記されている「目には目を歯には歯を」といった、罪を犯したことへの当然の報いとしてのルールが記されています。それは誰もが悪いことをしたのだから、当然の報いとして納得することでしょう。しかしイエス様は、そのみんなが当然と思っていたことを「しかしわたしは言っておく」と言って覆してしまうのです。「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。奪うものには更に上着も差し出しなさい。誰かに一里いくように強いられたら、自分の意志で一緒に更に二里進みなさい。求めるものには惜しみなく与え、借りたいものに背を向けてはならない。」といった具合です。そんなことをしたら、世の中は成り立たない、善人は悪人の餌食になってしまうと誰もが思ったことでしょう。

 みんなびっくりしたはずです。律法学者やファリサイ人の言う教えとまったく違う教えだからです。でもそれは、新しい教えではなく旧約聖書の十戒が示す「神を愛し隣人を愛する」という基本中の基本だとイエス様は22章で言うのです。つまり、基本に立ち返って考え直しなさいということです。

 以前もお話ししましたが、玉川学園創立者の小原國芳先生は、この聖書箇所から教育の基本を「人生の最も苦しい、いやな、辛い、損な場面を真っ先きに微笑みを以って担当せよ」と語りました。イエス様の言われた言葉と同様に、そんな損な話はないと私たちは感じることでしょう。しかし教育には、そのような高い志と理念が不可欠なのです。そしてその高さこそが、マイナスに傾く人の心をプラスの向きに”ぐりっ”と正すのです。単なる物わかりの良さではなく、高い志を掲げて進むこと。このことは、あさひ教会の運営する介護事業や、英語スクールでも同様のテーマです。私たちは多くの困難に出会いますが、基本は一つ。「神を愛し隣人を愛する」こと。これを忘れないことが、人生を導く大切な力だと思わされます。



「神の国の人たち」           No.448
(マルコによる福音書10章13〜16節)


 イエス様は、走り寄る子ども達に対して「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して、そこに入ることは出来ない。」と言い、子ども達を抱き上げて手を置いて祝福されたと記されています。その、イエス様の子どもたちに向けられた優しい眼差しを感じつつも、ここで言われた「子どもたちのように」とはどのような「ように」なのかと考えさせられます。

 子どもという存在は、常に正しく良い子という訳ではなく、我がままで言うことを聞かない困った存在とう面も多々あるのです。ですから寧(むし)ろ、イエス様がここで評価されたのは、わーっと、神様のもとに走って集まってくる純粋な心なのだと思います。それを見習いなさいと、イエス様は言われます。子どもは不思議な存在で、初めて会った人でも、目を輝かせて自分のことや友達のことを一生懸命話してくる子がいます。例えば「私のお母さんはこうで、友達は何人いて、昨日はこんなところにいって、今度は・・・」と一生懸命自分のことを報告する子どもの姿。イエス様の言われる「子どものように」とはそういうことなのかなと思わされるのです。イエス様のところに走り寄り、自分のことを一生懸命話していく姿勢。この人なら自分のことを聞いてくれて、理解してくれると思う心。とても純粋な信頼関係のようなものです。

 そのような意味では大人も同じかもしれません。私たちも、子どものように我儘で勝手な存在です。腹を立てたり、嘘をついてしまったり。それでも「イエス様、今日こんなことがあって、腹か立って怒っちゃったんです。困っている人がいるのに通り過ぎちゃったんです。ごめんなさい。でも明日は私の誕生日なんです。」と自分のことを申し上げ続けること、そしてそこから逆に、神様からいいヒントや励まし慰めをもらっていくこと。そんな純粋なやり取りが、キリスト教信仰の世界なのかもしれません。       



「安心と心配」              No.447
(ルカによる福音書12章13〜21節)


 ある金持ちの例えとしてイエス様は語られます。ある金持ちは蔵を新築してそこに、沢山の財産を蓄えた。そして、自分に向かって「もう安心、贅沢に暮らしなさい」と言ったというのです。しかしイエス様は、明日自分の命が無くなるやもしれないのに、自分の富を蓄えても、神の前に豊かにならない者は愚かなりというのです。
 これは私たち日本に住む者にとって他人事ではなく、正に当事者のように感じます。勿論、ある人は「明日命が取り去られないから心配なので困っているのです」と言うかもしれません。しかしイエス様はそんなことは分かった上で、”あえて”言われるのです。この敢えてが重要なのではないでしょうか。私たちは様々な教えを受けて感銘を受けても「でも現実は」とつぶやき、その教えを真剣に受け取ることを多くの場合しないのです。確かにそうかもしれない。でも、しかし敢えて言います。覚えておきなさい。明日、あなたの命は取り去られるかもしれない。いつその時が来てもいいように神の前に豊かになりなさい。

 一昔前に、ある著名な歌手が「愚か者よ」という題の歌を歌っていました。その歌詞は「おまえの流した涙を受けようごらん金と銀の器を抱いて、罪と罰の酒を満たして、愚か者が街を走る。」というものでした。人は金銀を得ても、その先どうすればわからず、そのままではいけないと思いながらも、進むべき正しい道を見出せず、結局は愚か者の酒場に逆戻りしてしまうのです。それがまた現実なのです。

 しかしイエス様に連なるものは、愚かながらも進むべき方向を知っているのです。人の前でではなく、神の前で豊かに生きること。行ったり来たり、進んだり戻ったりの連続ではありますが、この方向に向かって生きたいと思います。



「緋色を白に」             No.446
(イザヤ書1章11〜20節)


               説教 荒瀬正彦牧師


 
新約聖書では罪を「的外れ」と表現するが、旧約聖書では「離反、離れ去る」という言葉で罪を表現する。神から離れ神の御心に目を向けないで人間の都合だけに目を向けることが罪なのである。それは神様の愛を裏切ることだからだ。今日与えられたイザヤ書では、冒頭から人間の罪の有り様を告発する。

 イザヤが活動していた時代、南王国ユダ・その都エルサレムを巡る世界情勢は波乱を極めていた。政治的・軍事的状況が変化し、危機が訪れる都度、預言者イザヤは歴代の王様に神様の御心がどこにあるかを語って来たのだが、王たちは神の声に聴こうとはしなかった。それは神に対する高ぶりであった。神の力に依り頼むのではなく、自らの力と判断を優先させた。彼らは神から離れ去ることを、知らずにやっているのではない。知りながらやっている。だから何とか神様を宥め、罪の赦しを得ようとして、神殿に参って牛や羊の犠牲の捧げ物をする。お祭りをして神様を喜ばせようとする。人々は、犠牲の捧げ物について、二つの誤りを犯している。

 一つは、犠牲の捧げ物によって罪が贖われ、罪が赦される、と考えた。

 もう一つは、神様との契約「あなたは神、私たちはあなたの民」という契約を破っておきながら、犠牲を捧げ祭りを捧げた。それは神様の為ではなかった。結局は自分のためだった。罪の赦しを受ける道は、儀式としての犠牲の捧げ物や、形だけの礼拝、人に聞かせる祈りではない。ただひたすらなる悔い改めによるのである。私たちが祈りの時に神様に向かって差し伸べる手は、貧しい者を虐げ、苦しむ者を退けて真っ黒になっていないか。人間の罪という汚れは、洗っても落ちない。罪は、ただ赦しによってのみ取り除かれるものなのだ。神の赦しによってのみ・・。自分の力では救いに至ることが出来ない私たち。自分の努力では罪を洗い清めることが出来ない私たち。そんな私たちのところへ、神様の方から優しく語りかける。「たとえお前たちの罪が真っ赤な緋色のようでも、雪のように白くなることが出来る」。愛の奇跡としか言いようがないこの赦しの出来事が、それからもずっと私たちに注がれている。ついにそれはイエス・キリストの十字架と復活による救いの完成として示されたのだ。


「見上げた信仰」            No.445
(マタイによる福音書15章21〜28節)


  この場面は、異邦人の女性の願いをイエス様が冷たくあしらわれるシーンで、何かイエス様それはないでしょ!と多くの人が感じるところです。イエス様がそうされた理由は、自分はイスラエルの救いの為に遣わされているので、イスラエルより優先して異邦人の女性の願いを聞いている暇はないという訳です。やはり何か冷たく感じます。しかしそれならば、何故イエス様はわざわざティルスとシドンという異邦人の地に宣教に出向くのでしょうか。イスラエル内だけで宣教を続ければいいのに。聖書の他の個所でもそうですが、そう言いながらもイエス様は、異邦人のサマリヤ人の行いを褒め、その信仰を絶賛してイスラエルの民に信仰の見本として提示するのです。

 イエス様の行動を注意深く見てみると、結構そういうシーンがあります。それは、イスラエルの民が堕落してしまった現実からもう一度神の救いへと引き戻したいという願いからです。ユダヤの信仰が形骸化してしまい、信仰しているようでしていないような社会現象が起こっている中、信じるとはいったい何であるかを外側の行いから再認識を迫るのです。

 そのように理解すると、イエス様にとって異邦人は可愛い子犬であり、愛すべき癒しと救いの対象なのだと思います。ただイエス様の第一目的は、異邦人の立派な行いを取り上げて、ユダヤの悔い改めを願っているのです。このイスラエルの救いをイエス様が十字架と復活で示された故に、イエスの時は教会の時へと変わり大いなる異邦人伝道が出発することになるのです。この救いと福音を私たちも受け継ぎ、この鶴ヶ峰の地域に私たちなりのやり方でお伝えするのです。 



「あなたとこの町は主イエスに愛されている」
(使徒言行録18章9〜11節)        No.444


 
先主日は、ブラジルで13年間伝道に仕え今年帰国された石塚先生ご夫妻をお招きして礼拝を行いました。その宣教師としての経験を土台に使徒言行録「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」の御言葉から説教を頂きました。先生がブラジルに招かれて初めの歓迎の言葉は「先生!ここではクリスチャンになる人はみんななっていますので、特にする事はないのでゆっくりしてください」とのこと。衝撃的な言葉を頂いてスタートした宣教は、もうクリスチャンになる人はいないはずなのに、それでも年を経て一人二人と教会の輪に人が加えられ洗礼者が与えられていったというのです。人の目には限界に見えても、まだ神に出会っていない神を求める民は、私たちの町に大勢いるとの宣教経験が語られました。あさひ教会も鶴ヶ峰にて宣教9年目となりますが、今一停滞感があり新しい神の民を積極的に招くことが出来ていません。しかしだからと言って、もうすることがないのでもなく、神の民がいないのでもないのです。見えてないだけなのです。この見えていない世界をどのように見て行くのか。色々な方法、色々な作戦が必要でしょう。しかしそれ以上に大切なのは、神の言葉を信じる信仰によって見て行くことだと思います。

 この信頼なき宣教は虚しいだけです。世俗社会の勝ち負けと何も変わらなくなってしまいます。石塚先生は、教会の伝道は木の年輪のようなものだと言っていました。つまり、年輪の幅が狭い年もあれば広い時もある。その年を重ねて教会は成長するということです。私たちは良い時も、そうで無い時も神の言葉を信じ、神のご加護のもと教会の年輪の一部を積み重ね神にお献けしたいと思います。



「思い悩む人」             No.443
(マタイによる福音書6章25〜34節)


 
「思い悩むな、野の鳥を見よ、野の花を見よ、働くことも紡ぎもしない。しかし神は鳥を養い、野の花を美しく咲かせるではないか。明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はよくしてくれるのだから、あなた方になおさらではないか!」とイエス様は人の悩みを例で解放されるのです。

 勿論、私たちは野の花でもなく、空の鳥でもないから悩んでしまうのですが、敢えてイエス様はそう言い逃れする人間に、「人間は大変です。本当にそうですね」ではなく「信仰の薄い者たちよ」と叱責するのです。悩むのではなく神の国と神の義を第一に求めれば、全てのものは加えて与えられるから大丈夫だと言うのです。

 さて、皆さんはこの言葉を信じますか?。生きていると、色々やらねばならないことが沢山ある。解決しなければならない課題がいっぱい。礼拝に行く時間もなければ、献金する余裕もない。自分の生活で手一杯なんてことありますよね。でもそこで、その些末なことは神に委ねて神を拝しなさいと聖書はいうのです。私は、この言葉を信じられずに、必死で自分の利益と権利を守ろうと奔走して、逆に多くを失い疲れ果てている人を何人も見てきました。本人は必至ですが、傍から見ると、そんなことより礼拝に出て心を静めた方がいいのではと思わされる人が沢山います。この言葉を全面的に、如何なる時も信じ行うこと無理かもしれませんが、時ある毎に思い出し、イエス様の言葉を心に留めることで人生は好転するのです。私たちが、どんなに悩んで奔走しても、人の人生は神の御手内にあることを知らねばなりません。

 人は、よく物事を考えて行動しなければなりません。しかしその認識の上で、信仰とはシンプルである必要もあるのです。「さすれば、全てはそなえられる」。私も思い悩む日々ですが、今一度神に目を向けて、今週を良い日に過ごしたいと思います。 


「信仰が人を救う時」          No.442
(ルカによる福音書17章11〜19節)


 イエス様に癒しの宣言をされて病気が治った十人。しかしその癒しの感謝を戻ってきて告げたのはたった一人。しかもその一人は、ユダヤではなく異教の民として忌み嫌われていたサマリア人。この例えには、イエス様の痛烈なユダヤ人への宗教的批判があります。本来、神の民であるユダヤ民族が神をあがめず、ユダヤ人が馬鹿にしていたサマリア人が本当の信仰者であったという例えだからです。この異教のサマリア人の信仰が、彼を救ったとイエス様は言われました。

 この箇所から思わされるのは、信仰とは何かのお願いとして一時的にお賽銭を上げたり、祈願のお祓いをしてもらったりすることではなく、その出来事に対する願いと共に明確な応答を含めた信仰なのだと思います。そして更に信仰とは継続的なことなのです。その病の癒しのシーンに突然信仰が現れるのではなく、平穏な日々も喜怒哀楽の日々も、継続して私たちの心の内を流れる泉のようなもの。それは普段は何の役にも立たないように思う時もあるかもしれませんが、その心の内の泉は、時ある毎にその力を発揮し私たちを救ってくださるのです。そしてその信仰という視点は、私たちの周りに起こる感謝や喜びは単なる強運やラッキーと言ったものではなく、大いなる神の御配剤と恵みの内にあることを知らしめるのです。つまり信仰は日常における神の臨在を見る力なのです。

 同じ癒しを経験した者でも、それを信仰という視点でとらえるか、運が良かっただけと捉えるかでは大きく生き方が変わります。私たちは、信仰という視点で物事を受け止め見出し、生涯この道にとどまる恵みを受けたいと思います。 



「その人を助けた人です。」       No.441
(ルカによる福音書10章25〜37節)


 この有名なサマリア人の例えに於いて、イエス様が質問「その人の隣人になった人は誰か?」への答えは「その人を助けた人」です。これは当然と言えば当然の答えで、クイズなら外すことのないサービス問題みたいな答えです。そのような誰もが間違えない質問の問答が、聖書に記され長年人類を導くことになったのは何故なのでしょうか。そこには当然のことが履行できない人の言い訳と、如何なる理由も持っても破棄することの出来ない神の命題があるからなのです。誰もが答えを持っていても出来ない事がたくさんあります。そこにイエス様の言葉は突き刺さるのです。「あなたも行って同じようにしなさい!」と。 実際、聖書は私たちが出来ない事を説いてはいないと思うのです。この前お話しをしたタラントの例えのように、その人に委ねられた力があり、その力に沿って責務は発生するからです。寧ろ、問題は出来る力があるのに行わないことだと思います。

 私たちは常に口先だけが先行してしまうものです。人を批評することには早いのですが、自分を吟味し、自分が労する事に関しては、大いに躊躇し、容易に妥協、自分には寛大なのです。通り過ぎた大祭司や、レビ人がどうであるかなどはどうでもいい事なのです。大切なのは、あなたはどうするのか、行ってその答えを実行しなさいということ。

 そのことを実行したサマリア人は、イスラエル王国崩壊後の移民であり、他の宗教儀礼を持ち込んだ異邦人として、ユダヤ人から忌み嫌われていた人たちです。敢えて日本の現実の上に大胆に言い換えれば、大戦中の日本に労働力として強制連行されて来た北朝鮮の人たちに対して、馬鹿にしてヘイトスピーチを繰り返す輩(やから)が、北朝鮮の人に助けられた!ぐらいの突拍子もない話しなのだと思います。「あんな奴らが!私を助けてくれた!」。その出来事は、イスラエル中の噂となり、驚きを持って伝えられた事なのでしょう。隣人になるとは、誰もが間違えない答えでありながら、決して容易に出来ないこと。しかしそれをイエス様は私たちのために第一に行って下さったからこそ、今の信仰があることを知らねばならないと思います。



「出来れば、と言うのか」        No.440
(マルコによる福音書9章14〜29節)


              
説教 荒瀬正彦牧師


 
一人の父親が悪霊に憑りつかれて苦しむ息子の癒しを求めて弟子たちの所に来たのだが、弟子たちはどうしてもこの子供を癒すことが出来なかった。あの戦争の時代、正に悪霊に憑りつかれたような時代、キリスト者たち・教会は、真剣に平和を願い祈ったであろう。しかし教会は何も出来なかった。弟子たちが悪霊を追い出せなかった。教会が平和を造りだせなかった・・。時代を超えて、事柄を超えて、こうした状況はいつも力弱い私たちに付きまとう。

 そんな私たちに対してイエス様は言われる。「何と信仰の無い時代なのか。」叱責ではない。非難ではない。イエス様は不信仰な時代、不信仰な私たちの只中で、私たちをもう一度信仰へと招いておられるのだ。「その子をわたしのところに連れて来なさい」。イエス様はその状況の中に自ら踏み込んで来られる。「その問題を私のところに持ってきなさい。」父親はイエス様に訴える。「お出来になるなら、私共を憐れんでお助け下さい。」イエス様は言われた。「もし出来れば、と言うか。信じる者には何でも出来る。」父親は叫んだ。「信じます。信仰の無い私をお助け下さい。」人間は「信じきれない私」というものを抱えている。この父親は不信仰を抱える自分をそのままイエスの中に投げ込んだ。弟子たちはイエス様に問うた。「なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのか。」イエスは答えられる。「これは祈りによらなければ出来ないのだ。」では弟子たちの祈りは「祈り」ではなかったのか。

 私たちは祈る時、神様の思い・神様の御心を見上げるのではなく、自分の思い・自分の願いだけが目の前にあって、結局は自分を見詰めていることはないであろうか。祈りとは、自分の内側に向いている心を、神様の方に転換する運動である。神様に全部委ね切ってしまう。神に全部委ねるがゆえに、神の応答を迫って行く。それが神様の働きに与ること。祈りは、人間の熱心によるのではなく、「神によらなければ」ということなのだ。



「罪人のわたしを憐れんで下さい。」   No.439
(ルカによる福音書18章9〜14節)  


 自己愛性人格障害というのがあるそうです。これは簡単に説明すると、他者を見下すことで自己の存在を肯定する精神障害です。勿論、このようなことは人間なら誰でも起こりうることなのですが、それが人格障害といわれる程に顕著になると、隣人の迷惑だけではなく自分も生きにくくなってしまうのです。この自己愛性人格障害が引き起こした事件として有名なのが、佐村河内氏とゴーストライター新垣氏の事件だと言われます。その障害を乗り越えるための様々な心理学的分析とアドバイスがなされていますが、私たちは聖書がそのことをどう捉えているかを考えることが必要です。

 本日の個所は、自尊心に満ちた自己愛性人格障害とも言えるユダヤの宗教家と、ローマの手先と民衆から卑下されていた徴税人の話です。ここでイエス様が高く評価したのは、宗教的なパフォーマンスではなく、罪の告白をぼそっと言葉に出して祈りとして告げる徴税人の姿です。14節「言っておくが義とされて家に帰ったのはこの人であって、あのファリサイ派の人ではない。」とイエス様は言われたのです。

 私たちは自分可愛さに、様々な言い訳と、様々な自慢と、様々な迷惑を社会と隣人にかけて日々過ごしているのです。そしてそれを常に改めていかねばなりません。しかしそこで大切なことは、第一に罪人である自己認識なのです。辺境の自己愛を凌駕する方法は、自己認識による罪の告白なのです。罪を知ると、人は赦されていることを知ります。罪を知ると、人は優しくなれます。罪を知ると、人は神を求めるのです。この自己認識の再評価こそが、私たちを神のもとにいざなうとも言えるのです。私たちは信じるものとして、信仰の告白をもって神に義とされてた歩みを今週もしたいと願わされます。



「祈りの家として」           No.438
(ルカによる福音書19章41〜48節) 


 
エルサレムに入場したイエス様は、本来神を称えるための神殿が、人間の商売のための場所になっている現状を目の当たりにして、本当にがっかりされました。この神殿は神への祈りの家ではなかったのか。イエス様のエレサレムへの嘆き、神殿での怒りの姿の背景には、イスラエルへの見捨てることの出来ない愛があるのです。どうしてこんなになっちゃたんだという嘆きがある。  
 また、イスラエルの姿ではないですが、最近、大きな失敗をしてしまった人の話を聞きました。勿論、それでいいという訳ではないですが、失敗に至る経緯に於いて、誰も失敗したくてする人はいない訳で、何故そうなってしまったかと自分自身が一番嘆いているように感じるのです。

 私たちはイエス様の憐みの姿と、誰もが持つであろう人の愚かさを聖書の中と現実の世界に於いて見出す時、今一度そのような私たちが救われて、今あることを再確認する必要があるのだと思います。この人によって弁明してもらい、この人によって赦されて来た自分自身を何度も振り返ることで、次はその感謝を神と人とにお返しする時が来ていると思うのです。

 しかしその神へのお返しの作業は、決して周りの人が「よくやった偉い!」といつも評価してくれることではない事もわきまえ知る必要があります。何故なら、このお返しは神と自分との約束であり、他者の評価や許可を得るための応答ではないからです。ですから、その「お返し」は時として誰にも理解されないかもしれません。自分自身の葬儀の日でさえ、その意味は明らかにはならないかもしれない。それは天の凱旋門をくぐって初めて、その意味が肯定されるようなものです。そしてそれでいいのだと思います。何故なら、それは現実に見える効果の世界ではなく、手に掴んで取ることの出来ない祈りの世界にこそ答えがあるからです。信仰によって見える世界で見えないものを見あげ祈っていくこと。それは私たち自身も祈りの家であるからなのです。



「小さなことに忠実でありたい」     No.437
(マタイによる福音書25章14〜30節)


 
この箇所は、成長や成功が信仰の結実と考える人たちが「ビジネスの成功法則が聖書に記されている!」と読み込みたがる箇所です。しかしこれはあくまでも例えで、金儲けの話しではありません。例えば、イエス様がマルコの7章で、犬を異邦人を例えた女性の信仰を褒めたからと言って、異邦人イコール机の下の犬であるという意味ではないようにです。世俗社会でさえそうならば、信仰の世界はこうあるべきという教説です。
さて聖書が、事業運営のための多額の資金(タラント)を与えた僕に求めることは、小事に忠実であることでした。そしてそれは信仰の世界に言い換えると、小さなことに忠実であるように、自分自身に与えられている能力、健康、力を神と隣人のために用いなさいという促しです。

 ではどう神と人とにお仕えするかというと、マタイの10章8節に「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」というイエス様の言葉があります。私たちが、何かをする原点はここにあると思います。私たちの全ては、自分の努力ではなく神から「ただでもらったもの」なのです。だから、それを無償でお返しするのです。あるカトリックの司祭が「私たちは、自分の命を、自分のものと思い込んでいないだろうか。命は、神が私に授けてくれたもの。人生の前半は、色々なものを神から頂きながら頂上へと向かうようなもの。しかし、人生の後半は、今度は頂いたものを与えながら山から下りる。そして最後に人は、最も大切な命を神にお返しする。」と語りました。正にただで受けたから、ただで返して行く人生。私も振り返って見ると、多く許され沢山のものを与えられてきました。だから、この恵みをただでお返ししなくてはと最近特に思わされています。それが、私の与えられたタラントの活用であり、ただで神に頂いた救いのお返しの人生なのだと思います。



「地の塩、世の光として」        No.436
(マタイによる福音書5章13〜16節)


 
この聖書箇所は、私が神学生として初めて奨励をした箇所です。その時には、有名なオットー・ブルーダーの小説『嵐の中の教会 』を引用してお話をしました。第二次大戦も末期、ナチズムの先棒をかつぐ結果となった「ドイツ的キリスト者」運動と、抵抗運動を行う「告白教会」の戦いは水面下で激しさを増していきます。教会はナチスに監視され、政府に批判的な牧師は投獄を余儀なくされていきます。そのような場面を背景に、嵐の中の教会は書かれました。マタイの福音書5章14節「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 」と記し、教会が教会であろうとする姿を如実に記載するのです。ドイツの田舎のリンデンコップ村に赴任した若いグルント牧師は、迫害迫る中で「教会が眠ってしまってなすべき証を口に出さなかったら教会は、迫害にあうこともなく平穏無事に過ごせるだろうけれども、それによって主を裏切ることになるのだ。一方、教会が目を覚ましてみ言葉を証しするなら、教会の上には嵐が襲いかかり、教会は十字架と苦難を負わなければならない。しかし主は近いのだ。」と語り、投獄を余儀なくされます。この出来事は、現在の日本の教会に当てはめて考えるにはありまにも状況が違います。私たちがキリスト者として感じるような迫害とは、比べることの出来ない苦難だからです。しかしそれでも「教会が眠ってしまって、なすべき証しを口に出さなかったら教会は、迫害にあうこともなく平穏無事に過ごせるだろ」という言葉は、私たちに無事に過ごすために眠ってしまっているのではないかという問いを残すのです。

 これは私自身にも、まったく言えるような心当たりがします。正義を行うことと寛容であること。何をどうするのが一番相応しいか、判断が出来ない状況。しかしだからこそ、私たちは聖書に聞き続ける必要があるのです。勿論、生活の全般を変えることなど到底できませんが、一部を変えること出来るはずです。そして、その一部を変えることこそが大切なのです。その一部とは、まさに私たちの生活の中心に神の言葉を置くこと。つまり、礼拝を守ることです。この礼拝により、世俗の力に流されてしまう私たちの生活は、神側に引き戻されるのです。この引き戻しこそが、私たち唯一キリスト者であり続ける道なのです。世俗で生活しつつ埋没しない、地の塩、世の光でありたいと願わされます。



「無くてはならぬもの」         No.435
(ルカによる福音書10章38〜42節)


              
説教 荒瀬正彦牧師


 
十字架の時が近づいたことを悟られたイエス様は弟子たちと共にエルサレムに向けて旅をされた。ベタニア村に来られたイエス様はマルタとマリアの家に招かれた。マルタは精一杯のもてなしで感謝と親しみの気持ちを表そうとした。あれもこれもと一生懸命働いていた。ところが妹のマリアは姉の忙しさをよそに客間でイエス様がお話されているのを、座ってじっと聴き入っている。マルタは腹が立って「マリア、少しは手伝ったらどうなの」と文句を言った。そしてイエス様に訴える。「イエス様、妹のマリアは私だけにもてなしをさせていますが、先生は何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるように仰って下さい」。するとイエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われた。

 マルタの失敗は、奉仕と接待であった筈のものが、だんだん押し付けになって来た。自己中心的な好意の押し付けになってきた。マルタは「自分が一番よくこの場の状況を把握している、だから自分のやり方が一番良いのだ」と思っていた。いわば思い上がっていた。思い上がった時に、闇が彼女の目を見えなくした。闇に目が奪われた時、思い煩いが起こり心を取り乱す。イエス様は、マルタと比較してマリアの方が良いと言われるのではない。どうしても言っておかなければならないことがあった。「マルタよ、必要なことはただ一つだけです」。必要なこと、無くてはならぬもの――「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、すべてこれらのものは添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)。無くてはならぬもの――それは主イエスを愛して、その生命の御言葉に聞き従うこと。「イエス・キリストに集中する」ということ。マルタはもてなしを以て仕えるという最高に意味ある仕事をしていたが、彼女はそのことに集中しなかった。その心はイエスとマリアと台所の間を行き来していた。マルタはキリストに集中することから目を離したのだ。そこで不満が湧き上がり人を恨む心が出て来た。私たちは、無くても良い多くのものが、無くてはならぬ唯一のことを取り去ろうとすることの多い現代社会において、生活の中心にしっかりと神中心の生活を打ち建てる必要があるのではないか。  



「近寄って来るイエス様」        No.434
(マタイによる福音書26章16〜20節)


 
聖書のこの箇所では、ガリラヤでイエス様と再開した弟子たちがまだその復活を疑っていたと記しています。しかしその未だ、イエス様を信用しきれない弟子達に、主は近づいてきて、その神から賜った権能をもって弟子たちを宣教へと送り出すのです。それ故に、私たちが宣教に遣わされるとは、例えば営業マンが研修を受け仕事をスタートしたが成果なく帰って来ても、励まし修正して、最後まで面倒をみようとする会社のようなものです。朝から働いている人にも、終わる直前から働き成果なき人にも約束の同じ賃金を払い、そしてまた送り出す。

 実際私たちは、人生を成功し成果を上げることが正しい生き方として、教育されて来ました。だから、成果をあげられた人が成功者であり、いい人生で、あげられなかった人は失敗者であり、ダメな人生という構図です。でもよく考えると、明確な実績を上げられなかったとしても、本当に成果がないのでしょうか。何も成果なく帰ってきたのでは、その努力は無意味なのでしょうか。いやそこには、「失敗」という成果が積まれるのです。そして、この失敗という成果は、成功とう成果より、遥かに人を謙虚にさせ、恵みを感じ、赦しを実感し、人を成長させるのです。

 先週は、フレンドシップあさひ開設9年目で初めての横浜市の実地指導というのがありました。税務署でいう訪問の税務調査みたいなもの。そこで、瑕疵(カシ)が見つかれば行政指導を受ける可能性がある一大事です。本当に緊張して、この二か月はその対応で精根尽きました。しかし何とかこれを無事乗り越えられて、気分としては9年目のヨベルの年になったような気がします。神から、今一度ここでこの働きを続けなさいという信任を頂いた感じがしました。

 その出来事の準備に於いて、クリスチャンで主任の武藤さんが、毎晩、記録を一枚一枚めくって、記載の間違いがないかとチェックを何時間も続けている姿にキリストを見ました。きっとイエス様は、ああいう風に私たちの罪を一枚一枚めくって修正し責められないように執り成しをしてくだっているように感じたのです。疑う不完全な弟子を愛し、成功者ではなく失敗者として宣教を遣わされたイエス様。その願いは、神への信仰のもとにしかない人の平安なのだと思います。



「生ける者の神」            No.433
(ルカによる福音書20章27〜40節)


              
説教 荒瀬正彦牧師


 
イエス様は言われた。「神は生きている者の神である。全ての人は神によって生きている」。「来たるべき世・新しい世」はこの世の継続でもなければ延長でもない。復活は、神の子として霊の体に甦るのであり復活した者は直接神につながり、天使たちのように神を賛美し、神に仕える生活に入る。死とは新しい命に生きることである。地上の生活からは取り去られたとしても、神にあっては新しい命に生きている。神にあっては彼らは死んだ者ではない、生きている者なのだ。「すべての人は神によって生きている」のである。

 復活抜きのキリスト教はない。復活がイエスだけのものであり、私たちのものではないとすれば、キリスト教には救いも、慰めも、力も、希望も無い。

 復活を信じる信仰は、神様との和解が信仰の核心となっている。人間を支配している不安や絶望、死の恐怖、死後の不安は「自分が、自分の主人であろう」とするところから来る。だがその時は神様を主人としていない時なのだ。神様との和解は、自分が自分の主人であることを止めた時、キリスト・イエスの執り成しによって和解させられている。私たちが和解するのではなく、主が和解させて下さる。すべての福音の真理は、復活の主が私たちの内に生きて下さっているということに他ならない。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが我が内に生きておられるのである。」

 復活の命はこの世の論理では推し量ることが出来ない。しかし、主イエスを信じる者は復活の命について不安を抱く必要はない。なぜなら命を与えて下さるのは他ならぬ神様なのだ。だから神様に委ねることが肝要なのだ。「先ず、神の国と神の義を求めよ」とは、そういうことであろう。


「わたしに従いなさい」         No.432
(ヨハネによる福音書21章15〜22節)


           
特別礼拝説教 富安 敦牧師


 先主日は、特別礼拝として瀬谷キリスト教会の富安先生をお招きして礼拝説教を頂きました。思い切って大胆に要約しますと、ペテロは、イエス様に「私だけはどんなことがあってもあなたに従います」と言っていましたが、イエスを裏切り十字架のもとから遁走してしまうのです。しかし復活のイエス様は、そのペテロに三度も「私に従うか」と語りかけます。裏切ってしまったペテロには、嘗(かつ)てのように勢いよくハイと答える面目はありません。しかし、イエス様はそれでも「私に従いなさい」と言い続けられたのです。そして、その言葉は今も、イエス様の弟子である私たちに語り掛けられているのです。」といった内容でした。

 私はこの説教を伺いつつ、富安先生の話す姿を見ていて、私の属するカンバーランド長老キリスト教会とチャーチオブゴットという教派とどこが違うのか?と考えました。少なくとも、その違いが判らない感じでした。キリストを主とする説教。何も違わず、共に賛美をし、共に祈り、祝福を伝え合う。確かに厳密に言えば、教理や神学に於いて色々な違いはあることでしょう。しかし共に礼拝を守るものとして、キリストを見上げるキリスト者として明らかに同じなのです。そして、それがとても素晴らしく感じました。同じキリスト者であり、主にある家族、兄弟姉妹。

 瀬谷キリスト教会との交流は、デイサービスの利用者さんの出会いから始まりました。その出会いから、現在は瀬谷キリスト教会の信徒の方二名が、フレンドシップあさひにて働いて下さっています。そしてその二人の働きは、素晴らしい!。また時ある毎に、あさひ教会や介護事業の課題を覚えて祈って頂いています。この神の下さったギフトは本当に大きい。そして神の御業を感じさせられる、素晴らしい教会間の連帯なのだと思わされています。



「死んでいたのに生き返った」      No.431
(ルカによる福音書15章11〜32節)


 この前、NHKの「不寛容時代」というテーマの番組を見ていました。日本がだんだんと寛容さを失い、小さなことでクレームをつけて、自分と違うというだけで批判するようなギスギスした人間関係が近年広がっているというのです。私はこの話を聞いて、本当にそうだなと思いました。人は、十人十色と言われるように様々な価値観があるのに、自分の正しさばかりを主張して他者のあり方を尊重することをしない自己中心。「あの人は我儘(わがまま)だ!」とよく言う人に限って、何故かその人がかなりの我儘な状況。まさに不寛容時代。しかしここまで話して思うことは、他人事のように言っている私自身が相当の不寛容であり、自己中心的に生きて来てしまったと自戒させられます。何でもドカンドカンと批判的な意見を言い、あれはダメだ、これはダメだと主張してきた私自身が一番改めなくてはならないと思います。しかし、それは道徳的に改めるというのではなく、大切なことはどういう風に改めるかということ。私の改めるべき起源は、やはり赦しなのです。沢山の失敗をして来ました。甘い考えが、自分を窮地に陥らせたことも度々。大きな病気と交通事故を繰り返してきました。それでも、何故かその多くを赦されて、今があるのです。逆に言えば、その赦しなくして今の生活も命もまったくありえないのです。それは、これからも同様です。神に赦され、人に赦されてた来た経験こそが、寛容であらねばと思わされる最大の力なのです。あの放蕩の限りを尽くした後で、父のもとに帰って来た息子を遠くから見つけて抱きしめる神の愛。それを苦々しく批判してしまう兄を愛おしく修正する神の愛。どの出来事を取っても、そこには神の赦しという寛容さが溢れています。この神の寛容が、死んでいた私たちを生き返らせてくださるのだと思います。信じるものは救われる。それがまさにここにあると思います。


「まだ席は残っております。」      No.430
(ルカによる福音書14章15〜24節)


 天国のたとえをイエス様は話されます。ここで注意することは、そこがどんな場所かというよりも、どんな人が招かれ、そして誰がその席に座ることになったかということです。最初に招待されていた人達は、畑を買った人、牛を二頭ずつ五組買った人、結婚した人などです。大宴会の準備が出来たので、この方々を呼びに行くとことごとくキャンセルされてしまうのです。勿論、その断る理由は事情があってのことで、一つ一つは決しておかしな言い訳ではありません。しかし問題は、招かれて行きますよ!という意思を示していたのに、直前でキャンセルしたことです。用事があればキャンセルするつもりなら、はじめから断ればいいのです。これでは宴会の主人が怒るのももっともです。何人来る予定だからこれくらい食事と飲み物を用意して、椅子の数は何脚で、退屈しないようにゲームとか出し物も考えてと、あれやこれやと準備していたのに。だから「え〜い腹が立った、もうそこいらへんにいる人たち、特に宴会には普段呼ばれないような人たちを誰でもいいから集めて来て、宴会の席をいっぱいにしなさい!」と僕に命じるのです。その会場は、当初はある程度の地位の人たちを呼んでいたので、いろいろ気を使わなくてはならなかったかもしれませんが、今や誰でもよくなったのでいっぱいまで人を呼べる状況になったのです。席だって、足りなければ倉庫からもってくればいい。順番何てどうでもいい、席がなければ床に座ればいい。天国が無限に広がる席であるのは、入る人を地位など選ばずに、参加したい人なら誰でも入れるからなのでしょう。いや更に参加したくない人でも無理にでも連れてきてしまう程の度量の広い大宴会なのです。まだまだ席は余っている。しかしまだまだ余っているのに、当初招かれた人はその席に着くことはないのです。 大切なことは、人生の優先順位が、自己実現ではなく、天国への凱旋という最高の栄光でなくてはならないということです。畑も、牛も、結婚も大切です。しかし世俗の大切なものは、明日は炉に投げ入れられる一輪の花に過ぎない。そうではなくもっと素晴らしいもっと大切なものに目を注いでいく。これこそが、信仰の世界なのです。


「聞く、従う、伝える」         No.429
(ローマの信徒への手紙10章1〜17節)


              
説教 荒瀬正彦牧師



 どんなに熱心な信仰であっても、正しい認識・正しい信仰の知識が無いと間違えを犯してしまう。はっきりと福音に根差した信仰でないと、その熱心さはキリストを迫害するものとなってしまう。イエス様を直接に十字架につけたのは、その当時、神様に最も熱心な人々であった。信仰は、どれだけ熱心であるか、と言うだけでは駄目なのだ。

 そこでパウロは言う。「神の言葉は、天の彼方でもなく、地の底にあるのでもない。あなたの口、あなたの心にある。」。信じるとは、イエス様を主と呼ぶこと。呼び掛けるとは祈ること。そして「神の言葉」とはイエス様のこと。イエス様を呼ぶ・祈ることに於いて私たちの口と心は一つにされる。そこに信仰がある。信じるとは「聞いて、従うこと」。信じるとは、迷いに揺れ動きつつも従って行くこと。しかし現実の私たちは、疑い、迷い、背き、罪を重ねる。にも拘わらず、そんな私たちを愛し抜き、信じ抜き、十字架の血潮で贖って下さった方がいる。イエス・キリストです。信仰とは、キリストが私たちを信じて下さった・・・そのことを私たちが信じ、その方を信じることである。「福音=良き知らせ」とは「裏切るものを信じ抜いて下さった十字架の愛がここにある」という知らせに他ならない。これを伝えて初めて御言葉は福音となる。

「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」。口で言い表すことが大切なのだ。聞いて出会い、出会って従う、そしてこの良き知らせを伝えていく。これが私たちの信仰であろう。



「鶴ヶ峰で神の国を見る」        No.428
(ヨハネによる福音書 3章 1〜15節)


 「神の霊は風のように思いのままに吹く」とあります。それは、神の御心は私たちの計画や予定に拘束されず、風のように自由に進められて行くことが示されます。それは人が、信仰の道に入ることと同様に思います。私たちが、どんなに信仰を持って生きることの大切さを伝えても、人は信仰には入らないのです。しかしまた、まったく伝えていないようでも信仰の告白は起こってくるのです。

 勿論、聖霊が勝手にやってくれるならといい、信仰の道に入る努力を怠ってよいという話しではありません。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ないとイエス様は言われました。新しく生まれるとは、水と霊によって生まれ変わること。つまり信仰を告白して、洗礼を受けること。肉で生きる者は、肉の寿命があり、肉は朽ち去る。霊によって生きる者には、霊による命があり、これは朽ちるものではなく永遠の命に至るのです。 モーセが荒野でイスラエルの民の赦しの印として青銅の蛇を掲げたように、私たちは十字架のキリストを見上げて罪の赦しを得なくてはならないのです。 キリスト教信仰の世界は、人間にとっては高い倫理性を持ち模範的な生き方を促すと共に、常識という秤では理解できない霊性のみがその道を開くとも言えます。この二つを受け止め進めることが、宣教なのだと思います。ユダヤの教師であるニコデモが「どしてそんなことが」と戸惑いつつも従って進んだように、私たちも戸惑いつつも信じて進むものでありたいと思います。


「決心の言葉として」          No.427
(ヨハネによる福音書14章15〜31節)


 先日、我が家にネズミらしきモノがいるのが発見されました。お米の袋を美味しくかじった跡がありました。どうやら、ガスレンジの配線が通っている壁の穴から出入りしていたようです。その周りに糞らしいものも散乱していたのできっとそうでしょう。まあ致し方ないので、その穴をガムテープでふさぎ通路を封鎖しました。翌日、どうなったかと思いその穴を見てみると、何か少しこちら側に膨らんでいる感じがします。もしかすると、ネズミが壁の奥からテープを押し返して出ようと試みたのかもしれません。必死の押し返す力。これを見たとき、思い起こしたのは、病気の進行を押し返す力という言葉です。人は年と共に、記憶力や健康状態の低下を感じて行きます。それを何とか押し戻す行為がが、健康維持に大切といわれるのです。そして聖書から言えば、更に重要なことは記憶力や健康を維持する力以上に、霊性を維持する力が大切なのです。人生が頽(くずお)れて行くのを引き戻す力。私たちは、自分という世界にいる限り、衰えて行き、目標を失い、いずれは虚しく朽ちていくしかない動物なのです。その動物に、神は命の霊を吹き入れ生きた者とされたのです。つまり、この霊性に生きることこそが、虚しく朽ちていく人生を生きた世界へ押し戻す力なのです。人が、健康を取り戻し、社会的にも成功したとしても、この霊性に生きられない時、その健康も、成功も、より虚しい喪失へと変わってしまうことでしょう。ペンテコステにて記念される聖霊の降臨は、人が人として生きて死ぬために掛け替えのない意味を与えてくれるのです。いや更に言えば、その人生の意味を私たちに示してくれるのが神の聖霊そのものなのだと思います。


「どうか躓きませんように!」      No.426
(ヨハネによる福音書15章26〜16章4節)


 キリスト教の教説で一番重要なのは、罪の赦しだと思います。何故なら、人生の最大の不幸は、自分の価値観に縛られて、人が人を赦せず、その赦せないという感情が毒となって自分で自分の心を病ましてしまうことにあります。赦せない心に縛られて、結局、人生を失ってしまうのです。

 赦す心は赦された体験によってしか、本質的に出てこないと思うのです。聖書は、高い倫理を掲げ、罪を犯さないようにと語りますが、また「たとえ罪を犯しても弁護者がいると」語るのです。罪は犯してはならない、しかし犯してしまっても終わりではない。その時に、弁護者が現れ罪を執り成してくださるのです。聖霊様は「神様、確かにこの人は罪を犯しました。考え方が甘かった。このくらいはいいという甘い心があった。でもどうかもうその罪は重々わかって苦しんできましたから、何とか赦して欲しい。キリストの十字架に免じで赦して下さい。そしてもう罪を犯さないように」と弁護してくれるのだと思います。

 ただ問題は、大きな罪を犯しても、人はその時は反省しますが、暫(しばら)く経つと、また同じことを繰り返し犯してしまう愚かな性質を持っているということなのです。だから、一回赦されたからOKというのではなく、日々赦されなくてはならないのです。この日々の赦しを頂くことこそが、信仰の歩みなのです。そして、この赦しを頂けるからこそ「よし明日も何とか頑張ろう!」と思えるのです。罪に沈み、人を赦せず、もんもんと生きるのか。そこから赦され解放され、日々再出発させて頂けるのか。これは大きな違いです。私は、キリストへの信仰により、日々赦しを頂いて人生を毎日更新して行きたいと願っています。       
    


「世に負けない信仰をもって」      No.425
(ヨハネによる福音書16章25〜33節)


 
イエス様は「これらのことを話したのは、私によって平和を得るため。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われました。本当に多くの人が、この言葉に励まされてきたことでしょう。しかしまた、この世に勝つとはどんな意味でしょうか。平和(ピース)の語源は、ラテン語のパックスから来ています。この言葉を使ったもので、ローマの平和と訳される「パックス・ロマーナ」という言葉がありますが、この平和は聖書の語るものとは違います。ローマの平和は、力によって実現されようとしましたが、私たちの平和はキリストの愛による実現なのです。力ではなく愛です。「パックス・キリストゥ」です。信仰者の勝利とは、この愛による勝利でなくてはならないのです。
  
 順風で順調な人生は、努力や力を強調し他者を鼓舞することでしょうし、それが人を勇気づけることも多々あることも確かです。しかしそれはローマの平和であり、ローマの勝利でしかないのです。そこには、キリストが人間の世界で見た、本当に人にとって必要な力ではないのです。前者の力で生きる限り、人の死は敗北であり、健康長寿だけが成功となることでしょう。では、本当にそうなのかという話なのです。キリスト教信仰に於いては、生きることも死ぬことも勝利なのです。人がその人生を終えて、天へ帰るキリストの凱旋門があると思うのです。キリスト者の勝利は、愛によって生かされることであり、キリストの復活に預かる天への凱旋なのです。そこにこそ、この世に負けない信仰の世界があるのです。このキリストの世界に招かれている私やみなさんは、この世から選ばれた本当の幸せ者だと心から思わされています。
 


「神の荷物は何故軽い!」        No.424
(マタイによる福音書11章25〜30節)


 
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と聖書を通して語られます。しかし、聖書をよく読むと、その重荷が何もなくなるという意味ではなく、別のものを負うことを意味しています。それは、イエスの軛(くびき)、イエスの荷を負うことなのです。ではどういう軛なのかというと、キリストは、わたしに学びなさいといわれます。つまり、わたしに学ぶとは、柔和であり、謙遜であること、神の律法を形だけ順守するのではなく、寧(むし)ろ意味を追求するということなのです。キリストの重荷は、何故、軽いのか。それは、そこに意味があるからです。無意味の連続は、人を苦しめ、苦悩させます。しかし、意味ある世界は、どんなに大変でもそこに生きがいと、喜びと力が生まれるからです。

 例えば、意味もなく、目の前の泥の山を全て隣の空き地に移しなさいと命令されたとします。その作業は本当に空しく疲れることでしょう。しかし同じ作業をするとしても、これは災害復興の大切な作業としての意味付けをしたらどうでしょうか。先程までの重たい疲れは、逆に清々しいものになるのです。 キリストは、進むべき道を知らない私たちに道を示し、生きる意味を知らない私たちのその人生の価値を示してくださいました。

 キリストの伝道は、その十字架の意味を伝えることであり、それによって人が再び命を取り戻すことに仕える働きです。そして、それが私たちに委ねられているのです。キリストの軛は負いやすく、イエス様の荷は軽いのです。軽やかなステップを踏むがごとく宣教にお仕えしたいと願わされます。



「負けない信心として」         No.423
(ヨハネの手紙一 5章1〜5節)


 九州の熊本を中心とした地震災害は大変なことで、私たちも他人事ではなく心痛める出来事です。このような災害が起こる度に、神の不在が叫ばれるのも、困難な状況下に置かれた方々の当然の反応と言えるでしょう。しかし災害と言うか悲劇は、今初めて世界で起こったことではなく、2000年のキリスト教の歴史の中で度々起こってきたことも確かなことです。大きな二回の世界戦争、地震や病気の連続。その中でも、キリスト教信仰は、壊滅するどころか今尚生き続けているのです。それは、キリストの勝利が、受難と十字架によって基礎づけられているからと言えます。その火の道を通り抜けたキリストゆえに、初めて復活と救いがあらわれるのです。

 4節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」とあります。その打ち勝つ信仰の起源を心深く止めることこそが、揺るぎない土台の上に信仰を立てるということになるのだと思います。また、エペソの2:19には「あなたがたはもはや、……神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である」という言葉。キリスト自身が、家の土台であり、かなめ石なのです。

 家の土台にする石を礎石といいます。この礎石は、単に固いというだけではありません。どんな良質の柱であっても、地面に直接据えてしまうと、そこから湿気が上がって来てあっという間に腐食してしまうのです。それを防ぐために、直接地面に置かないで、土と柱の間に礎石を入れるのです。キリストは、この礎石のようであると聖書は語ります。私たちがどんなに強く立とうとしても、世俗から脅かされる様々な罪や問題から立ち上る湿気によって、疲弊してしまうのです。その湿気から私たちを守る礎石、土台が必要なのです。この石の上に立つとは、キリストを信じることそのものです。様々な出来事を「何故」ではなく「何を」という前進に変えていく力。これこそが、世俗に負けない信仰なのだと思います。



「湖畔の料理人」            No.422
(ヨハネによる福音書21章1〜14節)

              
説教 荒瀬正彦牧師


 
十字架の出来事の後、弟子たちはガリラヤへ戻ってきておりました。

 ガリラヤへ戻る前に、弟子たちは何度か甦りのイエス様に会っていました。「聖霊を受けよ」と言われ「この良き知らせを全世界に広めよ」と命じられていました。しかし未だに何をすれば良いのか分ってない。心が重く落ち着かない。過去を捨て切れないのが人間の偽らざる現実です。心熱く燃やされたあの洗礼を受けた日。恵みを一杯に受けた信仰体験。それがまた元に戻ってしまう危険は私たちにもあります。しかし信仰体験をした人は必ず心の深いところに、イエス様でなければ埋められない虚ろな穴を持っています。それゆえに、何をやっても苦労や失敗や辛さばかりが目についてしまう。

 弟子たちはペトロに引き摺られるようにして漁に出た。だが何も獲れない。疲れだけが残っている。重い気持ちで岸近くまで戻って来ると、既にイエス様が岸に立っておられた。イエス様は舟の上にいる弟子たちに声を掛けられた。「あなたがたの手許には何もないですね。」彼らは答えます。「何もありません。」

 
 「何も無い」。それが神の前での私たちの姿です。イエス様は続けて言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。」言われた通りにするとどうでしょう。
網が破れる程の大漁でした。疑いや迷いや恐れを乗り越えて主の言葉に従うところに大漁があるのです。私たちを導くものは自分の言葉ではなく、神の言葉なのです。そして主の言葉に従うところで主は力強く働いて下さる。
 弟子たちが陸に上がってみると、そこには炭火が起こしてあり、網の上には魚が焼けて、パンもある。イエス様は食卓を調えて疲れ果てて空しい気持ちを抱きながら帰って来た彼らを持っていたのです。

 甦りの主は、いつも既に岸に立って待っておられます。様々な問題に疲れ、破れて、思い心を抱いて戻ってくる私たちには、復活の主が前におられるのに見えないでいる。しかし、見えなくても、知らなくても、問題を解決し希望を与えて下さる方が既に待っておられるのです。


「誰でも赦される!」          No.421
(ヨハネによる福音書20章19〜29節)


 
この20節に、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。単純に弟子たちが喜んだと記されていますが、その喜びに至る経過を無視してはなりません。この後のトマスの記事のように、イエス様の傷跡に手を押し入れてみなければわからない程、人は信じられないものです。しかし、様々な痛みと迷いの過程をへて、キリストの復活に出会うのです。それは、私たちの人生の旅路のようにです。だから嬉しい、だから喜んだ!なのだと思います。私は、最近、なんでも楽しく喜んでやることの大切さを感じさせられています。説教一つを構成するのも「生みの苦しみ!」などと牧師たちはよく言うもので、私自身も苦み走った顔で私も必死になってやってきた感があります。しかし鶴ヶ峰での伝道9年目を迎えて、そうではなく、大変でも感謝して、苦しくても笑顔を持って、困難でも喜びをもって取り組まなくてはならないと反省させられています。

 以前、わかな姉のお父さんの山崎茂雄兄の記事が伊豆新聞に掲載されました。玉川学園の小原国芳先生の言葉「人生の最も苦しい嫌なつらい損な場面を、真っ先にほほ笑みをもって担当せよ」という言葉。私は、この新聞のコピーをスポーツデイの事務所の壁に、何となくセロテープで貼り付けました。それをもらった時は、いい言葉程度の認識でしたが、毎日事務所を出入りして記事をチラ見?する度に、本当にそうでなくてはと思うようになったのです。何でも笑顔で喜びを持ってお仕えすること。わかっているようで、結構わかっていない、出来ているようで出来ていない私たちの姿。 あさひ教会も伝道所から出発してまる8年、ついに9年目の宣教活動。その働きのキーは、何でも喜んでやることのような気がします。できる限り、ほほ笑みを持って、なんでも担当できる信仰で進みたいと願わされます。




「人生の復活に待ち望む」        No.420
(マルコによる福音書16章1〜8節)


 ユダヤの安息日の終わった日曜日に、慣習に従って香油を遺体に塗るために三人の女性達がイエス様の納められた墓に向かうのです。面白いことに、彼女たちは墓に向かう途中で、墓の蓋をしている大きな石を誰がどけてくれるかと話し合っていたと記録されています。よく考えると、その大きな石をどけてくれる手配もせずに向かっていることが不思議に思えます。しかし彼女たちは「行きたかった」のです。石をどけてくれる人もわからず、ましてやイエス様が生き返るわけでもないのに行きたかった。何かに駆られる思い。この理屈ではなく行きたい思いこそが、信仰の原点なのです。冷静に考えてみると、無意味なようですが、人は行きたいのです。例えば、海を見に行きたいと人が思うようにです。理屈を超えた、信条の世界。その何かフワッとした世界に、確かなしるしが与えられたというのがイエス様の復活でありイースターなのです。

 勿論、文章で書くのは簡単ですが、震え上がり、正気を失って、誰にもその出来事を言わなかったと記されるように、このことは相当ショッキングな出来事だったようです。でも、その信じられないほどのショッキングな出来事ゆえに、キリスト教は2000年も続いているのです。逆から言えば、この逃げ出したいような驚きの出来事があって初めて、キリスト教がある。そこでは、まったくもって、世俗の理屈からはかけ離れた、世界によって成り立つ信仰の極意があります。
私たちの世界は、なんでも科学的に、計算されて、より効率的に動くことこそ良いように言われます。そして会社は、それを人に求める。しかしそこで生きている人間は、いや人間を動かす心は、科学的でも効率的でもないのです。人は、いつも、なんのために!どうして!と問うからです。その問こそがまさに、人間の命の重みであり、その重みはキリストの十字架の重みなのです。

 イザヤ書の51章1節に「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。」とあります。それは自分の原点を知ることの大切さを告げます。つまり、私たちの命の重みの原点である、キリストの十字架と復活を知りなさいということなのです。主を喜ぶことこそが私たちの力と信じて、歩みたいと思います。



「光のある内に信じなさい!」      No.419
(ヨハネによる福音書 12章27〜36節)


 この、光ある内にとは、暗闇が来ることを告げています。それはこの世の終わりなのか、大きな戦争なのかもしれません。また同時的には旧約聖書のコヘレトは、年老い、死にゆく日を暗闇が来るとも表現しました。視力を失い、一人で動くことを許されない、暗闇が私たちにせまっているのです。世の中には、不自由な方々を卑下する人がいますが、必ず自分にもその日が来るのです。それなのに、その必ずくる暗闇を人は意図的に忘れているのです。いや、忘れたい、忘却したい。何故ならば、備えがないから、恐ろしいからなのです。

 実際、備えが確かならば怖くないはずなのです。例えば、スキーを滑る技術で、スピードを出す方法は、間違いなく一つ。それは確実に止まれる技術を身に着けることです。当たり前のことですが止まれない人は滑れないのです。しかし、その当たり前を忘却しようとするのが人の罪なのかもしれません。

 聖書に戻れば、暗闇がきても、年老いても、死に瀕しても、世界の終わりがきても、うろたえない、光を持つこと。それは暗闇がきてから考えればいいとうのではない。その時が来たら考えるという方は、猛スピードが出てから止まり方を学びましょう?という話なのです。それなのに、人は平気でそのあり得ないことをしてしまうのです。スピードが出てからブレーキを学ぶのでは遅すぎるように、私たちは暗闇が来る前に、光あるうちに信じることを学ぶべきなのです。光ある内に歩みなさいとは、今信じる者として生きなさい、光、つまり私たちの人生を照らす神を今信じなさいということです。光とは十字架にかけられたキリストであり、復活のキリストなのです。 


「命のパン、命の言葉」         No.418
(ヨハネによる福音書 6章52〜71節)

              
説教 荒瀬正彦牧師


 
5つのパンと2匹の魚で満腹になった群衆が、またしてもイエス様の許にパンを求めて押し寄せてきた。イエス様は彼らに言われた。「朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至るパンを求めなさい」。そして「わたしがそのパンだ。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。このイエスの言葉が議論を呼んだ。多くの弟子たちが「実にひどい話だ」と言ってイエスの下を去って行った。

 イエスの言葉は明らかに、十字架上で裂かれた肉、流された血、それを食べ、それを飲めということ、受難予告です。しかし人々にとって、十字架が甦りの保証であるという真理は受け入れ難いことであった。「命のパン・キリストの体」を食べるとは、私たちの人間性が、キリストによって浄化され、聖化され、純化されるということ。キリストの血を飲むことは、キリストの命を私たちの体に、心に、取り入れるということ。即ち、キリストの体を食べ、血を飲むことは、キリストとの一体化なのである。イエス様の、救い主としての真実のお姿が最も明確になった時、即ち、信仰の根幹である十字架の真理性、聖餐の真理性に触れた時に、弟子たちは去って行った。イエス様は12人に「あなたがたも離れて行きたいか」と問い掛けられる。シモン・ペトロは答える。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。」

 ペトロの信仰告白、必死の決意が込められた告白である。しかしさらにイエス問われる。「あなた方12人を私は選んだ。ところがその1人は悪魔だ。」弟子の信仰告白共同体に向かって「その中のあなたはどうなのか」、と問われている。かつてペトロも「サタンよ、引き下がれ」と叱られたことがある。選ばれた誰もが「サタン」と呼ばれる可能性を秘めている。私たちは礼拝の度に使徒信条をもって信仰告白をする。突き詰めて言えば、「イエス様、どこまでもあなたを信じ、あなたと行動を共にします」という告白である。私たちが真実にイエスの弟子であることの在り方を問われ、それに対して「イエス様、私がお従いするのはあなただけです。」と告白して行くのである。今日の御言葉からイエス様に従い行くことへの主体的な迫りが強く響いて来る。と同時に、「脱落と背信」、「信頼と告白」の両面を持つ私たちに対して、イエス様の励ましと導きと招きが強く迫って来るのを覚える。



「失うものが得るものへ」        No.417
(ヨハネによる福音書 12章20〜26節)



 先週、母校の神学校卒業式に行ったのですが、学校に着くとやけに暗いのです。急いでネットで調べると日にちを間違えていました。忙しい最中に目白まで来たのに。この時間があれば、相当の仕事が出来るはずなのに!と思った次第です。しかしその無意味さにがっかりしないために人間は理由をつけて納得しようとします。「いやこれは運動なんだ!」。ある出来事、ある行動、ある喜び、ある悲しみと言ったことは、諸事情と絡み合う形で成立しており、それ単体で存在するのではないのです。つまり、その事情と絡み合うことがらを知る時に納得が出来るのです。

 キリストの言葉は、まさにこの納得の中にありました。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」。死して初めて実を結ぶこと。死という出来事に意味を付与し、その尊い価値を明確化する。またキリストの死が意味を付けられるということは、即ち私たちの死にも意味が付けられるということなのです。

 私が洗礼を受ける前に読んだ唯一のキリスト教の本は、三浦綾子さんの書いた「塩狩峠」でした。結納に向かった札幌の鉄道職員永野信夫が、塩狩峠にて暴走し始めた列車を命をかけて止めるという小説。それを読んだ時の感想は、こんな凄い話があるのかと思いつつ、後書きを読むと実話であることが記されており、更にびっくりして、どういうことなのかと衝撃を受けたものです。しかし確かにこの鉄道員の死なくして、乗客の命の救いはなかったのです。無意味を意味に変えていく出来事。キリストの死は、まさにこの出来事の見本となった死でした。そしてそのキリストの死があって初めて、私たちに命が与えられ、今日と言う日もあるのです。また更に、その延長線上には、私たちの命や死が、また他の方々の命へと絡み合い繋がっていることを知らされます。一つの喜びも、悲しみも、その出来事は、実は多くの人たちに囲まれたかけがえのない出来事なのです。そのことが、キリストの十字架によって示されていると思わされます。


「後ろを振り返る暇はない!」      No.416
(ルカによる福音書 9章57〜62節)


「鋤に手をかけて後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」とイエス様は言われました。この言葉の背景には当時の厳しい農作業の現場があるようです。ここで言う鋤とは、牛の背中につけて農地を掘り返して耕す大きな木のつるはしみたいなものです。またこの耕す作業は、作物の植えてある夏場でなく、収穫の終わった寒い冬の地面が緩む冬場に行われたようです。今のようにゴアテックスのカッパがあるわけでもなく、冷たい雨に濡れながら牛の背中に取り付けた鋤を必死に操縦している農夫の姿が目に浮かびます。つまり、もう逃げ出したい過酷な作業に手をかけた労働者が、ああ今日は止めたい!と思う心そのものです。しかしイエス様は、逃げ出したいような厳しい現実でも、鋤に手をかけた後に、後悔して家を振り返るようなことがあってはならないというのです。ただこの事は、その場だけの苦難という話ではないことも覚えねばなりません。つまり、そこで厳しさに耐えて耕すことを放棄してしまうと、その後の良い収穫を得ることが出来ないからです。延長線上の未来の為の、今の努力が必要なのです。

 私は普段から、鋤に手をかけてから、また直ぐに振り返ってしまうのです。どうしようかなと思う度に、この聖書の言葉が頭をよぎりますし、自分に言われているように思うのです。そういう意味では、振り返らずに進むことが大切です。しかしまた振り向きつつ前進するのも人の姿です。いやその振り向いてしまう私たちだからこそ、救いが必要なのです。イエス様は厳しさと同時的に、「健康な人に医者はいらない」と言われました。本日の箇所で言えば、鋤に手をかけて振り向かない強い人には、救済の業も必要ないとも言えます。聖書の語る厳しさを胸にしつつ、振り返りながらも前進し、神の救いを求めていきたいと思わされました。 


「集められて生き、散らされて生きる」  No.415
(イザヤ書61章 1〜4節、
 ルカによる福音書 13章10〜21節)

                 説教 荒瀬正彦牧師


 ルカ13章10節からの記事でイエス様が会堂で教えておられたのは恐らくイザヤ書61章だったと思います。「捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知するために」。そして言われました。「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき実現している。」

 この日・安息日に、イエス様がある会堂で教えておられたその場に、18年間も病の霊に憑りつかれていた女がいました。この女をイエス様は呼び寄せられた。そして「婦人よ、病気は治った」と言われた。「病気は治った」というギリシャ語原文は、直訳すると「もう既に病から自由になっている」という言葉です。

 このユダヤ教の会堂にも、私たちの教会の中にも神の支配は始まっており、神の国の歩みは始まっているのです。私たちは教会・召し集められた共同体のただ中で、主の霊が福音を告げ知らせるのを聞き、打ち砕かれた心を包まれ、捕われ人を自由にする言葉を聞くのです。

 イエス様はまた言われました。「教会とはからし種のようなものだ」。福音の種は小さいものであるが、やがて人がそれによって生きる大きな樹となる。教会は福音の種を蒔くところなのです。種を蒔くとは、隣り人に向かう愛の働きです。イエス様はもう一つ、教会はパン種のようなものだと言われます。僅かなイースト菌を粉に入れると大きなパンになる。イースト菌はキリストを信じる者たちのことです。この世という小麦粉の中に入れられるパン種です。教会が、集められて生き、散されて生きるとき、一つの変化が起こる。目には見えないけれども、神様によって確実に変えられていくのです。


「弱さの力」
(ヘブライ人への手紙 4章14〜16節)
   No.414

                説教 関 伸子牧師


 あさひ伝道教会設立式を終えて、今日、ヘブライ人への手紙4章の14節以下を、神さまから与えられた言葉として読むことができるのはさいわいなことだと思います。14節に「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と記されています。公に言い表した、その信仰をしっかり保とう。持ち続けてほしい。手離さないでほしい。死ぬまで、いや、死を超えてまで、そのようにしてほしい。そのよう祈り、願いが、ここに記されています。

 ときに闇の中で立ちすくんでしまう私たちです。漆黒の闇の中を歩きながら、その闇の中に、輝く光を見ることこそ、信じて生きるということではないでしょうか。

 第13世紀に、トマス・アクイナスというすぐれた神学者、説教者がいました。彼は、主が十字架につけられたことを記念する日に、ミサを司式しました。そのミサでパン、キリストのからだとされた物質(ご聖体)を高く揚げたとたんに動けなくなり、涙を流した。そこで光を見たからです。礼拝は、そういう光を見せるものです。そのミサが終わった時、彼は書き続けていた『神学大全』の著述を止め、翌年死にました。 

 みなさんも、あさひ伝道教会で、共に信仰を言い表し続けることに喜びを持ち、いつも大胆であり続けてほしいと心から願います。 


「既に清くなっている」
(ヨハネによる福音書15章1〜10節)   No.413


 この箇所は、イエス様自身がブドウの木で、私たちは繋がる枝であるとの例えです。そして、神はその木を育てる農夫として登場します。内容的には、繋がってない枝や実を結ばない枝は取り去られてしまうという恐ろしさを感じる話しですが、注目すべきことは3節の「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」という言葉です。神の言葉を上手に実行したから清くなれるというのではなく、寧(むし)ろ、その言葉自身が私たちを清くしているというのです。この箇所を口語訳では「きよくされている。」と受動的用法で私たちの立ち位置を記しているのです。

 実際、聖書は二つの相反する方向から戒めと救いを語ります。実のならない枝のように人が剪定されてないようにと警告を告げると共に、またもう一方は、自分の行いによって救われる事は不可能でありそれ故に、キリストの救いを受け入れる必要があるとの教説が併記されます。

 では、どちらが優先するのでしょうか。救いの条件としての行いなのか、神の恵みによる救いなのか。実際、この二つの対立が聖書の中に常に現れているのです。そして、使徒パウロの戦いはまさにそこにありました。しかし、いつも最後に勝利するのは恵みによる救いです。何故ならば、これこそが、十字架を掲げるキリスト教の最も重要なテーマだからです。

 私たちの社会で起こる問題の多くは、人と人との価値観の違いが生み出す混乱であり、その違いが生み出すストレスと怒りです。だからそこに投じられるべき福音は、赦しと和解なのです。私たちは、既に清くされている。それは正しい行いの履行によるものではなく、神の恵みのみなのです。結ぶ実は神の御手にあるのです。つまり、私たちにとっては、イエス様に繋がる事が最も大切なことなのです。そのキリスト教で当たり前の教えは、何度も何度も時代の中で脅かされ失われかけてきました。しかしそれでも滅びない恵みの契約。何故、滅びないのか、そこに神の真実があるからなのです。


「聴きたい心へ」
(ルカによる福音書8章4〜8節)     No.412


 この箇所の8節では「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は語ります。これはどういう事かと言いますと、逆に言えば聞く耳の無い人に語っても無駄ということかもしれません。イエス様の言葉は、4節にあるようにイエス様の話を聞きたくて集まって来た大勢の人たちに向けて語られるのです。そして、それはキリストの言葉以前に、その言葉を求める民衆の痛みが背景にあるのです。つまり「聴きたい心」です。この聞きたい心こそが、この箇所にある「良い土地」かもしれません。その良い土地の肥料は、間違いなく人々の苦しみや涙です。その涙のしずくが、土地を耕し、御言葉の種を育てる力となる。

 聞くという漢字には「聴く」という字が使われる事があります。この字を良く見ると、「耳」「十」「思」という三つの字が組み合わされて出来ています。つまり「十字架の思いをもった耳」という意味です。漢字の語源的には、中国から来た漢字にもともとキリスト教の影響があって、このようになったという説を聞いたことがあります。確かにそうなのかもしれません。

 聞くとは、その御言葉の背後にあるキリストの十字架の受難を覚えて聞くこと。その人に命を捧げたキリストの思いをもって聞く時に、福音のタネは、私たちの涙で耕された良い土地で百倍にも実をつけることになるのです。

 この道は決して楽な道ではありませんが、私たちは、15節にあるように「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」のです。その実がどのようなものになるかは、神のご配剤の内にありますが、この道に聴くとき、私たちの人生自身がより良いものなることは間違いないと思います。あさひ伝道教会の設立の実をみんなで更に広げたいと願わされます。  


「最後の人にも同じようにしたい」
(マタイによる福音書20章1〜16節)   No.411


 
聖書に示される天の国の姿は、私たちが世俗社会でもっている価値観とはまったく逆転したものであること感じます。朝から必死に働いた者が、夕方に少ししか働いていない者も同じ賃金しかもらえない不公平極まりない状況。つまり天国は不公平を是認するような世界なのかと言いますと、そういう事ではないのです。寧(むし)ろ、この世の不公平を天国では改善しているのです。ここに登場する夕方から雇われて、少ししか働かなかった人には二種類の人が考えられます。つまり、働く健康や力があるのに怠け者、もう一方は働きたいのに雇ってもらえない状況の人。そしてこの聖書箇所は、前者ではなく後者の存在を対象に展開されているのです。

 個人の努力では変えることのできない価値観。失った健康、他者に比べて劣っていると感じさせられる世俗社会の負の場面。どれをとっても、納得のいかない不公平な現実。しかし神はその不公平な現実をそのままに捨て置かれることなく、天の国で正当な評価をするのです。それが、朝から働いた人も、夕から働いた人も同じ賃金という采配です。これが天国なんだと思いました。

 話は変わりますが、私の義理の両親が、この1月に入居した有料老人ホームがあります。私はその施設へ見学に行き説明を受けた時に、全ての部屋の間取りが同一という設定に感銘をえました。創設者が、入居者間での差異を発生させないための考によってです。私は、そこに理想的な理念がその施設の根底に流れていることを感じました。そして話を更に伺うと、どうやら施設を作った医師の両親が熱心なキリスト教徒であったと事で納得しました。その為、施設内にもキリスト教の礼拝堂を感じさせられる建物がありました。またその施設を建設する時に、入居者が通えるように近隣に教会堂を自費で建設して、地域の教会に寄附をしたのです。勿論、そのおかげで義理の両親も歩いて礼拝に出席できるのです。天の国は何に例えよう!後の者が先になり、先の者があとになる。先の人は何か損したように思うかもしれませんが、その人もちゃんと天国に迎えられているのが、この例えの素晴らしいところです。天国が楽しみになる例え話でした。


「悪魔に負けない信仰の道」       
(マタイによる福音書4章1〜11節)    No.410


 
イエス様はその宣教の初めの時期に「荒野の誘惑」と言われる出来事に導かれます。

 命(食べ物)への誘惑、神を試みる誘惑、権威への誘惑といってもいいかもしれません。イエス様はその誘惑に対して、聖書の言葉をもってことごとく勝利して行くのです。この出来事は、私たちを本当に励ますことです。私たちは様々な世俗の誘惑のもとに晒(さら)されています。物や権力といった誘惑は私たちを常に惑わすのです。しかしその中でも、最大の誘惑があるとすれば、それは不信への誘惑といってもいいと思うのです。「神を信じるなんて馬鹿、信仰なんて無駄、損するだけで徳することなし」といった考え方です。それは、死なないから神殿から飛び降りて見ろ!と悪魔がイエス様に投げつけた言葉を言い換えて、信仰なんてなくても死なない、教会から飛び降りて世俗世界を楽しく生きなさい!といった誘惑です。確かに、信仰を失っても体は死なないかもしれない、しかしそれは霊的な死の到来を意味するのです。

 私は、仕事の現場で人は決してパンのみで生きていくことのできない、心の生き物であることをつくづく感じさせられます。家があって、食べ物があって、健康があって、しかしそれでも人の心は闇に向かって病んで行くのです。人の心の中にある闇という穴は、神への信仰によってしか埋めることは出来ないとある人が言われていました。人の心を富ますことも、逆に病ますことも、その穴に何を入れるかで大きく人生は変わってしまうのです。

 人生の幸せとは何でしょうか。それは、旧約聖書のコヘレトによれば「神を信じその戒めを守れ!」です。勿論、私たちは、戒めを守っているなどと言えるような生活ではありませんが、それでも自分を造り、人を愛する事を教えて下さった神を心にいつも留めたいと願っています。それが悪魔に負けない信仰の道だと思わされています。


「別の道を通って」
(イザヤ書12章1〜6節、マタイによる福音書2章1〜12節)                  No.409

              
説教 荒瀬正彦牧師


 クリスマスは楽しく美しいファンタジックな情景を思い描きますが、歴史の現実はそうではありませんでした。人々はローマの支配の下で様々な圧政に苦しみ、二重三重の苛酷な税金に喘いでいました。イエス様の誕生が暗い夜に、馬小屋であったのも、偶然のことではありません。「暗い夜」は希望の光が見えない人間の世界を象徴するものでした。暗く汚れた馬小屋は、そんな世界に暮らす人間の生活状況を象徴するものでした。ロバや羊だけが御子の誕生に立ち会ったというのは、人間が御子を拒否したことの象徴でした。

 イエス様の誕生にお祝いに駆け付けたのは、羊飼いたちと東の国の博士たちだけでした。
クリスマスというのは、見えざる神が見える形で私たちの世界に来られた出来事です。聖霊なる神が肉体をもってお出でになったことです。永遠なる神が限りのある時間の中に来られた出来事です。ヨハネ福音書1章では、「言」「光」「命」という言葉でクリスマスの秘儀を言い表しています。東の国の博士たちは、伝え聞いた預言者の言葉の中に「命の言葉」を聞きました。不思議に輝く星の中に「命の光り」を見出しました。しかしエルサレムの人々は命ある言、命ある光に対して、絶望的な無関心を示しただけでした。

 馬小屋で幼子イエスに出会った博士たちは、夢で神のお告げを聞きました。「帰りには、エルサレムのヘロデ王の所へ行かずに、別の道を通って帰りなさい。」

 「別の道」とは、これまでの道ではない新しい道です。彼らは幼子イエスに会ったことで、自分の人生を神に委ねて生きるという新しい道を選んだのでした。今までの道とは、人間に頼り、自分に頼る人生・・。だからそれが崩れた時、人間は自己崩壊を起こしてしまいます。人間関係の崩壊が自分の崩れを招いてしまうのです。それは神様との関係の破れから出ているのです。しかし闇を照らす光を見て、神様にすべてを委ねて、今までの生き方とは別の道に踏み出す時に、命の道を歩む喜びに満たされるのです。

 「別の道」、それは外見的にはこれまでと変わりない毎日です。でも何かが違う。何が違うのか。そこに愛されていることを知った自分がいる。愛することを知った自分がいる。昨日と今日の自分は違う。「別の道」とは、「神をあがめ、賛美しながら」歩む道です。私たちもまた、クリスマスに於いて新しい別の道のスタート地点に立たされました。今年もご一緒に、神様をあがめ、賛美しながら、新しい道を力強く歩んで行きたいと思います。


「生きる力の源として」
(ネヘミヤ記 7章72b節〜8章12節)    No.408


 今年のあさひ伝道所の主題聖句は、ネヘミヤ記の「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」です。この言葉の背景は、ユダヤ王国がバビロンによって滅ぼされた後、捕囚の地で働くネヘミヤが、荒廃したイスラエルの都の再建を志すことに始まります。勿論、再建を志したとしても容易なことではなく、次々と発生する障害と困難を乗り越えながら、二か月間の工期をへてユダヤの新年に、城壁が完成し扉が付けられるのです。そこでネヘミヤは、涙する民の前で、イスラエルの都の再建の喜びと共に、本当に喜ぶべきことは、神と共に自分達があるということこそが、イスラエルの力の源なのだと語りました。つまり、ネヘミヤの願いは、かつてのイスラエル王国は権威と繁栄を取り戻すことよりも、神を信じて生きることこそが第一義的な命題であり、そこに喜びの力の源を持たなければ、かつての王国の崩壊と同じことになることを警告的に語ったとも言えるのではないでしょうか。

 ニーチェという芸術家が「神は死んだ」と言ったことは有名な話です。それは、19世紀から20世紀にかけての急速な文明と科学の発展の中で、信仰が物へ代替されていく現実の混乱を目の当りにして思ったのかもしれません。しかし、この21世紀を迎えた今、ニーチェが生きていたらどんなに驚くことでしょう。そう、彼が死を宣言した神は未だに生きており、教会は2000年を超えて立ち続けているからです。

 このことが語るのは、神への信仰は物質の量や文化や科学の進歩によっては無くすことは出来ないという現実。人の心は、何かの効率や効果といった世界とは違うところにあって、動かされ生かされているという事実。この現実を伝えるのが、キリスト教会の仕事なのだと思います。どんなに時代が変わっても、状況が変わっても、変わらない私たちの力の源。それが、神を喜び祝うこと、信じる心を持って生きること、これこそが人生を生かす力の源なのです。今年一年間この御言葉に押し出されて、共に信じる道を進みたいと願います。



「信頼を忘れない」
  
(ガラテヤの信徒への手紙4章5〜6節)   No.407



 新年あけましておめでとうございます。新年の皆様への神様の祝福をお祈り申し上げます。さて、聖書はいつも私たちに二つの方向性を同時に指示していると思います。それは戒めと救済です。この5章後半の初めは、正に戒めです。神の霊の導きで生きなさい、互いに挑みあったり、妬みあったりしてはいけませんとあります。確かにそうなのですが、これは成功しても失敗しても陥る問題で結構難しいことなのです。成功は容易に、自惚れを生み出すし、失敗は、人を卑屈にして行きます。何れにしても、霊の導きから離れてしまうのです。では聖書はどうすればいいと言いますと「互いに重荷を担い合いなさい」と勧めます。つまり個人の是非ではなく、共同体と隣人愛の中に霊の導きの生き方があるということなのでしょう。その善の行いを飽きずに、励み続けることが、時が来て実を刈り取ることになると言います。

 つまり逆から言えば、どんな良い働きも、善の行いも飽きてしまうのです。ここに人の弱さがあり、それ故に組織は、この正しいとわかっていても飽きてしまう人間性の弱さを理解して、常に体制や組織や見方や在り方を更新して行かなくてはならないという事なのです。この更新の作業が、弛み始めた善の弓(業)を再び張り直すのです。しかし注意する点は、その更新の作業に注視しているばかりではなく、その更新の作業の延長線上の目標を見据えて作業を継続していくことです。

 それは、へブル書の11章にモーセの姿として示されます。「モーセは信仰によって生まれ、信仰によって成人となり、信仰によって受難を引き受けた。それは、目に見えない方を見るようにして、耐え忍んでいたから」だと記されます。つまり重要な視点は、善を行うための更新の作業と、信仰によって見えない目標を見ることなのです。この弛まぬ歩みが、来たるべき日に実を刈り取る約束を得るのです。

 今年は、伝道教会設立、フレンドシップあさひのNPO化と様々な働きが私たちには与えられています。この機会が単なる労働に還元されてしまうのではなく、私たちの信仰の更新の機会として受け止めたいし、更に神の与えられるチャンスとして感謝してお受けしたいと思うのです。私たちの日常は、何も変わらないようでも、実は常に大きく変化しているのです。ようは、それを見出す信仰の目があるかというか?ということです。この信仰の目を週毎に聖書から頂く一年でありたいと思います。


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