カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


御言葉と出来事
御言葉と出来事(2017年)
  

2017.12.31更新
    
 
「聖なる約束」             No.511
      (ルカによる福音書 1章68〜79節)
      

 神は、イスラエルとの古(いにしえ)の約束を忘れず、救い主を送ってくださるとの預言が、聖書に記されています。しかしその解放と救いの預言は、ユダヤの民の熱心な信仰や正しい行いの上に建てられたものではないのです。憎まれ狙われる敵とありますが、一方的に狙われていた訳ではなく、イスラエルの民は隣国から大いに憎まれ仕返しされてしまうような罪の行為を繰り返していたのです。言ってみれば当然の報いを受けていたのです。しかし神の約束とは、その当然の報いを受けている罪ある民に注がれるのです。それが、御子キリストの誕生によって示されました。

 イエス様が罪人と食事を共にしていると非難される場面がありますが、まさにその答えが神と人との約束を具現しています。医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。正しくないものが救いによって悔い改めることこそが、神の約束であり、だからこそ恵みなのです。

 今年一年も一生懸命やってきたようですが、天国に入れてもらえるような行いとは程遠かったように思えます。しかし神は、そのような者を信仰によってのみ救いに招かれました。私たちはそれ故に、行く先を知るものとして、如何なる状況下でも根本的には平安を失わないのだと思います。

 この人類共済こそが人を生かし、再び私たちを生きる使命へと引き戻してくださるのです。この神様に感謝して一年みなさんと終えられたことを感謝いたします。


「来るべき方」             No.510
      (マタイによる福音書11章2〜11節)
      


 バプテスマのヨハネは、弟子達をイエス様のところに遣わして尋ねます。「来るべき方はあなたですか」。その問いにイエス様は、これこれこうですと自分で説明するよりも、見聞きしている事をヨハネに伝えなさいと言われました。その見聞きしたこととは、目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、様々な病の人が癒され、死者が生き返り、貧しい人が福音に預かっているということです。なんと凄いことが起こっているのか、それをヨハネに伝えれば、おのずと答えはわかるということです。

 この箇所で一番大切な点は「貧しい人が福音に預かる」ということが、凄い奇跡、死者さえ生き返る出来事と併記されていることです。つまり、福音が知らされることは、死者が生き返る程凄いことなのです。その凄いことに、私たちも加わっているのです。ある人は、自分が救われているということこそが、最大の神の奇跡であると言われました。本当にそうなんだと思います。救われざる者が救われる出来事。これこそが神の愛である福音です。

 クリスマスは、この救いの到来を告げる大切な時です。奇跡的な出来事に人々が目を奪われる中、貧しい馬小屋のイエス様から発信された福音の素晴らしさ。それは、全てのものが朽ちて行っても、失われることのない神の恵みとして私たちの心に留まり続けるのです。



「愛と慈しみの出来事」         No.509
            (ミカ書 5章 1〜5節)


              
 荒瀬正彦牧師


 
ミカ書5章の当時、南王国ユダはアッシリアの脅威と迫害の前に立たされ、悲惨と混乱の中に置かれていた。それは彼ら自身の罪のゆえであった。彼ら自身が弱い者を虐げ、神の言葉に背き、不正を行って神の裁きの前に立たされている姿であった。預言者ミカはその現実と、また暴虐と不正の渦巻くエルサレム、偽りの礼拝が奉げられる神殿、そして 国を覆う腐敗と堕落と罪悪を認めざるを得なかった。

 しかし神は彼らを滅ぼすために裁きを下すのではなく、彼らを愛すればこその鞭であった。が、彼らは神の思いを知らず、ただ四面楚歌だと目前の状況にオロオロするばかりであった。彼らは祈ったであろう。がこの時、本当に祈って下さったのは神であった。神の方がその状況に耐えられなかった。ミカの預言は4章で絶望的な状況を述べながら、5章 でそれを逆転せしめる。嘆きと苦難の現在から、贖いと希望の未来へと目を向けさせる。

 エフラタの辺境の小さな村ベツレヘム。そこから人類全体を治める者が出現すると語る。神は最もありそうもない、予期せぬ所から、最も小さいものから御業を起こされる。私たちが助けを求める前に神が助け手を遣わされる。なぜそうなされるのか。一つには人間が自分の力で救いを得たと思い傲慢にならぬ為。もう一つは神ご自身が不正と暴虐が渦巻いている世界が耐えられないゆえに。だからその世界に対して救いと平安、解放と平和をもたらして下さるのである。クリスマスが神様からの希望の贈り物であるのは正にそのことなのだ。神は天地創造の前から救いの贈り物を用意しておられた。ただただ人間を愛して止まない、その慈しみの故であった。

 今や時は迫り、救い主誕生の日を迎えようとしている。キリストは誰にも知られず、馬槽に眠る幼子として生まれる。この姿こそ神のご計画であろう。メシアの出来事が政治的な力、地上的な英雄的力に依るものでなく、あくまでも「主の力、神である主の御名によって」成されることを示すものである。大事なことは、世俗の王や権威に対して神のメシアがここに立っておられることである。神が人間に与えられた愛と慈しみの出来事「救いのしるし」であるということである。クリスマスは神が私たちに「群を養う者を立てる」と言われたその神の御心を拝する時であろう。

 アドベントのこの時、神の痛みを伴った愛と慈しみを心に深く刻み、その恵みを感謝し 賛美する礼拝の時を持ちたいと思う。   



「ナザレから出た預言者イエスだ。」   No.508
      (マタイによる福音書21章1〜11節)
      


 エルサレムへ入場されるイエス様を歓喜を持って迎える民衆たち。彼らがイエス様に期待したのは、ダビデやソロモン王の時代のように、諸国から恐れられる力ある王国の復活でした。しかし彼らの期待はほどなく裏切られる事となり、その失望がイエス様を十字架につけたとも言えます。

 それは戦後の教会が、アメリカからの支援物資「ララ物資」の受渡場所となり、生活に困窮する人たちにとって大人気になったことと似ています。私も含めて人の求める者は、財力であったり、権力であったりと今も昔もかわりません。でもその人の業が、キリストを十字架に押し上げてしまうのです。

 では、キリストは無力であり、ただ磔で殺されて行ってしまったのか?。そうであるなら、何故今もキリスト教会は現代社会に神の証しを続けているのか。それはキリストが決して無力でなかったことを結果として示しています。ただ、人の力と、真の神の示す力は全く逆方向のベクトルを持っているということです。 「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」は力ある預言者。その逆方向に働く力は、地獄へ落ちる人を天国へいざなう力なのです。キリストを身勝手な失望により十字架につけた人々さへも、天国へと迎えることが出来る偉大な力。無力のようで、人間の魂を黄泉まで下って救い出す神です。私たちの信じる神とはこの方であり、私たちがアドベントに待ち望む方は、この力あるキリストなのです。



「目を覚まして時を待つ」        No.507
      (マタイによる福音書25章1〜13節)
      


 ここに記される10人の乙女たちの例えは、5人は賢く5人は愚かと言います。しかし、この愚かと言われた乙女たちもちゃんと準備をしていたのです。寧ろ、時間に来なかった遅刻した花婿の方が悪いとも考えられます。悪いのは遅れてきた人で、自分たちが宴席から締め出される方がおかしいのでは。だから、この締め出された五人の乙女は怒ったのではと思うのです。初めは「すいません」と言っていたかもしれませんが、段々と腹が立ってきて逆切れして「遅刻した花婿が悪いのに、何で私たちが締め出されなくてはならないだ。おかしいだろ!」と思ったかもしれません。ある面、それは正当な主張です。

 しかし、でも聖書はそれでいいとは言わないのです。確かに正しい、間違っていない、でもその正しさでは乗り越えられない世界があることを知りなさいと語ります。その世界とは、一節に記されるように「天国」のことです。天国とは自分の正しさで入るものではない。天国に入るには、自分の価値観、自分の正義、自分の正しさでは入れない。そこに入るには「予備の油」が必要なのです。この「予備の油」とは、まだ起きていな事態を予測して備える力です。聖書は、このまだ見ぬ世界に備える力を「信仰」と呼ぶのです。ヘブル書11章1節は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と語ります。この予測し改める力こそが、私たちに天国の扉を開かせるのです。正しいから入れてくださいではなく、予備の油、信仰の油で入れてくださいなのです。その待望と悔い改めこそが、クリスマス待降節のメッセージなのだと思います。



「神を畏れることが信仰のはじめ」    No.506
      (マタイによる福音書25章31〜46節)
      (箴言9章7〜12節)
           


 日本の言い伝えでは、人間の中には「七つの虫」がいると言います。それによって、虫が好かない、虫の知らせ、虫が嫌うなど自分の感情でコントロールできない世界を虫のせいにして言い逃れるという風習です。その中で「虫のいい話」という言葉があります。これは自分の都合の良い時だけ、自分を優位に立たせようとする姿勢のことのようです。

 本日の聖書の個所は、そんな姿勢を一蹴するのです。神が困っている時に助けず、自分が困った時には助けて下さいという。神が困って用事を頼んでも、私は忙しいといつも断る姿勢。常に自分の予定が一番になってしまう。神の用事をしない訳ではないが、余った時間だけ。ある日「神様助けてください!」と叫んでも「あなたは、私が困って助けてと言った時はいつも断っておいて、自分が困ったら助けてくださいか!なんと『虫のいい話だ』永遠の罰を受けなさい!」と言われることは間違いないと思います。ですから、神の裁きを恐れることは、私たちの生活を律するとても大切な心なのです。

 しかしだらといって、その神を恐れる行為によって救いを得られると考えるのもまた「虫のいい話」なのです。私たち人間は、どんなに正しくありたいと思っても我儘な自己中心の生き物です。それを原罪といいます。ですから、どんなに善意を傾けても、自らの命を救えるレベルの行いは到達しないのです。人類は、神の救い無くして天の凱旋門はくぐれないことを知らねばならないのです。それを知ることが私たちの信仰です。神を畏れ、またキリストの救いを信じる生き方。これが造られし人の本分かと思わされます。



「愛の浪費」              No.505
       (ヨハネによる福音書12章 1〜8節)
           

              
説教 荒瀬正彦牧師


 
過越祭が迫りイエス様はエルサレムへの最後の道程、十字架への道を辿られる途次、ベタニア村に立ち寄られた。ある家でイエス様は食事の席に着かれた。そこへマリアが高価なナルドの油を持ってきてイエス様の足に注ぐという出来事が起こった。マリアの非常識とも思える激情的な振る舞いは人々に波紋を投げかけた。信仰と常識の問題、信仰と行為の問題、信仰の原点への問い掛け・・。

 マリアの行為は人々の目には狂気と映った。ユダは思わず言った「なぜ、この香油を300デナリ(約600万円)で売り、貧しい人に施さなかったのか」。
信仰はそれが行為となり働きとなる。働きが効果的に行われるためには理性的で計画的でなければいけない。ならば、マリアの一時の感情に任せた振る舞いは非難されて当然ではないか。がしかしそうした考えには危険な落し穴があった。

 信仰の愛にある働きが、いつか結果が重んじられ計量化されてくる。より効果的な方法、有効な手段が求められ、いつか信仰とは別物になってくる。マリアの行為を計量化するところでは愛が考えられず、ユダの合理性、現代人の効率主義・現実主義が打算に変わってくる。しかしこの世にはお金に換算出来ない価値あるものがある。マリアの心の内にあるイエスへの愛と感謝と献身の思いがそれだ。彼女はナルドの油をもって注ぎかけた。それは浪費でも無駄でもなかった。

 真に必要なことのために惜しみなく献げて悔いないところに愛の尊さがある。マリアの行為は人類全部の死と生命、滅びと救いが懸けられた主イエスの葬りの為の準備であった。イエス様は、浪費と見える愛の行為や激情的な信仰の振る舞いと、理性的・合理的な行動を比べるのではなく、それが「十字架を中心とした行為」であるか「イエスの愛と献身に沿った行為」であるかを問うておられるのだ。現世利益的に見れば、キリストの十字架は無駄と浪費に思えるかも知れない。しかしキリストの十字架は神様ご自身の「愛と献身」であった。そのようにマリアが注いだナルドの油は、ひたすら彼女の愛と献身のしるしであった。美しくも尊い愛の浪費であった。十字架に供えられ献げられた愛に働く信仰であったのだ。 



「復讐してはならない」         No.504
      
(出エジプト記21章 22〜25節
      (マタイによる福音書 5章38〜42節)

           

 この聖書の個所でイエス様は、「あなたがたも聞いているとおり」といい、旧約聖書の出エジプト記21章から「目には目を」という言葉を引用します。これは仏教用語で言えば「因果応報」の原理です。悪いことをしたら同等の報いがあるという理屈です。酷いようですが、ある面で誰もが納得しやすい結論です。しかしイエス様、この誰もが納得しやすい等価報復の原理を超えて「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言うのです。これは納得しにくい理屈です。何故、左の頬を打たれたら、更に右まで打たれるよう差し出さなければならないのか。

 イエス様の論理は、何か旧約の教えを覆してしまっているように思えますが、実際はご自身が言われたようにそれを完成させているのです。旧約のレビ記19章18節には「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあるからです。このような意味では、旧約聖書の人たちも自分たちのわかりやすい因果応報の理屈に納得してしまい、同じモーセ五書に記される言葉を意図的に忘却していたとも言えるのではないでしょうか。

 イエス様の言葉を聞いた人たちは驚くと共に、確かにそう書いてあったとレビ記の言葉を思い出した人たちがいたはずです。因果応報ではなく、復讐ではなく、愛を持って仕え合うことが旧約の初めからの神と人との約束。

 ただしかし、これを「ではやりなさいよ!」と言われて完璧に行える人間が地上にいるのでしょうか。ただ唯一それを成し遂げたのが、十字架に掛けられても、尚赦しを告げるイエス・キリストに他なりません。私たちにはそのことを心から行う力はないのです。出来ることは、それを成し遂げたイエス様に着いて行くことだけなのです。この出来ないと告白しつつ、イエス様に着いて行く行為こそが、私たちの信仰告白なのだと思います。弟子は師に勝るものではない。その御後に着いて行くのみです。



「出会いの奇跡−人生は変わり得る」   No.503
    (フィリピの信徒への手紙 1章20〜21節)
           


 
「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」

 先週は、研修礼拝で関田寛雄先生をお呼びすることが出来しました。先生をお招きした経緯には、フレンドシップあさひのNPO以降と共に、この事業の目指すキリスト教理念の根底を職員の方々にも理解してもらい、教会のメンバーは再確認したいという思いからでした。

 しかしお話を伺う中で、そういう私の理解自体が誤っていたこと気に付かされました。職員にわかってもらいたいと思っていましたが、第一に再確認しなくてはならないのは自分自身だったようなのです。

 関田先生は、ある学者の言葉から「体験から経験、経験から変貌する力を」という話をされました。要約すると、人が体験する様々な恥じるような出来事でも、その意味を真剣に掘り下げて考えることで、それを大切な経験とすること。更にその経験化された意味によって自分を変革していくことの重要性です。 

 教会と共に介護事業のリーダーとして10年余りの月日が流れましたが、私がその中で一番学ばされたのは「人間とは何ぞや」というテーマです。何故この人はそう思い、何故自分はこう考えるのか。小さな調整可能な事柄から、まったく合い入れることの出来ない価値感の違い。まったく上手く進められない事案が山積みなっていく状況。その行き詰ってしまっているような体験を経験に、経験を変革に進めていく「考える力」こそが、イエス・キリストが目指したアプローチなのだと実感させられました。今一度心を新たにしてこの宣教にお仕えして行きたいと思います。

 

「いままで見たこともない罪の赦し」   No.502
        (マルコによる福音書2章1〜12節)

 

 
人間というのは自己存在の肯定によって、はじめて充実した生活が送れるよう神様によってプログラムされているように思います。あの本田技研工業の本田宗一郎さんは「自分が幸せになるためには他者を幸せにしなくてはならない」と言われたそうです。そういう意味では、介護保険制度の中で働かれる人の多くは、本当に優しい、いい人が一杯いるのを感じます。何とか人の役に立ちたいと、利害度外視で奔走するのです。いつも凄いな!と思っています。

 その行為は、キリスト教会の目指す隣人愛の精神そのものです。何も変わりはありません。ではそこで、同じ目標であるならクリスチャンであるとはいったい何なのでしょうか。それは自分の自己存在の肯定が他者だけではなく、神という存在によって成されていることかもしれません。そして、その神存在とはイコール、罪が赦されるという体験のです。

 本日の聖書箇所では、「このようなことは今まで見たことがない!」と人々が神を賛美したと記されます。その感嘆した理由は、隣人の体の癒しだけでなく、罪赦されるという霊性の回復が同時的になされたことによるのです。つまり、ここにこそ「今まで見たことがない!」凄い出来事が存在します。

 どんな良い人の働きも「塵は塵に、土は土」に帰り滅び行きます。しかし全てを手放した時にも、私たちに命を賜った神による存在の肯定は残るのです。これを見つめるのが信仰の世界かもしれません。



「喜び生きる秘訣」           No.501
      (フィリピの信徒への手紙4章1〜7節)

           
              
説教 荒瀬正彦牧師


 
フィリピの手紙は「喜びの手紙」と言われます。ここでパウロは繰り返し「喜び、喜べ」と申します。パウロが語る「喜び」は「神様が共にいます」という確信から来ています。自分を取り巻く環境がどんな状況であっても、「神が共にいます」ならそこから喜びが生まれて来る。4章1節の終わりで「主によってしっかり立ちなさい」と言われますが、私たちが自分自身の考えや、或いは社会的な常識の上に立つ限りしっかりと立つことは出来ません。目に見えるもの、欲望、人の顔色などで動かされてしまう。信仰的に堅く立っているように思えても何か事が起こった時には、つい自分という基準や世間的な常識が頭を擡げてぶつかり合ったり、仲間割れしてしまうことがある。自分の力、自分の考えに頼って一緒に働く人と上手く行かないことがある。

 フィリピの教会に二人の有能な婦人がいました。自分のやり方をしっかり持っていた。ところが有能で有力な人であったゆえに、事が起こった時に夫々に自分の考えを主張して仲違いをしてしまった。そこでパウロは心を込めて助言するのです。「主において同じ思いを抱きなさい」。そして二人の仲を取り持つ「真実の協力者」に助けを求めました。「協力者」という言葉は「軛を共にする者」という意味の言葉です。軛を共にする時に勝手な動きをすれば軛に擦られて皮膚が破れ血を流すことがあります。お互いに相棒の痛みと忍耐によって仕事がなされて行くのです。主イエスは「わたしの軛は負い易い」と言われましたが、私たちが福音の業に仕える時にはイエス様が血を流して重荷を負っていて下さるのですね。主が共に居て、主が労苦の軛を共にして下さる。ここに喜びの根源があるのです。私たちがそのことを忘れそうな時、礼拝において気付かされ、神様と共にある自分を喜び、友と信仰の絆に繋がれ、喜びの軛に繋がれていることを感謝をもって味わい知るのです。弱い私たちが喜びに生きることの出来る秘訣が、まさに礼拝の中にあるのです。



「叫びながらついていく」        No.500
       (マタイによる福音書15章21〜28節)



 
この箇所のカナンの女の信仰とはどのようなものでしょうか。いやそれよりも、実際この叫びながらイエス様に懇願する女性へのイエス様の態度は冷たいんじゃないかと多くの人が感じることでししょう。女の懇願に、何も答えないイエス様。更にお願いしても、今はあなたとは関係ありませんと、けんもほろろに断ってしまいます。それでもお願いすると、子ども達に用意したパンを小犬にやるのは間違っているとまで言うのです。イエス様に、もうちょっと優しくして欲しいと正直思います。でも、このシーンをよくよく観察するとイエス様は冷たい様ですが、25節あたりからイエス様もこのしつこい女性に笑みを浮かべて小犬の話しをしていたようにも見えてきます。「ダメって言っているのに、しつこいな〜いや大したもんだ。そこまで信じて願うなら」。28節の「立派だ!」という名詞の副詞的用法によって、この女性の信仰に対してイエス様が如何に感嘆しているがわかると思います。

 聖書は時として、それはないんじゃないの?という展開をします。しかしその背景には、文章だけでは読み取れない神と人との対話があると思うのです。更に言えば、それが私たちとイエス様の間に流れる対話でもあります。何故こんなことが?それはないじゃないか?。私たちは熱心にその窮状を訴えるのです。その姿は、傍から見れば滑稽であっても、このカナンの女性とイエス様の間に生まれた信頼関係が、熱心に願う私たちと神様の間にも生まれていくのです。叫びながらイエス様に懇願するような熱い祈りも、大切なんだと学ばされました。


「み恵みあふれる」            No.499
       (ルカによる福音書12章13〜21節)



 
先日、介護の会議で「鈴木さんは、キーボードで打ち込みをしているなんて遅れてますね!」と言われました。なにやら最近は、喋った声を変換して文章を作るのが最新のようなのです。そこで私も早々に挑戦してみましたが、何度やっても「例話」と言っているのに、意に反して「電話」と変換されてしまいます。これには笑えました。さて、この変換という作業とても難しく、最新のAIを使っても単純な言葉でさえ上手くできないのですから、私たちの複雑な心の変換は、更に難しいとも言えるかと思います。その為でしょうか度々困難に直面している方は、この変換ミスを起こしているように思えます。自分では上手く変換しているつもりでも相手に伝わらない。そのすれ違いが、多くのストレスとなり自分に帰ってきて、精神を疲弊する悪循環に陥ってしまう状況。

 しかしそれは人の常です。本日の例えから言えば、人は貪欲を避けたいと思いながらも、自分の願ったように変換できず同じ失敗を繰り返してしまうのです。変換したい方向と、結果が食い違ってしまうのです。

 だから注意するべきことは、私たちは完全には成り得ないということです。仮に自分の中ではどんなに正しくあろうとも、その変換過程で他者とは合い入れない場合が多々あるのです。大切なことは、使徒パウロがフィリピの信徒への手紙3章で語ったように「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めている」と告白して行く事なんだと思います。

 こう言う私も、自分が正しいと思うことを随分主張し過ぎて失敗を繰り返してきました。そしてその正しさは、人を変えるどころか自分を貶め傷つけることなっていました。だから反省して、生涯正しくあり得ないこと、追い求める存在であることを聖書から続けて学び続けたいと思っています。



「信仰の薄さと厚さの違いは」       No.498
       (マタイによる福音書6章25〜34節)


 
信仰に厚さと薄さという差があるとすればそれは32節後半に記されるように「天の父は、これらのものがみな、あなたに必要なことをご存じである」という事を信じているかどうかという話なんだと思います。空の鳥を神が養い、野の花を美しく着飾ってくださる神様は、私たち人間に良くしてくれないはずはないということです。

 だから、心配せずに信じる者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と記されます。ここで大切なことは「何よりもまず」ということです。私もクリスチャン駆け出しの20代の頃は青年会でこのことについてよく議論しました。ある兄弟は「用事があろうとなかろうと礼拝を大切にする。その時に全てがそなえられる」といい、ある姉は「この世の付き合いも大切、勝手なこと言っているとクリスチャンの印象が悪くなるよ」と。どちらの理屈も、それぞれの事情の方向から見れば正しいように思います。

 ただ聖書は「何よりもまず」と記されていることを忘れてはならないと思います。私たち信仰者にとって「何よりもまず」とは何を意味しているのか。他者の事情や悩みを本質的に理解することは出来ません。ですから、それは他者が決めることは出来ないのです。だからこそ「あなたはどうするか」と聖書は問うているし、その答えが右であっても左であっても、真剣に考えた誠実な答えである限り相応しいのだと思います。


「信仰があなたを救う」          No.497
       (ルカによる福音書17章11〜19節)



 
イエス様は「あなたの信仰があたなを救った」と言われました。では、この私たちを救う信仰とは何でしょうか。この箇所には、その信仰による二つの行動が記されます。一つは、病気の人たちがキリストの言葉を信じて、祭司たちのところに向かうという行動です。そしてもう一つは、病気が癒さたれことへの感謝を神に献げることです。「信仰が救う」とは、この二つがセットになっているとも言えるのではないでしょうか。

 最近特に感じることは、人はお願いはするが感謝は足りないのではないかと思います。祈り願って、そこからの救いを得た時、「あ〜よかった、神様のおかけだ。本当によかったよかった」と誰もが思う事ですが、その後に神のもとに走り寄って感謝を献げるというのは、無いとはいいませんが弱いように思うのです。でも本当は、この感謝をささげる行為こそが信仰の基本なのかもしれません。

 またその感謝とは、それぞれの祈りの感謝でもあり、また自分自身が生まれ生かされているという感謝であり、また死しても天に迎えられる永遠の救いを得ているという安堵の感謝へ繋がると思います。 様々な問題に囲まれ、擦れ違いに疲弊する私たちの日常生活のど真ん中で、神への大小の感謝を見出していくことこが信仰の極意なのかもしれません。

 私たちの宣教課題であるフレンドシップあさひは、朝に一日の守りを祈り、帰りに一日の感謝を献げて終わります。他は普通の会社と何も変わらないかもしれません。しかしこの小さな祈りこそが、一番大切なことだと日々思わされています。  


「探し求めるお方」            No.496
       ( ルカによる福音書15章1〜10節)

           
              
説教 荒瀬正彦牧師


 
ルカ15章は「見失った羊」と「無くした銀貨」と「放蕩息子」の3つの譬(たと)え話がありますが、共通しているのは「失われたものを捜し求めるお方と、それが見つかった時の大きな喜び」というテーマです。

 失ったものとは、羊や銀貨ではなく、かつてキリストのものであり、神の民であった者のことです。その失われた者が回復される。神の喜びがそこにあります。しかしパリサイ人や律法学者たちは、その神の愛を忘れたばかりか、神様をそのような愛の方として考えることをしなかった。神様が一匹の羊を捜す羊飼いのように罪人を捜し求めて尋ね歩かれるという愛のお姿は、彼らには思いも及ばぬことでした。迷子の羊は自分から自分の力では群に戻ることが出来ないのです。銀貨もそうです。同じように、失われた者としての人間は自ら神の許に帰ることが出来ません。人間の無力がここにあります。この無力な者にとって悔い改めとは、神様に見出して頂くことしかないのです。神様を、この自分を見出して下さる方として受け止め信頼することです。イエス・キリストに見出され、赦され、喜ばれている自分であることに気付いて、それを素直に感謝することが悔い改めではないでしょうか。一匹の羊も一枚の銀貨もそれほど大きな価値はないかも知れません。しかし、それを失った羊飼いの痛み、それを失った女の痛みは、自分の命を失うほどの大きさなのです。一人の人間の価値はそれを失う神様の痛みと悲しみの大きさです。独り子なるイエスを十字架の上に失ったと同じ痛みがある。私たちにはその大きさの価値が与えられているのです。信仰とは、この神の一方的な捜し出しに気付くこと。そして自分は神様から求められている、招かれている、愛されている、そのことを知ることでしょう。悔い改めとは神様の喜びに与って神様と共に喜ぶことなのですね。

 神様が決して失ってはならない者としているのは、あなたなのです。私たちは「愛されている」のです。



「本当の素晴らしさ」           No.495
      (マルコによる福音書7章31〜37節)



 
先日、駅の改札を通ると、中学生ぐらいの女の子が、駅員に「二円落ちていました」届けているシーンに出会いました。私は、その二円を届けようとする女の子の純粋な善意に何か感動する思いでした。しかしまた、私たち大人はそんな純粋な善意をいつから失ってしまったのかと思わされるのです。そしてそれは、失ったというよりも、その語りかけを聞く聴力をなくしてしまったのかもしれません

 この福音書に記される「エッファタ」という言葉と共になされる聾唖者の癒しの出来事は、病の癒しと共に、物事を聞き分ける力の回復こそがイエス様が伝えようとして本質的なメッセージであることを伝えるのです。人々がこの出来事に感嘆して「この方のなさったことはすべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と叫んだと記されています。しかしその言葉は、単なる奇跡の称賛だけではなく、著者マルコによってイエス様の伝えたかった本質へと私たちを導くのです。
 
 私たちに神は、あらゆる事柄を通して常に語り掛けられていると思います。それは自然を通してであったり、人の言葉を通してかもしれません。しかしその中心は、神の言葉である聖書を通して語られます。しかもそれは、福音書を中心としたイエス様の言葉によってです。そのことをヘブル書では、この終わりの時代には、神は御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されましたと記すのです。つまりイエス・キリストによって神は語られるのです。

 イエス様が出会った事柄に、主は何と思われ、どう判断し、どう行動したか、それが私たち信じる者の道を導くのです。いつも、イエス様ならどう判断しどう理解したか、その基本から全てを再解釈するのです。これこそが、プロテスタント教会の基本中の基本なのです。そして、この基本にこそ全なのです。是非、迷わず信じて行きたいと思います。


「闇にあって光を思う」          No.494
      (ヨハネの手紙一2章9〜17節)

           
              
奨励 内田弥生長老


 
「光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今なお闇の中にいます。」
この箇所を読んで、これは自分のことだと。「兄弟を愛する人はいつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。」しかし又、この箇所にも自分がいると思いました。人は憎んだり、愛していたり、くるくると昨日と今日とでは全く違う人間のようになってしまう事がありうるから。洗礼を受ける前の私は、こんな善人はいないんじゃないか?親切で優しく、忍耐強く、明るく前向きだと信じていた。自分の罪に気がつかず、あらゆる事を自分は善人であるという上着でごまかしていたに過ぎない。それほど能天気に毎日を暮らしていたのでした。

 「兄弟を憎むものは闇の中におり、闇の中をあゆみ、自分がどこへ行くかを知りません。さらに闇がこの人の目を見えなくしたからです。」と続きます。
兄弟を愛する人よりも、むしろ憎む者に重きを置き、どこに行くかを知らず、闇が目を閉じてしまっていると。行く先もなく彷徨っているほど疲れる事はない。闇は光の反対です。光さえ届かない闇とは、いつも私たちの心の片隅に住み着いている苦悩とも言えるこぶし大のかたまりではないか。それを抱えて生きる事が運命かもしれないと思えるほどだ。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世に愛する人がいれば、御父への愛はその人のうちにありません。」私たちは、人を憎んで、愛して、ねたみ、世にまみれているに違いありません。それでも、毎週礼拝に預かり、牧師からイエスのみ言葉を聞き、目を開かれ、聞く耳を持ち、何度も何度もイエスに会っているではありませんか。罪を知らない事が罪なのではないかと思います。自分の過ちに気がつき、嘆き、隣人を傷つけてしまう狭い心に自分自身が傷ついてしまう様な毎日でも、私たちには希望があります。光があります。無い!と誰かが言ったとしてもあるのです。

 こんな私にも福音は訪れるのです。神様の働きは、目に見えない形であったとしても、絶えず私たちの人生に働いて下さっているであろうことを確信致します。世に勝っているイエスだから、闇を歩いている様な私たちを見出し、救い出し、慰め、励まし、愛して下さるのだと。世にまみれて、そのほほを涙でむなしく汚す日が来ても、諦めずに神の声に耳を傾けましょう。



「祈る心は天に届く」           No.493
      (ルカによる福音書19章41〜48節)


 
イエス様の話は、多くの人たちの心に響き夢中にさせるものであったと記されています。確かに、イエス様の痛快な突き抜けるような論説からすれば当然のことです。しかし、問題はその話が誰のためなのかという問いです。つまり、その傾聴が自分の益のためだけに夢中になっていたとたら、この同じ箇所でイエス様が批判される「神の神殿を強盗の巣」にしまっているとも言えます。強盗の巣とは、自分のための神殿という意味と言い換えてもいいと思います。そこでは、神様は人の役に立つ便利な道具となってしまうからです。そうではなくて、神殿が祈りの家であるとは、自分自身と、自分自身だけでなく私たちの隣人一人一人が、神のご加護によって生かされていることを知り、上なるものへの大きな謙虚さを得て、そこにイエス様の言葉が語られると信じることです。その祈りにこそ、確かな答えがあります。

 神の答えは、誰でも明確に聞こえるものではありません。ヨハネ福音書の12章では、神の言葉を同時に聞いた人の理解が真っ二つにわかれています。ある人は「雷が鳴った」と言い、他の者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と受け止めたようにです。同じ出来事、同じ音でも、ある人は天からの声と悟り、ある人には騒音にしか聞こえない。実際、この音を聞き分ける方法は祈りしかないんです。祈りの家として、謙虚に神の言葉を聞く者は、99%の人が雑音にしか聞こえない音の中に、確かな神のサインを聞き取るのです。このサインを聞き取ったものは、自分の祈りが聞かれたことを知るのです。私たちの周りに神の声と答えは沢山あります。大切なのは、それを聞く祈りと信仰の謙虚さです。是非、神のサインを聞いて欲しいと思います。



「向き合って生きる」           No.492
      (ルカによる福音書16章19〜31節)

           
              
説教 荒瀬正彦牧師


 
「ラザロと金持ち」という譬(たと)え話をイエス様は語られた。

 1人の金持ちの男がいた。高価な衣服をまとい毎日宴会を開き遊び暮らしていた。自分の持つ富をただ自分のためだけに使い、社会や隣人への関心を全く持っておらず自己中心な男。一方、金持ちの門の前に体中に吹き出物が出来て空腹で横たわっている男がいた。彼は社会から疎外され金持ちの食卓から落ちる物で飢えを凌いでいた。男の名はラザロ。「神の助けなしには生きられない者」という名前であろうか。

 ラザロは死んだ。彼は天国の宴に招かれアブラハムの傍らに座った。金持ちも死んだ。何と金持ちは陰府に送られた。そして炎熱が身を焼く苦しみの中で天国いるラザロを見上げた。金持ちは「父アブラハムよ、ラザロを遣わして私の舌を冷さして下さい」と叫んだ。しかし答えは「否」だった。金持ちはどんな悪いことをして陰府に送られたのか。それは彼のしたことの故ではなくしなかったことの故であった。彼はこの世の悲惨と困難に全く無関心で、苦痛と悲惨の中にいる隣人に何の関心も示さなかった。

 更に彼は富と財産を自分だけのものと思っていた。それらは元来神様のものであり、人はその管理を委ねられているに過ぎない。才能、技能、知識、時間、健康なども委ねられた富・財産である。私たちはそれをどう用いているか。富と貧しさはそのままでは信仰と関係はないが、「信仰と隣人の貧しさ」は大いに関係がある。信仰を具体化するのは「隣人とどう関わるか」である。神を愛することと隣人を愛することは一つのことなのである。

 この物語の状況の何と現代に似通っていることか。富める第1世界の食卓の周りに、世界の人口の2/3以上を占めるラザロが貧困と飢餓に苦しみ叫び声を上げている。これを見過ごしにして無関心と飽食に耽(ふけ)ることは私たち自身が神の秩序にではなく、この世の不正の秩序に加担することではないか。神は人間を互いに向き合う者として造られた。向かい合い、互いに関心を持ち、仕え合い、助け合うものとして、神の愛の秩序に共に生きる者であることが福音に生きることではないか。



「立派な行いとは」            No.491
      (マタイによる福音書5章13〜16節)


 私が小学生の頃は「道徳」という授業科目がありました。あれって今もあるんでしょうか?。内容はまったく覚えてませんが「道徳」は大切であるという意味なのでしょう。私たちの世界は、この「道徳」という概念と、似たものとして「倫理」という言葉があり、その適応が混乱していると思います。道徳(モラル)は一般的には、個人の守るべき善い行いとして「ゴミをそこらに捨てない」とか「落とし物を届けましょう」とか「人に親切にしましょう」みたいに規定されます。それに対して倫理とは、人間は「社会的動物」であるという基礎理解のもとで、この人間同士がどうやって仲良く過ごしていけるかという相対的な概念を提起するのです。

 例えばその二つを混同してしまうと、家族や親を大切にしましょう、だから戦争に行って国を守りましょう!といった権力側に都合の良い倫理の飛躍が起きてしまうのです。一人一人が家族を大切にする事と、社会的な利害関係の絡み合って始まる「戦争」とは全く別次元なんです。

 しかし更に、本日の聖書の個所が語るキリスト者に求められる「良い行い」は違うのです。それは目的が違います。その良い行いは、それによって神様が称えられるようになるためと目的を明記します。言い換えると、良い行いでキリスト教信仰の素晴らしさを伝えましょう!という話しです。しかしでは、そのキリスト者の良い働きが実質的に宣教に良い効果を与えているかというと、これも甚だ疑問なところです。良い行いをしたいが、逆になってしまう。地の塩になりたいのに、地の悪になってしまうような人間の罪深さです。だから、最終的には良い行いで宣教を進めるのは難しいのです。だからこそ、寧ろそうではなく、良い行いが出来ないのに救われた!という神のご恩寵にすがる謙虚さをもって進むのがキリスト教信仰の基礎なのです。つまり、「罪の赦しと和解福音」です。これが私たちの「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」ことなのかもしれません。



「王様ではなくキリストとして」      No.490
       (ヨハネによる福音書6章1〜15節)


 「五千人の給食」と言われるイエス様の奇跡には、その出来事の不思議さだけでなく、様々な神の示唆が含まれています。そして、その最も重要な点の一つが14節以降です。それは、この奇跡を見た人たちが、イエス様の教えに感嘆するよりも、自分たちの王としてイエス様を祭り上げようとしたことです。つまり、神は人の小さな献げものでも何倍にも増やして、神の業として用いられるという大切な教えなのに、その力を自分たちの都合のよく、権利を擁護する道具としようとしたことなのです。ここに人間の罪があるのです。

 先週、聖路加国際病院の日野原重明先生の葬儀に参列しました。勿論、私は先生とは直接の面識もなく、本来は参列する必要性はありませんでした。しかし、以前から先生のお働きを尊敬してきた者として、何かに駆られるような思いで青山まで行って出席をしたのです。その中で葬儀の説教者の言葉が心に残りました。内容としては、日野原先生の功績を紹介してしたら夕方になっても話しは終わらない。しかし、先生はその功績によって天国に迎えられたのではない。先生が安らかに天に帰られたのは、若き頃からキリストの信仰を持ち、キリストの憐みを必要とした一人の罪人であるが故であるといった話です。

 私も本当にそうだなと思いました。五千人の給食を行うような奇跡の力を人は手にしたいと願う。人は、神のためと働きながら、いつかその力の魅力によって信仰の道から逸脱してしまう。しかし神の国に入る条件は、大きな奇跡の力でも、世の中から賞賛を与えられる功績でもない。寧ろ、自分が「キリストの憐みを必要とした一人の罪人」であることを知ることなのです。この謙虚な姿勢に勝る救いの道はありません。キリストは王ではなく、罪人を救うメシアに他ならないからです。



「疑いを超える権能罪」          No.489
      (マタイによる福音書28章16〜20節)


 
先日、カルチャースクールを行ってビジネスされたいという方が相談に来ました。企画内容を伺うと、どれもなるべく損失を出さないように安いコストで行いたいという意向でした。正直、これは無理だと思いました。何故なら、そんな事はみんな考えているからです。みんなが望んでいることをやってもダメなんです。そこを突き抜けて、高いリスクを背負って初めてビジネスは成り立つからです。

 しかしキリスト教宣教はどうなのかというと、まったく別の方法論で進んでいるのです。それはリスクを取る勇気でも、才能や根性の差でもなく、そこは本日の聖書の個所が記す「キリストが世の終わりまで共におられる」というバリューによってのみ前進するのです。故に、その同伴者キリストを自分の生活の中で、どれだけ見出していくことが出来るかという信仰が大切になります。

 介護事業を運営していると、一つクリアするとまた次の課題が三つぐらいやってきます。いつになってもスムーズに、楽に事柄が進まない。イエス様が同伴者ならもう少しスマートに進んでも良いのにと時として思います。しかし聖書の原則に即して、考えると逆なのかもしれません。つまり、イエス様が同伴だからスムーズに進まない。イエス様が同伴だから、立ち止まらなくてはならない。イエス様が同伴だから、利益追求に終始しているだけではダメ。つまり、イエス様が同伴だからこそ、大変を次々と引き受けていく事になるのです。しかしこの大変さは、信仰による限りは絶望との闘いではないのです。絶対的な方向性があります。それは常に同伴者がおり、常に天国に繋がる希望の道のりだからです。



「力を求める罪」            No.488
        (ルカによる福音書5章1〜11節)


 聖書の中には沢山の奇跡的な出来事が記されます。その出来事は常に、神の力を示す出来事であると共に、人間の力を求める罪の姿と交差しているように感じます。ペテロは、イエス様の指示に従って大漁の奇跡を得ます。その出来事に夢中になっていたペテロはふと我に返り、その大漁が自分の力ではなく神の力であることを思い出して、キリストにひれ伏すのです。そこでイエス様は、人間を獲る漁師となる力をペテロに付与されました。つまりこの出来事から推察しれば、私たちが神から頂く力があるとすれば、それは人を神に導くための力(人間を獲る漁師)であって、何かを他者に誇示するための霊力ではないということなのです。

 人知を超えた奇跡的な出来事は、確かに私たちの生活の中にあるのです。しかしその力のベクトルは、何かの利潤や力の誇示のためでなく、人をキリストに導くために、間接的かつ直接的に与えられたパワーであること知らねばならいと思います。

 先週の介護事業のNPO化で、最終関門を無事突破していよいよ8/1には事業移行がほぼ確実となりました。私はこの経緯で教会の皆さんにも祈りの応援をお願いしました。その結果、思わぬ奇跡的な展開が与えられ、スムーズに審査が通過したのです。私は、この結果に、祈っていたとはいえ、まったく祈りの通りに進んだことを本当に驚きました。こんなに旨くに行くはずはないと思っていたので、神が働かれた実感が確かにありました。しかしそれと共に、このことは介護事業の発展のために起こった奇跡ではなく、人々をキリストに導く「人間を獲る漁師」としての働きを継続させるための出来事であることを改めて認識しなくてはならないと思わされました。

 神の力は人の力ではなく、ある目的を持って初めて行使される。それは、人々の魂がキリストに救われ、平安を得ることに他なりません。



「キリストの命に生きる」        No.487
      (ヨハネによる福音書11章17〜27節)
           
              
説教 荒瀬正彦牧師


 
聖書によれば、死は決して憩いの眠りにつく救いではない。死は滅びです。死は罪の結末であり、だから人間は「死に向かう存在」です。それに対して福音は命を語ります。主イエスの十字架は死への宣戦布告であり勝利宣言でした。

 ベタニア村に住むラザロが死にそうだとの知らせを姉のマルタから受け取った時、主イエスは「この病は死で終わるものではない」と言われ、ラザロの墓に向かいました。弔問客としてではなく、死んだラザロのところへ復活の主として行かれるのです。主イエスは滅びの死の向こう側へ踏み込まれます。

 村に着いたイエス様にマルタは言います。「主よ、もしここに居て下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。すると主は言われました。「あなたの兄弟は復活する」。マルタは即座に言いました。「終わりの日の復活の時に、復活することは存じております」。

 マルタの言葉の中に私たちの姿を見るような気がします。「もしここに居られたら」という条件付きの信仰。さらに「終わりの日に復活することは知っている」という教理信仰。こうしたマルタや私たちに対して主イエスは言われるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」。

 復活は、終わりの日と言う何時か分からない<その時、その場>の事柄ではなく、今あなたと共にいる<この場、この時>における現実のことであると、主イエスは告げているのです。終末における復活がイエスによって現在化している。今の事柄とされている。復活の命はイエス様ご自身の内にあるのです。

 「あなたはこれを信じるか」と主は鋭く問い掛けられます。マルタは即座に答えました。「主よ、信じます。なぜなら、あなたこそ救い主キリスト、神の御子、世に来たるべき方だからです」。このマルタの告白的応答を私たちもはっきりとお答えしたいと思います。 



「神はいつもともにおられる」      No.486
   (ルカによる福音書15章1〜3節、11〜32節)



 最近特に思うことは、誤解を恐れずに言えば、キリスト教会の使命の中心は、仲たがいした人間同士に、キリストの十字架の赦しで、和解の橋を架けていくことだと思うのです。よい善人や公民を作ること、この世の政治的な改革の支援も大切なことではありますが、それはむしろ周辺的なことだと思います。私は、是非、多くの人に、教会に救いを求めに来てほしいと思います。

 私たちの暮らす世俗社会では、仕事や学校、趣味、家族、飲食等々と、人は色々な場所に自分の居場所を探し、存在の肯定を願っています。それはこの世に生きる人間が、享受することを許された恵みであることは確かです。しかしあまりにも、努力や実力によって得られ一時的な充実に心を支配され、そのような世界で自分の意義や存在の肯定を求めるために、度重なる挫折や苦悩に陥ってしまう。そして、もがき続けて人生の泥沼には入ってしまう方が本当に多いように思います。

 努力も大切ですが、それ以上に、イエス・キリストのもとに、救いを求めにきて欲しい。自分の能力や、人間性や、処世術に頼らず、第一にキリストに人生の救いを求めて欲しい。その時に、本質的な意味で、絶対に人生は好転するのです。

 そのことを本日の「放蕩息子」の例えは示しているよう思います。放蕩に身を持ち崩す弟、努力で認められようとする兄。いずれも真逆でありながら同じように一時的な充実に浸ってしまい、神を見失っています。そうではなく、神のもとに帰ることの素晴らしさがここでは語られるのです。目を覚まして神のもとに帰って来なさい。今がどんなであっても、イエス様は手を広げて私たちを待っておられるというメッセージ。私もそのみ赦しもとに戻り続け、平安を得て過ごしたいと思わされます。


「私たちが報われる生き方は」      No.485
        (ルカによる福音書14章15〜24節)


 イエス様のなされた天国の例え。そこでは予め招かれたものは自ら入らず、逆に当初は招かれていなかった、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人が優先的に入る場所であることが記されます。

 勿論では、此処(ここ)で言う生活も整った多忙な人や、先週の話の金持ちと形容される人は、一切天国に入れず地獄の印籠を聖書は渡している訳ではないのです。寧(むし)ろその人たちに、そのままでは地獄落ちですよと警告を発しているのです。貧しく不自由な人たちが第一に救われるのを見て、天国の座席が一杯になる前に私たちも悔い改めて、その救いに入るようにとイエス様は言われるのです。だからイエス様は、ルカ福音書の5章で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われたのです。

 私は、教会の使命はこの天国に入りたい人を最後の一人まで送り届けることが使命だと最近強く感じます。出エジプトを導いたモーセは、イスラエルの民の先頭に立ち紅海に入り道を開きました。そして、最後の一人が渡り終えるまで水の中でしんがりを守るのです。そのように、神を信じで天国に入りたい民をひとり残らず送り届けた時に教会の使命は完結するのです。

 先週、神学校の同窓会に出席しました。同窓の教師たちが様々な状況を説明していました。新会堂を建てて、凄く勢いのよい教会を牧会する者。現住陪餐6名礼拝出席4名の教会を長年働きながら牧会する教師。まったく違った様々な現場状況の教会と働きです。でも、私はそのどちらかが成功や失敗とは思えませんでした。沢山の信徒がいようと、6名の信徒であろうと、最後の一人を乳と蜜の流れると言われるカナン地へと送り届けること。これこそが私たちに与えられた使命。このことをキリストを信じる仲間と一緒に果たし、みんなで天国へと行きたいと思わされます。



「遥かかなたを見つめること」      No.484
        (ルカによる福音書16章19〜31節)


 近視眼(きんしがん)という言葉がありますが、その説明には「目先のことだけにとらわれ、将来の見通しがつけられないこと」と記されていました。正にこの言葉は本日の聖書箇所を示していると思います。

 この世では贅沢極まりない生活を送っていた金持ちと、貧困と病気に苦しみ犬になめてもらっているラザロ。死んだ後に、金持ちは地獄に落ちて、ラザロは天国に行く(きっとラザロをなめていた犬も一緒に天国に行ったと思う)。金持ちは地獄の苦しみの中で、遥か天の彼方に、ラザロが天国で幸せに過ごしているのを見るのです。遥か彼方ですから相当遠い場所。この金持ちは、地獄に落ちても、人をお金で動かせるという考えを捨てられず、ラザロに命令して自分を苦しみから救い出そうと考えるのです。しかしそれはアブラハムによって否定されますが、その後も懲りずにまたラザロを召使いとして使い、地上で地獄に落ちることが確実の家族に助言をさせようとするのです。

 私は、この近視眼の金持ちの最大の問題は、人が人を顎で使うことが優位な人間には許される特権だと思っていたことにあると思いました。人間が人間を支配する権利を持ち得ると考える傲慢さ。それは他人事ではなく、私たちの社会全体が持っている大問題のように感じます。その代表的な例が、今テレビを賑わせている「何とか問題」への政府の対応です。権力で人を支配し、黒を白と言わせることに酔いしれる金持ち達の姿。

 私は、皮肉たっぷりに言いたいと思います。是非、その調子でやってください。いつか、地獄であなたが気付いても、慌てて遥か彼方を見上げても、時既に遅し。そこには深い淵があり二度と超えることは出来ないと記されていますよ。

 それではどうすれば、その近視眼から逃れ得るのか。実は、私たちは、この金持ちを笑っている場合ではなく、寧(むし)ろ明日は我が身なのです。だからモーセと預言者に聞き、死者から復活されたキリストに聞くのです。つまり、聖書に人生の道を聞き、遥か彼方を見上げて、今日何をなすべきかを知ることです。キリストの救いは無償で誰もが受け取れます。しかしそれは、自らが取りに行くべきギフトであることを忘れてはならないと思います。



「神のもとから来られた教師」      No.483
        (ヨハネによる福音書3章1〜15節)


 聖書の言う生活を変えることは、現状を悔い改めて努力して良い人間になるということではないようなのです。寧(むし)ろ、今の自分では修正しようのない罪人であることを認識すること。そしてその修正不可能な自分を更に鞭叩いて修正するのではなく、まったく新しく生まれ変わることを告げるのです。

 この理解は大切だと思います。私たちは自己努力で自分を何とか修正しなくてはと思っています。真面目であればある程そう思うし、しかしやはり修正できず挫折してしまう。そして心病んでしまう。そうではなく、無駄な努力として古い罪人との戦いより、まったく新しい自分となってスタートすることを信仰による生き方だと言います。

 ユダヤの教師として自己努力を続けてきたニコデモノの問いに、イエス様の答えは「そうではないですよ、今の自分を変えるのではなく新しく生まれ変わりなさい」と言われました。私たちは毎日失敗します。気分の乗らない日々が続きます。がっかりしてしまいます。でも、その自分を引きずるのではなく、明日は新しく生まれ変わってゼロからスタートするのです。なんかそう思うと気分がいいですね。この気分の良さが信仰の力です。パウロは「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と言われました。正にこれこそ生きにくい社会を健やかに生きる、キリスト教的極意なのだと思います。



「いのちの言葉」            No.482
            (使徒言行録2章1〜4節)
           

              
説教 荒瀬正彦牧師


 
ペンテコステの出来事は、聖霊が弟子たちの上に降ってきたことです。
それは「激しい風のような音がして、炎のような舌が弟子たちの上に留まった。すると聖霊に満たされ弟子たちは語りだした」という出来事でした。

 「舌」は「言葉」と言う意味があります。つまり弟子たちの上に「言葉の霊」が注がれ、彼らがキリストの福音の言葉を語りだした、即ち、神の真実を語る言葉、愛の言葉、救いの言葉、命の言葉を語りだしたのです。

 この出来事には聖霊の働きを示す4つの重要な事柄が含まれています。
@聖霊は弟子たちに語るべき言葉を与えられた。彼らは福音の証人とされた。
A聖霊は福音の言葉を聞く者にも力強く働きかける。洗礼へと導かれる。
B聖霊は人間的な一致ではなく、主にある一致を与えられる。
C聖霊は福音の使者として、人をこの世へと派遣する。

 聖霊は2000年前の五旬祭の日の一回限りではなく、私たちの日々の生活の中に、いつも共に居まして働きかけ、語り掛けて下さっているのです。そして言葉を与え、理解する知恵を与え、交わりと平和と喜びを与えて下さる。主は今日も「聖霊を受けよ。聖霊を受けよ」と私たちを招かれます。

 ペンテコステの日、弟子たちの小さな群れが「エクレーシア・教会」として立ち上がりました。「教会」は「集まった群」ではなく、主の招きによって「集められた群」です。さらにその群が福音を携えて「この世に散されて伝道する群」であるときに「エクレーシア・教会」であるのです。

 ペンテコステの今日、私たちも福音の器とされて、神様の愛と赦しを伝える「命の言葉」を大胆に語り伝えて行く「教会」でありたいと思います。



「躓まずかせないために」        No.481
     (ヨハネによる福音書15章26〜16章4節)


 最近、NHKの特集で、エレイン・N・アーロン博士の著作「The Highly Sensitive Person (とてもセンシティブな人)」の題名の頭文字をとった「HSP」が紹介されていました。普通と言われる人達よりも「敏感」「繊細」「感受性の強い」「感じやすい」人が世の中にはいて、まったく普通に見えるが感性が敏感過ぎて、自分でも気づかないうちに疲弊してしまというのです。なるほどと思いました。

 ただ問題は、そう診断を受けても、生きやすくなる訳ではなく、依然として社会は厳しい。超敏感肌には生きにくい世の中なのです。それでも出来ることがあるとすれば、それは自分を受け入れることであり、その上で、その自分ができる努力を見つけていくことなのだと思いました。委ねることと、努力をすることの両面です。

 あの有名な「ニーバーの祈り」は、現代的なHPS分析の遥か前から、人の本質を見抜いて、その祈りを記したようにさえ思えます。ニーバー先生は変えられない人の苦しみを知り、変えられない自分は神に委ね、変えられる自分を信じるようにと祈ったのかもしれません。

 イエス様は、弟子達が躓かないように、予め受難を宣言し、聖霊が私たちを助けてくれるので心配しなくてよいと言われました。どんなに努力しても変えられず、躓きそうになる人生を聖霊が助けてくれる。そしてその霊が、私たちを日々新たにしてくれる。この信仰の奥義は凄いと感じさせられました。 



「世に負けないで進む」         No.480
       (ヨハネによる福音書16章25〜33節)


 昨今、「SNS投稿」によってストレスを感じている人が、多数いるという記事がありました。旅行に出かけた、いい食事をしたり、何を買った等々。人の生活のいい部分ばかり報告されているので、それを持っていない人にとってはその投稿に嫉妬を感じてしまうというのです。これは、持っていない者が、持っている人へ感じる当然の人の心理現象たど思います。しかし、そのような嫉妬を生み出し精神まで病ませるような情報が過多の社会だからこそ、世俗の勝利ではなくキリストの勝利に連ならねばならないと思うのです。

 私たちは常に「未だと既に」という二つの現実の中に置かれています。未だ天国には入っていないという事と、それでも既に天国の住人として救われているという信仰による事実と確信です。

 このことを使徒パウロは 「私がすでにそれを得たとか、すでに完全になっていると言うのではない。ただそれを捕らえようとして追い求めている、そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである。兄弟たちよ、私はすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである。だから私たちは達しえたところにしたがって進むべきである」と言われたのです。 私たちの信仰の旅は途上なのです。そのことをある人は「途中信仰」と形容しました。キリストは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われることで、私たちの途中信仰の道を励まし共に歩んでくださるのです。人



「あなたも同じようにせよ」       No.479
        (ルカによる福音書10章25〜37節)


              
説教 荒瀬正彦牧師


 1人の律法学者が主イエスに問う。「先生、何をしたら永遠の生命を受け継ぐことが出来るでしょうか」。宗教の本質に関わる質問である。この問いに答えてイエス様は一つの譬(たと)えを話された。「善きサマリア人の譬え」である。

 この話には7人の登場人物がいるが、さて、私たちは誰に相当すると考えるだろうか。
私たちも律法学者と同じような問いを発することがある。「どうしたら救われるか。どうしたらこの苦しみから解放されるのか」。これに対しイエス様は反対に問い掛けられる。「あなたはどう考えるのか」。多分、律法学者と同じように「神様を愛します」とこたえるだろう。だが神を愛するとは自分の全部を神に明け渡すことである。それが私たちに出来るのか。

 祭司やレビ人はどうだろう。彼らは自分に課せられた務めが大切であった。自分の立場・務めに真面目であった。が、結局は自分を守ることに汲々としていた。強盗も宿屋の亭主も結局は自分の立場・自分の利益が優先していた。
登場人物の誰をとってもそれが全部自分の姿に置き換わってしまう。

 実は私たちの本当の姿は半死半生になって倒れている旅人ではないか。外面は平常を装うが内実は悩み苦しみ、思い煩いに疲れ果てている。その死にかかり、血を流し涙を流している私たちに神様は独り子を送って下さった。独り子イエスは私たちに近寄って来て、労わり介抱し「もう大丈夫だよ」と言って下さり、立ち去る前には聖霊というデナリ2つを教会に託して下さった。キリスト・イエスこそ苦しむ者の側に身を置き、ご自分も血塗れ泥塗れとなって十字架を背負って下さった。「私の隣人とは誰か」。イエス様その人ではないか。

 主イエスは言われる。「あなたも行って同じようにしなさい」。イエス様を隣人として持つ私たちは、今度は自分が隣人となって主イエスの福音を携えて出て行くのである。「あなたも行って同じようにしなさい」という御言葉の中に十字架と復活の主キリストの招きと励ましを聞くのである。



「神の枝から離れて危険です」      No.478
       (ヨハネによる福音書15章1〜10節)


 インターネットの記載で「信仰は何の役にもたたない」というような見出しで悲劇的な家庭の内容が記されていました。両親ともにクリスチャンであったが離婚して、子どもは悲劇的な境遇に置かれて行く。その渦中では、キリスト教信仰が人生を好転する役割を何も担えなかったと記されていました。しかし私はその記事を読んだ時に、この両親や家族はキリスト教信仰自体をしていたのかという疑問を感じました。ただ、子どもの頃にとか、一時気が向いて洗礼を受けても、その後は教会には行かず世俗社会にどっぷり浸かっての生活ではなかったのか。少しでも信仰の道に立っていれば、そう容易に離婚はないし、教会の兄姉が家族や子ども達も多方面で支えてくれる。互助性も教会家族としての重要な点。その共同体から離れて自由奔放に生き、困った時は、神は何もしてくれないと批判したとしたら如何なものかと感じるのです。いやその訴えに、神様が一番に困っていると思います。「そうは言われてもね!」と。

 しかしまたもう一方では、いくら熱心であったとしても、自分の命を救うことは出来ないのも事実です。例えば、何億円という費用がかかる臓器移植を行わないと助からない状況の方がおられます。しかしそのお金は、如何にまじめに昼夜を問わず10年働いて家財全てを売り払ったとしても、集められる額ではないのです。つまり自己努力では命は救えないのです。ではどうすればいいのか。それは他者の力を借りることです。例えば、募金活動によって目標額を集めるように。それは、信仰的に言い換えれば、自己努力で自分の命は救えないことを謙虚に知り、キリストに救って頂くことです。

 以上二つの例えですが、大切なことはキリストに繋がっていることです。世俗社会の悪魔から守ってもらうために繋がっている。命を救ってもらうためにも繋がっている。いずれにしても、キリストを離れては私たちの生活も命もないことを知らねばならないのです。この路線に立って、動かされず、信じていてよかったと言える生涯を送りたいと思います。



「受けるために捨てる」         No.477
       (ヨハネによる福音書10章7〜21節)


 先日、介護の仕事で訪問したご家庭の方か偶然にも知り合いでした。今は、病を抱えて苦しんでいる様子でした。彼は「この人は、俺が一番輝いていた時代を知っているんだよ」とお連れ合いに紹介してくれました。その出来事を通して、自分の一番輝いている時代とはいつなのかと思いを巡らせました。

 何故か私は、20歳にて教会の門を叩いてしまい、世の中に溢れる沢山の楽しいことをやりたかったのに、気がついたらどっぷりとイエス・キリストの生涯に浸かっていました。バイクの草レースや、パラグライダーの大会、各地の登山、海外の隅々までの旅行、毎週土日は食べ歩きや旅行三昧。あんなことも、こんなこともしたかったと今でも思います。

 しかし、それを捨ててこなければ現在はない訳です。楽しいことばかりを追い求めて人生を充足させようとする限り、その生涯は渇望と喪失の戦いとなることでしょう。あの頃は輝いていたのに、今は?ガックリと。勿論、辛抱と清貧を繰り返せば全て正しいという話ではないのです。旧約のコヘレトが「「順風は楽しめ」語るように、小さな楽しみを謳歌するのも人生の権利です。 でも、捨てなくては受けることは出来ないのも真実。物が一杯に詰まったカバンに「入らない入らない」と嘆くよりは、日々捨てて、日々新しいものを入れたい。それがキリストの受けた”掟”なのかもしれません。   



「赦すことが赦されること」       No.476
       (ヨハネによる福音書20章19〜23節)


 この23節の「誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とはどういうことでしょうか。クリスチャンは罪を赦したり、裁いたりする権威を神に代わって持っているというのでしょうか?。何か、そうだとしたら恐ろしいですよね。私たち人間の狭い心が、人が赦されるか赦されないかという重大な事態を担っているのですから。でも色々な言い逃れはありますが、キリストの弟子である限り、その責任の内に私たちはあると思うのです。その責任とは、赦さない権威ではなく、罪が残らないように罪の赦しを告げる責任です。キリスト者の本分は罪の赦しの宣言だと常々思っています。全世界へ、神の赦しと和解とを告げ知らせる宣教です。

 でもある人は「そんな赦しなんて、本当に酷い目にあった事がないから言えるんです。自分が本当に酷い赦せない事態に陥ったらそんなことは言えるはずがない。クリスチャンは呑気ね!」と一蹴されてしまうかもしれません。でもこの論説は正しいようで、ある一面しか捉えていないとも言えます。世の中を見ると、もっと酷い目にあって苦しんでいても神の赦しを信じる人と、クーラーの効いた部屋でのんびりお茶を飲んでいても、人を赦せず叫び続けている方もいます。そうではないんだと思います。

 寧(むし)ろ大切なことは、主の祈りにあるように「我らを試みに合わせずこの世の悪より救いたまえ」と祈ることだと思います。人の罪を赦せないような事態に、自分を陥らせないでくださいと祈るべきなんです。その時、耐えられない試練は与えないよ!という神の声が再び聞こえてくるのです。そのみ言葉の助けを得て、教会の兄姉と共にキリストの赦しの宣言を続けていきたいと思わされます。



「私たちが捜していた方」        No.475
        (マルコによる福音書16章1〜8節)


 イースターは、キリストの復活を祝う日です。しかしこのキリストの復活というのが、人々の大いなる躓きでもあります。イエス様の時代は科学も発達していなかったから、容易に信じられたと考えるとこも間違いです。キリストの復活に出会い逃げ出した婦人たち。キリストの復活を買収にて隠蔽しようとする役人たち。目の前にキリストが現れてもまだ否定する弟子達。キリストの復活は、その当時からその事実を否定し隠蔽しようとする勢力と、その事実を肯定する神の力との対峙が起きているのです。

 しかしその悪の抵抗は、苦労の甲斐なくもキリストの復活は広まって行ってしまいます。それは、弟子達の地道な宣教だけではなく、ローマ帝国の拡張という悪の背後に潜んで、植民地政策という人の業の陰に隠れて、近代ではクリスマスの賑わいにのって、更に今やイースター商戦さえも用いて復活は広がり続けるのです。多くの人が否定し続ける人たちの意志とは逆に、広まり続けていくキリストの宣教。

 神の宣教は、神が先頭に立って進められるのです。私たちは、その宣教に忠実な僕としてついて行くだけです。いい方策も浮かばずとも、知恵が足りなくてもいいのです。キリストの目指した方向に私たちも手を伸ばして、迷いながらも信じて進んでいくのです。それが、キリストの復活に出会った私たちの証なのだと思います。


「棕櫚の主日」             No.474
        (ルカによる福音書19章28〜44節)
           

              
説教 荒瀬正彦牧師


 主の一行がベタニア村に近づいて来たとき、主は二人の弟子を呼んでお使いを言いつけた。「向こうの村にロバの子が繋いであるからそれを引いて来なさい。誰かが『何故か』と尋ねたら『主がお入り用なのです』と言いなさい」。言われた通りにするというのは簡単なことではない。それは冒険である。「主がお入り用です」とは直訳すれば「このロバの持ち主が必要としている」という言葉である。私たちはその御言葉を携えて向こうの村に出て行き人々に向かって「あなたのことを主がお入り用だと申しております」と言うのである。宣教の業は正に冒険である。二人の弟子はその冒険の結果驚くべき経験をした。御言葉は成就するという経験である。

 オリーブ山の麓に来たとき弟子たちは詩編118篇で歌われる賛美を歌った。ところが「うるさい。静かにしろ」と怒鳴った者がいた。主は答えられた「言っておくが、弟子たちが黙れば石が叫び出す」。十字架を前にしてこの歌は今ここで歌わねばならない。この歌は祈りであり、十字架の主イエスについての叫びなのだ。誰にも止めることは出来ない。エルサレム入城の出来事、それはその後の世界を揺り動かし、歴史をひっくり返すほどの出来事であった。弟子たちはこの一連の出来事の中で大きな決定的な経験をした。この経験こそ恵みであった。誰が主であり、何が主のものであり、何が希望であるかを知ったのである。たとえ忘れることがあったとしても、必要な時が来れば必ず聖霊の導きが与えられるのである。「主の言葉に従うこと」「キリスト賛歌を歌うこと」の二つを大事にしたい。私たちの心の弱い部分が「黙れ」と囁いても「お前が黙れば石が叫び出す。黙ってはいけない」と主が励まして下さる。 レントの最後の一週間、ただキリストに従う信仰の冒険に踏み出したい。



「仕える者になりなさい」         No.473
       (マルコによる福音書10章35〜45節)


 イエス様の時代のイスラエルと、私たちの暮らす日本社会は、状況や価値観があまりにも違うことをふまえつつ聖書を読むことか必要だと思います。聖書の現状は、日本で言えば戦国時代みたいなもので、正しさではなく、力の強さがその生存を支えていました。「真摯にまじめに正しく謙虚」といった者は、餓死するか殺されて身包み剥がれてしまうのが落ちです。イエス様の言われる「偉くなりたいものは仕える者になりなさい」何て事をまともにやったら、強い者たちの思う壺であり、人生が成り立たない社会。その正直者はバカを見る的な時代のど真ん中で、このことを言われて、自らも行ったとは、本当に驚きなんです。しかしだからこそ、そこに十字架の重みがあります。

 先日ある集まりで、近隣お医者さんとお話しをしていました。その医師曰く、受診に多くの患者がくるが「もう生きていたくない、何のために生きているかわからない」との言葉をよく聞くというのです。治療は出来るが「何のために」という問いに答えるのは容易ではないと言われていたのが印象的です。そして牧師先生だったらどうしますか?と聞かれましたが、私もそんな簡単に答えられることではないとお伝えした次第です。

 しかし同信のキリスト者に対しては、明確にいうことが出来るのです。それは、「偉くなりたいものは仕える者になりなさい。一番上になりたい人は全ての人の僕となりなさい」。こうして神と人とにお仕えすることそこ、私たちへの聖書の答えであり喜びなのです。キリストの受難を私たちなりのあり方で享受し、復活の恵みに預かりたいと思います。              



「神はその人を大切にされる」       No.472
       (ヨハネによる福音書12章20〜26節)


 この箇所において、「父(神)はその人を大切にしてくださる」とあります。その大切にしてくれる対象とは、地に落ちて死ぬ者、自分の命を捨てる者です。そのようにして、キリストに従うものを神は大切されると語られます。ですから、そのように神に従いましょうということです。しかしでは、キリストの直弟子さえ十字架を恐れて逃走してしまったのに、誰がこの命がけの使命を神の前でまっとう出来るかという疑問もあります。

 つまり、この神に大切にされる対象は、本質的にはイエス様しかおられないのです。死に至るまで従順に、その使命を果たされたキリストのみが神に重んじられる者なのです。私たちはそのキリストの十字架の死により、その贖罪の恩恵のもとで「神に大切にされるもの」とみなされるということです。これがキリスト教的な救いであり、神に従う根本原理なのです。

 先日、あるミッション系大学の学位授与式に出席しました。そこで学長先生が講壇から話されたことは、昨年の若い電通職員の自殺を受けて、そうならないようにと卒業生に語るものでした。仕事だけが全てではない、趣味を持ちましょうとの話。確かに人生は仕事が全ではないし、趣味をもっと自己解放して生きることは大切です。しかし折角のミッション系大学の授与式ならば、聖書テキストから人生の問題へのヒントを語って欲しかったように思いました。例えば、何でも自分でやり遂げる責任追及ではなく、神という大局的な視点から自分を見つめ、自分が生かされている意味を受け止めなおすこと。人の目に認められることを求めて挫折するのではなく、私たちに人生与えられた神の恩恵によって、自分の生きる価値を見つめ直すことなどです。

 目の前の事象に、人の価値が振り回されてしまう日々から、神の愛に自分を委ねていく生き方へとシフトすること。それが命をかけたキリストの願いだからなのです。



「相応しくない者が招かれる時」      No.471
        (ルカによる福音書9章57〜62節)


 イエス様は、信仰の志を立てた者に従うことを求めますが、彼らは待ってくださいと言ってしまうのです。その姿勢に対して「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。まったくその通り、非の打ちどころのないイエス様の攻めの言葉です。

 しかしよく観察すると、この鋤に手をかけてから振り返っている人は、一切従いませんというのではなく”困ったような様子でちょっと待ってください”と言っているように感じます。自分で信仰を告白したのですから、イエス様の言われる通りです。ただ、ちょっと待ってもらえませんかと交渉に出るのです。

 この姿は不信仰なようですが、まさに私たちの信仰の歩みそのものに感じます。自分で信じて告白し、この道を歩み出したのに”ちょっと待ってくだい”という私達。いや、買い物が、車が故障して、親戚が、友達と食事の約束が、仕事が、そう正にここに記される「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」とは私達自身なのです。私たちは信仰の失格者、神の国に相応しくない者なのです。

 そのような背信をしまくってしまう私たちに、聖書はそれでも「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではない」(へブル4:15)と言われるのです。信従の姿勢であることが第一であり、それを否定することは一切できません。しかしまた、従えない私達であることも間違いないのです。だからこそ、そこに救いが必要なのです。

 大切なことは、この救いのもとで、後ろを振り返る度に前に向き直り続けることだと思います。何度も何度も振り返り、何度も何度もキリストに向き直ること。あの放蕩息子を赦したキリストは、私たちも日々同じように招いておられます。



「起きて、歩け」             No.470
        (ルカによる福音書5章17〜26節)
           

              説教 荒瀬正彦牧師


 1人の中風を患っている病人を、4人の友人がイエス様の許に屋根の瓦を剥して連れて行ったという有名な話である。彼らの行動は非常識なものであった。しかしイエス様は彼らの信仰を見詰められていた。救いに至る信仰とは行動を伴った信仰であろう。イエス様にすべてを委ねようとする全人格的な行為である。「救い」とは、信じることが出来る者だけが救われるのではない。執り成しの信仰もイエス様は受け入れて下さる。夫のために妻が祈る。家族のために父が祈る。自分の愛ではどうにもならないものをイエス様の前に差し出す時、イエス様は祈られている者に言われるのだ。「お前の罪は赦された」。 さて、この場に居合わせた人々はどうであったか。

●一人は当の病人である。彼は病の癒しを願っていただろう。が、イエス様が彼に言われたことは「治して上げよう」ではなく、「お前の罪は赦された」という言葉であった。人は目の前の願いしか見えない。しかし本当に願うべきことはただ一つなのである。それをイエス様の方から差し出して下さった。中風の男はイエス様の下さったものを素直に受け取った。感謝して受け取った。

●群衆はどうであったか。家にも庭にも溢れていた群衆は、病人とその友人たちがイエス様の許に行こうとするのを妨害する。聖書は「群衆が阻んだ」と記している。病人にすら道を譲ろうとしない群衆のエゴ。何と悲しい姿か。

●さてイエス様。主は「お前の罪は赦された」と言われた。律法学者たちは心の中で「神を冒涜するこの男は何者か」と呟いた。主は「人の子が罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言い、病人に「起きて歩け」と言われた。罪を赦すことが出来るのは神様だけである。赦しは神との関係の回復を意味する。それは滅びに至る死から永遠の命へと転換させることである。主はその力を目に見える姿で人々に示された。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。これが主イエスの愛、福音である。様々なしがらみの中で苦しむ私たちに主は語りかけられる。「起きて歩け」。それは罪の赦しの宣言であろう。 受難節の今、主の罪の赦しに感謝し、福音の証人として歩む日々でありたい。



「人はパンのみで生きるにあらず」     No.469
       (マタイによる福音書4章 1〜11節)


 キリストが荒野で経験する三つの誘惑。空腹の誘惑、試みの誘惑、権力の誘惑。なんども読んだこの聖書の個所。しかし今回は何か二つ目の誘惑が、神への試みというよりも死への誘惑に聞こえてきました。高い場所に連れて行かれ「ここから飛び降りてみろ、生きているより楽になるぞ!」と悪魔は囁(ささや)いたのではないでしょうか。

 イエス様自身が真の神であると共に、持っていた真の人として感性が、世俗社会の苦しみによって彼を死へと誘惑をしていのかもしれないと感じました。

 神であり、人であるイエス様の苦悩。どんなに誠実に働いても、大勢の群衆に囲まれ称賛されても、突然、あれ程に慕って集まったはずの人達のが、クモの子を散らすように居なくなってしまった現実。そこで、悪魔は”しめしめ今”だと好機をとらえて言うのです。「ここから飛び降りた方が楽だよ!」。現代社会は、多くの人がこの悪魔の声に、引きずられるように死を選択してしまうのです。

 人の価値が他者との差によってしか評価されず、人の存在が踏みつけられ、人の命を証明する方法が唯一死のみになってしまうほど追い詰められてしまう世の中。

 では、どうしたらそんな虚無から逃れ得るのでしょうか。イエス様が「退けサタン、あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と叫ぶと悪魔は離れ去ったと記されます。そう、悪魔の死の誘惑を逃れる方法は、何かに対抗してもっと頑張るということではないのです。もっと素朴で、もっとシンプルに、神を礼拝し神に仕えることなのです。牧師も信徒も心を一つにして神を拝し礼拝をお捧げして、また一週間に送り出されていく。これこそが人類普遍の幸せだと思わされます。


「自分の十字架を探す」          No.468
       (マルコによる福音書8章31〜38節)


 この 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とこの箇所はイエス様の言葉を記録しています。ではイエス様は、私たちにどんな十字架を担えと言われたのでしょうか。もしかすると、キリスト者にとって、キリスト者であるということ自体が十字架なのかもしれません。信仰に生きる素晴らしい恵みと共に、重い十字架も背負うのです。その十字架は、正しく生きようとしても、キリストのように努力が無になり、キリストのように理解されず、キリストのように孤独を甘受することなのかもしれません。

 先月の私たちの教派の定期会議で、同労者の牧師がそのライセンスも返上して離職することが決まりました。優秀で真面目な教師が、疲れ果て宣教の前線から撤退するのです。私が洗礼を授けられてから数えても、教派内でだいたい8名の者が宣教の前線から離脱しました。ある者は按手礼を受ける前に、ある者は現役教師のど真ん中での出来事。これはまさに、キリストの十字架の重さに喘ぐ伝道者の苦悩が現れているように思うのです。いや、重過ぎるのではないかとさえ感じます。

 この現実の中で、今一度考え直す時、この働きは自分の十字架を負うべきであって、人から感謝されたり、必要とされたり、ましてや賞賛されるような評価によって成り立つ働きではないということなのです。寧(むし)ろ、真逆な働きなのです。ヤコブが神と格闘したような、孤独な神との格闘のようです。

 灰の水曜日を超えて、教会は毎年の行事として受難節に入りました。そこでは十字架の贖罪の感謝を捧げる前に、その重み意味を今一度問われているように思います。そして、その問いの答えこそが「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタ11:30)というキリストの言葉に到達出来ることを願います。  


「聞く耳を持つ難しさ」          No.467
         (ルカによる福音書 8章4〜8節)


 この箇所はタネ蒔きの例えです。タネを神の言葉(福音)とし、またそれが蒔かれる畑を人間自身と例えました。ここではタネの質は初めから良いものと定義されて、問題はどういう畑であるかが指摘されます。どんな良い種も、畑が耕されていなければ成長し実を結ぶことは出来ないのです。神の言葉もその聞く人の姿勢によって、良く成長もするし、逆に無意味にもなってしまいます。

 この聖書の話を聞く度に私が思い出すのは、家のミカンの木です。毎年、何もしなくても沢山の実を付けていた玄関先のミカンの木が、ある年は数個しか生ってなかったのです。何故かな?と思っていると、母親が「今年は肥料を上げなかったから生らなかったね!」というのです。そこで私は、いつも沢山実っていたのは、知らないうちに肥料をあげている母親がいたからだということが初めてわかったのです。何もしなくても毎年沢山実が生るのではなく、必ず誰かが耕し肥料をあげて、初めて実がつくのです。

 神の言葉もそうです。何もしなくても熱心な信仰が生まれ、何もしなくても素晴らしい信仰の働きや実が生るのではないのです。タネはいいのですから、後は耕すことです。この耕す行為とは、私たちにとっては礼拝を守り、日々御言葉に聞いて行動して行くということなのだと思います。私たちの世界では、私たちの期待した通りにすぐに芽が出て実が結ぶというはないかもしれません。しかしたきちんと耕し続ければ、タネはいいのですから、必ず大きな成長と収穫を得る日が来るはずです。その未来を信仰の目で先取りして、今日の信じる歩みを続けたいと思います。


「私も泊めてください」          No.466
       (ヨハネによる福音書 1章35〜51節)
           

              説教 荒瀬正彦牧師


 洗礼者ヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言います。罪の問題に悩む者に、大きな気付きを促しているのでしょう。私たちは罪を犯しつつ生きています。罪のない人などいません。しかし罪の現実はあっても、その「罪の力」は取り除かれているのです。十字架のキリスト「神の小羊」によって、裁かれるべき罪、滅びの死に至る罪は取り除かれているのです。私たちの信仰は「罪は既に取り除かれている」という事実に生きるものです。ヨハネのその言葉を聞いて「その方の弟子になりたいと」二人の弟子がイエス様の後からおずおずと声も掛けられずについて行きました。するとイエス様の方から彼らに向かって振り返り声を掛けられた。「何を求めているのか」。イエス様が私たちの求めを聞いて下さるのです。

 今日の聖書には「見る」という言葉が何回も出てきます。ヨハネは「見る」ということの事実性・客観性を大切に考えたのでしょう。福音は観念的なものではありません。ヨハネは自分たちが「見た」イエスが「どなたであるか」を告げようとしているのです。宗教改革者のルターが「耳の中に目を突っ込みなさい」と言ったといいます。ぼんやりと耳で聞くだけでなく、まるで耳の中に目があるように「言葉を見なさい」と言うのでしょう。
 二人の弟子は「何を求めているか」という主の問い掛けに「どこにお泊りですか」と答えました。この宿泊場所を聞く問いは「あなたはどこに位置する方ですか」と訳すことも出来ます。「あなたは神の救済計画の中でどこに位置するのですか」という極めて本質的な問い掛けが為されていると思います。その夜二人はイエス様の許に泊まりました。それは単純な語り合いの一夜を共にしただけではなかった。彼らが生涯を賭けてイエスに留まることを意味したのです。

 私たちは礼拝の度毎にイエス様からお声を掛けられています。「何を求めているのか」。その時「私も主の家に泊まる者となりたいのです」とお答えしたいと思います。



「仮小屋として」             No.465
        (マタイによる福音書17章1〜8節)



 昨今SNSという言葉をよく耳にします。これはインターネット上で自由に自分の言葉を発信できる場所のようなものです。デビッドボーイという有名なロックミュージシャンは、早い段階からこの対話と表現方法が世界に広まると予見していました。それまでは、自分の考えや意見は、新聞やマスコミ、記者といったフィルタを通さなければ社会に発信出来ませんでした。しかし現代は、大統領が、自分の思った意見を直接国民に何のフィルタもなく人々に伝えられるのです。勿論、この直接性は混乱を生み出しますが、また良い意味では矮小化されない真実な対話も生まれるのです。

 このことを聖書に例えると、宗教改革までは神の言葉は司祭という翻訳機?を通してしか聞くことが出来ませんでした。しかし、改革以降は、世界初の印刷機が稼働して聖書が刷られ続けることで、一人の庶民が神の言葉を直接読み聞くことが許されることになったのです。これは物凄いことなのですが、私たちは信仰の先達者死闘によって得られたこの恵みの素晴らしさを本質的に理解できているのでしょうか。

 本日の個所で、山上のイエス様の変容に出会ったペテロが、びっくりし錯乱しつつも何かしたいと思って「仮小屋を建てましょう」と提案しました。これは、聖書を通して直接神に出会うことができた私たちも、仮小屋ならぬ何かを建てましょう!とイエス様に提案する必要を感じさせられる記事です。何を建てるかは、一人一人の賜物によります。しかし小さくても大きくても、自分の与えられた恵みの感謝を忘れずに、神にお返しして行きたいと思います。


「荒波を超えてゆく信仰の道」       No.464
       (マルコによる福音書 4章35〜41節)


 この箇所では、荒波にあって沈没しかかった船上でのイエス様と弟子達のやり取りを記しています。そしてここで言われることの一つは、荒波の体験が、イエス様を信じて行動する事の大切さです。そしてもう一つは、信じていても荒波に会うということです。信仰者は何の苦難もなく生きられるのではなく、イエス様の弟子だからこそ荒波に巻き込まれることも多々あるのです。そのところで見上げる神は、荒野を共に歩まれる同伴者キリストなのです。

 先月、作家遠藤周作の「沈黙」が映画として封切られました。この実際に長崎で起きたキリシタン弾圧の社会情勢を背景にして描かれた中心テーマは「永遠の同伴者イエス」です。これは遠藤氏の描く小説で生涯追い求めたテーマなのです。それはゴルゴダの丘においても、後悔する罪人と最後まで同伴される十字架のキリストの姿でした。このキリストが荒海のような私たちの人生に同船してくださり、同伴してくださることを遠藤氏は伝えたかったのです。キリスト教不毛の地とも言われる日本に於いて、この同伴者キリストとして示される神は、私たちを大いに勇気づけ慰め、信仰の道を確かなものとしてくれることでしょう。沈没しそうなのに救われていた自分に気付かされる信仰に立ちたいと思います。
   


「御国の住人は誰ですか?」        No.463
       (マタイによる福音書 8章5〜13節)



 
キリスト教信仰は全ての人に開かれていますが、それを全ての人が受取る訳ではないのです。マタイの7章にあるように、ここは狭き門です。かつてのイスラエルの民も、この門を入ることが出来なくなっていたのです。聖書が例える話は、イスラエルの民よりも異邦人が先に神を見出し、その異邦人の信仰に見習うようにと語ります。

 それは、生まれながらの特権の破棄です。ユダヤの王室に生まれようが、エルサレム出身だろうが、パリサイ人、律法学者、祭司であろうが、そんな特権は神の国には存在しないのです。私たちの世界で言えば、社長、総理大臣、政治家、スポーツマン、健康だなど、そんなことは御国の住人とは何の関係もないのです。その特権を持っていると思う者は逆に御国から追い出され、本当の御国の権利を持つ者だけがその席に着くのです。その席に着く者は、自分より高い神に畏敬の念を示し、信仰に生きたいと願うものだけなのです。

 つまり、自分の人生の主権を神にお委ねすることだと思います。これが御国に入いる唯一の条件。百人隊長も、カナンの女も、学識高く聖書に精通していた訳はなかったことでしょう。でも、最も聖書に詳しいユダヤ人より、遥かに神の国に近かったのです。

 御国の住人と呼ばれるのが、何かの努力や特権によって保障されるのなら簡単です。来週、介護福祉士の国家試験がありますが、勉強で合格できるのなら日本では既に介護福祉士100人以上が御国に入っていることになります。でも、神の国の住人であるとは、そういう努力ではまったくないのです。大切なのは、能力や地位ではなく心構えです。8節から言えば、イエス様を自分の家に向かえるなんて”めっそうもない”という心からの謙虚さであり、自分が神の権威のもとにあると理解する畏敬の念です。逆に言えば、私こそイエス様をお迎えできる信仰者だぞ!みたいなのはダメだということです。どんなに努力し熱心だとしても、それとはまったく関係なく、神の前に謙虚にひれ伏し信頼して懇願する者だけが御国の住人なのです。初めから終わりまでキリスト教の信仰者であるとはそれだけなのです。これは最も単純で、最も難しい狭き門です。是非、信じる心で兄姉とこの門をくぐっていきたいと思います。



「最初のしるし」             No.462
       (ヨハネによる福音書 2章1〜11節)


 先週、ボランティアで出かけたボーイスカウトのキャンプ礼拝で気づかされることがありました。人は色々なことを行いますが、それは服のボタンを掛けるようなものだという例えです。ボタンを間違えて一段違いではめて行くと、最後のボタンのあたりでやっと留め方が間違っていたことに気付くというのです。しかし、それは最後に気付くことで、初めや途中では中々分からないとのこと。なるほどと思いました。私たちの人生の歩みも然りで、最後になってやっと気付く失敗が本当に多くあります。そして更に言えることは、そうは言ってもボタンは初めから留め直せますが、人生の失敗は初めに戻って留め直すことは出来ないということです。でも、初めに戻せないから終わりという話ではないのです。寧(むし)ろ、誰もが経験する後戻りできない人生の間違いに気付いた時点で、どう修正していく事が出来るかが大切なのです。

 聖書信仰の世界は、その修正力に満ち溢れていると思います。このカナの婚礼の出来事で、イエス様の最初の奇跡が行われます。しかしその奇跡を見た人は、マリアと給仕する使用人だけなのです。その婚宴に集った新郎新婦も、大勢の親類縁者や世話役も知らないのです。神の御業は、人の気にもかけないような片隅の小さな存在に注がれるのです。大きく人生のボタンが初めからずれてしまっていたような、人生であったとしても、むしろ神の御業はその弱さの上に注がれるのです。大切なことは、ルカ17章に記される重い病気かかった10人が癒された出来事に学ぶことだと思います。10人とも病気が治ったのに、神に感謝を献げたのは異邦人の一人きりでした。病気が治った10人全員が人生を修正できたのではなく、感謝を捧げた一人こそが、造り主を知ることで見事に自分の人生を修正したのです。神を知り、感謝を返して行くことにこそ、神の称える人生の好転があるのだと思います。



「救いの歴史」              No.461
           (使徒言行録13章13〜26節)

              説教 荒瀬正彦牧師


 私たちは身の回りの小さな事を感謝していますが、パウロは人類史・世界史の広がりの中で見て感謝しています。私たちが本当に感謝すべき恵みは、神様のご計画にある、それは「救いの成就」であると申します。神のご計画とは私たちの救いです。クリスマスの出来事で神ご自身がそれを証しされました。神は独り子を世に送り、十字架に於いて私たちの罪を贖って下さったのです。

 パウロたち一行の第1回伝道旅行がベルゲまできたところでヨハネと呼ばれるマルコが一行と別れて一人で帰ってしまいます。随分我が儘勝手な行動です。自分の思い通りにならないと奉仕を止めてしまう。気に入らないと言って教会から離れる。説教が気に入らないと言って教会を変わってしまう。私たちもまた、どこかにマルコ的な我が儘を持っています。信仰はただ清らかなだけのものではなく、自分をちやほやしてくれるものでもない。信仰は人間の罪に出会うことから始まるものです。嫌いな人や我が儘な人の言葉や行動にばかり目が行って、その人の上に注がれている神様の愛に目が行かない。パウロも、マルコをそうした目で見てしまった。しかし神様はそのような人間をも用いられます。神様のご計画は小さい者、弱い者、不満を漏らすような人間の群を用いて展開してきました。パウロとバルナバとマルコの人間的な行き違い、腹立ち、誤解、争いは、聖霊の助けと導きによって赦しと和解へと導かれて行きました。16節以下のパウロの説教は導き給う神のお姿です。神は見放すことなく愛をもって選び、導き、育み、与えるのです。神ご自身の方から赦しと和解を差し出して下さっている。神のご計画の只中に置かれた新しい年、私たちに求められている課題は、赦しと和解の恵みを多くの人にお伝えすることです。神のご計画は、今、私たち小さな者を用いて進められております。期待と希望をもって神の御業に仕えるあさひ教会でありたいと思います。   


「わたしたちの力」            No.460
      (コリントの信徒への手紙一3章 9節)


  かつての神の理解は、天高きところに座す神が、下の方に向かって恵みを与えたり裁きを下したりすると考えられていました。しかしキリスト教の神は、上から下の方に御手が伸びて来るのではなく、下から上に向かってその恵みが発信されます。ユダヤの雇われ職業人であった羊飼い達に神のお告げが与えられるようにです。「今日ダビデの町に救い主が生まれるから、あなた達は見に行きなさい!」。そのお告げは、立派な宗教家でも国の当事者でもない、寝る場所もなく夜通し働く最下層労働者の羊飼いに与えられます。彼らは、天使のお告げですから驚いたことでしょうが、逆に凄く嬉しかったのではと思います。自分たちのようなものに神のお告げが与えられるなんて。おとめマリヤも王室の淑女などではなく、ユダヤの田舎の一娘に過ぎません。その彼女に神のお告げが。神の選びは、社会の底辺の方に告げられ天に向かって伸びていくのです。それがキリストの降誕の出来事が示す重要なポイントです。 ]

  私たちの住む日本という社会は、世界から見ればとても裕福であり幸福そうに見えることでしょう。しかしそのリッチな社会が、逆に幸福から離れて行っているのも確かです。そこには他者との差によって手に入れた幸福が萬栄しているからです。あの人より持っているから幸せ、あの人より優秀だから幸せという差による価値の肯定が当たり前のようなってしまっています。しかしその幸福は、持っていない人がいて初めて成り立つ高慢の幸福感なのです。人は人を幸せに導くことが出来て初めて、自分も幸せになるものです。差によってしか得られない幸福は、更なる競争に人をおとしめ、自分の心を病ますのです。

 キリストの恵みと幸せは、下から上に伸びているのです。神のお告げを聞ける人が一番幸せなのです。高慢な差の価値観から離れて、キリストの価値に身を置くときに私たちは本当の平安と幸せを見出すのだと思います。日々、依然として、競争と物に囲まれ走り回る社会から一人だけ抜け出すことは容易ではありません。しかし心は、週毎に神のことに集まりキリストのOKをもらって再出発を繰り返したいと思います。今年も、下からの恵みを受けて進みたいと願わされます。  



「救いを告げるしるし」          No.459
         (ルカによる福音書2章8〜20節)



 かつての神の理解は、天高きところに座す神が、下の方に向かって恵みを与えたり裁きを下したりすると考えられていました。しかしキリスト教の神は、上から下の方に御手が伸びて来るのではなく、下から上に向かってその恵みが発信されます。ユダヤの雇われ職業人であった羊飼い達に神のお告げが与えられるようにです。「今日ダビデの町に救い主が生まれるから、あなた達は見に行きなさい!」。そのお告げは、立派な宗教家でも国の当事者でもない、寝る場所もなく夜通し働く最下層労働者の羊飼いに与えられます。彼らは、天使のお告げですから驚いたことでしょうが、逆に凄く嬉しかったのではと思います。自分たちのようなものに神のお告げが与えられるなんて。おとめマリヤも王室の淑女などではなく、ユダヤの田舎の一娘に過ぎません。その彼女に神のお告げが。神の選びは、社会の底辺の方に告げられ天に向かって伸びていくのです。それがキリストの降誕の出来事が示す重要なポイントです。

 私たちの住む日本という社会は、世界から見ればとても裕福であり幸福そうに見えることでしょう。しかしそのリッチな社会が、逆に幸福から離れて行っているのも確かです。そこには他者との差によって手に入れた幸福が萬栄しているからです。あの人より持っているから幸せ、あの人より優秀だから幸せという差による価値の肯定が当たり前のようなってしまっています。しかしその幸福は、持っていない人がいて初めて成り立つ高慢の幸福感なのです。人は人を幸せに導くことが出来て初めて、自分も幸せになるものです。差によってしか得られない幸福は、更なる競争に人をおとしめ、自分の心を病ますのです。

 キリストの恵みと幸せは、下から上に伸びているのです。神のお告げを聞ける人が一番幸せなのです。高慢な差の価値観から離れて、キリストの価値に身を置くときに私たちは本当の平安と幸せを見出すのだと思います。日々、依然として、競争と物に囲まれ走り回る社会から一人だけ抜け出すことは容易ではありません。しかし心は、週毎に神のことに集まりキリストのOKをもらって再出発を繰り返したいと思います。今年も、下からの恵みを受けて進みたいと願わされます。                   
      
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