カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
     1-19-21
    ミヤビビル一階
 鶴ケ峰本町ブックオフ裏手
   TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


御言葉と出来事
御言葉と出来事(2019年)
  

2019.12.29更新

    
 2008年
 2009年
 2010年
 2011年
 2012年

 2013年
 2014年

 2015年
 2016年
 2017年
 2018年
 2019年
「お言葉どおりに」             No.615
          (ルカによる福音書1章26〜38節)


 神の子イエスの母になるお告げを受けたマリアは、戸惑いながらも「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と答えました。この答えこそが、全ての人が心にとめるべき人生の最重要課題だと今回のクリスマスでは強く思いました。つまり、人間には自分の願いや計画があり、逆に言えば神の「お言葉どおり」になってもらっては困るのです。

 旧約聖書のヨナ書では、そんな人の姿が描かれます。ニネヴェという町に神の警告を与えるようにとお告げを受けたヨナでしたが、それを恐れて神の前から逃げてしまいます。そのため、大魚に飲み込まれて三日三晩苦しみます。その苦境に立たされて彼は改心して魚から吐き出され、再びニネヴェの町に戻りその使命を果たすのです。これを心理学者のマズローは「ヨナ・コンプレックス」と呼びました。ヨナは、神の言葉を聞くことが出来たにも関わらず、臆病さのためにその通りに行動せず、それが原因で魚に飲み込まれたという出来事に人間の行動心理を重ねて行くのです。

 人の性質として恐れが常にあります。人は、自己実現を達成すること、天職を見つけること、幸せになること、至高体験を得ることなどを求めますが、実際はそれをとても恐れているのです。それらが実現できる可能性が身近に感じられると、とたんに恐ろしくなって、歩みを止めて逃げてしまうのです。

 私の今年の後半は、まさにこの状態だったように思います。新たなるビジネスチャンスの前に、逆に気分がすっかり落ち込んでしまいました。神様のこうしなさいと言うお告げに対して、大きな怖れがあったからです。しかしこのマリアの姿を見て、戸惑いながらも「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように」と答えることこそが、人生を前に進める大切な信仰告白なのだと感じました。それから、何度も心の中で「お言葉どおりになりますように」とつぶやき祈っています。今年も大変な年でしたが、来年はとにかく「お言葉どおり」にと自分の心を神に向けて進みたいと願っています。ありがとうございました。


「御子もたらす平和」           No.614
          (ルカによる福音書1章67〜79節)


 旧約聖書の預言を読むとき感じることは、苦難からの解放であり敵からの解放への叫びのようなものを感じます。ザカリヤの預言も、イスラエルをあのエジプトの苦役から解放しカナンへ導きダビデ王朝を建設した神が、同じように私たちも解放し救い平和を与えて下さいというものです。この願いは、時代が代わり、場面や国は変わっても、人類共通の願いと言ってもよいと思います。つまり、ザカリヤの願いは私たちの願いなのです。その願いに神は答え、クリスマスの出来事を下さいました。私たちをこの世の苦役から解放される救い主の誕生の知らせです。その方の名はイエス。この方はイスラエル民族を救われたように、必ず私たちをも救ってくださるのです。

 来年移転予定のデイサービスですが、色々工事進行中の問題が沢山出てきます。ああすればよかった、こうすればよかったと。でも、そんな時にその出来事を単なる工事進行上の問題ではなく「信仰上」の問題と捉えるように気持ちを切り替えるようにしています。この失敗も、この出来事もきっと神のご配剤の中にある。失敗のようであっても、それは私にとって良いことであり、何れ必ずいい方向に向かう。神は必ず救ってくださる。私たちが如何に罪人であったとしても、神はそのもとに立ち返ろうとする者をあの放蕩息子のように抱き上げ迎えてくださる。キリストの降誕と受難と死と復活は、必ずや私たちを救われるのです。安心して行きなさい。神が共におられます。


「明けの明星を待つ」           No.613
           ヨハネの黙示録2章18〜29節)

               
荒瀬牧彦牧師

 
ティアティラの信徒たちに「あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている」とキリストが言われます。完璧のように思えますが、それでもなお、「言うべきこと」がありました。「イゼベルという女のすることを大目に見ている」ことが問題でした。

 旧約の列王記に出てくるイゼベルの名を用いたのは、彼女のような邪悪さを帯びた問題であると警告するためでしょう。イスラエルの王アハブの妃イゼベルは、バアル崇拝をイスラエルに持ち込んだことで知られています。王がナボトのぶどう畑を手に入れられず悔しがっている時、汚い謀略によってナボトを死に追いやり、土地を強奪した女性です。

 まだその恐さを知らないティアティラの信徒たちにキリストが命じたのは「持っているものを持ち続けよ」ということでした。あなたたちは既に持っている。信仰を、愛を、愛による奉仕と忍耐が授けられている。それを大切にせよ、ということです。

 わたしたちはよく、持っていないものを気にします。イゼベルはそこに付け込んでくるのです。「もっと欲しがれ。力づくでも手に入れよ」と。それに対してキリストが言われるのは、既に持っているものの重さを知り、それを失うな、ということ。

 忠実であり続ける人たちに二つのことが約束されます。一つは、「諸国の民の上に立つ権威を授け」るということ。誤解するなかれ。キリスト者が世界を力で支配するということではありません。主は仕えられるためではなく仕えるために来られました。主の権威は赦す権威、死すべき者を生かす権威、愛し赦す権威です。そういう権威を授けられるのです。

 もう一つは「明けの明星を与える」ということ。言うまでもなく「輝く明けの明星」とは主イエス御自身です。終末論的な約束ですが、今と無関係ではありません。明けの明星を真に待つ者は、今すでに「待つ」という行為を通して星の輝きに照らされるからです。待つとは、もうそれによって生き始めているということだからです。

 先週水曜、アフガニスタンでの中村哲医師の死という大変悲しい出来事がありました。しかし、彼が主に従う信仰により、アフガンの人たちの先頭に立って鍬を振るい、砂漠に水路を通したその愛の業は、明けの明星キリストに照らされた人間の輝きとして、これからも世界を照らし続けるでしょう。わたしたちも真に明星を待つものでありたい。



「預言者来たる」             No.612
         (マタイによる福音書21章1〜11節)


 イエス様はエルサレム入場をロバに乗って行ったと記されます。そしてそれは、旧約聖書が預言していたメシアの姿です。人々は王様を迎えるジュータンを引くように、自らの上着を道に引き、ロバに乗るキリストを喚起の声をもって迎えました。町中の人達はその騒ぎを聞いて「いったい、これはどういう人だ」と叫んだと聖書は記します。 そこでイエス様を迎える人々は「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えます。旧約聖書の預言の成就としてユダのベツレヘムで生まれた御子キリストは、いよいよその神の子メシアとしての力を示す時が来たと、そう人々は思い歓迎するのです。

 しかしこの時、群衆は気づかなくてはならなかったのです。それは、キリストは力強い軍馬ではなく、ひ弱なロバに乗って入場したことを。何故、王なのに馬ではなくロバなのか。ここに民衆の期待する王としてのキリストと、罪の赦しを与えるメシアとの違いがあることに気がつくべきだったのです。この勘違いは十字架の死の直前まで続くのです。いや、現代社会まで続いているとも言えるかもしれません。

 キリストの生涯は、決して栄光に満ちたというようなものではありませんでした。言葉と力のある預言者と呼ばれながら、人々から見放され重い十字架を背負わされてゴルゴダの丘を登ることになるのです。強い軍馬に乗って敵を蹴散らかす戦士のようではなく、敗北者のように肩を落としてよろめく足で坂をのぼるキリスト。

 ここで不思議に思うのです。何故、こんな姿のメシアが2000年も救い主として称えられているのか。とうに忘れ去られてもいいはずなのに。いやそうではないのです。このくず折れた姿こそが、人生の苦境に苦しむ私たちの同伴者である証であり、それ故に私たちの救い主なのです。勝者の神ではなく、弱き者の助け、泣くものと共に泣く神。この神の姿は、人類史に現れた数々の神とは真逆でありなからも、それ故に滅びず、今も未来も人々を救い生かす愛の神を示すのです。

 御子の降誕を祝うクリスマス。それは世俗社会が織りなすような決して華やかなものではありません。しかしだからこそ、華やかでないものにキリストは語られるのです。今日あなたのためにメシアが生まれました。この方こそ、あなたを救うキリストですと。
                      


「大切なことに気づきたい」        No.611
         (マタイによる福音書2章1〜13節)


 
この聖書か所は、マタイの教会が直面していた問題を如実に表しています。イエス様の再臨を信じて、今日か明日かと待ち望んでいるクリスチャンたち。直ぐに再臨が来て、世界の終末が来ると思うからこそ、激しい迫害にも耐えに耐えて過ごしていた。そんな苦難の日々を狙ったかのように、自分がメシアだと言うもの、世界の終わりは何月何日くると予言するもの、奇跡や魔術によって人々と惑わすものが多数出てくるのです。マタイの教会は、必死にキリストを待ち望み耐えてはいたが、信仰の火を灯す油が消えかかっていたのです。そこで、イエス様は「目を覚ましていなさい」と「油を切らさないように」と厳しく助言します。

 ペテロの第二の手紙3章8節では「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」と記されます。この箇所はよく読むと衝撃的なことなのです。つまり、私達が忍耐していると思っていたら、実は忍耐しているのは、神様自身だったという発見があるからです。ですから、言い換えれば「目を覚ましていなさい」とは、それは神の忍耐に対して、目を覚ましていることでもあるのです。更に2章4節の「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」という言葉を大きく言い換えれば「自分の事だけでなく、神様の事に注意を払いなさい。」と語られていると言ってもいいと思います。

 自分たちだけが絶え忍んでいるのではない。寧(むし)ろ、私たちのために耐え忍び、忍耐をもって過ごされているのは、イエス様自身であり神ご自身なのです。この逆転の苦難と恵みを心に止めていくことこそが、信仰の油そのものなのかもしれません。今週からメシアの降誕を覚えるアドベントです。このキリストの待望がなんと素晴らしいことかと心にとめて今月を過ごしたいと願います。


「神の国の場所」             No.610
         (ルカによる福音書17章20〜24節)


 私たちの日常は見えるものに支配されて生活をしています。ですから、聖書の語る神の国も見える形でないと理解しにくいのだと思います。そして、その人の性質を利用して、多くの新興宗教が見えるものを提示して人を引き寄せようとするのです。私が救世主であるとか、この世の終わりはいつ来ますとか、病気を治すにはこのような信心とお金が必要であるとか。見えるものにしか価値を見出せない私たちは、そのような誘いに容易に引っかかってしまうのです。しかしイエス様は、まことの「神の国」は私たちの中にあると語られました。どこにある、あそこにあるのでなく、私たちの只中に神の国はある。これはまことに重要なお言葉だと思います。

 新約の時代に、イエス様の宣教によって神の救いと神の国が示されたように、現代の私たちにもキリストの復活が、神の国が、私たちの内にあることを告げるのです。キリストによって罪の赦しを得て、この世の神の国に入れられる経験。そしてこの神の国を伝えることこそが伝道です。

 しかしこの伝道は容易ではありません。ですから、へブライ人への手紙 12章に「 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめなさい。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。だから、 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された方のことをよく考えなさい。」と記すのです。受難のキリストをいつも思い起こすことで、耐え忍び疲れ果てないように心を整えていくこと。神の国は既に来ています。神の国が来ているとは、私たちが今すでに救われているということです。是非、この素晴らしい恵みを多くの人に知って頂きたいですね。 


「掌の小さな石」             No.609
           ヨハネの黙示録2章12〜17節)

               
荒瀬牧彦牧師

 
ペルガモンの教会にとってのローマ皇帝崇拝という問題と、今の日本で生きるわたしたちが直面している問題を切り離すことはできないでしょう。今週木曜(14日)の夜、大嘗祭が行われます。天皇が天照大神と交わり、神性を帯びるための宗教儀礼です。国民が主権者である民主主義国家であり、政教分離を守るべきこの国で、このような仕方で国の象徴が神格化されるということを、わたしたちキリスト者はどう見るべきか。この国に置かれている者として、天皇制の根本にある問題を直視し、問うことを避けるわけにはいきません。戦前、日本の教会は「天皇を中心とする国体護持に協力することが日本的キリスト教の使命だ」と考え、「神社参拝は国への忠誠であって宗教ではない」との理屈のもと偶像礼拝を許容したのです。

 ペルガモンは両刃の剣を口に抱くキリストによって迫りを受けました。何より重要なのは、すべてのものの実態を明らかにする神の言葉に立つ、ということです。偶像に支配された社会において神の言葉に立つことは、「和を乱すな」という力に脅迫されることを意味するかもしれません。しかし、それは同時に、「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう」というキリストの約束によって、神からの糧マンナを頂くという喜びを知ることでもあります。

 また、信仰者には「白い小石を与えよう」という約束が与えられています。白い小石とはイエス御自身のことであると解釈できますが、また、主イエスを信じ従う一人ひとりが白い小石と呼ばれる、と読むこともできます。その小石には「新しい名が記されている」のです。新しい名とはキリストの名に他なりません。
 
 あなたは白い小さな石なのです。主の名が記された、神さまの大事な石です。道端に落ちている小さな石のような自分に、キリストを信じる信仰が与えられました。神の掌(てのひら)にあるあなたは、キリストの名を記された尊い石です。

 こういう賛美歌を書きました。「小さな石を掌にそっと置き、黙ってただ握りしめよう。大いなる神は 道端のわたしを拾い上げて その手に包む 柔らかく強く」
わたしたちは小さな石ですが、神の言葉にしっかりと立つならば、どんな大きく邪悪な力にも呑み込まれない強さを持っています。キリストの名を刻まれた小さな石は、どんな激流にも流されず、神の真理を証しし続けるのです。



「逆転する愛」              No.608
        (マルコによる福音書10章13〜16節)


 子どもを祝福してほしいとイエス様のところに連れて来た親が、弟子達にいさめられてしまう。私たちの常識だと、弟子達は冷たくて酷いという印象を受けます。しかし当時のユダヤ社会にとっては、子どもは難しい律法を理解し正確に行うことが出来ないため、神の前に功績を持たなものと考えられました。そんな子どもを忙しいイエス様のところに連れて行くなんて、非常識と弟子たちは考えたわけです。つまり、冷たいのではなく善意から良かれと思って、イエス様の役に立ちたいと思って行ったのです。しかし、その善意の行為は、イエス様によって厳しく咎められてしまいます。弟子達は、あまりにもイエス様と事柄に対する理解の仕方が違うので、その時は、自分達が何故怒られたのか分からなかったかもしれません。

 こう言う事は、聖書の話だけてはなく、私たちの日常で沢山あります。善意で行ったのに、正しいと思ってやったのに、人の役に立ちたいと思ってやったのに、逆の評価を受けてしまう。それは、私たちには自分自身の行動を反対側から見ることが出来ないからです。人の口に付いたご飯粒は凄く気になっても、同時に自分の口についているチョコはわからないのです。唯一わかる方法は、鏡を見ることです。そして、この鏡を更に飛躍して語れば、人生の鏡である聖書を見つめることなくして、私たちは自分を知ることは出来ないのです。弟子たちがイエス様に叱られて、やっと何か自分たちが間違っているのと気づかされたように、私たちもイエス様から、神の言葉なる聖書の鏡を通して、教えられる他に自分を知る術はないのです。

 私は、詩編46編の「神は我が避けどころ、我が砦」という聖句に誤解を恐れず言葉を加えれば、「神は我が鏡」としたいと思います。「神は我が避けどころ、我が砦、<我が鏡>、苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。」と信じたいと思います。 


「信仰のレース」             No.607
         
ヘブライ人への手紙12章 1〜2節)

              
佐藤岩雄牧師

 
アメリカには、「全聖徒の日イブ」から始まったハロウィンという行事があります。丁度、今の季節に行われるお祭りです。子どもたちが可愛いコスチュームに身を包んで「トリック、オア、トリート(お菓子をくれなければいたずらするぞ)」と言いながら近所の家を巡って、大人たちは、用意したお菓子を分けてあげます。現在、ルイビル日本語教会が場所をお借りしているルーテル教会では、この全聖徒の日を、召天した近親者を覚える日曜日として礼拝を守っています。ルイビル日本語教会でも、この日を召天者記念礼拝としています。ヘブライ書12章1節は、私たちが雲のような多くの証人に囲まれて信仰のレースを走っていると伝えています。ルイビル日本語教会の礼拝においても、11月の最初の日曜日は、聖餐式でパンと杯にあずかって自分の席に返る際、ロウソクを灯して、召天者を記念しています。メンバーの中には、もう帰ることのない故郷である日本への郷愁をもちながら生活をしている方も少なくありません。そのような環境で召天者記念礼拝を祝うというのは、特別な趣があります。故人の信仰の歩みを覚えつつ、自分自身も本当の故郷に向かっているということを覚える時です。

 この12章2節には、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにと言う力強い勧めがあります。これは、私たちがどのように、信仰のレースを走ったらよいかということを教える言葉です。レースの目標は、社会の寡頭競争のように、自分の力を誇る事でも、他人に勝つことでもありません。神が私たち一人ひとりに与えられた歩みを誠実に生きることそのものが、私たちのレースです。長いレースの中で、時には弱り、疲れ、止まることがあるでしょう。それでも諦めずに、再び立ち上がることが出来るのは「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ばれた主イエスが、共におられるからです。主は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と約束されました。私たちが信仰のレースを走るいう事は、日々、この復活の力を感じ、経験しながら生きると言う事です。私たちが孤独を経験する時に、誰よりも深い孤独を十字架で経験したイエスが支えて下さいます。
   


「昭和29年1月2日・123便・6時23分・10m」
「神の宝の民」              No.606
               (申命記7章 6〜7節)

 先週の礼拝は、瀬崎忠雄さんをお招きして礼拝と研修を行いました。お話は驚くような神体験を連続的に受けて、現在まで歩まれて来たことの証しでした。仕事の発着を待つ空港ロビーで泥酔してしまい乗り遅れた飛行機が日航機123便であったという衝撃的な出来事。阪神淡路大震災や3.11からも奇跡的に救い出されたこと。お話を伺っていて、この人は神に選ばれた人物であるということがわかりました。その話の衝撃で、以前見たことのあるブルース・ウィリスが主演する「アンブレイカブル」という映画を家に帰って再度見ました。様々な事故でも奇跡的に生き残る主人公デビット。ある日、それは偶然ではなく、人々を救うために神が与えた力であることを知らせることになるのです。神に選ばれた特別な人物がいる。その中に、キリストに追従する姿を見たように思いました。

 その感銘の中で、自分自身のこれまでの人生を振り返ってみると、瀬崎さんやデビットのような大きなことはなくても、確かに危機的状況から何度も救われて復活している自分がいることに改めて気が付きました。私も、何らかの理由で神に選ばれ、何かをするようにと召されているようなのです。いや、瀬崎さんや私だけではなく、今生きている全ての人が召しを与えられている。それはマルチン・ルサーキングやジョン・レノンのような人物から、ベットの上で何年も寝たきりの生活をしている人まで同様にそこに輝く生の意味がある。

 「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11.25)キリストの死と復活は、私たちにその生きて死ぬ意味を永遠に伝えているように感じました。         
      (瀬崎氏の証しを受けて 鈴木 淳牧師)



「苦しみの向こうに」           No.605
           ヨハネの黙示録2章 8〜11節)

               
荒瀬牧彦牧師

 
1.二つ目の手紙は、スミルナの教会宛てである。この手紙に表れているスミルナの信徒たちの特徴を三点あげれば、苦難、貧しさ、そして受けている非難である。決して歓迎したくない三点セット。だが、天のキリストは、彼らを労わるようにして、「あなたの苦難と貧しさ、そしてあなたが誹謗されていることを知っている」と言われる。その上で、主は彼らに「本当は、あなたは豊かなのだ」と言われる。スミルナの信徒たちには、この世の知らない豊かさがあったのだ。

 キリストに従って忠実に生きるというのは、「苦難・貧しさ」と「豊かさ」の二重性を持って生きるということである。キリスト者には、苦しく貧しく、しかし同時に、幸せで豊かだという不思議な二重性がある。世間はいろいろ勝手なことを言うかもしれない。しかし、キリストの目から見て「本当は豊か」という次元をもっていることを大事にして生きたい。

 2.スミルナの人たちに、「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない」と主は言われる。ここでは、サタンという言葉と悪魔という言葉が出てくるが、この二つは同義と取ってよい。悪の力は、擬人化して表現せざるを得ないほど強力で狡猾なのだ。目の前にいる悪者を一人二人ぶん殴って倒せば、それで問題は解決だ、というほど単純なものではない。サタンとか悪魔と表現されるものは、手を変え、品を変えて迫ってくる。主がスミルナの人たちに伝えたいのは、彼らが不運だから苦難に遭うのではなく、神に見放されているから不条理な目に遭うのではなく、神さまに忠実に生きようとしているがゆえに、悪のシステムからの攻撃を受けているのだ、ということである。みこころに従って生きようとする時、苦難を受けることは覚悟しなくてはならないのだ。

 3.「死に至るまで忠実であれ」。地上での生涯の終わりまで、今の忠実さ、誠実さを保ち続けなさい、ということである。先に待っているものは「命の冠」である。これ以上にないというほどの悪質ないじめとしての茨の冠。主はそれを黙って受けられた。そして、ご自身の死と復活によって、その茨の冠を、我々のための命の冠としてくださったのだ。



「メシアを信じる」            No.604
        (ヨハネによる福音書11章17〜27節)


 ラザロの死の出来事を通してイエス様は、私たちの信仰の在り方に大切な修正を行います。ラザロの死とイエス様の不在を嘆くマルタ。イエス様がラザロの復活を告げても、彼女の耳には届きません。勿論それでも、マルタは熱心にイエス様を信じ、終わりの日の復活をも信じていたのです。しかしマルタは、イエス様の多くの奇跡の業を目の当たりにしていても、死人を生き返らせるということまでは流石に出来ないだろうと思っていたのです。信じてはいたがそこまでのイエス様の力があるとは、マルタは信じられなかったのです。

 これは他人事ではなく私たちも同様です。神様を信じ、イエス様を信じて行きたいと思っているし、終わりの日にはきっと復活して生き別れた家族や友と再会できると信じているのです。しかし、それでも目の前の遺体が生き返るとは思えない。まさに、マルタの思いは私たちの日常の思いと同様なのです。そのようなマルタや私たちにイエス様は「ラザロよ出てきなさい!」と告げるのです。私たちの概念での信仰を生活の中の信仰へと引き戻すイエス様。私たちの神は死後の神ではなく、毎日の生活の中に生きて共在する神なのです。

 あのマザーテレサは、Life is a duty, complete it. 完璧に生きると言う義務を果たしなさいと言われました。信じるだけではなく、生きると言う信仰への挑戦!。信仰と生活が共に進むこと。イエス様の語られたメッセージそのものに思います。       


「初めての愛 それが大事」        No.603
            ヨハネの黙示録2章 1〜7節

               
荒瀬牧彦牧師

 
七つの教会への手紙が始まります。最初はエフェソの教会に宛てられた手紙です。「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」が語ります。同じキリストが、七つの教会ごとにそれぞれ異なる仕方で紹介されます。各教会に必要な事が強調されるようです。エフェソには教会の間を「歩く」方が語りかけます。

 我々のイメージするキリスト像は、金髪で青い眼のイケメンで光り輝く御方が百合の花に囲まれて厳かに鎮座、といった姿かもしれません。しかし、エフェソの人たちが見るべきキリストは、諸教会の間、人々の間を歩きまわっておられる姿なのです。そういうお方だからこそ、自分たちの現実をよく知っておられるのです。

 主は言われました。「わたしはあなたの行いと労苦と忍耐を知っている。」エフェソの人たちはよく頑張っていたのです。「使徒ではないのに自分たちは使徒であると自称する者たち」の偽りを見抜き、毅然とした態度で臨み、よく忍耐していました。しかし、なお「あなたがたに言うべきことがある」というのです。それは、「最初の愛から離れてしまった」ということでした。あなたたちは一所懸命にやっている。しかし、一番肝心のものを忘れてしまっているではないか。

 かつて主イエスは終末預言(マタイ24章)の中で、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われました。愛のある暖かい空気の中にいたら愛を豊かにすることのできる人間も、邪悪な力が支配し殺伐とする社会の中にずっと置かれていると「愛が冷える」。まさにこれは現代社会に生きる我々が置かれている状況です。

 最初の愛に立ち戻りなさい、と主が言われます。最初の愛、それは、自分を無条件に愛し、抱きしめてくれたキリストの愛。嬉しくて、無条件にキリストにむかったわたしの愛。最初の愛、それは今必要な愛であり、終わりの時に必要な愛なのです。そこから離れたら、すべては無に等しい

 我々は、初めのうち、下手くそでした。だから一所懸命、時間をかけ、目を見開いて取り組みました。小さな事にも全力を注ぎました。次第に経験を積み、慣れてくると、上手に、早く、目をつぶってもできるようになりました。自分が立派になったかのように感じます。でも、それと引き換えに「初め」のうちに掴んでいた大切なものを見失ってしまうことがあります。最初の愛に立ち戻れ。 


「十人に一人の神の民」          No.602
         (ルカによる福音書17章11〜19節)


 ここの聖書の箇所からの新しい発見は、自分の不治の病が突然癒されたのに、神に感謝をささげて戻って来たのは一人だったということなのです。つまり、奇跡を目の当たりにしても十人に一人しか神を見出さないのですから、地球上の全ての人がイエス・キリストを信じられるはずがないのです。勿論、聖書に記される様に、神は全ての人が救われることを望んでいますが、神の民は十人に一人なのです。そのような意味では、十人に一人の神の民を捜し出すのが教会の使命なのかもしれません。

 人間が生きていく上で必要な要素が三つあると言われます。食事と休養、運動です。この「運動」は「信仰」に似ているように思います。つまり、食事や休養は人間の生理現象として嫌でも必ず発生しますが、運動は発生しないのです。何故かと言えば、人間は運動してなくても何も困らないし、直ぐには死なないのです。逆に楽なぐらいです。信仰も同様で信心は大切と社会が尊重していても、人間は当面は信仰しなくても死なないし困らないのです。困っていない、だから十人に一人しかキリストの共には帰らないのです。

 でも、運動を継続して行っていないと徐々に体調が悪化し健康に支障を来すように、まずいと思ってからでは取り返しがつかない場合もあるのです。信仰も「まずい死にそう」となってからでは少し遅いようにも思います。勿論、真にキリストの前で悔い改めれば死の直前でも救われますが、本当にそれでいいのでしょうか?。あの野球の一郎選手が、どんな名選手になっても毎日素振りを続けるように、運動は毎日続けてこそ効果が出ます。信仰も同様で、日々の小さな素振りの継続が、私たちを強く立たせるのです。その信仰の素振りとは、祈りであったり、聖書に親しむことであったり、キリストの言葉を実践してすることであったり、何にも増して毎週の礼拝なのです。そしてこれは人生を歩む上で素晴らしいことなのです。

 ただ、一つ言えることは、他人が運動して私の体が強くなるなんことがないように、素振りの効果は素振りを続けた人にしかわからないのです。私たちの道は、実践する人には必ずわかるキリストの道なのです。


「耳と目が開かれた時」          No.601
        (マルコによる福音書7章31〜37節)


 
この奇跡の出来事の記事は、時として何か私たちから遠い出来事のように思えます。それは、何故かと言えば、私たちはこのような奇跡の癒しを行う事が出来ないし、また見た事さえないからなのです。でも、この私たちが行ったことも見たこともない出来事を記録することで、この福音書の著者マルコはあることを伝えたかったのです。それは、人間には到底できない奇跡を行えるのは、間違いなく神の子メシア以外にあり得ないことを示すのです。そして、その奇跡的出来事は常に、行為と共に言葉を伴っているということが重要です。目が見えるようになること、耳が開かれ聞こえるようになるという奇跡は、私たちが神の存在と力を信仰によって見ることであり、聖書を通して神の言葉を聞くという意味でもあるのです。

 ヨハネによる福音書におけるラザロ復活の出来事では「わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 とイエス様の言葉を記しています。つまり、この奇跡行為は私たちがそれを出来ないゆえに否定し落胆するのでも、遠いところのおとぎ話のように聖書を捉えるためでもないのです。神様が、この世に送られた罪の救い主を私たちに信じさせるための出来事なのです。

 私たちには絶対できない、神のしるし、私たちの人生を逆転させるような神の力強い言葉。どれもが人間離れした事柄。それ故に、私たちは信じざるを得ないのです。この方が、私たちの救い主、神の子メシアであることを。


「パトモス島に流されて」         No.600
           ヨハネの黙示録1章 9〜20節

               荒瀬牧彦牧師

 
ヨハネは、「神の言葉とイエスの証しのゆえに」パトモスという(面積が旭区ぐらいの)島に流刑にされた。彼の島流しは福音宣教の結果であると同時に、黙示(覆いを取るという意味)を受けて、それを信徒たちに伝えるという目的のためでもあった。我々がもし証し「のゆえに」苦しむなら、それは信仰の実であり、また先に待つ大切なことのためだ、と覚えておこう。

 次回より黙示録第一部の「七つの教会への手紙」を読む。恐ろしい印象を抱きがちな黙示録だが、終末の恐怖で人々を支配するためのものではない。長く困難なレースを走っている者たちに、ゴールに待つ歓喜を示して、最後まで走り通せるよう励ましてくれるものだ。変な読み方に惑わされず、今の自分たちのありようのために読んでいこう。

 まず最初にヨハネは不思議な光景を見せられた。三つのポイントをあげると――

 1)七つの燭台は七つの教会である。その七つの燭台の中央に「人の子のような方」即ち主イエスがおられた。主は特定の大教会にではなく、諸々の教会の間におられる。多くの罪を重ねてきた不完全な我々であるが、キリストはその間に立ち、我々を愛し、用いてくださるのだ。

 2)主の手にある七つの星は、各々の教会の天使たちのことだと言う。信仰の目をもってみれば、我々の上には天使がついていて、その天使はイエス様の手にあるのだ。これから七教会への手紙を読むとわかるが、どの教会にも弱さや欠けがあり、主からの厳しい叱責を受けざるを得ない。しかし、それは主の手にあって守られ祝福されている者たちが、愛のゆえに受ける言葉なのだ。

 3)主に守られている教会は「燭台」である。光ではなく、光をのせるものである。我々は燭台に過ぎない、ともいえる。自分自身の栄光を求める者ではない。もし誰かが「教会ってなあに?」と聞いてくれたら、こう答えることができる。「教会は燭台です。燭台の間にキリストがおられます。燭台の上には天使が星のように光っています。その星は主の右の手にあって守られています。」

 ヨハネはあまりに聖く荘厳なビジョンを見せられて、死んだようになった。しかし「最初の者にして、最後の者」、「死と陰府の鍵を持っている」イエス・キリストが、手を置き、「恐れるな」と励まし、手紙を託された。さて、何が語られるのだろう。



「へりくだる者が高められる」       No.599
         (ルカによる福音書18章9〜14節)


 私はこの聖書の箇所で、イエス様がファリサイ派の人たちを「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している」と非難を浴びせたことに対して、イエス様の側に立って「そうだそうだ!」と言ったことはあっても、自分がその「うぬぼれたファリサイ派」だとは思ったことはありませんでした。しかし今回は、何度も読んできたこの箇所を改めて黙想してみると、衝撃的な事実として、これは自分自身なのではないかと気づかされたのです。

 実際、ファリサイ派の人たちは律法の定めよりも遥かに厳しい週二回の断食を行い。十分の一献金を100%献げ、更に商人が献金をごまかさないように、自分の買った価格の10%を商人の代わりに納めて、完璧に律法を守ろうしていました。当時のユダヤ教のラビが「我が神、あなたが私を律法の教えに連なる者とさせてくださり感謝します。また逆に、私を劇場とか演劇場に連なる者とされなかったことを感謝いたします。私は努力をし、彼らも努力をします。私は熱心で、彼らも熱心です。しかし私は、神の楽園を得るのに努力しますが、彼らは墓の泉のために努力します」と祈ったというのです。ファリサイ派は誰よりも真面目に必死に神の律法を守ろうと努力していましたから、そう主張できる権利がありました。また民衆も、ローマの手先の徴税人とは違い、その真面目なファリサイ派を尊敬していたのです。そんな社会状況と立場の中で、イエス様が「うぬぼれている」と非難を浴びせたものですから、本当に大変な混乱となったことでしょう。

 でも実は、このイエス様の言葉は2000年の時を超えて、私たちに突き立てられているのです。人は真面目にやればやるほど、人の欠点が目に付き非難したくなる者です。「これだけやっているのだから」という自負が生まれるからです。しかし、その私たちにイエス様は「それはあなたですよ」と厳しい忠告を与えるのです。そして、どんな善行や努力をしても天の国に入ることはできない、唯一の救いはキリストの前で罪を悔いる告白にしかないと断言されるのです。私は、クリスチャンにされて36年間たって、何か突然目が開かれたように思いました。私たちの救いは、唯々キリストの十字架と復活にしかないことを改めて受け止めました。イエス様ありがとうございます。


「神のエール」               No.598
      (ヘブライの信徒への手紙12章1〜2節)


             奨励 本間かず子長老



 君にも吾にも見えざる駅逓がある。青春とは心の若さであると「青春」の詩の作者、サムエルウルマンは語っています。昨年あさひ伝道教会は、10周年を記念して[思いは一つ」のテーマで「上郷自然の森」で一泊修養会がありました。荒瀬牧師ご夫妻にもご参加頂き、恵まれた時を過ごしました。 開会礼拝後、小さなグループに分かれました。首から下げたカードにグループメンバー同士が、お互いの印象を書いて分かち合いました。同じグループの荒瀬牧師は私の背のカードに「信仰の深い人」と力強く、大きな文字で書いてくださいました。驚きと嬉しさで飛び上がらんばかりでした。家に帰り、カードをしみじみと眺めました。私が不信仰である事は、主がご存じです。不遜な心を恥じてそっと心の中に舞い込みました。 

 今年、初夏を前にして、あさひ伝道教会で荒瀬牧師のお姿を見ることが出来なくなりました。そして、あっという間に、御国に凱旋されました。一年前に誰がこのような事が想像出来たでしょうか?「信仰深い人」この言葉は、私の宝となり目指すところとなりました。荒瀬牧師の「エール」であり神様からの「エール」です。フィリピへの信徒への手紙3章12節ー14節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけではありません。何とかして捕らえようと務めているのです。自分がキリスト.イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト.イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走る事です。」夫と共に歩んだ歳月。 歓びの時も悲しみの時も、主が共に荷を背負ってくださり、助け人を送って下さいました。

 私の荷はいつも軽いのです。これから後期高齢者になって行きます。どんな時も最善をなして下さる主への信頼と安堵があります。信仰の杖をしっかりと握りしめ、一歩又一歩と踏みしめながら主に在る目標を目指して、歩み続けて行きます。 



「栄光と希望」               No.597
      (コロサイの信徒への手紙1章24〜29節)


             奨励 内田弥生長老



 
この箇所は、とらわれの身であったパウロがコロサイの教会へ獄中で書いた手紙です。コロサイのまちの教会はパウロが建てたのではなく、パウロの協力者エパフラスによって設立されたとありますですからコロサイのキリスト者はパウロには会ったことがないとされています。荒瀬牧彦牧師が、鎖に繋がれていたパウロは、しかし、その心は自由でした。と説教で言っておられました。すべての造られたものの頭であるキリスト、死と復活によって、全教会の頭となったキリストが全てのものまさっていること、また、キリストの中にゆたかに宿っているものをキリストが神秘体である教会のメンバーに分かち与えてくださる。と述べています。コロサイの町で間違ったおしえが広がり教会の存在を脅かしていることを知ったパウロが、間違った教えに対する応答がこの手紙です。誤った教え、東方由来の神秘思想や、禁欲主義をキリスト教に取りこもうとした。パウロはキリスト教にとって必要なものは全てイエスの中にあると述べ、その贖いの意義を強調している。霊において、かしらであるキリストの神性のうちにあって完全なものとなることを‘妨げているものたちへの警告を行なっている。パウロがローマで最初に投獄された期間紀元57年に‘エフェソの手紙の後に書いたとされている。ラオデキヤはパウロが訪れた教会の支部の一つであるが、パウロはここからの手紙を受け取った。黙示録1;11 コロサイはラオデキヤの東方18キロにある。パウロはここに住んでいる聖徒たちに手紙を書いた。使徒言行録28章269ページにローマに行く途中で難破したすえにたどり着いたマルタ島での記述あります。つい先日マルタから長女が帰ってきました。長女は、すっかりマルタで、教会という教会をめぐり、教会荒らしにでもなったかのようでした。長女は、事あるごとに、様々な祈りを神様に捧げたと言います。長女も私も、教会に救われているということが実感できます。本日奨励するにあたり、長女のマルタ島を通して、パウロをこんなに身近に感じたことはありませんし、改めて、聖書を開きわたしも勉強する機会を与えられました。イエスが、私にみせてくれる奇跡は、これからもきっと用意されています。それは、わたしの思いではなく、神ご自身によるご計画です。そのことを、わたしは信じる事ができます。神の栄光と希望。イエスの名を呼ぶ。イエスそのものが栄光であり、希望そのものではないかと思いました。心細い時、悲しい時、イエス様とその名を呼びます。イエス様!その名で呼び起こされた魂が、希望そのものであることを、私たちは知っています。希望は抱くものではなく、すでにイエス様そのものが希望であるのではないでしょうか。その名を呼ぶ時に希望にあふれ、心が蘇り、愛で溢れる経験を私たちはしているのではないでしょうか。        


「捨てられた石から平和」         No.596
        (マルコによる福音書12章 1〜12節)

               
荒瀬牧彦牧師

 
主イエスは、自分を憎み、攻撃してくる人たちに対して、ぶどう園の主人と農夫をめぐる寓話を語った。旧約に記されている神とその民の長い歴史を、わかりやすい寓話にして、彼らの罪を明らかにされたのだ。しかし、「これは自分たちのことだ」と気づいた人たちは、罪を認めて悔い改めるどころか、イエスへの殺意を一層強めただけであった。かくしてこの譬え通りに、農夫たち(イスラエルの指導者)は、ぶどう園の主人(神)の息子(イエス)を殺し、外へと捨てることになった。

 数年前、この聖書箇所からの黙想として、「沖縄はずっと捨て石にされてきたのだ」と語る沖縄の牧師のことばに触れ、聖書の言葉と自分の関与している現実を結び付けていなかった自分の鈍感さを思い知らされた。戦争末期、日本軍は沖縄を「本土防衛のための捨て石」とし、沖縄の人たちの命を盾に使った。悲惨な沖縄戦に、米軍による占領が続いた。土地の強奪、暴力、レイプ・・・。「戦争は終わったが地獄は続いていた」。沖縄を「太平洋のkeystone(要の石)」と位置付けた米国は、今もこの島を戦利品のように、勝手に使っている。日本が「どうぞお使いください」と差し出し続けてきたからだ。わたしたちはまずそのことに、気がつかなければならない。

 主イエスは詩編118編を引用して神の御計画を示された。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった」というのは、イエスご自身が捨てられ、しかしそれが救いの礎石となるということなのだ。「これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」この最後のことばの重さを受け止めよう。神の愛の不思議がここにある。強者たちが「こんなものいらない」と捨てる石は、神様の目に、尊くかけがえのない石なのだ。人々に捨てられた石キリストを、救いの親石として用いられた神様は、今も、社会から「生産性がない」とか「無価値」と断じられる小さな石の一つひとつを掌にのせ、慈しみ、神の国のために大切に用いてくださる。皆の命が尊ばれ祝福される平和(シャローム)を世界に実現していくための第一歩は、小さな石を大切にすることである。



「何でも役に立つ」             No.595
         (ヨハネによる福音書6章1〜15節)



 イエス様は、集まってきた一万人(女性や子どもも入れた場合)に対して、食事を用意するようにフィリポに命じます。しかし、フィリポはそんなお金はないと訴えます。またそこにいた、5個のパンと2匹の魚を持っていた少年は、アンデレによって「こんな量では何の役にも立たない」と言われてしまいます。確かにそうなので、少年が大切に家の食事用に持っていたパンと魚ではありましたが、そこに集まった人たちが食事をすることを考えれば、何の役にもたたないと言われるのも当然かもしれません。

 しかしイエス様は、その何の役にも立たないものを取り上げ祝福して人々に分け与えるのです。すると、そこに集まった一万人以上の人が満腹するまで食べて、更に12籠一杯に余ったというのです。神の祝福のもとでは、小さな捧げものが全ての人を満たし、更に有り余って、そこに集まっていない人たちにも分け与えることが出来るという話なのです。

 私はこの話を読むたびに、あさひ教会のスタートを思い出します。介護事業と一緒にスタートしたあさひ教会ですが、初めにシンボルマークを作ろうと思いました。何もないところからのスタートだったので、それでも小さな努力と信仰を献げるという意味で「5個のパンと2匹の魚」をマークにしようと思いました。当時、中学生だった娘に原画を書いてもらいマークが完成しました。あの時、何もなかった教会でしたが、12年を経て様々な祝福を得て、一枚の紙に書かれた「5個のパンと2匹の魚」は大きく成長しました。

 ここで重要なことは、あのスタートの時には何もなかったし、何も見えていなかったということです。そこにはきっと神様が良くしてくださるであろうという信仰しかなかったのです。そのような意味では、この「5個のパンと2匹の魚」は、物というより私たちの神への信仰といえます。小さな信仰を献げることの大切さです。神は「信仰なんて何の役にも立たない」と世間から批評されても、その信仰を何倍にも人の役に立つように育ててくださるのです。そう考えると、またこの後十年に、神様がどんな良いことをしてくれるか楽しみです。また十年たったら、またみんなで振り返って、プラスもマイナスも神様への感謝として行きたいと思います。    


「国境の人」              No.594
             (使徒言行録28章30〜31節)

             (イザヤ書 51章 1〜 8節)

                潮田健治牧師

 私たちは、厳しい現実の中で聖書を読み続けるわけです。聖書の言葉に、もし、慰めがなかったら、希望がなかったら、もし、どう読んでも平和を見つけられなかったら、私たちは、もうとっくに聖書を読むことを投げ出していたのではないでしょうか。しかし、どんな状況にも向き合うことが出来る、慰めと希望が、ここにあるから、私たちは読み続けてきました。聖書には私たちの現実に向き合う言葉、厳しい私たちの生活にきちんと答える言葉があるのです。それこそ、罪にまみれた人間の歴史であっても、その中を、もう一つの言葉、その言葉によるもう一つの歴史が貫いていた。私たちは、聖書が証しする神の国の歴史に生かされていたのです。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」人間が作る歴史によっても、鎖につながれていても、歴史を貫く「神の国」は、だれも妨げられない、と言っています。神の国のこと、イエス・キリストのことについては自由であった、と。このところは、とても大事だと思うのです。鎖がすべてではない。鎖が支配しているのではなく、むしろ、パウロの中では、神の国の自由が支配している、というのです。そこに軸足を置いてみると、肉体の不自由は、一体誰のことか、といったように見えるのです。   愛知県美浜町出身の船乗り、岩吉、久吉、音吉は嵐に、歴史に翻弄され、国に帰れなかった人たちでした。しかし、町は、彼らこそ「先駆的日本人」だとして、記念碑を建てています。そこに「新しい国の姿」があったのだ、「新しい時代」が重なっていたのだと。彼らは時代の荒波に翻弄されたのです。しかし、彼らは、やがて迎える新しい時代、新しい国に生きていた「海嶺」となったと三浦綾子さんは紹介しました。聖書は言います。神の国は、権力をもって国境線を引くような国ではない。どこかの国のように移民を排除する、壁を作る国ではない。イエス・キリストの福音によって見える国、「神の国」が、海嶺として、今、そびえたっているではないか、と。その新しい国に生きていた人たちというのは、昔のことではない、今もここにいるあなた方ではないか、と。 私の家の前を通る道は、かつて武蔵国と相模国の二つの国の国境線だった。私は「国境の人」です。そして、私はキリスト者として(牧師、伝道者として)「あなたに神の国は近づいた」と伝える神の国の「国境の人」なのだと気づきました。キリスト者、礼拝者である者は皆、将来現われる神の国を、前倒しして、ここに生きている。私たちもまた、国境の人ではありませんか。 



「十字架を見上げて」          No.593
          (ルカによる福音書9章18〜27節)


                
宮城 献 伝道師

 メシアは「必ず多くの苦しみを受け」る、とイエス様はおっしゃられました。イエス様は、十字架で殺されることを通して、無力さ、弱さを証されるというのです。なぜでしょう。それは、私たちを救うためにです。そうして、私たちは、イエス様を主と信じ、十字架に依り頼めば救われます。

 けれど、イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」、そして「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」と語られました。どういうことでしょう。私たちはイエス様の十字架に依り頼めば、救われるのではないでしょうか。自分の命を救うために、自分の命を失い、自分の十字架を背負うとは、どういうことでしょう。

 実際の弟子たちは、イエス様の十字架を前に、自分の十字架を背負うことが出来ませんでした。みな自分のいのちが惜しく逃げ出しました。でも、この弟子たちを突き放せません。イエス様に従い、全てを捨てるのだと意気込むものの、自分のいのちを惜しむ私がいるからです。けれど、復活のイエス様は、十字架を背負えなかった弟子たちに、再び会いに行かれました。そして、もう一度、弟子たちに、従うように求められました。とりわけペトロは、直接「わたしに従いなさい」と、イエス様に声をかけられました。そして、この時になって、ペトロは、自分を捨て、自分の十字架を背負うことが出来たのです。愛する師を裏切ってしまいました。けれど、そんな自分をイエス様は赦して下さった、赦されるべきではない自分が赦されたのだと、自分の無力さを痛感したのです。でも、そうやって己の無力さに打ちのめされ、彼は、捨て切れなかった自分が砕かれました。そうやって、ペトロは、イエス様が十字架で証された、無力さに倣うものへと変えられました。

 私たちは、十字架のイエス様を見あげますと、イエス様を十字架に架けてしまった自分の弱さや罪に気づかされます。それと同時に、その十字架を通して、赦しの愛も覚えます。その中でこそ、己の無力さを素直に認めることが出来ます。ペトロのように、こんな自分が赦されたのだと恵みを覚える中で、己の無力さに気付かされるからです。でも、そうやって、捨て切れなかった自分を捨てることになっていきます。そして、そのことが、イエス様が十字架で証された、無力さに倣うものへ変えられていくことであり、自分の十字架を背負っていくことに繋がっていくのです。  



「秤を入れ替える」           No.592
          (ルカによる福音書6章37〜42節)


                
荒瀬牧彦牧師

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気が付かないのか」。これはどういう意味だろう。「誰だって欠点があるんだから、人のことをとやかく言わないほうがいいよ。人のことを言えば自分に跳ね返ってくるよ」といった意味なのか。しかしイエスは「自分の目にもおが屑があるのだから」ではなく「あなたの目には丸太がある」と言ったのだ。「イエス様、なんでそんなひどいことを私に言うのですか!丸太が私のこの小さな目に入るわけないでしょう!」と言いたくなる。 この極端な表現の意味を考えよう。この丸太というのは、自分をのみこんでいる罪のことではないか。根本的なまとはずれ(ハマルティア)としての罪である。神を悲しませ、人を傷つけ、自分も損なってしまう。しかし自分ではどうしようもできない強く大きな力である。

 「人を裁くな」と主イエスは命じられる。人を裁くことの何が問題かと言うと神を無視するからである。自分と相手しかいない。そして自分が正しいことを相手に突きつけねばならない、と考えている。でも本当は神がここに、あの人と私の間におられるのだ。人を裁き続けている私は、正義の源である神が介入して働いてくださることを信じないで、あたかも自分が神であるかのように裁判官になり、相手を責め、自分流の正義を強要する。丸太を抱え込んでいる私たち。丸太にくくりつけられている私たち。主がゴルゴダの丘に背負っていかれた木は、われわれの丸太なのかもしれない。この丸太は自分の力では取り除くことはできないのだ。主イエスの死によって贖ってもらう。それしか道はなかったのだ。イエスの死によって、私たちは赦された。そうやって赦された者として生きている。それ以外のものではない。だから、私たちは今まで自分が使ってきた秤を、異なる秤と入れ替える。それは、良い者の上にも悪い者の上にも等しく雨を降らせてくださる神さまの慈しみがもとになった“神さま基準の秤”である。

 「まず、自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の眼にあるおが屑を取り除くことができる」と主は言われた。勘違いしないようにしよう。これは、人の事には口を出さないほうが無難だといった消極的な処世訓ではない。人の目にあるおが屑を取ってあげられるようになったほうがよいのだ。その人がはっきり見えるようになるために。しかしそれができるのは、自分の丸太に真に気付いた者だけである。



「見つかった喜び」            No.591
          (ルカによる福音書15章1〜7節)


 この「見失った羊」のお話は何回もしてきましたが、今回また改めて読み直すとまた新しい受け止め方があることに感動しました。ここには羊をやっと見つけられたという羊飼いの感動と共に、見つけられるという羊自身の受動的な姿と、見つけられた羊自身も悔い改めるという能動性の二面がみられます。

 恩師の瀬底正義先生は、証しを書くときは必ず主語を神様に書き直しなさいと言われていました。「私が信仰告白をした」ではなく「神様が信仰告白をさせてくれた」といった具合です。これは小さな違いのようですが、キリスト教信仰の最も重要な点であり、教理を構成する要石とも言えると思います。

 私たちの社会は、主体的に能動的に活動することを求めていますし、それは間違いではありません。中国の偉人で三国志に出てくる諸葛孔明は、自らの子どもに「寧静致遠(ねいせいちえん)」という言葉を送りました。それは、誠実でこつこつとした努力の継続なくして、遠くにある目的に到達することは出来ないという意味です。まさにその通りで、これは学生生活でも、社会人でも、家庭でも全ての基本だと思います。しかしそれが、如何に優れた示唆を与えたとしても、優れた道徳であったとしても信仰ではないのです。信仰とは、努力の達成ではなく、人間の行動に先行する、神の愛、神の導き、神の救いを知ることなのです。羊飼いなるキリストが、私たちを見つけて歓喜してくださった。その神ご自身の喜びと愛が、私たちを救うのです。私たちは救われ見つけられた側なのです。

 ヨハネの手紙T4章10節「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。この愛に感謝して今週も進みたいと思います。



「パーティに空席あり」         No.590
         (ルカによる福音書14章15〜24節)


                 荒瀬牧彦牧師

 ある人が盛大なパーティを開催したという譬(たと)え。主催者が神様で、招待客がイスラエルの人たちというのはすぐ察しがつきます。ところが、この宴席の用意が整って僕(しもべ)が呼びにいくと(時が満ちて主イエス様が神の国を告げると、ということでしょう)客たちは断り始めます。A氏「畑を買ったので見に行かねばなりません」。B氏「牛を買ったので調べに行くところです」。C氏「妻を迎えたばかりなので」。我々が行く気のしない誘いを断る時によく使う手です。「しなきゃいけないので」(ホント?)、「しているので」(今やる必要ある?)、「これは義務ですから」(律法では妻を娶(めと)った男には1年の徴兵猶予がある法のこと?ではこの誘いは徴兵と同じ?)。しかし招きの重さを考えたら、どれもただの言い訳に過ぎません。

 譬えはその先で意外な展開を見せます。主人は広場や路地へ出て行き、当時の社会では公の祝宴に決して招かれなかったような人たちを連れてくるよう僕に命じたのです。さらに、まだ空席があると知ると、通りや小道にも行って人々を連れてきて、「この家をいっぱいにしてくれ」というのです。この主人は空席があるのがどうしても嫌で、一人でも多くの人たちと食事をしたいのです。

 さてどんなパーティになったのか、想像すると楽しくなります。堅苦しい晩餐会ではないでしょう。「あれ、あんたも呼ばれたのかい」、「私はこんな所初めてだよ」などとわいわいがやがや鍋を囲むような不思議な宴になったのでは?イエス様が呼びに来てくれた宴とはそういう所なのですよ。教会がそういうパーティ・チャーチになれますように。そうすれば、キャンセルした連中も後から、「ごめん!やっぱりここに入れて!」と泣きついてくるでしょう。(きっとその席はまだ用意されています。)



「唯一の救いは」             No.589
        (ルカによる福音書16章19〜31節)


 この金持ちとラザロの話しは、結論的に言えば唯一の救いはモーセと預言者の言葉、つまり聖書であり、死者の復活としてのキリストへの信心にかかっているということです。

 さてここで、この箇所をダイナミックに誤解を恐れずに再解釈してみると、この金持ちが陰府で「さいなまれていた」状況は、つまり直観的には私たちの毎日もその陰府であると考えるのです。さいなまれるとは、「苦しめられるとか、厳しく咎められるとかの意味で、「後悔の念に苛まれる」「良心の呵責に苛まれる」などといった具合に使われる表現です。私たちはこの毎日の生活の中で、何不自由なく暮らしているようですが、一方では毎日苛まれている。あの時、ああすればよかったのではと後悔の念を持つ。良心の呵責に苦しむ。生きる苦悩に苛まれている。いや、生きる苦悩に苛まれていない人などいない。だから、人は、そこから抜け出そうと必死に願い、ある人は享楽にふけり楽しく有意義と思うことに没頭し、ある人は苦行や修行によって、その生きるさいなみから逃れようとする。

 この金持ちは、ラザロを知っていました。自分の豪邸の前で死にかかっていたラザロが気にかかっていた。ある時は「こんな奴は」と思い、またある時は「このままでいいのか」と思っていたのかもしれない。金持ちはある時は「こんなぐうたらな男の末路は当然だ、俺は努力して財を築いてきた。」と思い、しかしまたある時は「そうは言ってもこのままこの男を見捨てていいのか。そんな無慈悲のままで、神は私に慈悲をたまわるのだろうか。」とさいなまれ、ある時は正しく、ある時は不安になっていた。死後、予想どおりの事態になってしまったのです。金持ちは愕然とした。生前、不安に感じ、恐れていた通り、ラザロと立場が逆転してしまったのです。金持ちは思うのです。あの時、ラザロに慈悲深くしてれば。陰府でのさいなみとは、激しい後悔の念に苦しみ悶えるような苦悩かもしれない。

 でもその苛まれる私たちに、アブラハムの言葉を通してキリストは語るのです。聖書を信じ、受難と復活のキリストを信じれば唯一の救いがあると。信じる者は救われるとは、正に神の下さった真理そのものなのです。


「信じる者に幸せを祈る」         No.588
        (ヨハネによる福音書3章1〜15節)


 ユダヤの教師であり議員という高い地位にいたニコデモが、周りの人たちに知られないようにこっそりと夜にイエス様を訪ねるのです。そしてずっと思っていた「あなたは、本当はメシアなんでしょ!」という質問します。しかしイエス様は、その質問に直接答えず、水と霊、つまり洗礼と聖霊によって新しく生まれ変わらなくては救われないと答えます。そして更に不思議なことを言われます。「風は思いのままに吹くし、何処から来て何処に行くのかわからないように、霊から生まれた者も皆そのとおりである」と。本来なら、洗礼と聖霊によって生まれ変わったなら、心の目が開けて、自分が何処から来て何処に行くのかが分かるようになったとなる方が自然なような気がします。しかし、新しく生まれかわった者は、逆に分からなくなると言うのです。

 私はこの箇所を従来の解釈から大きく再解釈してみました。つまり、神を信じ洗礼と聖霊によって生まれ変わった者は、分かった者になるのではなく、分からない者に変えられるという理解です。 

 神の霊によって生まれ変わった者は、自分という存在が、何処から来て何処へ行くかさえ知らないことを知らされるのです。自分で自分の人生を切り開けると思っていた、努力で何でも乗り越えられると教わって来た。出来ないのは、努力が足りないから、才能がないからと思わされていた。しかし、そうではない。霊に生きる者は、自分の人生は、努力や才能によって計画し勝ち取るものではなく、私達の人生は神の御手にあることを知らされるのです。自分の罪を自分で清算できない人間だからこそ、モーセが造った青銅の蛇をイスラエルの民が見上げて救われたように、私たちはキリストの十字架を見上げて永遠の命を得るのです。分かっていたはずの者が、神との出会いによって分からない者となり、救いに身を委ねていく。これが信仰告白であり洗礼なのかもしれません。 


「故郷(くに)の言葉で」        No.587
             (使徒言行録2章1〜13節)


                 荒瀬牧彦牧師

 五旬祭の日、聖霊を注がれた弟子たちは、いろいろな国の言葉で神の御業を語り出した。それを聞いた各地からエルサレムに来ていた人たちは、「どうして、わたしの故郷の言葉を聴けるのだろう」と心底驚いた。ただ、それ以来弟子たちが外国語を自動的に話せるようになったかというと、そんなことはない。しかし様々な人たちの心に届く仕方で、「あなたのために神は救い主を送ってくださったんだよ」と伝えられるようになったのだ。

 使徒言行録3章に、神殿の門のそばで物乞いをしていた男が、ペトロにこう言われた話がある。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。これを聞いた物乞いはペトロの手を取り、そして立ち上がった。なぜ彼は、お金を恵んでくれなかったペトロの言葉に応答したのだろう。それは、自分自身のための言葉を聞いたからではないか。あのペトロの言葉は、彼にとっての「わたしの故郷の言葉」だったのだ。

 人間は、自分を愛してくれる人たちが、赤ん坊であった自分に対して何千回、何万回と語りかけてくれることによって、自分の言葉を獲得する。くにの言葉があるというのは、私を愛してくれた人がいて、その語りかけが実感を伴った音声のことばとなって自分の内側に育ったのだ。故郷の言葉でこそ伝えられる深い安心や希望がある。

 聖霊を注がれるとき、わたしたちのうちに何かが起こる。「この人とはわかりあえない。通じない、届かない」という壁を越え、人の力を超える神の力によって、「通じる」喜びが生まれて来る。奇跡は起こるのだ。



「弁護者が必要です」            No.586
        (ヨハネによる福音書16章4b〜15節)


 キリストが去ることによって私たちに聖霊が与えられる。その聖霊と訳されるギリシャ語のパラクレートスは、新共同訳では「弁護者」、口語訳では「慰める主」、新改訳では「助け主」と訳されて来た言葉です。パラは「傍らに」、クレートスは「呼ばれた者」の合成語で、傍らに立つ呼ばれた者の意味です。それは裁判の時に、立ち上がって被告の代わりに弁明を行う弁護士のようです。この弁護士の仕事は、有罪の求刑を受けた被告を無罪にすることです。無罪の者ではなく、有罪の者を弁護するのです。「有罪ですから刑罰を受けてください。私は弁護しません」と言うのではなく、有罪だからこそ弁護人が必要なのです。

 あの日産自動車の会長が告発されて、選任された弁護人は通称「「無罪請負人」と呼ばれています。どう見ても有罪な人の無罪を勝ち取ろうとする凄腕弁護士のことです。勿論、有罪の人の弁護をするなんて狡猾な悪徳弁護士だと思う人も多数いることでしょう。確かにそうかもしれません。しかしこの話を私たちに置き換えて見るとまた印象が違います。私たちはどんなに頑張っても、神の前に正しくあり得ない罪人なのです。人の前では言い訳できても、神の前では言い逃れ出来ないのです。その有罪な私たちをパラクレートスが呼ばれて弁明してくれると言うのです。「この人は、これこれの罪は犯してしまいましたが、本当は悪い人ではないのです。ずっこけていますが、イエス様を信じて生きたいと祈って来たんです。なんとか赦してもらえませんか。どうしてもダメなら彼の変わりに私が罰を受けますから、後生ですから赦してあげて下さい。」神の前で、私たちを弁護してくださる方。それは正に信仰者の無罪請負人、パラクレートス聖霊なのです。

 みんなでペンテコステ礼拝を祝えることを感謝致します。神様、イエス様、聖霊様ありがとうございます。



「門を叩きつづける」            No.585
          (ルカによる福音書11章1〜13節)


 この箇所は「求めよ、されば与えられん」という有名な聖書箇所です。そこで求めて与えられるものとはなんでしょうか。、並行か所のマタイによる福音書では、父が求める者には与えるのは「良いもの」と記しますが、ルカによる福音書では、その良いものとは「聖霊」であると記すのです。求めるものには、門をたたくものには、良いものが与えられる。聖霊を賜るということなのです。

 そこで、イエス様は、まったく当然でしょうという例えとして、親が子に対してよいものを与えるように、神は求める私たちに必ず良い恵みを与えられる、聖霊を下さる、くれないはずはないと語ります。だから、求め続け門を叩き続けなさいと言われるのです。これは素晴らしいことで、お願いしない方が損!

 ただ問題は、では必死に願うから聖霊は頂けるので、その願う行為の対価として与えられるものであると理解すると違うような気がします。そうなると、何か努力をして無心に朝まで徹夜祈祷会をしている信者には、聖霊が与えられて、早く寝ましょうといった信者にはなかなか聖霊がこないのかという疑問が出てきます。更に言えば、大体、聖霊って、努力で頂くものなのか?という問いです。

 聖書はある箇所では「悔い改めなさい。***洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と記します。しかしまた「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」と聖霊の先行を語ります。

 信仰や努力が先なのか聖霊が先なのか、卵が先か鶏が先かという言う話になってしまいます。その答えは、大前提としてキリストの十字架の赦しがあって、その上で信仰の世界とはこの二つに挟まれた世界なのです。聖書は両方の大切さを語っているのです。パウロはそのことをロマ書で一生懸命説明するのです。行為が先行すればキリストの十字架は無意味となる。しかしその絶対的な赦しの上で、私たちは安心して努力を重ね、熱心に信仰して豊かに聖霊を賜るのです。だから、求めよ、されば与えられん、門を叩け、されば開かれん、心配しなくてもいいから信じて進みなさいと聖書は、今週も私たちに語られるのです。   


「石の叫び」                No.584
         (ルカによる福音書19章28〜40節)



 イエス様のエルサレム入場を喚起の声をもって迎える群衆。またその喜びを声高らかに賛美する弟子達。その出来事から、自らの地位が揺らぐことを恐れたファリサイの人達は、弟子達の叫びを制止しようとします。しかし、イエス様は、弟子たちを止めても変わりに石が叫び出す、誰もその賛美を止めることは出来ないと語るのです。

 では、石が叫ぶとは何を形容しようとしていたのでしょうか。私はこの石の叫びを大きく再解釈して、私たちの止められない叫びを叫びとして引き出して、神様に届けて下さる聖霊の働きと言ってもいいように感じます。

 人間とは、とにかく言いたいことが沢山あるのです。相手が聞いていようがいまいが、正しかろうが間違っていようが、お構いなしに喋り捲り自分の思いを相手に伝えたいのです。それは苦しみの叫びかもしれない、いや喜びの言葉かもしれない、感謝や不満であったりもすることでしょう。その思いを仮に私たちが黙っていても、黙らされても、変わりに石が叫んで、私たちの思いを神に伝えてくれるのです。だから、何か自分は口下手でいつも旨くしゃべれないとか、今日も言いたいことでなく、余計な事を言い過ぎてしまったとか、しゃべる機会が与えられなかったとかがあったとしても心配ないのです。それ全てを神は聞き届け、また私達の道を導かれるのです。そう思うと、少し心が軽くなりました。雄弁さや賢さではなく、真実な神への信仰こそが、私たちの祈りを神に届けてくださるのです。心配はいりません。今週も安らかに行きましょう。    



「神の喜びとは」              No.583
        (ヨハネによる福音書15章11〜17節)


 この箇所は、キリストの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びに満たされるためであると記されます。ではこの神の喜びとはなんでしょうか。この箇所では、直接的に語られていませんが、ヨハネによる福音書のテーマは「御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ること」が中心です。つまり、人が救われて行くことがイエス様の喜びなのです。また、その救いをもたらす力こそが、友のために命を捨てるキリストの十字架の御業なのです。その救いに私たちは、選ばれ招かれました。だから、この救いこそがキリストの喜びであり、それにあずかる私たちの喜びとなるのです。

 私たちは「救われる」と聞いても多くの場合ピンとこないと思います。これは何故かというと、救いは体験と大きく関係しているからです。自分の体験と重ね合わせないと、概念で終わってしまいます。そのような意味では、概念を体験化する必要があるのです。

 私もある面でピンとこないのですが、思い起こすと沢山の救いの出来事があります。本当に、偶然では説明できない神様に救われたという大きな経験があります。また大きな失敗を人に許してもらったことが何回かあります。言葉だけではピンと来ないのですが、その体験と重ね合わせることで、自分は本当に何度も神に赦され救ってもらったことを実感させられるのです。赦しと救いの体験化。これは本当に重要です。

 私たちは毎日の生活を何となく過ごしてしまうのではなく、一つ一つの出来事、家を出て帰るのも、食事やお茶をするのも、仕事や掃除をすることも、神様の恵みとして受け止めることが大切です。その時、当たり前が当たり前でないことに気付き、また救われていることを実感するのです。いつも喜びなさい、全てのことに感謝せよとは正に私たちのためにある聖書の言葉なのです。



「キリストを信じる者」          No.582
        (ヨハネによる福音書10章22〜42節)


 キリストは多くの奇跡を行いました。病を癒すだけでなく死者の復活という奇跡さえ行うのです。しかし、人々はそれでもイエス様を本質的に信じようとはしませんでした。その不信に対するイエス様の答えは「わたしの羊ではない」からということでした。イエス様の羊なら、羊飼いの声を覚えており羊たちは従うはずだからです。

 私たちが、キリストを伝えて行く中で、まったく信仰に関心のない人に伝えることは本当に難しいという実感があります。そして更に言えば入信へ導けるかどうかは、その人が良い人であるとかとはあまり関係ないように思うのです。私たちが如何に旨く理路整然と言葉を語っても、私たちがどれだけ愛と労力を費やしたとしても、キリストの羊でない人には伝わらないのです。そしてこの感覚は、これはイエス様自身が神の国の宣教に於いて、第一にまず感じていたことなのです。 しかし、ではキリストの羊でない人は救いようがないのでしょうか。いやそうではなく、寧ろ自分がキリストの救われた、贖われた羊であることを知らないから声を聴き分けられないとも言えます。羊飼いの声を知らないので聞き分けるとも出来ない。

 そのような意味では、キリストの羊でないというより、羊飼いの声を知らない、自分が羊であることに気付いてないのです。だから、伝道とは「あなたも贖われた、買い取られた尊い羊ですよ」と伝えることなのです。その人は「え、私が?」と言うかもしれませんが、私たちは「そうですあなたも神に愛される羊なのですよ!」とお伝えしたいと思います。


「私の罪も赦してください」        No.581
        (ヨハネによる福音書20章19〜23節)



 ヨハネによる福音書のペンテコステとも呼ばれる箇所です。「父が私を遣わしたように、あなた方も遣わす。聖霊を受けよ」と語られます。そして「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る。」と続きます。実際のところ「罪赦される」まではよかったのですが、私たちが罪を赦さないとそのまま残るという言葉は非常に気になります。まるで私たちが罪赦したり、罪に定めたりする権威があるかのようにも読めるからです。

 勿論、神の裁きの権威が人間に与えられたと考えるとしたら、とんでもない誤りです。寧(むし)ろ、罪が残らないように、赦されないまま残らないように、私たちはとことん人を赦さねばならないということなのです。そして、更に言えば、赦さないと罪が残るとは結果的に、自分の罪も残り、赦されないということになるはずなのです。あなたは天国、あなたは地獄ですよ!なんて話ではない。それどころか、赦さない自分が、赦さなかった罪によって、罪に定められてしまうのです。ですから、私たちの伝道として神の赦しの宣言をしていくことは、即ち私たちの赦しそのものでもあるのです。

 しかし私達は、赦しを宣言していながらも、置かれた状況によってはやはり、容易に人を赦すことが出来ません。その為にも私達は、主の祈りが「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と唱えると共に、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈るのです。人を赦せないような状況に私たちを置かないでください。試みに合わせないで人を赦せるようにしてくださいと祈ることが大切なのだと思います。   



「自分のガリラヤを探して」        No.580
        (マタイによる福音書28章1〜10節)



 復活のイエス様は、婦人たちにガリラヤでの再会を告げます。このガリラヤとは、正にイエス様が宣教を開始したスタート地点です。つまり、初めに戻って神に出会いなさいと言うのです。イザヤ書51章では「正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」とあります。自分自身が何処から来たのかを知ること。自分が何処から切り出されたのか。自分という存在の基本に帰ることが大切であるといいます。私たちの世界は前に前に進むことを教えられますが、一旦もとに帰って、自分は今なんのために立てられ生かされているかを知りなさいと告げます。

 先日、ブラックホールの撮影が成功したとニュースが流れていました。それを報道する番組で、大学の教授が「宇宙は今も膨張しているのです」と解説すると、アナウンサーが「どこに向かって膨張しているんですか?膨張するには広がっていく先があるでしょ!」と質問したのです。すると、さっきまで意気揚々と話していた大学教授は「それは・・・」と口ごもってしまいました。それは意地の悪い質問かもしれませんが、大学の先生でも自分達の住む世界が何処から来て、何処に向かっているのかも分からないのです。

 私たちの近代文明社会は、ある面で既に神など必要としない世界のように思えます。しかしそれなのに、何故、信心はなくならないのか。宗教で葬儀をする必要もなく、新年に御参りをしてお賽銭を上げる必要が何故あるのか。それは、人はどんなに科学が進んでも、最終的に自分が何処に向かっており、死んでどうなるのかを知らないからだと感じます。人は、信じてはいない、神など必要ないと言いながらも、しかし漠然とした見えない暗闇の行方への不安が、信仰を撲滅させることが出来ない理由かもしれません。

 聖書は明確に語ります。私たちは神のもとから切り出され、死しても信じる者は復活して天へと迎えられる。私たちは価値ある存在であり、人生に無意味はないと。この事を身を持って示されたのが、復活のイエス・キリストなのです。



「どう聞くか、どう行うか」        No.579
          (ルカによる福音書8章16〜21節)


                 荒瀬正彦牧師

 2019年度の新年度にあたり、神様は私たちに「光あれ」とエールを送って下さっている。「光りよ来たれ、闇よ去れ」と願いつつも、人間は闇を好むところがある。人は3つのものを隠そうとする。 ●第1に、自分自身に対して何かを隠そうとする。自分の生き方を自分に隠そうとし、自分の歩みに目をつぶる。●第2に、他人に対して何かを隠そうとする。自分の本当の姿を隠し秘密を持つ。●第3に、神様に対して隠そうとする。本心・本音を隠して、信仰深そうな言葉を並べては綺麗なお祈りをしたりする。

 光りは現実を照らし出す。それが怖くて私たちは光りを隠す。光りなしには何物も見えない。見えなければそこには問題は無いと自分で思い込む。

 光りの反対が闇であるのではない。闇とは「状態」のこと。光りの乏しい状態のこと。失望や絶望の状況にあっても光りはそこにあるのである。

 イエス様は「光り」を神の言葉・神の真理と言われる。そこで18節で「(光である御言葉を)どう聞くかに注意せよ」と言われる。御言葉を真剣に聞くことは光りを仰ぐこと。様々な問題で目の前が覆われている時でも、変わりなく道を照らし続ける光はある。それを信じて仰ぐのである。

 それに続いて21節で「神の言葉を聞いて行う」ことについて言われる。本当の人間関係は血の繋がりや心の結びつきだけでは完全に築き上げることは出来ない。神の国における人間関係、キリストにある兄弟姉妹の関係は「神の言葉を聞いて行う、そのことによって築き上げられるのだ」と言われる。神の国は愛によって築かれる社会である。小さな愛でよい。一片のパン、一杯の水を、御名によって分かち合うところに神の国が出現するのである。

 新しい年度を迎えて、私たちの教会は道を照らす光りを掲げ、人と人を結び合わせる光りを分かち合うことを課題として追い求めて行きたい。



「キリストに倣って」           No.578
        (マルコによる福音書10章35〜45節)


 旧約聖書を読んでいると人間の困窮と叫びは凄いと改めて思わされます。人々は、自らの願い、困窮、叫びを神に激しく訴えます。詩編69.29では「命の書から彼らを抹殺してください」と人間の困窮を代表するがごとく叫ぶのです。罪を赦してあげてくださいではなく、抹殺してくださいとの叫びです。人々は、こんな酷い目に合わされているのだから当然でしょう、神様正しい裁きを行ってくださいと願うのも最もな心理だと思います。

 しかしその裁きを決められるのは、十字架の死と復活を通して栄光を受けた神であるキリストのみなのです。どんな正しい人でも、いや敢えて言えばどんなに困窮している人でも、その主権を持つことは許されていないのです。裁きと恵みの主権は神のみにあるのです。

 マタイの5章では「人間は、自分の髪の毛一本すら白を黒に変えられない」と言います。それなのに、39節にあるように「私は出来ますから玉座に付けてください」などと人が言うのはおかしな話しなのです。敢えて言えば、自分の出来る力で王座を要求する者は、自分の出来なさによって王座から失脚もするのです。だからそうではなく、キリストのように仕えるものになりなさい、僕となりなさいと聖書は言うのです。

 私たちは出来ない者、気が付かない者、見えない者なのです。そして、それはいくら鍛錬を積んだとしても完成することはありません。神は正しく裁かれますが、神は正しく私たちに恵もくださります。キリストの受難と復活こそが、私たちを支えなのです。だからこそ、文句を言わずに神と人とにお仕えすることが信仰の本分なのです。        



「キリストのミッション」         No.577
        (マタイによる福音書28章16〜20節)



 先週の主日礼拝は、香港中会のAmos Yeng先生に説教を担当して頂きました。マタイ28章の第宣教命令の箇所から、宣教への恐れと力について話されました。復活のキリストに出会い、宣教に遣わされようとしているのにキリストを疑う人たちがいたこと。しかしその人たちや宣教活動に対する不安は、自分の力で信じ切り開こうとするとのことに原因があったのです。宣教の力は、キリストの力でなされるものであり、人の能力や決心によってなされものではないのです。自分に頼る限り不安と恐れにとらわれるが、逆にキリストの力によって宣教の業につく時、私たちには平安があるとの趣旨のお話でした。 

 礼拝後の食事会の折に伺った先生ご夫妻の話によりますと、現在の中国は、政治的抑圧のために多くの牧師が投獄されてしまいっているとのことです。また香港では、年々その中国による政治的圧力が強まり、今後は信教の自由まで奪われるのではという不安があるとのこと。高齢化と高い住居費や物価により若い人たちの生活がままならない状況あるとのことです。その中でのキリスト教宣教の困難さは大変なことかと思いますが、それでも人の努力や力ではなく、キリストの力によって進められるという信仰に立たれているのだと思わされました。

 私たちもまた、日本におけるキリスト教宣教の停滞に、教会の力のなさを嘆く時もありますが、キリストの宣教は私達の知力や能力や、ある種の勢いによってなされるのではなく、キリストへの信頼によって、神の力が推し進められることを示されました。ですから私たちはそれに着いていくだけなのです。キリストの十字架と復活の後について行く。そう思うと、また何か明るい気持ちになり、次は神が何をして下さるのか期待する思いにもなります。私達には金銀や力はないが、キリストの名によって立ち上がる事はできるのです。



「神の国にふさわしいもの」        No.576
         (ルカによる福音書9章57〜62節)
    

 
本日の聖書箇所は、弟子の覚悟というとても厳しい勧めです。キリストの弟子になるとは、雨風しのぐ宿もなく、両親や近親者の葬儀も振り返らず、仕事も家族も全て捨てて従わなければ、神の国にふさわしくないというものです。それは正に、イエス様の歩んだ十字架への道を追従することです。そしてそれは正しいキリストの道です。

 しかし、ここの正しさの中にも、二つの危険もあります。一つは、この言葉が、カルト教祖によって利用され人々が隷属化させられる危険性です。二つ目は、自分自身の挫折感や社会への幻滅から、自己逃避として利用される危険です。カルトは、その人々の孤独と挫折感に忍び寄り、勇ましく服従することによって人生が回復すると誘いをかけます。「神のために全て従いなさい、財産を投げうちなさい、嘘をついても信仰に導きなさい。教祖に命を投げ出しなさい。それが神のためです」と説くならば、どんなに信仰勇ましく従っても間違いなくそれはカルトなのです。

 イエス様の弟子たちが、自分たち中で誰が一番えらいかと議論を始めたという記事があります。この出来事に対して、キリストは「小さな幼子を受けいれる者が弟子であり、みんなの中で最も小さい者が、最も偉い」と語り、弟子たちの妄信的な勘違いの信仰姿勢を大修正されました。そのような意味では、キリストに全てを捨てて従うとは、妄信を促され社会から厭世した、教団内だけで通用する嘘つきになることではないのです。この幼子に仕える者、最も小さくなること、そのために自分を捨てられるもの、その者こそが弟子であり、最も偉いものであり、神の国がふさわしいものなのです。そしてその道こそが十字架の道なのです。



「真理を行うもの」            No.575
        (ヨハネによる福音書3章16〜21節)
    

 
この最も有名な聖書に箇所において、本日注目したいのは「世」と訳される言葉です。この「世」は、キリストと敵対する世俗社会であり、排他的に神とキリストに敵対する人間社会を意味しています。しかし、この世はキリストに敵対する者であると共に救済の対象者、伝道の対象者でもあるのです。私たちが最も大切にする「御子を信じるものは救われる」という言葉に続て、世俗社会も救済の対象者であることが記されていることに注目したいのです。

 近代は、何かキリスト教会は流行らないようなのに、周辺にも新興宗教のポスターや宣伝が溢れかえっています。お正月は、まったく宗教に興味を示さないかのような日本人が、神社のお参りに長蛇の列を作って祈願をしているのです。この現象の背景には「神は信じないが、恐れている」という人間が持つ共通の心理があるのです。何かお参りをしないと悪いことが起こるのでは、仏教なんて信じないけどお坊さんに葬儀をしてもらわないと先祖が成仏できなくて自分たちに災いが降りかかるのでは。この恐怖によって人々は、神も仏も信じていないのに宗教に縛られていのです。そして、その人間のウィークポイントを狙って、悪意ある人たちによって上手く利用されていくのです。

 私は、このような世の中のキリスト教会の使命は重大だと感じています。私たちが、教会が、一時代に流行らないという理由で撤退したり弱ったりしてはならないのです。人々を恐怖で縛り付ける悪魔の技から解放を告げる使命があります。神という方は、罪人のために命を投げ出し救くわれる方であること。恐怖と祟りの対象ではなく、慈愛の神であること告げ知らせなければなりません。キリストがこの世を救済の対象として進まれたように、私たちもあなたの恐れている方は、実はあなたを救おうとしている愛の神なんですよ」とお伝えして行きたいと思います。                  


「死に克つ命」              No.574
          (ルカによる福音書7章11〜17節)


                 荒瀬正彦牧師

 ルターはこの箇所を愛して「我々が既に死んでいるとしても、このお方が死からの救い手なのだということがここには書かれている。我々はすべて死に向かう道を歩いている。その我々自身の前に、周りに、後ろに、このお方の姿を見る。我々すべてと共に、死への道を歩まれるお方を見るのである」と言っている。

 イエスの一行がナインの町に近付いてきた丁度その時、町の門からお葬式の行列が出てきた。若い息子を亡くして悲しみにくれる母親を先頭とした行列であった。イエス様は母親に「もう泣かなくてもよい」と声を掛けられた。母親の涙を止めるだけではなく、死の棘の暴虐に対して中止を命じるものであった。愛する者が引き裂かれていくとき、死は私たちに生々しい爪痕を残す。主は母親の痛み悲しみの傷痕に近付いて行かれた。母親の信仰など問題にされていない。そしてお棺に手を触れた。主は死そのものに手を掛けて「この命は私のものだ」と主張されるのだ。「若者よ、さあ、起きなさい」。主イエスの業は慰めを与えるだけではなく、死に奪い取られた息子を母親に返すことであった。この業に於いて、私たちは先に天に召された愛する者と再び相見える慰めと希望が与えられている。先立った者がキリストの命に生かされて、新しい命の衣をまとって目の前に立ってくれる望みが与えられている。そのことが甦りのイエスによって約束されているのだ。ナインの町の人々は「神はその民を心にかけてくださった」と叫び、「大預言者が我々の間に現れた」と言ったのみで、命の主、新しい光の主を仰ぎ見ることはなかった。奇跡の出来事を見たのみで、そのしるしの指し示す向こうを見なかった。私たちはこの出来事から、周囲で起こる生と死の出来事を通して、そこに立つ命の主イエス・キリストを信仰をもって見上げたい。死について思うとき、共に居給う甦りと希望の主イエスを信仰をもって仰ぎ見たいと思うのである。


「ペテロの熱意として」          No.573
        (マルコによる福音書8章31〜38節)

    

 イエス様は、心配して十字架の道を引き留めるペテロ対して「サタン引き下がれ!」と叱責されます。確かに、ペテロが保身の気持ちから言ったところもあるとは思いますが、せめて、「ペテロくん、心配してくれるのはありがたいんだけどあのね」ともう少し優しく言って頂ければいいようにも感じます。しかし、ここがやはりイエス様の凄いところです。配慮なし更に畳みかけるように、自分の命を救いたいと思っているやつは一番先に命を失うことになる!と言い放つのです。もう、口を挟む余地がない厳しさ。

 でもその厳しさは、ペテロの中の二心の信仰への警告なのです。それは、イエス様に全てを捨てて従いたい自分と、イエス様に王様となってもらい自分の地位も上げてもらいたいという願い。それを見抜き、警告と道を示すのです。

 神は、人の弱さを顧みられないような方ではありません。神の偉大さは、正しいものを評価するだけではありません。それなら人間でも出来ること。神の偉大さは、裏切った者を再び立てるからこそ偉大なのです。二心のペテロを教会の柱として立てられるからこそ神は偉大なのです。ですからそれと同じように、私達も神は立ててくださるに違いないのです。従いたいけど従いきれない私たちを、裏切りの私たちを立てて、神の業に今一度つけてくださる。

 ヘブライ人4章では、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」とあります。 神の厳しさと、恵みは偉大です。その愛が必ずペテロと共に私たちをも救ってくださることでしょう。  


「聞く耳のある人とは」          No.572
          (ルカによる福音書8章4〜8節)
    

 以前、「きみは聞く耳がない!」と注意されたことがあります。その時は、そんなことはない自分はちゃんと周りの意見を聞いていると反発しました。しかし今思い返せば、確かに聞く耳がなかったように思います。 人は誰でも、自分は聞く耳がないなど思ってはいないはずです。しかし実際は、こぼれた種が人に踏みつけられるがごとく、大切な神の言葉も聞けないのが私たち自身なのかもしれません。そのような私たちに、神はキリストを通して宣教されるのです。私たちが聞く耳のない時も、私たちが神の言葉を踏みつけてしまう時も、神は時が良くても悪くても救いと愛の言葉を人類に語られるのです。

 昨日、NPO総会で佐々木炎先生のお話で、大変反省させられました。最近の私は、介護事業の職場での職員関係のトラブルに振り回されて、すっかり事なかれ主義の穏便路線を自分が選択していたことに気づかされたからです。神は、御言を踏みつけてしまうような私たちでも、聞く耳を持つまで根強くその愛を実行されるのに、待ってもらった私自身は、それが出来ていなかったと感じさせられました。聞く耳のない者が、新たに御言を聞く者として救われ、神の宣教を与えられました。この感謝を神に少しでもお返しできればと願わされます。 


「自分の分を受けとる」          No.571
        (マタイによる福音書20章1〜16節)

      

 この箇所の大きな問いかけは、仕事量によって対価としての救いを得るのか、量に関係なく雇い主の自由な采配によって報酬を与えられるかということです。つまり、律法順守により救いを得るのか、神の恵みによって救いを得るのかと言い換えてもよいと思います。救いが働きの対価によって支払われる報酬のようなものであるとすれば、それはもはや恵みではありません。そこで必要なのは、人間性を生産力に変える力であり、神の自由な主権は不要なのです。道端の倒れた隣人を助けるより、決まったルールだけを順守する冷たい役人主義が推奨されることでしょう。

 イエス様は、当時のユダヤ教徒が当然として順守していた律法理解に真っ向から立ち向います。朝から働いて来たユダヤ人ではなく、夕方から雇われた異邦人に神からの同じ恵みが与えられることを告げます。そこでは、不公平だという人たちの声を超えて、神の自由な愛の采配があります。神が、神の恵みを自分の主権で人に与えて何が悪いのか、私の気前の良さを妬むのかと人々に問います。この問いには、ユダヤ人の誰もが答えられなかったことでしょう。イエス運動とは、宗教という枠組みから神の主権を取り戻し、神の自由な采配が人々を救われることを告げることだったのかもしれません。そして、私たちもこの神の自由によって救われているのだと思います。


「神を通って、神の中へ」         No.570
       (ローマの信徒への手紙11章25〜36節)


                
荒瀬正彦牧師

 神様の救済のご計画は不思議な展開を示します。イスラエル人のみならず人類全体が、不従順と従順、裁きと憐れみが綯い交ぜになりながら福音へと引き戻されます。それは最早(もはや)、人間の知性や論理を遥かに超えたことです。パウロは思わず賛美の声を上げるのです。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか。誰が神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。

 神の富とは「慈愛と忍耐と寛容の富」、つまりは「神の憐れみ」のことです。神の知恵とは、どんな状況の中でも定められた救いのご計画を貫き通す知恵です。神の知識とは、神がすべてを知っておられるということ。私たちの悲しみ苦しみも、この世界の不条理も理不尽も知っておられるということでしょう。

 29節で「神の賜物と招きは取り消されない」とパウロは言います。イエス・キリストに躓(つまず)いた不信仰な者が、今もなお賜物と招きを頂き、恵みの内にある。

 私たちは神の恵みを数え、神の愛を覚えて感謝するが、「恵みを数えているのはこの私だ」ということを忘れてはいけません。目先のことしか見えない私たちにどうして本当の神の恵みの大きさ、深さ、広がりが分るでしょうか。苦しい辛いことの中に神の御心が働いていることが分からない私たちです。にも拘わらず、私たちは御心を推し量り決め付けようとする。「思い上がるな。むしろ恐れよ」とパウロは忠告します。そして「自分を見るのではなく、神様を仰ぎ見よう。共に神を賛美しよう」と呼びかけるのです。「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」。この告白は悲惨と絶望、罪と死の支配するこの世界の中で語られている。それは罪と死の支配を打ち破られたイエス・キリストの勝利に対する賛美の言葉です。この確信に励まされるとき、神の富と知恵と知識に信頼して全てを委ねることが出来るのです。           



「恐れなくてよい」            No.569
         (マタイによる福音書17章1〜9節)
      


 本日注目されるべきことは、その旧約の時代から預言される神々しいキリストが、弟子たちの手に触れて「起きなさい、怖がらなくていいよ」と言われたことです。かつて神は恐れの対象でした。創世記32章にある族長ヤコブと神とのペヌエルでの戦いでも、神に出会ったことが死に繋がると記されています。ですから、旧約の時代は、神の名をみだりに唱えないようにしていたため、神の呼び名を忘れてしまった程なのです。それ程に恐れられていた神が、人間に手を置いて「怖がらなくていいよ!」と言われるのです。これは、本当にユダヤで信じられてきた神理解の大変な変化でした。まったく逆転するコペルニクス的な転換。裁きと恐れの対象者であった神が、愛の神、赦しの神、救済の神として示されていくからです。つまり、怖がる必要のない神が、イエス様によって登場するのです。

 勿論神は、旧約の初めから愛の神であり救いの神です。しかし、人々は自らの罪によって、その愛の神を見出すことが出来なくなっていたのです。神に見つからないように影に隠れ、裁きを恐れていた。エデンの園のアダムとエバのようにです。しかしキリストは、ご自身の命がけの証しによって、本来の神の姿を回復されました。だからこそ、キリスト教会では「神は愛なり」と唱えることが出来るのです。本当に感謝なことだと思わされます。


「信じたとおりになるように」       No.568
         (マタイによる福音書8章5〜13節)
      

 このマタイの記事は、ある方向性を示そうとしています。それは、イエス様がイスラエルの救いを自分の使命とて優先すると言いながらも、常に異邦人を救う出来事が多数記載されていることによります。先週も話しましたが、15章のカナンの女の出来事。娘を癒して欲しいと願う母親に「今は異邦人のために自分は来たのではない」と冷たくあしらいますが、結果的には癒され「あなたの信仰は立派である。あなたの願い通りになるように」とイエス様に宣言されのす。つまり、イエス様が本質的に言われたかった中心的な意味は、民族や人種などではなく、神への信仰、神への信頼です。「信じたとおりになる」とはイスラエル民族のみへの約束ではなく、信じる者全てに語られる神の約束というメッセージです。

 だからイエス様は、異邦人の百人隊長にも「はっきり言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことはない。あなたの信じたとおりになるように。」と宣言されました。神の前では、民族でも、地位でも、経済力でも、人種でも、何も関係がない。イエス様を屋根の下に迎えることも出来ない人物でも、全ては信じるという信仰に集中していくのです。そししてその信仰は、真実な信仰の代表者である「アブラハム、イサク、ヤコブ」が着席する天の国で大宴会、つまり天国へと私たちを招いてくれるのです。

 若くて本質を理解できない頃は、自分の奉仕や熱心で、天国の扉をこじ開けようとしているのかもしれません。しかし、信仰を地道に続けて熟練していく過程においては、自らの力では到達できない苦難に出会い、初めて「あなたの信じたとおりになるように!」という信仰へと導かれるのかもしれません。


「初めに良いものを」           No.567
         (ヨハネによる福音書2章1〜11節)
      


 このヨハネの記録したカナの婚礼の出来事は、神が私たちに何をしてくださるかが明確に記されていると思います。まずイエス様は、母マリヤの葡萄酒の追加をなんとかしてほしいという願いに対して「わたしはあなたと何のかかわりがあるんですか」と冷たくあしらわれます。またこの似た出来事として、マタイ15章21節以下のカナンの女の信仰という話がありますが同様の展開です。イエス様に、娘を助けてくださいと懇願するカナンの女性に対して「私はイスラエル家にしか使わされてない」といいます。どちらも、それは酷いのではというイエス様の回答。しかしこの二つの話の結論は、いずれもイエス様は、女の願いを聞き入れてかなえているのです。そういう意味では、イエス様は自らの救いの順序は決めているが、情に流されやすいタイプだったのかもしれません。予定はこうだが、困っている人を見ると、ついつい助けたくなってしまう。そのような意味では聖書の示すキリストに現れる神は、決められた摂理を冷静に正しく遂行する全能者というよりも、人のように情にもろく、頼まれ毎に弱く、予定を変えても火の中、水の中に飛び込む救済者なのかもしれません。

 その神は、婚礼の初めに良い葡萄酒を用意する共に、婚礼の最後にも良い葡萄酒を備えられるのです。その意味するところは、創世記の初めに世界を良いものとして祝福に満たして造られたように、最後も素晴らしき良いものであるキリストの救いで締めくくられるのです。神は、初めも終わりも良いもので満たし、人が滅びるのを見捨てられない、情にもろい愛の神であることがこの箇所から教えるように思えます。 


「邪な愉しみを捨て」             No.566
          (エゼキエル書34章1〜10節)
           (ヤコブの手紙 4章1〜12節)

                
荒瀬正彦牧師

 「人間は他人の悪口が大好きな動物だ」と或る学者が言っている。ヤコブの手紙4章11節では「兄弟たち、悪口を言い合ってはならない」と言う。

 4章1節「何が原因であなたがたの間で戦いや争いが起こるのか」。教会内部にある社会的な差別や教義の違いなどから妬みや憎しみが湧き起り、そのため教会の霊的成長が妨げられている。ヤコブは「あなたがたは祈りを知らないのではないか。間違った動機や自己中心の動機、また神賛美ではなく利己的な欲望からではないか」、と厳しく問責する。

 人生の最終的な選択は、自己を喜ばせるか、それとも神様を喜ばせるか、のどちらかであろう。自己を第1とする世界は最後には争い合い、共倒れとなる。自己の欲望の追及は競争社会とならざるを得ないからである。自己を喜ばせる限り「祈りの門の扉」を閉ざしてしまうのである。8節で「神に近づきなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」と言う。「心が定まらない」のは、知性や思想が風にそよぐ葦のように自己保身のために右に左にと揺れるからである。そして9節で「悲しみ嘆き泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えよ。主の前にへりくだれ」と言う。信仰とは神との出会いに始まるのだが、換言すれば自分の罪との出会いから始まるとも言える。自分の罪を認めるのは悲しい体験である。心絞られる痛み、悲しみ。が、その非痛が「赦された」という感動的な喜びへと変えられていくのである。「神に近づきなさい」と言うのも、決して神に近ずくことが出来ないと分かったところから、初めて「近づいて下さる神」を知り、共に居て下さる神に感謝が生まれるからである。大切なことは、罪を知り、それを赦して頂いたという貴重な体験が、人を謙虚にしてくれることであり、そして神様の前に本当に謙虚になれることである。

 主イエスが示される律法は二つである。「主なる神を愛すること」。「自分を愛するように隣人を愛すること」。私たちに求められているのは、愛の律法の前に身をかがめ、愛の律法を行うことである。隣人を生かし、隣人を愛すること。それが神を愛すること。

 人の悪口を言うとか、競争に走るとか、利己主義とかの邪まな愉しみを捨て、神様の慈愛と憐みを祈り求めるところに、真実の喜び、永遠の喜びが与えられるのであろう。


「人生のかなめ石はキリスト・イエス」   No.565
      (エフェソの信徒への手紙2章14〜21節)

      

 キリストは、決して一致できないはずの異邦人とギリシャ人を信仰によって一つとしました。両者の敵意を滅ぼす信仰は、正に平和を告げる福音なのです。そして、この両者というのはユダヤと異邦人だけではなく、神と人、敵と味方といった関係からの解放を意味します。キリストを信じるとは、分裂と反目を続ける人間に、敵意を滅ぼし、和解の道へと導くことなのです。そのために、イエス様は死に、そのためにイエス様は十字架にかかり、そのためにイエス様はこの世に来られました。ですから聖書は私たちに問うのです。キリストは、聖所だ至聖所だとか、清いだ清くないだとか、そのような争いのためにイエス様は死んだのですか?十字架はあるのですか。キリストは、敵意を滅ぼし平和をもたらす使者でしょう。 ある方が「自分が一人の人を憎めば、自分を憎む人が一人増える。自分が一人の人を愛せれば、自分を愛する人が一人増える。しかしその行動と結果の間には大きな時間の流れがあり、忍耐と愛が試される。」と言われました。私たちはキリスト者になっても、腹が立ったり、赦せない思いにかられてしまうことが今なお沢山あります。それでも、キリストを土台して、またキリストを要石として、その度毎に連続的な悔い改めで、自分が何故、ここに立たされ、何のために使わされているのかを思い返したいと思います。イエス様に下から支えて頂き、一番上をまとめて頂き、私たちの目標である神と人と愛をもってお仕えする一年でありたいと願います。


「神を知って生きること」          No.564
      (エフェソの信徒への手紙2章11〜13節)
      

 今年の主題聖句の個所を第一主日と共に覚えてみたいと思います。この聖句の記されるエペソの信徒への手紙の趣旨は、救いは恵みによること教会の一致です。ヘレニズムの多神教文化の中で生活する異邦人キリスト者は、キリストの恵みと信仰によって、神に近い者となったこと告げられます。神から遠く離れていたものが、より近くになった。

 さて、この遠くから近くになるという意味は、実際の距離というより、その捉え方、感覚に大きく依存すると思います。目指すハードルが高ければ高いほど、困難であればある程に、距離は遠く感じます。そのような時に必要なことは、最終目標よりももっと手前に小さな目標を設定していくことです。例えば、苦しいマラソンにおいてゴールを目指しているのですが、次の電信柱まで、次の信号までと小刻みに小目標を設定しくじけないよう走り続けるのです。勿論、小目標を設定しなくても、私たちの一般的な生活でも同様で、お正月をしなくても何も変わらないはず、結婚式をしなくても困ったことはない。クリスマスもイースターもです。 

 しかしそれでは、最終目標へ到達するのが困難となります。例えば、私たちの生活の中に「通過儀礼」というものがあります。二十歳になったので成人式を行うとかです。これはシニカルに捉えれば無意味のようですが、人生の旅路に置かれた小目標なのです。その目標によって、一つ一つの出来事を乗り越えて行くのです。それにより遠くが近くになるのです。そして更にはその積み重ねによって、信じる者は、天国への約束を手にするのです。ただ重要なことは、その小目標の設定は、イエス・キリストに向かって行われるということです。人の願いの実現ではなく、キリストご自身が目標なのです。 本年度は、あさひ教会も会堂建設をいよいよ本格的に始動していくことになりました。どのような計画になり、いつ建てられるのか、そう考えると楽しみで一杯になります。しかし、どんなに素晴らしい建物が出来たとしても、それは天国への旅路の宿であり、その要石はキリストなのです。キリトに向かって今年も歩みたいと願います。         
  Copyright (C) 2008.4.1 カンバーランド長老キリスト教会日本中会 あさひ教会(伝道教会) Rights Reserved.
         〒241-0021横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-19-21ミヤビビル一階 電話045-489-3720

カウンター


ふれんどしっぷあさひ フレンドシップアサヒ フレンド デイケアー 老健 加藤文太郎 神々の頂 孤高の人 羽生譲二 ビカーサン 神学 現場 ボンヘッファー<BR>
CPCJ カンバーランド長老キリスト教会 日本中会あさひ伝道所 あさひ教会 デイサービス 鶴ヶ峰 旭区 瀬谷区 希望が丘 二俣川 今宿 横浜市介護保険 <BR>
介護予防通所介護 徳之島伝道所 寿地区センター 介護保険 カウンセリング