カンバーランド長老キリスト教会


教 会

    横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-34-10
       内田ビル一階
    旭区役所より徒歩2分
    TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


御言葉と出来事
御言葉と出来事(2020年)
  

2020.12.27更新
    

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「お言葉どおりに、この身になりますように
                    No.667

         (ルカによる福音書1章26〜38節)


 マリアは、天使による御子の懐妊を聞いて、戸惑いながらも「お言葉どおりに、この身になりますように」と答えます。このマリアの回答で注目するべきことは、「はい、信じます」ではなく「お言葉どおりにこの身になりますように」という言葉です。つまり、自分の人生を神に委ねるという告白。 神の子を宿すとはどういうことなのか、それは自分の将来に何を意味し、またその子はどうなって行くのか、全てがわからない状況。しかし、神に出来ないことは何一つない、神がこの出来事を通してされる御業に自分の体を、自分の人生を委ねようとする姿勢。これこそが、重要だと感じます。 自分の希望通りに、自分の好きなようにではなく、神のお言葉どおりになることを祈る姿勢、わたしは主のはしためなのですからと答える姿勢です。

 しかしこう言うと、確かに反発があると思います。「私達は、召使なのか、自由はないのか、神様とはいえそんな主従関係なんて酷い」なんて言葉も出てきそうです。ただ、私達には、従わない自由も持っているのです。従いたくない人を神様は、無理やり従わせたりはしないのです。神への応答は人間の自由な意志にまかせられているのです。

 マリアが御子を宿すといったような大変な出来事だけではなく、私達の周りには様々なトラブルが起こってきます。そして、人はそのマイナスを受けいられず、疲れ果ててしまいます。しかしその状況でも、自由な選択として、神に身を委ねて行くことが、実は脱出の突破口なのです。小さな自分という人間を離れ、神様の視点に自分の道を委ねて行くこと。つまりこの自由意志により自らを委ねる信従こそが、マリアの示した信仰なのだと思います。             


「曙の光が我らに」           No.666
         (ルカによる福音書1章67〜79節)

                 荒瀬牧彦牧師


 ザカリアの賛歌はなぜこんなにも力強く、慰めと希望に満ちているのか。それは、彼が10ヶ月間、口を閉ざされ、沈黙の時を過ごしたからでしょう。告げられた神の計画を否定してしまった彼は、黙することを強いられました。不妊の女と呼ばれてきた妻エリサベトのお腹が大きくなってくるのを見ながら、天使のことばを反芻したことでしょう。遂に息子ヨハネが生まれ来た時、口が開け、彼は預言しました。この子が救い主の道を備える働きをし、そして神の救いが来る!それがこの賛歌です。

 「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く。」私は、学生時代にした交通誘導の徹夜のアルバイトを思い出しました。車が滅多に来ない道で震えながら過ごす長い夜。まさに「見張りが朝を待つ」(詩編130)心境でした。しかしやがて東の空が微かに明るくなってきます。「あけぼのの光が我らを訪れる」喜びを知りました。

 イエス・キリストという光は、「暗闇と死の陰に座している者たち」を照らします。そこいら中を一挙に明るくする強烈なライトではないのです。もしそうなら高いものの陰になる小さき者は暗いままでしょう。キリストの光は、陰になっているところに差し込む光なのです。

 『讃美歌21』243番「闇は深まり」(ヨッヘン・クレッパー作詞)の4節はこう歌います。「闇の中にも主は歩み入り、かけがえのないわれらの世界 死の支配より解き放ちたもう。来たらしめたまえ 主よ、御国を」。

 闇に覆われているわたしたち。しかし、闇を否定せず、自分たちがその中にあることを認め、沈黙し、神のことばに聴き入るなら、あけぼのの光が来るという希望が、魂を照らす光となります。闇の中に歩み入り、内側からそっと、しかし確かに照らす光との出会いが準備されているのです。



「神の国が近づいている」        No.665
        (ルカによる福音書21章25〜33節)


 この聖書の箇所はまさに世界の滅亡を告げています。しかしその世界の終わりは、人類滅亡を単に意味しているのではありません。31節にあるように、それは「神の国が近づいている」という徴なのです。苦難であると共に、私たち信じる者には、祝福と喜びの時ともなるのです。神の国が来る。いよいよ私たちの信じてきた、踏みとどまってきた信仰が実を結ぶ時がくるのです。

 今までは、私たちは「神様なんて信じて、キリスト教?、この科学の事態になんで」と、馬鹿にされたかもしれない。でも、世界中が混乱し、驚愕し、恐れ慌てる時に、私たちは、いちじくの枝から出ている小さな青い葉っぱを見るように、春の息吹を感じるように、その時を知り待望するのです。

 前回お話しした10人の乙女が花婿を待っていたように、私達も待つのです。乙女マリヤが御子イエス・キリストを宿して、その時を待つに私たちも待つのです。ユダヤのベツレヘムの馬小屋の出来事を覗き込むように待つのです。私達は、その聖書に書いてあるかつての出来事の一つ一つを思い浮かべる中で、神の国の到来が必ず来ること。究極的には、そのためにも、信じる道を突き通すことが大切なのです。何故ならば、21:33 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」からです。

 最近思うことは、正しい、良い働きを、やり通すことかなと思う。それを評価してくれる人も、批判する方もいることでしょう。でも、そんなことは気にせず、自分が、一人一人が、正しいと思うこと、神様に喜ばれると思うことを、愛をもって一生懸命やればいい。その結果も評価も、神様が備えてくれると思います。他人が何しているかではなく、自分が何をするか、どう神の召しに答えるかということが大切に思います。

 新型コロナウィルスの災いが、世界中でおさまらず。困難な中で、今年の迎えたアドベント。キリストを待望する重要な時。この時に、私たちキリスト者は、神を信じる者は、どう過ごして行くべきなのでしょうか。それは、マルティン・ルータではないですが「明日世界の終わりが来ても、私はリンゴの木を植える。」それはいついかなる時も、自分の出来ることを精一杯行っていくという意思表示としての言葉です。滅びゆく事柄ではなく、決して滅びない神の言葉にお仕えして行くことです。


「聞き、信じ、待つ」            No.664
       (イザヤ書52章1〜10節)
        (マタイによる福音書24章45〜51節)

                 荒瀬牧彦牧師


 アドベントの心、それは「聞き、信じ、待つ」ことです。
聖書の言う「待つ」とは、居眠りしながらぼんやりしているものではなく、能動的なことです。「いつ主が帰ってこられてもいいように、今日が終わりの日であってもよいように、今を一所懸命に生きる」ことです。
我々はどんな質の時を生きているでしょう?時計で計れば同じ量の時間でも、過ごし方次第でその質はまったく異なってきます。だらだら過ごしていたら、とても大切な用件が急に飛び込んできて、我を忘れて夢中でやった。そんな時、動き出す前の1時間と後の1時間では、濃密さにおいて何十倍も違うという経験をしたことがあるでしょう。そのような違いです。

 パウロはローマの信徒たちに「時を知る」ことについて教え、「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」と語りました。「パウロさん、あなたがそれを言ってからもう2千年たってるよ。どうなってるのよ?」と言いたくなるかもしれません。でもそれでは、イエス様の譬えに出てくる「主人は帰ってこないよ」と好き勝手をしていた悪い僕のようではありませんか。「目をさまして」、自分の使命を忠実に果たす者として今を生きましょう。「聞いて、信じて、待つ」のと、「聞かない、信じない、何も待っていない」とでは、人生の濃さがまったく違ってきます。神様に与えられた大切な時間です。その時間が、みことばを傾聴し、深く信じ、主の到来を待ち望んで過ごす尊い時となりますように。



「信仰の油」               No.663
         (マタイによる福音書25章1〜13節)


 この十人の乙女の例えは、私たちに何を伝いているのでしょうか。ここでのイエス様のご指摘は、花婿が遅刻したことでも、花嫁が眠り込んでしまったことでもありません。問題は、花婿が遅れてくる可能性を予期せず準備を怠ったことあります。当時のキリスト教会は、イエス様の再臨がいつ来るのかと話題で一杯だったようです。その状況で、偽預言者という人たちが出て来て、キリストは直ぐに来るとか、何月何日に世界の終わりが来るなどと語り、純粋で真面目な信徒たちが混乱して行ったのです。

 しかし、13節では「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と記されています。イエス様はこの例えで、人間にはキリストの再臨の時はわからないのだから、常に目を覚ましていなさいと言うのです。また、この目を覚ましての意味は、乙女が眠り込まないようにという意味と言うより、準備を怠ってはならないという事なのです。日々の信仰の油を切らさない準備がしてあれば、5人の賢い乙女のように眠り込んでしまったとしても神の機会を逃さないのです。

 また、もう一つの注目すべきことは、この賢い乙女と愚かな乙女が5人ずつで同数であることです。つまり、私たちも二分の一の確率で賢い方を選択したり、愚かな方を選んだりしてしまうと言うことです。コインを投げて、裏と表が出る確率で私たちは愚かを選択する可能性があるということ。つまり、他人事ではないです。

 エペ ソの信徒への手紙6章10節に「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。」とあります。私たちは目を覚まして準備を怠ってはなりません。信仰の油を絶やさず、神の武具を身に着けて、いつイエス様が来られても、いつ世界の終わりが来ても、慌てないように、落ち着いて、今日の明日の神様から与えられた務めをして行きたいと思います。    



「Go to トラベル」            No.662
      (コリントの信徒への手紙U4章7〜15節)

                 唐澤健太牧師


 教会設立式おめでとうございます。「教会設立とは成人式のようなものだ」と先週の荒瀬先生の説教で語られていました。ただ、私たちがそうであったように成人すれば直ちに立派な大人になるわけではありませんね。教会設立とは、教会の完成を迎える時ではなく、教会の始まりの時なのです。

 出エジプトを果たした神の民の旅路は自分たちの思い通りに進みませんでした。同じように教会の歩みも時に道に迷い、トラブルに見舞われます。しかし、私たちはそこに神の不思議な導き、「火の柱」「雲の柱」が私たちを導き続けてくださっていることを信じます。これまでの教会の歩みが、私たちの人生がそうであったように……。

 パウロという伝道者は文字通り旅をした人でした。その宣教の旅も苦労の絶えないものでした。「生きる望みさえ失ってしまいました」(Uコリント1:8)と告白するほどの試練も経験しました。しかし、パウロは同じ手紙の中で「途方に暮れても失望」(4:8)しないと書き記しました。万策尽きても失望しないとパウロはいうのです。なぜでしょうか? 「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(10節)。「イエスの死」とは十字架の死に他なりません。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と絶望の叫びを上げて息を引き取られた十字架の死のことです。
「どん底に大地あり」。NHKの朝ドラ「エール」で印象に残った言葉です。キリスト者医師であった永井隆の言葉として描かれていました。「イエスの死」こそ「どん底の大地」、希望であり、命であるとパウロは絶望を経験する中で知ったのです。

 私たちはもろく欠けたる「土の器」にすぎません。でもそれでいいのです。だからこそ私たちが与えられているキリストの光が証しされるのです。教会は立派である必要はありません。破れからキリストの光を証しすればよいのです。きょう、ここから神の国への旅を新しく始めましょう!



「旅路を導くのは」             No.661
          (出エジプト記 13章17〜22節)


                 荒瀬牧彦牧師


 礼拝後には教会員総会、来週は教会設立式が行われます。信仰共同体としての旅路を考える節目の時です。
 エジプトを脱出した種々雑多な人たちは、雲の柱、火の柱に従うことを通して、世代交代をも含む長い時間をかけて神の民となっていきました。それだけのトレーニングを要したのです。

 「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった」(40章36節)。40年かけて彼らが身につけたのは、このことでした。単純ですが、考えてみると大変なことです。自分たちの都合や思惑によって動くのでない。良い地だなと思っても雲が動けばすぐに動かねばならないし、条件が良くないから早く他の場所へと思っても、雲が動かなければじっとしている。その経験を積み重ねながら神の民というアイデンティティを形成し、約束の地に入る備えをしたのです。

 神様は実に忍耐強く、時間をかけてわたしたちを育ててくださる御方です。この旅にあって、第一に大切なのは今年の主題聖句にあるように「主に信頼する」こと。キリストが我々のうちに「宿って」くださっていることに信頼するなら、その信頼が「柱」を「見る」基盤となります。二つ目は、聖書をしっかりと読み続けていくこと。その中で、主イエスの言葉と業を深く知り、主に従うとはどういうことかを考え、今やるべきことを正しく悟るセンスを磨かれます。三つめは、人や出来事との出会いを大切にすること。出会いは神が与えてくださるものです。その中にある示し、特に「求め」を敏感に感じなければなりません。この三つが結びついたところで、わたしたちは旅路を導く御方からの「柱」に従っていくことができるのです。  


「当然を超えて」             No.660
        (ルカによる福音書 6章27〜36節)


 聖書の言葉の素晴らしさは、自分が行いたくないことを「やりなさい」と言ってくるところだと思います。自分が出来ていないところ、やりたくないところを真逆な理屈で行うようにと言ってきます。社会では「当然でしょ」と思っていることをそれではダメだと言います。キリストを信じる者が逃げられないように、神様の理屈で包囲されてしまう。言い逃れしないように。これがイエス様の凄いところであり、尊敬されるところなんだと思います。

 さてこの箇所は次のことを命じます。敵を愛しなさい、憎むものに親切にしなさい、悪口を言うものに親切にしなさ、侮辱する者のために祈りなさい、頬を打つ者にはもう一つの頬も向けなさい、上着を取る者には下着もあげなさい、求める者には誰にでも与えなさい。確かに神様の命令かもしれませんが、世俗社会でこんなことをしてたら人生破滅してしまういます。そんなことは無理と私たちは感じます。

 しかしこれを逆転させてはどうでしょうか。つまり、神様は敵を愛される、神様は憎む者にも親切・・・神様は求めるものには誰でも与える。35節c以下では「神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深い、だから同じように憐れみ深い者となりなさい」と記される通りです。ある聖書の注解者はこの箇所を「神は、自ら恩知らずにも悪人にも情け深い」という言葉でまとめました。これは大変重要だと思います。

 私達の日常は、恩知らずに対しては、特に本当に腹が立つのが常々で「これこれ、あんなにしてあげたのにあの態度はなんだ」と怒ってしまう。しかし私たちの神様は、イエス様は罪ある人間に非常に寛容であり、憐み深い方なのです。そしてその人間には全く出来得ない、憐みをイエス・キリストは十字架の上で行われたのです。黄金律と呼ばれる「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というイエス様の言葉。これは私たちへの命令というより、イエス様自身が行って証を立てたという事実に目を向ける必要があると思います。そのキリストの憐みと愛が、世俗社会生み出す悪の縄目から私たちを解放してくだされるのだと思います。



「あなたは手紙」             No.659
     (コリントの信徒への手紙二 3章1〜9節)

                 
荒瀬牧彦牧師


 コリントの教会で反パウロの分派を率いる人たちが、「パウロは信用できない。推薦状はあるのか」と非難していました。この問題に対してパウロは、「私たちに推薦状が必要ですか。私たちの推薦状はあなたがたです」と語りました。あなたたちがキリストにつながれ、福音を生きている!その事実そのものが推薦の手紙だというのです。しかも、それは公にされている手紙であって、誰でもその手紙を読むことができる、というのです。

 私たちも、公にされているキリストの手紙です。あなたは手紙です。キリストが、あなたに福音を伝えてくれた人たちを用いて、あなたの「心」に記した手紙です。しかもそれは、やがて薄くなるインクによってでなく、生ける神の霊によって書きつけられた尊い手紙なのです。特別に立派な人だからというわけでなく、平凡であり迷いもあり問題を抱えている者であるけれど、しかし、キリストが「この人は神に愛されている大切な人だ」と書いてくださるがゆえに、キリストの手紙なのです。

 わたしたちが礼拝で神さまと交わるというのは、ある意味、新たに手紙がこの身に書かれるという経験と言えるでしょう。いつもフレッシュな手紙でありたいものです。あさひ教会は今年、新しい礼拝の場を与えられました。今一度、私たちがこの町に「手紙」として送られているということを意識して歩んでいきたいと思います。


「罪赦される時」             No.658
        (マルコによる福音書2章1〜12節)


 本日の箇所で重要なことは、この病人の治癒という奇跡行為が「罪の赦し」の宣言によって行なわれているということです。罪の赦しの先行です。そして、その先行する罪を赦す権威がイエス様にあるということです。罪の赦しは、イエス様が罪人なる人間の代わりに十字架で罰を受けて死ぬことによって完成される訳です。ですから、この病人の癒しの時点では、十字架にかかる前なので罪の赦しが完了してない訳です。身代わりの死が履行されてない時点での癒しです。イエス様は十字架の受難と死に先行して、その受難の覚悟のもとに、罪の赦しを宣言します。これはよく考えると大変な話なのだと思います。

 その病人に「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言したイエス様の心は「この病人の癒しのために、私はこれから死に行かねばならない」という決意がある訳です。イエス様は、神様の力で容易に、ポンポンと病人を簡単に癒したわけではないのです。 

 その癒しの一つ一つの場面で「この罪の赦しのために、自分はこれから苦しんで死ぬんだ、十字架にかからねばならない。」というイエス様の悲痛な思いがあったのではないでしょうか。一人また一人と罪の赦しを宣言し、病人を癒す度に、イエス様は十字架に近づいて行く。人を癒す変わりに、自らの死が近づいて来るのです。
 さてでは、どうでしょうか。もしも私たちに病気を癒す奇跡行為の力が与えられたとしたら、沢山の人を助けたい思います。しかし、人を癒す変わりに、その数週間後には、自分が処刑されるという悲劇と引き換えだとしたら、私たちはその癒しを行うでしょうか。苦しんでいる病人を癒したい、だがしその癒しを行えば、すぐ後に自分の死が迫っている。しかもただの死ではなく、拷問としての十字架刑です。それを知ったら、きっと誰も、その癒しの力を自分の命と引き換えに行うことはしないでしょう。

 しかしイエス様は、それを覚悟で罪の赦しの宣言、病気の癒しを行うのでです。ここが最重要です。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」とは、イエス様の自らの命を捨てる覚悟の上に付与されました。十字架の贖罪の上のみに、初めて罪を赦す地上での権威があることを私たちは心に深く止めたいと思います。



「あなたに選ばせる神」          No.657
             (申命記30章11〜20節)

                 
荒瀬牧彦牧師


 
「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」なぜ神は祝福と呪いを置いてしまうのか?良いほうだけにしてくれればいいのに!

 なにせ人は愚かです。幸と災なら誰だって幸を望むはずなのに、なぜか災を取ってしまいます。死に至る道は毒々しい姿ではなく(少なくとも入口は)薔薇色の輝きで招くからでしょう。人は繰り返し繰り返しそれに騙されます。

 なのになぜ神は「選ぶ」ことを求めるのか。それは、神御自身が選びをもって人を愛される神だからです。人はいきなり岐路に立たされて「好きなほうを取れ」と言われるのではないのです。人間の選びの前に、神の選びがあります。神があなたを選び、「御自分の宝の民」とされました。

 選ぶとは責任を負うことです。選んだ相手が問題を起せば、危険や損害が自分に降りかかる。それを負う覚悟を決めるのが選びです。神はご自分の愛する者たちが、自動的に戒めに服従するのを望んでいません。状況次第で心変わりするような一時的選択も望んでいません。神ご自身が覚悟をもって選び、選び続け、責任を全うされるように、人が覚悟をもって選び、神の言葉にとどまり続けることを望んでおられます。

 それは決して難しいことではありません。イエス・キリストという神の言葉が「すぐ近く」に与えられているからです。我々の口と心に神の言葉があるのです。  


「イエスの前にひれ伏して」       No.656
       (マタイによる福音書15章21〜28節)


 
この箇所で重要なことは、この異邦人のカナンの女性の行動にあります。イエス様に娘の癒しを懇願することは母親として当然の思い。ところが何故か、イエス様に断られてしまうのです。本来なら、他の異邦人も癒しているのに何で私はダメなんですか、ユダヤ人だけなんて酷いです!と逆切れすることだって、この女性にとっては正当な主張に感じます。しかし、このカナンの女性はそのような抗議のスタイルは取らず、あくまでも謙虚にイエス様にひれ伏して頼み込むのです。子犬だって机から落ちたパンをもらうじゃないですか、異邦人の私にも癒しの恵みをください。ひれ伏してお願いするのです。

ここで不思議なことは、イエス様が何故、当初はこの女性の願いを跳ねのけたのかということです。自分がユダヤ人の為だけの使命であるというのなら、何故わざわざ異邦人の地に出向いたのでしょうか。いや何故、前の8章では異邦人の百人隊長の僕を癒したのでしょうか。それは、この前の箇所の151節にて、ユダヤ人の昔からの言い伝えを破棄する宣言からも、イエス様の意向は明確なのです。つまり、イエス様は、このカナンの女性を選び、真の信仰とはなんであるかを、神を見失ったユダヤ人に知らしめようとされたのだと思います。

つまり、イエス様は、このカナンの女性を選び、真の信仰とはなんであるかを、神を見失ったユダヤ人に知らしめようとされたのだと思います。ヨブ記において、神に抗議するヨブに「あなたは神を有罪にして自分を無罪としようとしている」との指摘があります。つまり、私たちの抗議は一見正当かのようでも、実は神に責任を押し付け、自らの罪を隠す口実に過ぎないという訳です。そうではなく、あくまでも謙虚に、神の前にひれ伏し懇願していく信仰こそが大切であると語られるのです。謙虚になれない人間に、ひれ伏して謙虚であれと語られるイエス様の声を聴きたいと思います。


「ビビってる君へ」           No.655
         (テモテへの手紙二 1章6〜10節)

                  荒瀬牧彦牧師


 テモテというのは、パウロの伝道を助けた有能な弟子です。キリストに忠実で、人々に信頼される素晴らしい信仰者でした。篤信の祖母と母に育てられた彼には、育ちの良さからくる純粋さや上品さがあったようです。しかしその裏側に、線が細く、ひ弱だという面もありました。すぐ胃を壊したり、パウロと別れる時に泣いてしまったり・・・。この時のテモテも、パウロが囚人になっていることで動揺し、直面した苦難にビビッていたようです。

 そんな彼にパウロは「もっと強気でいけ」とか「タフになれ」と言ったわけではありません。パウロは、テモテの持つ脆弱さを変えるのでなく、それに何が注がれ、それが何に支えられているかを教えているのです。主に仕える者には「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」という神の賜物が与えられています。そして、聖なる招きによって呼び出された者は、神の計画と恵みという土台に載せられているのです。その視点から、今の自分の状況を再解釈することをパウロは促します。「わたしは主の囚人だ」と彼は言うのです。この苦難は、福音のために神が与えてくださっているものなのです。ですから、何も心配することはありません。パウロ自身、自分の弱さを自覚していました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主は言われました。自分の弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの中にキリストの力が現れる。だから、「私は弱い時にこそ強い」。わたしたちに、弱さと行き詰まりの再解釈が求められています。



「信仰の薄い者たち」           No.654
        (マタイによる福音書6章25〜34節)


 この聖書の箇所は、イエス様が厳しく「信仰の薄い者たちよ」と戒めているようですが、よくよく読み込んでみるとそれだけではないことが分かります。イエス様は、私たちが日常の悩みに振り回されて、神のご加護を忘れてしまっていることを憂慮して語られるのです。世界を創造された神が、被造物である空の鳥や野の花を養い育てるように、私たち人間の必要を満たしてくれる、だから心配ないという話なのです。

 しかしとは言え、悩みのない人はこの世の中にいないはずです。牧師は神様を信じているから悩みなどないはずと誰かが言っていましたが、まったくそうではない訳です。日常生活の些細なことから、職務内容の様々な事までまったく悩みから解放されることはありません。いや、齢を重ねるごとに増えて行くとも言えます。そんな悩みまくっている私たちに、信仰の薄い者たちとイエス様は戒められるのですが、それと同時に他の考え方も提示してくれるのです。

それは、34節の「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」という言葉です。今までは、悩みの解決を信仰の問題にしてきたのに、ここでは時間軸に置き換えているということです。つまり「明日のことは明日にならないとわからないので、信仰が弱くても、もう悩まず今日の重荷を降ろして心安らかに眠りなさい」とった勧めです。

これは、イエス様の信仰の弱い私たちへの大譲歩だと思います。イエス様は、只々信仰を強く持たなくてはダメですと言うのではなく、ヘブル書4章15節は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と記します。イエス様自身が試練に会われて、苦しみ悩みを経験されたからこそ、私たちの弱さを知り「もう荷を下ろしなさい、明日に任せて休みなさい」と言って下さるのだと思います。私も今日の重荷を降ろして、明日に向けて進みたいと願わされます。


「ボーダーゾーンのイエス」        No.653
         (ルカによる福音書17章11〜19節)

                  荒瀬牧彦牧師


 「ほかの9人はどこにいるのか」とイエス様は問われます。どこに行ったのか。祭司のもとに直行したのでしょう。そして、「きよくなった」認証をもらって故郷に帰っていったのでしょう。想像ですが、「きよくなった」9人は、サマリアとガリラヤの「間」にあったボーダーゾーンには二度と戻りたくなかったのではないですか。世間から白眼視されるあの境界領域にいた過去は忘れたい。なかったことにしたい。イエスに癒されたことだって伏せておきかったでしょう。サマリア人を差別し、重い皮膚病に罹患した人たちを隅へと追いやるユダヤ社会に戻った彼らは、一刻も早くそこに同化しようとしたのでしょう。受けた恵みを忘れて。

 一人のサマリア人は戻ってきました。彼にとって、この場所でイエス様に出会えたこと、神の業によって救われたのは大事なことでした。感謝すべきことでした。大声で賛美すべき救いの業がまさにここで起こったのです。ここではサマリア人もユダヤ人もありませんでした。共に暮らし、一緒に叫びました。そして、その叫びがイエス様によって聞かれたのです。

 わたしたちはどこで主イエスと出会うのか。ボーダーゾーンではないですか。命と死の間。社会が設定するところのきよさと汚れの間。私のうちにある正しく生きたいという思いと、それとまったく反対の荒んだ思いの間。白でも黒でもない灰色の領域。イエス様はそこに歩み入り、「この苦しみをわかってください」と叫ぶ者と出会ってくださいます。教会はそこに身を置くのです。


「キリストは欺けない」         No.652
        (ルカによる福音書10章25〜37節)


 
この箇所で、イエス様は二回行いの実行を指示します。律法学者の答えに対して、28節で「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。また、37節では。 律法学者の「その人を助けた人です」という答えに、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われました。イエス様は、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』という申命記からの聖書の言葉を単に街角で唱える呪文ではなく、実行するべき神の掟としていくのです。

 ここで、重要な討議の基礎をイエス様は語っています。言葉の応酬による非難合戦は行なわず、相手に答えさせて、そして相手に実行させるのです。つまり実行なき非難は、無意味であることをイエス様は言われた訳です。当然のことですが、他者への非難は自分の責任を除外すればなんとも簡単です。「あなたはクリスチャンなんだから、キリストのように命を投げ出しなさい」と言うことだって容易です。自分は関係ない、責任を持たない、そんな他人事のような非難に対して、イエス様は、正しい答えを自分で実行しなさいと言われました。

 盗賊に襲われた人を助けた、サマリヤ人のように私たちも危険を冒しても人を助けて行く行為に出る。しかしその時、私たちはその行為が如何に難しく困難であるかを知らしめられるのです。その正しい答えである行いによって、私たちは正しく行えない自分に出会うのです。そして罪の赦しの重要性に到達するのです。ローマの信徒への手紙5章ではパウロ先生が「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」と語りました。

 表面上は、正しく何か隣人愛に満ちたように聞こえる言葉であっても、イエス様を欺くことは出来ないのです。私たちは、どんなに正しい答えを持っていても、実行という壁にぶつかる事で、キリストを欺くことは出来ないことを知らされるのです。そしてそのぶつかりによって、罪の赦しが私たちを永遠の命へと導くことを知らされるのではないでしょうか。   


「すべてが素晴らしい方」        No.651
       (マルコによる福音書7章31〜37節)



 この箇所で、口も利けず耳も聞こえない人々に、イエス様は癒しを行うのです。すると人々は「この方のなさったことは全てが素晴らしい」と言われました。勿論、自分や家族がそのような病を持っていて、この奇跡に出会ったら同じように感激することでしょう。しかしこの箇所は、単に病気が治ったから素晴らしいという意味だけではないのです。福音書著者のマルコは、この奇跡を通してもっと大きなことを語りたいのです。

 つまり、キリストとの出会いによって、人は本当の意味で耳が開け、口が利けるようになるということ。つまりそれは、神の言葉が聴こえるようになり、神の言葉を話すこと許される出来事なのです。即ち、福音伝道が委ねられるということなのです。これが「全てが素晴らしい」の第一義的な意味です。しかし更に素晴らしいことがあります。それは、罪ある人間に、神の言葉が委ねられるということです。十字架の元を遁走したペテロに、教会の迫害者でたったパウロに、罪が赦され、神の言葉が委ねられるのです。これがもの凄く素晴らしいということなのです。

 私の職場で、職員採用面接というのをたまに行います。面接に来られた方と色々話しをしますが、いつも最後に「私はキリスト教の牧師で、この事業所はミッション系の使命をもって運営していますが、何か宗教をお持ちですか」と伺います。すると99%の人が、わたしは無宗教ですと答えます。面接でも感じが良く、いい働きが出来そうな方。しかし無宗教。そんな時、自分とこの方とは何処が違うのかと考えさせられます。人の役に立ちたい、いい仕事をしたい。全て一緒です。そこで違うところがあるとすれば、キリストの罪の赦しを信じて信仰の道に入っているかどうかの違いだけなのです。善行でも人間性の優劣でもない。

 そのような意味で、キリスト者であることが素晴らしいと言うのは、本来は委ねられない赦されざる罪ある者に、神の言葉と神の宣教が委ねられているということ、これこそが全てが素晴らしいことなのです。悔い改めて福音を信ぜよ。そしてそれを伝道する。これがキリスト者の本文なのだと思います。



「義とされて帰りたい」         No.650
         (ルカによる福音書18章9〜14節)


                  荒瀬牧彦牧師


 平良修先生が、「イエスと共に歩む沖縄」というNHKのドキュメンタリーの中で、戦時中少年であった自分がヤマトの人以上に立派な日本人であることを証明しようと努力して、「優等生」であったことを語っています。「でもね、優等生というのは『言う通りにせい』なんですよ」と。

 優等生は、ただ周りに期待に応えようとしているだけで、本当に大切なことには行きあたっていない。そういう意味で、「敬虔な」クリスチャンが、「言う通りにせい優等生」になってしまうことは往々にしてあります。見た目には、「これぞクリスチャン」という言葉や振る舞いであるかもしれない。でも、文字面だけで「聖書の言う通りにせい」で、主イエスがその言葉と行い、生と死と復活をかけて示そうとしておられる神さまのこころからは遠ざかってしまう、ということが起こるのです。

 あの神殿で誇りに満ちて祈っていたファリサイ派の人は、同じ時にすぐ傍らで、罪に苦しみ、胸を打ちたたき続けている人のことを、横目で眺め「このような人でないことを感謝します」と比較の材料にするだけで、その人の痛みを感じることができませんでした。あの人は優等生であったかもしれませんが、放蕩息子を待つ父のような神様の家に「義とされて」(血の通った関係に戻されて)帰ったのではありませんでした。でも、まだ、天の父は待っています。待ち続けています。

 「お父さん、ごめんなさい。私も、義とされて家に帰りたいです」。そう心から祈るなら、何派だろうと、どんなことをしてきた人であろうと、父の家に帰ることができるのです。  


「平和への小さな一歩」         No.649
       (ローマの信徒への手紙14章1〜19節)


                  荒瀬牧彦牧師


 パウロは、わたしたちが自分の言葉や行動を考える時の「はかり」とすべきことを教えてくれています。「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」というはかりです。「向上」と訳されているのは、オイコドメーというギリシア語で、「建物」とか「建て上げること」という意味です。「信仰の強い人」たち、つまり正論を述べている側の人たちが考えねばならないのは、自分たちのことばや態度が平和につながるか、共同体を築き上げるのにつながるか、ということなのです。

 考える「間をもつ」というのが大切です。「間」を持つことによって、自分の思い込みや感情で動くのでなく、神の導いてくださる時間・空間を取るのです。それは祈りだと言ってもよいでしょう。「神様、どうかここに働いてください。このこと(語ること、あるいは語らないこと。行うこと、あるいは行わないこと)が平和につながりますように。互いを作り上げることに役立ちますように」、という祈りです。

 平和への小さな一歩をわたしたちが踏み出すことができますように。 


「永遠の価値を知る」          No.648
       (マタイによる福音書13章44〜50節)



 天国の三つの例え。第一と第二は似たような話です。天国は、畑に隠されていた宝を見つけた小作人、また高価な真珠を見つけた商人が、自分の全財産と引き換えに宝の畑や、高価な真珠を手に入れるという話。それ程に、天国は価値があると言うのです。しかし第三の例えは様子が違います。漁師が、網にかかった魚を選別するように天国に入れる人を選別すると記されます。この三の例えは、あの「ラザロと金持ち」の話しの様な裁きの宣言でもあります。つまり、天国の価値は裁きとセットで語られるということです。単なる素晴らしい恵みだからみんな受け取れますというバーゲンセールのようなものではなく、そこには受け取るべき資格が記されるのです。

この箇所をある聖書注解者は「48節は毒麦の例えとほぼ同じ趣旨、著者はここでも純粋な教会を性急に作ろうとすることに対する警告を発し、その理由として終末の審判と悪い者が必ず受ける運命を強調する。」と記しました。キリスト教会が、神の裁きを蔑ろにして神の恵みだけを強調し、誰彼構わず教会に連れて来て、信徒を増やすだけに終始する教会形成への警鐘がここにあるというのです。

これは正直、何か私自身がやって来てしまったことのように感じました。一人でも多く信徒を増やしたいと願い、恵みや救いだけを強調し、その背後にある厳しい神の姿を示してこなかったように思います。それは、勿論自分自身もその裁きに耐えられると思えないからなのかもしれません。

 コリント1章18 節では「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」とあります。自分は罪ある滅びに定められた人間であることの自覚、そしてその者が値なくキリストの十字架で救われた恵み。使徒パウロが「罪のまし加わるところに恵もまし加わる」といったように、罪を知ることで私たちは初めてその高価な宝の価値を知り得るのかもしれません。


「升の下の灯」             No.647
       (マタイによる福音書5章13〜16節)


 普通、光は机の上に置き、下に置く人はいないし、ましてや升の下に置く人はいないはずです。しかし、私たちの現実の行動はどうかと言うと、時として机の上ではなく下に火をともそうとしているかもしれません。それは「あの人、クリスチャンなんだって。それにしてはどうなの」などと言われないように、見えない升の下で火をつけようとしていることがままあるのではないでしょうか。私も「牧師だろ、牧師のくせに」とか非難されることがあります。大体なにかあると、最後はいつもその批判になります。でもそれは牧師という職務に対する期待があるからです。牧師はこうあって欲しいという期待です。これは、クリスチャン一人ひとりにも当てはまります。

 フランスの19世紀の言葉に「ノブレス・オブリージュ」という言葉があます。「高貴さは(義務を)強制する。」といった意味です。これは義務を強要するならば、王様はより大な義務を要求されるといった意味のようです。私たちが聖書を掲げる限り、牧師もクリスチャンも世の光として歩むことを世間から期待のもと、同様の批判を受けることになるのです。あなた牧師でしょ、クリスチャンでしょと社会は、私たちを単なる人間、一市民とは見ていないのです。キリストの弟子として、キリストの教えを模倣し、従う人たちとして見ているのです。大いなる高貴さは、大いなる義務を強制する。

 イエス様は、私たちが罪人であることを重々ご存じです。立派な行いの素晴らしさで、伝道が出来るなど思っていない。イエス様自身も、マタイ27章では「今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と」罵倒されるのです。だからこそ、升の下に灯を置いてはならないのです。責められる立場ですが、堂々と、机の上に、私たちのキリストの光を灯しましょう。周りの人たちから見えるように。この鶴ヶ峰の人たちに見えるように火を灯して行く。光りを灯して行くと、必ず批判されることでしょう。しかしそれを恐れていたら何も出来ない。升の下に火をつけても、何の意味もないのです。勇気を出して、何と言われようと、見える場所に火を灯す。私はキリスト者ですと表明していく。この世に向かって、私たちは「神の罪の赦しを告げ知らせる」のが、私の使命ですと語っていきたいと思います。



「尊いパンの屑」            No.646
        (ヨハネによる福音書6章1〜15節)


                  荒瀬牧彦牧師


 神の家族の食卓では不思議なことが起こる。ヨハネ福音書はそれを「しるし」と呼ぶ。何のしるしだろう。大麦のパン五つと魚二匹をもっている少年がそこにいた。少年はそれを差し出した。アンデレはこの少年を主イエスに紹介しながら、しかし同時に彼を否定した。「何の役にも立たないでしょう」と。ひどいことを言うものだ。しかし我々も同じような判断をしばしばしているのではないか。言っているのではないか。「こればかしでは役に立たない。あなたは役に立たない」と。

 主イエスが中心におられる食卓では、その見解が覆される。彼は役に立つのだ。より正確にいえば、神の愛そのものである主イエスが、小さな人の小さなものを豊かな資源としてくださる。

 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」という食後の支持も同じ意味で重要である。この「無駄にする」は、百匹の羊の譬えでの「見失う」やヨハネ3章16節の「一人も滅びないで」の「滅びる」と同じ語である。小さなパンひとかけ(クラスマ)は、人間を暗示するのではないか。イエス様はパン屑ひとかけも無駄にしたくない。見失いたくない。滅びてほしくない。尊いパン屑なのだ。弟子たちが集めるとそれは12の籠にいっぱいになった。それがつまり、キリストのからだなる教会ではないか。

 何が中心にあるか。それが問題だ。「どこでパンを買えばよいか」。中心に命のパン、キリストがおられる所では、「分ければ分けるほど増える」ことが起こり、皆が満ち足りる。そして小さな残り屑も決して無駄にされない。それが、我々へのしるしである。 


「疑う者への救い」           No.645
       (マタイによる福音書28章16〜20節)


 この大宣教命令と言われる箇所を改め読み直すと、新たな発見がありました。それは、弟子達が11人であることが強調されていることです。あのイスカリオテのユダが脱落して一人使徒が欠けてしまった状況。それは正に傷ついた出発です。またイエス様にガリラヤでやっとお会いしたのに、まだ疑う者が使徒の中にいたと記されます。一人欠けた痛みを伴う再出発だったけど、再びイエス様に出会えた。しかし、未だに疑ってしまう。これが人間なのだと思いました。復活のキリストに出会ったから、もう絶対に不信に陥ることはないとは言えないのです。でも、その欠けて疑う弟子達にイエス様は、次の言葉を与えるのです。それは第一に、18節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」から大丈夫であると語られました。第二に、20節b「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」から大丈夫であると言われたのです。神の権能が授けられている、そしてイエス様自身が一生に共に宣教に同伴してくださる。だから何があっても大丈夫、安心して、伝道しなさい、信じる者には、神の力と、キリストの臨在が伴うという話しなのです。疑い迷う民に与えられたのは、厳しい叱責や戒律ではありませんでした。与えられたのは、神の力と、キリストの共在です。

 新型ウィルスの拡散により、私たちの社会は本当に心身共に疲弊していると思います。私たちも神を信じながらも、常に病気と感染と死に怯えているのです。しかし、そのような不信の私たちと神は共におられます。そのような不信の民の上に神の力は注がれるのです。あの使徒たちを世界に送り出したキリストが、そう宣言されるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。そのわたしが世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」から大丈夫、心配ない、神を信じて安らかに行きなさいと。


「深みへ」                No.644
         (ルカによる福音書5章1〜11節)


                  
荒瀬牧彦牧師


 一晩中漁をして何も取れなかったシモンに、主イエスは「沖へ漕ぎ出して網を降ろしてみなさい」と言われました。「沖に漕ぎ出せ」を直訳すると「深みへと向かえ」です。これは意味の「深い」言葉ですね。<あなたは支配者たちのもとで搾取され続けてきたんだね。この世の現実も自分の人生も何も変わらないと頑なになっているんだね。でも、それは違う。あなたはこれから、生きることの深みを経験していくんだよ。わたしと共にそれを味わっていくのだ>と、主は言われているのではないでしょうか。

 その後、シモンらがイエス様についていった歩みから見て、言えることがあります。深みとは、人間の苦しんでいるところだった、ということです。圧迫され、食い物にされ、傷つけられ、それでもなお、救いと解放を求めてもがいているところ。そこにイエスは向かい、そこで救いと解放の業をなされるのです。シモンたちはそこへと誘われたのです。

 信仰者になるということは、救いの喜びを知ることですが、同時に、今までは浅くしか経験していなかった生きること愛することの深さを知って、苦労や悲しみが深くなる、ということでもあります。イエス様についていくと良くも悪くも体験が深くなります。喜びと悲しみの振幅の幅が広がります。そういう人生の深みにわたしたちは招かれているのです。神様に頂いたこの人生、深く生きましょうよ。人間を生け捕りにする神の御業に加わって、出会った人たちと共に泣いたり笑ったり。そして「ああ生きててよかった」と一緒に神を賛美する。そんなイエス様の深みにはまろうではありませんか。



「人を罪人と決めるな」の教訓      No.643
         (ルカによる福音書6章37〜42節)


 
プロ野球の野村監督は、入団したころ毎日素振りを続けていると、先輩に「素振りなんかしてもダメ。野球は才能だよ」と言われたそうです。しかし彼は、それでも必死に素振りの練習を積み重ねて史上2人目と言われる三冠王を達成という偉業を成し遂げました。その監督の「勝利に不思議の勝利あり、負けに不思議の負けなし」の言葉は有名です。勝利は偶然とかラッキーがあるが、負けには偶然はなく必ず理由があるとの意味です。

 それを私たちの人生に例えれば、偶然とかタイミングとかで、自己努力でなくても、うまく行く場合がありますが、失敗に偶然はないというのです。失敗にはかならず原因があるのです。

 それは学者が説いた「幸福度を決める3要素」から言えば、「失敗は習慣の欠落」によって起きると言うのです。才能や幸運に依存し、習慣を怠ってしまう。練習を、素振りを忘れてしまう。これを私たちクリスチャンに置き換えれば、礼拝、祈り、聖書、隣人愛、奉仕という信仰者の基本を怠ってしまうことにあるのではと思わされます。 昨今の新型コロナウィルスの影響で、礼拝もままならず、逆にある面では楽になってしまった私たちです。しかしそれは、楽なようですが、基本が徐々にズレ始めているとも言えます。基本に戻らなくてはなりません。

 私は説教題を「人を罪人と決めるな」の教訓」としましたが、この事一つとっても同様です。私達は遺伝的な罪の性質により「人を罪人決めてしまう」体質を持っています。しかし信仰の連続した習慣により、自分が罪人であることを知らしめられるのです。 その原罪からの脱却は、四つの習慣によって克服されるのです。「礼拝、祈り、聖書、隣人愛、奉仕」。これを通して、私たちは初めて、イエス様が語られた、赦しや、与えることに近づくのです。逆に、このベーシックな信仰の習慣を蔑ろにする中で、働きや効果といったファンクションを追求しようとすると失敗をしてしまうのです。

 この度、聖書通読の会を八月から行うことになりました。信仰の習慣を形成するのとても有効な習慣です。そしてその信仰の習慣は、私達を信仰のもう一段上に必ず引き上げてくれることでしょう。「 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。みんなで信仰の修行にとりくみたいと願います。


「罪を海の深みに投げ込む神」       No.642
              (ミカ書7章18〜20節)

                  荒瀬牧彦牧師


 預言者ミカは、サマリア(北王国)とエルサレム(南王国)の滅びを予告すると共に、その後にある再生の希望を語る。しかし勘違いしてはならない。ミカは、「神様は元通りにしてくれるよ」と言うのではない。「またリッチになれるよ。また威張れるよ。また楽しくやれるよ」というのではない。

 ミカには「残りの者」への希望がある。残りの者、ということは、残らないものがある。これをある人が残って、ある人は残らないということではなく、わたしたちのうちの残らない部分と残る部分と、とらえることができないか。ミカの時代でいえば、金、金、金で、農民の畑をわがものにして、利益をむさぼってきた人たちのありようは打ち砕かれた。そういう部分がわたしたちのうちにあって、それは打ち砕かれなければならない。

 失うものは多い。断たれるものは多い。しかし残るものは残る。神が残してくださる大切なものがある。それをあなたたちは大切にして生きていきなさい、というのだ。神の赦しとは、神の正義と慈しみによって滅びるべきものが滅ぼされ、そして新しい創造が行われる。滅びの経験を経て、削がれるべきものが削がれた残りの者たちに新しい出発が備えられる。そのことのために、「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」のだ。

 ミカと共に我々も驚きの声をあげる。ああ、このような神がほかにあろうか!



「大宴会の招き」            No.641
        (ルカによる福音書14章15〜24節)


 天国の宴席に例えられるように大宴会のお話し。その大宴会に招かれる条件は、ただ一つ、前の箇所の14節に記されるように「お返しが出来ない」ことが条件なのです。お返しの出来る経済力や地位のある方々は、既にこの世によって給与とか名誉とかでもらってしまっているのです。それは天国に招かれるための、功績や条件には一切ならないのです。天国に招かれる条件は、体が不自由だったり貧しかったりと言った社会的弱者が持つものです。それはお返しが出来ないが、招かれた宴席に着席する心。この神の招きに答えて天の宴席に着席する心を私たちは信仰と呼んでいるのです。お返しは一切いりませんが、この信仰は必須なのです。

 私たちキリスト教会の仕事は、このお返し不要の信仰をお伝えする事なのだと思います。「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」。社会全体が、出来高や成功という価値観によって人の価値まで決められていく中で、イエス様が天の価値観を地上で展開されたように、私たちにもその使命が託されています。

 しかしこれは容易ではありません。社会全体の価値観、私たちの幼いころから習ってきた価値観と逆方向に向かって、キリスト教会は進むからです。ですから、多くの場合私たちの働きは理解されないのです。そんなこと言ってもと、切り捨てられてしまいます。そして、私達自身も諦めてしまうのです。しかしだからこそ、人の力やお返しの力ではなく、キリストの力、聖霊の力によらねばこの業は行えないのです。私たちの知恵も力も及ばない領域にこそ、神の知恵と力は輝くのです。だから、挫折ではなく上手く出来なくても、失敗の連続でも、神への信頼のもとに進みたいと願うのです。     


「向こう側から今を見る」         No.640
       (ヨハネによる福音書16章19〜31節)

                  荒瀬牧彦牧師

 ラザロと金持ちの譬えは我々に、「向こう側から今を見る」ことを迫っている。毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは、どう世界を見ていたのか。彼が邸宅の門を出入りする時に、門前の光景は視野に入っていたはずである。貧しい人が空腹で疲れ果てて横たわっている。しかし金持ちは、そこに自分と同じ一人の人間が苦しんでいるということを見ていなかった。いや、見ようとしていなかった。

 ミネアポリスでジョージ・フロイド氏が警官にひざで首を押さえつけられ、「息ができない」と訴えた。しかし警官は8分以上その拘束を続け、彼を死に至らしめた。今、全米で抗議の声が鳴り響いている。Black Lives Matter(黒人の命は尊い)の運動を止めることはできない。アフリカ系アメリカ人の知人が、「この国で黒人として生きるというのは、屈辱を受けながら生きるということなんだ」と話してくれたことがある。白人優越主義のもと、肌が黒いというだけで犯罪者扱いされ、「息ができない」という苦しさをなめながら生きている現実がある。それでもなお、白人優越主義の社会で特権を享受している人の多くは、世界をそのように見ることができない。特権を得ている人が、自分の特権と、それゆえの他者の苦しみに気づくというのはなんと難しいことだろう。これは、日本に生きている我々の問題でもある。

 神様がご覧になっているように、この世界に生きている一人ひとりの命が尊ばれているか、その尊厳が守られているかを見なければならない。そして、自分に与えられている「富」を分かち合わなければならない。 あの金持ちは、ラザロのすぐ目の前にいたのである。同じ時代を、同じ場所に生きていた。ともに生きていくよう神様に召されていたのである。


「神の富と知恵と知識」         No.639
      (ローマの信徒への手紙11章25〜36節)


 使徒パウロは、ユダヤの民がキリストを信じることをせず、キリスト教会を攻撃迫害してくることの理由を述べます。それは、ローマのクリスチャンの皆さんが救われるための計画であると。これこそ神の知恵にあると結論づけました。これは衝撃的な結論でありますが、確かにそうなのです。イエス様の救いを直ぐにユダヤ人全員が受け入れたとしたら、キリスト教は今のユダヤ教の様に、ユダとイスラエル地域に留まってしまい異邦人伝道はなされなかったのかもしれない。しかしユダヤ人の猛烈な不信仰と、迫害が、キリストの救いをユダヤ・イスラエル以外の地域へと発信させることになったのです。そこに神の知恵があるとパウロは説明するのです。]
 
旧約聖書の平行記事では「イザヤ 40:13 主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。 40:14 主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。ヨブ 15:7 あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか。 15:8 神の奥義を聞き/知恵を自分のものとしたのか。 15:9 あなたの知っていることで/わたしたちの知らないことがあろうか。わたしたちには及びもつかないことを/あなたが悟れるというのか。」と訳されています。神の偉大な救いの計画に、人間はケチをつける立場にないのです。神は、全ての人が救われるようにと、壮大な計画を持っている。
 
 ローマのキリスト教会は、外側からの迫害だけでなく、内側の混乱が大問題でした。コリントの教会のように、神の知恵を所有している熱狂主義者もいたことでしょう。その教会内部の大混乱に対して、パウロは手紙をもって警告するのです。そして彼はローマで投獄され、そこで殉教しました。あのペテロも、ローマで召されました。そのローマの教会に、その救いはあなたの知恵ではなく、神の英知による救いであることを知りなさいと再三告げるのです。

 そのような意味では、私たちの教会に混乱があるのは当たり前かもしれないのです。ただ重要なことは、その混乱は、決して無秩序な混乱ではないということ。その上には、神の英知があること。神の富と知識と知恵があってのことと知らねばならないとパウロは語ります。全ては、私たちの救いの為に用意された神からの恵みとして受けとめる信仰で、今週も進みたいと思います。


「掟を受け入れ守るものを神が愛される」 No.638
       (ヨハネによる福音書14章15〜24節)


 ぺンテコステおめでとうございます。聖霊降臨を感謝致します。さてこの聖書の箇所の特徴ですが、15節でイエス様は「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と言われます。21節では「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と言います。更に23節では「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われます。多少言い回しは違いますが同じ趣旨の言葉を三回続けて語るとのは、それが伝えたい重要な内容だからです。イエス様を愛しているなら、私の掟を守る。逆から言えば、愛しているのにその言葉を守ろうとしないとしたら、それは愛しているとは言えないということです。

 これはヨハネの教会の状況を反映しているとも言えます。「世」と訳くされたユダヤ人社会から、キリスト教会は迫害を受け混乱して行くのです。イエス様を信じていると言いながらも、ユダヤ人達と一緒になってキリストの真理から離れていく信徒たち。あなた方は本当にキリスト教信者なのですか、クリスチャンなのですかという問いです。 

 本当にクリスチャンなら、イエス様の掟を守ろうとするはず。キリストの復活を信じ、教会が愛し合う事はイエス様の当然の掟。何故、それを信じようとしないし守ろうとしないか。この言葉と掟は、神から出たものです。人々はこのイエス様の言葉に更に混乱したかもしれません。しかし真面目に信じたいと願う人は、イエス様の掟を守りたいが、罪人の私たちには出来ないと真摯な訴えもあったのだと思います。そこで、信じて行きたいと願う者には、イエス様は助け主なる聖霊が信じる者には賜る。その聖霊の力によって、イエス様の掟を守らしてくださる。自分の力や熱心ではなく、聖霊の力によって神の掟を守りなさいと言われるのです。 聖霊はただ与えられるというのではなく、ある目的のために聖霊は私たちに与えられるのです。それは、イエス様の掟を守ることです。その掟は、赦し合い助け合い、キリストの言葉と救いを告げる教会になること他なりません。  


「天に昇るキリスト 地に生きる我ら」   No.637
       (ヨハネによる福音書16章4b〜15節)

                  
荒瀬牧彦牧師

 復活された主イエス・キリストは復活から40日目に、弟子たちの前から姿を消します。それはどういう意味を持つのでしょう。

 一つは、キリストは目に見えず手で触れられない御方として、わたしたちと共にあるということ。わたしたちの信仰には間接性があるのです。イエス様は、直接ぎゅっと抱きしめるぬいぐるみではないのです。やがてはっきり知ることになりますが、今はまだおぼろげに見ているのです。謙遜でなければなりません。

 第二に、イエスは天に昇られたからこそ、世界の主、すべての人の救い主であり、私の主である、ということ。時間と空間から自由になって、すべてのものを天から見ておられるからこそ、私の主なのです。一部の民族だけの救い主でなく、すべての人の救い主です。

 第三に、昇天ゆえに、わたしたちが天を見上げる者となったということ。真の故郷は天にあります。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めなさい」(コロサイ3:1)。

 第四に、イエス様が地上を去っていかれたことにより、わたしたちに「弁護者」である真理の霊が与えられたということ。この霊によってわたしたちは初めてキリストが「わかる」ようになり、この霊によってわたしたちは使命を果たす力が与えられるのです。聖霊がわたしたちを神の御業に招き入れてくださるのです。

 キリスト昇天と聖霊降臨によって、我々人間に「時間」が与えられました。弟子たち(わたしたち)には「使命」が与えられました。この時を良く用いて、すべてのものが神に立ち帰り、真の命を得るために働きましょう。

 主は弟子たちを冷たく放置して去って行かれたのではありません。弟子たちが最後に見た主は、手を上げて自分たちを祝福してする姿でした。わたしたちは、手を広げて祝福するキリストのもとに置かれているのです。ですから、聖霊の力を受けて、喜んで自分の使命を果たしていきましょう。小さな使命に大きな愛をこめて、イエス様の働きを続けていきましょう。昇天された主イエスが再び来られる日まで、昇天と再臨の間にある大切な時をわたしたちは生きていきます。



「良いものが与えられる」         No.636
        (ルカによる福音書11章1〜13節)


 この箇所で、弟子達はいつもイエス様が離れた場所で、一人で祈っているのは何か秘密があるのでは思ったかもしれません。幼いころからユダヤ社会で生きて来た彼らが、祈り方を知らなかったはずがないのに、あえてイエス様に祈りを教えて下さいと問う。その言葉の背後には、あの奇跡を行う力の秘密があると思ったのかもしれません。もしかすると、祈りというよりも奇跡を行う魔術の呪文を知りたかったのかもしれない。奇跡行為者としての力を自分たちのものにしたいという誘惑です。

 しかしイエス様の祈りの教えは、世俗の力の獲得などとは程遠く、まったく違うものでした。神への畏敬の念、毎日感謝、罪赦された者の使命としての赦し、熱心に信じて祈ること。そう祈るものには、必ず良いものが与えられる。その良いもとは私たちの助け主である聖霊なのです。

 弟子たちは、自分たちの期待と違ったイエス様の教えに困惑したかもしれません。弟子たちにとっての良いものとは、力であり富であったかもしれませんが、主の差し出されたものは赦しと和解の聖霊だったからです。 ここは重要な点です。神の差し出される最善のものと、私たちの望む人の欲とは明らかに内容が違う。この違いを最後まで理解できなかったイエス様の弟子もいました。それはその弟子に限らず、その裏切りは、私たちの内側にある罪を映し出す姿です。これはまさに私たちへの、神の戒めであり警告です。

 今からでも遅くはない、悔い改めて神に立ち返れ。神は必ず赦しと和解を聖霊によって確実に伝えられる。挫折しないで、何度でも立ち返りなさい。あなたの罪は赦されたり。神は必ず良いものをくださるのです。 


「感謝する信仰 歌う信仰」        No.635
     (コロサイの信徒への手紙3章12〜17節)

                  
荒瀬牧彦牧師

 コロサイの手紙の2〜3章は、信仰者の生きる態度を教えている箇所です。全体を一言でいえば、「古い自分という服は脱ぎ捨てて、キリストという新しい服を着なさい」ということです。人は簡単に変われるものではありません。クリスチャンになればパッと良い人に変われるというのならいいですが、そうはいきません。でも、聖書が命じるのは、「服を着替えなさい」ということです。それならできるのではないでしょうか。

 キリストを着るとはどういうことか。自分が「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」者であることを知り、それゆえに「赦しあいなさい」。主が赦してくださったのだから。また、「愛を身に着けなさい」。愛が衣をぎゅっとしめる帯です。そして、「キリストの平和に心を支配してもらいなさい」。この平和のために招かれて一つの体になったのです。

 ではそれを、実際の生活に落とし込んでいくにはどうしたらよいでしょう。16節以下は、そのための日々の実践を教えてくれます。@キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。A知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい。B詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。C主イエスの名によって語りなさい。行いなさい。主イエスによって父に感謝しなさい。

 これらのことすべての根底にあるのは「感謝」です。真の感謝が最初になければ、上に教えられていることは成り立ちません。わたしたちの信仰は感謝する信仰なのです。なぜなら感謝する大きな理由を主キリストにより頂いているからです。わたしたちは「感謝する人々」であるはずです。どんな状況にあっても恵みを見出し、感謝する底力をもらっているのです。でも、その力を使っているでしょうか?

 プロの感謝人になりましょう。感謝から湧き出てくる、歌う信仰を育てましょう。今日は復活節第5主日、カンターテ(歌え!)の日曜です。深いところから感謝して、止むことのない感謝と賛美の歌を主に向って歌いましょう! 



「キリストの枝から離れてはならない」   No.634
        (ヨハネによる福音書15章1〜8節)


 キリストご自身がぶどうの木であり、神はその木を育て管理する農夫であると。農夫は、余分な枝を処分します。しかしその剪定には目的がある訳です。それは、幹に繋がっている枝が、沢山の実を付けるため。ただ重要なことは、全ての枝が実を結ぶのではなく、神によって「取り除かれる枝」があるということ。そして、それは人の意思や考えではなく、神が取り除くということ。これは注意が必要です。神は全ての人が救われることら臨んでおられますが、全ての人が救われるわけではないのです。キリストの枝に繋がり実を結ぶ者と、枝から切り落とされる者が確かにいる。

 本人的にはキリストに繋がっていたくとも、農夫である神に切り落とされてしまう場合がある。それは、キリストを信じないまま、いや実を結ぶ気がない枝としてのキリスト教徒でいようとする行為かもしれません。

 聖書は、神の掟にとどまりなさいと言います。イエス様自身が愛の掟を守っているのだから、教会も神の愛にとどまるのです。神の掟とは、何か難しい戒律を落ち度なく守るという話しではなく、11節以降にあるように「互いに愛し合う」ということなのです。命を投げ出してキリストが示した愛に倣って、私たちも愛し合うという掟なのです。赦しと愛、キリストが示した、この掟にしがみ付くことこそが信仰の道なのです。そのような者をイエス様は、決して見捨てないし、私たちの手の力が弱り果てても、イエス様自身がガッチリと手を掴んでいて下さるのです。実を結び、神の愛の内に留まる。私達には二つの道があります。キリストの幹に繋がり神の愛に留まるか、自分から神の手を振り払い神の裁きに身を委ねるのか。 

 キリストに繋がる。これは単に、礼拝に出るということだけではなく、単に洗礼を受けましたという話しだけでない。礼拝に出るとか洗礼を受けるというよりも、キリストの幹に繋がり、その掟を守ろうとすることが重要なのです。仮に、礼拝に来られなくても、洗礼を受けられなくても、神の実を結び、その愛し合う掟を守ろうとするものは、神の民なのです。いやそうしようとするからこそ礼拝があり、そこに洗礼がある。神の掟を無視した、洗礼も教会もないのです。勿論、その信仰とは、人間の目から見た出来高のような話しではありません。一人一人がどのように神の掟を愛し、そこに留まり、幹に繋がっていたいかという話しなのです。その、キリストの幹にブドウの木に繋がって小さな実を結びたいとう気持ちを私たちは信仰と呼ぶのです。



「羊は声を聞き分ける」          No.633
        (ヨハネによる福音書10章7〜16節)

                  
荒瀬牧彦牧師

 
「わたしはあなたの良い羊飼いだ。良い羊飼いである私は、あなたという大切な羊のために命を捨てる。」イエス様があなたに、そう言ってくださっています。これ以上の素晴らしい言葉があるでしょうか。この約束があるだけで、安心して生きていける。そんな言葉です。わたしたちはこの羊飼いについていけばよいのです。しかし、自らの利益のために羊を喰いつくすインチキ羊飼いもいます。それに騙されず、真の羊飼いについていくにはどうすればよいでしょう。イエス様はいとも簡単に言われます。「羊飼いが羊の名を呼ぶと、羊は羊飼いの声を聞き分けて、それについていく。わたしの羊は、わたしの声を聞き分ける」と。

 声って不思議です。何十年ぶりに会う人でも、声を聴くとすぐにわかります。声と人柄は記憶の中で結びついているのです。けれども、直接会ったことのないイエス様の声がわかるでしょうか。それに、人は騙されやすいのです。オレオレ詐欺などは、まったく違う声で電話してくるのに、心理的なテクニックによってパニック状態にされると、その違う声に支配されてしまうのです。偽りの声に煽られ、誤導されやすいという弱さを知らねばなりません。そう考えると、本当にこのわたしは従うべき声に従えるのだろうかと不安になってきます。

 しかしイエス様は、わたしの羊はわたしの声を聞き分けると断言されます。ならば、私の耳が閉じていたり、他の声や音にふさがれていない限り、その声がわかるはずです。福音館書店の会長をしておられた松居直さんが、絵本の読み聞かせの大切さを論じておられる本の中で、こんなことを言っておられました。<私はイエス様の顔を見たことがない。じかにイエス様にお会いする時が来た時、イエス様がわかるだろうか。私はその時にはイエス様を声でわかると確信している。聖書を通して、イエス様の言葉をいつも聞き続けてきた。だから、きっとその特徴ある声、その語り口がわかるはずだ。そう思って楽しみにしている。聖書に親しみましょう。イエス様の言葉を心に宿らせましょう。そうすれば、きっとわかります。羊に命を豊かに与えるために来てくださった良い羊飼いの声が。



「罪の赦し」               No.632
        (ヨハネによる福音書20章19〜23節)


 
イエス様の復活後の出来事。ユダヤ人に見つかるのを恐れて、家の奥にカギをかけて隠れている弟子達。そして更に恐れていたのは、もしもイエス様が復活したら、師を見捨てて逃げた自分たちに裁かれるのではという二重の恐怖。そこにイエス様が来られるのですから、心臓が口から出るほどの驚きであったと思います。

 しかしイエス様は、彼らに「あなたがたに平和があるように」と言って入ってくるのです。それは「シャローム」という平和とか平安と訳される言葉です。その後で、手と脇腹の傷を見せて十字架にかかったイエス様自身であることを知らせます。この順番が逆だったら凄く怖いですね。先に、傷を見せてイエス様が迫ってきたら、弟子たちは気絶しちゃったと思います。しかし、先にシャロームの挨拶がある。それは、もうあなた方を裁かいないよと言われるのです。そして更には「わたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」と弟子達を宣教へと派遣するのです。弟子達は、本当に嬉しかったと思います。裏切りの自分たちが、今度は神の平和を告げる使者とされるからです。

 またその使者には、重大な権威が授けられることを記します。それは「罪の赦し」を宣言する権威です。キリストの赦しの宣言を弟子達に授けられる。勿論ここには「罪を赦さない」権威も同時に授けられます。しかしこの「罪を赦さない」権威を私たちが行使した時、イエス様が荒野で、悪魔の誘惑を受けた時のようになるのです。悪魔の誘惑である全世界を支配する権威に手を伸ばした瞬間、私たちの魂は奈落の底に突き落とされてしまうのです。つまり、罪を赦さない権威は行使できない権威なのです。私たちがキリストから委ねられた行える権威は赦す権威のみなのです。

 しかしとはいえ、人を赦すとは難しいし、自分が人を赦せるように人間であるかという疑問が多くあります。それでも、キリストは自分に倣うようにと語ります。このことを心にとめて今週も歩みたいと思います。



「先に行って待っている」         No.631
        (マルコによる福音書16章1〜8節)

                  
荒瀬牧彦牧師

 日曜の朝早く、三人の女性が主イエスの遺体が葬られた墓に向かっていた。彼女らの心配は、墓の入口を塞いでいる石をどうすればよいか、であった。「石は非常に大きかったのである」。これは、物理的な大きさであると同時に、弟子たち皆の心理的な現実でもあったのではないか。

 男の弟子たちは逃げ去ったままだった。三人の女弟子とは異なり、十字架処刑の場にもいなかったし、遺体を納めるのも見ていない。日曜朝に墓に向かってもいない。男らは不在である。勇敢な女の弟子たちも、遺体をきれいにすることしか考えていなかった。過去に封じ込められ、未来など何も見えなかった。イエスの死という石はあまりにも大きかったのである。

 しかし墓に行くと全く異なる現実が起こっていた。石は既に転がされていた。そして、不思議な人物が二つのことを教えてくれた。一つは、イエスは墓の中にはおられないということ。そして、復活したイエスは「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」ということ。イエスは過去にではなく、「先に」おられるのだ。弟子たちがガリラヤという「先に」進むなら、そこで、復活されたイエスとお会いするのだ。

 本来のマルコ福音書は16章8節で唐突に終わっている。なぜか。これを読むすべての者が「先へ」進み、そこで、復活して今も生きておられるイエス・キリストと出会ってほしいと願っているからだ。マルコはいわば、ボールを我々の手に渡して、この福音書の続きはあなたたちが実体験してもらいたい、というのだ。 三人の女たちにとって「石は非常に大きかった」。しかし、その石は既に転がされていた。そして、主はよみがえられた、と教えられた。主は「先に行って、待っておられる」と聞かされた。わたしたちにとって「石は非常に大きい」。もしわたしたちが自分の力だけで生きているなら、この石は動かない。動かせない。しかし、御子キリストを死から上げられた神の力が働く時、動かせない石はない。キリストの復活の祝いは、わたしたちの現実のうちに神の御業が今も働いているということを信じて喜ぶ祭である。さあ、あなたはどうするか。主はまことによみがえられた。あなたより「先に」行って、あなたと出会うのを待っている。 


「子ろばに乗った王」           No.630
        (ヨハネによる福音書12章12〜19節)


 キリストは、平和を告げるロバに乗ってエルサレムに入場します。人々はナツメヤシの葉を手に持ち、喚起の声を上げてイエス様をお迎えするのです。しかしその喚起の声は、程なく「イエスを十字架につけろ」という真逆の叫びになるのです。これは人々がキリストの姿を強い軍馬に乗った世俗の王と思い込み、本来の平和を告げるロバに象徴されるキリストであることと取り違えていた事にあるのかもしれません。

 イエス様への期待は、あっとゆう間に失望となりキリストは十字架へと押し上げられて行くのです。でも私たちは決して失望してはいけません。コリントの信徒への手紙1章18節「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・22節 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」とあります。挫折と滅びの象徴である十字架刑が、救われるものには神の力となる。その象徴こそが復活であり、イースターなのです。裁き合いは何の意味もありません。負のサタンの力に巻き込まれず、人を疲れ果てさせ滅亡させる負の力です。赦しと和解は、キリストの十字架から来る。これが私たちの救いなのです。イースターおめでとうございます。みんなで信じて神の声を聴いていきましょう。


「ノックの音が聴こえるか」        No.629
          (ヨハネの黙示録3章14〜22節)

                  
荒瀬牧彦牧師

 ラオディキアという豊かな都市に暮らすキリスト者たちは、「何一つ必要な物はない」という裕福な人々だった。しかし、キリストの目から見た彼らはそうではない。彼らは貧しく、見えておらず裸であった。そんな彼らに、主は言われる。「あなたは冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい。どちらでもなく、なまぬるいあなたを、わたしは口から吐き出そうとしている」。 なまぬるいというのは、本人にとってだけ快適なものであり、今の自分さえ良ければいいという身勝手なものだ。神の愛の熱さに応答する真剣や、隣人に対する誠実さを欠いているのである。わたしたちは自分自身のなまぬるさに気づかなければならない。現代の支配的な価値観の中で、わたしたちは信仰を時たま身につけるアクセサリーにしていないか。フルタイムではないパートタイムの信仰者に甘んじていないか。

 新型肺炎拡大という嵐の中で、わたしたちは現代社会の土台がいかに容易に崩れてしまうものか、その脆弱さに直面している。科学技術に支えられた「豊かな」暮らしというのは、実に脆いものなのだ。わたしたちは自分自身の真実を「見えるように」ならなければならない。 しかし、ラオディキアはキリストに見捨てられているのではない。その反対だ。「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 ノックの音が聴こえるか。呼びかける声が聴こえるか。戸はあなたにしか開けられない。戸を開けて、キリストを迎える。それが「悔い改め」である。

 今、わたしたちは「家から出ない」ことを求められている。日曜にさえ引きこもらなくてはいけない!そんな中でこの個所を読むと、キリストが御自分から訪ねて来てくださるということの恵みを強く覚える。主は、人の大勢いるところに出かけていって、捜し回らないとお会いできない方ではない。主の方から、家に閉じこもるわたしのために戸をたたかれる。その声を聴いて戸を開くなら、入ってきて、わたしと食事を共にしてくださる。

 聖餐のパンと杯を共にできないわたしたち。こんな時でも主は入ってこられ、食事を共にしてくださる。その主が、自由に会うことが出来なくなっているわたしたちを一つにつないでいてくださるのだ。   



「父なる神の願い」            No.628
        (ヨハネによる福音書12章20〜26節)


 父なる神の願いとは何でしょうか。イエス様は「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶと」言われご自身の十字架での死の決意を表明されました。それでは、私たちも同じように死を覚悟して進むことが信仰の目標なのでしょうか。確かにそうかもしれません。しかしまた一方で、この死ぬということは、イエス様があのニコデモに話したように、古い自分を捨てて新しく生まれ変わるための死とも言えます。私たちは死によって新しく生まれ変わるのです。このキリストのおられる十字架の場所で共に死ぬことで、全ての古いもの、全ての失敗、全ての後悔、全ての悲しみ、全ての罪から解放された新たな命を得るのです。一粒の麦は、地に落ちて死ことで、新たな実を命を得るのです。

 父なる神の願いとは、私たちが、キリストのように十字架で歯を食いしばって犠牲になって死になさいという話ではありません。信仰において、そのキリストの死にあずかり、自らも信仰において、古い自分に死に、そして信仰によって、新しく創造された自分へと変えられるようにと、新しい人生を獲得して欲しいというのが父なる神の願いです。そのためのキリストの身代わりの死です。

 新しく生まれ、新しく創造されること。新しいという事は、中古やリサイクル品ではないということ。古い傷や、汚れが残っているけど使えますというものでもないのです。新しいとは、まったく傷のない新品です。傷々の私たちであるのに、罪の奴隷から解放され、まったく新しい傷のない者のように神は命を与えられるのです。つまり、神は、私たちが御子を信じることで、古い自分を脱ぎ捨て、新たに生きることこそが、父なる神の願いなのです。新しい人生を、新しい未来を築くための今の受難です。昨今の、世界情勢が混沌とする中だからこそ、キリストの十字架を今こそ見上げなくてはならないと思わされます。



「鋤に手をかける」            No.627
         (ルカによる福音書9章57〜62節)



 この聖書の箇所は、イエス様の弟子となる厳しさが記されています。キリストに従う者は、寝る場所も帰る家もない。父親の葬儀を行う事も許されない。家族への別れの挨拶さえ不要という厳格さ。この話しの背景には、旧約聖書の預言者エリヤがエリシャを弟子とするシーンがあります。しかしそのシーンでは、エリヤは両親への別れの挨拶をエリシャ許可しているのです。つまり、キリストへの服従は、ユダヤ教が語り継いできた預言者の師弟子のあり方さえ遥かに凌駕しているのです。一言でいえば「鋤に手をかけてから後ろを振り向いてはならない」ということです。「従う」と決心をしたら全てを捨てて従うこと。これがキリストの弟子としての覚悟であるというのです。

 しかしこの厳しさは、弟子が努力でキリストになりなさいとう話しではありません。ユダヤ教の弟子はラビから教えをもらい、それを覚えきる事で今度は自分がラビとなって弟子に教えて行きます。しかしイエス様は「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」と語りました。つまり、弟子は師を超える必要はなく、師のようであれば十分なのです。厳しい教えを完璧に覚え熟すというより、師のように目指して進むことが大切。それは私たちにとっては、神を信じ、キリストの十字架の死と復活を信じ、それを述べ伝えることです。ですから、私たちは既に鋤に手をかけているのです。キリストを信じるという道に入ったという鋤です。ですから、私たちは師の様にならなくとも、信じる道においては後ろを振り向いではならないのです。どんなにトボトボであったとしても、この信じる道に入ったら後ろを振り向いて後戻りしてはならないのです。

 先日、私は数年間ケアマネージャーとしてお仕えしてきたクリスチャンの姉妹が天に召されました。彼女は病床の枕元に子どもを呼んで「ママは天国行くよ」と言われていたとの事を伺いました。高齢で大病を患い、認知症も発症して、数年は教会に通うどころではありませんでした。しかし地上の最後の日に「自分はキリストによって天国に迎えられる」という確認が彼女にはあったのです。そして見事に、天国へと帰られました。信じる道に入ったなら、如何なる事があったとしても鋤に手をかけてから振り返ってはならないのです。この振り返らなかった者には、必ず天国の扉は開かれるのです。それが聖書の約束なのです。



「裁くためではなく」           No.626
         (ヨハネによる福音書3章14〜21節)


 昨今の社会状況は、誰もが本当に気分の優れない状況かと思います。私は今世界で起こっていることが、間違っているかもしれませんが人間の神の警告にも感じてしまいます。遡れば、二度の世界大戦を乗り越えた人類は、人間が殺し合いを続けることに大いなる自戒を込めて平和の道を模索し始めるのです。冷戦終結、EU設立、核軍縮と様々な困難な議論を乗り越えて平和を築こうと必死で世界進んできましたが、今は「逆コース」へと向かっているような状況。民主的な指導者は地位を失い、強権的な保守派が台頭。経済が人より優先し、今度は「人からコンクリート」の時代が最熱。人類が不断の決意で勝ち取って来た平和の取り組みは、次々となし崩しになっていく現在。

 神は人類に、裁きではなく悔い改めを求めているのです。取り返しのつかない災いになる前に、罪を認め神に立ち返るようにと語っている。イスラエルの民は、出エジプト後、神へ離反し多くの人が死ぬことになる。そこでモーセによって掲げられた青銅の蛇を見上げることで、イスラエルは悔い改め、民は救われるのです。それは今や私たちにとって、キリストの十字架そのものです。人類の罪の身代わりとして十字架で死んだキリストを見上げることで、私たちは罪赦されるのです。そして更にその復活に信じることで、罪から解放され希望の道を歩み出せるのです。

 人類は正に、今、このキリストの十字架を見上げなくてはならないのだと思います。神の背く人類の身代わりなるとなったキリストを見上げること。この受難節に降りかかった人類へのメッセージを私たちは信仰によって聞き、罪の赦しとその先の恵みの希望を信じて行きたいと思わされます。 



「門が開いている!」           No.625
          (ヨハネの黙示録3章7〜11節)

                    荒瀬牧彦牧師

 新型コロナウィルスの感染拡大と、不安に震える世界。この状況の中で、フィラデルフィア教会の天使への手紙を改めて読み直してみて、特に注意を惹かれるのは、「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう」という箇所だ。

 今わたしたちが直面しているパンデミックの危険ということを、「試練」として受け止めたい。感染拡大を防ぐために、暮らし方を変えねばならない。いつも通りのことはできなくなる。活発な行動や人と人との盛んな交流も控えなければならない。娯楽は必要であるが、いつもとは違う仕方を考えねばならない。これらを、自分たちの生を見つめ直す機会としようではないか。

 同時に、様々な社会的経済的活動が制約される 結果、しわ寄せをもろに受ける人たちがいるということも忘れてはならない。学校の臨時休業で悲鳴をあげている家庭がある。音楽や演劇等の興行が中止され、経済的に苦境に立たされている人たちがいる。高齢の方々は外へ出にくくなり、高齢者の福祉事業も難しい状況に直面している。

 この危機にあたって、わたしたちは信仰者としてどうあるべきか。神さまにどういう信仰を与えられているのか。改めて考えよう。信仰の内実が問われる時だ。こんな時こそ「持っているものを固く守る」ことが大事だ。わたしたちが与えられている信仰と希望と愛が、現実の生活の中で生きて働くようにしたい。突然トイレットペーパーが売り切れるといった目を疑う光景を目の当たりにしている。不安に駆られた時、人間はこういうことを起こすのだ。

 こんな時こそ神さまへの信頼をもって、慌てないようにしたい。落ち着き、他者への思いやり、自己制御、助け合いの精神、明るい希望をことばや行動で示すこと、ほほえみやユーモアを忘れないこと

 フィラデルフィアの教会は「力の弱い」ものだった。しかし、キリストの「言葉を守る」教会だった。この教会に与えられたキリストの約束は、「わたしはあなたの前に門を開いておいた」である。進む先に門がある。 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、すなわちイエス・キリストがおっしゃる。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。」なんと嬉しいことだろう。なんと安心だろう。恐れずに生きていこう。   


「捨てて拾う」              No.624
         (マルコによる福音書8章31〜38節)


 イエス様に従いたい者は、自分を捨て自分の十字架を背負ってキリストに従う。イエス様に従いたい者は、自分の望みや希望、願いを捨てて苦役を背負い込む、そしてキリストに従う。これは正に、弟子たちたに語られた言葉です。そしてイエス様は、この自分の言葉の発信によって、自らの退路を断って十字架へと突き進むのです。

 しかし、この時点では弟子たちには、キリストに従う覚悟はないのです。だから、ローマの圧政のもと執行される十字架刑のもと、弟子たちは離散してしまうのです。逃げ去ってしまうのです。ですからイエス様の十字架を途中から担ったのは、弟子たちではなく通りかかった異邦人キレネ人シモンだったのです。確かにこの場面では、誰も十字架を背負って従うことは出来なかったし、誰も自分を捨てて従うことは出来なかったのです。

 しかし、それが出来る日が来ます。キリストのもとを逃げ去った弟子たちが再び結集して、自分の十字架を背負って再出発をする時がくるのです。それは、キリストの復活によってです。自分を捨て十字架を背負うという見本がイエス様によって示されて、再出発が始まるのです。

 弟子達は、イエス様の姿に、自分を捨てる姿を見出す。イエス様の姿に、十字架を背負う姿を見出す。イエス様の姿に、自らの命を投げ出し神と人とに使える姿を見出すのです。そして弟子たちは、その苦役を見出しただけでなく、キリストの復活に出会って、その苦役が無駄にはならないこと知るのです。明確にその知る体験を弟子たちはしました。だから弟子たちは、出来るようになったのです。キリストの宣教に於いて「自分の命を捨てて、再び拾うことが出来る」ようになったのです。信仰とは勢いではないのです。十字架と復活という事実に基づいて、初めて確かなものとなるのです。イエス様が、この世に来られた意味を知ること。その受難と復活の意味を知ること。人の熱心、人の力では、キリストに従うことも、ましてや自分を捨てることなど到底できないのです。しかし、それを知る時に、私たちは大きく方向を変えられるのです。「捨てて拾う」の秘儀は大きいと思わされます。                 



「実は死んでいるあなた」         No.623
            (ヨハネの黙示録3章1〜6節)
           (ダニエル書12章1〜4節)

                    荒瀬牧彦牧師

 「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」。サルディスはそう言われたのだ。しかし、なぜかサルディスの教会に対しては、他の教会のような具体的な問題点への言及がなく、ただ「死んでいる」というのだ。

 サルディスは「無難」だったのかもしれない。責めるべき難はないが、何もしていないので、何も生み出さない。キリスト教信仰において、無難と多難はどちらがよいのだろう。神と無関係に生きるなら無難こそ最善かもしれない。しかし我々はキリストと出会ったのだ。「自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と主が招き、その道を主と共に歩き始めたのだ。ならばキリストという宝を忘れた無難より、キリストと共にある多難のほうが良い。

 「目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ」。あなたが霊的に死んでいることから、生きた者へと立ち帰るのは、他の人たちを強めることになる。あなたの生は他の人の生にも関わるのだ。サルディスの教会には、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいた。多くの人が眠りこける中、信仰を生きている人たちがいた。この人たちが、仮死状態の者を起こし、強めてくれる。神は、どんな惰眠教会にもこういう人たちを貴重な存在として残し、重く用いてくださる。

 この者たちは「白い衣を着てわたしと共に歩く」と、キリストが約束してくださっている。白い衣とは、神の前に、新しくされた人間として生きる人のことだ。古代教会には、洗礼の儀式において志願者が古い服を脱ぎ捨てて水に入り、水から上がった後に白い衣を着せてもらうという習慣があった。キリスト者の新生を象徴する衣だ。彼らの姿が、他の者たちを励ます力となるのである。

 キリストは、この人たちの名前を「父の前と天使たちの前で公に言い表す」と言われる。公に言い表す(ホモロゲオー)は、人が信仰を「告白する」という時に使われる言葉だ。キリストを告白する人々に対して、キリストは天においてその名を公に表明する。名を大声で呼んで、「この者はわが民の大切な一員であり、命の書に名が記されている!」と宣言してくださるのだ。



「相応しくない賃金として」        No.622
         (マタイによる福音書20章1〜16節)



 このぶどう園での労働者の例えは、様々な示唆を私たちに与えてくれます。そこでは、聖書の語る報酬は、私たちの価値とは違っていること。働いた側の請求権ではなく、支払う側に主体的な判断があることを示すのです。対価報酬ではなく、神の主権に救いはあります。

 私たちは労働において、努力することや効率を求めることは当然なのです。みんなが、夕方からしか働かないなら仕事は進みません。でも、ここではそんな話をしているのではないのです。ここで語られるのは、値なく罪人が救くわれるという十字架の原則なのです。良い行い、大変な修行、忍耐と努力、それは人類が求める重要なことではありますが、キリストの救いの主体性を超えるものでは決してないのです。そのキリストの救いの主体性は、労働者への対価を例にとれば、決して平等ではないが、神の目から見ればまったく正しい。いや、自らの罪を知る者には、これ以上のありがたい話はないのです。

 私たちの社会は、働きに相応しい賃金を求めますが、神の国は「相応しくない賃金」なのです。更に言えば、もしも救いが労働の対価のように相応しく支払われるなら、私たちの誰が救われるのでしょうか。ヨハネ福音書8章の「罪を犯した女」の例えではないですが、「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とイエス様は言われると全ての人が立ち去ったように、誰も行いによって天国の鍵を手にすることは出来ないのです。救いの条件は、私たちが決めるのではなく、神が決められるのです。そしてその報酬は、一方的な恵みとして、「相応しくない賃金」としてのみ、私たちに支払われまるのです。ここに神の愛があります。


「キリストの輝きの意味」         No.621
          (マタイによる福音書17章1〜9節)



 イエス様の姿が山上で太陽のように輝くという出来事。この輝きの意味は一体なんでしょうか。太陽のようにという形容ですから、その光は自らの力で光り輝いていることを意味しています。そしてその輝きは「これは」という天からの声を伴う輝きです。つまり、イエス様が真の人でありながら真の神ご自身であることが明示されるのです。しかしそれだけではなく、その神である輝きは何をなそうとしているのかということが重要です。それは後半の旧約聖書で、再来を預言された預言者エリヤに関する問答からもわかります。つまりエリヤの再来であるバプテスマのヨハネが、その受難によって引いた道をイエス・キリストが更なる十字架を背負って歩んだという受難の輝きなのです。重い十字架を背負い、罪人の永遠の同伴者として歩むキリストに、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神は語られます。キリストの光は、この受難と十字架、そしてそれを乗り越えた復活から照らされ、その道を指し示します。その輝きは、世俗の力を象徴する光ではなく、神の子が自ら苦難の道を選び、復活するという神の人類救済の光なのです。

 多くの人が教会に関心を持ち、アクセスしてきます。そしてその理由は「助けて欲しい」という一言かもしれない。自分の人生が何処へ行くのかわからない、降りかかって来た災難にどう向き合えばいいのかわからない、自分は何故生まれ、何故生きているのがかわからい、「助けてほしい」。その叫びは、私たちも同様なのです。イエス様助けてください。

 しかしこの方は「わたしたちの弱さに同情できない方ではない」(へブル4:15)のです。だから、私たちは無策で途方にくれている訳ではありません。神様が「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われた神の子キリストの言葉、聖書を持っているからです。この聖書の中に、私たちの命と道があるのです。大丈夫です。信じて歩みましょう。 


「信じたとおりになるように」       No.620
         (マタイによる福音書8章5〜13節)


 この百人隊長の僕(しもべ)を癒すという出来事。ここには二つのメッセージがあると言われます。一つは、当時の堕落してしまったユダヤ教に対する厳しい警告です。時が来て、天の国の宴会が催されても、堕落した神の民イスラエルはそこに入ることが許されない。だから悔い改めなさいという話です。そしてもう一つは現代の教会に対する励ましです。

 イエス様自身に直接会うことの出来ない現代の教会は、神の力にも預かれないという事ではないのです。百人隊長の僕が直接イエス様に会っていないのに、その言葉と百人隊長の信心によって癒されたことは、現代の私たちも同じ信仰によって神の力に預かることが出来るという励ましなのです。

 勿論、信じれば全てが思い通りになるという話ではありません。思い通りにならず信仰の訓練を受けることも沢山あります。ですから、ヘブライ人の手紙には「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。」と記すのです。  
 
 世の中も、自分の人生も思い通りにはならない。しかしだからこそ、この世に振り回され一喜一憂して疲れ果ててしまわないように、神を見上げる信仰が大切なのです。神は愛する子を訓練されます。

 その毎日の訓練の中でも、神は私たちに新しく礼拝する場所を備えてくださいました。神様はここでまた新しいことを始めようとされています。その神様に大いに期待し、だからこそ神様の愛の訓練に弱り果てることなく、百人隊長が信じた信仰にならって、私たちも進みたいと願わされます。  


「縁まで水を満たすこと」         No.619
         (ヨハネによる福音書2章1〜11節)


 イエス様の最初の奇跡と記されるカナの婚礼の出来事は多くのことを私たちに語っています。水を葡萄酒に変える奇跡は、ユダヤ教の水の清めを超えて、キリストの血が私たちを清め罪の赦しと命を与えることを象徴していると言われます。その中で、本日は母マリアが召し使いに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたことに注目したいのです。その言葉を聞いた召し使いは「かめの縁まで水を満たした」と記されます。実際この水がめの大きさは一つ120リットルも入る大きなもの。大人二人でも容易に運べる重さではありません。普通ならこぼれないように、八分目程度にするはずです。しかも当時は水道などありませんから、どこからか汲んでくるわけです。それを六個の瓶に入れて宴会場まで運ぶ。これはよく考えると物凄い大変な作業なのです。しかしマリアは「水をいっぱい入れなさい」といい、召し使いは、かめの縁まで水を満たし」て運ぶのです。そこで大いなる神の奇跡が起きるのです。

 あさひ教会は、突然ではありますが来週から新しい場所に礼拝を移します。13年この場所で、出来ることをみんなで一生懸命やってきました。しかし、私はこの聖書箇所のように、自分は水を縁いっぱいまで汲んでいたかと問われたような気がしました。「まあこんなところでいいのでは」と妥協してきたのではないか。いや、水が葡萄酒に本当に変わると信じられれば、八分目ではなくいっぱいまで水を汲めたはずです。でも汲めない。そこに私の信仰の足りなさがあるように感じました。そう神様は、八分目ではなく、縁いっぱいまで水を汲むようにと私たちに語っているのです。そして奇跡を待てと語ります。

 この召し使いと訳されるギリシャ語は、弟子とか執事とか訳される言葉です。つまり、キリストの弟子は、水をいっぱいに汲んで神の奇跡を待つのです。そして、大切なことは、水を汲むのも運ぶのもイエス様ではなく、召し使いである弟子の私たちの仕事だということです。務めを果たし、神に委ねること。きっと、そのように神は新しい礼拝場所で、次の奇跡を起こそうと願っておられます。その奇跡と恵みに期待して縁いっぱいまで水を汲んで、マリアのように期待して共に進みたいと願っています。


「洗礼という神秘」            No.618
         (マタイによる福音書3章13〜17節)

                    荒瀬牧彦牧師

 主イエスが洗礼を受けた時に何が起こったか。三つのことが福音書に記されている。すなわち、イエスが水の中からあがると、「天がイエスに向かって開いた」。そして、「神の霊が鳩のようにご自分の上に下って来るのをご覧になった」。天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえた――これは、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に、天からの啓示として起こった出来事である。しかし、これは我々にとっても大変重要な箇所なのだ。なぜなら、キリストにつながれた者にとっては、イエスの授けられた洗礼の恵みが自分のものとなるからである。

 「あなたは何者なのか」と問われたら、どう答えるのか。自分の真のID(身分・正体)は、洗礼から考えなければならない。

 パウロは言った。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配されたからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ8章)。

 あなたは何者か?そう問われて、「罪の奴隷です」と答えなければならない者であった自分に、洗礼において、新しいIDが与えられた(与えられる)。あなたの上で天が開き、あなたに聖霊の鳩が降下し、<あなたはわたしの愛する子>という天からの宣言が響いた(響く)。古いアダムとしての自分が水に沈められ、水の中からキリストにある新しい命をもった神の子としての自分が生まれた(生まれる)。

 「洗礼において、神は私たちを神御自身のものと宣言し、ご自分の民として、恵みの契約の相続者として、しるしをつけられます。洗礼は、罪の赦し、キリストへの接ぎ木、聖霊の注ぎ、そして死と新しい命への復活を象徴します。」(カンバーランド長老教会信仰告白)

 洗礼は神秘だ。我々が自分で理解しているよりもずっと奥深い恵みなのだ。神に「私の愛する子」と呼ばれた神の子たちよ、罪の奴隷という古いIDに逆戻りしてはいけない。いつも洗礼に立ち帰れ。         


「神の子キリストとして」         No.617
          (ルカによる福音書2章41〜52節)


 この箇所において、迷子になった少年イエスをマリアは叱ります。しかしそれに対するイエス様の回答は「何故捜していたのですか、私は父の家にいるのは当然ですよ」というものでした。本来なら必死で捜していた親ですから「その言い方は何ですか」と叱ってもいいところでしょう。しかしマリアは、そのイエス様の言葉の意図は理解できませんでしたが「これらのことすべてを心に納めた」とその心情が記されています。この出来事は、他者から見るとむしろ少年イエスの行動がおかしいように感じますが、マリアはその受け止め方が違ったことに注目したいと思います。このマリアの反応に似たような出来事として、同じ福音書の1章38節があります。天使から幼子イエスを授かるというお告げを受けて、戸惑いながらもマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と言われたことです。つまり、他の人達は理解できなくても、マリアは少年イエスが神の告知によって生まれて来た特別な存在、神の子メシアであることをマリアは身を持って知っていたからなのです。だから、人間の親としては感情的に叱ってしまったが、イエス様の回答を聞いて、あの日の天使のお告げを明確に思い起こしたことでしょう。

 私たちの人生は、この世の諸悪に翻弄される日々です。クリスチャンでありながら、神を知らないような自己判断しか出来ないことが本当に多い。マリアのように「なんでこんことを」と日々怒鳴りたくなります。しかし、その時に、神のお告げが、聖書の言葉が、私たちを立ち返らしてくださるのです。神のお告げを心に全てとめること、どんな出来事の前でも、お言葉どおりになりますようにと信仰を持って進むこと。「お言葉どおりに」とは神が私たちの人生に最善をなしてくださるという信頼です。悪魔の力を覆す神が、私たちの人生と同伴されていること。必ず道を開いて下さること。罪あるものが罪なき者として赦しを得て天に凱旋できる約束を頂いていること。そのことを「すべて心に納めて」天から力を頂くこと。ここに毎回立ち返る。毎週立ち返ること。これが信仰者の力なのだと思います。

 今年の教会主題聖句「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ2:4)は素晴らしいですね。信じてみんなでこの道を進みたいと願わされます。



「シメオンとアンナの降誕祭」       No.616
          (ルカによる福音書2章25〜38節)
          (イザヤ書42章1〜7節)

                   荒瀬牧彦牧師

 
シメオンもアンナも高齢であったが、エルサレム神殿で幼子イエスを見出し、祝福するという大切な役割を果たした。高齢だったがというより、高齢だからこそ役割を果たせたというべきだろう。長い人生の歩みを要する役割があるのだ。神がそれをお用いになる。

 アンナはその人生において、多くのことを為し得たというわけではない。ずっと神殿にいたのだから。でも彼女は一事に徹するということの美しさを見せてくれた。自分の役割として与えられた本当に大切な一つの事に打ち込み、その的を射たのだ。恵まれた豊かな人生である。シメオンもそうだ。死ぬに死ねない老後を過ごしていたようにも見える。しかし、神はきっちり約束を果たしてくださった。彼しかできない役割を果たした。空振りの人生ではなかった。

 その人生の大きな秘訣は聖霊である。聖霊の導きがあればこそ待ち続け、幼子が神殿に連れてこられた時も見逃さなかった。自分の力ではない。聖霊の導きに心開き、聖霊に従う。そこに空振りの人生はない。人を振り回したり、人に振り回されて生きると的を外す。聖霊に身を委ねて、神に導いて頂く者にとって「虚しかった」という人生はない。

 「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」ヌンク・ディミティス(シメオンの賛歌)を我々も歌おう。修道院の聖務日課では終課、夕の祈りで歌われてきた就寝前の歌だ。それは人生の最後において、死の眠りにつく時に我々が歌える賛美だということでもある。「今こそ安らかに去ります」と歌って死ねる人生は幸いだ。しかし、シメオンが預言したことばをふまえると、これはそれ以上の意味を持っている。シメオン退場の歌であると同時に、キリストの福音の始まりの歌なのだ。「今安らかに去ります」は、今日わたしたちが、「シャローム(平和)のうちに出かけていく」、新しい生き方へと平和のうちに出立するのである。

 「今だけ、金だけ、自分だけ」という今の日本を覆う風潮は、今年いよいよ深刻になったようだ。「今だけ、金だけ、自分だけ」の生き方は、未来の世代からの資産強奪であり、先に待つのは滅びだけだ。他方、アフガニスタンの砂漠に用水路を敷き、緑の沃地にした中村哲さんのような生き方があることも我々は見た。シメオンの歌を歌いながら新しい年に進もう。    

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