御言葉と出来事
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御言葉と出来事(2022年)
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2022.12.25更新
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「恐れることはない」 No.771
(ルカによる福音書1章26~38節)
私達には、期待に対する恐れかあります。常に、こうなって欲しいという願いと共に、ならなかったら失望するので期待しないという真逆の心が働きます。マリアの心にも、イエス・キリストの誕生を期待すると共に、不安があったことが聖書から読み取れます。言い換えれば、信じるという私達の不安な姿をマリアが示しているのかもしれない。そこから学ぶことは、不安の中にあっても「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とマリアのように答えることだと思います。
神様のお言葉通りになるようにと、応答する心。私達の不安とか恐れとは、雨風嵐のようなものです。しかし強風が吹き荒れたからといて、全ての家が倒壊するわけではありません。土台がしっかりとした家は、嵐の中でも倒れません。自分の不安で自分が倒れるのではなく、神という揺るがない土台に身をゆだねること。更に言えば、神に身を委ねるとは、信仰という土台の上に立つことです。
マタイ7章に岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人の例えが記されています。その見かけは普段は分かりませんが、嵐がくるとその差は一目瞭然です。砂の上の家はあっと言う間に倒壊しますが、岩の上の家はたとえ揺れても倒れることはない。神様に身を委ねるとは、そういうことなのだと思います。私達は、期待も不安も全て神様にお委ねして、岩の上に立ち歩みたいと願います。
「本当の慰め」 No.770
(ルツ記2章8~18節)
古畑和彦牧師
ルツと出会ったボアズは、ルツを温かく迎え、親切な言葉をかけました。ボアズは、ルツに自分の畑で優先的に落ち穂拾いをする特権を与えました。さらにボアズは、ルツに一切の危険がおよばないようにしました。そのうえ、日中日陰もない畑で落ち穂拾いをする者になくてはならない水を提供しました。ボアズは、安易にものをあげるようなことはせずに、一所懸命に働くルツの自立心、自尊心を大切にしながら、親切な言葉をかけました。ルツにも様々な不安がありました。しかし、ボアズの温かい、優しい親切な言葉は、それらすべてを消し去りました。ボアズが「心に触れる言葉」を話しかけたので、不安、恐れ、心配が取り除かれたのです。ルツは「本当に慰められました」と語ります。
クリスマスは、どんなに不安、恐れ、心配の中にあっても、キリストが共にいる故に希望がある、ということを知る時です。私たちは、神によって、キリストにあって本当の慰めが与えられています。ですから、私たちは、神から頂いた慰めによって「あらゆる苦難の中にある人々を慰めること」(Ⅱコリ1:4)ができるのです。この一週間、本当の慰めに生きるものでありたいと思います。
「預言者の巻物が渡される時」 No.769
(ルカによる福音書4章14~21節)
ナザレの会堂で、イエス様が預言者イザヤの書を朗読します。「貧しきものに福音が告げられ、捕らわれた人に解放され、目の見えない人の視力が回復し、圧迫されて人たちに自由が与えられる」。それが、この預言書がイエス様に渡されたとき実現したのです。まだ実現していなくても、実現したのです。ヘブライ人への手紙11章1節では「
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。キリストの到来は、私達を悩ます様々な抑圧からの既に解放を告げるのです。だからこそ福音なのです。一つの考え方として、私達の生活には常に困難があります。しかしその困難があるからこそ解放がある訳です。
先月に家族旅行で箱根行ってきました。初日から酷い雨でどうなるかと思いましたが、二日目の昼頃には一気に晴天となりました。ケーブルカー駅から、とても大きな虹が現れ、そこにいた人たちが喚起を上げて虹の撮影していました。しかしこの美しい見事な虹は、その前の雨がなくしては現れないのです。つまり、虹と雨はセットになっているのです。同様に、私達の苦難は救いとセットになっているのです。苦難なくして救いはありません。それはキリストの生涯が受難を通して、復活と栄光があるようにです。私達はどんな時でも、既に解放は実現していると信仰により受け止め、弱り果てることなく人生の道のりを信じる心を持って進みたいと思います。
「神に偶然はない」 No.768
(ルツ記2章1~7節)
(マタイによる福音書6章25~34節)
古畑和彦牧師
ルツ記2章1~7節には、ルツと後に夫なるボアズの出会いが記されています。ルツ記の著者は、二人の出会いは「たまたま」であったことを強調します。しかし、私たちは、そこに神の見えない御手があって、人間の目からみて偶然と思われることを導いておられることを知っています。すべてのことは、偶然に起こるのではなく、神の導きによります。しかし、だからといって私たちは何もしなくてもいいというものでありません。ルツが怠け者で畑に出ていかなければボアズに出会うことはありません。ボアズが、畑の管理を召し使いに任せきりして、自宅でくつろいでいたらルツに出会うということはありません。ルツはルツなりに、ボアズはボアズなりに、なすべきことを忠実に行った結果、二人の出会いが実現したのです。
私たちにとって「たまたま」と見えることに摂理の神の御手があります。神には偶然はありません。同じように私たちの人生にも偶然そうなったということはありません。神の計画、配慮があるのです。ですから、私たちは与えられたところで全力を尽くすのです。ルツやボアズのように……。明日を心配しないで、今日に全力を傾けましょう。
「油断してはならない、その時は来る」 No.767
(マタイによる福音書24章1~13節)
イエス・キリストは「油断してはならない、その時は来る」と語りました。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われました。終りの時には、偽預言者が現れ人を惑わし苦しめるとあります。しかしその偽者は、悪魔の様相で現れてはやって来ません。偽預言者は、「あなたの為だ、愛が大切だ」と耳元で囁き、天使の様相で私達に、気づかれない様に人の心に入りこみ、教会を、人間を、破壊し地獄に送り込むチャンスを狙っているのです。この箇所には、その時には「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。」と記されます。これは恐ろしいことですが、そのような事がキリスト教会の中で起きると、イエス様が預言するのです。しかし、それでも救いはあります。イエス様は、何度も「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と言われます。そう、最後まで耐え忍のです。この耐え忍ぶ信仰の忍耐こそが、私達を真の救いに導く最大の力なのです。ローマの信徒への手紙2章7節には「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与える」とあります。挫けることなく、共に神と人とに生涯お仕えしたいと思います。
「注ぎだす祈り」 No.766
(詩編130編)
奨励 篠崎千穂子教職志願者
川や湖などにある澱んだ深み¬=「淵」を、古代イスラエル人たちは、神から一番遠く、恵みから切り離された場所として表現しました。バビロンに捕囚された人生の淵において、彼らは「都に上る歌」…神の民にとっての公の神への応答の詩に悲しみをそのままに詠います。そしてこの詩編が聖書に入っていることは、神が「人々の本音」を喜ばれた証であるともいえるでしょう。この「本音の祈り」からおよそ500年の後、ルカによる福音書は主イエスの、父なる神への「本音の祈り」を人々に伝えます。ルカによる福音書22章42節「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは最初から、「御心のままに」とは祈られませんでした。神への信仰告白である「御心のままに」は、キリストをもってさえ聖霊を通して与えられ、天使を通して助けられなければ発することができない言葉でした。キリストさえ躊躇された「御心のまま」…そんな祈りをもしも私たちが易々と口にしているならば、それはもしかすると、「御心」をあまりにも軽く考えた、ある意味で神から与えられた自分の人生の責任を放棄したありようといえるかもしれません。
神が願っておられるのは「本音の祈り」です。なぜでしょうか。本音をぶつけ、泣きわめくことができるのは、どんな自分でも受け入れてくれると自信をもって言える相手の前だけだからです。神が求めておられるのは、私たちの神への信頼の上の本音なのです。残念ながら詩編は私たちに、バラ色の人生を保証はしません。けれども私たちの本音の祈りが神の前に注ぎだされたその時に、創世の始めの「神と人とのあるべき関係」が作り直されていきます。詩人の心に合わせて、深き淵から本音を正直に注ぎだす…そんな祈りの時をもちましょう。詩人の心に合わせて、深き淵から本音を正直に注ぎだす…そんな祈りの時をもちましょう。
「神の国は見える形ではこない」 No.765
(ルカによる福音書17章20~30節)
イエス様は「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人達に「神の国は、見える形では来ない。」と言い返します。そして弟子達に向かって「神の国はあなたがたの間にある」と答えられました。つまり、神の国は、救い主としてイエス・キリストという姿で、私達の生活の只中に来られたのです。また、当時のファリサイ派の人達がした質問は、彼らの困窮を背景に持っていました。自分達は必至で聖書の勉強に取り組み、律法を落ち度なく守り、神を礼拝しているのに、ユダヤ社会は混迷が続き改善されない状況。つまり彼らこそが「神の国」見失った状態だったのです。しかしだからこそ、その混迷社会にキリストが来られて、泣くものと共に泣き、笑う者ともに笑い、本当の神の姿を現したのです。
私達は常に、容易に見えるものに引かれ縛られてしまいます。その最も劣悪な現実を現わしているのが、新興宗教と言われる神でないものを神として祭り、人々を奴隷の様に追従させる宗教の横行です。そしてそれを利用して利権を得ようとする政治家達の姿が正にそうです。その現実をイエス様が見たら間違いなく「神の国は、見える形では来ない!」と言い放つことでしょう。神の国は利権や人の思惑によって利用されるものではないのです。もっと高価で、崇光で、力に満ちたもの。それは神の子イエス・キリストの十字架の苦難によって完成された、信じるものから決して取り去ることの出来ない救いの恵なのです。
「助けの叫びを聞かれる神」 No.764
(マルコによる福音書4章35~41節)
イエス様を乗せた船が、弟子達と共に大嵐に巻き込まれます。弟子達は激しく揺れる船の上で、イエス様を揺すり起こして「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と叫びました。しかし何故、弟子達はそんな恐れに包まれたのでしょうか。それは嵐の恐怖に出会い、力あるイエス様が乗船していることを忘れてしまったからではないでしょうか。
私は、この箇所の弟子達の叫びが私達人間の叫びそのもののように感じました。私達は人生の荒波に揉まれ、激しストレスと失望に追い込められ、声を上げるのです。「イエス様、私達が溺れてもかまわないのですか!」と。その私達にイエス様は「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と答えられるのです。私達は人生の船に、いつもイエス様が同船され守って下さることを、あまりの苦難で忘れてしまうのです。「イエス様どこですか?私達を見捨てるのですか!」と叫び続けてしまうのです。しかし、その時こそ「信じる」ことが大切です。
昔水を運んだ道具に、天稟桶というのがあります。あの揺れる桶の真ん中に木を浮かせると、水撥ねが抑えられると言われます。
この原理は、まさに信仰です。私達の心の真ん中にイエス様を置くことによって、心の揺れが抑えられるのです。落ち着いて平安を取り戻せるのです。風や湖さえも従わせるキリストを信じることこそが、私達の平和であり幸いなのです。キリストが、私達といつも共におられること覚えたと思います。
「人間に仕える漁師」 No.763
(マルコによる福音書1章14~20節)
イエスが漁師のペテロ達を弟子にする時の「人間をとる漁師にしよう」という言葉はとても有名です。しかしこの「人間をとる」とは改めてどのような意味なのでしょうか。漁師が魚をとるのは自分の生活や仕事のためです。しかし人間をとるとは、自分の利益のために漁をする訳ではありません。この言葉をあえて言い換えれば、「とる」ではなく人間に「仕える」としてよいと思います。イエス様に従うとは、自分の為にとる人生から、人に仕える人生になることなのです。ですからもはや漁師ではなく、弟子であり仕える僕に変えられたといってもよいと思います。
創世記で有名な言葉、造られた人間に神が「地を支配せよ」といった言葉があります。それは世界を支配する力が、人間に付与されことを意味します。しかし、その後のアダムとエバの失楽園の出来事により三章では「人間は地を耕すものとなった」と記されています。この言葉は、耕すは仕えるとも訳す言葉です。つまり人間は、神の赦しによって、世界を統治する支配する者から、地に世界に仕える者へと変えられて行くのです。
「とる」者から仕える者に、支配する者から耕し仕える者になる。これこそが、キリストとの出会いなのだと思います。私達人間の罪の素性では、心は欲と嫉妬に心を支配され他者を押しのけて生きるようとします。しかしその同じ人間が、キリストに召されることよって、支配する者から人に仕える者となるのです。この事こそが、イエス・キリストの救いそのものだと思います。
「細かく気を配って歩む」 No.762
(エフェソの信徒への手紙5章15~20節)
本日の箇所は「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」とあります。では、この細かく気を配るとはどのような意味なのでしょうか。それは第一に時代を見極めること、次に神の御心を悟る、神の霊に満たされる、賛美と霊をもって礼拝を捧げる、あらゆることで神様に感謝することです。
ここで特に注目することは、細かく気を配る対象は他人ではないということです。神の業に対してであり、それを更に言い換えれば自分自身に対して細かく気を配ることなのです。
悪い時代の闇の子は、自分ではなく他者に目を向けさます。人の行いばかりに気を取られ、細かく人を監視し、注意し、自分の考えで人を変えようとするのです。そこには大きなトラブルを絶え間なく起ります。しかし、光の子は、自分自身に目を向けるのです。他人が何をするかではなく、自分自身の使命に細かく気を配るのです。
ですから、他者の目で「あなたは気利かないね」と言われようとかまわないのです。自分の目で、自分を細かく見つめ、自分の神への奉仕を捧げればよいのです。いや更に言えば、神から日々頂いている恵への感謝に、細かく気を配って歩めばよいのです。それが、神様が私達に求めていることなのだと思います。
「人生の楽しみと苦しみ」 No.761
(ルカによる福音書2章1~7節)
古畑和彦牧師
ナオミは、嫁ルツと共に約十年ぶりにベツレヘムに帰ってきました。そこで人々の優しさに触れて、思わず弱音を吐いてしまいます。ナオミは、「神は私を『ひどい目に遭わせ』『うつろにして帰らせ』『悩ませ」』『不幸に落とされた』」と感じるようになっていました。そこでは、自分の事を「ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と叫びました。ナオミは「うつろにして帰らせた」と神に文句を言いましたが、ルツが共にいることを忘れていました。そして何よりも神がナオミの人生を最善に導いてくださっていることに、思いを向けることが出来ませんでした。私達も、落ち込んでしまうことがあります。神に思いを向けることが出来ないことがあります。このような時、弱音を吐くことができる場所がある、仲間がいるということは何という恵みでしょうか。
イエスは、私たちの弱さをご存知です。神を信じていても、悲しみ、苦しみ、悩みを持ち、不安に苛(さいな)まれてしまう。その弱さをご存知です。そして、その弱さを越えるところの人生の喜びを見させてくださいます。クリスマスに弱さの中で生まれてくださったイエス・キリストが、私たちの「マラ」(苦い)を「ナオミ」(快い)に変えてくださいます。
「神の前で豊かな人」 No.760
(ルカによる福音書12章13~21節)
如何に良い物も、死後の世界には持っていけない。聖書は、ラザロと金持ちの話や、持ち物で思い悩むなとこのテーマの警告を繰り返します。でもそれはイエス様が言わなくても、私達は日常から薄々気付いていることです。しかし、私たちは意図的に、それに触れないように、気付つかないようにしています。つまり、その重要なテーマを「蔑ろ(ないがしろ)」にしているのです。蔑ろとは「人や物事を、あっても無いかのように軽んずること」とあります。でもそれは、あっても無いかのようなものなのでしょうか。人間の価値観を地上の生涯の損得のみに集中して計ってしまう生き方で、本当に成功と言えるのでしょうか。
聖書は、自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者ではダメなのだと語ります。全ての人がその生涯の最後に、この問いから逃れることは出来ないのです。自分の努力では、このテーマを無きものに出来ない事を知らされるのです。今夜にも、私たちの命は取り去れることになるからです。しかしまた、この危機迫る問いですが、私もわかっているのかなと思わされます。分かりたいと思いながら、毎日の生活が大変で蔑ろにしてしまう。ある面ではだからこそ、信仰が必要なのかもしれません。大切でも蔑ろにしてしまう私達だからそこ、キリストへの信仰を見つめる必要があるのです。何度でも、引き戻されないとならないのです。世俗に埋没してしまうような私達の人生を、キリストが天へと引き戻して下されることを祈りたいと思います。
「出来る限りのことをした人」 No.759
(マルコによる福音書14章1~9節)
エリザベス女王が逝去されて、沢山の記事がニースに載りました。その中で、生前に彼女が言われた言葉が次のようなものがあり要約すると「自分は嘗ての王のような権力も武力も持っていない。しかし私には出来ることがある。それはこの古き良き国に生きる全ての人々に、私の心と献身を捧げることである」と語ったとのことです。
この言葉はクリスチャンの私達に言い換えれば「クリスチャンの私たちは、イエス様や使徒達のような奇跡や偉大な言葉を残すことは出来ないが、神と隣人に献身することは出来る」と言ってもいいように感じます。神は私達に出来ない事ではなく、出来る事を献げるように求めておられます。
本日の聖書の箇所に出て来る、ナルドの香油をイエス様に振り掛けた女性の出来事。この記事で注目すべきことは、「14:8この人は出来る限りのことをした。」という言葉です。現在で計算すれば数百万円にもなるナルドの香油をイエス様のために一瞬にて使い切ってしまう出来事。周りの人がそんな馬鹿なことをしてと非難するのは当然とも言えます。しかし周りから何と言われようと、彼女はそうしたかったのです。それで、イエス様への愛と献身を示したかったのです。マルコの福音書12:41では「やもめの献金」として少額の2レプタを献げた女性の話しが記念として記されています。大切なことは、量や形ではなく、自分の出来る限りのことを神に献げて献身を示して行くことなのだと思いました。今週も、自分の出来る限りの働きをもって神と隣人にお仕えしたいと思います。
「あなたの神はわたしの神」 No.758
(ルツ記1章15~18節)
古畑和彦牧師
ルツは、何とかしてモアブに帰そうとするナオミに対して、愛と信仰と献身の告白を行います。ルツの愛は、?「自己放棄」の愛でした。?愛する者と一体になる愛でした。ルツの信仰は、ナオミから受け継いだものでした。その信仰は、?主なる神を信じる信仰でした。?「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)信仰でした。?主に属することをはっきりさせる信仰でした。私たちは、キリストの贖いによって「恵みにより、信仰によって救われました」(エフェ2:8)。私たちは、ルツのように、主イエスを「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハ20:28)と信仰告白しましょう。そして、その信仰が、連れ合いに、子どもたちに、そして嫁たちに受け継いでいくことができるように祈っていきましょう。
キリストは、私たちのためにクリスマスに人間の姿で来られ、十字架によって私たちの罪を贖ってくださいました。その献身によって私たちに永遠の命の希望が与えられています。私たちも、このキリストに献身する歩みをしていきましょう。そこにこそ本当の幸いがあることを信じて……。
「敵を無事にさらせる者は」 No.757
(ローマの信徒への手紙12章17~21節a)
パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と言われました。その意味を探る旧約の出来事があります。サムエル記上24章にダビデとサウルの話しがあります。ダビデの功績に嫉妬したサウルは、彼の命をつけ狙うのです。ダビデは必死に逃げますが、サウルを返り討ちにする格好の機会を得るのです。しかしそれでもダビデは「主が油注がれた者に手をかけてはならない」とサウルを逃がしてしまいました。その出来事を知ったサウルは声をあげて泣き、ダビデに「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。」と悔いるのです。聖書は私達の常識や感覚では、普通には理解できない「敵を無事に去らせる者」の存在しを示すのです。それは、あのイスラエルの王ダビデがそうであったように、使徒パウロがそうであったように、いやイエス・キリストがそうであったように、私たちも、それに倣いなさいと聖書は言うのです。
あるSNSの書き込みに興味深いものがありました。ある野球チームを応援する人が他のチームの応援団に酷く非難されるのです。その憤りが書かれていましたが、それに対するコメントは共感と共に苦言も記されていました。「その相手チームの応援団は、以前にあなたのチームの応援団から嫌な思いをしたのかもれない。だから、あなた自身には恨みはなくても、同じ応援団に挨拶する気もしないのでは。立場や見方を変えると相手の行動も理解できるのでは」とです。なる程と思いました。ダビデはサウルの主から油注がれた立場が、如何に大変で苦悩に満ちているかという事を察していたのかもしれない。サウルが自分に敵対する心は、立場を変えれば自分の中にもあると受け止めた行動だったのかもしれません。
私たちは聖書に立つとき「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」奥義の真意を知らされるのです。このことを心に留めて今週も主と共に歩みたいと思います。
「あなたのなすべきことが知らされる」
No.756
(使徒言行録9章1~19a節)
使徒パウロは、嘗ては教会の迫害者でした。しかしイエス様自身が、彼に直接呼びかけて改心へと導きます。パウロは教会の迫害者とはいえ、それは必至で自分の信じる信仰と使命を果たしていただけです。問題は、その方向性が間違っていたのです。その彼に語られたのは「あなたのなすべきことが知らされる。」とのキリストの言葉です。その言葉にパウロは呼応して、その後は必死にキリストの僕として神様に仕え続けるのです。このなすべき「方向性」こそが、私達人間が最も必要としているものなのです。
私は教会の門を叩いたころ、瀬底牧師先生に「自分はどうすればいいかわからない。正しい方向がわかればそれを必死にやりたいと」言ったことがあります。あれから随分と月日が流れましたが、人生の後半の使命は、介護事業を通して神と人とにお仕えすることです。私が牧師ということでは、家に上げてくれない方々も「フレンドシップあさひの鈴木です」と言えば「どうぞ上がってください、私はこんなに困っているのです、助けてください。」と話しを聞くことが出来るのです。この介護事業システムを利用することで、地域で困っている方々に、より多く神の手足となってお仕えすることが出来るのです。
ただこの使命を果たして行く上で、イエス様は「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを彼に示そう。」と言われました。パウロの大きな伝道の働きは、彼の苦しみと共にありました。使命を果たして行くとは、苦しみ困難を引き受けることなしにはあり得ないのです。それはキリストの生涯が正にそれだからです。キリストに召された私達には、苦難はつきものです。しかし苦難を受けた時、私たちは既に正しい道を進んでいると受けとめて、その先の栄光を見据えて挫けずに頑張りたいと思います。
「神様、罪人の私を憐れんでください」
No.755
(ルカによる福音書18章9~14節)
ここでファリサイ人は自分の善行を自慢し、徴税人を見下げて裁きます。これは一見酷いようですが、普通の人間の気持ちとも言えます。彼らは、聖書の勉強に真面目に取り組み、聖書の戒律を必死に守り、身を切って十分の一献金を欠かさず献げる生き方をしていました。その為、イスラエルの民衆から尊敬を集める模範者だったのです。しかし、このファリサイ人は必死にやればやる程に、不真面目な人間が許せなかったのです。「私はこんなに努力しているのに、この徴税人はなんだ、俺はこんな人間とは違う」。この姿は、私達の日常とまったく同様です。一生懸命やればやるほど、自分と同じように努力をしていないと感じる者に対して苛立ちが積もります。しかしイエス様は、一生懸命やっていたはずの私達ではなく「胸を打ちながら自らを罪人です」と告白する徴税人に、神の赦しと神の義を宣言されるのです。
このイエス様の権限は、人間の努力では一ミリも天国に入れないことを意味しているのです。私達に赦しを与え救うことが出来るのは神のみなのです。
第二コリント9章6節で使徒パウロは「多く捧げる者は多く刈り取る。」と言われました。この言葉を言い換えれば「多く罪を告白する者は多く赦される」と受け取ってもよいはずです。「私はこんなにやっている」という思いから離れて「私はこんなに赦されている」と告白できれば幸いです。
「聖書がおしえてくれた、一番大切なもの」No.754
(マルコによる福音書12章28~34節)
奨励 高橋雅恵長老
皆さんは、一番大切なものとは何ですか?と聞かれて何と答えるでしょうか?「それは神様を愛することです。」と迷わずに答えられた方は聖書をかなり勉強されている方、または信仰生活が長い方なのでしょう。一人の律法学者がイエス様に質問をします。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」イエス様は申命記6:4~5を引用して「イスラエルよ。聞け、われらの神である主は唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えました。いわゆるこの命令は、自分の心、命、全存在をかけて、「主を愛する」という意味なのです。また、この命令はとてつもなく深く難しい命令であるが故に、繰り返し信仰の原点に立ち返らせてくれるものでもあります。次の掟は、レビ記19:17~18の最後の部分から引用し、憎しみや恨みとの対比で隣人愛を説いたところです。「あなたの隣人をあなたの自身のように愛せよ。」大切なことは、わたしの心がどなたに、またどこに向かっているかということです。主が唯一であること、これこそが聖書の核心であり、隣人を自身のように愛することが神の教えなのです。
「幸せを掴む道」 No.753
(ルツ記1章11~14節)
古畑和彦牧師
ナオミは、二人の嫁に「あなたたちが私について行っても幸せを掴むことは不可能だ。モアブの実家に帰りなさい」と勧めました。しかし、私たちは、そう言うナオミについて行ったルツが幸せを掴むことができたことを知っています。ルツには、不可能を可能にする主なる神がいたのです。ナオミは信仰が足りなかったのでしょうか。嫁たちに、神は不可能を可能してくださるから大丈夫、私について来なさい、と語るべきだったのでしょうか。ナオミは、ぎりぎりの状況の中で、自分の幸せを後回しにして、二人の嫁の幸せを考えました。それはあとから思えば不信仰な対応だったかもしれません。
しかし、主なる神はその思いやりを喜んでくださり、不可能を可能にしてくださったのです。不信仰な者の歩みにも応えて下さる神に従う道にこそ、本当の幸せはあります。
ナオミの自分の幸せを後回しにしてでも、他者の幸せを考える思いが、今ロシアにあったなら、ウクライナへの侵略はなかったでしょう。平和を造り出す道は、僅かでも自分の幸せを後回しにしてでも、他者の幸せを考えることにあります。僅かでいいのです。僅かなことが世界を変えるのです。不可能を可能にしてくださる神さまが私たちの神さまなのですから……。
「光の方へ、光の方へ」 No.752
(詩編36編6~10節)
(エフェソの信徒への手紙5章8b~14節)
奨励 内田弥生長老
創世記1章「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった。」世界の始まりは、まさに闇が支配していたのです。
そこでの光は、神のいますところの照明であり、私たちの住むところでもあります。しかし、闇の戦いが終わったわけではありません。私達は、闇の力と対決する力を与えられている。世界は闇の中にありながら、最初の神の創造された被造物であることは確かなことです。鈴木牧師が、若き日にパラグライダーで雲の中に入ってしまったとき、地上から、「わたしはどうしたらよいでしょう?」無線からは、「光の方へ、光の方へ」。私たちはまさに、雲の中を手探りで歩いているようなものかもしれません。
闇から光へ。罪の中にとどまっているのではない。イエス・キリストは私たちに呼び掛けて下さっている方です。「光の方へ」と。
このパウロの手紙はまさにあさひ教会に向けられた手紙だと感じました。当時のエフェソの教会も同じ苦しみ、同じ嘆きにあったということです。常に内在している問題をはらんでいるのです。しかし、そこに留まってはならないということです。抱えている闇を光の中に放ちなさい。その光は闇をも打ち砕く力がある。光すなわち主なる神。聖霊の働きにより闇は闇のままにされてはおられない。闇は光に照らされて初めて闇であることを知るのです。
キリストは十字架の上で、果たして私たちの罪を背負い、その罪から解き放たれて光となられました。これらのことは、すべて神から出たことです。
「信じます。信仰のない私をお救い下さい。」
No.751
(マルコによる福音書9章14~29節)
キリストの救いとは、悪霊からの解放と言ってもいいと感じます。世俗社会の価値観に振り回され、何かに隷属的に従うことが要求される私たちの社会、いや人生。キリストとの出会いは、その悪霊による隷属から自分を取り戻すことなのかもしれません。長年、悪霊に付かれて苦しみ続けた少年。それを何とか癒して欲しいと懇願する父親。その苦しみから、イエス様はこの親子を解放するのです。23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。キリストへの信頼が、私達を悪霊から解放してくださる。29節で「祈りによらなければ」とイエス様の言われる祈りとは、正に信仰を意味しています。
私達の人生は労苦を持って糧を得るようにと、楽園を追われた罪ある人間に、神様は命じ、また慈悲を掛けられました。それ故に、全ての人がこの労働からは逃れられないのです。しかし問題は、この労働が、自主的なものであるか、強いられるものであるかでは、天地ほどに差があります。マタイ
5:41では「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(ミリオン/1.5km程度)とあります。この初めの1.5キロは強いられて行うが、次の3キロは自分の意志で進むという意味。つまり、最初は悪霊に強いられた歩みでも、キリストとの出会いがその苦難の道を自分のミッションに変えてくれるのです。つまり、私達の人生が、神様からのミッションであるかと確信させる信仰、そこから生まれる自主的な労働こそが重要なのです。強いる悪霊の苦しみから、自らのミッションに生きる人生へのと、キリストとの出会いは私達を確かに解放するのです。自分の人生を自分のミッションとして取り戻す。ここに信仰の極意があると思います。
「何でもはっきり見える」 No.749
(マルコによる福音書6章22~26節)
私達は自分で目が見えているようでも、実は見えていない者です。それ故に、イエス様の盲人の癒しの出来事は他人事ではなく、私達も同じように癒してもらわねばならないのです。この癒された盲人のイエス様への答えは「木のようのものが歩いているのが分かります、人間が見えます」と答えます。イエス様によって目を開かれた盲人には、初めは木のようなものが見えましたが、それが歩く人間であることが分かるようになりました。そして、イエス様に更に触れて頂き、ぼんやりしていた視界が「何でもはっきりと見えるようになった」と記されています。
この出来事が語る示唆は、キリストとの出会いによって、人間自身が見えるようなったと解釈しても良いと思います。世俗社会は、人間が見えない世界、命ある生き物がただの材木のように扱われ、役に立つか立たないかで価値が決められてしまう。しかし、キリストとの出会いは、ただの丸太だったものが、歩く人間として見えて来るのです。つまり、神との出会いで見えるようになるとは、本来の人間性の回復、命の価値と尊厳の回復なのです。あの人も自分も同様に命の価値を持つ人間であること知らされるのです。これこそが、神に目を開かれるということなのだと思います。
しかし私達は、それでも罪によって依然として見えないことが多々あることも告白しなくてはなりません。しかし心配はいりません。何故なら、その見えない私達の手を引いてくださるのもキリストだからです。それを私達は「神様の導き」と呼ぶのです。キリストを信じる心は、世俗社会に埋没した私達の人生を、明るく見える場所へと引き出すのです。そして、神の国へと神に導かれるのです。そのキリストの力とご配剤が、見えるようになることこそが開眼であり、信仰という道なのだと思います。
「主の慈しみ」 No.748
(ルツ記 1章6~15節)
(コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6~15節)
古畑和彦牧師
ナオミが、主の慈しみが二人の嫁に臨むように求めた祝福の祈りから、私たちは慈しみについて深く教えられます。
第一は、慈しみの土台は主なる神にあるということです。「慈しみとまことに満ちておられる」神が、私たちに慈しみを垂れてくださいます。このことが最も明らかにされているのがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストの十字架こそ、慈しみの動機であると共に、力の源泉、基盤であると教えられます。
第二は、慈しみの対象は、家族から始まり隣人へと拡がっていくということです。ルツ記が教える通り、慈しみは、まず家族の中から始まります。そして、それは、同じ信仰の仲間、隣人へと拡がっていきます。ルツ記を読み進めていきますと、慈しみがベツレヘムの町中に拡がっていくのを見ることができます。
第三は、人間の慈しみには報いがあるということです。「どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。」というナオミの祈りは、最終的には応えられました。主なる神は、慈しみに生きた人々を恵まれました。私たちも自分自身が主の慈しみに生きるとともに、隣人のために、主の慈しみを祈るものでありたいと思います。
「目の中の丸太」 No.747
(ルカによる福音書6章37~42節)
ある日、「あつしさん、その自己犠牲的なスタイルを変えたらどうですか?」と言われたことがあります。それまでそんなこと考えたことはありませんが、傍からはそう見えるのかとビクッとした思い出があります。この自己犠牲的な生き方があるとすれば、それはイエス様の働きに追従するものであるはず。しかしもしも、自分が自己犠牲的生き方をしていると思っているとしたら、その考えが既に「目の中の丸太」になっていると思いました。自分は出来ている、自分は正しいという姿勢は、自分自身を見えなくしてしまいます。そのような意味では、自分自身こそが目の中の丸太なのかもしれません。イエス様はその人の姿を盲人の道案内と例えられました。自分が行く方向が見えないのに、人の道案内をしている姿は、他者から見れば滑稽ですが、それが自分の見えない人間の罪の姿なのかもしれません。
では、その罪の姿をどうすれば乗り越えられるのでしょうか。それは、イエス様の言われるように、赦すことと与えることです。そうすれば、赦した以上に赦され、与えた以上に与えられるというのです。「揺すり入れられる」という表現は面白いです。入れ物が一杯になっているのに、更に揺すって多く入れて来るというのです。私たちがそのことを信じられれば、必ず出来るはずです。だからこそ、そう言われるイエス様の言葉ほ信じる心が大切だと聖書は語るのです。
「見失った神」 No.746
(ルカによる福音書15章 1~7節)
聖書の中の「見失った羊」の話は有名ですが、このテーマを見たとき、私は見失ったのは羊ではなく、神様なのではないかと思いました。私達の社会は神様を見失ってしまっているのです。ファリサイ派や律法学者達は、あるルールを順守することが神を崇めていると考えていました。その大きな勘違いに、イエス様は修正を加えるのです。
神様は、人間が奴隷のように隈なくルール守ることを求めるのではありません。寧ろ、一匹の迷い出た羊を探し求める羊飼いである神様に、人間が悔い改めて立ち返ること求めているのです。
「守る」のではなく「立ち返る」ことです。神様は、自分勝手な人間の罪を「すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:20b)方なのです。海の深みとは、二度と浮かび上がってはこられないという意味です。つまり二度と罪を責められないとの意味です。
しかしそれは無償ではありません。イエス・キリストの罪の身代わりとして代償あっての無償です。神様は、自分は正しいという99人よりも、自分は罪人ですと告白する1人を求められます。是非、イエス・キリストに出会って見失った神を再び見出して欲しいと思いします。
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「金持ちとラザロの話」 No.745
(ルカによる福音書16章19~31節)
私の卒業した日本聖書神学校では、礼拝堂を結婚式事業に貸しています。その売り文句は「本物」です。結婚式用に作られたチャペルではなく、キリスト教礼拝の行われている礼拝堂での結婚式との宣伝。偽物ではなく本物であることは誰も求めることでしょう。そしてこの本物キリスト教は、偽物ではない故に、愛と赦しだけでなく、天国と地獄を語るのです。
この金持ちとラザロの話しは、それを明確に語っています。全ての人は、お金持ちも貧しい人も等しく死を迎えます。そして天国か地獄に行くのです。何とも恐ろしい話です。しかし天国の入ることは、そんなに難しいことではありません。
悔い改めるチャンスは確実にあるのです。それは聖書の言葉に聞くことです。更には死に打ち勝ったキリストの前で、人生を悔い改めて十字架の赦しと復活を受け入れることです。
悪魔の最大の業は、神への恐れを人の心から取り除くことであると言われます。「地獄なんてない、裁きなんてない、悔い改めなんて必要ない、悪魔なんていない、自由に人生は楽しんだ勝ち???」。本当にそうでしょうか。少なくとは本日の聖書の箇所はそうは言っていません。神を信じ、恐れ、キリストを受け入れ、罪の赦しを頂いて、天国に入りなさいと語ります。難しいことではありません。
「ただ信ぜよ」。沢山の人に、本物の救いを得て欲しいと祈っています。
「主の顧み」 No.744
(エフェソの信徒への手紙Ⅰ1章15~23節)
古畑和彦牧師
ナオミは、モアブの野を去ってユダヤの国に帰ることにしました。ナオミにこのように決断させたのは、「主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを聞いた」ことにありました。これはナオミが異邦の地に約十年滞在したにもかかわらず、主なる神に対する信仰を持ち続けていた証しです。ナオミは、主なる神を堅く信じていたので、神の導きをも信じることができたのです。
ナオミは、立ち上がりました(6節口語訳)。悲しみ、苦しみの故に、座り込んで一歩も動けなかった状態から、「主の顧み」によって立ち上がったのです。私たちは、人生の試練に座り込んでしまうことがあります。しかし、座り込んでいては何も始まりません。神は来てくださり、恵みをもって、私たちの人生を導いてくださいます。信じて立ち上がりましょう。人生には、悲劇はつきものです。しかし、主なる神がご自身を信じる者を顧みられるのです。
もしも私たちの人生に、悩み、苦しみが襲ってきても、私たちを顧みられる主なる神をいつも仰ぎ、信じていきましょう。私たちもナオミのように、「主の顧み」に信仰をもって応えましょう。
「神のもとから来た教師」 No.743
(ヨハネによる福音書3章1~8節)
神のもとから来た教師イエスは、ユダヤの議員であり教師であるニコデモ訪問を受けて、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。
これは何を意味するのでしょうか。それは次のイエス様の言葉に答えがあります。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」。ユダヤの議員であっても、ファリサイ派の教師であっても、社会的な地位が何であろうとも、それでは神の国入ることは出来ない。神の国に入る唯一の方法は、水と霊によって生まれ変わらなければならない。つまり、悔い改めて洗礼を受けないさい、洗礼を受けて聖霊を受けなさい」という答えなのです。これはとてもシンプルであるようですが、ユダヤの教師であり、議員という高い地位にそれを難しくさせていました。教師であるからこそ、寧ろ高い地位にいるからこそ、理解しにくいのかもしれません。
神の国の住人として新たに生まれ変わるには、今までの自分を捨て去り、悔い改めて神の前にひれ伏すことしか道はないのです。洗礼を受けたものは、悔い改めて日々新たにされて行くこと。まだ洗礼を受けていない人は、今までの自分を捨てて悔い改めて水と霊とに生まれ変わることなのです。マルコによる福音書1章15節
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
「心騒がせるな、怯えるな」 No.742
(ヨハネによる福音書14章25~31節)
聖霊の働きとは、どんなものなのでしょうか。これは難しいようですが、また分かりやすい面もあります。例えば、私達がキリストへの信仰告白をしているという事は、私達の内に聖霊が宿っている、働いていると言えます。しかし逆に、洗礼を受けたとしてもキリストを自分の救い主と告白しない人には聖霊は働いていないのです。
また行いという意味では、私達は人生の様々なシーンで聖書の言葉を思い起こします。困った人がいる場所に出会うと、私達は自然とイエス様ならどうされたのかと思い出し、自分もせねばと迫られるのです。聖霊が宿る時「ことごくと思い起こさせる」とはそういう事なのです。
そしてまたもう一点は、キリストは「私たちに平和を与える」と記されます。ここも重要です。この平和とは単に世俗の戦争がない、混乱がないと言ったことではないのです。寧ろ、戦火の中で、混乱の中で、抑圧の中、失望の中でも取り去られない平和です。つまり、神が与えるシャロームとしての平和です。だからこそ「心騒がせるな、怯えるな」とイエス様は語られるのです。イエス様のくださる平和は、ご自身の受難と十字架という苦難によって生み出されたものであり、火で洗練された強靭な平和なのです。これを私達は信仰によって得ています。どうか聖霊なる神様が、私達の内に宿り、神の信仰と愛と平和を日々ことごとく思い起こさせて下さることを祈り願います。
「門を叩けさらば開かれん。」 No.741
(ルカによる福音書11章5~13節)
この13節に「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。このことごとくとは、何か神学的知識に溢れるとか、どんなことでも理解できるとか、あらゆる事情に関して理解できるとか言うことではありません。真理の霊が来るとき、キリストが私たちの主であり、救い主であることをことごとく悟るのです。
私の恩師のプロセス神学の郷先生は、「点を極めることが全体を極める」と言われました。何か沢山の広範囲のことを隈なく理解するというのではなく、一点に集中していくことで、結果的に全体を極めていくという理解。信じるとは、まさにこのことなのです。キリスト信じるという一点に集中することが、「ことごく悟る」ということに繋がるのです。真理の霊が降るとはそういうことなのだと思います。
弁護者と訳されるギリシャ語のパラクレートス。私たちに理解しやすい言葉でいえば、弁護士のようなものです。私たちに知識がなくても、言葉がたたなくても、この弁護士が前に立って代わりに弁明し戦ってくれるのです。だから心配することはないのです。私たちは、キリストを信じ、神と人と仕えるという日々の勤めを粛々と果たして行けばよいのです。
「人生の縮図」 No.740
(ルツ記1章1~5節)
ルツ記の序章(1:1~5)から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
第一は、私たちは、死の備えをしなければならないということです。飢饉から逃れてモアブの地に行ったエリメレク一家でしたが、死から逃れることはできませんでした。誰であっても、人は死からは逃げられません。ですから、凡ての人は、死の備えをしなければいけません。
第二は、私たちは、どんな人生であっても勝利する秘訣があるということです。私たちの人生にも、ナオミのように災難、不運、心配事は、波状攻撃のように、やってきます。しかし、イエス・キリストは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と語り掛けてくださいます。その主を信じて人生を歩んでいきましょう。
第三は、私たちは、この地上の旅人だということです。私たちの故郷は、天の御国です。私たちに厳しい現実の中でも、この故郷を思って歩んでいきましょう。「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:16)
「素晴らしき神の掟」 No.739
(ヨハネによる福音書15章1~10節)
イエス様は、自らをブドウの木に例えて、その木を管理するのが神様であり、その木の枝が私達クリスチャンであると言われました。「私はブドウの木、あなたは枝です」。この極めて単純な言葉は、信仰の在り方そのものを示しています。枝か幹から離れたら、枯れてしまいますし、実を結ぶことは出来ません。当然のことであり、それがイエス様と私たちの関係なのです。常にキリストに繋がっていること。また更にこのキリストの幹に繋がっており、そのキリストの言葉に留まるものは「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」記されるのです。しかしこれは、これから願えば何でも思い道理になるという話しではありません。それは15章3節に「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」という言葉から分かります。つまり、これからではなく既になのです。私たちは既にイエス様によって清められ、私たちの願いは神の御心に沿って既にかなえられているのです。その既にかなえられている恵を信仰の目で見出すことが大切です。キリストの幹に繋がる者は、嵐や雨風で大揺れになるかもしれません。しかし、しっかりと幹に繋がっている限り、私たちには栄養が送られて、いや恵が注がれ、沢山の願いが既にかなえられていることを知るのです。
先週、瀬底恵子さんの葬儀がありました。101歳にて天への凱旋。生前の恵子さんが「私は牧師婦人になりたかったの」と言われていた事が印象的です。その彼女の人生は、大変の苦労の中にありながら、しっかりとキリストの幹に繋がることでした。その証は今尚、多くの人を勇気づけています。信仰おいて大切なことは、素朴に、しっかりとキリストの幹に繋がることであり、それこそがキリスト者の証であり伝道なのだと思わされました。
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「その業に神の力あり」 No.738
(ヨハネによる福音書10章22~29節)
イエス様は、ユダヤ人の質問に「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」と言いました。カナの婚礼、サマリアの女、役人の子を癒す、ベトサダの奇跡、五千人の給食、ラザロの奇跡、盲人の癒しとありえないような奇跡の連続。それを見れば、私がメシアであることは明らかであると言われました。勿論、私達にはその奇跡を見ることは出来ませんが、少し視点を変えれば、現代でも神の存在は示されています。あのMicrosoftの創業者のビルゲインツ氏は「世界の神秘とその美しさというのは圧倒的に驚くべきもので、これらがどのように生じたのかを説明する科学的説明は存在しません。これが偶然にできたと言うのは、ちょっとひどい世界観というものです・・・神が存在すると信じるのは筋が通っていると思います。」と言いました。科学の頂点のような人物でも、神の存在を認めざるを得ないのが私たちの住む地球なのです。
神の信じられない御業は、日々私達の日常に迫っています。信じるとは、この神の力ある業を私たちが見出せるかにかかっているのです。負の心に捕らわれず、日々神への感謝を見つけていきたいと思います。
「見ずに信じる者は幸いなり」 No.737
(ヨハネによる福音書20章24~節)
イエス様の復活を信じられないトマスの姿は、私達自身の姿でもあります。様々な苦難に出会うと本当に、直ぐに疑いの心が出てきてしまいます。なんでこんなことが、本当に神様はおられるのか。これは、私も時として感じる正直な思いです。しかし、そのような疑い深い私達人間なのに、キリスト教会は何世紀にもわたり、休まず礼拝を続けていることは不思議です。現在、戦火に包まれるウクライナの東方教会人達も、あのような苦難の中でイースター礼拝を捧げ、キリストの復活を祝っていることがテレビで流れていました。
これはキリストの復活が可視化できないにも関わらず、私達の心から離れない理由があるからです。それは、イエス様があの受難の日々でも神を指示した姿に、私達も苦難に出会う時、確かにキリストに連なるのです。キリストの心に共感するのです。そのような意味では、受難なきキリスト教は、キリスト復活にも本質的に出会えないと言えるかもしれません。勿論、戦争や抑圧という現実を肯定する訳ではありませんが、今キリストの復活に一番近い国が苦難のウクライナなのかもしれません。
キリスト教会は、単なる仲良しサークルではありません。世俗社会の激しい砲火に晒されながらも、信仰を盾に戦う戦士です。そこには、殉教者も出るかもしれない、破教者も出るかもしれない、しかし最後まで耐え忍ぶものは幸いなり。
マタイ24章10節から「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
キリストの復活は単なる喜びのお祭り騒ぎではありません。キリストの死と復活に、私達も連なる時、そこに朽ちない確かな希望なのです。
達は |
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「キリストの復活と共に」 No.736
(マルコによる福音書16章1~8節)
私達は、どこで神を探しているのでしょうか。三人の女性が、イエス様の遺体に香油を塗りに出かけます。しかし、その墓の中にはイエス様はいないのです。
天使は、
ガリラヤのカナ でイエス様と会えると 告げます。つまり、三人の女性は、イエス様を墓場の中で、死体の中で探していたのです。勿論、生ける神の子キリストを死者の中に探しても見つからないのは当然です。
ガリラヤに行かなくては!。
さてでは次に、ガリラヤのカナとはどんな意味があるのでしょう。それはイエス様が婚礼の場所で、水を葡萄酒に変えると言う最初の奇跡を行った場所です。水が葡萄酒に変わると言うありえない出来事。これは、私たち
神様に会うには、 最初の奇跡に立ち返ることを告げています。 最初の奇跡に立ち返ること。
3月に娘と孫と一緒に、一日スキーに行った時のことです。 なんとゲレンデで車の鍵を落としてしまったのです。広いゲレンデに落とした鍵を見つけることは、絶望に近いものがありま
した 。しかし 涙ながら 全く期待 でき ませんが 、一応神様にお祈りしてからゲレンデを歩き始めました。しかしなんとありました 。ゲレンデのど真ん中に雪に埋もれずに
あ る鍵を発見。この出来事で私は大きな神様のサインを感じました。この二年間あさひ教会は、本当に 辛い 大変な中で来ました 。 失望につぐ失望の連続でした。しかしこのありえない奇跡は、神様が
失望を乗り越えて 次に大きな 希望を 起こすぞ というサインと感じました。もうダメだと失望の中にいるのに、神はその失望 もろとも 十字架につけて復活され
たのです 。その復活に 預かる 私 達も、 罪と失望に死んだようでも、神は必ず復活させてくださるのです 。私は 今まで受難なきキリスト教を目指して
いましたようなの です 。受難と失望をたっぷりと味わってこそ 、真の復活が見える。 ガリラヤのカナに戻り、 祈って生ける神と共に宣教の業に 進みたいと思います。
「最初からはわからないこと」 No.735
(ヨハネによる福音書12章12~19節)
イエス様のエルサレム入場の出来事。このヨハネによる福音書の箇所では、二つの感情が入り混じっています。一つは、ホサナと叫び、棕櫚の葉を手にもって熱狂しながら、子ロバに乗ったイエス様を迎える群衆です。そしてもう一つは、これから十字架にかからねばならないという受難の道を選んだイエス様の苦悩です。
これは、喜びと悲しみが同時的に入り混じる人間人生の表裏のようです。しかし弟子たちが、その意味を知り得なかったように、私たちもまたその意味を当初から知ることは出来ません。では何故、当初からその意味を理解で出来ないか。
それは私たちの立ち位置に問題があるのかもしれません。理解とするは英語で、アンダースタンドといいます。これは下に立つという意味です。つまり、上からの考察や、議論では理解不能ないのです。神様の前で、謙虚に下へ立つことなくて理解できない。しかしくず折れて膝を尽き、神の足元に下に立つ時、今までどれだけ考えても理解できなかったことが、恵みとして受け取れるのです。
私たちの喚起や喜び、幸せや平和の背後に、キリストの受難と十字架があることに気付く必要があります。子どもが不自由もなく育つ背後に親の苦労があるようにです。
「親の苦労子知らず」と言いますが、言い換えると「キリストの苦労を人間知らず」とも言えるかもしれません。しかし私たちは聖書を通して、神の下に立つ時に、全ては偶然に与えられたものではなく、神の子の苦悩によって用意されたものであることを知らされます。
キリストの下に立つ時、分からなかったものが分かるようになり、見えなかった恵や感謝が見えるようになる。それこそが、受難から発信される恵なのだと思います。
「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」
No.734
(ローマの信徒への手紙5章1~11節)
鈴木淳牧師
先日ある映画のシーンで「選んだ時点で負けている」という言葉があり一つのヒントを与えました。つまり、行いが先か、信仰が先かという議論をしている内は、私たちは遥かに真理から離れている。神と人との関係は「卵が先か鶏が先か」といった議論とはまったく別の次元の話しなのです。信じる世界では、あくまでも「キリストの先行」が第一前提であり、このキリストの先行があって初めて、神への応答があるのです。
私たちがキリストの先行を信じた時、ロマ書の語る「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」言えるのです。また更に「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とも語られるのです。
今年のあさひ教会の主題聖句は、ルカ7:50「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」です。このイエス様に救われた女性は、その感謝を高価な香油を注ぐという行為に信仰を現わしました。私はこの応答の姿を見て、私にとってのキリストに注ぐ「香油」とは一体なんであるのかという問いを得ました。
今の私にとってのキリストに注ぐ香油とは、このあさひ教会のある鶴ヶ峰に於いて、フレンドシップあさという事業を用いて、介護のことで困っている方々を支援することだと思いました。その神と共に人にお仕えすることこそが、私の出来る信仰の応答であり、キリストへの香油なのです。日々、様々な困難に直面しますが、必ずや苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを信じたいと思います。
「岩の上の人生 苦難でつながれる共同体」No.733
(コリントの信徒への手紙Ⅱ1章3~11節)
(マタイによる福音書7章24~29節)
荒瀬牧彦牧師
洗礼を受け、キリストとつながれた者には既に「岩」が与えられている。どんな時にも揺るがない土台が与えられているというのはなんという幸せだろう。でも、キリストの言葉を聞いても、ただ聞き流すだけで行うことがなければ、岩に背を向けて、安易に砂の上に家を建てるのと同じだ。大水になればその家は崩れる。今日洗礼を受ける人よ、みことばを聴いてそれを生きることを大切にしてください。そのために、いつも礼拝で神の言葉を受けることから一週間を始めるリズムを確立してほしい。
そして、もう一つ。その信仰の生活はそれぞれ個人的にバラバラにやっていくことではないと知ってほしい。それは信仰共同体の中で織りなされていくのだ。
教会は不思議だ。パウロはそれが「苦しみによってつながれている共同体」だと見てとった。我々は苦難に遭う。苦しみ、弱る。しかし、そこでこそキリストの苦しみにつなげられる。そこでこそキリストの力に触れる。復活の命を知る。パウロは苦しみを経てきたからこそ、憐れみを人に伝えることができたのだ。我々もまた苦しみの中でこそ憐れみを知る。だから、恐れることなく苦難を共にし、慰めを共に受けていこう。苦労して岩の上に家を築きながら。
洗礼を受け、キリストとつながれた者には既に「岩」が与えられている。どんな時にも揺るがない土台が与えられているというのはなんという幸せだろう。でも、キリストの言葉を聞いても、ただ聞き流すだけで行うことがなければ、岩に背を向けて、安易に砂の上に家を建てるのと同じだ。大水になればその家は崩れる。今日洗礼を受ける人よ、みことばを聴いてそれを生きることを大切にしてください。そのために、いつも礼拝で神の言葉を受けることから一週間を始めるリズムを確立してほしい。
そして、もう一つ。その信仰の生活はそれぞれ個人的にバラバラにやっていくことではないと知ってほしい。それは信仰共同体の中で織りなされていくのだ。
教会は不思議だ。パウロはそれが「苦しみによってつながれている共同体」だと見てとった。我々は苦難に遭う。苦しみ、弱る。しかし、そこでこそキリストの苦しみにつなげられる。そこでこそキリストの力に触れる。復活の命を知る。パウロは苦しみを経てきたからこそ、憐れみを人に伝えることができたのだ。我々もまた苦しみの中でこそ憐れみを知る。だから、恐れることなく苦難を共にし、慰めを共に受けていこう。苦労して岩の上に家を築きながら。
「私たちのためにも記される言葉」 No.732
(ローマの信徒への手紙4章13~25節)
鈴木淳牧師
カール・バルトはロマ書の解説で「律法は人間に約束を齎(もたら)すという主張は、すべての可視的な約束と諧和(かいわ=調和)しないという事実に逢着(ほうちゃく)して、必ず挫折する」と語りました。つまり、律法の行いが先行する時、人間の行いがルールと調和しないという事実に行き着くしかなく、結果的は挫折するしかないということ。
また更に信仰は「ただそれが非現果実的な光から出た光である場合にのみ創造的であり、死から生まれた生である場合にのみ生命を持ち、人間を神の無根拠性の中に根拠づける場合にのみ、信仰は積極性を有する。ただそのような理由のためにのみ信仰は《義と算定せられて》人間を約束の受領者とする。「律法」すなわち人間の目睹(もくと)しうる啓示印刻をあくまでも超越するこの神の認証を度外視する時は、たといどんなに深奥(しんおう)で熱烈で真剣な信仰でも、やはり不信仰である。」 これは、モーセの持ち帰った十戒の石板が象徴する行為義認を超越する神を認めない限り、どんなに熱心に見えても、それはやはり不信仰であるということ。
信仰とは、記されたルールを落ち度なく行う事ではなく、行為を超越した神の義認を信じる事なのです。それを無視して信仰を行いと同一視してしまう時、つまりキリストを無視して人の行いに依存する時、それは如何に熱心なようでも、やはり不信仰なのです。真の信仰は、天から垂直に降りてくるキリストの恵みにすがることだと改めて思いました。
「闇は闇を追い出せない」 No.731
(マルコによる福音書3章20~21節)
悪い霊にがんじがらめにされて苦しんできた人たちが、主イエスの許に救いを求めてきました。そういう人たちに関わるのはエネルギーのいることですし、危険なこともであります。でも主は逃げることなく、彼らを縛りから解放し、人間らしい生を取り戻されました。ところがそのイエス様について律法学者たちは「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と悪い評判を流したのです。
イエスと律法学者たちの違いはなんだろうか。律法学者にとって「悪霊につかれた」と呼ばれるような人たちは関心の枠に入っていなかったのです。「どうでもいい」存在だったのです。しかしイエスにとってはそうではありません。天の父が愛されている大切な一人ひとりです。悪や罪の力に支配された惨状のまま放置しておくことはできないのです。そしてイエスは、悪との戦いは甘くないという現実をよく知っています。悪で悪の力を追い出すことなどできないのです。公民権運動の厳しい戦いの中で、キング牧師は一貫して「闇は闇を追い出せない」と言い続けました。「光だけが闇を追い出せる」と。その思想の源にイエスが立っています。死の力を打ち負かし復活されたイエスは、私たちが「光の子」として生きるために、先頭に立って道を開いてくださっています。そこに私たちの希望があります。
「荒れ野の不思議」 No.730
(マルコによる福音書1章12~15節)
洗礼直後に荒野で40日のサタン攻撃を受けて過ごしたイエス―――この記事には不思議な点があります。まずは、「霊」がその仕掛け人であるということ。それも「投げこむ」と訳せる様な乱暴な仕方でイエスが荒れ野に追いやられたこと。なぜでしょう。それはイエスが、あらゆる点で我々と同じようになるためでした。試練を受けて苦しんだからこそ、試練を受けている者たちを助けることがおできになるのです。
40日の背景には旧約の出エジプトの「40年」があるでしょう。それは民の苦しみの長さを象徴します。試練には長さがあります。長さは辛さです。イエスはこの期間を通して、人の弱さと苦しみを身に負われます。でもそこで不思議なのは、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」ということ。人の魂を滅ぼすようなサタンの誘惑の中にありながら、そこには(イザヤ書11章が告げるような)終末的な平和が見え始めていました。天使たちの奉仕がそこにありました。荒野は厳しい場所ですが、しかし神なき空間ではなかったのです。
イエスは我々と同じ弱さを身に負うため荒れ野に投げ込まれました。そして今度は我々が、イエスの経験されたのと同じ不思議な神の守りを、試練のさなかで経験するようになります。荒野でしか見えぬもの、聴こえぬものがあるのです。
「弱さの力」 No.729
(マルコによる福音書4章35~41節)
泉教会合同礼拝 潮田健治牧師
昔から教会では、礼拝堂のことを、そこで座る席のことを「舟」と言ってきました。その舟は、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた舟です。「向こう岸へ!」何とチャレンジングな、挑戦的な言葉でしょうか。案の定、激しい突風が起こります。しかしこの嵐の危機の中で主イエスは「艫のほうで枕をして眠っておられた」のです。彼らにとっては、主は何もしてくれない、と動揺が生まれました。私たちにもキリスト者なのに、聖書を読んでいるのに、礼拝しているのに、なぜ主は何もしてくれないのか?という、嵐の日があるのです。
ここが大事です。主イエスはその舟で眠っている。つまり、この舟、弟子たちの舟は安全だ、ということです。そして、主イエスは嵐を鎮める言葉を持っていました。嵐で水浸しになっているこの舟に、主の言葉が響いているのです。教会は弱い時にこそ、その舟、その弱さの中に、神が見せてくださる言葉とわざがあるのです。そうであるなら、一回一回の礼拝の舟で、神のなさる御業を一緒に見ていこうではありませんか。嵐の日、人間の弱さの方を見るのではなく、神のなさる、みわざのほうをこそ見つめて行くのです。
「いったい、この方はどなたなのだろう。」 ― そう言って。
「義と認められる幸いな人」 No.728
(ローマの信徒への手紙4章1~12節)
鈴木淳牧師
パウロはアブラハムの信仰を引用し、キリストを信じる信仰は行為義認ではなく信仰義認だと語ります。この信仰論争は、よく言われる「卵が先か鶏が先か」という議論に似ています。行為が先か信仰が先か。しかしこの堂々巡りの例えと神信仰の理解を同じ土壌で考える事が最大の間違いなのです。信仰に於いて、神がいるから人間がいるとは言えても、人間がいるから神がいるとは絶対に言えません。つまり信仰に於いての思考の方向性は、一方向であり循環することはないのです。神の創造と神の愛、神の救済と義認が、絶対的に先行して、その後に被造物である人間が付いて行くのです。
カール・バルトは「人間はその実質にないものによって神の実質にあずかる。」と著書『ロマ書』の中で言いました。それは、アブラハムの子は神によって石からでも起こされるという神の力のもとに私たちがあることを伝えます。更に「答えはキリストであり、復活である。この英雄が受けた神の然りは、すべての人間の然りと秩序を異にする。それはただ一人の死に基づいてのみ、その然りたることを理解する」とも記しました。キリストの死と復活こそが、私たちの救いであり、その神の救済史の先行に於いてのみ、私たちの信仰義認があると言うことです。このことを心に留めて、歩みたいと思わされます。
「この種はすごい!」 No.727
(マルコによる福音書4章1~9節)
なぜ、我々には簡単に思える「種まきの譬え」が、イエス様からリアルタイムで聴いていた多くの人たちにはわからなかったか?それは、神のことばが「種」に譬えられているということが、神のことばをもっと大きく重厚なものというイメージを持っていた彼らの想像をはずれていたからでしょう。
イエス様は、神のことばのイメージを漬物石みたいな重いものから、とても小さくて軽いけれどその中に不思議な力が秘められた種のイメージへと置き換えてくれました。私たちだって、「神のことばといえば聖書、聖書といえば難しい、勉強しない者にはわからない、それは人を模範型にはめるもの」といった固定観念からなかなか自由になれません。イエス様がくださった、小さくて、でも創造的なエネルギーを秘め、想像をはるかに越えた豊かないのちを生み出す種。30倍、60倍、100倍に成長する種。それが私たちの人生のうちに、そこかしこに、道端や石地や茨覆う地にも惜しげもなく蒔かれているのです。その多くを無駄にしてしまう私たちですが、でも、良い種に落ちた種は驚くべき実りをもたらしてくれます。
「鈍き我らのために」 No.726
(マルコによる福音書4章10~12、21~34節)
イエスは、譬えの意味がよくわからず質問に来た人たちに言いました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」。
随分と意地悪な言い方に聞こえます。でもイエス様のいう「内」と「外」はこの世の引く境界線で区切られるものとは違います。この場面の直前で、イエスは家にいっぱいの人たちに神の国を語られていました。そこへイエスの母と兄弟が呼びに来ましたが、中へは入らずイエスを外へ呼び出そうとしたのです。その時イエスは、血縁関係の身内ではなく、神の国を求めているこの人たちこそ自分の家族なのだと言われました。中へと入っていけば誰でも「内の人」なのです。
イエス様の譬えが示そうとしている神の国(神の恵みの世界)は、中に飛び込まない限りはわかりません。譬えは「狭い戸口」です。あなたは「わからない」と帰る者ですか。それとも「イエス様、教えてください」と詰め寄る者ですか。
「深く憐れむ愛 触れる愛」 No.725
(マルコによる福音書1章40~45節)
イエスは社会の隅に追いやられていた重い皮膚病(規定の病)の男に、深く憐れむ愛、そして触れる愛を示されました。我々には「触れる愛」があるか?もちろん物理的に誰にでも触れよと言いたいのではありません。狂信的信仰で感染を拡大して医療崩壊を招き、病弱な人々を危険にさらすといったことが主の「望む」ことではないでしょう。でも、「感染対策をすることが命を守ること。我々はそれを潔癖に実行しているから正しい」と満足してそこで完結してよいのでしょうか。
孤立がもたらす深刻な問題に我々は直面しています。感染症から守られても、孤立してしまったら、人は誰だって追い込まれ、弱り、病みます。家族や友人が周りにいて日常的な交わりが保たれている者には気づきにくいのですが、社会的な孤立はいのちの危機に至ることさえある深刻な問題です。物理的な非接触が求められている現在の状況で、どうしたら人間と人間の関係として「触れる」にはどうしたらよいか。それに悩み、祈り、努力するのが、イエスの弟子の務めでしょう。
「この人から出ていけ!」 No.724
(マルコによる福音書1章21~28節)
荒瀬牧彦牧師
カファルナウムの会堂で、イエスは一人の人に居座っていた「汚れた霊」を追い出した。この出来事から、イエスにとって何が最も大切だったのかを見てとろう。人々はイエスの「権威ある新しい教え」に驚いたが、その「権威」は何のために力を振るったのか。それは、「この人」の救いのためだった。神の国の福音の宣教は、苦しんでいる一人ひとりの人間に向かっていく。神からの権威は、救い主の地位や名声を確立するためでなく、悪しき力に支配されて喘いでいる人間を解放するためにこそ「出て行け!」と力を振るう。この命令は、自分を奪われていた人にとっては、「聖なる霊をあなたに吹き込む。立ち帰れ!神の子として生きよ!」という喜ばしき救いの綱であり、自分を本当に幸せにしてくれる言葉であった。
「主イエスの優先順位」をもう一度考え直そう。コロナの中にあって誰もが「危機」を語るが、その中味は立場によって質が大きく異なる。我々教会は、何に、どこに、最も深刻で切迫したいのちの危機を見てとるか。イエスのまなざしは何に向かっているのか。会堂の中の一人に向かっていったイエスの背中から学ぼう。権威は何のために力を振るうのか。それが重要だ。
「人の誇りとは」 No.723
(ローマの信徒への手紙3章27~31節)
鈴木淳牧師
デイサービスの利用者さんの送迎を新人に教えていると右に曲がるのに左に曲がったり、その逆だったりと大変なことがあります。運転は上手いのに道が中々覚えられない。これは、ドライバーが自分のいる位置を把握出きていないからなのです。自分の頭の中に地図が入っていないので、自分がどこを走っているかわからないのです。これは私たちの人生にも似ています。自分が何処にいて何のために生きているか、それを理解できていないと、人生の舵をどちらに取ればよいのかわからず迷走ドライビングを続けてしまうのです。
この迷走ともいえる出来事は、人間の誇りや、ユダヤの律法という理解も同様です。本来は、誇りを持つとか、律法を守るとかは、正しいことで尊ばれるはずです。しかし、その誇りや律法が、地図の上でどこに位置し、何に向かっているのかがわからないと、無意味で間違ったものになってしまうのです。パウロ先生は、その解釈の誤りを指摘し、信仰によって「誇り」と「律法」を正しい位置へと引き戻します。その修正は、「大いに喜んで自分の弱さを誇る」という「信仰の誇り」に変え、律法の本質は信仰を目指していると再解釈し、「信仰による律法の確立」を宣言するのです。
人生は苦難の連続です。それを乗り越えるのではなく、乗り熟すことが私達には求められていると最近特に思います。例えれば、苦難の波乗りサーファーといったところでしょうか。その波乗りのコツは、信仰による誇り律法を胸に歩むことかと思わされます。
「イエスの洗礼 あなたの洗礼」 No.722
(マルコによる福音書1章 9~11節)
キリスト教の入信儀礼としての洗礼の源は、主イエスが弟子たちに洗礼を授けたことではなく、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことにあります。イエスは、悔い改めの洗礼を受けようとヨルダン川のほとりに立つ罪人たちの列に入り、洗礼を受けられました。その姿は、「ここから人生を始めるのだよ」と私たちに背中で教えているようです。だから、私たちの歩みも洗礼から始まります。
イエスが水の中から上がると、天が裂けて霊が鳩のようにくだり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえました。この洗礼の恵みは、主イエスによって、あなたにも与えられています。洗礼の水をくぐった時、あなたはキリスト共に十字架につけられて古い自分に死に、そして、キリストと共によみがえって新しい自分とされたからです。あなたの新しい身分、新しい正体(ID)は「神の愛する子、神が喜びとする者」となりました。そのような者として、神からの使命を与えられて、この世に派遣されているのです。
昨年末に天に召された南アフリカのデズモンド・ツツ大主教はその著書『ゴッド・ハズ・ア・ドリーム』の冒頭で、「神の子であるあなたへ」と呼び掛け、「神は何でもおできになる方だがあなたなしには何もなさらない、あなたがこの世界に光をともしていくことを求めている」と説いています。神の子としての使命に生きましょう。
「安心して行きなさい」 No.721
(ルカによる福音書7章36~50節)
「罪深い女」と呼ばれる あの女性の登場は、その場にいた人々をさぞ 困惑させた ことでしょう 。 それでも 彼女は 、自分の 涙で主 イエス
の足を濡らし、髪でそれをぬぐい、そして香油を注ぐという大胆な行為をためらいませんでした。主イエスへの 思いが溢れて止めることなどできなかったのです。家の主人
シモンは 、 内心でイエス のことを非難していました。しかしイエス は彼女 の行為を「愛」と受け止められました。 彼女の示した愛の大きさは、彼女の与えられた赦しの大きさを表していたのです。
イエスは彼女に告げました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この「 信仰 」とは、神を信じぬく 人間 の精神力ということではありません。キリストによって
自分 の罪が赦されているという恵みの事実を、受け入れることです。神に受け入れられている自分を受け入れることです。
イエスは「あなたの信仰」と言われました。 信仰は 神が与え てくださったものなのですが、それはもう「 あなた 」のもの だ、という のです。 だから、それに支えられて行きなさい。 不安ではなく安心 をもって出かけなさい 。私たちはこれを主題 聖句として 新しい 一 年を始めま す 。 Go in peace!
「王概念を覆す幼子」 No.720
(マタイによる福音書2章1~12節)
12月26日説教より 荒瀬牧彦牧師
東の博士たちは星に導かれて、「王」なる幼子を見出し、喜びに溢れました。その後、ヘロデ王にその場所を報告しに戻ってくるように言われていましたが、「ヘロデのところへ帰るな」というお告げを受けて、「別の道を通って」帰って行きました。ヘロデではなく神に従ったのです。彼らはキリストに出会い、「別の道」を歩み出しました。それは、彼らの「王」概念がすっかり変えられたからだ、と言うことができるでしょう。
主イエスは王の概念を全く覆すお方です。イエスという王は、僕として最も低い所に立つ王、仕えさせるためにではなく仕えるために来られた王です。私たちも主イエスに出会う時、王の概念を変えられて、「別の道」に歩み出します。その時私たちは、一方で「世の暴君」にひれ伏し、悪に加担することを拒める者となること、また他方で「我が内に住む暴君」を知り、内なる王の支配に抗する者となります。聖霊の導きに身を委ね、諸々の王の力から自由になって、いのちへと向かう「別の道」を歩いていきたい。 |
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