カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本町
  1-34-10
    内田ビル一階
 
   TEL 045-489-3720 

      
 
              礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。



御言葉と出来事へ


御言葉と出来事(2009年)


2010.7.3更新
神を信じなさい!全ては上手く行きます。」
(マタイによる福音書1章18〜25節) no89


 主イエスの誕生は、社会から歓迎された暖かなものではありませんでした。マリアの受胎の出来事からして、親族間をトラブルに巻き込むような事態でした。しかし神は、それを受け止めるようにとヨセフに語られます。それは不条理に満ちた、神不在のような世界でもなお、神の真実や誠実を信じて行きなさいというお告げでした。つまり、「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい」(20節B)、そうすれば、全てが良い方向に行くというメッセージです。そして、ヨセフはそれを受け止めます。
こ こで言う「全てが上手くいく」とは、何の災いや障害もなく人生が進むという意味ではありません。そうではなく、例えて言えば、あり得ないような困難が人生の目の前に迫って来ていても、必ず大丈夫なのだ!という究極的な安心感のようなものです。
その彼の決断の方向性は、「神が自分の民を罪から救う・・・」という世界に繋がる壮大な展開へと向かうのです。自分では予想していなかったことが、信じる世界には起こってくるのです。

 先週、地域のケアマネージャーさんから一人の利用者さんを紹介頂きました。様々な事情を抱えており、一般のデイサービスで受け入れが難しい方でした。「そちらで、受け入れられますか?」「勿論、大丈夫です!」「フレンドシップあさひなら、受けてくれると思いました!」。そのような電話での会話でした。難しい状況の方を受け入れるということは、サービス自体が大きく忙しくなることを意味しています。
 しかしその、神が送って下さった利用者さんを”恐れずに迎え入れる”ことが、私たちの予想もしないような、大きな神の宣教の業に繋がっているとすれば、困難な出来事も、ワクワクするような楽しいことにも成るのではないでしょうか。
 私たちの生活の、一つひとつの出会いをそのように受け止めて歩みたいと願います。


「毎日寒いけど、恵みと真理は確かにあります!」
  (ヨハネによる福音書1章1〜18節)no.88

 クリスマスのメッセージは、光の到来を告げます。しかし、その光を人々は理解できなかったと聖書は記します。
何故、理解できなかったのでしょうか。いやそれは、理解できないという以上に、人の病んだ心が理解したくないと思ったからなのかもしれません。闇夜に紛れて逃げうせようとする泥棒のように、懐中電灯の光を避けるように、罪を指摘されないように、人は逃げ回ってしまうのです。
 そしてその姿は、一部の犯罪人のそれではなく、全ての人に共通する心の影であり痛みと言ってもよいと思うのです。
 しかし聖書のメッセージが語る光とは、犯罪者を追い詰める光ではなく、失われたものを探し出そうとする、神から差し出された愛の手のようなものではないでしょうか?。
 そのことを本当に理解することが出来れば、逃げ回る人生から、安心した人生へと変わることが出来るのだと思うのです。

 先週、フレンドシップあさひの利用者の山口さんが天に召されました。二回のみの利用で突然の急変でした。彼の願いは、大病を超えて元気になったら「また教会へ通うこと」とお聞きしていました。定年後に奥様とカトリックの洗礼を受け、熱心に教会に通い、信仰をもって歩まれたいた晩年のご様子。
 社会においては、高い地位と、人々から信頼を寄せられる人格者の山口さんでしたが、最後に求めたものは、クリスマスのメッセージとしての光そのものでした。社会の全てを失っても、なお光の輝きを失わない価値のあるもの。それがこの「信仰」の内にあるのです。
 この殺伐とした競争社会の中でも、なお恵みと真理は確かにあるのです。それを本当は、皆、おぼろげに感じていると思うのです。ただ、それを知ることへの不安が、光から人々を遠ざけてしまっているのです。
 しかし確かに、この世界にキリストは確かに降誕され、まことの愛を告げたのです。イエスの内に、私たちは本当の神のメッセージを受け止めたいと願います。                         

「もう、大変なことになっています!」
 (使徒言行録23章12〜22節)
no.87

 ある餃子専門店の成功の秘密という話しを聞きました。色々問題点のある店には、あれやこれや直そうとせず、一点だけ直すように指示するとのことです。人生もそんなものかもしれないと思わされました。それでは、私たちにとってのその一点とは何なのでしょうか?。
 この使徒言行録の記事では、パウロの宣教にいよいよ危機が迫っている感じがヒシヒシと伝わってきます。彼への投獄につぐ暗殺計画の進行です。私はこの記事に触れる時に、クリスマスの出来事に似ているような気がしました。この世の王と、預言される御子の降誕を恐れる権力者は、幼子イエスの殺害計画を立てるのです。イエス様は赤ん坊です。
 何をするも、まだ産声を上げただけです。それなのに彼へ迫る危機。それは、イエスに与えられた宣教使命の故です。そしてまた、パウロへの殺害計画も同様の理由からです。

 私たちの社会は、誠実に生き、使命を果たそうと進んだとしても、苦難が到来し、危機が迫るのです。しかしそれはまた、真実に生きようとする人に与えられる正当な”受難”とも言えるのではないでしようか。それを甘んじて受ける。それは逃げ出したいことだし、歓迎される事柄ではありません。
 しかし、それを受け止める時、私たちはほんの少しですが、御子の降誕と意味を知ることが許されるのではないでしょうか?。
 そのような意味では、一点だけ直すことが私たちにあるとすれば、人生の様々な歓迎したくない出来事も、受け止めていく、“心を” “信仰を” 持つことなのかもしれません。
 またそのことは、心の痛みの享受ということだけではなく、イエス・キリストの降誕との出会いを通して、闇夜に何かキラキラと輝くように、私たちの心を温めてくれる出来事になるのではないでしょうか。このアドベントをそのような心持で過ごしたいと願います。 


「不思議な神の計画に巻き込まれる私たち!」no.86
(使徒言行録22章22-29節)


 先日、デイサービスの地域連絡会の時に、ケアマネージャーさんが「鈴木さん、見ましたよ!」と声をかけて来られました。何を見たのかと多少”ドキ”っとしましたが、日本キリスト教団出版局の「こころの友」に掲載された、私の記事を何処かの教会の掲示板で見かけたというのです。
 そのことは、神様が私の知らないところで、デイサービス事業を通して、キリストの宣教を勝手に?を進めて下さっていることを知る出来事でした。

 私たちひとり一人に、神は、不思議なご計画を持たれているのだと思います。しかしまた、パウロに対する神の計画は、私たちに与えられたものとは、遥かに困難で大変なものであったことを聖書を通して私たちは知らされます。
 パウロはローマ兵による取り調べ中に、自分がローマ市民権を持っていることを告げます。それは大きく事態を変化させることになりました。
 しかし、彼はその権利を自分の自慢や、延命のために話したのではないのです。彼にとっては、その権利はキリストの宣教を前進させるためのツールでしかありませんでした。
 ローマ兵は、ローマ市民を正式な手続きを踏まずに、鞭打ったことに恐れを抱きます。その恐れは、自分たちを支配する権力に対してです。
 しかし、パウロが恐れていたのは、彼らの権力ではありませんでした。 寧ろ、もっともっと上の力に、神の権威を恐れていたのです。いや、恐れていたというよりも信頼していたのです。自分を不思議に引き回し、神の宣教の業に付かしめる力。それこそが、私たちも恐れ信頼すべき力なのでしょう。

 「こころの友」に掲載してくださった文に「神様にやらされちゃっている」という意味の言葉があります。編集者が私の言葉を拾い出して、記載してくれました。

私は、その自分の言葉を文章で読む中で、「本当にそうだな!」と思わされました。
神に、やらされちゃっている私たち。私たちの恐れるのは、介護保険指導班や県庁の役人さんではないのです。不思議な神の計画に、私たちの人生を巻き込まれる神ご自身を恐れること。 つまり、信頼し、希望を持ち、今日を明日を価値ある人生として歩むことなのでしょう。


「私にも、回心のときが迫っています!」no85
(使徒言行録22章17-21節)


 パウロは、この箇所で熱心に、自分の回心の出来事を話します。それは、キリスト教を迫害していた時代の自分からは、決して想像できなかった自分が今ある故でしょう。人生において、パウロのような大転換は滅多にないかもしれませんが、私たち一人一人にも大小の転換があると思います。

 多くの人が、自分の人生を何とかしたいと、真剣なのだと思います。しかし、なかなかその方向が定まらないのです。

 心を変えるという意味の漢字は「改心」と「回心」と二つの書き方があります。私も気付いていなかったのですが、考え方を改める場合に「改心」という言葉が使われ、信仰の対象を変更する場合に「回心」という漢字が当てられるようです。
 どちらも似た意味ではありますが、回心という言葉には、ギリシャ語の罪にあたる「ハマルティア」という言葉が当てはまるように思えます。この語彙は「まとはずれ」です。
 つまり、一生懸命やりたいのだが、方向が間違っている、方向を回して正しい方向に、人生を向けるといった意味にとらえてよいと思うのです。

 少し前に、NHKにて「雲上のアドベンチャー」というドキュメント番組がやっていました。世界的登山家の田部井純子さんと、アナウンサーの内田さんが、立山から穂高への大縦走をするといった話しです。
 この中で、登山に素人の内田さんは、当初は「何で、こんなことを始めてしまったのか」と嘆くシーンがありました。しかし何日も、雨に打たれながら山のアップダウンを繰り返す中で、「私も、だんだん縦走の魅力がわかってきました。」と言われます。
 パウロはピリピ書にて、達し得たところに従って進むこと、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、と語ります。
未来は、おぼろげにしか見えません。
 それ故に、達し得た範囲で模索しつつ歩むのです。その手探りの前進の中で、私たちは生きる魅力に出会って行くのかもしれません。
 そして信じるという視点から見直す時、その人生を導かれている方が神であると受け止められるのではないでしようか?。今週も、さまざまな出会いがありますが、私たちも自分らしく出来ること向かって進みたいと願います。 


「神よ、どうしたらよいのでしょうか!」no84
 (使徒言行録22章6-16節)


 先日のドキメント番組で「人間だから精神がある。」という言葉がありました。モンブランの山脈を走り続ける過激なマラソン競争。参加者の一人は、動物ならこんなことはしない、疲れたらストップしてしまう、しかし私は人間だから・・・」といった番組の下りです。
 私は、本当にそうだと思わされました。そしてまた、その人の精神の上に、神はイエス・キリストの宣教を委ねられたのです。
神に召しだされたパウロは、常人では考えられないような苦難の中をくぐり抜けるようにして、宣教を前進させていきます。
 しかし、彼は、何でも自分の意思と精神で、走り抜けるといった訳ではないのです。彼の回心の経験は、10節に記されているように「どうしたらよいのですか?」という神への問いからの出発なのです。神に問い続けて行く、神とは誰であり、自分とは誰であり、何故生かされているのか、その意味と使命。パウロは、聖書にかじりつき、人々との出会いと祈りの中に、神の自分に対する神の召しを見出していくのです。

 私たちの世界で、よく囁かれる疑問があります。その問いとは、人生とは運命として全て決まっているのか?、いや自分自身の判断で全て切り抜けていくものなの?。この答えは、イエスでありノーであると思うのです。
 残念ながら、神は、そんな単純に社会を作ったのではないのです。神のご意思と、人の努力が、混じり合ったり、並行に並んだりを繰り返しながら、世界は進んで行くと言ってもいいのではないでしょうか。
 しかし唯一、神に任せる事柄があります。それが、救いであり、赦し、なのです。これは、人の努力でかち得ない恵みなのです。「恵」という漢字は、十字架の心と書きます。まさに、この十字架の心、イエス・キリストの愛によって、罪をぬぐいきれない私たちが、生かされ救われているのです。
 そのベースの上で、私たちは、「あれをしよう、これをしよう、」と判断するのです。そしてその判断は、必ず自分の人生を良い結果に導くという信頼のもとです。
 先週も、フレンドシップあさひでも、私たちの人生でも、様々な出来事がありました。それは時にはマイナスと思える出来事も沢山含まれます。しかし、必ずいいことがあります、必ずこのままでは終わりません。明日は、必ず朝日が昇るように、人生も導かれます。今週も、信頼して歩みたいと願いします。


「私を呼びよせて下さる神」no.83
マルコによる福音書10章13-16節
(ゲストスピーカー瀬底ノリ子先生)


 イエス様を中心に、ユダヤの律法はどのように生活に有効かという話し合いをしていた時のことです。
イエス様に祝福していただきたいと、子どもたちが集まってきました。弟子達は、「ダメダメ、イエス様は大人の大切な話をしているのだから」と言って、子どもたちを退けようとしました。しかしイエス様は、その弟子達を制して、子ども達を抱き上げ、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18.2)と言われました。
このことは、上から人を見下げる目線ではなく、小さな子どもの低い目線により、今までの常識から心を入れ替えることを意味しています。
心を入れ替えるとは、今まで入っていたものの上に何かを”足す”という意味では決してありません。入れ替えるとは、今まで入っていたもの全てを出して、空っぽになった中に、新しいものを入れるという意味なのです。それはまさに、イエス様の生き方に倣うことです。
心を低くして、自分を低くして生きて行く。そのイエス様のような心に”スッポリ”と入れかえる。そこに「幼子のように」という意味の神の国の実現があるのかもしれません。心を低くする者を、神様は、必ずみもとに呼び寄せて下さいます。
 


「聖霊の風が吹く時!」 
ヨハネによる福音書3章1-16節
no.82
 (ゲストスピーカー佐藤岩男牧師)

 ニコデモに、イエスが語られたのは、「生まれ変わる」ということです。つまり、人生の全ての方向転換をしなければいけないような話しでした。
聖霊は、自由に吹きます。私たちの思いを越えて、人生の方向が変えられるという事でしょう。イエスと出会うというのは、私たちの人生が変えられる出来事だと聖書は告げています。

 聖霊は、しかし、自由に吹くだけではありません。自由に吹く、その聖霊なる神が、教会を建てられたと聖書は、伝えています。風が強い時などに、この葉が吹きだまりを作ることがあります。そのように、聖霊なる神は、至るところで吹き、そこで共同体をつくられていくのです。
 私たちは、このような信仰共同体である教会がいったいどこから来て、これからどこへ行くのか、その全てを知ることはできません。しかし、聖霊は一時的なもので吹きぬけて終わるのではなく、今も、私たちを導き続けて下さるのです。

 あさひ伝道所が人の思いを越えて集められているように、聖霊なる神が、ケンタッキー州にも私たちの教会をつくっていて下さいます。ニコデモは、最初、この神の導きのうちに歩み始めるという事に躊躇いをもっていたようです。彼は、「どうしてそんな事がありましょうか。」と叫びました。しかし、主イエスは、「人の子はあげられる」という言葉を用いて、その復活の命に生かされる共同体をつくられると約束されました。

 聖霊の風が吹くとき、私たちは締め切った部屋の中にいるような、自分の思いに囚われているところから自由になって、神の見せようとしておられるところに遣わされていきましょう!                     


「お話ししたいことがあるのです!」  
使徒言行録21章37-2章5節 no81


 パウロは、神殿で逮捕され兵営に連れていかれる前に、民衆に弁明する機会を得ました。しかし彼の話したい事とは、釈放されたい故の弁明ではありませんでした。彼は、何故、熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒の迫害者であった自分自身が、今ここに立たされるほどに、人生が変わったのかということ伝えたかったのです。

 パウロという人物は、彼の手紙を読むと、怒りやすく、気の短い性格に感じられますが、実際はもの凄い忍耐強い人だったと思うのです。普通は、何回か話しても伝わらないという相手には、話したくなくなるものです。しかし、彼は迫害に耐え続けながらも、諦めることなく話し続けます。それは、本当に話したいこと、伝えたいことがあったからなのでしょう。彼は、そこに命をかけていたのだと思います。
 人というのは、多弁でも無口でも、確かに人に伝えたい自分のメッセージがあるのだと思います。人は、必ず言い残したいことがある、それを受け継ぐ人が必要とされている、という話しを以前に聞きました。

 では、私たちにとっての言い残すべき言葉、受け継いで欲しい内容とは何でしようか。 その言葉が、自分自身の事柄だけであったり、単なる遺産相続や、恨み辛みであったのなら、何と寂しいことでしょう。やはり、言い残すべき言葉は、価値あるものでありたいものです。
 キリストを信じる者は、他の方々より優れているという訳ではないかもしれません。しかし、この伝えたい内容に関しては、やはり他者とは比べることの出来ないものを神から与えられていると思うのです。それが、キリストにある希望であり、復活なのです。 
先日の中会墓所礼拝のメッセージで「ラザロは二度死んだが、二度目の死は最初の死とは違った」とのお話しがありました。ではどう違ったのか、それは復活を体験した者は、同じ死には怯えなかったであろうとのことです。

 確かにそうだと思わされました。私たちが、伝えたいことは、この価値なのだと思います。死しても希望を失わない、価値を失わないものを伝えて行くことなのです。この道を歩み続けたいと思わされます。  


「聖なる場所は心の中に!」
使徒言行録21章27-36節 no.80

                      
パウロの戦いは、既存の宗教的社会概念をイエスの理解のもとに、戻すことにあったと言えます。「聖なるもの」とは一体、何であるのか?。それは、何かの差別的な分離や、人の作り上げた精神的依存対処ではなく、それは、神は御自身が座す場所、聖霊が宿る場所、つまり、神を求め信じる者自身こそが聖なるものだということなのです。
1917年に出版されたルドルフ・オットーの著作『聖なるもの』は、聖なるものを驚きと、拒絶、魅了する対象と位置付けました。しかしそれは、決して特定の物や場所を意味するものではないはずです。イスラエル民族にとって、聖なるものでない汚れた存在である異邦人が、神の救済に入れられる出来事を目の当たりにしたペテロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」と使徒10章にて語りました。
つまり、分け隔てする分離が「聖」を意味するのではなく、隔てのない共同の世界こそが、イエスによって再提出された「聖なるもの」と言えるのではないかと思うのです。
デイサービスフレンドシップあさひに、沢山の利用者を神は送って下さっています。その中でも、本当に人生がくず折れそうになっている方々にお仕えするのが、教会としての福祉事業の使命だと思うのです。そして、その社会から切り離されそうになってしまうような、痛みを持つ方々を今一度、共同の輪に引き戻すことこそが、まことの「聖なるもの」なのではないでしょうか。今週も、利用者の方々との出会いから、聖なるもの意味を受け止めて歩みたいと願います。              


「わたしについて来なさい」
(マルコによる福音書1章16〜20節)no.79


 イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられると、漁師であるシモンとその兄弟アンデレに出会います。そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、彼らはすぐにそれに従っていく。次にヤコブとヨハネの兄弟も呼び出されて、彼らもイエス様についていく。

 ここでの一番の疑問は「なぜ彼らはこんなに簡単に従っていくことができたんだろうか」と言うことでした。彼らは何の説明もされず、ただ「ついて来なさい」と言われただけでした。同じ内容の記事か記されているルカによる福音書では、詳細にそのときの様子が記されています。(ルカ5:1-11参照)しかしこのマルコによる福音書にはそれがない。なぜなのでしょうか。
 それは、いろいろな説明ではない、ただ「私について来なさい」というこの言葉にこそ意味がある、このイエス・キリストの言葉には権威があるのだ、ということを伝えているのだと思うのです。「私について来なさい」という権威ある言葉にストレートに光が当てられていくのです。

 彼らは、イエス様に従っていく決心をします。彼らはそれぞれ「すぐに網を捨てて従い」、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行」きました。従うことと捨てること。それでは私たちにもそのような大切なものを捨てることが求められているのでしょうか。

 聖書を読み進めていきますと、彼らも実際に全てを捨てたわけではありませんでした。しかし逆に彼らは何も捨てなかったのかと言えばそうではないと思います。イエス様に呼び出された時、全てを捨てる思いで、イエス様に従ったのだと思います。より重要なのは彼らは「わからないで従った」ということです。もちろん、彼らはその後多くの失敗をし、十字架を前後にして彼らは散り散りに逃げ去っていきます。
 私たちの従うという気持ちはそのような非常にもろく、不安定なものです。しかし確かなことは、主の側から招いてくださっているということです。そのような私たちであることは承知の上で、それでも「わたしについて来なさい」と語りかけてくださる主が私たちの主なのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
 神の国とは、神の支配、神の世界です。主イエスは、私たちを神の世界に招かれているのです。私たちが神様の世界観を知ったとき、そこには驚くばかりの恵みがあります。見たこともない、想像することもできないような豊かな恵みがそこにあるのです。私たちはそこを目指して、そこへ入っていくために、主に従う歩みを進めていくのです。

 この4人の漁師たちは、イエス様に従うことがなければ多くの苦難に合うことも、大切な師であるイエス様を裏切ることもなかったでしょう。しかし、その上で彼らはそれ以上に大きなものを受け止めていったと思います。私たちは生涯をかけて、この恵みにあずかる者とされていきたいと思います。   
       ゲストスピーカー 渡辺祐介(教職志願者)



「妥協ではない真実のあり方」
 (使徒21章17〜26節)no.78


 パウロは、エルサレムに戻り宣教旅行の報告をします。そこで、彼自身がイエスとの出会いによって捨てたはずの、ユダヤの律法の枠組みに、また苦しめられることになります。しかし彼は、単純にそのことに反発抵抗を行うのではなく、ユダヤの清めの規定を受け入れ、ユダヤの同胞から反感を買わないように過ごそうします。
 「モーセの律法では義とされえなかったのに」(使徒13.38)と語るパウロにとって、これは妥協でしょうか。確かそうかもしれませんが、「 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」(コリントT/9.19)と語るように、彼には明確な目標あっての妥協的行動だったのです。
 つまり、それは単純に妥協とは言い切れない苦渋の決断です。27節以降で彼はいよいよ投獄されてしまいますが、その受難の覚悟の上での選択でした。

 ここで大切なことは、目先の振る舞い以上に、何を目指しているかということです。そして、その目標の上で、今何を成すべきかという理解です。

 先日まで、人気の芸能人が主演している「任侠ヘルパー」というドラマが放映されていました。この「任侠」という言葉、本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神をさす語でしたが、現代社会では、ヤクザの世界の心得のようになってしまいました。

 つまり、その言葉の本来の目的が、他のものにすり替えられてしまっているのです。これでは、今、何に努力し、何に我慢すべきかとうことが分かるはずかありません。そのような目的のズレの世界を、そのドラマは描き、興味深い内容となっていました。
真実を目指して、今を選択していくこと。それは、まさにパウロの好き方であり、イエス自身の生き方だったと思わされるのです。 

ヨハネ16.33に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とキリストが語った言葉を心にとめて、信仰によって与えられた目標とゴールを目指して、今日を明日を生きたいと願っています。   

            

「覚悟は出来てます!」 (使徒21章1〜16節)no77

 パウロは、並々ならぬ決心を持ってエルサレムへと向かいました。そのパウロのエルサレム行きを、その危険故に止めさせようと、あらゆる努力と助言が友人達からなされます。しかし、彼はその善意の言葉に対して、怒りを表して語るのです。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」と。
 それは逆から言えば、パウロが挫けそうな自分対して、鞭を打ち込む思いで語ったとも言えるでしょう。

 パウロの宣教の歩みが、今もなお、信仰者の目指す道として語られるのは、その覚悟を持った宣教の歩みによるものだと思います。彼の言葉が、講壇からのみ語られるもで、実際の歩みがないとすれば、同じ言葉も全く意味を持たないことになってしまいます。それは更に言えば、イエスの生涯が、復活の結果を予め知っていた上での、余裕の死であったとすれば、十字架の死も無価値になることと同じです。
 主イエスへの評価は、あの生きる姿勢、十字架への明確な受難なくして、救い主としての信頼や評価はなかったのでしょう。
 それと同じように、私たちの信仰の歩みも覚悟なくしてありえないと言えます。
 そのような私たちに聖書は語ります。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。 彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。 主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。 主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩編37.1-4)と。


「受けるよりは与える方が幸いである」
 (使徒20章13〜38節)no76


 パウロは、この箇所で信徒達に向かって説教を始めます。その中心は、35節の「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスの言葉ではないでしょうか?。その言葉をパウロは、口先ではなく身をもって示してきたと言い切るのです。これこそが、キリスト教の本質であり、私たちの目指すべき方向性なのでしょう。
 また、これと似た意味の聖書の箇所に、「黄金律」と呼ばれるマタイの福音書7章12節「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」という言葉があります。つまりここでは、「受けるより与える」という事は、一方的に差し出すことではなく、相手の必要を知ること。自分がその立場であったらどうしたいのかということを、隣人の中に尋ね求めることから始まることを意味しています。

 先週、私たちの教会の、福祉事業を中心とした宣教の働きを紹介したいとのことで、「信徒の友」の編集者の方が取材に来て下さいました。この伝道所をスタートしたことや、運営の困難さや、出会いなどを色々と、お話しすることが出来ました。

 その中で、答えに困ったことの一つに「開所からの経験で、何か大きく変えられる出来事はありましたか?」との質問です。私は、はたと、立ち止まる思いでした。いったいこの一年半に、何かあったか?。 結局、適当な出来事を紹介できず取材を終えてしまいました。私は、その後そのことを思い巡らしました。結果的には、開所から一年半あまり、様々な困難はありましたが、そこで咄嗟に答えることが出来なかった程に、確かに神に守られて来たのだと思わされました。

 その取材を通して、「受けるよりは与える方が」と、必死になって運営してきたデイサービスでしたが、実はそれらは神から与えられ、守られ続けていたことを、再確認させられることなりました。
本来、人様にお仕えするとは、まずは、天来の恵みを与えられていることを知らねば、差し出すなどおこがましいことかもしれません。今一度、自分自身を聖書を通して吟味し、謙虚に地域にお仕え出来る信仰を持ちたいと思わされました。


「騒ぐな!まだ生きている。」
 (使徒20章7〜12節)no75


 パウロは、相当話しの長い説教者だったのでしょう。この箇所では、その話しが長くて眠りこみ、窓から落ちて、あげくに死んでしまった若者のことが記載されています。周りは大騒ぎになったようですが、その若者にパウロは駆け寄り「騒ぐな、まだ生きている。」と叫びました。
 この出来事は不思議なことですが、単純にパウロの力を示す奇跡的な出来事として終わりにしてはいけないと思うのです。むしろこの箇所は私たちに向かって、「あなた方は生きている!どうするのか?」と告げているように思うのです。死んではいない、生きている。しかしでは、生きているとは何を意味するのか。
 先日、泉伝道所主催の「塩狩峠」の朗読劇を見に行きました。この三浦綾子さんの著書は、私がまだ教会に通ったこともない頃、友人から薦められた本でもあり、思い出の深いものです。この本のテーマは主人公の永野信夫さんが、様々な人との出会いの中で、生きている意味を問い続け、イエス・キリストと出会うといった話しです。
 そしてそのクライマックスは、電車事故を防ぐために自らの身を投げ出して、乗客を救うといった、痛ましくも感動の出来事を伝えます。
 私が、この小説で一番驚いたことは、本の後書きに記された、この出来事は、実際にあった事を小説化したということにあります。小説の世界でなく、命を投げ出して他人のために、そんな事をする人間が本当にいたという驚きと恐れです。あの本との出会いから、20年以上がたちましたが、この劇を見ることによって信仰の初心に強く帰らされる思いでした。
 私たちは、今も神に引き起こされ「死んでいるのではない、まだ生きている」と告げられるのです。その生きているものが、その命を何に、何処に捧げて行くのか?永野さん(本名=長野正雄)は、何のためにという人生の答えをキリストの中に見出し、命をかけてその生涯を生き抜きました。
 勿論、私たちには、到底、真似の出来ないことです。しかし、同じことは出来なくても、自分の出来ることを、出来る仕方で捧げていければと思うのです。今週も、信じる者でありたいと願います。 


「励ますこと」 (使徒言行録20章1〜6節)no74

 パウロは、その宣教旅行において信徒達を一生懸命励まして歩きました。そのことを聖書は「言葉を尽くして・・・」と表現しています。しかしその励ましは単純に大きな声で、常に「大丈夫だ!」と繰り返すといったものとは違ったはずです。
 つまり、励ます言葉の背景、励まされなければならない困窮に陥っている人たちの痛みを共感することでしょう。また、もう一方では、励ます側の人物がどのように生きているかということです。宣教の前線で困窮している信徒に、後方の安全な場所から、電話やメールをして励ましているとしたら励ましにはならないと思うのです。

 パウロはそのことを第二コリントの一章で「 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」と語ります。また、Tテサ3章では「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。」と語りました。苦しみや困難のない人生などありません。
 それは言い換えれば、それは人生に予め定められた不可避のハードルなのです。しかし、その苦しみこそが、他者の慰めとなり、救いとなり、励ましとなるというのです。パウロの度重なる試練こそは、私たちへの励ましのエールなのかもしれません。

 私を励ましてくれた人。励まされた出来事というのは数沢山あります。しかし、その中でも忘れられないのは、母教会の恩師の瀬底先生やのり子先生です。いつも宣教の前線に立って、たどたどしく着いて行く私たちに旗を振って「目標はこっちだぞ〜がんばれ!」といっていたことは忘れられません。

 そして、その更に恩師の先頭には、受難の人生を自ら選びとったイエス・キリストご自身がおられることを思い浮かべます。私たちは、なかなか人をうまく励ますような存在にはなれないものですが、私たちのリーダーの進む方向に足を向けて、その言葉に耳を傾け、なんとかついていければと願っています。 


「永遠の命にあずかる」
 (ヨハネによる福音書6章51-59節)no73

 日野原重明さんをご存知ですか?現在97歳、現役の医者として働いておられる方です。長寿でお元気というと、「その秘訣は何を食べておられるのか?」ということになるでしょう。
 日野原さんは、朝昼にジュースとクッキー、まとまった食事をとるのは夜だけで1日1300キロカロリーで食事に費やす時間は1日1時間だそうです。

 何をどのように食べるかということは大切なことです。今日のイエスとユダヤ人との会話の中で、イエスは「わたしは天から降ってきたパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」と51,58節で繰り返され、この箇所全体のテーマが示されます。
 「人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる」という申命記8:3のマナの意味していたことを思い起こさせます。
 イエスの「肉を食べ、血を飲む」、その衝撃的な言葉に、律法で血を食べないように教えられていた多くのユダヤ人は躓きました。わたしたちはこれらのイエスの言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。
(1)まずそれは後に教会で行われるようになる「聖餐式」を指しています。すなわち「最後の晩餐」です。
(2)そして、イエスを信じて聖霊を自分の中に受け入れるのです。聖餐にあずかりながら、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認し、異なる一つ一つの命がつながりあい大切にされる「神の国」が実現することを願います。

ゲストスピーカー (国立のぞみ教会長老 関伸子)


真実と冒?の関係性! 19/21-40 no72

 真実が語られているようで実は、嘘っぱちのことが多くあるのが世俗の世界だと思います。一見信仰熱心のような発言に聞こえても、その背後には自己顕示欲や金銭欲の裏返しのような心が支配している人間の世界。この聖書の箇所の、銀細工師デメトリオの姿や叫びつづける人々の中にその人間性がよく記されています。
 終戦を覚えるべきこの八月において、嘗ての日本がどれほどの嘘を国民につき、尊い命を死に追いやってきたのか。人の真実という衣を着た、神への暴言は枚挙にいとまがありません。

 ある人が「本気で聖書を読んでいたら、戦争は起きない。」と言っていたことを思い出します。つまり、本気で聖書を読まずに過ごしているのは私たちキリスト者であり、銀細工師デメトリオの姿とも言えると思うのです。
 私たちは、ご都合主義の”ふーポン信者”としての信仰ではないだろうか。平和な時代と場所に於いては、些細な見解の相違として済まされていくことも、有事の事態には人の命を奪うようなにことになってしまうのです。

 私たちは、32節の民衆のような状態から脱して、偽りの真実を捨てて、誰から責められても、変わることのない真実に向き合っていく。それは人の言葉でも、雄弁さでも、声の大きさでも、知力でもないはず。それは唯一、キリストの十字架から私たちに無償で差し出された、愛に裏づけされるものに違いないと思います。

 介護の本を書いている人が、介護施設のスタッフに質問する第一の言葉というのを聞きました。「あなたは自分が勤めるこの施設に、自分も入所したいですか?」との言葉です。つまり聖書で言えば「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイの福音書7章12節)というイエス様の言葉に通じる意味を持つ質問です。
 真実が真実であり続けるために、聖書の示す真理を利用するのではなく、その真実に敬意をもってひれ伏す思いが私たちには求められているように思えます。


「私たちの悪行を赦してください!」 
(使徒19章11-20節)no.71


 パウロはその宣教活動において、数々の奇跡を行ったことが記されています。そしてその出来事を通して、多くの人がパウロに何らかの力があることを知り癒しを求めます。
 また、パウロの奇跡を真似しようとする祈祷師も出てきたことが記されています。その事が聖書に記してある通りの奇跡であったのか、人物間の争いの様な出来事を聖書的な描写で記したのかははっきりとは分かりません。
 しかしその出来事を通して、多くの人が信仰に入り、神への悔い改めを行った事実は確かなのでしょう。魔術を行っていた人たちは、銀貨5万枚にもあたる高価な魔術の書物を焼き捨てたと記されます。そしてそれが罪の告白であり、救いへの応答だったのです。
 それでは私たち教会に集う者の悔い改めとは、どんなものなのでしょうか。多く差し出すものが、多く悔い改めているといえることは間違いないですが、それは単純に金銭の話しではなく、単純に教会の奉仕の量でもなく、単純にお祈りの長さでもない筈です。
悔い改めが何かのマニュアルやルールになってしまう時、私たちの信じるものは、信仰ではなく宗教になってしまうのだと思うのです。
 ここで大切な言葉は、自分らしい応答、自分らしい悔い改めの表現、自分らしい感謝の応答だと思うのです。パウロもコリントUの12章以下で、それぞれの賜物の違いの大切さを語っています。
先日、教会に訪ねて下さった方は、自宅の花壇を毎日綺麗に手入れする事により、通りかかる人の心を癒せたらと願っているとお話しくださいました。
 私は、それは素晴らしい奉仕であり、神への応答だと思いました。その花壇が、神への応答を表しているとは、通りかかりの人は気付いていないことでしょう。しかし、人に気付かれずとも続けられていく神への奉仕とは、何と素敵なことでしょう。

 私たちには、この応答をするチャンスが様々な生活のシーンであります。しかしそれは、更には無償で神に返されるものでありたいと願うのです。つまり、単純にノルマとしての仕事をしているとか、最低限のことを毎日しているとか、自分の為だけの勉学をしているといったことでは、それが神への応答と言えるかは怪しいところです。
本来の応答は、無償で差し出されるプラスアルファーの働きではないかと思うのです。無償の働き、本来やらなくてもよいのに差し出される労苦、その自由な選択による応答こそが神に喜ばれる働きなのです。赦しの願いは、必ずなんらかの感謝の応答をともないます。その応答を自分らしい在り方で捧げて過ごしたいと願います。  




「人を救う遺言とは」  (使徒19章1-10節)no.70

 ある著名な哲学者の一人が、死について「あのずどーんとする感じ」と答えていたのを聞きました。
 確かに人は、人生の危機に際してこの「ずどーん」とした感覚と出会うことになるのです。
 言い表すことの出来ないような、不安感とも違った、形容しがたい感覚です。私は信仰とは、このマイナスに人間を引きずり込むような感覚から、私たちを引き出すものでなくてはならないと思います。

 その道をイエスの前に指し示したのが、パプテスマのヨハネでした。ヨハネはパレスチナ地域のみならず、ユダヤ人が寄留する外国においても有名であったようです。
 彼は「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と民衆に悔い改めを迫る預言者でした。しかしそれと共に、悔い改めの洗礼の先に示される、イエス・キリストにある救いの信仰を人々に示して行きました。
 それが彼の生涯をかけての言葉だったのです。その言葉こそが、あの人をマイナスに引きずり込む力からの解放を告げるのだと思うのです。

 私は事業運営の忙しさや難しさの中で、自分がだいぶ頑なになったような気がします。営業では頭を下げられるのですが、別の面では間違いを認められない自分があるような気がします。何故そうなのか。

 忙しさや仕事の困難さなど「盗人にも三分の理」といいますから、言い訳はいくつでも見つかります。しかし何か釈然としない気分、それはまさに自分の中に、あのイエスの福音が引っかかっているからなのです。
 その福音は、私に向かっていつも「本当にそれでいいのか!」と迫ってくるような気がするのです。パプテスマのヨハネが、死に瀕しても伝え続けたものとは、まさにこの声によるのではないでしょうか。そして、彼の残した遺言は、その声を聞いたものが決して手放してはならない決心、つまり信仰を伝えたのです。

 生きるとは本当に難しいことです。最終的に、自分自身の人生を自分で決めることは出来ないのです。
 全てが神の御手の内にあります。その生涯を如何に生きるのか。それは、信じる心にこそ全てがかかっているのではないでしょうか。


「あなたの熱心は届いてますか?」
(使徒18章24-28節)np.69


 この聖書箇所において、アレクサンドリア出身のアポロという雄弁家は、エフェソで熱心にイエスを述べ伝えたと記されています。彼は、まだ、正確に福音の内容を把握しきってはいなかったのですが、語り続けたい信仰の示しを受けていたようです。
 28節ではその熱心さは、「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」とあります。私たちの感覚では、そのような伝道はかえって反感を買ってしまい、マイナスなのではとも感じます。
 しかし人の対話スタイルは、国民性によって大きく違いますので、日本の私たちに馴染まないからといって、その方法が間違っているとは言えないと思うのです。

 ここでの重要なことは、上手く話せていたかとか、空回りしていたかは問題ではなく、彼が何に動かされ、何を伝えようとしていたかが重要なのです。イエス・キリストに動かされ、神の愛を正確に伝えようとしていた。
 その伝道に対してパウロは、コリント人への手紙において「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と言うのです。

 自分自身の成してきたことが、無駄であったとしか思えない時、人生は絶望に満ちてしまいます。しかし空回りのようで、遅遅として進まない状況下であったとしても、それが無駄にならないと受け止められれば、喜びを持って現実に立ち向かえるはずです。

 先日のテレビで、老人介護の現場での「あんまりだ!」という声を取り上げる番組が放映されていました。
 経済的にも、精神的にも、物理的にも限界に達してしまった介護の現場からの叫び声。仕事を辞めて、ぎりぎりの経済状況の中で、生活の全てを介護に費やす家族。それは大変なことですが、愛する家族に捧げる全力の働き。施設に預ければいい、という選択を単純にしない思いやり。
 しかし介護者は疲れ果ててしまうのも現実。何のため、こんなことを、24時間、人生の意味は。そのように熱心な介護を捧げながらも、痛み病む介護者に、キリストの福音が届けばと思うのです。その熱心な日々には必ずキリストにあって意味があると。

 あなたの熱心は届いてますか。まったく届いていないように感じ、無意味に思える時でも、全く私たちの予想しない形で、その努力は天に届いているはずなのです。その懸け橋がイエス・キリスト自身だからなのです。



「誓願を立てること」(使徒18章18-23節)no.68

 パウロは第二回の宣教旅行を終えてから、誓願を立てる意味でケンクレアイで髪の毛を切ります。ユダヤ的な誓願と言えば、士師記のナジル人のように、逆に髪を切らないことが有名です。
 そのような意味では、この箇所のパウロの誓願は、ユダヤの慣習に乗っ取った髪を切らないという事とは反対なので、寧ろパウロ自身のある決心を示す目的であったと言えるかも知れません。
それでは、パウロは何を決心したのでしょうか。
 この後の23節によれば、彼は第三回目の宣教旅行に出発します。この第三回目の宣教旅行は、一回目や二回目とは大きく違います。当時世界の中心と言われたローマまで向う、帰りの切符のない最後の片道旅行なのです。
 つまりこの誓願は、ローマでキリストの為に、命を献げようとするパウロの覚悟とも言えないでしょか?

 しかし注目すべきことは、パウロの覚悟とは人間の努力によって達成されるマンパワーの、見本のようなものではないとうことです。
 パウロは、コリント第二の手紙で、「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。」と言います。また、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。」とも語ります。
 つまり彼は、全力で宣教に努力を献げながらも、神の力への信頼と自己放棄の謙虚な姿勢を示すのです。そしてこの姿勢こそが、神に誓願を立てる者の真の姿と言えるのでしょう。

 人は、何事も覚悟を決めるということが大切なのかもしれません。つまり覚悟が決まるの反対は「決まらない」です。覚悟が決まらないとは、常に後悔や不満、不安感や動揺といったことが交差します。結果として、今自分がいる地盤さえ正確に捉えられず、今、今日、明日を大切に生きるという事からは、ほど遠い人生になってしまうのではないでしょうか?決心をもって、今、置かれた場所を受け入れて行くこと。
 その覚悟の上で、前進して行くこと。つまり、信仰者にとっての誓願とは神の定めた現実を「受け入れることと、進むこと」を意味すると言えるのです。信じて今日を、明日を歩みたいと願います。




   「鶴ヶ峰の皆さんは、実は神の民なのです!」 
(使徒18章1-17節)no67

 パウロの宣教は、順調に信者を増やしていくという良好な部分と、嘗ての同胞のユダヤ人たちからの激しい抵抗が続き困難を強いられるという両面がありました。
この聖書箇所で訪れたコリントの町でも、同様の出来事が頻繁に起こっていました。
 彼としては、ユダヤ人の無理解、見えぬ宣教の行方、経済的疲弊と様々な苦難の上で、きっと撤退したいぐらいの気持ちがあったかも知れません。
 しかし彼が尚、その町に一年半も留まって宣教を続けたのは何故でしょうか。それは人間の努力や意思の強さ以上に、この町に私の民が大勢いると言われた神ご自身が、その宣教の主語である故に他ならないのです。先だって進まれる神です。

 その様な意味では、私たちの教会の建てられた鶴ヶ峰にも沢山の神の民がいるに違いありません。
お隣の花屋さん、クリーニング屋さん、家主さん、二階と三階に住む職人さん達も、きっとその皆さんは神が求め愛する神の民なのだと思うのです。
  鶴ヶ峰本町に教会があることが、何時、どの様な形で、何の意味を持つかは人の計画などでは計り知れないことではありますが、パウロが宣教地に留まり続けたように、私たちもこの置かれた場所で出来る限りの働きを捧げたいと願っています。



     「知られざる神に」 (使徒17章16-33節)no66

 世界的に有名な歌手のマイケルジャクソンさんが亡くなったとの報道がありました。数日前まで、元気な様子でリハーサルをしていた様子が何度もニュースで流れていました。
 様々なスキャンダルはあるものの歌手としての最高レベルの名声を受け、有り余る財産を得た彼。まだまだこれからと言う50歳。彼は何のために生き、何のために死んだのかと、きっと世界中の人が、多かれ少なかれ考えたのではないのでしょうか。
 彼の最後の公演の準備がされていた曲の中に、社会問題を扱っている歌詞があるのに驚きました。「キング牧師が生きていれば・・・」という下り。私の想像でしかありませんが、様々な放蕩を繰り返してしまったマイケルさんでしたが、人生最後のシーンに今一度人間に立ち返りたかったのではと感じたのです。

 人間はどんなに大きく多くのものを所有しても、最後に行くべき場所から逃れることは出来ません。その場所が近づけば近づく程、人は人に戻ろうとするのかもしれません。

 パウロの伝道は、ただ自分の主張を正しさ故に突き付ける様なものではありませんでした。聴衆の立場を考えながらも、何とかその人たちに受け入れてもらえるようにと、思案し続けながら語るのです。それはマタイ福音書に記録されているイエスの言葉を借りれば「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」ということでしょう。
 その様にしてパウロによって語られる「知られざる神」という切り口は、結果的に神とは人間から遠く離れた方ではないとして示されるのです。この方を感じ、この方を見出すこと、それが人が人に立ち返るということなのでしょう。

 私たちの人生の期間はあと何日残されているのでしょうか。それは多くても少なくても、今日という日の意味を失わないように神を感じて歩みたいと願います。




「考えることと、素直なこと」 (使徒17章10-15節)no.65

 先日受けた介護保険の研修会で、介護者の求人で唯一求められる条件は「腰が強いこと」というユーモアを交えた言葉がありました。昔の介護というのは、そのような世界だったというのです。さてそれでは、キリスト者に求められる条件とは何でしょうか。それは、この箇所の御言葉に記される「素直である」という事と、聖書を一生懸命調べたという二つの姿勢です。

  神の言葉を自分へのメッセージとして素直に受け止めることは、無批判に何でも鵜呑みにするといった意味ではありません。事柄の鵜呑み的姿勢は、社会を変革する力を持たず、他の面では人間は容易に新興宗教(偶像礼拝)に勧誘され人生を失うことに陥らせてしまうことにもなるのです。
  信じるものに求められる大切なことは、一つではなく二つなのです。それは、素直に神の言葉に応答する事と、熱心にその真理を研究し学ぶことなのです。

  考えていくという面では、例えば昨今話題の「脳死判定」の話題があります。これは移植を待つ本人や家族の思いだけが高らかに掲げられて成立されてはならないのです。受け取る側だけではなく、失う側、つまり臓器を提供する側の心はどうであるかが同じウェイトを持って取り上げられねばなりません。
  臓器移植の事柄を単純に需要と供給的な合理主義で解決しようとすると、それは直ぐさまビジネスになってしまうのです。つまり、臓器を取り出すための許可としての印が「脳死イコール死」となるのです。臓器を求める側は、その人が生きているか死んでいるかは関係ないのです。
 欲しい臓器を取り出すにはどうすればいいのか?死んでないのに死というハンコが必要となるのです。

  また素直に受け止めるという面では、何でも繰り返して重箱の隅に一粒のごはんを発見して、その料理の全てが駄目だと烙印を押してしまうような批判のため批判劇のような世界。そこでは、どんな真実も人を活かすことは出来ないのです。
  そうではなくて、2000年の時を超えて人々を生かし続けてきた信仰の対象である聖書の中に、自分自身も巻き込まれるように入っていくこと。イエスと向き合う弟子と自分自身が交代してその場面を感じること。そう、もしかするとそのように真剣に考えることこそが、人を素直に神に向かわせることなのかもしれません。(




「謙虚な別の王様」   (使徒17章1-9節)no.64

  パウロ達の宣教は、力強く前進すると共に危険に満ちたものでした。この17章においても投獄の危険に晒されます。パウロの説教により入信する者もいれば、逆に彼らへの嫉みの故に暴動を起こす者まで出てしまいます。パウロ達をかくまったヤソンという人物は、更に危機的な立場に立たされてしまいます。しかしキリストにある彼らは諦めませんでした。それは彼らが仕えるのはローマ皇帝ではなく、別の王イエスキリストだったからです。この王は世俗の王とは全く違いました。

  この王は、権力を振り回したり、力を誇示したり支配したりはしないのです。寧ろまったく逆に、民衆に仕え、共に生き、罪ある人々に身を投げ打って救いをもたらす方なのです。この王は、真に謙虚な王様。この姿こそが、神御自身なのです。
  先日ある政治家のリーダーが「小異を捨てて、大同につく」という言葉を引用していました。私は、このあり方がイエスの生き方を指し示していると思わされました。つまり神である方は、罪ある不従順な人間に言いたいことはいっぱいあった事と思います。

  しかしその事を捨てて、あえて人類救済の道を切り開きます。信じる者が、それ故に救われるという道をです。だから私たちは、罪あるままで救われ得るのでしょう。ここに神の大同があると言えるかもしれません。その大同を実現できたのは、人に仕える謙虚な王様の姿ゆえだと思わされます。


「天国の市民権」   (使徒16章35-40節)no.63

  使徒たちが行った宣教活動は何処でも歓迎されるものではなかったのです。その働きは、神の偉大な力を携えながらも、世俗が支配する権力のもとに置かれていました。世俗の権威は、真実に生きようとする彼らを追い詰めようとします。しかしまた反面、世俗の力は、彼らが持つ力を恐れていたのでしょう。それは、パウロが持っていたローマの市民権についてではありません。
  それは所詮は世俗の力であり、その市民権が結果的にはパウロをローマで投獄させることにもなるのですから。寧ろ迫害者たちが恐れていたのは、鞭を打っても、投獄をしても、船が難破してもパウロ達から取り去ることのできない天国の市民権なのです。それは、如何なる迫害によっても取り去ることの出来ない力だったからです。その普遍の力こそが、教会の発信するメッセージなのです。
  先日、あさひ伝道所のディスプレイの前に小学生の子が立ってお祈りをしているのを見かけました。ディスプレイには、来週の説教題と教会のミニチュアに生花が飾られています。何をお祈りしていたのか分かりませんが、教会の発信するものに向かって自分の願いを祈っていたのでしょう。

  その教会が発信するもとのは、難しい教理や整ったお祈りの方法を知らなくても感じ取れるものなのだと思うのです。そしてまた、何に向かって祈っているか分からない人の心に、確かな唯一の方を伝えるのが教会の使命なのでしょう。

  今週も、沢山の人が教会の前を通ることでしょう。その方々の人生に向かって、何を発信して何を伝えるのか。教会が地域の方々への確かな天国へのメッセージを伝える場所であることを願います。



「絶対に救われます」   (使徒16章16-34節)no.62

  聖霊とはいったい何でしょうか。神学用語で説明するのは容易なことです。しかし実体として、それが私たちの生活にどの様に関係しているかというと容易に説明の付く事柄ではないと思うのです。しかし確かに信仰を持つ一人ひとりの内側には、この聖霊が宿っているのです。そして、それは宿る前と後では何らかの変化があるはずなのです。何も無いとしたら信仰も無意味でしょう。

  この有るべき変化とは、二つの方向性があるのです。一つは基本的な救いということです。それは誰もが、信仰によって無償でキリストから受け取る命そのものなのです。それを取り去ることは誰にも出来ません。

  しかしもう一方は、その賜った信仰の働き「機能」の面です。これは様々です。祈りに専念するもの、学術に専念するもの、説教や伝道に仕えるもの、また熱心に家族に仕え、清掃や整理に専念するものとそこには一切の優劣はありません。

しかし確かに、信仰から発信される働きとして、それは現れるのです。
信仰イコール人生の激変を伴わねばならないとしたら、誰でも救われるというのは嘘になってしまうのでしょう。しかし、聖霊を頂いた私たちの変化は、それほど大それたものではないのですが、確かな救済と確かな人生の変化があるのです。

私ごとで言えば、自分自身の決断としてあさひ伝道所とフレンドシップあさひの働きの二つを同時に運営していくことに随分迷いがありました。片方でも大変なのに、そこまでやる必要があるのかという自分への問いです。つまり自分の立てたビジョンに、自分から逃げ出したい気持ちがあるのです。

  しかし、それでも事柄は進み今があるのです。そして、これこそが私の内側に賜っている聖霊の働きなのでしょう。人の思いを超えて、人を神の働きにつかわしめる力。
 人間的には挫折しかかっていても、それを引き起こしてしまう力。 私達の内側の神の霊は、これから私たちを何処に連れて行こうというのでしょうか。

  きっと、もっと沢山の人が救われる器としての「ニコニコハウス」まで押し出さそうとしているように思えるのです。「勘弁してほしい」と思いつつも、聖霊の助けを受けて自分らしい神への応答をしていきたいと願っています。



 「悟る時がきます!」   (使徒14章11-15節)no.61

  パウロは第二回伝道旅行に於いて、マケドニアのフィリピに立ち寄ります。そこで、出会ったリディアという婦人は、パウロの話に熱心に耳を傾け家族と一緒に信仰を受け入れることになります。その出来事を聖書は「主が彼女の心を開かれ・・・」と記述しています。それはまさに悟るのにも神の時があるということを示しています。

  熱心に信仰に関心をもって勉強しても、この時に出会わないと人は本質的には信仰に入れないのかもしれません。いやまたもしかすると人は、その時が来ているのに通り過ぎようとしてしまっているのかもしれません。

  の時は、誰にでも必ず来ます。またそれが神の時である故に、人間側のミスによる無理解で時を逃して取り返しがつかなくなるということはないのです。それは神の決められた時だからです。
しかしその時が来るまで私たちは、何らかの心構えが必要かもしれません。
  リディアという女性は、その仕事内容からして経済的にはある程度裕福だったのかもしれません。しかし彼女は、その財を死後まで持ち越せないことを感じていたのでしょう。だから、世俗の幸福に浸ることに逃避するのではなく、神に祈ったのかもしれません。そして時がきたのです。

  デイサービスの利用者の中にはとても裕福な方もいますが、年を取り今やその財を持ち越せないことを実感する時に来ているように思えるのです。
  年を重ねるとは、死後も持っていけないものに、いよいよ決別し永遠の彼方まで価値あるものへと心の置き場所を移していかなくてはならない準備の時なのかもしれません。
  そして、その悟りの時は、私たちも含め誰にでも必ず訪れるのです。その時に慌てないように、今を価値ある日々として歩みたいと願わされます。



「居心地のよい場所」   (使徒16章6-10節)no.60

  パウロは第二回目の伝道旅行で、二度も大きな計画変更を余儀なくされます。それがどのような理由であったかは記されませんが、そのことを彼は、イエスの霊によって、また聖霊によって禁じられたと記します。そしてその結果、マケドニアに渡る導きを受け、それが神から与えられた使命だと受け止めました。
  人間にとって居心地のよい場所があるとすれば、それはある面では、大変でなく、危険でなく、残念でもない場所ではなく、神の決められた場所こそが居心地のよい場所、進むべき方向と言えるのではないでしょうか。
  現在のあさひ伝道所の場所は設立予定の場所から二駅も離れた地域となりました。当初の物件交渉の決裂は本当にがっかりしました。しかし、そこは確かに神の決められた場所ではなかったのです。ここが伝道所運営の場所でした。
  そう考えると、今の立地条件の良さが色々と見えてくるのです。スーパーあり、百円ショップあり、公園あり、川沿いの散歩道あり。

  「いきものがかり」という歌のグループが作った「エール」という曲の特集番組がありました。その中で作者は、学校を卒業して新しい選択の岐路に立たされた生徒たちに一つの道を選択するとは、ひとつの道を捨てることであるということ、そしてそれはサヨナラという悲しい意味ではなく それぞれの夢へ向かうことであるといった意味のことを語っていました。

  聖書の言葉を借りれば、二心であっては進めないのです。大切なものを捨てたかのようではあるが、実はそれが新しい夢にスタートしたことを意味するのでしょう。それがいかに困難でも、そここそが信じる者にとっての神の与えし居心地のよい場所なのでしょう。



「人数も増えてきました」   (使徒16章1-50節)no.59

初代教会は、その宣教の熱意が実り大きく成長していきました。しかしその過程で様々な問題も起こってきます。その中でパウロの動向は注目すべき点が多くあるのです。
パウロは前の節では、ユダヤ人の慣習を捨てようとしない兄弟と決別も辞さない激しい論争をします。しかしまたこの節においては、同行者のテモテにユダヤの割礼の儀式を行って宣教の旅につかせるのです。何か大きく矛盾しているかのように感じます。しかしパウロの判断には統一した方向性があります。
それは、宣教の前進のために何が役立つかという信仰の秤です。他者は慣習によって拘束しないが、自由な選択と決断をもって宣教の前進を進めるのが彼のやり方なのです。

宣教の前進にもっとも重要なのは関係性です。この他者との関係をどのように築いていくかが重要です。そして更に言えば、単純に人間関係の良好さということではなく、その関係性を、自身、相手、神といった三者会談の中で進めていくということなのです。キリスト教会の発展は、単なる人間の知恵や能力に依存したものではないのです。
放送大学で、高齢期のQOLとスピリチュアリティと題しての講演が放映されていました。その中で興味深かったことは、高齢期はこれまでの人生を振り返り、「これからどう生きるのか」、また「どのように人生を統合していくか」という課題に向かい合う時期である、ということです。そしてその向かい合い方は「老年期的超越」をへて人間同士の関係から、人間を超えるものとの関係性へと進まねばならないと語っていました。

そのような意味では、そのことは高齢期だけの事柄ではなく、誰の人生であったとしても、自分を超えた存在である神との関係性と対話によってこそ、本質的な生きる価値が見い出されることになると言えるのではないでしょうか。その理解のもとでは、単純な大きさへの評価ではなく、本当の人生の質が、教会の質が求められるのではないでしょうか。見えるものを超えて、見えないものへの価値を心に留めて歩みたいと願います。



「真剣なんです!」   (使徒15章36-40節)no.58

パウロとバルナバは二回目の宣教旅行に出かけるにあたって、激しく意見が衝突してしまいます。そこには単なる人選の問題だけではなく、古いユダヤ教の習慣と新しいキリスト教の生き方の違いからくる様々な事柄が背景としてありました。とは言っても、寛容と慈愛をモットーとする使徒達が激しく言い争っている姿は何か違うのではないかと思うかもしれません。

しかし言えることは、彼らは真剣だったのです。なんとかイエスを伝えたいという熱意が、激しい口論が起きた理由の中心なのでしょう。信仰していれば何でもよいという話ではないのです。宣教の現場に進む時、明確な方向性を持った宣教理解を共有することが重要だったのです。

 なぜなら、宣教の現場は過ごしやすい空調の利いた研究室や図書館ではないのです。あらゆる危険と困難を、にじり寄るように乗り越えていかねばならない敵地のような場所なのです。そこでは、一から理念についての議論をしている余裕はありません。基本的信仰理解と宣教の方向性の一致があってこそ、困難な場所でも宣教が前進できるのです。

 その一致に向けて、時には大きな声で叫ぶような真剣な議論も必要となるのです。単なるプライドや傲慢の交錯した議論ではなく、誠実と誠実の正面からの戦いのような議論。そこから生み出されるものこそが、生きた宣教となることでしょう。
 実際、不誠実と誠実は議論になりません。私のある恩師は「話せば話すほど距離が離れて行く」と言ったことがあります。誠実には誠実で語らねば無意味なのです。間違いや失敗は山のようにあります。
しかし、相手の隙を見て後ろ手に持った剣で傷付けようとする姿勢では、距離は永遠に離れて行きます。本来信仰者の在り方は、距離の詰まっていくような真剣な議論でなくてはなりません。パウロの生涯かけて戦った生き方は、この誠実な真剣さなのです。 私たちの裏側には、様々な人間的事柄があり誠実さを欠いてしまうこともしばしばです。
しかしそれを超えて行かねば信仰の前進はないのではないかと思わされます。今一度、私たちも出来る限りの努力をもって使徒たちの真剣さにつらなりたいと願います。



 「大切な手紙」     (使徒15章22-35節)no.57

バルナバとパウロに、アンティオケアの新しい教会への手紙が託されました。その内容を要約すると、「一人のまことの神以外を信仰してはならない。あとは一切重荷となる宗教的規範を負わせないから、健康で過ごしてください」と言ったものです。
そしてその決定は、人間が議論することによって編み出した策ではなく、聖霊による、つまり神によるものであると聖書は記します。ユダヤ教の絶大な影響力を受けていた初代教会は、嘗ての律法に支配されている生活と、キリストによって解放された新しい生活との大きなギャップに苦しんでいました。
しかし様々なことが記されている聖書ですが、最終的に第一にすることはルールを強要することではなく、人間そのものだと気づいたのです。
教会もデイサービスもこの神の決定なくして開所は出来ないはずです。そして、その教会に託されたことは、信じて生きる道以上の重荷は課せられないはずなのです。


私たちの生活や仕事は、様々なルールと社会的制約の中にあります。そして、生きて行くことにおける様々な責任は非常な重荷を持って、一人ひとりの上にのしかかっているのです。しかし聖書は重荷を負わせないというのです。無法や無責任は許される事ではありませんが、それでもなお聖書は信仰以外に重荷は負わせないと。
私自身も様々な果たすべき責任があり本当に辛いと思うこともしばしばあります。しかし、出発点が聖書の示す解放であると受け止めると少し気が楽になります。しなければならないことは沢山はない。
赦され、救われている。その出発点から、生きている感謝の応答として責任を果たしていく。そう考える時、同じ重荷も軽くなるような気がします。 神から送られた大切な手紙「聖書」に生かされ、そこから出発していけるような人生であることを願っています。


「言った通りになりました!」 (使徒15章12-21節)no.56

何か事柄が起こった時、嘗てのイスラエルにとってもっとも重要なことは、そのことが聖書に記るされているかどうかという事でした。パウロ達が行った異邦人伝道は、自分たちこそが神の民と自負するユダヤ人には、キリスト者でありながら不快なことだったのでしょう。しかし、その出来事は「聖書に書いてある」という事実において肯定されて行きました。
そして更に言えば、その伝道の成果は使徒たちの努力の成果ではなく、才能に依拠するのでもなく、神が予め聖書を通して預言していたことが「言った通りになった!」ということを意味しているのです。そして、この聖書の言葉の実現ということは、神や聖書の権威を肯定するという意味以上に、人を謙虚にさせる力があると思うのです。

あさひ伝道所とフレンドシップあさひがスタートして一年がたちました。事業のスタード時は、地域の福祉連絡会に出席しても、見知ら方々の中で名刺を配りながら「仕事を下さい!」と頭をさげて歩いていたものです。しかし、右も左も分からぬままに事業運営を必至に進めてきて一年過ぎた出席連絡会は、半分以上の出席者の方が何らかの知り合いとなっていました。教会だけの運営では、まだ知り会えなかったであろう方々と出会い、交流を深めてきたフレンドシップあさひの一年。
あさひ伝道所も洗礼者が与えられ、転入会者が与えられ、礼拝の椅子を増やしたり、心から感謝に満ちています。

しかしこのこと全ては、私個人の努力や発言が言った通りになったのではなく、神御自身がこの鶴ヶ身で予め始めようとしていたことの結果だと受け止めた時、限りなく私たちは謙虚にならなくてはなりません。そのような意味では、信じるとは全ての努力を神にお返しするということかもしれません。どうか、今週も与えられたそれぞれの生活の場で感謝と謙虚をもって歩めますようにと心から祈り願いします。



「心はお見通し!」    (使徒15章1-11節)no.55

神は人々の心を見通されるという記述があります。それは、イエス宣教への反対の立場であるユダヤ人たちが、如何に信仰深く敬虔そうな立場から主張したとしても、その心の内は妬みのような人の罪から出ていることを指摘した言葉です。神の前に偽りは通用しないのです。
確かにそう言いますと、何でも心の内を見通されている不安感のようなものを感じます。しかし逆に考えれば、不安感よりも安心感をこの言葉は与えているとも受け止められます。ペテロがイエス様に従いたくても、怖くて逃げ出してしまった心、本来しなければならないことが出来ていないこと、そのような人の弱さを見抜けない神ではないのです。
私たちは、ですからいちいち神の前に出来なかった理由を弁明しなくてもよいのです。信じる者は「本当にすいません。次は従う力を与えてください!」と祈っていけばいいのです。

あさひ伝道所開所初めてのイースター礼拝において、洗礼者が与えられ、転会者が加えられ、創立記念としても礼拝を行うことが出来て本当に嬉しかったです。沢山の方が出席してくださり、用意した聖餐杯が足りなくなりました。しかしその感謝の全てが、出来きる者の成果ではなく、出来ない者が使命を与えられ導かれたことにあるはずです。
先日、教会の少し先の道路で、近くで店を営業している女性に話しかけられました。「変な言い方かもしれないけど、最近デイサービスも沢山人が来てますね。みんな楽しそうにしているのが見えます。こんな近くにデイサービスが出来てみんな喜んでますよ。頑張ってください」とのお話でした。地域の人は、この働きを遠目にも関心を持ち見ていてくれていることを実感しました。
そして、そのデイサービスが教会で行われていることも、掲げている看板故に近所の方々はご存知なはずなのです。そこで、私はその言葉を「デイサービスを運営している教会が、近所に来てくれてみんな喜んでます」と言いかえてもそんなに間違いではないと思うのです。確かにキリストの宣教は前進しています。

神は、私たちの心の内の悪いもの全てを知って、この働きを委ねてくださいました。その神が先頭に立って進んで下さるのですから安心です。それ故にもう少し私自身も肩の力を抜いて、信仰に立ちこの地域に等身大の力で仕えて行きたいと願わされます。一年間ありがとうございました。そしたまた一年宜しくお願い致します。



   「苦しみの次は感動」   (使徒14章21-28節)no.54

パウロとバルナバの第一回の宣教旅行は、イエス宣教の素晴らしい前進と成果に満ちていましたが、一方では本当に困難に満ちたものでした。
何かしらの軍事的力を持つわけでも、経済的脅威になるわけでもない彼らを敵対視し、迫害する人たち。愛を語り、善意に満ちた宣教であるのに、なぜそこまで迫害されねばならないのか。そんな思いが、使徒たちの内には、彼らが人間であるかぎり少なからずあったはずでしょう。
しかし彼らは諦めないのです。それはまさに「次を見る宣教」であったと言えるでしょう。現状の成果や困難に左右されない生き方。自分に降り注ぐ苦難を単純な、人生の運の悪さと嘆くのではなく、自分の人生に介入し導かれる神の計画であると受け止めていくこと。そこでは全く同じ現実であろうが、全く違う人生があるのです。
マルチン・ルターが言ったといわれる「もしも明日世界が終わるなら、私は今日リンゴの木を植えるだろう。」という言葉は、そのことを上手に表現していると思うのです。
実のなる目的の木を、明日世界が滅亡するのに植えるなどということは無意味なことのように思われます。しかしその言葉が、明日がどうなるかは神に委ね、将来を見据えて今与えられた自分の使命を果たしていくという意味を持つとすれば、それは本当に尊いことです。最善を尽くして、御旨を受け入れるならば、必ずその先は神が喜びとともに輝くものとして備えてくださる。そう信じて今日も明日も歩みたいと願います。




「大切なことは場所を選びません」
(使徒14章1-7節)no52

パウロとバルナバの宣教旅行は、多くの迫害の中で進められて行きました。たくさんの人が改心してイエスを信じる出来事と共に、その場所から人々の嫉みによって追い出されることもしばしばです。
しかし彼らは、歓迎されても、されなくても勇敢に福音を語り続けました。そしてそのことは、現代のキリスト者である私達にも共通する使命です。
しかし、では、場所を選ばず勇敢に語るとは一体どんな意味を持つのでしょうか?
以前聞いた熱心な牧師の話によると、電車の座席に座ったら隣の人に聖書を開いて伝道するとのことでした。確かに「時がよくても悪くても」と聖書は語りますが、それも話される側からすると迷惑な話です。その時と場所とは相対する人の状況を無視した、押し付けや、語る側の自己満足とは違うはずです。つまり、ここで勇敢に語るとは、それぞれの手法とやり方をもって、諦めずにという精神を伝えていると思うのです。
このことは、このあさひ伝道所にとっては福祉事業を通してキリストを伝えるということです。先日、利用者のご家族がフレンドシップあさひを突然訪問されました。両親の介護に関して色々な悩みあり「このデイサービスだけが頼りです」と言われて帰りました。

私がその言葉を聞いて心から願ったことは、そのように言われたご家族が、相談の後に外に出た瞬間、教会の看板を見上げて「ここは教会だったんだ、私が頼りにしていたのは、人ではなく、つまり神様だったんだ」と、いつの日か受け止めてくれる日が来るといいなということです。諦めずに今週も、与えられた場所で出来る限りの働きをして行きたいと願います。(




「怒っています! 」 
 (使徒13章42-51節)no51

この聖書の箇所において「足の塵を払う」という表現があります。これはパウロ達の宣教に、迫害を行ったユダヤ人に対して語られた言葉です。これは、ユダヤ人が使徒達の人気に対する嫉みからおこなったことに対する、決別の表現として当然かもしれません。
しかしまた、パウロが他の箇所において語る敵さえも愛する訓示からすると、その怒ったような行動には何か矛盾を感じさせられます。この相反する言葉から受け止められることに、二つのキリスト教的な側面を感じさせられます。つまり、キリストの博愛の精神とは何でもよいという話ではなく、時には厳しい訓戒をもって真実を伝えねばならないということです。
しかしそれはまた、ユダヤ的決別であってはならないので
す。パウロは、この後の三回目の伝道旅行においては、足の塵を払い落したアンティオキアに戻るのです。つまり、それは身捨てる言葉ではなく愛の言葉だったのです。

これはイエス様も勿論同様です。イエスを十字架につけたユダヤ人のところに、またイエスは復活をもってご自身の愛を示されました。このような一見厳しい出来事は、訓戒を与える側として理解するのではなく、訓戒される側として受け止めるとより分かりやすいのではないでしょうか。自分を戒めた方が、信愛の念を持って笑顔で戻ってくるとしたら、その訓戒の意味は何とも価値あるものになるのです。

私たちは、言葉だけでなく、様々な身の回りに起こるマイナス的な出来事を、いま一度イエスの言葉のもとで解釈しなおす必要があるのでしょう。マイナスもまた、次に出会うプラスへの備えだと。そう受け止めて歩む道こそが、信仰の歩みではないでしょうか。



「信じられません!」
(使徒13章26-41節)no50

2000年の永きに亘り伝えられ続けてきた私たちの信仰ですが、これは容易に信じられるものではないのです。私は21歳の時に、キリスト教の信仰に関心があり教会に集うようになりました。その中で、何とか信じたいので色々な理由を考えて、神の存在を自分自身に納得させようとしていました。

しかし今考えるとその理由は、元から心の中にあったと信じたいという思いを肯定するために、後からくっ付けたもののように思えます。信仰とは、神の招きがあって初めて信じられるものなのです。人の知識や理解では、本日の聖書の言葉を借りれば「人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事」なのです。

しかしそれを信じる思いで、教会に集っていること自体が奇跡とも言えるかもしれません。そのようにして神の招きや意思を、自分の人生の先頭に置いていくことは人生が良い方向に転換していくチャンスを得ることになると思うのです。
つまり、自分の小さな意思決定の良し悪しによって、人生は潰れてしまうというものではないということです。ヨブ記の言葉を借りれば「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」ということです。
自分より、遥かに大きな力が自分の人生の基本を導いている。勿論、その力の源が悪意に満ちたものでは不安ですが、神の独り子イエスを捧げても人類を救いだすような決意をもった方であるとすれば、私たちの人生は間違いなく心配ないと言えるのです。

デイサービス事業運営はとても忙しい状況です。十分な人件費を捻出できるのでしたら、事務、会計、送迎スタッフなど追加できるのですが、介護報酬の現状はまったくそれを許しません。ですので、自分で多くの部分を進めて行くしかないのです。しかしどうしても業務過多になるとミスが出てきてしまいます。
何件も打ち合わせが重なったりすると、より重要なことが抜け落ちてしまうのです。そのような時「これではフレンドシップあさひの信用が落ちてしまう、まずい!」と思うのです。何とかしようともがくと更に上手くいかないものです。
しかしそんな時、信仰は私を助けてくれます。つまり「この事業も、私の人生も神が与えられたもの。それ故に、私の小さな失敗によって、立ったり倒れたりはしないんだと。神ご自身の望まれる方向に向かって最善を尽くせばいいのだ」ということなのです。到底信じられないような信仰の世界。
しかしそれを与えられた人の人生は、何とも幸運に満ちているとも言えるかもしれません。この道を信じて感謝して進みたいと願います。



「先腰の低さが賢者の証し」
 
(使徒13章13-25節)no49

パウロはアンティオキアにおいて、キリストが救い主であることを証しすべく説教を開始します。そこで彼は、バプテスマのヨハネの言葉「わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなた達が期待しているような者ではない。
その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。」を引用しました。その言葉はヨハネ自身のものであるとともに、パウロ自身のキリストに捧げる心情そのものであったのでしょう。
彼はキリストの使徒として、港町ペルゲから、3000m級の山々が立ち並ぶタウルス山脈を越えてアンティオキアの町にやっと到着するのです。何でまたそんな山脈を越えて行ったのか。彼らの努力は本当に、他者に真似できるものではなかったはずです。

しかしその彼らが携えて行った言葉は、謙虚に満ちた「その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。」という言葉。まさに賢者とは、自分を知る者であり、まことに謙虚であることを意味していると思うのです。
人間は努力を重ね良い働きをして行くことは重要です。しかしそれよりももっと重要なことは、失敗をして行くことではないでしょうか。人は順調なとき、どうしても人を裁く目線になってしまいます。

しかし、失敗を心に刻んでいる時は同じ言葉でも、成功者としての上からの言葉ではなく、失敗者としての謙虚な言葉となるのだと思います。勿論、私自身がそのように出来ている訳ではありません。少し旨く行けば大きな失敗も忘れてすぐに傲慢になってしまうものなのです。
しかし、真実は変わらないのです。パウロのようなまことの賢者は、腰が低いのです。そのことを心にとめて、少しでも自分も変わっていきたいなと願っています。


「賢明な選択」
(使徒13章4-12節)no48

人生は誰もが同じように失敗に満ちています。しかしその失敗をどのように切り返せるかが大きな人生のカギと言えます。ここぞというシーンで、賢明な判断を選択して行くこと。
この聖書箇所もそのことを伝えていると思うのです。パウロとバルナバは、聖霊に送り出されて宣教へと船出します。
その中で出会った、地方総督のセルギウスは、魔術師の上に起った不幸な出来事を見て、早々にイエスへの信仰に入りました。
これは単純なことのようですがそうではありません。実際、福音書に記されている奇跡物語を読むと、奇跡に出会った人たちが全て神に立ち返るのではなく、むしろ逆に怒りに燃えて更なる神への反対者となる場面が沢山見られるからです。つまり、大きな出来事でも、小さな出来事でも、その事柄との出会いにおいて、賢明な判断を下せるかどうかにかかっているのです。

そして、その賢明な判断とは、神の側に向かって判断をするということです。先日、玉川学園の高等部での礼拝説教の担当でした。最近は、うけを狙うような話しは控えて、今一番大切ではと思わされることを淡々と話していく事にしています。
礼拝後に玉川の先生が生徒たちに向かって「今日寝ていた生徒
たち、お前たちは今日の話しを聞かなくて一生の損をしたんだぞ!」と言われました。
私の話しの何処がそんなに良かったのか自分でも不安になりましたが、神の伝えるべきメッセージがその中にあったのかもしれません。私の話しは別としても、やはり聞き逃してはならない言葉というのがあると思うのです。
私たちに到来する様々な時、何度失敗しても繰り返し与えられるチャンス、その時を聞き逃してはならないのです。与えられた時に、賢明な判断を神の側に向かってして行きたいのです。その時、必ず人生の道のりは好転していくと神は約束して下さっていると思うのです。
信頼をもって今日を、明日を生きたいと願います。 



「天職に転職!」
(使徒13章1-3節) no47

先日、中学の同級でもあった医師がフレンドシップあさひを訪問してくれました。様々な話をしましたが、その中で現在の医療に憂慮する内容がありました。
患者に不必要な手術を施すことを指示された医師が、それに反対すると「病院経営を考えなさい」と言われたというのです。その言葉に承諾できず、彼は病院を退職したというのです。

また、高齢者の年金目当てに、生き延びさせるための手術の依頼。その手術をされた人は、残りの人生を台無しにしてしまうのです。
そんなことが、本当にあってよいのでしょうか。いや現実に、今も儲けを優先する医療の世界はそのようなことが平然と行われているのです。恐ろしい限りです。しかしそのことは介護の世界でも同様に起こっている負の現実です。

この聖書箇所において、サウロとバルナバは、以前の職務から神から与えられた職務へと転職するのです。人にはそれぞれ神から与えられた使命、働きがあるはずです。その働きは、キリストに出会うことによって明確となるのです。
仮にその働きが、家庭において、仕事において、学校において何も変わらないようであったとしても、キリストとの出会いによって与えられた職務は元のものとは違うものとなるのです。先に話した医師ではありませんが、同じ仕事でありながらも、本来の目的を逸脱したところから、本来の医師の働きに戻っていくことのようにです。
私たちには知らないうちに、与えられた人生の目的があるのです。その目的をキリストとの出会いによって明確にし、自分らしく果たしていくことにこそ、人生の意味があるのではないでしょうか。




「神の愛の深さ」
(ルカ15章1-9節)no46
(さがみの教会牧師 佐藤岩雄)

この話はストリーテリングとして頭の中で思い描くことが容易なので、子どもたちにも人気がある聖書の譬です。教会学校で、「だんだん薄暗くなって、冷たい風も吹き始めて、メー子ちゃんは、もうだめかと思いました。」と脚色をつけて話すと子どもたちは、不安そうな顔でこちらを見ます。

しかし、そこで、イエス様が登場するのです。羊飼いは力強い腕を差し伸べて迷子の羊飼いを救い出します。このハッピーエンドに子どもたちはホッとします。
私たちの生きる社会は複雑です。この羊の姿に、自分を重ね合わせるような経験をすることがきっとあるのでしょう。一方で、視点を変えるとイエスは、この話をファリサイ派や律法学者たちの問いかけに答えるためにしました。

失われているのは、自分は立派に生きてきたと思い込んでいる人でもあります。自分は常識的な、社会的に恥じない生き方をしている人間だと思いこむ姿は、迷っていることさえ気がつかない羊の姿なのではないかとイエスはとわれます。そして、イエスは、命を使い尽くすようにして、そのような一人ひとりを追い続け、取り戻されると言うのです。
私たちの日常生活では、ハッピーエンドを味わえない時もあります。自分の思い通りに物事が運ばない時に、とても辛い思いをすることもあるでしょう。
しかし、日曜日にあさひ伝道所の礼拝に来て、賛美を歌いながら、み言葉を聞きながら私たちはハッと気が付くのです。自分が、既にあの羊飼いの大きな肩の上に乗せられている事を。また、日曜日に、そしてその次の日曜日にも共に教会に集いましょう。


「生きるのも死ぬのも大変です。」 
(使徒12章20-24)no45


この聖書箇所のヘロデの死は悲劇的に描かれていますが、仮に生きていたとしてもヘロデは幸せだったのかと思わされます。確かに権力や富はもっていたかもしれませんが、ローマの圧政と民衆との間に挟まれ、その力を失う恐怖に日々苛まれていたのとも思えます。
人は病にかかると死にたくないと思いますが、また生きているともう死んでしまいたいと思うこともあるはずです。生きているのも死ぬのも、何れも大変なことです。
だからこそ、そのような意味では、生きるとか死ぬという価値への評価よりも、どのように生き、どのように死ぬかといった方が重要なのではないでしょうか。
その深い理解を聖書は私たちに語ります。ヨハネによる福音書15章16節は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と語りかけます。
この言葉から私たちの人生を受け止めると、私たちの人生は自分で得たものではなく、むしろ神が私たち一人一人に相応しい人生を与えられたということです。
そしてそれは、それぞれの人生の場面に価値と役割をもって"任命"されたことを意味するのです。つまり、生きるとはこの意味を受け止めることであり、死ぬとはその意味を与えた

方のもとに帰還することなのでしょう。そのような理解のもとに生きることこそが、信じるということなのです。この信仰に日々留まりたいと願います。




「本当だと言い張る訳」
(使徒12章6-19節)no44

夜中に中継されていたアメリカのオバマ新大統領の就任演説は、比較的単調に与えられた課題を丁重に紹介していました。しかし、一点だけ会衆が大きく沸いたのは「60年前食堂に入ることも許されなかった者の息子がここに立っている!」という言葉でした。人は、人の心の声を聞きたいのです。
様々な言葉を人は語りますが、その言葉がどこから発信されているかが重要なのです。
この聖書の箇所で、牢屋から神の奇跡により解放されたペテロの帰宅を信じない人たちに、ロデという女性が必死で食い下がります。彼女の表現が大きく取り上げられるのは、まさに本当だったからなのです。

本当こそ強いものはないのです。それはどんなに信じてもらえなくても曲げることができない力なのです。
イエスの弟子達の宣教もまた、この本当を引き継ぐものでした。復活に出会った弟子達は、どんなに迫害されても曲げられない真実を語り続けます。
神はおられると、イエスは復活したと言い張るのです。その力は延々と受け継がれ、この鶴ヶ峰の地にも語られることになったのです。
本当の力に押し出されて、人々が感動するような宣教の前進をしていきたいと思います。



喜びの種類? 
使徒12章1-5節 no43


「人の不幸は蜜の味」という何とも酷い言葉がありますが、人間の喜びはプラスのものとマイナスのものとがあると思います。マイナスの喜びは、人の不幸や、他者との差によって得られる人のエゴの表現とも言えます。
しかしまたプラスの喜びは、自分自身にとって決して有利ではない出来事においても、良い心の動き実感できるものです。
 聖書に登場する喜びも様々です。
本日の箇所ではヘロデは、自らが統治するユダヤ人の支持を得るために、反対者を殺害投獄して、人々のマイナスの喜びを引き出すのです。しかしイエス御自身の、イエスの弟子達の喜びは現実の厳しさとは相反する形でプラスのストロークを持っていました。如何に迫害されても、投獄されても、十字架に追いやられたとしても、本当に人にとって大切なものをイエス御自身は知っていました。そしてそれを弟子達は確かに受け継いでいたのです。

 フレンドシップあさひの利用者の方々も様々な方がいます。年輩者なので、農家の地主をされていた方も何人もおられ、その苦労話しを伺う機会が多くあります。しかし、如何に財産があっても天国に持って行くことはできない現実と直面している方々。そこにどんな意味が、そう「喜び」あるのかを考えさせられます。

 しかし確かなことは、死の先まで持って行けるプラスの喜びを知っていることは、どんなに不自由になっても生きる意味と価値を肯定していくチャンスとなるということなのです。私たちも、イエスの方から来るプラスの喜びを受け止められるように生きて行きたいと願っています。



神様の黄色いハンカチ
(出エジプト17章1-7節)no42
 (前・喜多方教会牧師 荒瀬正彦)


「幸せの黄色いハンカチ」という映画がある。刑務所帰りの主人公が「こんな俺を待っていてくれるなら黄色いハンカチを軒先に出しておいてくれ」と妻にハガキを出した。妻の待つ町まで来たが「黄色いハンカチは出ているだろうか」と不安で、ハンカチを見ないで引き返そうとする。
が、どうだろう。鯉幟の竿の先に吹き流しのように沢山の黄色いハンカチがはためいている。
神が出エジプトの民に水を与えマナを降らせたのは、人間が欲望や自己の隷属の姿から、本来の姿に立ち返り神の許に帰って来るのを待ち続ける神様の黄色いハンカチではなかったか。神様はいつも黄色いハンカチをどこにでもはためかせている。教会に立つ十字架は神様の黄色いハンカチではないか。

人生には「さまよい」がある。そんな時、黄色いハンカチを見ないで引き返そうとするから益々さまよってしまう。出エジプトの民は何度も危機に陥ったが、その度に神の守りがあった。だから今、直面している困難に於いても神の守りと導きの経験を思い起こすべきであった。神を信頼し祈るべきであった。が、人はかつての恵みの経験と今の問題が結び付けられない。自分に囚われ、目前の困難と恐れだけに目が行って神様の黄色いハンカチを見ようとしない。
神は岩の上に立ち水を噴き立させる。神は無から有を起こさせる方、その神に信頼する。信仰とはそこにある。揺らぐことの無い岩、命の水である主イエス。このお方の愛と真実に支えられて、問題や困難の時、恐れる事なく迷う事なく神様の黄色いハンカチを仰ぎ見たい。



最初のクリスチャン 
使徒11.19-30 no41


最初のクリスチャンはどの様な人だったのでしょうか。勿論、自分で自分のことをクリスチャンと呼んでくださいとは言いませんでした。寧ろ周りの人たちが、あの人たちはクリスチャンよ!と噂のように言ったのでしょう。
それはその人たちの生き方そのものが、イエスの弟子であろうとしていたからです。クリスチャンは、日本語の訳では
キリスト者です。何か私たちにとっては、よく考えると身に余るような称号に感じます。

そして実際のところ、私たちはその呼び名に相応しい生き方が出来ているのでしょうか?。 年明けに、タイタニックの映画とその特集の番組を少し見ました。その中で「タイタニックの魅力の秘密は映画が他人事には思えないところにある」と言われていました。つまりその船に、もしも自分が乗っていたらどの様な行動に出るかが問われているように感じるからなのです。

これはとても興味深い洞察です。私たちに言い変えれば、もしもクリスチャンである私たちが、あの甲板に立っていたらどうするであろうかという問いです。自分を犠牲にしても他者を救命ボートに乗せるのか、偽りを語って弱者を押し寄せてボートに忍び込むのか、恐怖で大騒ぎをしてしまうのか、祈り黙しているのか?。

きっと誰一人、その行動を今確約することは出来ないことでしょう。その日、その時が来るまでは。しかしある人は、それではクリスチャンと呼ばれる意味がないのではと言うかもしれません。いやそうではないのです。つまりあえて言えば、その日その時のためにこそ、今、キリストを信じる必要があるのです。

その時が来てからでは遅いのです。あの沈みかける船の上で、あの人はクリスチャンだと呼ばれるような生涯を生きるために、今日を信じる者として生きることが大切なのではないでしょうか?

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