カンバーランド長老キリスト教会


教 会

     横浜市旭区鶴ヶ峰本1-34-10
         内田ビル一階
     旭区役所より徒歩2分
      TEL 045-489-3720 

             
礼拝は毎週日曜日の午前11時からとなります。どなたでもお越しください。


御言葉と出来事
御言葉と出来事(2023年a)
  

2023.11.19更新
    
 2008年
 2009年
 2010年
 2011年
 2012年

 2013年
 2014年

 2015年
 2016年
 2017年
 2018年
 2019年
 2020年
 2021年
 2022年


 「そこではない」             No.818
          (ルカによる福音書17章20〜25節)


 
神の国はいつ来るのかとファリサイ派の人達が「時」として訪ねると、イエス様は『ここにある』『あそこにある』ものではないと「場所」として答えるのです。これはファリサイの質問自体に誤りがあることが分かります。つまり、神の国は時であると共に場所なのです。時間軸だけの話しではなく、場所としての存在、それが神の国なのです。そしてその「場所」として「神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と更にイエス様は答えられました。つまり、神の国は来るものではなく、私達の内にある、私達が作り上げるものとしてキリストの教えを説くのです。神の国を形にして行くこと、争いではなく平和を作り出して行くこと、戦いではなく和解を創造して行くこと。私達の内に、私達の生活に、私達の社会に、私達の国や世界に、そして私達の教会に、神の国の建設をキリストの召しのもと行っていくことが大切なのです。
マタイによる福音書5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。神の国を将来くる世界の終わりだけとしたら、それは待つだけのものとなり、そこには平和へのアクションは出てこないのです。しかし実は、神の国自身が私達にその建設に参加することを呼び掛けているのです。キリストの再臨と復活を待つ前に、私達には果たさねばならないキリストの召しへの参与する責任があります。将来の事とのんびり構えていてはならないのです。世界で戦争が起こっている今、この神の国建設は、キリスト者にとって重要な課題と言えると思います。
 

「赦す時と赦さない時」          No.817
         (マタイによる福音書18章21〜35節)



 
イエス様は、ペテロの「何回人を赦せばいいのですか」という質問に「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられました。そして、あの例えを話されるのです。王様に一万タラント(約6千億円)の借金をした家来が返済を迫られますが、命乞いをして赦してもらうのです。しかし、この家来は自分に100デナリオン(約100万円)の借金をしている友人を赦さず牢獄に入れてしまいます。それを聞いた王様は、本当に怒ってこの家来を牢獄に入れたという話しです。自分は考えられない程大きな借金を赦されているのに、友人の借金を赦さない家来がその罰を逃れることは出来ない。神に赦された私たちも同様に、友人の罪を心から赦さなければ、自分も赦されないとイエス様は例えをもって語られました。

 この話では、七の七十倍赦し合うことの大切さがよく取り上げられますが、よく見るとこの王様は、七の七十倍赦さずに家来を赦さず牢屋に入れているのです。つまり、常に何でもいつでも罪が赦されるのではなく、赦す時と赦されない時があるのです。それは「七の七十倍赦し」には条件があると言うことを示します。その条件とは、自分も人を赦すという前提での七の七十倍赦しなのです。自分は赦されても人は赦さないという人は、この「七の七十倍赦し」は適応されないのです。これはとても重要です。主の祈りの「我らに罪をおかす者を 我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という言葉は、まさにこの赦さない家来と王様の例えから来ているように感じます。私達の赦しは安い無償のものではありません。キリストの贖いのもの差し出された高価な赦しです。ことことを深く心にとめて歩みたいと思います。


「子山羊のクリーム煮は美味しいのに」  No.816
         (マタイによる福音書22章34〜46節)
               
               篠崎千穂子伝道師

 
「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」この質問は、ファリサイ派の人々に留まらず、私たちの疑問でもあります。たとえば、出エジプト記23:19には「あなたは子ヤギをその母の乳で煮てはならない。」という律法があります。恐らくこの律法は今のクリスチャンに守られてはいませんが(子山羊のクリーム煮、おいしそうですものね。)、今もって大事にされている旧約律法もあります。「律法を守る・守らない」という基準があるとすれば、それは一体どういうものなのでしょうか。イエスはこの質問に対して、マタイ22:37〜40において「神を全人格をもって愛する」ことと、「隣人を愛すること」が旧約聖書全ての基だと語ります。私たち人間は人を愛してやまない神に似せられて作られたので、神と人を愛すことなしに幸せを感じることができない存在です。そしてその「愛し方」は、各人に委ねられています。結論から言えば、「律法を守る・守らない」という基準はもはや存在していないのです。もともとは、異教の習慣であったため禁じられていた子山羊のクリーム煮ですが、新約の時代を生きる私たちには、食べることも食べないことも許されています。ただそ代わり私たちに求められているのは、「今の自分と神様と人との関係の中で、『神と人とを愛すること』とは何か」を真剣に考えて選択することです。それぞれの神と人とを愛する方法は異なりますが、お互いを否定せず尊敬するのが神の国の在り方です。神の国がこの地になりますように。



 「あなたの罪は赦されたり」        No.815
         (マルコによる福音書2章1〜12節)



 
聖書の語る罪とはなんでしょうか?。当時のイスラエル社会は、病気であるとか、貧しいであるとか、社会的な不利な状況に陥っているのは、罪人であり神からの裁きであると考えられました。これは日本でも、世界でも因果応報の話しとして古今東西同様です。しかしイエス様は、本当にあなたが善人だから健康で、あの人が罪人だから病気なのかと問うのです。つまり、イエス様の病人への「あなたの罪は赦された」という宣言は、その病人イコール罪という理解からの解放宣言なのです。このイエス様の罪からの解放、いや罪人というレッテルからの解放。このキリスト解放宣言を伝えるのが、私達の役割とも言えます。

世の中には本当に人を支配し、惑わす宗教があり、戦争があり、その悲劇は宗教があるからだと世論から厳しく批判を受けます。しかしどんなに批判されても、世の中には一定数以上の神を求める人がおり、信仰支える宗教の必要性は不可欠なのです。そのような意味では、本来の宗教の使命は、人間をこの世の諸悪から守り、因果応報の理屈で苦しんでいる人間を解放することです。信仰が人間の欲や策力に利用され、更なる不幸を生み出さないように、宗教を歴史的で学術的な検証を持って正し、人々を闇夜から救い出す解放の宣言を告げる事です。現在の戦場にキリストが立たれたら「あなたの罪は赦されたり、武器を捨てで家族のもとに帰りなさい」と宣言されると私は思うのです。


 
「見捨てることのない神」         No.814
        (マルコによる福音書15章33〜41節)


              
   古畑和彦牧師

 ナオミは、不幸な出来事の連続に、自分は神に見捨てられたと思わずにはいられませんでした。しかし、神は決してナオミを見捨てることはありませんでした。ナオミに幸いをもたらしたのは嫁ルツの産んだ子「オベド」でした。近所の女性たちが、出産のニュースを聞き、ナオミのもとにやって来て、主を賛美しました。ナオミは、神に見捨てられたと思っていましたが、「主はあなたを見捨てること」はなかった、と女たちは賛美します。ナオミたちをこのように導いたのは、神ご自身です。神はナオミを見捨てることなく、その生涯を摂理の御手をもって導かれたのです。

歴史上ただ一人神に見捨てられたお方がいます。主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。主イエスが、文字通り、神に見捨てられて十字架につけられたのです。本来、見捨てるはずのないお方――神と一体であるはずのお方が神に見捨てられました。それは、本来見捨てられるべきである私たちの代わりに、主イエスが見捨てられたのです。ですから、神は、もう私たちを見捨てることはありません。そう信じてこの一週間も一歩一歩進んでいきましょう。



「悲しみながら立ち去る人」        No.813
        (マルコによる福音書10章17〜22節)



 
イエス様を訪問した人は「財産のある者が神の国に入るのは難しい」との回答に、すっかり気を落とし、悲しみながら立ち去ったと記されています。そしてイエス様は弟子たちに対しても、金持ちが神の国に入るのは「ラクダが針の穴を通るより難しい」と言われました。これを聞いた弟子達は、それでは誰も救われないですよと驚きの声を上げます。その驚きは、また質問者の悲しみは、正に私達のものであることを感じます。この話は、沢山の資産がある訳でなくても、持っているもの全てを売り払って施さなければ、神の国に入れないという弟子達さえ悲鳴を上げる程の掟であり、私達の内の誰もその掟に当てはまる人はいないのです。到底出来ない無理な注文。しかしそこで、イエス様は名文句を語ります。「人には出来ないが、神には出来る」と。

 ここで注目することは、この質問者は「永遠の命を得るためには」と問いますが、イエス様は「財産があるものは神の国に入ることは難しい」と言い換えます。この資産家は、きっとその資産を楽しむための地上での不死として永遠の命を願ったのでしょう。しかし、イエス様は、地上の不死ではなく死後も続く永遠の命として答えるのです。ここに人間と神の子の大きな違いあるのです。人は自分の為に、限りあるものを伸ばそうと奔走しますが、神の子は永遠を見つめて隣人愛を説くのです。私達が自分の為だけに生きるかぎり、神のもとから悲しんで立ち去るしかないのです。しかし私達が永遠に目を向けて、隣人愛に生きるとすれば、そこには「神には出来る」という素晴らしい恵みがあるのです。私達も悲しみから永遠へと変わって行き救いを得たいと思います。



「裁判官ではない神」           No.812
         (ルカによる福音書12章13〜21節)


 群衆の一人が、ある日、遺産相続のトラブルをイエス様に相談します。するとイエス様は、私は裁判官や調停人ではありませんと断るのです。そして、この機会を用いてイエス様は、集まっていた人たちに大切な例えを話します。あるお金持ちの畑が豊作で、蔵を建て替えてまでして沢山の財産をしまい込んだとのこと。しかし突然訪れる死の前に、その財産は何の役に立つのかと言う問い。つまり、自分のために富を積んでも死をもって全ては取り去られる、神の前に豊かにならない者は愚かだとの話し。

 この話は全くその通りですが、また逆に死ねば財産はいりませんが、生きているから財産が必要という面もあります。つまり死なないから、この世の富や権力に振り回されて私達は困っているのです。世俗の価値観である限り、私達はこの世の金銭に振り回されて、その泥沼に沈んで行くしかないのです。しかしここが、我々俗人と神の子との違いなのです。世俗社会の中に生き、苦労し、戦いながら、それでも、まったく別の価値観を持つこと。イエス様は裁判官ではない。私達を世俗社会の泥沼から救い出すメシア、キリストなんです。イエス様は、この質問した人の気持ちはよく分かったはず。真の神でありながらも、真の人であるイエス様ですから、呪文をとなえて解決なんて日々ではない。イエス様自身、涙を流され、十字架の重みにあえぎ、喜び、涙して、人間と共に生きたからです。だからメシアなのです。イエス・キリストは、私達の都合の良い答えを与える裁判官ではなく、命の価値、神の前での豊かさを語り、私達を日々救い出されるのです。



「土台無き時代を生きる」         No.811
          (ルカによる福音書6章46〜49節)


 現代は、正に土台無き時代のように感じます。何を信じて、何を行えばいいのか、様々な価値観と力によって信実が捻じ曲げられてしまう時代。それはキリスト教会という宗教も同様の批判の対象となります。

 イエス様は「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と問いました。これは、私達にも向けられた言葉なのです。ある人は「いや私は信仰があります」とい弁明するかもしれませんが、本当の神を基とした信仰の土台に立つとは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」であるとイエス様は言うのです。来るだけではなく、聞き従う者、それが固い岩の上に土台を据えた家のような信仰者であるというのです。信仰の世界が何かを無償で頂くだけの世界となり、信仰が言葉や宗教行事の履行に置き換えられてしまう時、イエス様は「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と再び言われるのです。

 勿論、その聞き従うとは、量や成果で測れるものではありません。ある人は、財産を投げうって人を救おうとするかもしれないし、ある人は二レプタを捧げてひっそりと祈るかもしれません。成果は神のご配剤です。私達の使命は、キリストへの応答として、礼拝を捧げ、祈りを捧げ、自分の出来る限りの隣人愛を行うことに他ならないのです。



「わたしたちは証人です」         No.810
              (ルツ記4章7〜12節)

                  
古畑和彦牧師

 家を絶やさぬ責任の最優先者である親戚は、その責任を放棄してボアズに譲ることを申し出ました。このことによってボアズが、エリメレクの畑地を買い入れることと、ルツと結婚してエリメレクの家名を継続させることが決まりました。ボアズは、長老たちの前で「あなたがたは、このことの証人になったのです」と宣言しました。そうしますと長老たちは、「そうです、わたしたちは証人です」と応答しました。証人たちは続いて、ルツが子宝に恵まれることによって、ボアズが経済的にも繁栄するようにと祈りました。このように神の祝福を祈るということも証人として大切な働きでした。

 使徒言行録3章では、使徒ペトロは、自分が「キリストの復活の証人である」と宣言しました。そして会衆の祝福を祈りました。主イエスは、私たちに「キリストの証人」となって、真実を語り、祝福を祈る働きをして欲しいと望んでおられます。ベツレヘムの門にいた長老たちは、歴史的出来事の証人としての働きをしました。私たちも、イエス・キリストの御業の証人として立たされています。私たちも神から聖霊を頂いて(使徒1:8)、私たちなりに「キリストの証人」としての務めを果たしてまいりましょう。



「外人の救い」              No.809
          (ルカによる福音書17章11〜19節)



 重い皮膚病の十人がイエス様によって癒された話し。あんなに苦しんだ病気が一瞬に治って誰もがイエス様のもとに飛んで来て感謝すると思いきや、お礼を言いに来たのは十人中一人だけだったのです。これはいったいどういう事なのか。しかも、この戻ってきた一人とは、ユダヤ人とは仲の悪い、異教徒の外国人サマリヤ人。常に神を賛美し、信仰熱心と言われているユダヤ人は、だれも神に感謝せず、異邦人であり外人の異教徒のサマリヤ人だけがイエス様のもとに戻ってきて感謝を捧げるのです。本来なら、逆じゃないですか。しかしこの逆の事こそが、イエス様は一番に言いたかったことなのです。本当に熱心である、信仰を持つ、いや神に感謝して生きるというのは、形骸化した宗教行事や形だけの信仰生活ではなく心の内側の問題だと言うのです。

 しかしでは、現代のクリスチャンはこの神に感謝を捧げた一人であると言えるのかという問いがあります。私達は、神に感謝を捧げる生活をしているつもりですが、他の場面では感謝しなかった9人の内の一人の可能性もあるのです。人間は、損失したことには敏感に反応しますが、得したことはすぐに忘れてしまうという精神的な特徴があります。つまり、その素性を持つ人間ですから、常に意識して感謝の思いを忘れてはならないということなのです。しまり信仰とは自然反応で得られるものではなく、自らの意思が大切なのです。だからイエス様は「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたわけです。強い信仰などなかなか持てませんが、神の方向に心を向けて歩みたいと思います。


「「善い行い」とは何か」         No.808
          (ルカによる福音書10章25〜37節)


 ある日、イエス様に律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問しました。さてでは、私達クリスチャンがイエス様に代わって答えるとしたら何と答えますか。ある熱心の信徒の方は「イエス様を信じ、罪の赦しを頂く事です。」と答えるかもしれません。勿論、それで間違ってはいません。しかしここでは、申命記6:4から「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』と答えた律法学者に対して、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われるのです。

 このことは大切な事なので、私達は心の奥底にこの言葉を書き記しておく必要があると思います。神様の願いは、イエス様の願いは、神を愛し信じると同じように、隣人を愛することが最大のその主眼なのです。この言葉は、ある方向性を持った教義によって再解釈してはならないのです。「神を信じ、隣人を愛する」こと。何故ならば、この事を人類みんなが真剣に行うとすれば、全ての戦争も、全ての争いも、全ての貧困も解消していくのではないでしょうか。そしてそれこそが、現実社会においても、永遠の命を受け継ぐ事となのです。 私達は、本当に言い訳がましい生き物なのです。何かが出来ないことを旨く言い訳して、自己正当化してしまうのです。しかし、その自己正当化の盾を一旦おさめ、もう一度イエス様の言葉に立ち返りたいと思います。「神と人と仕える」これこそが人間の本分なのだと思います。


「聖書は、人生の道標」         No.807
       (フィリピの信徒への手紙4章4〜7節)

              
奨励 本間かず子長老
 
 神様に頂いた恵みを、証しさせて頂きます。私は両親の不和の故に複雑な家庭環境の中で、育ちました。豊かな自然が友であり、慰めでもありました。自分の心の内をかくして明るくふるまっていましたが、そんな自分が嫌いでした。神様は私を教会へと導いて下さいました。「だから、キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙U5章17節)イエス様の十字架での命のあがないによって、私の罪は赦され新しい人生への出発の宣言でした。人生とはまさか、まさかの連続です。試練さえ、さらに良いものに変えてくださいました。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。」(コリントの信徒への手紙T 1章18節)夫の母から贈られたみ言葉は私の原点かもしれません。
神の言葉に生かされる日々はなんと幸いな事でしょうか。神様は私の人生パズルを一つ一つ作っておられます。どのピースもピタリとはめ込まれています。神様からいただいたものには、何一つ無駄なものはありません。私のジグソーパズルの完成が楽しみです。日々おゆだねして歩んでまいります。


「責任を果たしてください」       No.806
               (ルツ記4章3〜6節)

                  
古畑和彦牧師

 優先順序の高い親戚は、ナオミがエリメレクの所有する畑地を手放そうとしていると聞いて、即座にその畑地を買い取ることを申し出ました。それは、今畑地を購入することが大きな利益になるからです。ところが、ボアズが「ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」と伝えると、その親戚は、「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます」と断りました。この土地を購入しても、ルツに子どもが産まれますと、土地はその子どものものとなってしまいます。結局買い取りのために使ったお金を失う上、その財産をもふいにすることになります。この親戚は、損得でしかものを考えることができませんでした。彼には信仰的な視点がありませんでした。

 私たちにも、自分にとって損なことでも、自分にとってつらいことでも、神と人に対して果たすべき責任があります。しかし、「責任を果たしてください」と言われても、私たちは、弱く、小さく弱いものです。とても責任を果たすことはできません。私たちは、神に「信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)と叫びましょう。神から助けを頂いて、私たちなりに日々、与えられた責任を果たしていきましょう。


「原点に帰る。神を愛し、隣人を愛する」 No.805
       (マルコによる福音書12章28〜34節)

                奨励 高橋雅恵長老

 本日与えられたマルコ12章の最後に「もはや、あえて質問する者はなかった。」とあります。それは、マルコ11章の終わり頃から様々な人々との論争物語からくる集大成であったのかもしれません。

 そんな中でも、どんな意地悪な質問でも丁寧にお答えになるイエス様に尊敬の念を抱く律法学者がいました。その律法学者が質問した内容が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」イエス様は「第一の掟はこれである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛しなさい。第二の掟はこれである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにはない。」神を愛し、隣人を愛する教えが全ての教えの中心になっているということです。

 しかし、そんな神様が望んでいることを、なかなか出来ない私たちの為に、この世に下り、十字架に付けられ、私たちの身代わりに死んで下さったイエス様に感謝したいと思います。また、自分だけではなく、全ての人々は皆、イエス様の十字架によって贖われていると知る時、どんな人でも神様から愛されているかけがえのない一人だと思い起こされ、私たちは皆、神様の愛と恵みによって救われたのです。今週も主なる神の愛に感謝して歩んでいきたいと思います。



「あなたは生きている」         No.804
            (使徒言行録20章7〜12節)

               
  潮田健治牧師

 パウロは、行く先々、「騒動」に巻き込まれながら、「言葉を尽くして人々を励まし」、通って行くのです(20:1−2)。私たちも色々な問題や課題があり、誤解が生まれ、噂話にほんろうされ、騒動に巻き込まれもします。

 教会だからこその色々な課題があるのです。そういう私たちの中を、パウロが、巡り歩いて、今朝、まさにこの礼拝で、私たちを励ましているのです。

 今日の私たちのように、礼拝をしている。聖餐を共にする礼拝をしている、その時、エウティコが、つい眠り込んでしまい、三階の窓から転落、即死でした。 パウロは言いました。「騒ぐな。まだ生きている。」死者の復活という奇跡が、礼拝の中で、パウロによって行われたのです。医者、ルカがそれを記録した。聖餐が行われる礼拝の中で、主イエスが、かつて一人の少女を生き返らせた、という奇跡が、繰り返されたのです。それは、ペンテコステに生まれた教会の出来事であった、ということを、医者ルカは、ここで言っているのです。「言葉を尽くして人々を励まし」てきた、その励ましこそ、「まだ生きている。(直訳:彼の中に、彼の息がある)」だったのでした。

 主イエスのお働きは、今、パウロを通して、そして、教会を通して、今日、あさひ教会を通しても、現実となっているのだ、というわけです。ここに、福音がある。主イエスの業がここで起こるのです。「この騒動」に翻弄されている暗闇の中で、しかし礼拝を通し、「夜明けまで」パウロが宣言する声が響くのです。―「まだ生きている」と。



「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」
                    No.803
        (マタイによる福音書5章13〜16節)

               
奨励  内田弥生長老

 「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」とは、神の民なる弟子たちには、使命としてこれらのことを課せられているということです。また、イエス様は、天の光をうけてこのような世の地に生きる「わたしは世の光である」そのものだったのです。神の光の媒介手段として、イエス様ご自身が光となっておられるということです。だから「あなた方も世の光なのだ」とイエス様は語られるのです。「地の塩」とはこの地に塩をもって、人々に人生の味付けをして、人々の暮らしをつまらないものにしてはならい、私の教えた塩を効かせて、人々を導きなさいということ。イエス様の弟子たちに対する期待と、神の栄光を表すために諭されたのだと受け止めることも大切です。このことを私たちにも語られていることだと考えたとき油断なく、イエス様のみ言葉に従っていくということです。しかし、そのことがなかなかできないのが私たちです。イエス様を真ん中にして車座に座って聞く弟子たちの姿を思い起こし、み言葉に聞きましょう。このすべてのことは以下の宣教命令と言われる箇所に繋がるのです。マタイ28章18節から、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことを全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」イエス様ご自身も地の塩・世の光としてこの世に遣わされたのです。「命の泉」をもって遣わされたのです。「地の塩・世の光」、そのみ言葉が、私たちを生かす、生きたみ言葉なのです。



「少しも無駄にならないように」      No.802
          (ヨハネによる福音書6章1〜15節)


 イエス様が5つのパンと二匹の魚を祝福して、五千人の食事を与えたという出来事。その聖書の話しは、どんな小さなもので神様に捧げる素晴らしさを伝えます。しかし本日は、この大勢の人が満腹したという出来事と同時に、イエス様が弟子達に「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われたことに注目したいと思います。私達の日常は、増えたこと、拡大することの喜びに注目しがちですが、イエス様はその拡大する力と共に、残った屑が少しも無駄にならないようにと集める方なのです。みんな満腹した時に、余った屑に注目する人などいないことでしょう。しかしイエス様は、その屑を拾い集めるよう指示を出す。この出来事こそが「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と今でもイエス様が呼ばれる所以です。拡大させ人々を幸福にしましたといった話しだけでは、この出来事もそこらにある不思議物語として消え去ったでしょう。しかし、屑を少しも無駄にならないよう拾い集める神。これこそが、人々の忘れることのできないイエス様像であり、神の姿なのです。

 そして、そのイエス様が拾い集めた「屑」とはまさに私達一人一人なのかもしれません。イエス様は増やすと共に集める方。不要で必要のない屑でも、私達自身が、私達の人生が、少しも無駄にならないようにと、キリストは目をかけて下さっているのです。これこそが神からの預言者イエス・キリストの言葉であり業なのです。拾い集められた私達は、その感謝を神に何らかの働きをもって、今週もお返ししたいと思わされます。



「門に入りなさい」            No.801
               (ルツ記4章1〜2節)

                  
古畑和彦牧師

 ボアズとルツの結婚の唯一の障害は、ボアズ以上に「家を絶やさぬ責任のある親戚」がいるということでした。ボアズは、この親戚に会って、問題を解決するためにベツレヘムにある唯一の門へ行きました。門に行ったのは、通常、人々はこの門を通って働き場に出かけて行ったからです。しかし、その日、この親戚が必ず通る保証はありません。いつ通るかも分かりません。しかし、ボアズは、神を信じて、門で座って待っていました。そうしますと「折よく」、その親戚が通り過ぎようとしました。これは偶然ではありません。摂理の神が最善をなしてくださったのです。

 イエス・キリストは、「狭い門から入りなさい。……命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13)と語られました。ボアズは、門に行くことで問題を解決しました。私たちも正しい門――「狭い門」から入らなければ、問題は解決しません。本当の幸せは来ないのです。今週、イエス・キリストの道を歩んで、「狭い門」に入ることを目指しましょう。



「心の嵐が静まる時」           No.800
         (マタイによる福音書8章23〜27節)


 このイエス様と弟子達が、湖で嵐にみまわれた出来事は、私たちの人生に似ているように感じます。私たちの人生には小さい嵐から大きい嵐まで、様々な苦難が押し寄せてきます。その時は、私たちは神様に助けを求めます。しかし神様は、イエス様が嵐の中でも居眠りをしていたように、私たちの叫びに容易には答えてはくれません。それはまるで神様が、いないかのような状況です。それでも万策尽きた人間は「神様、溺れてしまいます」と叫び続けるのです。その時に、天から声が聞こえるのです。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と。私たちは神を信じているようでありながら、危機に出会うことで、自分が信仰の薄いものである事を知らされるのです。そしてやっと、私たちの心の嵐しは静められ、キリストの信じる者でありなさいと言う言葉を聞くのです。

 思想家のマルティン・ブーバーは「我と汝」という名著において「まことに、〈われ〉は、〈なんじ〉と出会うことによってはじめて、真の〈われ〉になるのである。」と語りました。この関係性を神と自分として言い変えことが出来ます。つまり「人は神〈なんじ〉と出会うことおいて、はじめて真の人〈われ〉になるのです。私たちは人生の嵐に於いて神と出会い、そしてはじめて真の自分になる。ここに「心の嵐が静まる時」があると思わされます。



「失われた者への救い」          No.799
          (ルカによる福音書19章1〜10節)


 新約聖書の登場人物で最も注目される人物の一人がこのザーカイです。彼は嫌われ者の徴税人で民衆からだまし取ったお金で金持ちであったと記されています。お金があれば嫌われ者でもいいやと、開き直った生活だったのかもしれません。しかし人間は、そうはいってもやはり開き直っただけで生きられるものではないようです。イエス様に興味を持ったように、彼は孤独感と罪責感があったのでしょう。

 人間は、神の似姿に造られたと聖書は記します。だから私達の心の内には取り去ることの出来ない神の善を求める思いがプログラムされているのです。その為、それと相反する行動をすると、心は孤独と罪責感に苛まれるのです。そしてイエス様はそのことをよくご存知の上で、ザアカイの心の内側に声をかけるのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい、私はあなたの家に泊まるよ」。それは、文字通り以上にザアカイの心の内にイエス様が泊まられたことを意味します。孤独と罪責感に打ちひしがれていたザアカイは、イエス様に声を掛けられ本当に嬉しかったことでしょう。

 神様という存在は、私達の内側の奥底に眠る神の似姿に語りかけてくるのです。何不自由なく、神様などいなくても何も困らない、私は無事だ、平和だと思っている心に、神様は「あなたは本当に大丈夫なのですか」と問うのです。この心の奥底から応答する声、これこそが神とのチャンネルの回復であり、信仰の原点なのです。私達の心の声への神の呼びかけられます。この声を聴き、私達も今一度神のもとに帰りたいと思います。



「土の器として」             No.798
      (コリントの信徒への手紙二4章7〜10節)


 この箇所は、人間は「土の器」であると改めて思わされます。使徒としての職務を 必死に果たしたパウロが自分のことをそのように例えました。金の器でも、銀の器でもない、土の器として。その意味は、外側ではなく中身が大切であることを伝えます。土の器とは私達の日常に言い換えてみると、どこにでもある陶器であり、お皿やどんぶりといったとこでしょうか。金でも銀でもない、どの家にでもある器。でもその中には、偉大な力としての宝が収められているというのです。この宝を持つからこそ、他の何も変わりのない器のようでも、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」と聖書は語ります。これは信じる者に勇気を与えてくれます。そしてまたこの土の器の意味は、ただの粘土ではないとうことです。この器は、土から取り出され、捏ねられ、形を作り、燃える炎によって焼き入れをされた器なのです。人生という荒波に練られ、苦難と言う火で焼かれ、叩き上げられてきた器です。だからこそ、神の宝を、神の偉大な力を内に収めることが出来るのです。ですから、弱り果てて倒れてはいけないのです。その蓄えてある神の偉大な力によって、何度でも起き上がり、強く雄々しくあるべきなのです。

 先週の日本中会宣教研究所の後援会で話された、カンバーランド長老教会のヘール宣教師の伝道。その働きは、日本のキリスト教伝道に多大な貢献をしました。しかしその働きもまた、金の器ではなく、土の器としての伝道であったからこそ、価値があり、日本のキリスト教史に刻まれることになったのです。そして私達も、この働きに連なる土の器であること覚えたいと思います。


「死に至らない罪」            No.797
           (ヨハネの手紙一5章13〜21節)



 聖書は、デンマークのキルケゴールは「死に至る病とは絶望である」と説きました。そして「絶望とは罪」であると続けました。つまり私たちはその罪である「絶望」をしてはいけないのです。何故ならば、その絶望から救いこそがキリストの愛だからです。しかしでは、その絶望しないキリストの救いとはなんでしょうか。

 ホーリネスの濱和弘先生は「傘の神学」を説きました。これは従来の人が逃げ込む狭いシェルターのような救いの概念から、誰もが入れる傘にキリストの救いを例えて再解釈を試みた神学です。四方から入りたい人は誰でも傘の下に入ることの出来る大傘のような神の救い。従来のキリスト教は、関所のような教理問答を繰り返し狭き門から入ること良しとしてきた側面があります。しかし、それが本当の救いに到達する唯一の道なのでしょうか。この関所のような救済論に、多くの人が躓き去って行ったことを今も覚えています。また自分はその狭い門のシェルターに入れたと思ってしましたが、本当に私はそれで救われていたのでしょうか。絶望から人間を救われる偉大なキリストの愛を、あまりにも狭く、自分だけ特権としようとしていたのではないか。神の愛はもっと広く深い。狭められた救い概念ではなく、全ての人に開かれた、偉大な創造者なる神の愛に目を開かないとならないと思わされています。



「待っていなさい」            No.796
              (ルツ記3章14〜18節)

                  
古畑和彦牧師

 ナオミは、ルツから昨夜の麦打ち場での一部始終を聞くと「待っていなさい」(18節 聖書協会共同訳)と勧めました。これは「今日中に決着」をつけてくれると言うボアズへの信頼です。そして、何よりも摂理の神への信仰によって待つことができました。「待っている」ということは、すべては神がしてくれるから、私は何もしなくてもよいという意味ではありません。私たちは、自分の果たすべきこと、自分のできることを行います。そのうえで、後は神に委ねます。私たちは、主なる神が人を動かしてでも、私に最善をしてくださると信じることが大切です。ここでは、ルツやナオミは、ボアズが神に導かれて自分たちのために動いてくれる、と信じました。ルツ、ナオミ、ボアズの三人が、それぞれの立場で、それぞれの分を果たすとき、神の祝福がやがて三人の上に臨みます。三人は、神を信頼して、動くべき時には動き、待つべき時には実に忍耐深く待ちました。その結果、神は三人の人生に最善をしてくださいました。私たちの神は、せっかちな神ではありません。神も私たちの幸いのために待っていてくださいます。その神を信じて、私たちも、今、すべきことをしましょう。そのうえで、神が私たちのために御業をしてくださる時を待ちましょう。



「聖霊を受けると」            No.795
         (ヨハネによる福音書3章1〜8節)


 聖霊を受けるとどうなるのか。それは新たに生まれるいうことでしょう。ユダヤの議員であったニコデモは、イエスという人物に引かれて、夜中に誰にも気付かれないように尋ねます。そして「あなたが神のもとから来られた教師であること知っています!」と信仰告白をしました。その言葉に対してイエス様は「そうです」と答えてもよかったところで「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とニコデモの問いに答えます。つまりその意味するところは、イエス様を神からの教師、キリストであると告白することは、実に新たに生まれるということなのです。そして、そのキリストを告白するとは、聖霊を受けるということなのです。

 よく聖霊を受けたらキリストを告白出来るとか、逆にキリストを告白したから聖霊を受けたとか、色々は言われますが、本質的にはそんな議論はどうでもよいのです。大切なことは、神の霊を受けるとは新しく生まれ変わるということです。そして神の霊を受けて新しく生まれ変わったものは、神の国を見ることが出来るのです。

 本当に人間が生きるとは大変です。こんな人生やり直したい、捨ててしまいたい、もう止めにしてしまいたい。クリスチャンになっても同じ痛みを心に抱えます。そんな生の叫びは、キリストとの出会いによって、新たに生まれ変われるのです。しかしそれは一回きりの生まれ変わりではないのです。私たちはキリストと共に毎日死に、イエス様と共に毎日復活するのです。この死と復活を生きることこそが、聖霊を受け新しく生まれることであり、神の国を見るということなのかもしれません。


「偉大な日が来る前に」          No.794
             (使徒言行録2章14〜21節)


 聖書は『主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』と記します。その偉大な輝かしい日とは、世界の終焉であり、裁きの日であり、救いの到来の時なのでしょう。そして、聖霊の力とは、この「偉大な輝かしい日」を悟る力とも言えます。若者も老人も神の霊を受けて、この来るべき日の到来を悟るのです。

 今の日本は、目標を、道を、見出しにくい、とても難しい時代です。戦争の時代は、自国の為に敵を倒すという単純な目標があります。戦後の日本は、高度経済成長の元、三種の神器と言われるテレビ、洗濯機、冷蔵庫を揃えるという目的があり、いい大学に入る、いい会社に入る、いいものを所有する、とても簡単な目標が国民全体にありました。しかし今は、幻が薄れ、夢が遠くに離れ、何を目指せばいいのかがわからない社会。経験の少ない若者だけでなく、年を取って悟りを得るはずなのに、更なる迷いの中に入り込んでしまっている日々。でも、それではいけません。神の霊を受けて、もう一度、幻と夢を取り戻し「偉大な輝かしい日」が来る前に「救われる」という悟りを得る必要があるのです。その時になって、信じればいいのではないのです。今から、直ぐにです。ラザロと金持ちの例えのように、「偉大な輝かしい日」が来てしまったらどんなに叫んでも超えられない深淵から抜け出すことはできません。今一度、神からの救いの聖霊を受けて、心新たにして信仰の道を進みたいと願います。



「願いを遥かに超えて」          No.793
       (エフェソの信徒への手紙3章14〜21節)


 使徒パウロは急成長するエペソの教会に、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に 栄光があるように」と語りました。つまり、神様から頂いた、私たちの内にある聖霊によって物事を受け止め、私達の願いや思いの全てを、はるかに超えてかなえることの出来る、神様を信じなさいというのです。
聖霊の働きとは、私たちのあらゆる願いをそのままかなえてくれるというよりも、一人の人間の自分の方向だけから見た考えを遥かに超えて働かれるというのです。つまり私達の願いに、神様は時には大きな修正を加えつつも、正しい方向に導くのが神の力なのです。疲れて服を裏返しに着ていても気付かない小さな人間の思いを遥かに超えて、その人の人生に、その人の歩みに、その人の旅路に、その人の願いを最も相応しく働いて下さる神様であるからこそ、栄光が相応しいのです。

 私が神学校時代に学んだ大きな考え方の一つは「相応しさ」です。世の中には、絶対と相対という基準があります。時代や人によって変化しない根源的な価値観が絶対ですが、相対というのは時代や状況によって変化していく基準です。この変化しない基準が愛なる神であり、変化する基準が相応しさなのです。神様は、Aという人にはAという判断を。Bという人にはBという人生を用意するのです。人の目から見れば不可解なことでも、神の目では相応しいです。神は良いことも悪いことも含めて、私たちの人生を最も相応しい道へと導かれます。その導きを感謝として受け止める力が聖霊の力なのです。だから私たちは「御霊よ降りませ」と祈るのです。



「あなたの望むことはみな」       No.792
              (ルツ記3章10〜13章)

                  
古畑和彦牧師

 ルツは、真夜中に麦打ち場で、ボアズに結婚を申し込みました。ボアズは、とっさにルツの祝福を祈りました。この祈りには、何事でも主との関りで見ていく、信仰の基本が表れています。ボアズは、「あなたの望むことはみな、してあげましょう」(新改訳聖書10節)とルツの願いを受け入れました。しかし、問題がありました。ボアズよりもエリメレクに近い「家を絶やさぬ責任のある」親戚がいたのです。ボアズは、その人が「責任を果たすというのならそうさせましょう。責任を果たすことを好まないなら、わたしが責任を果たします」とルツに約束しました。ボアズは、決して自分の考えや感情を優先しません。一つ一つ順序正しく進めるけれども、結果は主におまかせするという姿勢がよく表れています。
 
 イエス・キリストは、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)と語られています。私たちも、ルツの様に大胆に主イエスに近づき、私たちの願いを申し上げましょう。そうすれば主イエスは「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と言って下さり、思わぬ方法で私たちに恵みを与えて下さいます。


「地面深くに土台を据えよ」       No.791
         (ルカによる福音書8章46〜49節)


 
神を信じその言葉を行う人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ているとイエス様は言われました。この例えからは、色々なことを思い起こさせられます。一つには地面近くまで掘り下げられた土台は、外から見えないということです。それが分かるのは、嵐や地震がきて初めてその違いが分かる訳です。キリストを信じるとはそういうことなのだと思います。信仰者も、そうでない者も、普段は分からないので。しかし事が起きた時、信じる者は揺るがない岩盤によって支えられ倒れない。しかし見かけは立派でも、強固な土台を持たない生き方は嵐と共に倒れ去るのです。そしてその倒れ方は「酷い」とイエス様を言われます。

 この深く掘り下げるという言葉からの、もう一つのヒントは、外からは見えない深く掘り下げられ場所とは、自分が見えてくる場所とも言えます。穴のように人生を深く掘り下げると、自分の問題が見えて来ます。言い訳の出来ない自分自身の問題にぶち当たるのです。それはつまり、地中深く掘り下げると、人は自分の罪との出会うのです。そして、掘り下げた先で、岩盤なる神にカツンと自分が当たるのです。強固な土台を求めて、掘り下げた時、私たちは初めて揺るがない岩である神と出会い、そしてその方に実は日々赦され、命が支えられていることを私達は悟るのです。

 自分の問題を掘り下げて自分の罪と出会うとは、つまり必然的に、岩である神の上に人生を立てるという事です。つまり、神の上に土台を置くとは、自分自身の本当の姿の発見であり、自分の罪の赦しの発見なのです。この強固な土台の悟りこそが、私達の信仰なのです。



「行きつ戻りつする道」         No.790
         (ルカによる福音書6章53〜56節)

               奨励  内田弥生長老


 エマオまでの道は暗く、トボトボとした歩みだったに違いありません。立ち止まったり、首を傾げたり、暗い顔で話し、論じ合っていたのです。しかし、イエス様が2人に開示された時に、喜びのあまり、時を移さず、泊まらないで、きびすを返すように、エルサレムに戻ったというわけです。あの時、心が燃えていたね。神の道がなんだかわかった気がしたね。苦難の道に希望が見えてきたよ。心が燃える経験。私たちにもきっとあります。魂が燃えると言ってもいいかもしれません。神の語られるみ言葉には力があり、権威があり。真実でそして愛があるのです。愛を体感するのです。それが魂を燃やし、心を燃やすのです。消えない炎。希望の道しるべは、羊の門に通じています。私たちには苦難がある。しかし、その苦難の先には羊の門がある。苦難の門と羊の門はもしかしたら一体となっているかもしれない。苦難とイエス様は切っても切り離せない関係だからです。トボトボと歩く道。しかし、その只中で語られる神のみ言葉。そこには希望の光があった。復活の命と救いの光です。救い主をはっきりと見ることができたのです。それは単に見るということではなく、心に生き返ったと言ったら良いでしょう。



「羊の門」               No.789
        (ヨハネによる福音書10章1〜21節)


 イエス様は、自らを「良い羊飼い」であると言います。その良い羊外は羊のために命を捨てると二度も繰り返して語り、その十字架への決意を示されました。そしてまた、イエス様はご自身を「羊の門」と例えられました。羊の門とは、囲われた柵の中と外の境です。柵の外は、オオカミや盗人に常に狙われている場所であり、柵の内側とは外敵や被害から守られている場所。この門は、私達の社会から言えば、戦争と平和、危険と安全、憎しみと愛との間に立つ門です。この門を羊飼いの声に導かれてくぐれと言われるのです。イエス様は、この門をくぐる者は救われると語り掛けます。

 「不幸の薬は、希望のみ」とシェークスピアは言ったと。どんな不幸でも、その先に希望が見えていれば、人は不幸から抜け出せるのです。逆にとても幸福でも、その先が不幸のどん底になることが見えていたら、幸福という場所にいる不幸でしかありません。キリストの存在とは、まさに私たちの不幸の中の希望の門なのです。私達には、様々な悩み、様々な困難、様々な涙は避けられません。しかし、キリストを見上げることで私達は常に希望の下にあるのです。何故ならば、イエス・キリストは、良い羊飼いであり、良い羊の門だからです。「あそこに門が見える、その門をくくれば大丈夫。みんなで力を合われて、羊の門をくぐろう。元気な人も、病の人も、手を引き、肩を貸しあい、車椅子を押し、あの羊の門を目指すんだ!」これが信仰の道なのです。そのような意味では、羊の門とは、キリスト教会そのです。キリスト教会は、命の門、救いの神に通じる門、イエス・キリストご自身なのです。みんなここを通って、罪赦されて救いに囲いに入りたいと願います。


「衣の裾を広げて、私を覆ってください」 No.788
        (マルコによる福音書6章53〜56節)

                  
古畑和彦牧師

 ルツは、ボアズに「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と結婚を申し出ました。あなたは私と結婚をして「家を絶やさぬ責任」がありますと迫りました。私たちには、責任があるから結婚をするということには、違和感があります。しかし、結婚は神の前での契約関係です。契約である以上責任があります。お互いが責任を果たすことなしに幸せな結婚はありえません。ルツは、情欲を超えたところの結婚を求めたのです。ボアズも責任ある対応をしなければならなくなりました。何と賢いプロポーズの仕方だったでしょうか。

 「十二年間も出血の止まらない女」(マルコ5:25)は、主イエスの衣に触れただけで病気が治りました。そのことに満足して主イエスのもとを去ろうとしたこの女性を、主イエスは留めます。「触れただけで帰ってはいけない、私が愛の衣であなたの人生を覆ってあげる。私のもとに来なさい」と声をかけて下さったのです。私たちもルツの様に、主イエスに「どうぞあなたの衣の裾を広げて、この私を覆ってください」と祈りましょう。私たちのために十字架にかかって下さった主イエスは、愛の衣で私たちの人生を覆って下さり、幸いを与えて下さいます。



「のっぴきならない出来事として」     No.787
         (マルコによる福音書16章1〜8節)


 熱心なクリスチャンは、イエス様の復活を信じられない人を不信仰と言うかもしれません。しかしこの聖書箇所を見ると、墓でイエスの遺体がないことを目撃した婦人三人は震え上がり、正気を失って墓から逃げ去ったと記されているのです。つまり、キリスト復活とは信じられない出来事として始まるのです。ではその信じられない出来事はどうしたら信じられるのか。それは「のっぴきならない出来事」として出会う必要があるのです。私たちの、退くことも引くことも出来ない危機的な状況、自分の力ではどうにもならない人生と、イエス・キリストの十字架の死と復活というのっぴきならない出来事が出会う時、その意味をその事実を自分の事として理解できるのです。

 私たちは死にゆく存在として生きています。どんな功績も努力も、全て死の先に持っていくことは出来ません。裸で生まれ裸で神のもとに帰る私たちは旅人です。この虚しくも素晴らしい人生とキリストの出来事が重なる時、私たちの魂は死と復活を体験するのです。つまり、キリストの死は私たちの死であり、キリストの復活とは、私たちの復活なのです。私たちがキリスト共に、死の墓から呼び出され、命のもと戻された出来事。これ以上の「のっぴきならない出来事」ありません。つまりこれこそが、イエス・キリストと私たちのイースター(復活)なのだと思います。



「子ロバに乗った王」            No.786
        (ヨハネによる福音書12章12〜19節)


 子ロバに乗った王とは、世俗の王とは違う印象です。王様ならば力の象徴である強い軍馬でしょうか。今なら、車のリムジンとかンチュリーでしょうか。しかしそれが、カローラいや軽自動車に乗ってやってくるのです。威厳も強さも見られない子ロバでの入場。それは、イエス・キリストが世俗の王とは全く違う王であること示しています。先週の話から言えば、イエス様の示す王は「仕える王」です。マルコの10章から言えば、偉くなりたい者は、皆に仕える者に。一番上になりたい者は、全ての人の僕に。イエス様は人に仕えてもらうことではなく、仕えるために来た王様なのです。仕える王は、多くの人の身代金として自分の命を献げる王なのです。イエス様はその仕える姿勢をもって、キリストに繋がる私たちも同じように隣人に仕え、神に従いなさいと示すのです。

 私達は、礼拝ごとに、この子ロバに乗った謙虚に仕える王なるキリストをお迎えするのです。棕櫚の葉を振って、自分自身の心の内にキリストをお迎えするのです。その揺るがない岩なる神様を自分自身の心の内に迎えるものは、逆説的には変化を恐れる必要はないのです。それはパウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないと記したようにです。

 あさひ教会はこの16回目の創立を迎えるまで、大変な大きな試練を頂きましたが、それでも神様に見捨てられず、神様は私たちを探し求め救い出して下さいました。故に、あさひ教会は、今尚生きており、神を信じて歩み、子ロバに乗った王にこれからも従って行きたいと思います。



「キリストの杯を飲むとき」        No.785
        (マルコによる福音書9章57〜62節)


 
以前私はこの箇所を読む度に、弟子達の勘違いを指摘してきました。キリストの受難を理解しないで、自分達が王座の左右に着くことを願う愚かさをです。しかし改めてこの箇所を読んだ時、他の味方もあることに気付きました。それは、弟子達は自分もイエス様に従って受難を受け死ぬぐらいの覚悟があったのではという印象です。イエス様が「出来るか」と問うと、ヤコブとヨハネは「出来ます」と答えました。それは本気の返事だったのでは。しかしイエス様は、その本気の言葉を受け止めながらも修正を加えるのです。つまり、キリストの杯を飲むとは「偉くなりたい者は、皆に仕える者に。いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。キリストは人に仕えられるのではなく、仕えるために来た。それが私の杯なんだ。」と語りました。

 先日、神学校の同期で若くして亡くなった女性牧師の記念会に出席しました。彼女は、とても優秀な人材で大学卒業後はミッション系の高校教師に赴任しました。しかし、彼女の中の真実への追及は、高校教師を辞任させ「真実の言葉を語りたい」との願いを実行するために神学校に、牧師に向かわせるのです。

 この言葉には私もとても共感しましたし、同じ思いが自分の内にもありました。しかし、その真実な言葉を語りたいと言う願いに対してのイエス様の回答は、何か想像も付かない知恵で答えるのではなく「仕えられるのではなく仕えるものになりなさい」という極めてシンプルでありながら、御言葉の核心を明確に現わす言葉で答えます。私達もまた、キリストに従う意味を改めて心に留めたいと思います。



「あなたが幸せになるために」       No.784
               (ルツ記3章1〜6節)

                  古畑和彦牧師

 ナオミはルツの幸せを考えて、ルツの「幸せになる落ち着き先」を探してきました。ルツは、死んだ者の名を継ぐために、夫マフロンの近親者(ゴーエール)と結婚する必要がありました。そのゴーエールであるボアズに、ルツが落ち穂拾いに出かけた初日に出会うことができました。ナオミは、摂理の神の導きに驚いたことでしょう。ボアズは、人格者で、その人柄は素晴らしいものでした。ナオミは、この人ならルツを委ねることができると確信していました。ルツにボアズとの結婚の意思があると確信したナオミは思い切った行動に出ました、ルツにボアズのところに行って直接プロポーズするように勧めたのです。ナオミは、ここまで導いて下さった摂理の神は最善をなしてくださるに違ない、と信じて信仰の冒険をしたのです。

 今日考えたいことは、私たちにとって「幸せになる落ち着き先」とはどこかということです。ヨハネの黙示録3章20節は、私たちが、「『幸せになる落ち着き先』はどこかと探す必要はない、心の戸を開けて主イエスを迎え入れれば、そこが安らぎの場所、幸せの場所となる」と教えています。さらに、主イエスと結ばれた者の幸いは決して消えてなくなることはありません(ローマ8:38、39節)。



「キリストの涙」               No.783
          (ルカによる福音書9章57〜62節)


 
ある日、イエス様に「どこへでも従って参ります」と言う人がいたと記されています。本来はキリストに従うと言うのですから素晴らしい心掛けとして歓迎されるはずです。しかしイエス様の返事は、悲しみと叱責に満ちていました。イエス様は「どこへでも従う」と言うが、本当にその従うという意味が分かっているのかと問うのです。つまり、従うといった弟子たちも皆、十字架の下でキリストを見捨ててしまった。ここにイエス様の涙があります。沢山の人がイエス様に従っていくが、風向きが悪くなると全ての人が裏切って逃走してしまったからです。しかし、この全ての人に裏切られるという出来事こそが、イエス様がこの世に来られた最も重要な使命だったのです。全ての人に見捨てられる涙の出来事。キリストの歴史は、裏切られるための涙の道だったのです。それこそが十字架なのです。そのキリストの涙、キリストの怒り、キリストの失望があって、私達は救われたのです。だから、受難節はキリストの涙に集中して行くことなのです。

 現代的に言えば、神様は人間界を上から眺めているのではなく、イエス・キリストとなって地上に降り、あの3.11に於いて、キリストもまた一緒に津波で死んだのです。キリストも生き埋めになったのです。キリストも戦火で涙し、裏切られ、銃弾で共に死んでいったのです。だから、キリストの涙は、私達のあらゆる苦難の涙を体験し知っているのです。十字架のキリストの意味は、私達と同じ苦難を背負うための証しだったのかもしれません。ですから、一つ一つ聖書の言葉を追い、私達もまたキリストに連なりたいと思います。



「裁きではなく救いを」           No.782
          (ヨハネによる福音書4章1〜11節)


 
私達の社会は裁きに満ちています。常に自分の価値観と視点で、相対する人を判断し裁きを下すのです。万人祭司ではなく、万人裁判官といった状況が世の常です。失敗しない人間などいないし、罪を犯さない人などいないのに、何故人は人を裁くのか。ある人は、大きな罪も小さな罪も正さなければならない。強盗犯が悪くて、万引きは見過ごしてよいのかと問うのです。確かにその通りです。

 しかし、この裁きを下すには「資格」が必要であることを忘れてはなりません。それをイエス様は「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」という言葉で修正を加えるのです。つまり「強盗をした者が、万引きを裁く資格がありますか」と問題提起するイエス様の答えは、勿論「出来ない」です。それは自分の目に丸太か入っているのに、人の目にあるおが屑の塵を指摘するようなものであると言うのです。人から見れば「目糞鼻糞を笑う」といった諺のようですが、私達の日常はこの馬鹿な裁きに満ちているのです。

 でも誰も裁かれたくはないはずです。キリストの到来は、この裁きからの解放と言えます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。人を裁く「資格」持つ神ご自身が、その裁きを放棄して、救いを告げるのです。ここに福音があるのです。裁く私達が、裁かれず救われる。キリストが救いを告げたのだから、救われた私達も救いを告げ知らせましょうというのです。これこそが福音伝道なのです。



「信仰は何を語るのか」           No.781
         (マタイによる福音書4章1〜11節)


 この荒野でのイエス様の悪魔の試みは、私達への信仰の試みであり三つ罠を現わしています。つまり、信仰があれば、空腹にならず石がパンになるだろう。信仰があれば事故にも合わず死なないだろ、病気にも災いにも合わないだろ。信仰があれは、どんどん成功して反映し裕福になるだろう。しかし、信仰とは、社会成功のための方法論なのでしょうか?。それはまさに昨今政治家と利益供与をしている振興宗教と言われる人たちの手法そのものです。私達のキリストは、それどころかそんな自動販売機型の偽物宗教ではないわけです。この箇所は私達に、本物の信仰とはなんであるかを問うているのです。信仰とは、問いの前での神との対話することなのです。

 人間は衣食住に足りていれば幸せという生き物ではないのです。人間は、何故という問いを持ち続けている生き物、私は誰であり、何のため生きているのかを常に自分自身に問う生き物なのです。その考える葦である人間に、イエス様は語り掛けるのです。人間は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と。また箴言の著者は「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり/全てを健康にする。」と。

 信仰とは、私達に常に迫る成功しなければダメ、限りある命は不幸といったステレオタイプの価値観から、人間の人生の意味をキリストの受難と十字架と復活から問い直す試みなです。この意味を深堀する哲学的な思考こそが、私達を真の意味で健康にし、神に近づけ、隣人と共同する人間へと引き戻してくれるのです。社会に溢れる安易な回答に引きずられず、まことの真理を信仰によって見て行きたいと願っています。



「慈しみを惜しまれない神」         No.780
              (ルツ記2章18〜23節)

                  古畑和彦牧師

 
ナオミは、ルツに目をかけてくれたのがボアズであることを知りました。ボアズは、ナオミの親戚であり、しかも「家を絶やさないようにする責任のある人」でした。ナオミはボアズがきっとその責任を果たしてくれると信じていました。そこでルツにこの恵みの場から離れることがないようにと勧めました。「恵みの場から離れない」、これも信仰者に求められることです。こうしてルツは、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、七週間、ボアズのところで落ち穂を拾いました。

 主なる神は、何と慈しみを惜しまれないお方でしょうか。ルツは、ボアズの目にとまって、親切を受けました。と同時に主なる神の目にとまって、惜しみない慈しみを受けました。その慈しみは、ルツだけにとどまらずナオミにも広がり、結果的に死んだ人――エリメレクとその息子たちにも広がっていきました。過去、現在、未来へと惜しみない慈しみは拡大していきます。真に、私たちの信じる神は、今も慈しみを惜しまれないお方です。慈しみを惜しまれない主をいよいよ信じて、御言葉に聞き従いましょう。


「時を待って実を結ぶ」           No.779
      (ルカによる福音書8章4〜8節、11〜15節)


 
将棋棋士の羽生さんと藤井さんの対戦で、頭を掻いて髪の毛が立った姿をニュースは「アンテナが立っている!」と例えました。人は、難しい局面に立たされると特定の仕草をしたり叫んだりするようです。それは混乱した頭をなんとか整理するためのようです。そんな意味では、最近私は、ストレスに耐えられなくなり、突然大声で叫んでしまうことが増えたような気がします。勿論、人前では叫びませんが、バイクや車に一人で乗っている時にあります。20歳で洗礼を受けて、曲がりなりにもクリスチャンとして何とかやって来ました。しかしその日々は沢山の障害があり、石地に落ちて干からびるようであり、茨に遮られて傷だらけになるような日々であり、順調であったとは言えません。それでも何とか、御言葉にしがみつき、今も忍耐と辛抱をもって土地を耕しています。

 イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われましたが、これは他者に向かって語っていると共に、もしかすると自分の声を叫びを聴くという意味なのかもしれません。つまり、自分の声を聴く時、それでも今日までやってこれた事実に出会うからです。あんな調子でも、不思議と守られ、今日までやってこれた。これこそ神のご配剤であると。良い地でもなく、立派な清い心でもなく、御言葉をよく聞き守るとも出来てこなかったが、それでも、忍耐して耕し、まがりなりにもクリスチャンとしてやってこれた。その感謝に出会うのです。だからこれからも、忍耐して実を結ぶ人でありたいと思いました。



「最後に来た連中として」          No.778
         (マタイによる福音書20章1〜16節)



 このぶどう園の話。何故ここで大きな混乱が起き、労働者達は農園の主人に食って掛かったのか。朝から働いていた労働者は、夕方から来た労働者を「最後に来たこの連中」と呼び卑下します。それは「妬み」によるものです。それを悟った主人は「気前の良さを妬むのか」と言い返すわけです。つまり、朝から働いていた労働者は、労働の対価への不満から、あの連中への妬みに駆られてしまうのです。主人の対応は、一見不公平のようですが、約束した対価を支払っている訳ですから契約違反でもなんでもないのです。しかし、人は「妬む」のです。「錆びは鉄を腐らせ、妬みは人を腐らせる」と言いますが、人間は妬みで腐っていくのです。一見正しいように見える主張でも、根底が妬みから出ている限り解決や和解は難しいのです。

 でも人間社会とはそんなもんなんです。私も学生時代、出席日数が足りず単位を落としそうになった生徒を弁明する女子に「あいつは自分で楽くして休んでいるのに、なんで助けてやる必要があるんだ」と言ったことがあります。しかし、その助け船を出す女子は「だってかわいそうじゅない」と言ったのです。私はその言葉を聞いた瞬間、凍り付くような思いで、自分が大きな間違いを犯していることに気が付きました。そして、神の愛は、本来罰せられる人間を「かわいそうじゅない」と言って救ってくれる無償の愛なんだと知らされのです。イザヤ55:8「 わたしの思いは、あなたたちの思いと/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」。私も最後に来た連中であることを忘れず、この道を歩みたいと思います。


「その道を整える」             No.777
          (ルカによる福音書1章67〜80節)


 
現代の日本は、御言葉の広がらない時代と言われます。それは仏教も同様で、彼らは「末教の時代」と呼びます。では一体それは何故なのか、何故、末教の時代なのか。それは人々の心の中から「問い」が無くなったことにあるように感じます。生きるとは何であるのか、人間とは誰であり、何処から来て何処へ行くのか、人生の目標、生と死とは。そのような哲学的な問いを持たず、生きている期間を他者より楽しく過ごすことに関心の大半が及んでしまう。しかしそのような時代でも、私達は洗礼者ヨハネに倣ってキリストの道を整えていく使命が神様から託されています。

 しかし誤解してはいけません。例えば、テモテへの第二の手紙4章2節では「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」とありますが、この言葉は、問いを持たない人にも無理やり聖書の話しをしなさいという話しではありません。人は喉が渇いているから水を飲む訳で、喉が渇いてない人に水を勧めても飲みたいとは言わない訳です。この「時がよくても悪くても」とは、登山道の整備に似ています。道がなくては、山頂に行きたくても辿り着けません。一日誰も通らなくても、いつ人が来ても通れるように道を整備すること。それこそが、主の道を整えると言う現代的な意味だと思います。恐ろしい犯罪や新興宗教が人々を苦しめる時代に、キリスト教会は負けてはなりません。人々が「渇く」と叫ぶ日に備え、キリストの道を整える使命を放棄してはなりません。「備えよ常に!」それが私達に与えられたミッションなのです。


「燃え尽きない働きをする」        No.776
     (コリントの信徒への手紙一 3章1〜17節)


 先週、記憶に残る言葉がありました。それはスタートレックのピカード船長が定年後に「生きていたんじゃない、死ぬのを待っていた」という言葉です。大変な活躍をした人が老後を有意義に過ごしているようでしたが、そうではなかった、ただ死ぬ日を待っているだけであったと気付くのです。この言葉を受けて、自分はどうなのかと考えました。今、自分は生きているのか、それとも死を待っているのか。コヘレトの手紙12章1節に「 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはないと言う年齢にならないうちに。」とあります。私達には色々な目標があり、役割があります。それを担うことで充実した人生を行きたいと誰もが願う訳です。しかしその生きた人生を送る必須条件は、世界を造られ自らを造れた主なる神に心を留めることなのです。本日の箇所でも「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」とパウロの言葉あります。アポロもパウロも必死に伝道し、キリスト教の歴史において偉大な功労者です。しかし、その二人働きに注目することだけが重要なのではなく、成長させてくださる神に目を注ぐことなのです。

 本当にこれでよいのか、何か間違っていないのか、本当に生きているのか、という問いが日々私達に迫り、迷路に迷い込むことが多々あります。しかしその時こそ、主なる神を見上げたいと思います。今あるのは、成長させる神様の力、これもあれも恵で過ごしている。謙虚な思いをもって今週も過ごしたいと思います。



「ひと言おっしゃってください」      No.775
        (マタイによる福音書8章12〜16節)


 イエス様のところに、大切な部下の癒しを求めて百人隊長がやってきます。しかし彼はイエス様が行って癒してあげようという申し出を断り、癒されるという言葉だけを貰えれば大丈夫だと言うのです。上官が部下に命じれば、その通り行うように、イエス様に命じられれば、その言葉だけで行えるという意味です。この返事にはイエス様は驚き「これほどの信仰を見たことはない」と絶賛しました。一般的に、上司に部下が命令すると「やらされる」という隷属的なイメージがありますが、ここでの命令への服従は自主的な応答であるということ注目したいのです。
 
 私はこの出来事を見て思い起こしたのはマタイ5:41 にある「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」という言葉です。最初の一ミリオンは強いられて歩くが、次の二ミリオンは自主的に進むというイエス様の話し。イエス様に命令されて行うのではない、その言葉を自分の課題として、自分の意識で行っていく。これこそ、イエス様が絶賛した素晴らしい姿勢なのです。

 つまり、信仰とは、社会への隷属から人間を解放する自主性の回復とも言えると思います。イエス・キリストとの出会いとは、そういう主体的な人間性の回復なのです。昨今、騒がれている新興宗教団体の教えはその団体への信徒の隷属が目的です。しかし、私達のイエス・キリストは、私達を自由にし、自分自身の決断で正しい愛の道を選び取る人生へと向かわせるのです。イエス様って素晴らしいですね。



「気前の良い神」             No.774
             (ルツ記2章14〜17節)

                 
古畑和彦牧師

 ルツがボアズの畑で落ち穂拾いを行い、お昼になりました。ボアズは、ルツに上質のパンと炒り麦を与えました。ルツは、このボアズの気前のよさに対して、遠慮せずに食べました。ルツは、与えられた恵みを素直に、喜んで受け止める女性でした。ルツは昼食を終えると、すぐに落ち穂拾いに立ち上がりました。ルツは恵みを喜んで受けますが、そこに座り込んでしまうことをしません。すぐに自分の果たすべき働きに戻りました。夕方になり、ルツは拾った落ち穂を脱穀しますと、1エファ(約25s)にもなりました。これはボアズの気前のよさを示すとともに、ルツの勤勉さを表しています。

 主イエスの語られた譬え話に、気前の良い農場主が登場してきます(マタイ20:1〜16)。この人は、8時間働いた労働者にも、1時間しか働かない労働者にも同じ賃金を支払いました。この主人は神を表しています。ルツに気前よく接したボアズの様に、神は大した働きもできない、取るに足らない私たちに、気前よく接して下さり、思いもよらぬ祝福を与えて下さいます。ですから、私たちもルツの様に、恵みを喜んで、与えられた務めを果たしていきましょう。



「キリストの望んでいること」       No.773
  (テサロニケの信徒への手紙 一 5章12〜18節)



 
聖書には厳しい戒めと、限りない赦しと愛の宣言が混在しています。勢いのいいパリサイ型クリスチャンは、この厳しい部分に注目し、戒めなくてはならい、忠告しなければならないと考えるものです。私自身も若い頃はそんな調子でした。しかし、同じ個所に、互いに平和に過ごしなさい、気落ちしている人を励まし合いなさい、弱い人を助けなさい、全ての人に忍耐強く当たりなさいとも書いてあるのです。

 つまり自分の期待している内容の聖書箇所には注目しますが、期待したくない箇所は軽く扱ってしまうのです。その姿勢は、神の期待しているクリスチャンの在り方ではありません。本日の箇所で、最も大切なことは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」との言葉です。神の望んでおられることを追い求めなくてはなりません。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」なのです。喜べない現実の中で喜び、祈れない日々の中で祈り、感謝出来ない状況下で感謝する。勿論、そんなことは出来ない!というのが本音だと思います。しかしその本音にならって落胆の日々を過ごしていても、私達の人生は一向に好転しません。良いことなんて一つもない。寧ろ、大きく心を切り替えて、神様が望んでいる方向に人生の舵を切るのです。直進だけが道ではありません。時には、大きく舵を切ることが必要です。イエス様は私達の前に立って「おもかじいっぱい!」と叫びます。私達もまた、「おもかじいっぱい!ヨースロー」と呼応するのです。キリストに従う道は、必ず私達の人生を好転させることでしょう。今年もこの方についていきたいと願います。


「希望通りに」              No.772
           (テトスへの手紙3章4〜8節)


 「
怠惰を認めて、勤勉にいきつく。」という言葉がありました。これはあるアニメの中で、麻雀の勝負師に言われた言葉です。楽して金銭を得ようと賭け麻雀を始めるが、勝つために必死に勉強をしていたら勤勉になってしまったという話しです。

 これは、本当に面白い言葉で、私もとても共感しました。そして信仰の世界も似ているように思います。自分自身の様々な問題で疎外感を感じ、神に救いを求めて教会の門を叩く。そこでは、自分の傲慢さや我がままさや怠惰さの逃げ道としての信仰があると思いますし、私も同様でした。

 しかし、礼拝を守り、賛美と祈りを献げ、キリストの言葉に留まる時、我がままの肯定を期待して神のもとに来たのに、いつしか勤勉に謙虚にさせられていたという現実に出会う。当初希望したこととは、結果が大きく違いますが、人生は好転していくのです。神を信じるとそういう道なのかもしれません。

 そして更に言い換えれば、「怠惰を求めてキリストに行きつく」といってもいいように思います。私達はキリストによって勤勉にさせられますが、その勤勉さで救われる訳ではないからです。私達の救いは、あくまでも、神の憐れみによって救われているのです。イザヤ9章にある聖書の言葉から言えば「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」 今年も、神の下に集まった仲間と共に、キリストに行きつく希望をもって歩みたいと思います。
  Copyright (C) 2008.4.1 カンバーランド長老キリスト教会日本中会 あさひ教会 Rights Reserved.
         〒241-0021横浜市旭区鶴ヶ峰本町1-34-10 内田ビル一階 電話045-489-3720

カウンター


ふれんどしっぷあさひ フレンドシップアサヒ フレンド デイケアー 老健 加藤文太郎 神々の頂 孤高の人 羽生譲二 ビカーサン 神学 現場 ボンヘッファー<BR>
CPCJ カンバーランド長老キリスト教会 日本中会あさひ伝道所 あさひ教会 デイサービス 鶴ヶ峰 旭区 瀬谷区 希望が丘 二俣川 今宿 横浜市介護保険 <BR>
介護予防通所介護 徳之島伝道所 寿地区センター 介護保険 カウンセリング